ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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セブン
2025/07/09

この頃、私は、色々と気付きはじめている。まだ、気付きはじめている段階だし、何かわかりそう、と感じている段階なのでコトバにすることができないのですが、いつかコトバにできるくらいになったらまたシェアしたいと思っています。

で、こういうことが大好きなんだとあらためて思いました。今まで知らなかったことに気づき、それを生活の中で具体化して自分のものとして使う、それによって体験することが自分の世界を広げてくれる。

これは、死ぬまでできる趣味だと思う。私は特に趣味がないけれど、これは自分の趣味だと言えると思いました。自分の内という世界。ここは宝庫で、その奥は普遍的なもので満ちていて、それゆえ、あらゆる答えがそこにはあります。そこを探検していくことはとてもおもしろいのです。

で、話は違いますが、昨日、TVのお昼の映画で「セブン」(1995年 米)を見ました。何度も見ているので話しの内容はわかっているし、次に何が起こって、もちろん結末もわかっているのですが、毎回見てしまいます。

内容としては(映像的にも)暴力的であり、グロテスクだし、お昼を食べながら見るというものではないです。しかし、そこに登場する4人(若手刑事、その妻、退職間近の老刑事、犯人)それぞれの心の内がセリフや振る舞いに現れていて、そこにはその人特有の思いが見え隠れしています。それぞれのそれが完全に他人に理解されることなくすすんでいくところも人って本来そうだろうと思えます。でも、それを貫きたい、推し進めたいのが人です。ただ、年齢を重ねていった分もう、そうしなくてもいいというところを持てるのだろうという事も、老刑事から感じました。

話としてもよくできているし「G線上のアリア」の流れる図書館のシーンはやはり唯一、安堵できるシーンとして健在でした。今回は、犯人の正義というものを確認できて「セブン」をまたひとつ知った気がして、それもよかった。そして、またきっと見るんです私。なんだかんだ言って好きなんですこの映画。

嬉しかったこと
2025/07/08

この数年だと思いますが、時々見かける、たぶん(たぶんなんですが)ホームレスと思われる男性の方がいます。

いつも、見かける場所はほぼ同じで、一人でベンチに座り、通り過ぎていく人達を見ています。どこで寝ているのか、食事はどうしているのだろう、体調はどうなんだろう…など気になりますが、特に気になっていたのが、いつもひとりでいることでした。

多分、1日中誰とも会話することなく過ごす日がほとんどなのかもしれません。だとしたら…息詰まるだろうと思うんです。

で、先日、駅に向かって歩いていたら、目の前からその男性の方が歩いてきました。そして、もうひとり、同い年位の男性の方が一緒に並んでいました。2人で話しながら歩いています。いつも見かける男性の方が、嬉しそうに、初めて見た、いい笑顔でいるんです。一緒にいる男性の方も笑顔です。私の横を通りすぎていきましたが思わず振り返って、どこに行くんだろうと見てしまいました。

すると、近くにあるベンチに2人で座りました。そこは小さな木が植わっているので、ちょっと木陰になっていて、そこならゆっくりとできるかもしれません。良かったなあ…とつくづく思いました。そしてとても嬉しかった。ここのところで一番嬉しいと思えた事でした。

これがずっと続くのではないかもしれませんが、そういう機会があったことが何かその男性にとって良く働くといい。ひとりではない、という体験。これが人には本当に必要なんだと思います。自分の話を聞いてくれる人がいる。そして自分もその人の話を聞く。こうしていくことが人が生きる基盤なんだと思いました。

柔軟さとフットワークの軽さ
2025/07/07

人生をスムーズに生きていくには、生き方を学び続けるということなんだろうと思います。この「生き方を学び続ける」という言葉は、55の魂に響く・・・に出て来た賢人の言葉です。

学び続けるというのは、これが自分の生き方だからこれでもういいね、ではないということです。なぜ?…なぜならば、人は年々年をとり、それによって起こる心身の変化、家族の変化、仕事の変化、社会の変化という「変化」が常についてまわるものだからです。

