ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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私には到底無理
2024/05/05

今やいろんな情報を簡単に手にすることができて、それはカウンセリング(悩みの解決)の世界も同じです。

悩みや問題、苦しみは人にはつきものですが、それを解決するためにいろんな人のいろんな手法を見聞きすることが今は誰でもできます。私も、興味のあるものを時々見聞きしたりしますが、そこで気づいたことがありました。

それは、私はそこで紹介されているような手法、考え方で変われる魂のレベルじゃなかったんだということです。

例えば「過去に自分をいじめた人を何十年たっても今だに許せなくて、その人に悪いことが起きればいいと思ってしまいます。それがとてもつらいです」というような悩みに対して「もう、過去のことです。そんなことにあなたの貴重な時間を使うのはもったいないです」「相手にはあなたをいじめた結果がかえってくるのでそのままでいい」「そんな人もいる、と気持ちを切替えて。あなたがこれから生きるのにもうそのような人とは関わらないということを学んだのです」「憎しみは憎しみしか生まない、何の解決にもならない」などなど。そのような起きていることの視点を変えることを勧めるようなものが多いです。

それが理解できて、そのように自分を変えることが出来る人も確かにいるのだと思う。そこまでの魂レベルの人たちなんだろう。ちょっと何か一言でそこへ上がれる人たち。

しかし、私には到底無理でした(今はそれも使えるようになりましたが)もし、私がこの悩みを持つ人であれば、頭ではわかっている、でも、この許せない感情、そしてそれに飲み込まれてしまう苦しさ、これをその言葉で鎮火させられることはできない。というのが正直なところです。それは、そのレベルではなかったんだと思いました。

で、そんなふうに感じている自分を誤魔化して、いられるほどの体力も気力もない。そして、これは自分の性格ですが、解決するなら根底から、とか、やるなら真理に近づきたい、とか、自分を成長させたい、とかがあってのここでの手法だったのだろうと思いました。

自分自身があまりにうまくいかずにずっときての、自分の性格を含めて作った苦肉の策「魂の道場」。しかし、今、これをやってきて本当によかったと思えます。やはり自分の在り方に正直であることが大切なんだと思いました。

日々忙しい
2024/05/03

また、TV番組の話で恐縮ですが「正解の無いクイズ」という番組があります。(月〜水 17時30分〜17時45分 テレ東)

MCは、呂布カルマさん、山添寛(相席スタート)さん、加納(Aマッソ)さんの3人です。クイズ番組なんだけど、正解が無い。このMC3人の他に天才、奇才、変人の方達の正解もあり、その日のベスト1(カルマルアンサー)を3人で決めるというものです。

これが私、すごくおもしろくて。

クイズは「この世で一番無意味なこととはなんですか?」と、とても哲学的な問題もあれば「あなたは小学生です。授業中に思いっきりおならが出てしまった場合の一番良い誤魔化し方を教えてください」というようなタイプのものもあり、問題に枠なし、これがいい。私も一緒に考えています。おもしろいです。一応はっておきます。

https://www.tv-tokyo.co.jp/seikainonaiquiz/

こうしてみると、本当に正解ってなくて、その人その人の正解があるだけ。正解は下ネタあり、ありえないだろう、と、思わず吹き出すもあり、かと思うと、そうきたか、という意表をつくものもあり、とても知的で、ユーモアにとんだものもあり、で、どれもいいです。

このさっぱりといい感じって、きっとその正解をその人自身が「いい、オレ最高、これはいける」と思っているからだと思います。こんなこと言ってダメな奴と思われないだろうか…というものが一切ない。それがにじみ出ています。そういうところが好きだ。

このように「ちゅらさん」「正解の無いクイズ」と日々忙しいの。おまけに今月は大相撲もあり、ますます私は忙しいのです。

勉強になりました
2024/05/02

先日、PCのメールが使えなくなり、焦りました。

また例によって私が余計なことをしたため…でした。知識がないくせに色々触ってしまうのは良くないとわかっていながら「ん?これは何だ?」と思ってクリックしてしまう。で、Outlook開かずになり。

