ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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ぜひ、そもそもを
2018/11/16

昨日「そもそも」を書きましたが、私も昔はかなり頑張って、闘って、黒パターンで生きていました。

仕事は人一倍やる、そのころやっていたバレエもレッスンを休まない、トミーと結婚したころで家事も完璧にやりたい・・・ととにかく頑張っていたんです。だって実際、それらをこなしている人はいるので、自分もそうでなくてはいけないと思っていましたし、そう頑張っている自分なら自分でOKをだせました。OKを出せる自分なら他人にも負けていないと思えました。

それこそ、こんなにまじめに頑張っている自分、と思っていました。それなのに、いつもある辟易とした気持ち。不安。それを払拭するためにもっと頑張ろうと思っていました。

そんななので疲れていてもよくわからず、腰の痛みが続いていたある日、急に歩けなくなりました。椎間板ヘルニアでした。37歳で椎間板ヘルニアになるなんて。そんな身体の弱い私の人生は終わったと思いました。頑張りたくても身体が言うことをきかずとにかく頑張れなかった。でも、今思えば、これがよかったんです。強制的に休まされて、初めて自分のことを考えました。ここから自分の人生は、今のこの、いいあんばいの人生に向かって動き出していくことになります。

決して人生終わりではありませんでした。

誰の人生にもこのようなことがあると思います。病気やケガ、事故、または、思いもしないようなできごとや、家族のこともあるかもしれません。お金、仕事の苦しさ、人間関係の不和。個人的な傷。それは自分にショックを与え、もう、自分には明るい未来はないと思うかもしれません。人である以上それを一切感じないということはありません。しかし、十分に感じたあとに、自分に立ちかえり、今まで自分が体験してきたことが自分の中のどんな部分(パターン)から起こってきていたことだったのかを観察してみてください。冷静に観察してみると、それを動機にしていたら≪まあ、そうなるわなぁ≫ということがわかると思います。

私の場合は「人生とはつらく苦しいもの、だからそれに耐えて生きること」というパターンがとても大きかったです。なぜならば母もそうやって生きていたから。

しかし、それを選べば(自分では選んでいる意識もないんだけど)そのとおりの人生になります。それを教えてくれたのが「私」がセッティングした椎間板ヘルニアだったということです。だったらもうそれを使わないという選択もできます。

誰の人生にもムダなものはなく、自分で自分の人生を創りなおしていくことに目を向けることもできます。迷ったらぜひ「そもそも」を思い出してください。

今日はこれから沖縄です。ちょっと寒くなりはじめた関東をぬけて、また少し暖かさを感じてきます。皆さまもどうぞお元気でお過ごしください。

そもそも
2018/11/15

・・・そもそも・・・というのが私にはとても大事で。

いつも書いているように、そもそも、人は正しく、ちゃんと生きていれば全般的にいいあんばいへと運ばれていきます。そのルールの中で私達は自然に生きるように創られています。

これは、自分が体験したことやまわりにいる方々を見ていてもやっぱりそうですし、マスターたちもそう言うし。このことを知れば、もう、そこだけやっていけばいいか、ときっと思うと思います。そして、それはどんな修行よりもシンプルで楽でその結果を受け取りやすいです。

だんだん進化、深化していく「魂の道場」としては、この「そもそも」にみんなをナビしていくことだけをやればいいんだと近頃は思うようになりました。しかし、そこへいくためには正しく、ちゃんと生きるということが条件となります。

この正しく、ちゃんと、というところが最初わかりづらいかもしれません。

「私はこんなにまじめなのに」「私はこんなに頑張っているのに」「私はこんなにフラットなのに」「私はこんなに正直なのに」「私はこんなに誰にも優しいのに」「私はこんなに明るいのに」・・・こんなに正しく、ちゃんと生きているのに・・・それなのに、どうしていつも苦しいのでしょうか。どうしていつももんもんとしているのでしょうか。どうしてものごとがスムーズにいかないのでしょうか。どうして次から次へと問題がおこるのでしょうか。すっきりすることがないんですが。などなどを聞きます。

これ、どうしてですか?

