ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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大難を小難へ
2024/04/04

昨日の朝の「沖縄津波警報」目を疑いました。なんで?なんで?としばし意味がわからず。

どの地域にどのくらいの津波が来るのか、TVの画面を見ていました。津波予想3mという文字が目に入り、どきどきしてしまいました。観光客も多いと思うので、ごった返したのではないでしょうか。

しばらくして「解除」されて、ほっとしました、が、台湾の方々へ思いを馳せます。

本当に、今や、どこで何が起きてもおかしくないです。神経質に怖がることはしないほうがいいですが、危機感を持っておくことはやはり必要。全てが必然で起きていることであれば、それはそれで受け入れていかなければなりません。

で、今朝、いつも通りに「観音様」に手を合わせていたときに「この時代に生まれたことの意味を知る」と言われているような気になりました。気…なのでこれが絶対ではないです。

この時代を選んで自分は生まれてきて、これから来るであろう今まで自分が体験したことのないようなきつい体験に遭遇したときに、少しでも大難を小難にしていく自分として在ること、それがこの時代に生まれたことの意味なんじゃないだろうかと思ったのです。

大難を小難にしていく、というほどの大きな力を私は持っていないですが、小さな力も集結していけば、そうできるような気がします。この時代に生まれてきている人たちはそんな意味も持っているんじゃないだろうか。善い集合意識の持つ力の大きさや影響力を知り、そこへ自分も参加していくことじゃないだろうか。

そのためには、自分を整えていくこと、と、祈ることだと思います。人は幸せになるために生まれてきている、という事は本当にそうだと私は思います。しかし、幸せって、ただ嫌なことがなくて、全部自分の思い通りにいって、ストレスも疲れも全くない状態を言っているのではありません(その意味づけの領域はあります)

何かほんの小さなことであっても自分が誰かのために、何かのために存在していることが人にとっては大きな幸せ、喜びなんだと思います。そんなことを考えた今朝でした。

考えながらコーヒーをすする
2024/04/03

昨日、お昼ご飯を食べたお店にて。となりには20代の若い女性とお母さんのお二人が座っていました。テーブル間がせまいため、話が聞こえてきます。

娘さんはずっと話をしている。職場での人間関係のこと、趣味でやっているバンドでの人間関係のことのよう。今はひきこもっているらしい。お母さんは話を聞きながらもカウンセリングを受けることを勧めていました。娘さんもそうしようかなと思っているということでしたが、その後も休むことなく続く話を聞きながら、<何が言いたいのかなあ?>と考えながら聞いてしまいました。

結局、言いたいことは、自分の思い通りに皆が振舞ってくれない、それによって自分は病気になっている。その自分に対して「『考えすぎなんじゃないの?』と言う人がいるけれど、考えすぎてしまうところが病気なのに、そういうことがわからないから頭にくる」ということでした。自分を自分の望むとおりにわかってもらいたいんだね。

途中で誰かからその娘さんに電話がかかってきて、その会話も聞こえてきます。「私のことをあきれるような顔をしてみたでしょ?そうだったでしょ?ばかにしてたんでしょ?(多分、相手はそうじゃないといったのだと思う)絶対そうだった。私にはそう感じられたんだから」と言って電話を切ったあとにお母さんに「いらいらする、本当にいらいらする」とまた話がエスカレートしていきました。

お母さんもさすがに疲れてしまったようで「とにかくカウンセリングよ。私ではわからないからプロの人に話を聞いてもらいましょう」と言っていました。

うーーーーん。どうしたもんかねえ。と考えながらコーヒーをすする私。そして、思った。私もそうだったと。20代の頃は彼女のようだったと思いました。仕事場でもプライベートでも、自分の思い通りにいかないということで、この人は自分とは合わない、この人は自分をわかっていない、この仕事は自分には合わない、もっと自分をわかってくれて、もっと自分に合っている仕事があるはず、と思い、転職しまくっていました。これって、となりにいる娘さんと同じだよな、と思いました。

どうしたらいいのか?というところはわかりませんが、ただ、一つ言えるとしたら「今がこのまま続くことはないよ」ということです。人は必ず変化をしていく。自分でそこに居続けることを選ばないなら。苦しむということは変化したいからで、変化に向かっているということなんだと思いました。