毎日そんなにメールが来るわけではないのが救いですが、早く修復させようと色々と試し(サポートをしてくれるところなどに電話をして)それでもだめで、結局は近くにある電気店へ持ち込みました。

そこで担当してくれた男性の方が「あーーーあ、これですね、はいはい」と20分ほどで修復完了。その丁寧な対応と、原因のわかりやすい説明(会話で私にどれぐらいのPC知識があるかはすぐわかると思うので)的確で手早い作業、何度も行うテスト、そして、おまけにこの業界のカラクリなども(差し障りない程度だとは思うけれど)話してもらい、勉強になりました。

PCって毎日使っているのに、私は基礎知識も乏しく「わからない」「興味がない」と勉強しようという気にもならずに来たのですが、それはいかんなと思いました。

今回の原因になったところについて「それって何?」と疑問が湧いたので、自分なりに調べてみました。で、思い出した、勉強するって、学ぶって、私にとってはこういうことだったなあと。「それって何?」と疑問が湧いてそれについて調べるとそこからまた「じゃあ、これって何?」と疑問が湧く。それが次から次へと繰り返されて、全体が見えてくるみたいな。勉強する(学ぶ)って相手から与えられるものではなく、自分が疑問に思うところから始まる、そんなふうに、学んできたことを今回のことで思い出しました。

特に5月は新しいことをする月です。2年前の5月はクラシック音楽とピアノとの再会。去年の5月はダンテの神曲を読み始めた。それらは自分の感性を変えてくれました。

そして今年はまた新なことを知る。Outlook開かず…から始まったことでしたがなんだか気持ちが前向きです(いや、いや、反省もしろよ)

大前提
2024/05/01

「自分を大事にしてくれる、お母さんの様な人が欲しい」とパターンは子供なので言います。

いつも自分に目を向けてくれて、大事にしてくれて、守ってくれて、支えてくれて。そんな人を欲します。小さかった時はもちろんそうです。ひとりでは生きられないですから。しかし、大人になってからも、そういう人を求めてしまう。

お母さんの変わりになってくれる上司、同僚、部下、恋人、夫、子供、友人…そういう人たちを自分のまわりに固めていく。このことに気づかないと、それはいくつになっても行われていてそこに心のやすらぎはありません。

このことについて千葉哲也さんが書かれていたこと。以下です。

「母の欠如を埋めようとするのが人生です。絶対的な安心・安全はありえないのであり、不安と共に生きていくしかない。だがそう悟っても穴を埋めようとする。それが人生です。ラカン理論では、この手にいれなければという特別な対象や社会的地位などのことをラカン用語で「対象a」と言います。「対象a」とはある種のみせかけであってそれを手に入れたら幻滅を同時に味わうことになり、また次の本当に欲しいものを探すことになる。そうやって人生は続いていく。結局、何らかの対象aに憧れては裏切られるということを繰り返すことによって人生は動いていくのです。このロジック自体をメタに捉えることによって欲望を「滅却する」方向に向かうのが仏教的な悟りなのでしょう。」(現代思想入門 千葉雅也著 より抜粋)

この欲望を滅却する方向に向かうのが仏教的な悟り、というところ、とあります。仏教にはそもそも思い通りにいかないのが人生という大前提があります。で、思い通りはパターンの思い通りのことです。

お母さんの様な人、お母さんの様に振舞ってくれる人、そういう人を求めたり、他人にそれを望んだりする、ということが、ここでの大前提から離れているものなので、苦しみになるということなんだと思います。

大前提、そもそも、という視点。それを知り、腑に落としていくことも自分を助けてくれます。

ちゅらさん
2024/04/30

今、私は2001年の朝の連続ドラマ「ちゅらさん」(再放送)を毎日(見られるときは)見ています。

沖縄の朝ドラはもしかしたらこれが初めてだったのか?

