ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ

枠を壊す
2025/11/05

自分に自信を持つことは大事なことだ…と普通に言われます。

他人より秀でているところがある、他人からすごいと言われたり、感謝されたりするところがある、多くの人が認めているものを持っている、多くの人が欲しいと思っているものごとを持っている…などなどは自分の自信にすることができます。そして周りの人達もそれを認めます。そうすると、自分の自信が自分の内で確かな自信として成立します。

そういう領域もあります(ここでの体験も大事)しかし、自信ってその領域にあるものだけではなく、自分が体験するいろんなことを通して、新に意味づけし、それを自分の今の(また変わるから)哲学にしていってもいいのです。これは自信だけではなく、あらゆることについても同じです。

今まで意味づけられていた自信というのは、揺らぐものです。それは絶対なものではない。他人より秀でているものが自分にはあると言っても、自分が思っている秀でているものを上回る人は世界中にはたくさんいます。多くの人が認めるもの、欲しいものを持っていたとしても、それは形を変え、なくなる可能性もあるし、自分のもっているものよりももっと大きく力のあるものを持っている人も世界中にはたくさんいます。そういうときの自信って?どうなる?

で…自信(も)他人や物質にむすびつけていると、そこには限界がどうしてもあります。だから、そこではないもので自分の自信になるものを作っていくとそこからは解放されます。限界があると思っていたものは無限になります。人間は無限ってこういうことだったのか、と気付きました。

自分の自信の意味づけは自分専用のものなので、他人にそれを言っても「?」と思われるのかもしれません。でも、それでいいわけです。自分の専用の自信だから。自信は他人や物質や能力などで作られるだけのものではありません。そこから抜け出て自分で見つけた自分の自信を感じるところにそれは生まれてきます。

そのためには、自分で作り、自分で決めればいいということです。あらゆることをこうして変容させていくことが、創造していくということであり、それは今までの枠を壊していくということです。枠を壊すって非常識な人になるということではありません。あらゆることを決めつけず、柔軟に、自分らしく自分に合う新な枠(というよりは創造するスペース)を作っていくということです。

今日も気楽に…
2025/11/04

意図を持たないで…と整体の先生に言われてから、お会いする皆さんにもシェアしています。

で、意図を持つと、深刻化していきやすい気もします。もしかしたら、自己探求はその最たるものになりやすいかもしれません。

自己探求、自分の成長、進化、ミームを上げる、領域を上げる…などなど意図をもってしまうと、そこに向かおうとします。そこに真面目に取りくめば取りくむほど深刻になっていってしまいます。意図があるから、その意図の目指す固定されたところに行こうとしてしまうからです。

しかし、いつも言っているように、成長も進化も自分で決めるものではなく、自分の手で勝ち取るものではなく、あちらが与えてくれるものです。その人の今にとって必要な物事を、精神性を、霊性を、私たちは与えてもらいそれを受け取っています(これは、皆がすでにそうです)

だから、それが自然にやってくる(それを遮断することなく)ことができるように自分の心を整えていくことをやればいいということです。それがやってくる「道」を創ることをやる。その道を創るときに「自分はどうありたいのか」という「私」の在り方が必要になります。そこに個性が出るのだと思う。

そして、後は、おまかせ、ゆだねる。何が今の自分にとって必要なものごとなのか、人間にはわからないからあちらにお願いしておくということです。

そこには、もう意図重視にしてしまった時の固定化した深刻さはありません。そしてそのほうが全然楽。人間には人間ができることがあり、それをやっていくことを自分の意思でやっていけばいいのだと思います。

成長・進化という今までの概念にとらわれず、自分の今までの体験に基づいて意味づけをしてみるといいかもしれません。

今日も気楽に…。深刻になっているなあと思ったら、深呼吸をして「もしかしたら・・・・・」を空を見ながら言ってみてください。一瞬にして軽くなります。

ひとつだけ
2025/11/01

昨日は、夕方、雨の中、少しだけ散歩に出かけました。

いつもの通りを歩き、車や人が多分いないだろうと思われる路地に入ると、いろんな音(お店から聞こえる音楽、車の音、人の話し声、人の足音など)がない状況の中を数分でしたが歩くことができました。

そこにある音は傘にあたる雨の音だけ。これがとても気持ちよくて、ちょっとだけ立ち止まり、その音に聞き入りました。ぱらぱらとはじけるように傘にあたる雨の音。これしかない。ああ、今は、これを求めていたんだね、と自分に言う。

そして、普段どれだけ、いろんな音に囲まれているのかも思いました。それが普通になり、それに慣れてしまっているけれど、こうして雨の音だけになると、心が一瞬で変わるのがわかります。欲しいのはこれだけ、ひとつだけでいいんだね、とまた自分に言う。

