ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ

素敵なワンダーランド
2025/10/19

今日の日記は、あくまでも私が考えたことなので、ファンタジーだと思ってお読みください。

昨日の蜘蛛の話を量子先生と話しました。先生は、数分で蜘蛛も巣も消えたというところに視点を向けていらっしゃいました。私は、このタイミングでの蜘蛛出現、というところに視点を向けていました。

それについて、瞬間的に思ったことがありました。それは蜘蛛も巣も消えたのではなくて、まず、私が蜘蛛も巣もないところから、蜘蛛と巣のあるところへ動き、再び蜘蛛も巣もないところへ動いたのではないだろうか、というものでした。数分で消えたというのは、蜘蛛も巣もないところへ移ったから。パラレルワールド…そこを行き来していたのかも、と思いました。

蜘蛛を見る前に私がいた所には、蜘蛛も巣もなかった。ところが何かの「揺らぎ」で、〇月〇日の朝〇時〇分に同時にあるパラレルワールドのひとつの「蜘蛛のいるところ」へ行ったのではないだろうか、と思ったんです。そして、また蜘蛛も巣もない所へ動いたから、蜘蛛も巣も数分で消えたと思った。

これは、以前、日記に書いた夕方の散歩(特に夏の夕方)をしていたときに思い浮んだことです。散歩の道はいつも見慣れている場所だし、昨日と同じである、と思っているのですが、何か違和感があったり、どこかスクリーン越しに見ているようなとろっとした感じがある時があります。昨日と同じ道を歩いていると自分では思っているけれど、なんとなく感じるそれらはもしかしたら、一見同じだけど違うところにいるのかもしれません。絶対にそうだとは言えないけれど、絶対そうではないとも言えない。

そして、今回の蜘蛛との遭遇も、それじゃないかと。では、自分が動くきっかけは?考えられるのは、前日皆と蜘蛛の話をしたことなのかも。その場でその話は終わっているし、強烈に残る話でもありません。しかし、きっかけとなったのはそれなのかも。蜘蛛という、自分でもちょっと親しみがあり、でも、ちょっとインパクトのあるもの。それがいる所へ行く。私の意識がそこがこの一瞬には必要だからか。それもいいタイミングでです。蜘蛛はわざわざテレビを見ている目の前にいた。それが私の背後であれば気づかないです。そこのタイミングのよさは何なんだと思います。

ただ、蜘蛛の持つ意味合いとか、蜘蛛からのメッセージというのではないというのはすぐに思いました。何か、システムのようなもの?そして、タイミングよく私を動かすのは何故?

パラレルワールドについては以前バシャールが今の自分がいる地球とは、ちょっとどこかが違う自分のいる地球がたくさんあって、その時の自分の意識であちこちの地球に行っているという事を聞いたことがありました。1日に何度もそれが行われているのだそう。これについては、あり得るかもと思いました。

そして、今まで自分に起こった理解しがたいことも、この、パラレルワールドとして考えると私としては整理されます。霊的な何か、又は、先生から教えていただいた未来の自分、又はそれに付随する何者かからの関与というものもあるとは思います。でも、今の私に、パラレルワールドというのは、新な切り口となってくれる気がしました。パラレルワールドはまだはっきりとした科学的根拠はないのですが。

そんなことを考えながら施術を受けていたら、先生が「伊藤さん、蜘蛛、出てきましたよ。今、テレビの所にいます」とおっしゃいました(先生の施術は自宅で行われています)私はテレビに頭を向けているので実際蜘蛛を見れませんでしたが、このタイミングで…とまた思いました。なんか、わからないけれど、なにか、あるんだろうと思う。人間が知らないことだらけなんだろう。この世界は本当に素敵なワンダーランド。

蜘蛛
2025/10/18

先日、盛岡クラスの後の食事会で、今うちにいる蜘蛛の話をしました。5月頃に初めて見たと思うのですが、そのときよりはちょっと大きくなっていて2センチくらい。黒くてぴょんぴょんはねます。色々な場所で見かけますがここのところ見ていないです。