当時、45歳の私はまだ沖縄には1度も行ったことがなく、その後、行くことになる事も全く思っていませんでした。きっとそのころも「ちゅらさん」は見ていたと思うのですが、それほど印象に残ったものではなかった。

しかし、2005年からご縁をいただき17年も通った沖縄は、今では、自分の第2の故郷のような感じがします。

そして「ちゅらさん」。そこで見る風景や、街や、人々や、食べ物や、独特の言葉や、陽の強さや、時には匂いも、今は肌身で感じながら見ています。もちろんドラマなので誇張されている部分はあると思いますが、それでも全体に流れる沖縄の感じ(特に沖縄には住んでいない人々が感じるものだと思います)を受け取るときのそれは肌身で感じている分、臨場感があって嬉しいのです(主人公が東京に出てくる、というところまで話は進んだので、これからは東京メインになると思いますが)

そのドラマの中に溶け込んでいくような気がします。そこに自分がいるような感じです。そんなことも楽しみながら、見ています。こういう楽しみもいい。

江ノ電に乗る
2024/04/27

昨日は、トミーと鎌倉へ行きました。お昼ご飯を「こまめ」で食べてから「安国論寺」を目指しました。

このお寺は、以前トミーがちょっとわけありで行ったお寺で、境内を抜けて見晴しの良い場所に行くまでに階段を上がり、両側が崖のような道を通る、と聞いていました。

「大丈夫?上れる?」と聞かれ「大丈夫」と言って上りはじめたのですが、途中でやめておけばよかったと思うくらい、一段一段が高い階段なので足はつっかかるわ、足の力だけでは上がれないわ、で、きつかった。

やっと階段が終わり、ほっとしたら、今度は両側が気をぬくと滑り落ちそうな状態になっている道になり、ちょっと怖い。しかし、一気に視界が開ける場所に到達すると、そこからは富士山が見え、海が見え、その風景にやっぱり上ってきてよかったと思いました(ここまでで息も当然上がっている)

下りは来た道を降りるのかと少々憂鬱になりましたが、違う道から降りることができてほっとしました。桜の時季はたいそう華やかなお寺だそうで、また、それを見に来年、来てみたいです(でも、もう、上がらない)

その後は、すぐそばにある「長勝寺」へ。こちらは日蓮上人ゆかりの歴史を持つお寺でした。御本堂の前に大きな日蓮上人の立像があり、それを守るように四天王の四人の立像が並んでいました。持国天、増長天、広目天、毘沙門天。怖い顔をして、後ろにはめらめらと火が立ちあがり、それぞれに武器を持ち、それぞれが邪鬼を踏んでいます(邪鬼は痛そう)

日蓮上人を守るためにどこからでも来い、という感じがいい。かっこいい。心ひかれる。こうして「真理」を守っているのです。その姿を見ると、私も「私」の四天王でありたい。

で、帰りは久しぶりに「江ノ電」に乗って帰ってきました。この電車は、各駅の素朴さもあり、走るコースのおもしろさもあり、リラックスできます。「江ノ電」一体何年ぶりだったか。

33歳で茅ヶ崎に帰ってきてから、月に2回ほど、父と2人で鎌倉散策をしていました。当時はまだ30代、おまけにバレエで鍛えた強く太い足があったので、ずいぶんとあちこちのお寺をまわっていました。今は、もう当時と同じ様にはいきませんが、また、出かけて行きたい鎌倉。そして、初めてのお寺や神社を巡ってみたいです。

使命
2024/04/26

昨日の朝ドラ(虎に翼)の中に「本当の自分」という言葉が出てきました。2人の人の間で交わされたセリフでした。

一人の男性が言うのです「こんな人間になるはずじゃなかったのに。(そこには女性をゾンザイに扱い、妬ましく思い、恐ろしくも思っている自分がいる)そのどの自分も嫌いで、それは、本当の自分じゃなくて…」

それに対してもう一人の女性が応えます「どれもあなたよ。本心じゃなくて演じていてもあなたなの。でも、本当の自分があるのなら大切にね。そこに近づくように頑張ってみなさい。年をとると本当の自分みたいなものをどんどん忘れちゃうんだから」と返していました。

