ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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子供の頃を思い出す
2025/07/17

全てにおいて自分の価値を創る。しかし、いまいちわからないという場合、ひとつの手がかりになるのが「自分が子供の頃に好きだったものごと」「自分が子供の頃に没頭して遊んでいたものごと」です。

子供の頃は、自分でお金を稼ぐ必要はなく、食事の用意をする必要もなく、洗濯も掃除もなく、介護も、老後の心配もなく、空気を読むなんてもちろんない。そういう立場でいられた時に好きだった物事です。

大人になると、その立場ではいられなくなり、やるべきことが生活の主を占めるので、それを持ちながら自分で好きなように創ると言われても‥‥じゃあ、生活どうすんの、と、直結しやすい(これ自体がパターンなんですが)。で、だから、子供の頃のことを思い出してみようということなんです。純粋に遊んでいたころの自分を。それは人それぞれです。

土で遊ぶことが好きだった。穴を掘ったり、山を作ったり、恐竜を作ったり。動物が大好きだった。犬も猫も鳥も虫も爬虫類も、生きているものが好きで触ったり、眺めたりすることが1日中でもあきないくらい好きだった。犬や猫ともすぐに仲良くなれた。

きれいな色の布や、紙やアクセサリーが大好きだった。お人形の服を自分で作って着せていたこともあった。お祭りが大好きだった。あのお囃子の音や皆の楽しそうな中にいることが嬉しかった。本を見ること、読むこと、マンガが好きだった。そしてそこから何かを想像することが楽しかった。絵を描くことが何より楽しかった。1日中、没頭して何枚も描いていた。

友達と野球をしたりサッカーをしたり、鉄棒やうんていで遊ぶことが好きだった。日が暮れるまで遊んでいた。映画を見ることが好きだった。特にディズニーの映画はまるで夢のようでずっとここにいたいと思っていた。歌ったり、踊ったりすることが大好きだった。だから、お遊戯会が大好きだった。どうして?と考えることが好きだった。どうして月は形が変わるの?どうして?と。

好きなお友達と自分たちだけの秘密の基地を作り、そこで遊ぶことが好きだった。花を摘んだり、大きな木に抱きついたり、海に入ること、川で遊ぶこと…などなど。

それぞれ、きっと、あったと思う。3つ、4つあったかも。それを思い出してみます。それを今からやりましょうということではなく(もちろん、やってみたいという衝動のある方はやったほうがいいです)そこでのエッセンスというものを拾い上げてみます。いくつもある人もいるだろうし、1つだけの人もいるかもしれません。

自分の傾向が、または自分の特出している個性というものがみえてくると思います。それらがこれから全てにおいて自分の価値(大事にしているもの)を創っていくときに反映されていきます。そして何より、全く経済とはむすびつかないそれを思い出す(その時の感覚まで)ことに時間を使う豊かさを私は尊いと思います。無駄だと思えることを大事にすることが、自分の創造性をよりよいものにしていくと思っているからです。

創造の続き
2025/07/16

すでに決められている領域の価値を信じて、そこに自分を合わせて生きるのではなく(そういうパターンを使うではなく)自分の価値を自分で創造する。

それは今までの価値とは違うものだと思いますが、それが自分にとっての豊かさを感じられるものであったり、自分にとっての幸せな在り方であったりします。既製品ではなくオーダーメイドですから。

自分にとって仕事とは、お金とは、健康とは、家族とは、生きるとは、死ぬとは…あらゆること全てに自分の価値を創る。こうして自分で創っていいんです…が…ここでパターンが騒ぎます。それは「創り方がわからない、そうは言っても自分には無理、やったことがないことはできない、創れる自信がない」などなど。

で、そのパターンは言います「自分には才能がないから、自分は頭がよくないから、自分は身体が弱いから、今までやってこなかったから、誰も教えてくれなかったから、親も創造できる人たちではなかったから、自分は年だから」と。しかし、それらのどの黒パターンにもその横には白パターンがあります。ただ「私」がそれを選らばないのでずっと使ってきた黒パターンがそのまま継続しているだけです。

創造するためには黒パターンにまかせることなく、新に白パターンを選んでいかなくてはなりません。それは今までと同じです。

又「創造」と聞くと、大きな何かを創っていかなくてはいけないんだろうか、と思うかもしれませんが、そうではありません。「創造」という言葉のイメージからそう思うのかも。それもパターンであり決められた価値なんです。

