ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ

すっごくわかりやすい
2025/04/24

私は死後の世界はあると思っています。実際見てきたわけではないし、前世の記憶を持っているわけでもありませんが、この考え方が自分の生き方をよいものにしてくれるし、自分という個性にもフィットしているものだからです。

それに、死後の世界があることにはロマンがある。会いたい人たちにあちらで会えるということは今からの楽しみにもなります。

で、道場では「私」とパターンの住んでいる卵型の部屋、両方で「魂」という捉え方をしています。そして、その「魂」はあちらへ帰っていく…と。それぞれの「魂」にふさわしい所へ。

もし「私」の部分だけが「魂」であると、皆、同じところに帰ることになります。しかし、いろんな方達が言うように死んだら、その人の魂レベルにあったところへいく、ということだとすると、いろんな所へちりばめられるのはパターンの住む卵型の部屋があるからと言えます。その中身がどんな状態なのか、というところが関わってくるのでしょう。

で、昨日、ショート動画を見ていたら、江原啓之さんがおっしゃっていた言葉がありました。死後の世界でどこにいくか、ということについてです。

・・・「今のこころ、そのままの境地に平行移動」・・・と。

すっごくわかりやすいと思いました。今のこころ…です。そして、そのこころのままの境地に平行移動ということ。魂レベルに合ったところへ、というよりもよくわかります。

今、いらいら、もやもやであればその境地に移動。怒りや不満であればその境地に移動。寂しさや悲しさであればその境地に移動。死んでからも今のままが続くというのはとても自然です。

じゃあ、死ぬまでにこころを整えようと思うかもしれませんが、死はいつやってくるかわかりません。今日事故にあったり、事件にまきこまれたり、大災害に見舞われたりして、急にそれがやってくることだってあります。

だから、今日から整えよう。その具体的なやり方はわかっているのですから、死ぬまでに、ではなく今日からです。そしてそれは死後の世界のためにやるのではなく、今のために。今はいつも一瞬一瞬選んでいく白パターンにより作られていくものです。そうやって生きている今も、そして死後のそのときにも、いい境地でいられるようにしていくのがベストだと思います。

生きている今も、あちらの世界でも、いい境地にいたいですね。

映画館へ
2025/04/23

先日、なんか、映画館で映画を見たいなあーーーと思いました。特に見たいものがあるわけではなかったのですが、とにかく、映画館に行きたい、という気持ちになり、隣街の映画館へ。上映しているものの中から選んだのが「アマチュア」(2025年公開 米国のサスペンス映画…とある)という映画でした。

主演は「ボヘミアン・ラプソディ」でフレディ・マーキュリー役を演じたラミ・マレック。フレディ役がぴったりすぎていたので、どうも、そのようにも見えてしまいましたが「これはフレディじゃないよぉ」と自分に言いきかせる。

話の内容としてはテロリストに妻を殺害された主人公がテロリスト達に復讐をしていく、というものなんです。この手の話はよくあります。そして、そこでの主人公は、元諜報部員、とか、特殊部隊のエリートとか、元軍人とか、闘うことに慣れている人たちが多い。

たった一人で何人もの敵を倒すことができる身体能力、そして実践の経験があり、あらゆるスキルを持っているというような、強いヒーローです。見た目もがっしりとした体の持ち主であったり、しなやかで瞬発力のある強靭な体の持ち主であったりとか。そしてとにかくみんなタフ。

しかし、この映画の主人公はCIAの分析官であり、細身で、どう見ても身体能力が高いとか、戦闘むきとは言えない人でした。大丈夫かあ?と言いたくなります。

そういう主人公がどうやってテロリスト達に復讐していくのか。

彼の武器はCIAトップのIQの高さ。これを駆使して頭脳戦を繰り広げます(このあたり、疎い私はついていくのが大変。いまだによくわからないことも多い)そして、その途中で暴かれていくCIA上層部の隠蔽工作(これもよくある話だ)

ある意味新しいヒーロー像かもしれません。

で、彼はこう言います「僕には僕のやり方がある。」自分のやり方で、一般的には無理だと思われていることでも成し得ていくことってできるだろうと思いました。というか、これからの時代はこちらだろうと。

自分にはこれがないからそれはできない、という時代ではもうないのかもしれません。段々と、創造という事に視点が向いていっているのかもしれません。そのためには自分が何を持っているのかを自分で知っておくことも大事なのだろうと思いました。