で、歩きながら考えました(この時点ではもう、通りに出ていたのでいつも通りの音に囲まれる)今、頭で考えていることは、ひとつだけ。今、心の中で騒いでいるパターンもひとつだけ。今、心に湧き上がってきている感情や感覚もひとつだけ。本当はそのように動いているのに、そこに余計な思考や記憶や分析や情報や知識や、感情や感覚が入ってしまうことで、ごちゃっとしてしまう。そこから次から次へと考えが湧いて、それでひとつを見失ってしまう。そうやって私たちは生きています。それが普通になり、それに慣れています。複数のことを同時にこなせることがいいことのように思っています。

今、必要なひとつは何?それだけに心身の目を向けて、それに集中する、そうであれば、きっとそのものだけを聞き、知り、見て、感じて、味わい、考えることができる。

そして、それが強制的に行われる状況があります。それはとっても辛く、大問題に直面したとき。そういうときには人の心身はそのことだけに集中されます。そのこと以外は考えられないし、目にも耳にも入らない。そんな大変なことは起きないでほしいというのはありますが、意外にもこんな状況でさえ、こうして教えてくれているものがあるということです。ひとつだけに心身を向けることを強制的に行わせる。その体験からひとつだけに自分の心身をおくことができるという発見。

願わくば、そこまで大変になって、ひとつだけを体験しなくても、日常で、ひとつだけ、を創っていかれるといいと思います。そして、本来はこれだと思う。ひとつだけ。

自他のパイプを尊重する
2025/10/31

昨日書いた「他人への諦め」これについてもう少し書きます。

「他人への諦め」は孤立するということではありません。他人に助けられているのが私たちです。毎日の生活は自分ひとりで成り立っているわけではなく、見知らぬ人々の仕事により、努力により、私たちは生きていかれています。

こんな基本的なところからはじまり、何か困ったことがあったとき、病気になったり、事故にあったり、どうしてよいのかわからない時、そういう時にはその道のプロに相談し、助けてもらいます。

そのほかにも、もっと身近にいる家族や友人に助けられてもいます。辛いことがあっても、親や子供や孫の為と思えば頑張れるということもあります。

そんなふうに私たちはたくさんの人達により生きていかれています。これも現実を知るということのひとつです。

だからこそ、自分の内にあるものには、他人を使わず、自分で引き受けて、できるだけ善い状態で他人、家族と関わりたい。もう、他人から、黒パターンが欲しているものを与えられなくても「私」がパターンに与えていかれれば、そこには、安定と自由があります。それが本来のものだからです。他人に求めている間は他人の都合もあるし、こちらのパターンの都合もあるので暗黙の内に取り決めがあり窮屈なのです。

安定と自由な自分であるからこそ、純粋に他人とも関われる。そして、その関わりから学ぶことは、自分とその人は違う、ということです。話し合えば理解できるのではないです。話し合えばあうほど、自分とその人の違いが理解できるのです。

その時に初めて、自分専用の、その人専用のパイプというものが見えるのかもしれません。各自のパイプに異質なものを入れることができない、ということがより理解できる。それは、自他のパイプを尊重するということ。そういうパイプが「洲」なのだと思います。

諦めていくことで…。
2025/10/30

現実を見る。

現実ならもう嫌と言うほど見てきましたから、という人もたくさんいると思います。

仕事の大変さ、お金を稼ぐことの大変さ、家族の問題、自分自身の健康やこれからの生活、介護、老後のこと、などなど、自分はそれに直面してやってきたから現実はわかっていると思うのだと思います。

しかし、私が感じている現実はそこではなく「他人は自分を助けてはくれない、与えてくれない、満たしてくれない」という現実(事実と言ってもいいか)です。他人は自分を助けてくれない、というのは、他人は、自分のパターンをパターンの思うように助けてはくれない、与えてはくれない、満たしてはくれない、ということです。

認められたい、愛されたい、理解されたい、優しい言葉をかけて欲しい、期待する、などのパターンが他人に求めているものごとを他人は与えてはくれないのです。そして自分も他人に与えることができない。これは他人に優しくするな、とか、他人の優しさを信じるな、ということではもちろんありません。そこは常識で判断するとして。

この現実。どこか抵抗感があるような、厳しい、と感じるようなこの現実。これが痛い諦めとともに本当に自分の内に落ちたときに、「私」が動くのだということです。自分のパターンを助けられるのは「私」だけだと覚醒する。目覚める。

もう、他人に求めることが無理なんだという諦め。だから「私」がパターンを救うのです。「私」は他人とは違い、本当にパターンが欲しいというものごとを的確に判断して与えます。しかし、それはそのパターンを増長させるようなものごとを与えるのではありません。今までパターンが知らなかった、パターンの存在そのものへの安心を与えています。それができるのは「私」だけで他人ではありません。