それは、そういう言動をあなたの中の誰がやっているのか、というところを「私」が見極め、選んでいないからです。魂の道場的に言えば、そういう言動を黒パターンでやっているのか、白パターンでやっているのか、ということです。心の在り方を選んでいないからです。その人の心の在り方によって、いいあんばいへいくか、そうではないかがわかれます。

いくら明るく、元気に、おだやかに、おおらかに、他人に優しく、まじめに、正直に、頑張っていても、それが黒パターンからのもの(そうしていないと不安、そうしていないとバカにされる、そうしていれば寂しくない、そうすれば、あの人に勝てる、自分の価値を認めさせることができる、良い人と言われる、他人に攻撃されない、そうできる自分が好き、そんな自分はすばらしい、霊性が高い、他人は信じられない)であれば、その動機に対しての結果になります。そもそもがそういうルールなんです。

だとしたら?黒パターンの動機ではなく「私」が選ぶ白パターンの動機(ただ、白パターンを選べばいいのではないです。「私」が選び、それを動機にする!とコミットすることが大切。だから白黒ワークもちゃんとやってと言っているの。思考で白を選ぶこともできちゃうのでそれは簡単ですが「私」が感じて選ぶというところが後々の直感というところにつながります)で実際の言動をしていけばいいということになります。

そもそもにたちかえってみるのはどうですか?そこには抗うことなく、自然に、本来の生き方がちゃんと用意されています。

片目で見ろ
2018/11/14

今年に入ってから、がっつりと、老眼鏡を使うようになりました。

PCを使うとき、本を読むときには必需品です。

で、きのう、老眼鏡をかけたまま、キッチンにいったところ、水回り、壁、レンジフード、などあちこちの汚れがはっきりと見えて、すごく驚きました。

・・・・こんなに汚れていたなんて・・・・。

眼鏡なしでは見えていなかったんです。どちらかというと私は綺麗好きなので、自分では、汚れはない、と思っていました。ところがところが。見えていないだけだったなんて。結局、眼鏡をかけて拭き掃除をし、どっと疲れました。

ついでに、眼鏡をかけたまま各部屋も見てみるとあちこちきたない。掃除はぬかりないと自分では思っていたので、またまたびっくり。

そう言えば、生前、父が洗ったお皿の汚れがおちていなかったり、あちこちにほこりがあったりしたのを思い出しました。年をとると面倒になるのだろうか、と思っていましたが、実は見えていなかったのかも。

で、これからどうしようと考えました。老眼鏡をかけながらぬかりなく掃除をするか、はたまた、眼鏡をかけないで今まで通り掃除をするか。基本的にはきれいな所にいたいのですが、今の状態でも生きてはいけます。今の自分が見える範囲で、今の自分の体力にもあった掃除をしているのだからそれでもいいのかもしれないと思いました。

若い頃は裸眼で自然に見えていたものも、今は見え過ぎになっている。ものごと片目で見ろ(特に年をとったら)という言葉もあります。あらゆるものごとを片目でという年齢になったのだと思いました。

夢の中で
2018/11/13

ここのところ、亡くなった両親の夢を見ます。

夢では特に意味深な話があるわけでもなく、普通に一緒に生活していたり、一緒にどこかへでかけていたりしています。もちろん、夢の中で彼らがすでに亡くなっていると私は思っていません。

一度だけ、母が私に何度も何度もあやまりながら泣いているということがありました。母は自分の考え方や決め事で私につらい思いをさせてしまったこと、自分の寂しさから、自分のことだけになってしまって、私にいらないものを押し付けてしまったことをとても後悔しているようでした。「今は洋子の当時の気持ちがよくわかって、そんな思いをさせてしまったことがとても悲しい。ごめんね、ごめんなさい」と言って泣いていました。

母が今全てをわかるように、私も全てを理解できているから「もう、何も心配も、後悔も、自分を責めることもしなくていいよ。もう、全てが許されているんだよ」と母に言いました。

私と母は仲が悪かったわけではありませんでしたが、私が大人になるとどこかお互いに遠慮しているようなところがありました。この遠慮が時として居心地の悪さをお互いにつくっていたのだと思います。