諸々の条件
2024/04/02

昨日書いた「自分の面倒は自分でみよう」「自分のおもりは自分でしよう」ですが。

もっと今の自分の状態が良ければ私もできる、もっとこれとこれがあればできる、と思うかもしれません。

もっと自分に貯金があれば、時間があれば、もっと自分が健康ならば、もっといい仕事についていれば、もっといい暮らしができていれば、もっと人との関係が良ければ、もっと積極的な性格であれば、結婚していれば、子供がいれば、自分も、自分の面倒は自分でみよう、という気持ちが湧いてくるだろうし、自分のおもりは自分でしよう、ときっと思える、というものです。

それを行うための諸々の条件をまず最初に揃えてからじゃないとできないと思っているかもしれません。しかし、そうではないんです。もし、そうであればそれができる人達は諸々の条件に恵まれている人だけに限られてしまいます。

諸々の条件がない(…とパターンが思っている)ところで、それでも、自分の面倒は自分でみる、自分のおもりは自分でする、なんです。そうやっていって、あとから、諸々のものは、その人に必要なものであればついてきます。

自分の面倒は自分でみる、自分のおもりは自分でする、ということは、自分であらゆることを創造していくことになります。今までは黒パターンの誰かに助けて欲しい、誰かに認めてもらいたい、誰かに大事にされたい、と選択していたものを変えていくのですから、反対にある白パターンを選ぶことになります。そこに、創造の力があることが感じられるでしょうか。

それを選んでいる「私」という意識、それがまずありきです。人が意識したことで素粒子が動くということをまた思い出してください。今までは黒パターンを選択していて、その意識で素粒子を動かしていて、その現実になっているということ。そこは体験としてわかっていると思います。

だとしたら、それを逆に使おうということです。自分にとってよきほうへ使う。本当に「私」が欲しいほうへ使う。「私」が喜びを感じ、やすらぎを感じるほうへ使う。これらは全て白パターンだと思います。その選択と、選択したものを絶対に諦めないで継続して行動に移すこと、です。

この行為はまさに自分の面倒を自分で見ている状態、自分のおもりを自分でしている状態です。この意識が新しい現実を運んできてくれます。

自分で自分を・・・・
2024/04/01

先日書いた「自分で自分を励ましてあげなさい」(ブッダの言葉)の「励ます」の部分には多くのものが含まれています。

それは「自分で自分を理解してあげなさい」「自分で自分を褒めてあげなさい」「自分で自分を赦してあげなさい」「自分で自分をひっぱっていってあげなさい」「自分で自分に喝を入れてあげなさい」「自分で自分を押してあげなさい」「自分で自分にできるよ!と言ってあげなさい」「自分で自分を休ませてあげなさい」「自分で自分に勇気を与えてあげなさい」「自分で自分を逃がしてあげなさい」「自分で自分に大好きだよと言ってあげなさい」というように。

で、言いたいことは「自分の面倒は自分でみよう」「自分のおもりは自分でしよう」ということだと思います。

他人にやってもらおうとせず、自分でやりなさいということです。仏陀の言った、自分の「島」を自分でつくるために。そして、幸せに生きるために、です。

しかし、これは一切他人に頼ってはいけないということではなく、必要なときにはお願いしたり、頼んだり、おまかせしたりします。日々の生活もどなたかのおかげで過ごせています。ただ、自分の心の中におきていることは自分で面倒をみよう、ということです。

「腹が立つんです、いらいらするんです、怖いんです、寂しいんです、むなしいんです」と他人に言ってもそれは他人がどうにかしてあげられるものではありません(吐き出すことで一時落ち着くかもしれませんが、吐き出すだけではずっと続きます)こういうときにそのときにふさわしいブッダの言葉を自分に向けてもいいかも。

そして、大事なことは、それらネガティブな感情、感覚は全てパターンであり、本当の自分ではないということです。それを、はっきり認識することを積み重ねていきます。

そしていつも「私」はそうか、そうか、と聞き、受け入れる。「私」が受け入れる(ということは、受け入れる者と受け入れられる者がいるという確認にもなります)ことを身をもって、その感覚で行えれば、パターンはただ、パターンとして存在していることも感じられ、そこに脅威がないこともわかります。だから何ひとつパターンを変えることはないんだ、と思えると思います。