しかし、時々いいですね、ポップコーンのにおいがする映画館で見る映画。また行きたいなあと思ったときに今回のように行こう。

https://www.youtube.com/watch?v=AKSDo190Tlo

たくさんある選択肢
2025/04/22

白パターンには、いくつもの選択肢があります。そして黒パターンにもいくつもの選択肢があります。その中から「私」が何を選んでいるのか、ということです。人の日々の生活って選択の連続です。ですから、何かしらをいつも、誰でもが、選んでいるということになります。

慣れ親しんでしまった黒パターンがことあるごとにすぐに反応し、登場して、何かを言ったり、行動したり、というのが普通に行われていることなんですが、これは、そんな黒パターンが悪いのではなく「私」が機能していなくて起きていることです。「私」がその在り方を選んでいる、黒パターンを選んでいるとも言えます。

この状態をずっとほっておけば「そういう人」になっていきます。人って心で選んだ通りになっていくからです。

白パターンも同じでたくさんの選択肢を持っています。その中から「私」がどれを使うかを決めていきます。その場、その時に応じて、決めていけばいいのですが、白パターンそのものが黒パターンとは違う上の領域にあるものなので、とても「私」との親和性があります。白パターンの特徴として「理性」という事が言えると思います。

「私」が何を選ぶのかということがとても大事になります。そのためには意識的にあることです。無意識=「私」が機能していない状態では、選ぶことはできないからです。

自分の内の誰が…
2025/04/21

……自分を疑え……今朝、そう思いました。

自分を疑う、自分を信じる、これ、どっちが大切かと言うと、一般的には自分を信じるというほうだと思います。しかし、私は前者が大事だと思います。

自分を疑うというのは「自分の内の誰がそう考えているのか、言動しようとしているのか、決めたのか」というところに目を向けるということです。

これは本当によいことだから、これは自分がいい気分でいられることだから、これはあたりまえのことだから、きっと誰にとってもいいことだから…と「よい」と思われることならそれでいいのではないということです。それが黒パターンから出ていることは普通にたくさんあります。それを自分が身極めているだろうか?ということで自分を疑うということです。

そうなると、いつも自分を見張っていなくてはいけないのだろうか、と思うかもしれませんが、そうではありません。それはすごく疲れてしまいます。

あたりまえのように出てきていることや、いつもと同じやり方をしているときや、迷って、考えて導き出したものや、なんか、しっくりきていないとき、変な高揚感やうれしさや達成感があるときなどなど。一度立ち止まって、それが自分の内の誰が?というところで見てみるといいです。

そして、もし、それが黒パターンからのものであれば、それを検証し、白パターンに選び変えたものにして言動するのか、全く言動しないのか、を考えればいいわけです。

そして、自分を信じるというのは、そうやって自分が選んだ白パターンを信じるのではなく、その一連の作業ができるようになっている自分を信じるということです。いくら善き白パターンを選んでそれで言動しても、相手あってのときにはそれが裏目に出たり、それにより何かが生じることも普通にあります。白パターンは絶対なものではなく、あくまでも選択肢です。

公園は初夏
2025/04/19

昨日は、久しぶりに中央公園へ行きました。桜が満開の時以来です(何で行っていなかったのかわからない)

久しぶりに見た公園。その姿がガラッと変わっていて驚きました。時はまさに新緑。公園全体が明るい緑色に変わっていました。新しい芽や葉に、まだ強さはありませんが、その時期特有の柔らかさがあり、それが人にも柔らかさを与えてくれているのだろうと思いました。

「つばき」はもう終わをりむかえ、かわって「つつじ」が咲きだしていました。そして今まで全く目にもとまらなかった藤棚にはきれいな紫色の藤の花が咲いていました。花があまりに多く重いのか、下へ下へと咲いていてそれがまた風情があります。

私がこの公園に来始めたのは去年の10月からです。岩手の合同合宿の時に、朝、ホテル近くを歩いて、それがとても気持ちよかったので、こちらでも歩こうと思い散歩をするようになりました。それまで、公園の存在は知っていましたが全く興味がなく、おまけに遠いから(と思っていた)行くのも面倒くさいと思っていました。

その公園で、初めて秋の紅葉の色の美しさを実感し、冬の樹々本体の形の面白さを実感し、そして、春の桜を実感しました。これから、初めて見るであろう夏の姿も楽しみです。

大好きな八重桜も咲いていました。ぽってりとした可愛らしいその形に華やかさを感じますが、私はどこか毒のようなものも感じていて、そこに惹かれたりもします。今ちょうど陰陽のことを考えていて、それを象徴するものとして、わかりやすく、その姿を見せてくれているように思います。もう少し考えてみよう…公園を歩きながらと思っています。