部屋にいて食べるものはあるのだろうか…と思い、外に出してもまた部屋にいるので今はそのままにしています。なんだか可愛いので、出てくると声をかけています。

ただ、いらした方が床においたバッグの中に入ろうとしたことがあったので注意なんだぁ…と言う話をしました。

で、次の日の朝、ホテルの部屋でTVを見ていたら、画面の前に大きなほこりのようなものが落ちてきたのでよく見てみたら、3センチくらいの蜘蛛が糸をつたって降りてきていました。天井からTV台まで、蜘蛛にしては長い距離だと思いますが、つーーーーっと降りてきました。うちにいる蜘蛛とは種類が違い、前足が高く、細身で、薄いグレーでスタイリッシュな感じです。

TV台に着地してしばらくそこにいて、再び、糸を登り、天井へ戻っていきました。その姿を目で追ってみると、天井のコーナーにはすでに蜘蛛の巣がはられていて、それが揺れて見えます。もうすでに巣を張っていたのか‥。ホテルの部屋で蜘蛛の巣って、嫌いな人にとってはとても嫌かもしれません。

これは、クリーニングに入った人に見つかって取られてしまうか、もしかしたらこの高さなので見つからないか、だろうと思い、再びTVに目をやり数分後、また天井をみたら蜘蛛も巣もありませんでした。蜘蛛って巣ごと撤退するのだろうか?と思いましたが、なんか…。そうではないような…続く。

意思は持たない
2025/10/17

整体の量子先生との話です。「意識はしても意思は持たない」

これは、整体は受けるだけではなくセルフケアが大事というところから、そのやり方を教わったときに、私が「頑張ろう」と言ったことに対しての先生からの返答でした。

「身体のここは意識するけれど、こうなるために頑張ろう、という意思をそこに持たせないで。頑張らないで」と。「意識はする。そして動く。だけどあとは身体に任せる、委ねるでいいんです。そこにそうなるように頑張ろうとすると、力みが出てしまいますし、小手先でやってしまいます」ということでした。

そうかぁーーーーー、ワークもしっかり意識をして行うけれど、そこに楽になるためにという意思はのせてはいないかぁーーーー、と思いました。意思を持つ、持ち続けることは自分の変容には必須なんですが、どんな意思を持つのかというところです。ここは身体も同じということか。

そして、身体には恒常性があるのだけれど、長年にわたって身体につけてしまったクセや記憶されてしまった身体の使い方などが誰でもあるという話にもなりました。それを整体やセルフケアを行うことで、クセのついた身体でいるよりも「こっちのほうが楽だ、こっちのほうがいい」と身体自身が気付くとそちらへいこうと身体はするのだそうです。

これも同じです。黒パターンでの言動、思考は長年にわたってつけてきてしまった心のクセです。しかし、それがこれからの自分に必要なのかと感じてみると、そうではない事にも気づきます(又は自己探求をしていくうちに、これってパターンだったんだと気づく)

そこで新なものを選ぶわけですが、その選んだ時の感覚がよいとき、人の心はそちらへいきたがります。それが本来の自分であり、それが楽であることがわかるからです。心も身体も快に向かいたいんです。

このように、人はそれが快なのかどうか、というところでちゃんと感じられているし、それを具現化しています。なかなかのものです。その具現化しているものが今の自分にふさわしくないのなら変えていくということです。

そして最後に先生がいつもおっしゃるのは「全て、量子ですから。身体を構成している細胞も、全て量子です」。…ということは…自分の意識の在り方があらゆるところに影響を与えていきますよ、ということです。だから、どうありたいのか「私」という意識は。やはりここに戻ってくる。ここからの出発なんだと思う。