こうして自分の島を持てるように。そして隣には皆がそれぞれの島を持ち、生き生きと生きている姿が見られるように。島=パイプ。言っていることは同じです。このことが「自立」ということです。そして、幸せは自立がないと感じられないものです。

干し柿
2024/03/31

茅ヶ崎駅構内ではよく物産展が開かれます。

東北物産展、北海道物産展、沖縄物産展、京都物産展などなど。今は「庄内物産展」です。

「庄内、しょうない」と「湘南、しょうなん」。「しょうな…」までは一緒なので、そこの繋がりをプッシュしていて、スタッフの方達が着ているおそろいのピンクのTシャツには「相合傘に庄内、湘南」という文字が入っています。年に2回程行われている気がします。

でーーーー、今回も、美味しそうなものが並んでいるんです。野菜、お米、お酒、くだもの、つけもの、酒粕、お菓子、お茶・・・と色々あります。で、先日、干し柿を買いました。干し柿といってもまるっと干してあるものではなくて、カットされている干し柿です。一目みて、これはぜったい美味しいだろうと思い、袋を手にとり見ていました。

すると私の横に可愛らしいおばあちゃまがいらして、やはりカット干し柿を手にとりました。するとスタッフの女性が「美味しいですよ、カットしてあるので食べやすいし、チーズをのせて食べるとまた美味しいんです」と声をかけました。おばあちゃまは「私じゃなくてね。主人にお土産で買ってあげようと思うの」と言います。

「そうですか、ご主人、干し柿がお好きですか?」とスタッフの女性が聞くと「好きなことは好きなんだけど。いつもね、私の買い物についてきてうるさいの。今日はね、家にいてついてこないから、ご褒美で上げようと思うの」と言いました。

隣で聞いていた私は思わず笑ってしまいました。スタッフの女性も、そのそばにいた男性スタッフも笑ってしまった。するとおばあちゃま「いつでも私にくっついてくるのよ、もう大変なの」とにこやかにおっしゃって、ますます皆で笑いました。

「よーーくわかります」と女性スタッフが言い、私もおばあちゃまも干し柿の袋を手に持って笑う。「主人の話を聞いてくれてありがとう」とおばあちゃまは最後におっしゃいました。

家に帰って食べてみると、やっぱりねーーー美味しい。私はドライフルーツが好きでついつい食べてしまいます。すでにいちじくとプルーンとレーズンがあるところに干し柿が増えたので、食べすぎないようにちびちびと食べます。

干し柿をみるたびにあのおばあちゃまのことを思い出すでしょう。人って、こんなふうに影響を与えているんです。他人に影響を与えられる人にならなくても、こんなふうに。私はこのくらいのライトな影響力、好きです。

まあるく創る
2024/03/30

自分という人間を、まあるく創っていく、ということ。

まあるく(丸)なので、その中は陽が半分、陰が半分です。又は、今までのものが半分、新たなものが半分とも言えます。

で、今までのものは、これまで生きてきたところで得てきたものごと。考え方、捉え方、やり方、などなどです。誰の目にも見えるもの、わかりやすいもの、そこへの価値基準があるもの、などです。それはそれで、この地上で肉体を持って生きるためには必要なものだったので、いいわけです。そして、ここはその人なりにすでに持っています。

で、もうひとつのほう。これが道場で行っているものです。これから得ていく(というより身につけていく)ものごと。考え方、捉え方、やり方などなど新しいそれです。それは、誰の目にも見えないもので、わかりにくく、そこへの価値基準がないもの、など、今まで知っていたものとは反対にあるものです。

この新たに創っていくものが難しいのは、思考を使い、知識や情報で理解できるものではないところです。おまけに向き合うのは自分の外ではなく自分の内です。今まで接してこなかったところへ分け入っていくので、よくわからず、あいまいで、混沌としているし、時間もかかります。しかし、そこにこそ、今迄知らなかったものが眠っているのです。

陽と陰、外というわかりやすいものと内というわかりにくいもの。どちらも必要で、その2つで1つになる。その2つが合わさり豊かになる。そうやって自分の手で自分自身と自分の人生をまあるく創っていかれますように。死ぬときには、まあるい自分でありたいです。