「創造」はそれだけではないんです。もっと身近な自分の生活の中で小さな「創造」だってできるのではないだろうか…という視点を持ちます。

例えばですが、花瓶がないときにお花をいただいて、お花を入れるのは花瓶と決めてしまうことはないということです。いただいたブーケをばらして少しずつ手元にある食器や、空き瓶や空き缶に入れてみたらどうだろう(…と思ったらすぐやる)すると、けっこういいじゃないですか。ということがあります。ちょっと深さのあるお皿にお花を寝かせるようにして入れるのも素敵。これ、ひとつの創造です。

これにより、花瓶に入れる、という事も知っているし、花瓶以外に入れることも知っているということになります。今までの決まり(価値)を切り捨てるわけではなく、それが一般的に在るという事を知りつつ(ほぼ使わないけれど)自分の新なそれについての創造をしています。

そうして気付けば、自分に合う、新な価値をそこに見出している自分になっています。こうなってくると毎日が楽しいです。それこそ、自分の好き(決して物事だけではなく、精神性に対しても←そしてこちらのほうが大事)な物事に囲まれ、自分の以前よりも健全で、美しく解放された精神性を持って、生きているのですから。その種をまいた結果です。続く。

何を創造するのか
2025/07/15

「創造」していく。何を創造するのか。

それは自分という個性を生かした自分だけの価値をです。そして、その自分の創った価値に沿って生きていくことで創造したものは表現されていきます。(これを階段の途中で体験していきます。階段に新しい価値が用意されているのではありません。用意されているというのは誰かが作ったものになり、それは自分用ではないから自分で創るということ)。ここではわかりやすく価値という言葉を使っていますが自分の哲学とか、自分にとっての豊かさとか、自分にとっての幸せとも言えます。

で、この「価値」ですが、これは今までの領域ではもうすでにその意味づけが固定されています。例えば、価値とはその物事がどれくらい役に立つかの度合い。値打ち(コトバンクより)。あるものを他のものよりも上位に位置付ける理由となる性質(日経KOMEMOより)。

この領域においてはこれが「価値」なのです。皆に共通の価値。そして、皆がそれを固く信じています。ですから、その決まっている「価値」を得ることに一生懸命になる。その価値を得られれば、他人も自分を認めそれにより自分に自信を持つこともでき、自分はこれでいいと思えます。こうして自分は価値ある人だと自他ともに思われて、そこへの仲間入りができます。いわゆる勝ち組の人たち。

しかし、ここでの問題がある。それは、その価値を得るには、他人が必要になるということです。同じ概念を持つ他人なので、その人たちを納得させられれば他人が自分を認めてくれます。そして、それが上手くいけば、圧倒的にその領域の人数は多いので、多くの人から認められ、より価値のある人と思われます。というようにここでの価値には他人が必要です。そのためにまずそれを与えてくれる人を探す、そういう場所を探す、ということもやります。

で、ここからが本題なんですが、そもそも、何故、誰かの決めた「価値」に自分を合わせなくてはいけないのかです。きっと皆、自分と他人が違うということはわかっているのに、何故、そこに合わせるのでしょうか。それは、自分では自分の価値を創ることができない(だから誰かのものに合わせる)、自分で自分の価値を感じることができない(だから誰かにそう感じられるように与えてもらう)というパターンが自分を支配しているからです。支配しているというと、パターンが悪いようですが選んでいるのです。このパターンを。このパターンを持っている人はとても多いです。しかし、このパターンを選び続けていれば、誰かの創ったものごとに自分を合わせていくしありません。そうやってはずれることなくいれば安心というのもパターンは感じていると思います。続く。

創造
2025/07/14

7月の茅ヶ崎クラスも無事に終わりました。

よかった。今回1日目、熱中症っぽく、クラスを行うことができるだろうか、と一抹の不安があったのですが、クラスが終わるころにはだいぶ回復していました。こういうことがよくある。カウンセリングでもクラスでも、不調なとき(もちろん、重度ではないときですが)には回復していくんです。

これは、向き合っている方のエネルギーによるものだろうと思います。カウンセリングでの一見ネガティブな話でも、その方(方たち)の本来持っている「私」の学ぼう、自分を進ませようとするエネルギーが不調の私に影響を与えてくれているのだと思います。