仏陀の言う「自分を洲とし、拠り所にせよ」という境地にたどりつくには、この、他人への諦めがいいように働いてくれるんじゃないかと私は思います。

ほどほど
2025/10/29

「ほどほど」という言葉。

「ほどほど」って?→度が過ぎないで、ちょうどよい加減であること。 適度。 適当。(コトバンクより)

「ほどほど」は大事です。何事もやりすぎてしまっては愚の骨頂。自分の心身にもダメージを与えていきます。しかし、この「ほどほど」を心身で感じ、自分に合ったそれをみつけるまでには時間がかかります。

人間、どうしても両極にいきやすいです。これではないと言われれば、じゃあ、あっちか、と考えます。それはふり幅が大きい状態なので、エネルギーも使います。では、両極にいかなきゃいいんだ、と考えてもどこが「ほどほど」かよくわからない。心の状態は、思考では見つけられない。

難しい自分の「ほどほど」。人生ってそれをみつけていく(創っていく)ものなのかもしれません。 「ほどほど」=中庸なんだそうです。そこで生きたいものです。この思いも「ほどほど」に。

で、時間をかけないとわからないそれだからこそ、ゆっくりさがしていけばいいし、そうしていくしかありません(パターンはすぐに欲しがるけれど)。

人間って厄介なものです。中庸という「ほどほど」で生きることが本来なことなのに、その力もそもそも与えられているのに、わざわざ、そうではない生き方を自らしています(私も…)そうしないと「ほどほど」に行かれない。人間って…と思います。

でも、それが人間と思えると、自分も他人も「ご苦労さまです」という気持ちになります。その大変な厄介なところを生きているのも、魂は「ほどほど」にいきたいから。ここがあればどうにかやっていかれるのではないかと思います。

意図をもたない
2025/10/28

「意図を持たないように」と量子先生に言われ、そうだ、そうだ、とあらためて思った。ここでの学びこそそうだった。

「〇〇を得るために」「〇〇になれるように」などなど考えがちです。これは、まず、意図があって、それを得るために〇〇をするということになります。

この方法は今まで生きてきた領域での一般的な考え方です。そして、それが間違いということではありません。だからそれが必要なときにはそれを選んで使います(選んで、というところに意味がある。選ぶとは、自分の意思で使うということなのでそれは、いつも通りに、無意識で、とは質が違います)

しかし、自己成長の学びにおいては(厳密には道場では)この、意図ありきではないやり方(というか、在り方)を体験することを練習して自分のものにしていきます。〇〇を得るため、〇〇になるため、でワークをしたり、考えたりしないということなんです。特に使いやすいのが楽になるためにワークしよう…というものです。

何も目標とするものを持たずに行うってことか?そうです。ワークも、意味づけも、熟考も、目標を持たずに行う。そこには「今」しかなくて、きっと未来はこうなるだろう、今まで(過去)はこうだったから、得るためにはきっとこれだろう、はないんです。

そうやって、何かを得ることなく、期待することなく、予想することなく、計画通りではなく、行う。ただ何かをすることって今までなかったかも。これが階段を上がっていくときの在り方となります。

たとえ、上がっても何もなかったとしても(えっ?それじゃあやってもしょうがないと思うかも?)それを心身につけたとき、いや、それを心身につけていくプロセスそのものに、意図を持たないで行う意味があります。その意味がわかるようになっていくことで、目標はいらなくなります。そういうことじゃなかったんだと。

それは思考してもわからないもの。言葉での表現にも限界があるもの。でも、ここで感じるものがなんとなく、宇宙の帯に向かっていると感じられるかも。

ぜひ、やってみてください、意図を持たないワーク、意味づけ、熟考。それを行っているときに流れている何かを心身でうけとってみてください。ここから先はより、ゆっくりと、慌てずに、焦らずに、追い込まずに、リラックスして。大丈夫。

今日も生きている
2025/10/27

今朝の夫婦の会話。

今日は久しぶりに天気がよいので、洗濯物をたくさんベランダに干しました。すると、後でトミーがまた洗濯機を回しています。もう1枚だけズボンを洗いたいのだそう。

「でも、もういっぱいだよ。干すところがないよ」というと「そこは洗う前に干せる所はすでに調べてある」と言いました。「へーーー、そうなの?すごいね」と言うと「ようこはそうしないの?」と聞かれ「私は干せるかどうか調べる前に洗っちゃうから」と言うと、はあ‥‥と気が抜けるように答えていました。

そして「本当に、よく、それで69歳までやってこられたね。もう、ようこはそれでいけばいいよ」と諦めをしみ込ませるようにトミーは言っていましたが。

このトミーの言葉がうれしかった(ここでそれを責められているととるのか、良し!ととるのかと分かれるところかも)その言葉から、そうだよ、私、よく生きてきたな(キランと光る)と思いました。昨日は神経質さゆえに緻密に仕事をしてきた、なんて書いておきながら、このようにものすごく大雑把な面も持ち、親や周りの大人からは、よく考えなさい、段取りよく、と言われてもきた。でも、そうできずに、今もそうして、それでも生きているじゃないですか。