でも、今、亡くなった母とこうしてお互いの気持ちをわかりあえ、伝えあえたんだから、めでたし、めでたし、と思います。夢の中のことではありましたが、よかったと思いました。

もしかしたら、こうして次元を超えて、時間をかけて、わかりあえたり、解決したりすることもあるのではないかと思います。

感想
2018/11/12

「イエスの生涯」遠藤周作・著(新潮文庫)を読む。

前回の「沈黙」同様、遠藤氏の文章にひきこまれ一気に読みました。

感想は・・・涙が流れました・・・この私の涙は、誰にも理解されなかったイエスの気持ちと孤独を思い、そして、それでも人々へ愛を与え続けたイエスの生きざまに、そして、イエスをうらぎった弟子たち(うらぎったのはユダだけではなく全員。イエスが捕まった日、弟子たちは自分たちも捕まることを恐れて逃げてしまった)の苦しみと自責の念に。そして、私たちの弱さに。

もちろん、この小説は遠藤氏がイエスに会って何が起きていたのかを聞いて書いたものではありません。しかし、ご自身もクリスチャンである遠藤氏が、あらゆる資料をもとに、小説家の感性をもって書かれています。聖書からひもとかれていく言葉のひとつひとつが当時のイメージをともなってくりひろげられていき、きっとそうであったのだろうという気持ちになります。

以前、ある霊能者の方がぼそっと一人ごとのように「・・・・イエスは可哀そうに。誰にも理解されず、多くの人たちから期待と要求だけされて」と言っていた言葉がずっと残っていて当時は何のことか全くわからなかったのですが、今回この本を読んで合点がいきました。

イエスが人々に理解されなかった部分は、彼が人々に伝えたい、与えたいと思っていたものであり、それは「神の愛」でした。イエスは不幸な人々に必要なのは共に寄り添い、彼らを愛する人であり、自分はそうあろうとしました。しかし、当時の人々にとって必要なイエスは自分たちを救ってくれる反ローマ運動のリーダーであり、奇跡を起こすイエスでした。

ライ病人は愛という非現実的で非効力なものがほしいのではなく、病気が治ることを欲している、盲目の者は目が見えるようになることを欲している、歩けない者は歩けるようになることを欲している、それを叶えてくれるイエスを皆は期待し、それだけを要求していました。このギャップはうまることなく、弟子のひとりであるユダは「師よ、人間とは結局、そんなものなのです」と言っています。

こうして最初は大勢の群衆がイエスのもとに集まりましたが、ただ、同伴者としているイエスは「無能な人」として扱われ人々に見捨てられてゆきます。一緒にいる弟子でさえ、イエスの言わんとしていることが理解できず、イエスの死後、初めてその真髄に触れることとなり、弱かった弟子たちは強い伝道者となっていきます。

当時も、現代と同じで権力を持つものの意向によりあらゆることが操作され、強いものほど自分を守ることがくりひろげられています。教育がなかった時代である分、よりそれは色濃く行われていますが現代人である我々にもそれは残っていて、人の意識の進化には気が遠くなるほどの時間が必要なのだろうかとも思いました。

全般に悲しみを感じる内容ではありましたが、それでも、根底に流れつづけているイエスの愛は、それを上回っていると思いました。私も自分のパターンの同伴者でありたいです。そしてそこで養われた力が誰かの同伴者として反映できたらと思います。

愛は静かなもの
2018/11/11

「自分を変える必要はない」と言われます。それは「今の自分で完全であるから」ということで。

これは正しいのか、間違っているのかと判断するのではなく、ここでは、どうとらえるのかというところの話です。

まず、これをそのままに捉えると、今のままでいい、ということになります。今まで通りの自他への対応、今まで通りの生き方、考え方、言動でそのままいけばいい。何も自分を省みなくていい、変えるための努力もしなくていい、だって今の自分で完全なんでしょ?ということです。一見、親切そう。そして何もしなくていいので楽そう。でも、そうではない、ということはわかると思います。今のままでいけばずっと今のままです。