うーーーむ、と受け取っている私の横でトミーがぼそっと言う…「魂の道場だ」…。

本当の自分として皆誰もが生きたいと思っている。そもそも本当の自分として生きることがやりたくて来ているわけだから。しかし、生まれてすぐにそのことは忘れてしまい、パターンで生きることを教えられ、自分でもそれを知らず知らずのうちに選び、その結果を背負って皆が生きています。それが普通になり、それが当たり前になり、そうじゃないと、この世界は生きられないと信じているからそこから動かず、子供にもそれを教えていく。

でも、でも、どうなの?本当にそれで幸せなの?もし、本当の自分が自分の内に存在しているとしたら、それは今のままでいることに納得しているの?どう在りたい、どうしたいと言っているの?

このセリフにあるように「年を取ると本当の自分みたいなものをどんどん忘れちゃうんだから」と言うのは本当です。年をとるごとに心身は固くかたまっていくからです。だから気づいた人は、気付いた時から、そして、それを欲しているのなら(←ここが最も大事。強制されてやるものじゃないし)本当の自分になっていくことへ時間とエネルギーを使っていかなくてはいけないと私は思います。

このことが人間の使命。命=魂を使うということ。使命はカウンセラーになる、とか、他人の役にたつ、ということではないんです。何故、生まれてきたのかというところを忘れないでいたいです。

辛く、苦しいだけ
2024/04/25

今自分が取り組んでいること、やっていることが、仕事が、生活が、ただただ辛さと苦しさだけであったら、それは選んでいるものが(又はそこへの動機が)違うのかも、と以前お世話になった先生がおっしゃっていました。

又、辛い、苦しいという感情がありながらも、又は他人から見て辛そう、苦しそうに見えても、それを上回るようにそれでもやりたい、というときは(辛い、苦しいだけしかない、でも、頑張って成し遂げるんだ!ではなく)何か喜びがあることを感じているからだ…とも。

これは自分を知るひとつの視点でありますが、的を得ていると思います。

ただただ辛さと苦しさだけしかないことを続けるって、本当にしんどいですし、そこに時間をかけ続けるということで、ますますそこは大きくなるし。

それでも続けるのにはパターンの言い分があるのですが、辛い、苦しいだけしかない状態は「今、あなたの選んでいることはあなたにとっての真理ではないですよ」というサインです。そのときには、そういう魂の声に従って、そこからは離れる、手放す、そこでの動機の軌道修正をするといいと思います。

又、辛さも苦しみもあるし、思い通りになかなかいかなかったり、嫌になるときもありながらも、なぜだかそこに自発的に向かうこと自体に喜びがあるのであれば「今、あなたの選んでいることはあなたにとっての真理ですよ」ということになります。

こうしてみると、喜びって、ストレスがいっさいない状態のことを言うのではなくて、うまくいかないことに向かっている自分、あきらめないでいる自分、それでもやりたいという自分に対しての喜びなんだと思います(何度も言いますが、辛くて苦しいだけなのに頑張っている自分への執着ではなく)自分がそう在れること、昔は絶対そんなふうには在れなかったのに、今はそう在れる、という自分自身の成長が嬉しい。そういうものだと思います。それを感じているのであればやっていかれるのだと思います。

そこがよくわからない、という方もいると思いますが、それは他人に聞いてもわからないことなので、ひたすら自分の内へ向かって正直に、自分を感じてみていくしかありません。ここが何をやるにしても、全ての基本であると思います。

活力
2024/04/24

先日、私は、久しぶりに宝塚を見てきました。

と言っても東京宝塚劇所ではなく他の劇場でした。東京宝塚劇場での公演チケットは相変わらずいつも取れず、だめもとで今回の公演のリクエストを出しておいたものが当選。

今回観たのは「雪組トップスター彩風咲奈のドラマチック・リサイタル」というもので、総勢20人ほどのリサイタルタイプの公演でした。

彩風さんは今年の10月に退団されるので、1度は彩風さんの舞台を観たいと思っていました。で、やっぱり観てよかったです。ライブ配信で観たことがある方でしたが、やはりリアルな舞台はいいです。

