ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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自画自賛
2026/03/13

昨日出て来た「自画自賛」(この頃、このように前日のことについて書くことが増えました)。

自画自賛なんて…みっともない、とか、恥ずかしいことだ、とか、上から目線、とか、謙虚であるべきだ、とか、一般的にあるのかもしれません。そこは意味づけなので、今の自分にとってふさわしいものを選べばいいんだと思います。

で、もうひとつ、考えられることとして、自画自賛できるようなものを持っていていいね…自分には自画自賛できるようなものが無いから…ということです。これは誰もが認める物事を持っている人にしかそれはできないということからきていると思います。

私が選んでいる自画自賛は自分にとって、というものです。例えば昨日のような自分としてはいいね、と思うフレーズ。これに対して、他人は、そうは思っていなかったり、それほどまででもないと思っていたり、「は?だから?」と思うかもしれません。

それでいいということです。自分への(だけの)自画自賛だからです。なかなかいいね、このフレーズにはこんな意味合いも含められていて、それがうまく表現できている、すごいよ自分。というものです(時には私、天才とも思う、このあたりが私はとにかく単純。あきれるくらいに単純。BGMにはオーソレ・ミオが流れる)

それによって誰かに褒めてもらおうとか、一目おかれたいとかではないからそれでいいわけです。自己満足、それでいいわけです。

そして、これが、自分の流れを変えていくことにも気づいています。だからそのために自画自賛しよう、となると、どんより感が伴うのでそれは選ばないほうがいいと思いますが、自画自賛は流れを変えるというパワーを持っています。

自分で「おお!」と感じたときにはそれがどんな小さなものであっても自画自賛してください(単純に)これも自分を肯定していく、今の自分の力を知る、自分の立ち位置を知る、自分を後押しする、量子的にもいい、天のルールを垣間見る、と言えます。

人間って、こんなふうに自分で自分を押し上げる力があるんです。自画自賛もその一つ。お勧めです。

あたかも、その時間が止まったような…
2026/03/12

「あたかも、その時間が止まったような丁寧さが、ワークを澱みがなく、水が澄むようなものにしていきます。」と昨日の日記に書きました。

このフレーズ、久しぶりに自分としては「いいね」と思った(相変わらずの自画自賛。大好きな自画自賛)

「あたかも、その時間が止まったような丁寧さ‥‥」(ここで言う、丁寧さとは、意識(気)が分散していない状態です)が、人間には必要だと思います。それは自分自身の魂と身体にとって。そして、日々の生活そのものにも。そして、その在り方が自然と他人に対して行われると思っています。

特に、ワークを行う(自分に向き合う)ときに、この、あたかも時間が止まったような丁寧さは、そうすることで、自分が感じるその一瞬一瞬が淀みなく、澄んだものになっていきます。それはまっすぐで、純粋で、強い光のようになっている状態です。

「もしかしたら…〇〇と、もう‥決めつけなくてもいいのかもしれない…」という言葉(白パターンの名前、マントラ)は、それを丁寧に言っていくことで、そこには丁寧なスペース(空間、間)が生まれます。その言葉を言い終わったときに、心身の力が抜け、それにより自分の周りには今までとは違う空間を生み出しているのです。そういう自分が創っているんですよ。自然に。

それは「あたかも、その時間が止まったような」心身であり、空間であり、そこにいる自分です。そして、それはいつの日か「「私」として在る」というところへ続いていきます。このプロセスを通らないと「私」として在るという感覚は感じられないのではないだろうか、と、私は思います。思考してそうあろう、とするのが違うということがこれによりわかるのではないだろうかと思います。

ワークは言葉を使っていますが、頭でやらない、こなさない、言葉に囚われない、ハウツーにしない、苦しいからやるの動機で行わない、などなどに気をつけて、行ってください。