時々「体調が悪かったんですが、クラスが終わったら良くなっていました」とか「疲れていたのが元気になりました」と聞くことがあります。それも同じものなんだと思います。カウンセリングもクラスもヒーリング作用があります。で、そういう感覚を感じたときに、これはいいよーーーと心底思います。問題解決していないのに、まだはっきりとわかっていなくても、そこにはヒーリング効果がある。そしてそれをまっさきに受取り、表現するのが身体です。

クラスでは今回から「創造」ということについて学び始めました。「創造」と聞くと、なんだか壮大な感じがするかもしれませんが、実は全員、日々、瞬間瞬間「創造」しているのが私たちです。

このこともなんとなく頭ではわかっていると思いますが「創造」について学んでいくと、日々の自分の創造に気づけると思います。創造って、こんなに無自覚に行われていたんだ…ということにです。無自覚に行われているので、それに気付くことがないのですが「誰でもが自分の望む通りの人生を生きている」というのはこのことなんです。

「自分がこんな現実を望むわけないじゃないか」「自分は今の自分の状態を望んでなんかいない」と思うかもしれませんが、望んでいると言うのは選んでいる、決めているということです(無自覚に)だからその通りになっていっている。

無自覚で選んでしまう、決めてしまうというのは、無意識であるがゆえに迷いがなく、ごくごく普通になっているものです。それゆえ創造しやすいのだと思います。自分が自分の内にある普遍的能力の「創造」を自発的に使って、今の自分に必要なことを創っていこう…というところをこれからまたゆっくりとやっていきたいと思います。

皆さまも熱中症にはくれぐれも気をつけてお過ごしください。私は昨日から始まった「大相撲」を楽しみながら乗り切っていきます。

学びを「仕事」にしない
2025/07/10

自分に向かう、自己探求、自分の内側へ…これは、今世の自分を幸せに導くため…と私は思う。

その道中での選択と実践の継続により、自然とミームが上がっていた、領域を上げていた、ということに気付きます(これは上がれば上がるほど楽です。楽になっていることで、自分のミームや領域の変化がわかります。)

ですので、ミームや領域を目指すために自分に向かう、自己探求、自分の内側へ…ということではありません。この視点になってしまうと学びは「仕事」になります。そこへ目標を定めてそこへ行くことが目的となる。そうなるとどうしても結果を期待するし、結果を探すし、結果を得てなんぼと思うようになる。でも、そういうことではないんです。

まず、仕事で感じ得るような結果というものがありません。あちらが必要であれば与えてくれるものなので、こうなっているはず、という物事をリクエストすることもできない。結果にこだわらず、必要なことを行い続ける、という、一般的には「何それ、ムダ」と思われることをやっているのです。

自分の幸せには自分の内にいる全ての黒パターン白パターンたちと協力しあっていくことが必要です。自分の内の小さな王国を整え、民がそれぞれの個性を持って生きることを王である「私」が赦し、皆で幸せになる。人にとって幸せに生きるとはそういうことではないだろうかと思います。

こうしてみると全ては自分の内にあるのです。それを多くの人は外に求めている。自分の内ではなく外に。その中でも特に他人に。他人に認めてもらう、他人にわかってもらう、他人を納得させる、他人に自分を大事にしてもらう、などなど、他人を自分の駒として使う。

それはパターン的にはうまくいっていると思っていますが、実は、幸せに生きることは遠のくばかりです。なぜならば、他人にそれを求めるのであれば自分も他人に同じように求められるからです。お互いに、この関係性を続けていくというのがほとんどの人の人間関係です。これではお互いに不幸です。だから目覚めなくてはいけない。

今日はこれから茅ヶ崎クラスです。今回はゲストがお二人参加されます。この暑い中、皆で集まれることに感謝して、楽しく行ってきます。

セブン
2025/07/09

この頃、私は、色々と気付きはじめている。まだ、気付きはじめている段階だし、何かわかりそう、と感じている段階なのでコトバにすることができないのですが、いつかコトバにできるくらいになったらまたシェアしたいと思っています。

で、こういうことが大好きなんだとあらためて思いました。今まで知らなかったことに気づき、それを生活の中で具体化して自分のものとして使う、それによって体験することが自分の世界を広げてくれる。