暴風雨
2024/03/29

「自分で自分を励ましてあげなさい」これは仏陀の言葉。

なんて優しい言葉なんだろうと思います。それは誰にでも必要なことで、誰もが自分のためにそれを持って生きられたら、生きること自体が楽になることは確かです。

その究極の道具をあらわす言葉がこの言葉なのだと思います。

そして、カウンセリングってこの道具をその人が使えるようになることを手伝うためのものなのだろうと思いました。自分で自分を励ましていかれるようになればカウンセラーは必要ないと思います。

この仏陀の優しい言葉を見て「どうなんだ自分?そのようにやれているのか?」と自分に問う。今、茅ヶ崎は暴風雨です。たたきつけるようにして窓にあたっている雨を見ながら、自分の在り方を見直す。まるで心が洗われていくようで、自分に問うにはちょうどいい日です。

自分はどこへ向かいたいのか
2024/03/28

自分はどこへ向かいたいのか。

それは決めていなくてはなりません。ここへ向かっていきたい、と。昨日書いた一致性を持って、一貫性を持って、まっすぐに(ビーム光線のように、と誰か言っていました)

そんなストイックに、そんな生真面目に、じゃなくていいんじゃないか、と思う方もいると思いますが、目指すところへ向かうとはそういうことです(これはどの職業でもそうですね。その仕事において目指したいところが決まっている人はいつもそこに焦点をあてています)

それも、誰かに無理やりやらされているのではなく、自分の意思なので、こうして歩むことは自分の楽しさであり希望でもあります。

ここへ行きたい→そうしよう→そうする→絶対行く、と自分で心底決めてしまえば、日々の生活の中にそのヒントになるものごとを発見するし、わからなかったことがわかったり、目指すところへ向かえるような物事が起こっていったりと、何かが後押ししてくれているんじゃないかという事もよく起こります(いいことが起きるということだけではないです)

そして、その連続を体験すると、やっぱりひとりで生きているのではなくて、何かが力をかしてくれている、必要な物事は与えてくれる、ということもわかります。

そして、そうなると、ひとりでしゃかりきに頑張らなくていい、どちらかというと肩の力を抜いていたほうがいいということもわかります(この部分が、あちらが決めるということなんだと思う)

ですから、この道は、深刻に、神経質に、過敏に、やるしかない、やらなくちゃ、頑張るで、進まなくていいんです。自発的に自分の意思で行うことであれば、きっと、深刻ではなく、神経質ではなく、過敏ではなく、やるしかないでもやらなくちゃでも、仕事を頑張るように頑張るではないと思います。

それが自分の向かうところへ行きつく姿勢です。修行じゃない。あくまでも自分の意思で行うものです。だから、楽しく進める、だから続けることができる(続けたい)という思いのあるものです。

この姿勢自体も、仕事場や家庭での姿勢とは違うものであることを肌で感じられるといいなあと思います。自分が向かいたいところは(多分、誰もが)今までの領域にはなかったところなので、今までのやり方は使えないんです。そのためにも、思考しすぎて、論理的でないようにしてください。

階段を登るには思考ではなく心の思いです。そして感覚です。ここが大人はとても苦手ですが、誰もがそれが得意であった子供の時の自分の体験があります。そしてそれは大人になった今でも残っているんです。階段を登りながらそこが発動していくと思います。自分はどこへ向かいたいのか、を、まず、はっきりと決めてください。

一致性は重要
2024/03/27

不一致を減らしていく。これはできればどういう場でも。ただ、仕事場や家庭の中ではそうできないこともあるので、そのときには、「今は「私」は「不一致」を選ぶ」と、自分で選択すれば一致します、と前に言ったようにしていけばいいと思います。

で、大事なことは、プライベートにおいてです。ここではできるだけ不一致にしないようにするということです。わかりやすいところでは、本当は嫌なのに「いいよ」と言ってしまったり、できそうもないのに「できます」と言ってしまったり、本当はおもしろくない誰かの幸せに「よかったね」と言ってしまったり…というやつです。これは意識しないと簡単に言ってしまいます。クセのように皆なっているからです。それが一般常識として蔓延していてそれを身につけてしまっているからです。ここを自分で意識的に修正していくことは大事です。それは、自分にも他人にも誠実であるということです。

そして「一致性」が大事なのは、現実を変えていくのに必要なものだからです。それは、宇宙にある、フィールド、とか、現実の可能性が含まれる特別な空間、とか、言い方は色々ですが、人の意識を受け取り、その意識に沿ったものを与えてくれる、もしくはその意識に沿ったところへ連れていってくれる、という場所に、自分の望み、理想を届けられるのは「一致性」のみだからです。