そことは真反対にある「あたかも、その時間が止まったような丁寧さ…」を心身で覚えていきます。それが日々の生活にもよき影響を与えていきます。

意図を持たないように…
2026/03/11

半年くらい前に整体の先生から「意図を持たないようにしてください」と言われました。

日々行うことを勧められたセルフケアをするときに、身体が調子よくなるために、眠れるようになるために、と意図を持ちがちですが、そうしないように‥ということでした。

これはわかっていたつもりでしたが、実はわかっていなかったことが今になりわかりました。わかっていたつもりは頭でわかっていて、セルフケアを行うときに意図を持たず、ただ行なおう、と意図していました。これって、言葉の表面しか理解していないということです。

もちろん、何かを行うときには、そうしようという意図はあるのですが、それが違うものになってしまわないように…と、先生は言いたかったのだと思いました。そのセルフケアもいつの日からか、やらなくなってしまい「意図を持たない」ということも消えていっていました。

で、1か月くらい前に、急に、このことがわかったんです。何かきっかけがあったのか覚えていないのですが。先生のおっしゃった、ここでの意図を持たないで何かを行うときって、そのプロセス自体に澱みがなく、水が澄んでいくようなものだと感じられました。

それと同時に人は結果が欲しくて、何かを行うんだということも思いました。そうであると、その欲しい結果を得るためにという違った意図がそこで働きます。

その時にはいつかそれを得るだろう、と、未来に意識がいっています。未来だから、そこへの視線と計画がある。それが違っている意図です。これを、結果ではなく、行動そのものを選んだとしたら。

それは行動している今に意識があり、今にいるところには違っている意図は必要なくなります。

これはまさに語りかけや白黒ワークをやっている時の心そのものです。そのときには、未来への思いはなく、目指すものはなく、目指すところへの計画や、やり方もなく、ただ、今行うワークがあるだけです。あたかも、その時間が止まったような丁寧さが、ワークを澱みがなく、水が澄むようなものにしていきます。

セルフケアもワークと同じに行えばよかったのだと気づきました。そして、日々の暮らしも同じようにということだった。半年たってやっとわかった。先生に感謝です。

守破離
2026/03/10

「守破離」とは。以下、Wikipediaより。

「日本の茶道や武道などの芸道・芸術における師弟関係のあり方の一つであり、それらの修業における過程を示したもの。修業に際して、まずは師匠から教わった型を徹底的に「守る」ところから修業が始まる。師匠の教えに従って修業・鍛錬を積みその型を身につけた者は、師匠の型はもちろん他流派の型なども含めそれらと自分とを照らし合わせて研究することにより、自分に合ったより良いと思われる型を模索し試すことで既存の型を「破る」ことができるようになる。さらに鍛錬・修業を重ね、かつて教わった師匠の型と自分自身で見出した型の双方に精通しその上に立脚した個人は、自分自身とその技についてよく理解しているため既存の型に囚われることなく、言わば型から「離れ」て自在となることができる。このようにして新たな流派が生まれるのである。」

と説明されています。

そして続いて「落語」での例が書いてありました。以下です。

守:古典落語を忠実に表現することができる。

破:古典落語をより面白くアレンジすることができる、 あるいはよりわかりやすく表現することができる。

離:経験を活かし新作落語を作ることができる。あるいは、落語から進化した新たな芸風を作ることができる。

こちらはわかりやすいですね。で、このようにオリジナルを創っていくということなんです。これは人生そのものをオリジナルなものにしていくということです。誰のものでもない自分の人生を自分が創るということです。カウンセラーとして、というのはその一部でしかありません。

その土台が「守」の部分。だから「言われた通りにやって」と私は言い続けています。スキップしないで、ちゃんと言われた通りにやってください…と。それが自分のものになったときに「破」「離」は自然とやってくる(自分で生み出せることがわかってくるので、「破」「離」になる)

守破離は芸事においてだけではなく、自分自身と自分の人生にも当てはまると私は思います。道場でやっていることは「守破離」の人生版。ここでのやり方はねらって作ってきたわけではないのですが、気付いたらひとつの道になっていました。「創る」ところへ向かうためのものです。