これは、死ぬまでできる趣味だと思う。私は特に趣味がないけれど、これは自分の趣味だと言えると思いました。自分の内という世界。ここは宝庫で、その奥は普遍的なもので満ちていて、それゆえ、あらゆる答えがそこにはあります。そこを探検していくことはとてもおもしろいのです。

で、話は違いますが、昨日、TVのお昼の映画で「セブン」(1995年 米)を見ました。何度も見ているので話しの内容はわかっているし、次に何が起こって、もちろん結末もわかっているのですが、毎回見てしまいます。

内容としては(映像的にも)暴力的であり、グロテスクだし、お昼を食べながら見るというものではないです。しかし、そこに登場する4人(若手刑事、その妻、退職間近の老刑事、犯人)それぞれの心の内がセリフや振る舞いに現れていて、そこにはその人特有の思いが見え隠れしています。それぞれのそれが完全に他人に理解されることなくすすんでいくところも人って本来そうだろうと思えます。でも、それを貫きたい、推し進めたいのが人です。ただ、年齢を重ねていった分もう、そうしなくてもいいというところを持てるのだろうという事も、老刑事から感じました。

話としてもよくできているし「G線上のアリア」の流れる図書館のシーンはやはり唯一、安堵できるシーンとして健在でした。今回は、犯人の正義というものを確認できて「セブン」をまたひとつ知った気がして、それもよかった。そして、またきっと見るんです私。なんだかんだ言って好きなんですこの映画。

嬉しかったこと
2025/07/08

この数年だと思いますが、時々見かける、たぶん(たぶんなんですが)ホームレスと思われる男性の方がいます。

いつも、見かける場所はほぼ同じで、一人でベンチに座り、通り過ぎていく人達を見ています。どこで寝ているのか、食事はどうしているのだろう、体調はどうなんだろう…など気になりますが、特に気になっていたのが、いつもひとりでいることでした。

多分、1日中誰とも会話することなく過ごす日がほとんどなのかもしれません。だとしたら…息詰まるだろうと思うんです。

で、先日、駅に向かって歩いていたら、目の前からその男性の方が歩いてきました。そして、もうひとり、同い年位の男性の方が一緒に並んでいました。2人で話しながら歩いています。いつも見かける男性の方が、嬉しそうに、初めて見た、いい笑顔でいるんです。一緒にいる男性の方も笑顔です。私の横を通りすぎていきましたが思わず振り返って、どこに行くんだろうと見てしまいました。

すると、近くにあるベンチに2人で座りました。そこは小さな木が植わっているので、ちょっと木陰になっていて、そこならゆっくりとできるかもしれません。良かったなあ…とつくづく思いました。そしてとても嬉しかった。ここのところで一番嬉しいと思えた事でした。

これがずっと続くのではないかもしれませんが、そういう機会があったことが何かその男性にとって良く働くといい。ひとりではない、という体験。これが人には本当に必要なんだと思います。自分の話を聞いてくれる人がいる。そして自分もその人の話を聞く。こうしていくことが人が生きる基盤なんだと思いました。

柔軟さとフットワークの軽さ
2025/07/07

人生をスムーズに生きていくには、生き方を学び続けるということなんだろうと思います。この「生き方を学び続ける」という言葉は、55の魂に響く・・・に出て来た賢人の言葉です。

学び続けるというのは、これが自分の生き方だからこれでもういいね、ではないということです。なぜ?…なぜならば、人は年々年をとり、それによって起こる心身の変化、家族の変化、仕事の変化、社会の変化という「変化」が常についてまわるものだからです。

あらゆるものごとが変化しているのに、自分の生き方を変えないでどうにかしようとするから苦しくなってしまうんです。自分の今の生き方に固執せずに、臨機応変に生き方を変える、それが生き方を学ぶということだと思います。

そこには、柔軟さやフットワークの軽さが必要になります。もちろんそれで動くときは「私」が納得するものを選びます。で、柔軟に、フットワーク軽く、「私」の納得するもので…と思うと、パターンは不安がるんです。そんなあてにならないことをして大丈夫だろうかと。そして、そのパターンが強ければ、生き方を変えようとは思いません。

ここを打破するには「根拠はないけれど、私はやっていかれる」という文言とその世界の感覚を自分のものにしていくということです。そうなんです、やっていかれるんです。だって今までもやってこられた。生きてこられた、だから、根拠はなくても、やっていかれる。