あらゆるものごとが変化しているのに、自分の生き方を変えないでどうにかしようとするから苦しくなってしまうんです。自分の今の生き方に固執せずに、臨機応変に生き方を変える、それが生き方を学ぶということだと思います。

そこには、柔軟さやフットワークの軽さが必要になります。もちろんそれで動くときは「私」が納得するものを選びます。で、柔軟に、フットワーク軽く、「私」の納得するもので…と思うと、パターンは不安がるんです。そんなあてにならないことをして大丈夫だろうかと。そして、そのパターンが強ければ、生き方を変えようとは思いません。

ここを打破するには「根拠はないけれど、私はやっていかれる」という文言とその世界の感覚を自分のものにしていくということです。そうなんです、やっていかれるんです。だって今までもやってこられた。生きてこられた、だから、根拠はなくても、やっていかれる。

変化していく自他に沿って、その時に生き方を合わせていけばいい、ということです。うまくいい感じで生きている人ってここが上手なんだと思います。決して、自分のやり方を曲げないとか、自分の哲学を貫くとかではない。いいような生き方を創るのが上手なのでしょう。周りから見たら、言うことがころころ変わるとか、調子いい人と見られるかもしれませんが、それは、自分には関係のないこと。

柔軟さとフットワークの軽さを持とう。

「もしかしたら」と「スペース」
2025/07/06

「もしかしたら、もう、〇〇と、決めつけなくてもいいのかもしれない・・・・・・・・・・・・・・・・・」

自分に合った(必要な)この言葉を深めていってください。最初はただ、この並びで、言う、というところから始まりましたが、これも、その言葉の後ろにあるものを感じ取れるようになっていってもらいたいです。これもまた、感じようと頭で思ったり、胸のあたりを意識したりしてもできないものなので、どうしていったらいいのかは自分で考えてみてください。

これは語りかけも白黒ワークも意味づけも、全てがそうですが、特にこの「もしかしたら…」はここから感じ取ったものが自分を広げていってくれると思います。その時の手応えはあると思います。

冒頭の「もしかしたら」という言葉には今迄、絶対こうだろうと信じてきた物事を揺るがすものがあります。「絶対こうだろう→もしかしたら…そうじゃないかも」という、あいまいさがありながらも(ここでは絶対こうです!はない)今までの自分の視野を広げてくれているような言葉です。

この時の心身の感覚を感じてみてください。

そして、最後の長い「・・・・・・・・・」ここはスペース、昨日の日記的には余白。「かもしれない」の後にきているこのスペース、かもしれない部分に含まれている自分の可能性を感じられるのではないでしょうか。

「そうか、もう、違う所へ自分は行きたいんだ」「もう、違う所へ自分は行っても大丈夫なんだ」そんな今まで知らなった自分の可能性を感じさせてくれるところです。それは絶対的なものではありません。しかし、懐かしさや、わくわく感があるかもしれません。それはきっと「私」(魂)が知っていて、戻っていきたいところだからだと思う。

「もしかしたら」と「・・・・・・・・」スペースを大事に。

静寂
2025/07/05

昨日は、妹お勧め「ギターと静寂」五十嵐 紅さん(男性)のコンサートに行きました。

ギター1本だけのコンサート。以前から妹が「しーーーーんとしているんだよ」と言っていました。コンサートでしーーーーんとしているって?…と思っていました。

小さなホール内には五十嵐さんの奏でる音色が響き渡り、最後の一音が、時にはきえゆくように、時にはその音を飛ばしながら曲が終わります。まさにその瞬間の音の余韻がまるでしーーーーんとしているようでした。

五十嵐さんのプログラムにこのような言葉がありました。

「遠鳴りするギター。暗闇に目が慣れていくように、静けさの中で旋律を捉える。余白を聞く。1時間の演奏会。音量の向上を目指し進化してきたクラシック楽器。ギターの小さな音はしばしば不利な点とされます。しかし、僕はそんな繊細さにこそ美しさを感じます。ギターの多彩な音色が空間に溶けていく瞬間、その響きから生まれる想像。どうか耳を傾けて、音楽のひとときを過ごしていただけたら幸いです。」