流れに乗る感覚
2025/10/16

「川」「帯」の流れに乗って生きる。そこにこそ安心があります。

しかし、私たちが目を向けているところは貯蓄額を増やす、家を持つ、ずっと続けられる仕事を持つ、健康でい続ける、家族がいる、他人から認められている、才能がある、など。それらがあるから安心できると思っています。だからそれを得るために頑張る。しかしそれらは無くなったり、変化する可能性も十分にある。

でも、流れに乗って生きる事での安心には、自らそこを出ようとしないかぎりそこは普遍的な状態で在り続けるものなので、結果、安心とともに生きていくことになります(この流れ(ルール)と共にいることが神と共にいるということだと気づきました)

で、昨日書いたように流れに乗るには黒パターンで生きない、ということなんですが。ここで、誤解しやすいのが、黒パターンで生きない=黒パターンはよくないもの、だから抑え込む、というものです。パターンに引っかからない状態ではなくて、パターンが引っかかれない状態にもっていってしまうというものです(これもパターンがやっています←だから自分を深く見ることが大事です)これは気を付けてください。

勝手に引っかかるパターンが悪いのではありません。それを管理するべき「私」が育っていないことがまずいのです。パターンは今のままずっと一緒にいて引っかかるときには自由に引っかかるものです。それをそのまま赦している「私」なんです。

そして、たとえ、抑え込んだことで引っかからなくなっても、流れには乗れないです。そういう外側の変容のことを言っているのではないからです。心底の変容の事を言っています。

それは、どんな感覚のものなのか。「もしかしたら…〇〇と、もう、決めつけなくてもいいのかもしれない………」この言葉を言っているその瞬間の自分の感覚です。その瞬間に心身に感じているその感覚、それを自分の身につけていき、少しずつ時間をかけながらそれが普通になるようにしていきます(これを一気にすぐにやろうとしない←これもパターンがやりたがる)そこには一瞬感じる安心感があると思います。それでい続けること(そう振舞うのではなく)を自分で練習し、心身につけていきます。

それから昨日書いたように、今、どんな感情が湧いているのか、に、敏感になってそれを必ずすくい上げること。それも、続けることで今、この一瞬にあるということがどんな感じなのか、感覚としてわかってくると思います。今に在ることの心の在り方も流れに乗るのには必要だからです。又、このようにしてあらゆる感情に対しての軽さや無差別を心身で覚えていきます。

思考ではできないこれら。心身で感じ、自分のものにしていく。というようにいろんなことを行いながら、流れに乗る自分を創っていきます。修行にしないで。

川、帯に乗る
2025/10/15

10月の盛岡クラスも無事に終了いたしました。今回は茅ヶ崎クラスからもお一人ご参加いただき、皆で善い時間を創ることができたと思います。

で、帰りの新幹線の中で、人が肉体を持ってこの世界で生きるときに、いい塩梅で生きることができるようにと、宗教も哲学も作られていると思いました。

それらは、この宇宙にある「川」「帯」へ私たちを誘っているからです(川とか帯とか言っていますが、この宇宙の中で生きる全ての命をよりよく生かすためのエネルギーシステムと言えばいいのか)それに乗る、そこに入る、そこと調和するなど、言葉は色々ですが、それによって人はいい塩梅で生きることができる…というものです。

仏陀やイエスの言葉。古代ローマの哲学者たち、宗教家。マスターたち。芸術家たち、それぞれの言葉。それは言葉は違えど、またはアプローチの仕方は違えど、この宇宙のルールである(川、帯)に乗ることを勧め、そこが本来私たちが生きる場所なんだよ、と思い出させ、そうなるために必要なことを語っています。

「そのためにはこのように生きよ」とそれぞれの立場で、人の元々の生き方を伝えようとしてくれています。「宇宙には、そうやって、人を生かそうとするシステムがそもそもあるんだよ。だからその流れに乗ればいいんだよ。後はこちらに任せて」と言うことなんだろうと思いました(聖書にある父に養っていただくというのは、この、後はこちらに任せてということ)。