では、どのように捉えることでこの言葉は自分を生かすものとなるのか。このときの「自分を変える必要はない」は「自分のパターンたちを変える必要はない」と言えます。パターンを変容させる、書きかえるとかではなく。それらはそのままであっていい。それに対して「私」がコントロールし、おさめて、どんな意味づけをし、そのときに何を選ぶのかということができればいいということです。

それができれば、まさに「自分を変える必要はない」と言えます。

そして「今の自分で完全であるから」と言うのも、変わらなくていい存在(パターンや記憶や過去の体験)があることで「私」は育ち、今世での魂の成長・進化を成し得ていきます。ですから「私」のために今の自分は完全なんだということです。いろんなパターンたちがいてくれる自分は自分のために完全です。マスターたちはこういうことを言っているんだとも思います。

自分の心への理解を深めることが大事です。自分の持つ過去の出来事、記憶、あらゆるパターンたちをどれだけ深く理解できているかというところが愛の大きさ、深さであり、それが「私」の成長であり進化です。

愛は静かなものですね。それにひっそりとしか存在していません。そこに派手さがないんです。だから見えにくいし、わかりずらい。でも、そこに向かうということしか「私」にはないんです。

面倒ではなくなる状態を創る
2018/11/10

語りかけ(白黒ワークも)が面倒という方はとても多いです。

そうであると、どこかワークは義務的になり、そうなると、ますます面倒と思います。だいたい、こんなことやって変わるのか、変わるとしたらいつ変わるのか、あとどれくらいやればいいのか、などなど考えると思います。気持ちはわかりますが、この状態で行ってはたとえ10年やっても変わることはないです。

逆に、うまく語りかけをやれている方は、語りかけすること自体を億劫に思っていないです(億劫だったのを億劫ではなくしている)それを生活の一部、自分の一部としてしまっていて、それを行うことはあたりまえになっていて、生活の中にそれを取り入れて、新な自分の生活を構築しなおしていっているのがわかります。

そう構築できて新にいることが好きというような。結局、ここなんです。これは何ごとも。好きこそものの上手なれと言いますね。

例えば、私のおうちでバレエです。これをできるようになりたい、と思う動きを動画でみつけ、そのためには、もう少し股関節の柔らかさが必要。だとしたら、とにかくお風呂上りにストレッチをする。5分でいいからそれは必ず毎日行います。

最初のうちは面倒とか、今日はいいか、とか気持ちとしてあるのですが、そうしていくとあの動きはいつまでたってもできない、できるようになりたいんでしょう?だったらやろうよ。と自分を励ましつつ、続けるうちにそれは生活と自分の身体の一部になっていきます。そうやって面倒ではなくなる状態を創るということなのだと思います。これと同じだと思う。

パターンにより起こるいろんなネガティブな感情にふりまわされてしまうことの苦しさから解放されたくて語りかけを誰もが始めるのですが、やり続けるうちにそこの本来の意味に気づきながら、その行為自体を楽しめるようになることが最も確実に早く進むことになります。

いろんなものを持っている自分
2018/11/08

前回の岩手クラス後の食事会(やっぱり焼肉)で食べた冷麺がすっごく美味しかった。

そのときに、冷麺のスープには全ての味が入っているという話が出て。そう言われればそう。ただ酸っぱさだけではなく、甘さだけではなく、微妙にいろんな味が、入っていて、味覚を最大限に使うことで「うま味」を感じる。

この微妙な味がそれぞれのお店の持ち味、うま味となっているんですね。

で、人もそうだなあと思ったんです。ただ強いだけではなく、ただ優しいだけではなく、いろんなものを持っているからそれがその人の持ち味になっている。そしてその人と全く同じ人はひとりもいない。そんな、特別な人なんです。誰もが。

人は複雑にいろんなものを持っているほうが魅力的です。たぶん、こういう人なんだろうなあと思っていたらまったく思いもよらない一面を垣間見ることもあり、それはドキッとしたり、驚きであったり、新鮮であったりします。複雑なもの(陰も陽も)を持っている人間が、ただ、愛に向かって生きていくというシンプルな生き方をする。もう、それだけで十分だと思います。

