ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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活力
2024/04/24

先日、私は、久しぶりに宝塚を見てきました。

と言っても東京宝塚劇所ではなく他の劇場でした。東京宝塚劇場での公演チケットは相変わらずいつも取れず、だめもとで今回の公演のリクエストを出しておいたものが当選。

今回観たのは「雪組トップスター彩風咲奈のドラマチック・リサイタル」というもので、総勢20人ほどのリサイタルタイプの公演でした。

彩風さんは今年の10月に退団されるので、1度は彩風さんの舞台を観たいと思っていました。で、やっぱり観てよかったです。ライブ配信で観たことがある方でしたが、やはりリアルな舞台はいいです。

のびのびと歌い、踊る、太陽のような彩風さんの姿を見ていて、舞台で自分を目いっぱい表現することが大好きなんだろうなあと思いました。余裕さえ感じるかっこいい男役でありながら、最後の御挨拶では普通の女性であり、そのギャップに可愛さを感じ、普通に存在している方なんだろうなあとも思いました。

トップである彩風さんの周りで共に舞台に立っていたのは下級生の方達で、この人数であるからこそ、きっとひとりひとりが力いっぱいに歌い、踊る場を与えられたと思います。それもよかったと思います。

この舞台はやはり宝塚特有のものであり、あのパワーにひきつけられ心身が元気になります(好き嫌いはあるので全ての人がということではもちろんないです)やはり活力って自他にとって大事なものなんだとあらためて思いました。

活力は生きる力でとても根源的なものです。生きる力が自分のおなかから湧き出ているから、心身は健康でいられるのだとも思います。活力を感じながらこれからもいきたいものです。

ちょっとびっくりしたのは、男性の観客が増えたことです。昔よく見にいっていたころは男性はほとんどいなかった。しかし、カップルで、お一人(だろうたぶん)で、若者から高齢な方までいらしていてそれは意外でした。

好きか、嫌いか
2024/04/23

「最後はなぜかうまくいくイタリア人」(宮嶋 勲 著)・・・なんという笑えるタイトル。実際笑った。で、読んでみた。

その中からの抜粋です。『イタリア人は直観を非常に重視する国民だ。おそらく最も直観的なのは「好きか、嫌いか」である。イタリアではこの基準で物事を判断する人が多い。それは又「美しいか、美しくないか」とも深く結びついている。もちろん日本でもレストランでメニューを選ぶときやバカンスの旅行先を選ぶときなど、遊びや娯楽の場では「好きか、嫌いか」という判断基準が受け入れられている。しかしビジネスや公の場での判断をたずねられたときに「好きか、嫌いか」で判断するのは、はばかられる。「その選択の理由は何ですか?」とたずねられ「好きだからです」とか「嫌いだからです」と答えるとふざけているのかと思われるだろう。ところがイタリアではそうはならない。子供のときから「好きか、嫌いか」で人生を生きてきたイタリア人は直観をかなりみがいている。「好き嫌いを言うことはわがままなのでいけないことです。」と言われて育った日本人は、この直観をみがくチャンスを多く失ってきた。』

どーーーでしょうか。いつも言うようにこれが正しいではないです。でも、どこか「いいなあ」という気持ちが湧いてきたり、ほっとしたりしませんか?ということは?

自分もこんな風でありたい、これがあるともっと楽かも、このあたりが苦手だからこそバランスをとるために必要かも、ということだと思います。このように、すぐにぱっと湧いてくるものこそが魂の声でありそれが直観です。

直観って未来がわかるとか、良いほうへ導いてくれるものではないです。湧いてくるもの。

しかしそこに気づかない(本当は気づいていると思うけど)スルーしてしまうのは、受け取る、選択する意思がない(とパターンは言う)からだと思います。

で、今や健全なスピの世界でも量子の世界でもその直観に従えということが普通になっています。自分は意識なので、それは正しいことだと思います。まず、意識が決めて現実が動くからです。

そうやってみたい、と思うかも。だとしたらあとは行動のみ(公の場で、好き、嫌いを言いましょうということではないですよ。そう言うことは、特に、公の場ではタブーとしている人達で今の日本はできているので)

そこで必要になるのは勇気です。勇気があれば行動できます。行動したことで心がおれたり、人から誤解されたり、はじかれることも出てきます。そういうことも自分への理解という勇気があれば、そして自分への愛があれば超えられると思います。