そのためには…黒パターンで生きないということです。その川、帯と同じような波動で生きるということです。黒パターンの持つ波動はその川、帯とは反対にあるものです。ですから、黒パターンで生きれば生きるほどその川、帯からは自ら離れていくことになります。そして離れてしまうほどに人は苦しくなるのです。

きっと誰もがその流れに乗っていきたい、と思うと思いますが、そういう思い(思考)だけではそこには乗れず。自分という意識の変容が必要になります。変容のためには自分の内側を見ていかなくてはいけないのです。それを継続していくことが必要になります。そのためには、修行のようにしないことです。又は、早くそこに乗りたいから自分を見ようとしないことです。自分を見るということは、今の苦しさから逃れるためではなく、未来のためでもなく、ひたすら今、だけです。今、自分は何を感じているのか、どんな感情が湧いているのか、そこを見ていきます。それだけ。ものすごくシンプル。

外側が変わっても…
2025/10/09

今朝は台風の影響か、涼しく感じますが。きのうまでの茅ヶ崎は暑かった。

日中の部屋の温度が29度。外に出れば、風が吹いてはいるけれど、陽射しは強いです。街を歩く人々も半袖が多いし、若い人はタンクトップに短パン姿の人もいます。

本当に、季節がのびのびになっているというのか、あいまいになっているというのか、四季のある日本だったけど、これからはニ季だね、となりかねないような、昨今。こんなふうに自分の外側はいろんな物事が変わっていきます。

物事の変化により影響を受けることがこれから増えていくのだと思います。そんな中にありながら、自分が決して手放すことのない、自分にとっての大切なもの、それを忘れずに、その在り方を大事にしていこう。それがあれば、揺さぶられても、そこに戻ることができます。揺れても、ブレても、人間戻るところを持っているのは強いです。

そして、人間、最後に残るのは「魂」これのみ。そしてそれが本当の自分。これはあちらの世界へ行ってからも生き続けます(と私は信じています)その「魂」には今世どんな体験をして、どんなことをそこから学んだかが記録され、また次へとつなげていきます。

その魂の核となる部分にあるのは「私」はどう在りたいか、です。その思いを体現するために肉体を持って生きるということをここでやっている。「魂」である「私」が目指している最終的などうありたいか、は、「神との合一」。神の子である「私」は神とひとつになりたいんです。そんな壮大な意志を持ち、そのために何度も転生しているそれぞれの「私」です(だから皆チャレンジャー)

そのことも思い出しながら「私」はどうありたいのか。肉体を持っているのでそこを具体的に考えて行動していきます。行動せずに精神論だけではここは突破できないです。それが肉体があるがゆえのわずらわしさであり、ありがたさであり、おもしろさです。

さて、今日から盛岡へGO!台風も大丈夫そうでよかったです。皆で集まり、善いクラスになりますように…。

ピアノが来て丸3年
2025/10/08

ピアノが来て丸3年がたちました。当時、弾いてみたい曲があって、やや、衝動的に購入した電子ピアノでした。もしかしたら、その曲が弾けるようになればそれで満足してしまって、弾かなくなってしまうかも…もありましたが、今も、それなりに続いています。

と言っても、気付いたら1週間ピアノに触らなかったということもあります。それでもぼちぼちとやれるのがありがたいです。

そして、3年やってくると以前より成長をしているのがわかります。指の機能は落ちていますが、若い頃よりも、音楽への気持ちが育っています。

10代の頃はとにかく先生が怖くて、間違えないようにとがむしゃらに弾いていたピアノでしたが、今は、少し頭を使い自分としては効率よく弾くことも覚え、これはまさに大人のピアノです。ピアノって大人になってからでも十分できるし、大人になってからのほうがやりやすい面もあると思いました。