ネガティブな感情が嫌
2026/03/09

3月の茅ヶ崎クラスも無事に終わりました。

今回はゲストがお二人。いつものように、やっていることは同じなので、ゲスト感はどなたが参加されてももうすでになく、いつものメンバーの気がする。遠いところ、ありがとうございました。

で、今回思ったこと。パターンは悪者ではない、ということはきっと皆、もう、わかっています。それでもパターンにひっかかりたくないというのは、パターンにひっかかったときにわきだすネガティブな感情が嫌なのだろうと思いました。

だから、厳密には、パターンにひっかかることが嫌なのではなく、そこから湧き出るネガティブな感情に飲み込まれ、それが何日も続く、それについてぐるぐる考えることが嫌なのだろう…と思いました。

しかし、生きている限り、パターンが嫌だと思うことはこれからも普通にあります(それがあるから成長できるんじゃなくて、そもそもそういうものだから)で、そのたびに不快な感情はわきあがります。

だから、一般的には、この不快な感情がわきあがらないようにしようとする。無視したり、感じないようにしたり、違う考え方を持ってきたり、その原因を探ったり、時には退行催眠、エネルギーワーク、パワースポットへ行くとかとか。しかしこれらは対処療法としか私は思えません。常に対処療法を使い続けてそれでいいという人もいると思うのでそれはそれでありなのかもしれませんが。私はそれを選んではいないです。

本当に望んでいることはなんなんだろう?と自分に問えば、どんな感情(感覚)も受け入れられる自分になることだからです。どんな感情にも慣れる。それはよいと思う感情でも。慣れるというのは包み込めるようになるということで、鈍感になることでも、それを省いたり、変えようとしたりすることでもありません。

感情そのものを自由にしてあげるというもので、それを見守れる「私」であればいいのです。そして何より、そもそも、感情ひとつひとつもただひとつの事象です。それがそのものとして在るだけ。

そんなような感情(特に自分にとって嫌な感情)への新な視点を少しずつ持っていきます。そして、不思議なことにそうなっていくうちに自分の心は穏やかに、すがすがしく、活力や楽しさや明るさで満たされていくようになります。

という事は‥やはりあるものをないものにしようとしないということだと思う。それが天のルールなのだと思います。で、やっぱり、そのルールに乗って生きていれば、自然といいかんじで、いいあんばいで、生きる方へ導かれていきます。道場で学んでいることは、このルールに乗ること。あとは、天にひっぱってっていただこう。こうして天の一員でありたいと願う。

夜ご飯って…
2026/03/05

夜ご飯って…なんでこんなに面倒くさいのだろうか。

我が家は、朝食は別々にそれぞれが用意して食べる。昼食もほぼほぼ別々。ちゃんと(私としては)作るのは夜ご飯だけなのに(それも週5日/6日)それでも、私には、荷が重いのです。

トミーが夜ご飯を食べない日もあったりすると、朝からものすごく解放感を感じます。そんな日は自分の食べる分だけでいいので、すごく楽。

…ということは、トミーがいるからよりちゃんとしたものを作らなくてはと思っているのだろう。(妻だからはない)そこには、一応、バランスよく、があるのだろう。それにより自分も恩恵を受けてはいるのですが、この食事にまつわるところのパターンは今だによくわからなくて宙ぶらりんの状態です。

だから今日から茅ヶ崎クラスのセミナーが2日間あるので、ご飯を作らなくていい、ということで気持ちも晴れやか。こんなにも違うものなのか、と思います。そもそも料理が苦手なので、夜ご飯作りは私には苦行なのです。

経済的に許すなら、1週間分作ってくれる方にお願いしたいところです。

今月は大相撲もあり、WBCもあり(ずっと見続けているわけでもないのに)大忙しです。それこそ夜ご飯のための買い物や作ることに時間を使いたくない。挑戦の1か月となります。

白パターンを選べない
2026/03/03

今朝書くことは、ちょっと混乱してしまうかもしれませんが、ふーーーーん位に読んでいただけたらと思います。

私はこだわりが強いので「だって、嫌なもんは嫌なんだもん」と口にすることがあり、そのときには、その通りに行動します。これは、それに対して、嫌という感情を生み出しているし、それへのストレスも感じているし、すっきり感がない…だからパターンなんです。