余白を聞く。とある。これは文章もそう。絵画も、バレエも、ピアノも。多分、茶道や、華道や、書道もきっと。その余白には静寂があり、その静寂こそが私たちの魂が安泰できるところだと思っています。あるべき姿だと思います。だからワークにもスペースをもたせてください。余白に人智を超えた何かが宿っています。

コンサート終了後、ロビーにはご本人、五十嵐 紅さんが立って皆さんをありがとうございましたの言葉とともにお見送りしてくれました。

でーーーあまりの小柄さにびっくり。舞台上の彼は大柄の人ではないというのはわかっていましたが、あんなに小柄な人だったんだ…と(私に言われたくないと思いますが)ということはきっと手も小さいはず。後からプログラムをよく読んでみたら、彼独自のギターを作成して使っているということでした。なるほど。

今迄の一般的なギターに自分を合わせるのではなく、自分に合ったものを使う。そして自分に合った曲を演奏する。それらも五十嵐さんの音楽に対する哲学なんだろうと思いました。

「静寂」を聞いた1時間でした。

推進させていく
2025/07/04

物事は起こるときには起こる。自分のことも。自分の家族にも。周りにも。これは、これで仕方がないことです。

そういうもんだ・・・とまずは受け入れる。だって、現実、起きているのだから。それについて、何がダメだったのか?と原因を探すということを自動的に誰でもやります。あのときのあれがまずかったのかな、このやり方が違っていたのかな。ここはこの物質世界においては必要なことでもあるので、とりあえずそれはやる。

しかし、ずーーーーっとそこに居続けていてはいけないんです。その原因探しにより確実に未来に健全にはたらくような原因をみつけられたらいいんですが、そうか、と思ってみつけたものも、天から見たら「違うよ」もあります(塞翁が馬の場合が多いので。そして、人にはそこはわからないことなので)

そして、その原因探しを続けていくうちにパターンが動き出し、自分自身を攻撃したり、後悔したり、いらいらしたり、もやもやしたり、これからへの不安を持ったり、起きていることへの不満を持ったり、と、心の中までそれでいっぱいにしてしまいます。

現実に起きていることを、そんなものか、と受け入れたら(原因探しも軽くやったら)推進させます。語りかけが必要なら語りかけをする。白黒ワークが必要ならワークをする。白のマントラが必要ならそれを言い続ける。意味づけワークもやってみる。これらをやったことで得られたものを自分の知恵として使い、自分を自分で推進させていくことをしなくてはいけないんです。

ワークやっているうちに自然とそれらが軽くなり、自分が変わりました…はありません。何故ならばパターンは変化することなくずっと同じことを言い続けるものなので「私」の推進させる意思と力がないと変わりません。

推進させる力って?深く気づいていること(←これ、大事。そして気付きの質が上がっていきます)それを現実にどのように反映させたらいいのかを具体的に考えること、そして、それを日々、実践する継続力。

こうして人は前へ(違うところへ)進むことができます。今、起きていることを推進させていくために自分はどうあるべきなのか、を考えてみます。

何事も陽と陰を持ち…
2025/07/03

昨日書いた「瞑想」+「再プログラム」やってみようと思う方はやられるといいと思います。

私は実は瞑想がずっと苦手でした。以前、勧められて、やってみたものの、なんか合わない感じがしてやらずに来ていたのですが、今年に入り不調続きだった私に整体の先生が「瞑想どうですか?」と勧めてくださいました。自分でできるものは、とりあえず、なんでもやってみようと思っていた時だったので、やりはじめました。

先生曰く「呼吸にだけ意識を向けてやってください。マインドフルネス瞑想で、5分〜10分位でいいです。呼吸に意識を向ける瞑想と、意識を変えていく瞑想とありますが、今の伊藤さんでは意識を変えていくものは「間」に入り込まれることもあるから、呼吸瞑想でシンプルに」ということでした。