私は、それぞれの曲の中にここが特に弾きたいところ、というのがあり、それは私の感性が求めている部分です。だからその部分を弾くと心身がキュッとなります。言葉にするとそれは「美しさ」とか「エネルギーが凝縮されている部分」なんですが、なんかその言葉では言い表せないのです。

で「これがあれば私は生きていかれる」という言葉が最もそのキュッとなる感覚を言い表しているのかも。

又、ピアノでのその体験のおかげだと思いますが、本を読むときも、絵を見るときも、色を見るときも、踊りや、建物や、風景や、日々の生活の中で見聞きするもの、はたまた、クラスやカウンセリングの場においても、それは知らぬ間に使われていて、そこにあるものが、瞬時に自分に入ってくることも知りました。こうして感性が全体に上がってくることは予想外のことでした。

そして、気付いたことはその人の作品に触れるのは、それを作った人に触れているということです。会ったこともないその人。でも、その人が生み出したもの。それをとおしてその人とその瞬間、触れていると思うと感動です。この本の著者、この作品の作者、と接している、触れている、ということで、それが昔の人であればあるほど感動です。そういう事も教えてくれたピアノです。

で、今はベートーベン。「はあーー、なに、この、和音」と心身がキュッとなりながら練習するその時間は私の至福のときとなっています。

虫との戦い
2025/10/07

今年、我が家は「ダニ」の大量発生で大変でした。どういうわけか「虫」にすぐ刺される私なので、ダニの餌食にもなりやすいんだと思います。

私は1か月ちょっとの間に30か所くらい刺されて、本気で、ダ二対策をしました。毎日、パジャマ、シーツ、枕カバー、ベッドパッドをできるだけ洗う。換気をよくして、湿度の調整を行う。ダニパットを入れる。布団クリーナーで掃除をする。

かいあって少しずつ刺されなくなっていきました。ダニに刺されるととにかく痒みが長く続くのでこれもストレスになります。

で、トミーは…やはり刺されていましたが私ほどではなく、よかったと話していたところ。ある日の夜、なんか首から後頭部が痒いと言い出して、見てみると、ぶつぶつと出ています。それは背中や腕のほうまで広がっていて見るからに痒そう。何より不気味。これは病院に行ったほうがいいよということで次の日に行きました。

病院から帰ってきて「毛虫だって‥‥」と言う。どうも「茶毒蛾」という毛虫らしい。で、思いつくのは毎日行っている公園です。「茶毒蛾の被害が出ています」と公園内に看板があったということでした。(約0.1mmほどの毒針毛をもち、接触や飛散で皮膚や粘膜に付着すると、炎症をおこして痒くなる。Wikipedia)これからは、春から夏にかけて(もしかしたら秋も)猛暑が続くと思うので、樹々が生い茂っているところにはむやみに近づかないほうがいいのかもしれません。すごい状態になるので皆さまもどうぞ気を付けて。

虫との戦いの今年の夏。この戦いは身体を守るために仕方ないものの、疲れました。

ただ、今、ここに、あるだけ
2025/10/06

ついこの間、気付いたことがあり。

それは、私はこの頃、持ち続けるということがなくなった、ということです。若い頃は、自分が失敗したことや、人に迷惑をかけてしまったことや、嫌なことを長い間持ち続けていたと思います。10代、20代、30代、40代は特にそれが強かった気がします。そのころは頭痛持ちで、特にそういうことがあると必ず頭が痛くなっていました(痛み止めの薬をよく飲んでいました)

これは、うまくいったこととか、褒められたこととか、認められたことについても同じで、当時はそれが自分の自信になると思っていたし、その時のことはずっと自分を支え、他人を納得させるために持ち続けていた気がします。これをやってきた、あれは私がやった、感謝された、自力で頑張った、自分でやってきた…と…私、自負しております…というようなものです。