それでも「だって嫌なものは嫌なんだもん」というパターンを選んで行動することがあります。その結果(というか、それと同時に)より、気持ちが重くなるという事も受取ります。またやっちゃったよ、それではないことはわかっているのに、というような(パターンとしてはほっとする)

じゃあ、何故そこを選び変えて(白を選んで)そちらを実践しないのか。その白はとても気持ちがよいものなのに。何故?と思うと思います。普通(というのも変だけど)はそうするよね。はい、そうしています。

しかし、そうできないものもある。それはまだ白を選べないということです。だったら仕方ないね、と「私」が黒パターンを選んでいるということです。

えーーーっ?いいのか?そんなことして、と思うかも。でも、選べないのなら、そこでいくしかないわけで。今は重い気持ちを持ちながらそうすることを選ぶ。しかし、そこにい続けたいわけではなく、どこにいきたいかもわかっている。どうすべきかもわかっている。そのために「もう少し苦しむ」(エックハルト・トールさんの言葉)を選んでいるとも言えます。

というように「もう少し苦しむ」ことを承知で黒パターンを選ぶということもあります。しかしそれは全部黒パターンでいっていいということではもちろんなく、多分、多分なんですが、その人の課題となるところのものは最後まで選び変えることに時間がかかるような気がします。それも頭では理解できる。こだわりって、大きな課題というものだろうから。

…といろんなことがありながら(そんなにきれいにスパッとはいかないのが人間か、という深い理解とともに)それでも、きっとここへ「私」はいくだろうという世界を見つめて今日も生きる。それを思うと心は晴れます。そこに無理なくいかれるようになるまで「もう少し苦しむ」が必要なのだろう。なんか、いい、と思います。

睡眠障害から…
2026/03/02

睡眠障害になって、1年がたちました(これも1年計画か?)

去年の今頃は、眠れないという人生初の体験にどうしたものか‥と闘っていました。どうすれば以前のように眠れるのだろうか、どうして眠れないのだろうか、と、いろんな情報を集め、よいというものを色々と試し、以前のように眠ることができるようにしよう、と思っていました(以前は、人一倍、よく眠っていたので特にそう思う)

で、1年。現在は、寝ているような寝ていないような、よくわからない状態です‥が‥普通に日常生活を送れているので、これはこれでいいのかもしれないと思うようになりました。

質の良い睡眠がとれないと、心身が休まらない、リカバリーできない、免疫力が落ちる、病気になる、死亡率が上がる、やる気が出ない、日中ひたすら眠い、仕事のパフォーマンスが落ちる、など言われているので、とにかく眠らなくては、と思っていました。

最も気になっていたのは、個人のカウンセリングとクラスでのセミナーのことで、眠れていないこの状態でできるのだろうか、続けていいのだろうか、と思っていたのですが、自分の(あくまでも自分の‥です)感じでは、1年前よりも寝られていないことで何かが抜け落ちたのか、諦めるしかないと腑に落ちたのか、より、感じられる、とか、ひらめく、とか、ゆだねる、とか、まかせる、とか、流れるまままにしておく、とか、それはそのままでいい、とか、そのあたりに自然とシフトしていたことに気づきました。

以前のように頑張る力はないけれど、心の中にある熱いものは軟らかく練られて自由に動いて以前とは違う活力を感じます。その状態でカウンセリングやクラスを行うと心身は生き生きとしてくるのもわかるので、今の私には、これが真理だと思います。

これから先どうなるのかは全くわかりませんが、もう、自分で闘って思い通りの睡眠をつかむことはやめようと思いました。何かの計画のもとに起きているのかもしれませんし、そうではないかもしれませんが、年々年を重ねていく身体の都合というものもあるでしょう。この1年の学びはそういうものでした。