最後はうまくいくイタリア人。最後はうまくいく自分になろう。

深刻さ
2024/04/22

物事を深刻に捉えすぎたり、考えすぎたり、ということが普通に、よくあると思います。日本人は特にその傾向があるのかも(海外生活をしたことがないので、日本人以外を知らず、あくまでも印象ではありますが)

それが間違っている、とか、いけないこと、と言っているのではありません。これもひとつの要素として体験として持っていたほうがいいです。ただ、バランスの問題だと思うんです(これは深刻についてだけではなく全て)

深刻にしてしまうクセは、深刻であるがゆえにずっと自分の中で重く、強く、恐怖や不安の感情とともに居続けてしまいます。ですから、それを選び続けていくと、それが足かせになり心から楽しむということができにくくなってしまいます。

何故そこまで深刻にしてしまうのか。もしかしたらではありますが、深刻さって崇高だと感じているのかもしれません。そのくらい崇高な気持ちでいないともっと怖いことが起きるとか、神から罰せられるとか、深刻=真摯、とか、真摯であれば守られる、真面目であれば怖い目に合わない、とか、深刻さには真理がある、とか…と自分で決めて(選んで)創ってしまっている。これが量子が動き、固めていくということです。

ですから、自己探求も深刻にしないようにしてください。自己探求は幸せを感じられる人生を生きるためにあると私は思います。私はそう決めています。そして、幸せを感じられる心の波動が、天のルールの波動にフィットすることなんだと感じています。そこは決して、深刻さを要求してはいません。

天のルールにフィットして、そこに乗って生きていきたい。だとしたらそことの親和性が必要で、それは深刻にしないというものです。でも、ちゃらちゃら生きればいいということではない。どっち?ではなくその真ん中にある在り方のポイントを自分で見つける、ということなんだと思います。

八重桜
2024/04/21

先日、お墓参りに行きました。

でーーーー、お寺の満開の八重桜を今年は見ることができました(去年はすでに散っていて、その前はまだ咲いてなくて…と、なかなか難しい)写真を上げたかったのですが、現在、私にはその機器がなくて。写真は昔のものです。

私は、この、ぽってりとした八重の桜が一番好きかも。花がまあるくかたまっていて、まるでピンク色のぼんぼりです。重たそうに枝がしなっているところも見ごたえがあるし、満開後の持ちがいいのも、いいです。そして何よりも「可愛い」。

茅ヶ崎にも中央公園のところに2本だけですがあって、今はそこへ散歩がてら見に行っています。木の下に入って見上げていると、たくさんのぼんぼりに囲まれて、うれしい気分になります。お祭りっぽい。竜宮城っぽい(行ったことないけど)

八重桜が終わると、そのあとは緑が鮮やかに輝くときです。それもまたダイナミックで楽しみです。

このように、花や樹々は人の心を和らげ、安らぎを与え、活力を与えてくれます。それを受け取った人間は、ただ、きれいだね、で終えてしまいやすいところですが、内面に向かい目に見えない「私」を育て自分の心を整えていっている我々は、受け取ったそれらを心を整えるためにも活用していくといいと思います。

具体的にどんな活用のしかたがあるのかは自分で楽しみながら考えてみてください。こうして見ていると私たちのまわりに自分の成長のためにあらゆるものが用意されているということがわかります。

これだけ用意してくれているということは私たちは愛されているということです。だから安心して自分を生きて幸せになる。

本当の意味で大人になる
2024/04/20

…「この私がこんな扱いを受けた」…と他人を、悪く思い、根にもち、憎み、恨む人が意外といると感じています(憎む、恨むってかなりハードなことだと思われますが、普通に多いと思います)

で、そこには「この私が」というプライドや見栄や自分自身への誤った理解があります。私は特別であったり、私は大事にされて当たり前であったり、私は良い人間である、正しい人間であるであったり、私はできているであったり、私は精神的に弱いからかばってもらって当たり前であったり、他人から気を使ってもらってあたりまえ、とか、です。

そんな私がこんな扱いを受けた…ということです。ここでのこんな扱いはパターンの欲している言動がその人から与えられなかった、欲していることと反対の言動をされた、という被害者的なことなんですが。