で、続けています。昔、瞑想が続かなかった時とは違い、今はいい感じでやっています。ということは、瞑想は私にとっては今だったんだと思う。

先生と話をしているときに「迷走神経」の話が出て「迷走神経」って?…と思い、後から調べました。ケビン・トレーシーさんという方が迷走神経について書かれたものを見つけ、その中に「瞑想」についてもありました。ケビンさん自身も瞑想を続けているそうで「瞑想により、目の前のことに集中できるようになり、自分ではどうにもできないことに対して過剰に反応しなくなった」とありました。なんか、わかる気がする。

私が今感じている瞑想から得たものは、忙しかったり、やることが目白押しであわあわになりそうなときに、瞑想でしている呼吸をそのときに数回行うだけで、冷静になっていくというものです。即効性がある。

こういう体験をすると、そこどまりではなく、その先に、奥に、また違う瞑想のエッセンスがあることも体験上わかっているので、それがどんなものなのか体験したくなります。(こういうことが好きなんだ)

もう7月になり、今年の前半は、不調であったがゆえに、知らなかったことを知る機会がありました。初めてのものごとを自分で調べたり、試したりしたことが今までにはないほどありました。不調は嫌だし、つらいですが、それがあったからこそのいろんなことを知っていく、やっていく、という体験をした(継続中)「何事も陽と陰を持ち…」という言葉が先生から何度も出て、それもヒントになりました(何度も聞く言葉は、自分にとって大切なことなのでそれには敏感であるといいです)そしてそれを活かすも活かさないも自分次第であることもよくわかりました。

後半は、自発的に動いていくことを続けながら、結果は天におまかせして、流れに乗っていきたいと思います。

朝の瞑想
2025/07/02

「今朝起きて、意識的に自分の未来を作り出した人はいますか?」とジョー・ディスペンザ博士が聴衆に問います。そこに集まっている聴衆の人々は、自分の意識が現実に成るということを知っている。だから、博士はこう聞いたのです。それを知っているのなら、それが真実だと信じているのなら、1日も欠かすことなく、毎朝、自分の望む未来を創ることをやるでしょう?という話です。それをやらないということは、それを信じていないからです、と博士は話します。

中村天風さんは「朝目覚めた直後の心の状態は、潜在意識に最も近い状態にある。その時にどんな言葉やイメージを浮かべるかがその日1日を変えていく。それは1日だけのことではなく、それが続けば、未来も変わっていく。ですから「今日も最高の1日を過ごす。宇宙の力が私の中に満ちている。」という善き言葉とイメージを持つことを勧めています。

ボブ・プロクター氏は「もし、朝、3時〜5時前に目覚めてしまうのであれば、それをチャンスにしよう」と言います。「早朝は瞑想にとても良い。今日1日、自分はどんな気持ちで過ごしたいのか、それを言葉にし、イメージし、リアルに身体でその感じを味わう。」と勧めています。

「朝」というところはどうも鍵らしいです。

瞑想のシンプルなやり方をルイーズ・ヘイさんは教えています。「呼吸に意識をむけた瞑想を行う。それに慣れてきたら、そこへ自分が望む自像をイメージする。ありありと、そのときの感情・感覚を味わう。これは、エネルギーの周波数を望むものを引き寄せる体験に合わせて調整しているということ(再プログラム)。そしてその次のステップはその現実を創るにはどんな自分である必要があるのか?どんな考え方をし、どんな感情を持ち、どんな行動をすればいいのか?こうして新しい自分を毎日生きる。そこからの意思決定は未来の自分が行う。」と教えています。

ここでは(ここでも)継続が必要になります。継続するためには、人って信じていることしかできないんじゃないかと思います。意志力ではなく。何を自分が信じているのか。これは信じる物事の内容のこともしかりですが、それだけではなく、信じるということがパワーを持っていることが自分の今までの体験を通して知っている、感じられているということが大きいんじゃないかと思います。