しかし、私は、1年かからないとわからないことが多い。そういう個性、性格なんだと思いますが、それを大事にしてあげようと思います。

パターンに行きつく前にあったもの
2026/03/01

「今、どう感じている?」「今どんな気持ち?」と自分に問う。それも、唐突に。それを皆さんにお勧めしています。

初めて、この道に入るとき、まず、これをしつこくやったと思います。「今どんな気持ち?」と私が聞く。それに対して返ってくる答えは思考していることがほとんどだったと思います。「それは思考でしょ、気持ちは?」とまた私が聞き、少しずつ「気持ち」を感じられるようになり、それを口にするということができるようになっていったと思います(ここまで書いて、以前、同じことを書いたような気がしますが、再びよろしくお願いします)

そのくらい、大人になってしまうと、今の自分の気持ちがわからなくなっているんです(大人でここがひょいひょい出てきた人には今迄お会いしたことがありません。カウンセラーやセラピストの方達ともお会いしてきましたが、誰もそうではありませんでした)皆、自分の気持ちよりもちゃんと考えろ、感情的になってはいけない、ということを要求されて育ってきたので。特に社会に出ればそこはより大きく強くなります。で、使っていないものは自然と退化していくので、わからなくなります。

で、何故、今、再び、この初めてやったことが必要なのか、なんですが。これから先の「私」はどうありたいか、も、この今の気持ちを察知することの延線上にあるものだからです。「私」はどうありたいか?という問は、それについて考えるというところへ行きやすい問だと思います。

しかし、考えてそれを導き出すのではなく(それは頭の中の今までの体験や記憶から導きだされているので)「私」としてのところを感じたい。それは新しいもの、「私」の大欲、それを感じたい。それはきっとその人=「私」の真理だと思います。真理は思考では見つけられないんです。

それに役立つであろう今回のこれです。最初にやったもの。これは、パターンに行き着く前にあったものです。

で、この最も自分の近くにあるもの、最初にあるものが最も大事なんです。だから「今、何を感じている?」「今、どんな気持ち?」です(これはパターンをみつけようとしなくていいです。パターンを見つけるときは先に感情が自然と出てきているのでそれについてはパターンをみつけます)

又、この感覚を思い出すことで、語りかけも白パターンも最も今の自分の近くにあるものを見つけていけるようになると思います。それは今の自分のレベルに合ったもの、背伸びしないものです。そうしていくことで、今の自分を知ることになるし、その自分に何が必要なのかもわかってくると思います。

普通
2026/02/27

人は精神性を上げていくたびにどんどん「普通」になるんだという事を知った今。

昔は、精神性を上げるって、特別な自分になることだと思っていました。だから、その頃出会った先生たちは特別な人だと思っていました。覚醒とか、悟りとか、愛の人とか、直感や特殊能力で全てがわかる人、そういう人であるように見えていました。

そして、何より楽そうに見えました。嫌なことやストレスがないんだろうなあ、そして、特別な仕事を持っていていいなあ、覚醒すれば、悟れば、愛の人になれば私もそうなれるんだ、と思っていました。ということは、当時は楽ではなかったんだね。そう、本当に苦しかった。とにかく早くそこから抜けたかった(というパターンの衝動と動機で全てを決めていたことが今はわかります)

しかし、いつの頃からか、そうではないということがわかるようになりました。同時に覚醒とか、悟りとか、愛の人とか、直感や特殊能力で全てがわかる人についての意味づけも自分の体験を通して増えていきました。それすらもただ一つの事象であり、特別なことはひとつもないということがわかりました。だから特別な先生もいないんです。

で、そこからだと思います。自分らしく生きられるようになったのは。もう、それは私にはいらないと思えるようになってからだと思います。ただ、自分の信じた生き方をしていけばいいだけなんだと思えるようになった。

そして「私」は利益を欲しがらない、ということにも気づきました。「私」は報酬や結果が欲しいのではないんです。なぜならば「私」はもうすでに、ずっと昔から満たされているからです。ただ、その人自身=「私」として存在したいだけです。それが「普通」なんだと思います。この「普通」を知って…人ってそもそも素晴らしいと思えるようになりました。誰もがそういう普通だから素晴らしい。

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