いくら思考で「こうなりたい」と強く思っていても、そのこうなったときの感情や感覚、その言葉や行動に一致性がなかったら、それは現実化しません。「こうなりたい」と強く長い間思い続ければ願いが叶う、アファメーションすればいい、イメージを持つ、あたかもそうであるように感じる、という単独ではなく、それら全てがそろった、合わさったというのが「一致性」です。

不一致な願望とは「こうなりたい」と思っていても「無理かも、できなかったらみっともない、誰よりも勝ちたい」という思いも同時にあり、怖さや焦りや不安という感情ももちつつ、そんなことを思ってはいけないと思い、落ち着かないような、そわそわするような感覚もあり、それでも「私、そうなりたいんです」と言ってしまう、どきどきしながら。というようなものです。

この、ばらばらの状態の意識を放っているので、それは宇宙としても何をかえしたらいいのかわからないので何も変わらないを返しておこう、になるのだと思います。いわゆる、アクセルとブレーキを同時に踏み続けている状態です。

自分はこうなりたい、と願う。こうなっている自分はどんな感情や感覚でいるのか(黒パターンのそれではないです)を忠実に感じる。そのイメージを持つ、そしてそれに見合った言葉を言い、それを表現してみる。そして、そこへ向かうための具体的な行動を考える。そして必ず実践し続ける。これらが一致性のあるものであれば、それは宇宙に届きシンプルにそれを返してくれます。宇宙はわかりやすいものが好きなんだな。

それが「天が養ってくださる」と言うことでもあると思います。そう考えると、キリスト教も仏教も量子の世界を知っていたような気がします。又、ひきよせというのもこのことなのだと思います。

で、自分の心の中を整えるということは、一致性を作るために必須であることはわかると思います。そのためのいろんなワーク。結局、ワークやってください、といういつも通りのおちでした。

同時に出るパターン
2024/03/26

何かパターンが上がってきたときに「そんなふうに思ってはいけない」というパターンも同時に上がることがよくあります。

ほとんどの方はそのようです。ようです、というのは私はそうではないので、とても共感できます、とは言えないのですが(これは多分性格によるものだと思う)

で、もちろん、そのときには、この2つのパターンへ語りかけをします。例えば「自分にはできない」というパターンが上がってきたときに、同時に「自分にはできないと思ってはいけない」というパターンが出るということです。このときに、この2つがごっちゃになってしまうとからまります。ですから2つを分けてみていくことが大事です。どちらが正しいとか、どちらが本当なのか、ではなく両方あるものなんです。ただ、それを混ぜないということです。

そのためには、出てきたものをただ、単純に見ていくということです。切り分けていく、別に扱うようにします。ここはとても単純な作業なので思考しやすい人にとっては難しいところかもしれません。しかし、新なことを身につけることは難しいことなんです。だって今までやってきていないから。

いろんなパターンがある=すごく大変と思うのは、1つのパターンが出たときに、先ほどのように反対にあるパターンが出てきたり、それに関わるようなパターンがすぐに現れたり、そういえば、こんなパターンも…と違うパターンを思い出したりしてしまい、交通整理がつかない状態に自分でしているからです。いろんなパターンがある=すごく大変なのではありません。その扱い方が身についていないのです。

「私」が中心に立ち、出てきたパターンをひとつひとつとらえていけば、ごちゃごちゃになることはありません。そうやって「私」のリーダーシップ(このことが自分はどうありたいのかを反映しています)も育てていってください。

ここは基礎の部分です。そして、この基礎の部分がしっかりできるようになると、パターンと自分の距離感がリアルに感じられるようになり、どんなに強く大きなパターンでもそれと一緒になってしまうことはありません。

パターンは常に一緒にいる、しかし「私」はそれではない。だとしたら自分はどっちでありたいのか、ということになります。ここはしっかりと決めていかなくてはいけないところです。結局、自分を引っ張っていくのは、自分はどうありたいのか、というところです。慣れた価値観や言動のパターンでありたいのか、それとも忍耐と努力と継続力と意志力が必要になるけれど「私」でありたいのか。そこは自分の意思で決めていいようにできています。ここは平等に与えられています。

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