変化していく自他に沿って、その時に生き方を合わせていけばいい、ということです。うまくいい感じで生きている人ってここが上手なんだと思います。決して、自分のやり方を曲げないとか、自分の哲学を貫くとかではない。いいような生き方を創るのが上手なのでしょう。周りから見たら、言うことがころころ変わるとか、調子いい人と見られるかもしれませんが、それは、自分には関係のないこと。

柔軟さとフットワークの軽さを持とう。

「もしかしたら」と「スペース」
2025/07/06

「もしかしたら、もう、〇〇と、決めつけなくてもいいのかもしれない・・・・・・・・・・・・・・・・・」

自分に合った(必要な)この言葉を深めていってください。最初はただ、この並びで、言う、というところから始まりましたが、これも、その言葉の後ろにあるものを感じ取れるようになっていってもらいたいです。これもまた、感じようと頭で思ったり、胸のあたりを意識したりしてもできないものなので、どうしていったらいいのかは自分で考えてみてください。

これは語りかけも白黒ワークも意味づけも、全てがそうですが、特にこの「もしかしたら…」はここから感じ取ったものが自分を広げていってくれると思います。その時の手応えはあると思います。

冒頭の「もしかしたら」という言葉には今迄、絶対こうだろうと信じてきた物事を揺るがすものがあります。「絶対こうだろう→もしかしたら…そうじゃないかも」という、あいまいさがありながらも(ここでは絶対こうです!はない)今までの自分の視野を広げてくれているような言葉です。

この時の心身の感覚を感じてみてください。

そして、最後の長い「・・・・・・・・・」ここはスペース、昨日の日記的には余白。「かもしれない」の後にきているこのスペース、かもしれない部分に含まれている自分の可能性を感じられるのではないでしょうか。

「そうか、もう、違う所へ自分は行きたいんだ」「もう、違う所へ自分は行っても大丈夫なんだ」そんな今まで知らなった自分の可能性を感じさせてくれるところです。それは絶対的なものではありません。しかし、懐かしさや、わくわく感があるかもしれません。それはきっと「私」(魂)が知っていて、戻っていきたいところだからだと思う。

「もしかしたら」と「・・・・・・・・」スペースを大事に。

静寂
2025/07/05

昨日は、妹お勧め「ギターと静寂」五十嵐 紅さん(男性)のコンサートに行きました。

ギター1本だけのコンサート。以前から妹が「しーーーーんとしているんだよ」と言っていました。コンサートでしーーーーんとしているって?…と思っていました。

小さなホール内には五十嵐さんの奏でる音色が響き渡り、最後の一音が、時にはきえゆくように、時にはその音を飛ばしながら曲が終わります。まさにその瞬間の音の余韻がまるでしーーーーんとしているようでした。

五十嵐さんのプログラムにこのような言葉がありました。

「遠鳴りするギター。暗闇に目が慣れていくように、静けさの中で旋律を捉える。余白を聞く。1時間の演奏会。音量の向上を目指し進化してきたクラシック楽器。ギターの小さな音はしばしば不利な点とされます。しかし、僕はそんな繊細さにこそ美しさを感じます。ギターの多彩な音色が空間に溶けていく瞬間、その響きから生まれる想像。どうか耳を傾けて、音楽のひとときを過ごしていただけたら幸いです。」

余白を聞く。とある。これは文章もそう。絵画も、バレエも、ピアノも。多分、茶道や、華道や、書道もきっと。その余白には静寂があり、その静寂こそが私たちの魂が安泰できるところだと思っています。あるべき姿だと思います。だからワークにもスペースをもたせてください。余白に人智を超えた何かが宿っています。

コンサート終了後、ロビーにはご本人、五十嵐 紅さんが立って皆さんをありがとうございましたの言葉とともにお見送りしてくれました。

でーーーあまりの小柄さにびっくり。舞台上の彼は大柄の人ではないというのはわかっていましたが、あんなに小柄な人だったんだ…と(私に言われたくないと思いますが)ということはきっと手も小さいはず。後からプログラムをよく読んでみたら、彼独自のギターを作成して使っているということでした。なるほど。

今迄の一般的なギターに自分を合わせるのではなく、自分に合ったものを使う。そして自分に合った曲を演奏する。それらも五十嵐さんの音楽に対する哲学なんだろうと思いました。

「静寂」を聞いた1時間でした。

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