自分が望むように与えられるわけがないんです。自分じゃないんだから。もう、このことに気付き、諦め、ここは、本当に、手放していったほうがいいです。

そうしないと、ずっと他人を悪く思い、根にもち、憎み、恨み続ける人生になります。自分の発したものが自分にかえってくるので、結局自分が傷つき、その傷が深くなっていくだけです。そしてその思いは消えることなく来世にもちこされていく。

これから先、そこを手放し、苦しくても自分を歪みなく見て、それらの思いがありながらも、それを上回るように「自分がどうありたいのか、何を望んでいるのか、何が本当に欲しいものなのか、何を信じ、何を指針にしていくのかを心の中から探し、そこへ向かう努力をして、自分をひっぱっていったほうがいいと思います。

このあやうい時代の中にいて、ひとりひとりの心の在り様が集まり、これからを決めていくのだと思います。とてもそれを感じています。これからの子どもたちが生きていかれるように、今、大人が本当の意味で大人にならなくてはいけないと思います。

小さな庭
2024/04/18

近所に住んでいる80代の叔父夫婦が「老いては子に従え」を選択し、市内に住んでいる息子夫婦の近くへ引っ越しました。

子供の近くに住むということで安心したことと思います。

で、私が気になっていたのが、今まで住んでいた家の小さな庭です。元々が畑だったせいか、植物たちが立派に成長し、毎年花々をつけています。特につつじは背が高くなり、幹が太くなり、つつじってこんなにも大きくなるのか、と、驚きの様です。

これから、ここは更地にするそうで、これらの植物たちも一緒に破棄されていくとのこと。しょうがないと思いながらも、なんとも気になっていて、昨日、その庭を見にいってきました。

藤、金木犀、桃、牡丹、水仙、つつじ、つばき、こでまり、あじさい、シダ類、コケ類、いろんなものが入り混じっていて活気にあふれています。つつじはこれから花開こうといっぱいのつぼみをつけていました。

叔父夫婦はこれらの植物たちと一緒に50年以上生きてきた。そこには一緒に作った小さなささやかな歴史があります。引っ越しでその相棒を置いていくのは一番叔父夫婦がつらいとは思うのですが持っていくこともできず。

引っ越しをするからとペットを捨てていく人もいますが、私は一緒に生きた植物もペットと同じ気持ちがして破棄されてしまうのがつらいです。暫く庭の縁側に座ってながめ、お礼を言って帰ってきました。

仕方ない、と道々つぶやきながら。私ももちろん含めて、人は生きていく上でたくさんのものを犠牲にしていると思いました。そこへの後悔や、申し訳なさを、仕方ない、と言って自分を納得させている。そんな自分を感じながら、これからの人生、できるだけそういう事が無いように生きたいと思いました。

語りかけは深い
2024/04/17

語りかけは奥が深いです。最初のうちはただ語るというところから始まったと思いますが、続けていくうちに、その世界に広がる面が新に見えてくると思います。

語りかけは本当の自分とパターンが別であることの確認であり、パターンへの洞察、共感を元にしてパターンの代弁をしています。この行為により今の自分がどういう状態であるのかをゆがみなく知ることができます。ゆがみなく見るから、パターンは安心してそこにいられるようになります。パターンにすれば赦されていると感じるのだと思います。

そして、その言葉を響かせることで、その感覚を味わうことで、それは細胞レベルで自分の中に広がります。それにより、体が緩んだり、リフレッシュしたり、風や光が体中にしみこんだように感じたり、と、体に対しても良い影響を与えます。

そして、語りかけをしているその最中は瞑想と同じです。ただ、そこにだけ集中していることは、数分ではありますが、瞑想している状態です。それを毎日繰り返し、蓄積させていくことで心は整っていきます。

又、自分に語ることができるから、他人に語ることもできるということです。パターンを理解する、他人を理解する、というのは完全に同じではなくてもとても似ています。自他関係って、こうして自分の内から創ればいいんだということに気付くと思います。ここはハウツーではありません。

1日1回の語りかけ。それを深めていかれますように。いつの日かまた次の面が現れてくると思います。まだ何かを持っている語りかけ。私もまだ見えていない面があるのだろうなあと感じています。

広い構内で思う
2024/04/16

春を感じた盛岡の桜はまだ満開ではなかったですが、ちらほらとあちこちで咲いていました。街の中に薄いピンク色が広がっていてきれいでした。

セミナー翌日には、岩手大学に連れていっていただき、そこでは、枝垂桜や八重桜も見ることができました。

で、…「大学」…。広い構内を自転車に乗って移動している学生たちを見ていて、私も、あの頃、もっと勉強しておけばよかったと思いました。勉強ができる場も時間も与えてもらっていたのに、私、本当に勉強していなかったです。