小さな小さな遠足
2025/04/18

昨日は、初めて、入院中の叔父のお見舞いに行ってきました。着いたときにはちょうどリハビリ中で、その様子も見せていただきました。若くて美人さんのリハビリの先生がずっと担当してくださっているようで、叔父もうれしそう。頑張ってました(笑)。

「毎晩、飲めないのがぁーーー」とぼやいていたのでまあまあだ…と。

で、この病院は隣街からバスで約30分ほどのところにあります。街中を抜けて、住宅街を抜けて、畑があったり、樹々が増えてきたりして、ホントにあるのだろうか病院、とちょっと不安になりました‥が‥無事に到着しました。

そこは慶應義塾大学の藤沢キャンパスがある所でした。キャンパスの側にその病院がありました。

まず、バスを降りたときに空気が新鮮で、きれいなのがわかります。樹々が多いとこうなんだよなあ、と久しぶりに感じたこの空気。新緑のときを迎え、大きなけやきの樹が生き生きとしています。私はこの時季が一番好きです。

病院を後にし、帰りのバスを待っていると、そこには次々とバス2台が連結されているツインライナーが着き、すでにたくさんの学生さんたちが乗っていました。初めて見るこのようなバス。そして、久しぶりに見る多くの学生さんたち。

せっかく乗るのだからと少し待って、空いているバスに乗り込み、連結部分が見たくて、その近くの席に座りました。新緑の風景をみながら、時々学生さんたちを見ながら、変な言い方ですが、共に細胞が若い。そしてその若さには無条件で力があると思いました。でも、きっとご本人はそのことには気づいていない。だからいいのでしょうが。

これだけのことだったのですが、小さな小さな遠足に行ったような気分でとても爽快でした。いつも触れていないものに触れるっていいですね。こういうことも教えてくれた叔父に感謝です。また、行くからね。

過去は今にない
2025/04/17

「それは、過去に生きているということです。」という言葉を今朝見ました。どなたが言った言葉だか…後から調べようとしたのですが見つからず…でしたがインドの僧侶?だったような。

この言葉は、その僧侶に、ある方が「私は過去に怖い目にあい、それがずっとトラウマになっていて苦しいんです」というようなことを相談したときに、上の言葉を僧侶が言ったというものです。

「それは過去に生きているということです。それは今に生きていないということです。」

この言葉の持つ意味深さがにじみ出ているような言葉です。

ここでは過去の怖い目ということでしたが、例えば、過去に味わった良い思い出、とか、過去に自分が成し得たすごいこと、とか、過去に人から賞賛されたこと、とか…。そういうものから離れられずに、今もそれを求めている、それを支えにしている、というのも同じように過去に生きている、そして今には生きていないということになると思いました。

過去はそうだったかもしれませんが、今は違うじゃん、ということです。過去って今にはないんです。良かったことも良くなかったことも今にはない。だって、今、それが起きていませんよね、ということです。

これは、今も、瞬間瞬間、過去になっていくので、今起きている良いことも良くないことも、この今という一瞬にはもう、ないんです。

と見ていくと、全てはどんどん変化していくものであり、そこに過去を持ってくること自体が無理だということにも気付くと思います。

だとすると、今、自分がどう在りたいか…だけです。こうして自分の今を自分で作っていくということです。

動き続けていく私
2025/04/16

自分の精神性を上げていく道って、わかった、と思うとわかっていなかったことに気づく。できたと思うとできていなかったことに気づく。そういうことを繰り返していきます。

このことを間違っていた、と意味づけることもできますが、間違っていたという言葉の持つパワーにやられてしまいやすいので、気付いたという意味づけを選ぶといいと思います。もっと違う領域での意味づけにおいてはそれへの洞察、理解が深まったというものもあります(この意味づけはかっこいいので私はそれを選んでいる)

そして、この事自体が成長。出来ていなかったことに気づくことが成長なんです。だからこの繰り返しをされているということは、順調な歩みをしているということです。

人って、わかったというところで満足したり、出来たというところをゴールにしてしまったりしがちですが、この道は、まだまだ続いているのです。私にはまだ見えない世界があります。

だから、頑張って進む、とか、早く進む、というような思いでそのままスーーと行かれるんじゃないんだなあ。これを体験できるのは今までいた領域です。そこに慣れているのでそう思ってしまうんです。

私は今年に入って自分が傲慢であったことに気付きました。傲慢さだけは持たずにいたいと思っていたのに、だいたい、そんな気持ちを持つのも傲慢さからきているんじゃないか?