自分の中に在るもの全てを愛していかれますように。捨て去るものはひとつもありません。ただ、自分の中のどれをどのときに使うかを「私」が決めて言動するということだけでいいんです。いろんなものを持っている自分を大事にしよう。

自分の中に答えはある
2018/11/07

自分の中に答えはある、と言われます。これは自分の中に自分専用の答えがある、と言えるのではないかと思います。

ひとりひとり、魂の課題も、個性も、違うので、それぞれが今世で成長していくための答え(応え)は違って当然で、それをみつけられるのは自分だけです。だから他人に助けてもらおうと丸投げしてはだめなの。自分でそれをみつけられるように自分を育てることが大事です。

その自分専用の答え(応え)をもっている部分は本当の自分であり、自分の指導者であり、私たちのうしろにあるものたちとつながっている部分です。自分がもつ疑問や、質問や、悩みや、問題をどうしていったらいいのかを自分自身に問い、その答え(応え)をもつ自分自身が決め、そんな自分が行動をしていきます。これが「私」として生きるということなんです。それにより自己完結していくことになります。

そんな「私」はどこに向かっているのかというと、ひたすら「愛」を育てることだけへ向かいます。そこへ向かうこと自体が成長であり進化であると思っています。特別になることでも、すごい力を得ることでも、人から称賛されることでもありません。

この世においては人として、自他への愛をたくさん体験し、あちらへかえったときには、地上で体験したことをお返しし、それは宇宙のために使っていただく。そしてまた、地球に(もしくは他のところに)生まれてくるのかもしれません。転生はひたすら自分の中にそして他に愛を届け、満たすためにです。これもとてもシンプルなことなんだと思います。

だから自分の中の「私」「私」・・・を意識し、自分の中の「私」とは違うものとは距離をおけるよう「私」がワークを行い、自分の中の全てに愛を与えるその存在を感じていかれるように、自分をみることをしていってください。自分が本当にそれを望むとき、その行為を助けようとするものも手伝ってくれます。手伝ってくれるものは、そこそこにいいあんばいに健康や仕事や人間関係やお金を与えてくれつつ、もっと日常での小さなこと(忘れものをしらせてくれたり、仕事に対してのアイデアを示してくれたり、これはかかわらないほうがいいと教えてくれたり・・など)をサポートしてくれることもあります。それらも全て「私」の愛を育てるためのものだと思います。そこだけ。

子どものよう・・・・・
2018/11/06

秋から冬のソックスって、どういうわけか、柄ものがはきたくなります。

春から夏は無地のほうがいいのに、どうしてだろう。春から夏は無地ですっきりしたくて、秋から冬は柄物で遊びたいのでしょうか。

・・・ということで柄物ソックスを探していたら、300円ショップにジャガード柄のものがたくさん売られていました。それも2足組(1足150円とは・・・・)どれもみんな色も柄もよくて、迷って迷って20分くらいかけてやっと1つ選ぶことができました。はいてみたら、すごくいい。ただちょっと小振りのような気がします。

で、次の日、また買いにいく。またまた20分くらいかけて1つ選びました。うーーーん、やっぱりいい。で、次の日また買いにいく(だったらまとめて買えばいいのに)そうしたら新なものが入荷されていてかなりまた迷いました。で、現在6足のいろんな色、柄のソックスがあります。

今日はどれをはこうかなあ〜と朝考えて、選んだソックスをはく。それだけですごく幸せな気持ちになる。靴をはいてしまえば見えなくなるのに、自分が好きなソックスをはいているということだけですごくうれしいです。

私の根底にあるものは本当に、子供のようで、単純だと思います。

好きなものが1つ身についていれば十分うれしいんです。

以前「服にはそんなにお金をかけていないけど、高価な下着を身につけていると自分に自信が持てる」と言っていた人がいました。自分しかしらない下着。誰に見せるものでもないけれど、そういう下着を身につけているということで、それを身につけている自分を大事にできるし、自分は高価な下着を身につけるくらいの価値があるんだと思える、と言っていました。このことを思いだし、高価な下着(多分シルクのレース使いなんだろうと・・)とは全く格が違うけれど、わかる、わかると思いました。

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