今であれば、これも知りたい、あれも知りたいという思いがあるのに、当時は、そういうものがなかった。ただただ、こなしていただけだと思います。言われるままに、与えられるままに、こなしていくことだけなので、そこに自分の自発的な思いはなく、そうであるから面白味もわかりませんでした。

まだまだ頭も柔らかくどんどん吸収していくことが出来る年代だったのに…もったいないことをしていました…と、この年になって初めてわかることばかりです。

まあ、それでも死ぬ前にそういうことがわかり、今は自発的に学び、それをアウトプットして創造的に生きている。それゆえの面白味のある日々を送れています。

それは特別なキラキラした日々ではなく、普通の日々の中に、自発的に創造的にというエッセンスを持ちながら生活しているというものです。私にはこの在り方、生活が十分だと思います。

人生って自分にあった十分を探していくことなのかもしれません。そのためにも学ぶことは大事です。自分の可能性を拡げてくれるから。ただ、学ぶには自発性がないと学べないというものでもあります。後悔しないように学ぶ。

ガラスと雨
2024/04/10

昨日の大雨のおかげで、きれいになった窓ガラス。ありがとうございました。

で、まず、ガラス自体が進化しているんだと思います。昔のガラスは、とにかく拭き続けていないと綺麗さを保てなかった。小学校の頃の掃除で、ひたすら皆で窓ガラスを拭いた記憶があります。皆「はあーーはあーー」と自分の息をガラスに吹きかけて雑巾できゅ、きゅ、と、拭く。

以前住んでいたマンションのガラスもそうでした。さすがに息をふきかけてはやりませんでしたが、クリーナーを使いながらよく拭いていました。

ここに越してきて、今のガラスと出会い、ガラスの進化を感じました。これはこれからもっと進化するのだと思います。

そして、そこに「雨」という自然の使者が加わり、進化したガラスと一緒に新しい現象を創っているのが、なかなかいい、と思いました。雨が降らないと綺麗にならないというのも、人の作ったものと、自然とのコラボでおもしろいなあと思います。

さて、今日はこれから盛岡へ行きます。春の盛岡を感じて、また、善いセミナーを行ってきます。ここも人の作ったものと自然の使者とのコラボ。春らしく、柔らかく楽しんでください。では、行ってまいります。

じゃんじゃん洗い中
2024/04/09

今朝の茅ヶ崎は暴風雨です。

リビングの窓は、はめ殺しになっているので、外側から窓ガラスを拭くことができません(年に2回ほど専門業者さんが掃除をしてくれます)そうなると、窓ガラスの外側の汚れは「雨」に洗い流してもらうしかない。そのためには、できるだけ窓ガラスに打ち付けるような強い雨がいいです。で、今朝の雨はそれにぴったり。

じゃんじゃん洗ってくれています。雨が上がり、自然乾燥して、明日はきっときれいな窓ガラスになっていると期待しよう。

でーーー「塞翁が馬」(窓ガラスとは関係ないですが)。この摩訶不思議な現象。この体験をすればするほど、なんだかわからないけれどいいように動いていくんだなあと思います。

自分自身を振り返ってみると、あの、今までで最悪だと思った出来事が本当にたくさんの福を時間をかけながらもたらしてくれました。そして、それは今も膨らみ中です。

あの最悪な出来事がなければ、今の自分はいないし、この学びもしていないし、従って皆さんとお会いすることもなかったわけです。ですから、今は、その出来事にも、その時に関わっていた人にも、感謝しかありません(…と思えるようになったことも大きな福。そして、何かの力を信じられるようになったのも大きな福)

だから、今、最悪と思うことが起きている方は「塞翁が馬」を思ってみてください。いつか、開けていく、いつか全く考えも及ばなかった展開になる、これが福に転じる(…と感じられるような自分になるときがくる)そして、その体験により自分は必ず成長する。そして、成長した自分だから幸せを感じられるし、自分で生み出していかれる。

ただし、自分で今のままでいいと決めてしまったらそのままです。塞翁が馬さえも超える人の意思。人の持つ自由意思とはありがたくもあり、怖いものでもあると思います。使い方ひとつです。

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