この場合の傲慢とは、自分はスゴイ的な、自分はできている、わかっている的なものではなく(これについては、人にはそういう事自体がそもそもないということは知っているので)お会いしている方達のために的なものでした。とにかく先へ進めるように、上へ向かえるように、などなどひたすら成長することに力を注いでいた。そうしたいと思っていたし、そうするべきだとも思っていた。この在り方が、傲慢さから出ていたことに気づいたのです。それぞれの在り方というものがすでにあり、それが最優先されることを知りました。

こうして、自分の傲慢さが違う質のものへと変化するときに、人は成長していくのだと思います。今知った傲慢さ、これもまた変化の時を迎えるのだと思います。今年は色々と忙しい。動き続けていく私。

遺伝って?
2025/04/15

遺伝って?とある方と話していて思いました。

「遺伝とは、生殖によって、親から子へと形質が伝わる現象のことであり、生物の基本的な性質の一つである。 素朴な意味では、親子に似通った点があれば、「遺伝によるものだ」、という言い方をする。」(Wikipedia)(実際はもっと複雑らしいですが)

「性格は父親譲りだね」とか「お母さんと目が似ているね」とか。人は皆それを生まれながらにもっているものです。それによって、外見的な特徴を受け継いでいると思うし、身体が丈夫だったり、弱かったりするかもしれないし、運動神経が良かったり、悪かったり、手先が器用とか不器用とか.

これは、身体だけではなくて心にもそれは現れていると思います。頑張り屋の親のそれを受け継いで、自分も頑張り屋であるというように。

で、思ったのは、そういう親(親もそのまた親から受け継いできているわけで)の元に生まれて来た自分とは何なのだろうということです。この両親の子どもとして生まれてきた自分。なんで、この両親だったのだろうか。そしてその両親の子として生まれたから遺伝というものもついてくる。それを心身に持ちながら生きる今世の自分って?と思ったのです。

いいとか悪いとかではなくて、なんで、この2人(両親)?と。偶然に生まれてきたということはないと私は思っているので、自分も「そこに生まれたい」と思い、両親も「うちでいいです」と言ったか言わないかはわかりませんが、お互いのためにベストなところに生まれてきたのでしょう。そこにはわけがあって。わざわざそこを選んだのにはわけがあって。もしかしたら、遺伝により、大変なものを受け継いでしまうかもしれないのに。

でも、大きなものの計画のもとに(?)なおかつ魂の長い歴史もあり、全てを考えたときに今の両親の元に生まれたのだろう。きっと、そこに生まれたからこそ体験する自分の心身や出来事を自分が体験したいからなんだと思います。自分に起きたことをできるだけよいほうへ持っていくことをやりたいんだと思います。そう考えると誰もがチャレンジャー。

新な学び方を…
2025/04/14

今迄の学び方が誰でも身についています。もちろん私も。なぜならば、そういう学び方しか教わってきていないので、当然、それは自然と身についています。

で、仕事もその学び方と同じもので回っているので、ますますその学び方、やり方というものがしっかりと自分の身につき、ほとんどのことはこれでやっていかれます。これがダメだとか無駄だと言っているのではありません。それも知っている、ということです。

しかし、そうではない学び方というものもあります。でも、これは絶対必要なものではなく、それを求めている人が自分の身につけていけばいいものです。これがないと生きられない(この世において)というものではありません。だから知らない人が多いのだと思います。

で、ここで学んでいることはまさにそういうものです。今までの学び方では身につかないものです。今までのそれの真反対にあるようなものです。前者はわかりやすく、後者はわかりにくい。でも、後者を先に教えられていたら、前者は分かりにくい…となるのかも。

この相反するものを両方身につけて魂は本来の姿になるのだろうと思います。だからそういう学びは自分自身のバランスをとるという意味で、何より生きる意味ということで、とてもいいと私は思います。片方だけではなく、両方を知っていて、体験している状態です。

こうであれば「楽」というよりも、こうであれば本来の自分でいられるということです。本来の自分でいられるから結果「楽」なんです。ということは、片方だけでは「楽」ではないんです。ひとつに偏っている状態だからです。

ついつい、今までの学び方で、この学びもやっていきやすいですが(慣れてるから)今自分が学んでいることは新な学び方を学んでいることなんだ、あとの半分を学んでいるんだ、という視点をもってみるのもいいと思います。

その際、どんな資質が必要になるのかを自分で考えてみるとよりクリアになってくるかもしれません。

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ

- Topics Board -