ところが、この頃は、そういうものがないという事に気が付いたのです。今でももちろん、あれはまずかった、と思い、反省し、謝ることはあるし、自分が行動したことでよかったと思うこと、感謝されることもあります。しかし、どちらも、その時にそれを感じて終わる、というものに変わっていることに気が付きました。一体いつからかはわかりません。一気にそうなったのではなく少しずつ気づかないうちにそうなっていたのだろうと思います。

そこで終わるというのはその日で終わっていて、それをこれからの自分を律していくために、支えていくために、使わなくても大丈夫という感じです。もちろん、かなりハードなことであれば数日、それが心を支配しますが、若い頃とはあきらかに違うことがわかります。

自分が日々体験する、ネガティブな体験もポジティブな体験も、抵抗したり、過剰に握りしめたりしなければ、もともとは自然と流れていくもので、両方とも持ち続けなくてもいいものなのだと思いました。一般的には、良き体験は、それを自信として、そういう成功体験を増やしていこう、と考えがちですが、これもまた持ち続けることで執着になります。そして、こっちのほうが厄介。良き体験こそしがみつきます。

毎日同じ日ではないように、人も毎日同じではなく、朝が来たときに新しい自分として1日を過ごしていくのが自然なのだと思います。そして、そのためには身軽なほうがいいです。だから過去のあらゆる良き体験も、良くない体験も、そこに置いていけばいいんだと思いました。

「ただ、今、ここに、あるだけ」という昔使っていたフレーズを久しぶりに思い出しました。今だけだと軽い。

自分は正直にパターンを見ているか
2025/10/04

道場でやっていることはとにかくシンプルなこと。

感情・感覚を感じたら、それを生み出しているパターンをみつける。みつけたら「私」が語りかけをする。これが基本です。その後に白黒ワークや意味づけワークがありますが、基本は先ほどのものです。

この基本はすごくシンプルなものなんです。ただ、どうしてもそこにパターンの思考が入り込んで複雑に難しくしていってしまいます。そうなると、重くなるし、なんだかうつうつとしてきます。

で、この本来のシンプルなワークをやれない原因に、正直に自分を見ていないということがあります。正直さとはあるものをありのままにただ観て知るという、まさに「如実知見」の状態です。この状態で自分を見られるようになってほしいです。それにより、シンプルなワークに(だけではなくシンプルな生き方にも)つながります。

感情は、以前からみたら、かなり感じられるようになっていると思います。そのパターンは?というときに、オブラートにかかったような(もっとストレートなものがあるのに)パターンをみつけようとしていないだろうかということです。だとすると(「私」はありのままでOKなので)そこにも何かのパターンが働いているのだと思う。こんな自分ではないはず、とか、自分はそこまで落ちてないとか、そのパターンを認めたくない、とか。そういう類のパターンが動けば、オブラートにかけたようなパターンを出してきます。そこに語りかけをしていても実はしょうがなく。違う所に語っているので。本当のパターンはより、もやもやしていきます。

語りかけはカラっと、というのはこういう事を含んでいます。いいじゃないですか、どんなパターンだって。それより、何故それを大事にしないのか。愛の人になりたいと思っているのでは?自分の内に天国をつくりたいと思っているのでは?そうして天の流れに乗りたいと思っているのでは?だったら、自分の内に差別を作ってはいけません。全てあるがままに。そのひとつひとつが生きているのだから…というカラっとした気持ち。ここはとってもとっても大事なところです。

如実知見は他人に対してではないです。これも、まずは自分にです。こうして、カラっとした、太陽の光いっぱいの、オーソレ・ミオの心を作っていってください。「私」は太陽ですから。

自分は正直にパターンを見ているか?ここをいつも問うといいと思います。オブラートで見るクセがついてしまうと、分からない、気付けないという事も起きますが、これも練習です。それにより正直に見るという感覚は戻ってきます(そもそもは誰でも持っているものなので)ここも焦らずに自分を見てあげてください。

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ

- Topics Board -