のびのびと歌い、踊る、太陽のような彩風さんの姿を見ていて、舞台で自分を目いっぱい表現することが大好きなんだろうなあと思いました。余裕さえ感じるかっこいい男役でありながら、最後の御挨拶では普通の女性であり、そのギャップに可愛さを感じ、普通に存在している方なんだろうなあとも思いました。

トップである彩風さんの周りで共に舞台に立っていたのは下級生の方達で、この人数であるからこそ、きっとひとりひとりが力いっぱいに歌い、踊る場を与えられたと思います。それもよかったと思います。

この舞台はやはり宝塚特有のものであり、あのパワーにひきつけられ心身が元気になります(好き嫌いはあるので全ての人がということではもちろんないです)やはり活力って自他にとって大事なものなんだとあらためて思いました。

活力は生きる力でとても根源的なものです。生きる力が自分のおなかから湧き出ているから、心身は健康でいられるのだとも思います。活力を感じながらこれからもいきたいものです。

ちょっとびっくりしたのは、男性の観客が増えたことです。昔よく見にいっていたころは男性はほとんどいなかった。しかし、カップルで、お一人(だろうたぶん)で、若者から高齢な方までいらしていてそれは意外でした。また、大きな舞台で見てみたい。

好きか、嫌いか
2024/04/23

「最後はなぜかうまくいくイタリア人」(宮嶋 勲 著)・・・なんという笑えるタイトル。実際笑った。で、読んでみた。

その中からの抜粋です。『イタリア人は直観を非常に重視する国民だ。おそらく最も直観的なのは「好きか、嫌いか」である。イタリアではこの基準で物事を判断する人が多い。それは又「美しいか、美しくないか」とも深く結びついている。もちろん日本でもレストランでメニューを選ぶときやバカンスの旅行先を選ぶときなど、遊びや娯楽の場では「好きか、嫌いか」という判断基準が受け入れられている。しかしビジネスや公の場での判断をたずねられたときに「好きか、嫌いか」で判断するのは、はばかられる。「その選択の理由は何ですか?」とたずねられ「好きだからです」とか「嫌いだからです」と答えるとふざけているのかと思われるだろう。ところがイタリアではそうはならない。子供のときから「好きか、嫌いか」で人生を生きてきたイタリア人は直観をかなりみがいている。「好き嫌いを言うことはわがままなのでいけないことです。」と言われて育った日本人は、この直観をみがくチャンスを多く失ってきた。』

どーーーでしょうか。いつも言うようにこれが正しいではないです。でも、どこか「いいなあ」という気持ちが湧いてきたり、ほっとしたりしませんか?ということは?

自分もこんな風でありたい、これがあるともっと楽かも、このあたりが苦手だからこそバランスをとるために必要かも、ということだと思います。このように、すぐにぱっと湧いてくるものこそが魂の声でありそれが直観です。

直観って未来がわかるとか、良いほうへ導いてくれるものではないです。湧いてくるもの。

しかしそこに気づかない(本当は気づいていると思うけど)スルーしてしまうのは、受け取る、選択する意思がない(とパターンは言う)からだと思います。

で、今や健全なスピの世界でも量子の世界でもその直観に従えということが普通になっています。自分は意識なので、それは正しいことだと思います。まず、意識が決めて現実が動くからです。

そうやってみたい、と思うかも。だとしたらあとは行動のみ(公の場で、好き、嫌いを言いましょうということではないですよ。そう言うことは、特に、公の場ではタブーとしている人達で今の日本はできているので)

そこで必要になるのは勇気です。勇気があれば行動できます。行動したことで心がおれたり、人から誤解されたり、はじかれることも出てきます。そういうことも自分への理解という勇気があれば、そして自分への愛があれば超えられると思います。

最後はうまくいくイタリア人。最後はうまくいく自分になろう。

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