そうやっても生きてこれた。今日もこうして生きている。それでいい。それを後押ししてくれたように(トミーはそんなつもりなく言ったのかもしれないけれど)あくまでも自分に都合よく、トミーの言葉を受け取った朝でした。

誰にとっても「自分は今日も生きている」それが何よりのことだと思う。生きているということが最も大切なことだと思います。だから、今日も生きている自分を尊く思おう。「偉いぞ自分」と言ってあげよう。誰もが大変な思いを生き抜いてきて迎えた今日なのだから。

…とここまで書いたら、曇っていた空に光が射し、一気に明るくなりました。「そーーーですよね、神さまーー」とまたまた自分に都合よく捉えました。洗濯物、よく乾きそうです。

こだわりと神経質
2025/10/26

先日の量子先生との会話のひとつ。

帰りがけに先生が「伊藤さんのおうちはいつもきれいですね」と言われました。「物が圧倒的に少ないだけなんです」と言う私。

「それって素晴らしいことじゃないですか。皆、物への執着があって、それで物が増えてしまうんですから。伊藤さんは執着がないということですよ」とおっしゃいました。

しかし…私はそうは思っていなくて。「物へのこだわりが強すぎるので結果、物が少ないんです」と話しました。「そうなんですか、そういうこともあるんですね」という話をしました。

そうなんです。私はこだわりが強すぎるから、本当に「いい」と思うものしか持たないから物が少ないだけなんです。一般的に言う執着とはちょっと違っていても、こだわるという執着です。それは、身に着けるものから小物、雑貨、全て。「いい」と思うものなら高くても購入したい。しかし「いい」と心が動くものがとても少ないんです。

ここは自分のものすごくアンバランスなところだと思っていてここはもう少し緩めたいところです。両先生ともに「伊藤さんは神経質」とおっしゃっていたのは、自分でもよくわかります。神経質だからこだわるのでしょう。

で、自分のこれをマイナスととらえたときに、マイナスのところに(も)能力があるということを以前もう一人のCS先生から教えてもらったことにあてはめれば、このこだわりと、神経質ゆえ、過敏に反応してしまう心身なのですが、そうであることで、カウンセリングはやってこられたと思います。こだわりと神経質さがあって、緻密にやってきたと思います。まさに陰と陽。

これもまた新な視点です。誰でもが個性、性格の中に一般的に言うとマイナスに捉えられる部分にも、その人を生かすものが隠れていて、それがその人生を支えてくれることもあるのだということです。ですから自分のここはダメな部分(‥とパターンが思っているだけで、ただ個性、性格だけなんですが)にも目を向けてみるといいと思います。

質を上げた人
2025/10/25

朝、掃除機をかけているときに「大谷翔平さんは野球(界)の質を上げた人」と気付きました。いや、厳密に言えば、教えられました。誰から?…はわからない。昔はその発信元を色々と探りましたが、今は、それはやめました。今の自分にはわからないことだから。

で「大谷翔平さんは野球(界)の質を上げた人」それってどういうこと?と考えることなく、本当にそうだと思いました。「そうですねーー」と言う。

こう言っては野球に失礼かもしれませんが、ただのスポーツであった野球に品位を持たせたのが大谷選手だと思いました。

彼の昔からのプレイ中、プレイ後の行為は皆見たことがあると思います。ゴミを拾ったり、片づけたり、選手がしなくていいこと(…と今までは皆が思っていた)を自ら行う。以前ではありえない二刀流の実現、前向きな言葉、野球に対する真摯な姿、奥ゆかしさと、柔らかな強さ、綺麗なカリスマ性、明るさ、楽しさ、などなど。あらゆる場面での大谷選手の在り方がチームの人々に影響を与え、それは、きっと他チームにも、野球ファンにも善き影響を与えていると思います。

それは、大谷選手の在り方が、野球というものの質を上げたから。それは、もう、ただのスポーツではないです。スポーツという枠を超えてきていると思います。野球の進化、そして、進化は本質に向かう。

このように、今まで「こういうもの」と一般的に決められ、自分でもそう決めていた物事も全て、その質を上げることでそれはより洗練され、そのものの力を発揮し、その後ろにあるものが多くの人へ善き影響を与えていきます。そして、そのずっとずっと先には、全てはひとつのルールのもとに用意されていたものだったと気づくのだと思います。全ての物事を通して、そこへたどり着くためには質を上げていくということになります。

2025年「ワールド・シリーズ」開幕だそう。ちらちらと見ていきたいです。

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ

- Topics Board -