道場のワークも同じです。とりあえずやっておく、やらなくちゃいけないではなく、信じていてやっているか、この差は大きいと思います。ワークを続けてきて自分が獲得したもの、感じ得たもの、それは信じることを確かにしてくれると思います。

体験があってこそ
2025/06/30

暑い…毎日、暑い。気が付くと、ソックスのかかと部分だけを脱いで、涼んでいました。暑いのならソックスそのものを脱げばいいのですが、足の前半分は脱ぎたくなくて、かかとのみ脱ぎたい。このスタイルが自然に出るということは私には、もう、夏だということです。

そして、暑い夏に体が欲するポン(タ)ジュース。今年も早速飲んでいます。ちょっと、熱中症っぽい?気持ち悪い、というときに飲むと、すっきりします。

今年は梅雨明けも早いらしく、これから数か月は猛暑が続きそうです。自分なりの、猛暑を乗り越えるものをいくつか持って、過ごしていこう。皆様もぜひ。

そして、暑い夏も、寒い冬も、変わりなく在るのは今の自分の心です。今の自分の心とは、今まで自分で創ってきたものです。自分の内側に向き合うことを続け、自分の内にいるパターンと接し、理解し、それを持ちながら、本当の自分がどうありたいかを考え、選び、そこへの挑戦をし続けることで、少しずつ心を整えていったと思います。

こうして自分が体験を通して整えた心は、元に戻るということはありません。元に戻ることがないことを「進化」というのだと思います。

この、体験を通してというところが大事なんです。例えば、知識だけで話すことって、スピ界にも、カウンセリングにおいてもよくあります。「本当に大切なものは目に見えないものなんだよ」とか「私たちはひとつです。ワンネス」とか「私たちは皆愛されているのです」とかとか。そういう言葉は正しく使われて正しく受け取れれば、その人を進ませることができますが、逆に黒パターンを増長させることにもなります。「え?そうなの?」というところが多くの人の本心だと思います。

で、だから体験なんです。これらを長い時間かけて体験した人が言うからそれは生きたものとなり、それは誰かの魂に自然と届く。ですから、いろんな体験をしてきた自分として存在していればいいし、その人が発する言葉が自他にとってよいです。どれだけの情報や知識を持っていても、話が上手い、話し方を知っている、としてもそこに体験がなければ、机上の学びです。それでは自分にも他人にも役に立っていません。だから体験することです。

思い通りにいかないことも体験、もどかしいことも体験、心が折れることも体験、気付くことも体験、挑戦し続けることも体験、与えられていることを実感するのも体験。全てが必要で、それがあるから、又必要な体験がやってきます。そうしながら私たちは進化していくのだと思います。

何を選ぶのか?
2025/06/28

先日の「あなたは老人なんですよ」という先生の言葉。

それに対して、物質領域に存在していて、そこでの価値を信じているからこそ反発するパターンへの語りかけをしました。

そして「もしかしたら…もう、私は老人ではないと決めつけなくてもいいのかもしれない‥‥‥」も言っています。この言葉を言ったときに、パターンは老人という言葉に反応しているのがわかるし「私」はそうではないものを知っている、というギャップを感じます。どっちでもいいよ、というのが「私」でもある。領域が変われば、何もないので.。

真逆の白パターンは、私は老人である、です。この言葉が存在している位置の清々しさも感じます。さすが白パターンだなとも思った。

で、これらを行ったり、考えたりして、「何を選ぶのか?」というたくさんの選択肢のあるところからの選択という、もしくは新に創るというわくわくするようなところを熟考しました。

まず、現実を歪みなく見よう(年々体力気力は落ちているということ)その自分に合った選択をする(全てをコンパクトにする、本当に必要なものだけを持つ)そして、そうやって削ったことで得た空間や時間は、自分の在りたい自分に向かうことや、そのほかのこの個性が楽しいと思うことに使う。というものでした。

これが「何を選ぶか?」というわくわくするような質問の答えだと納得できました。

‥‥と考えると、鼻の頭に老人性イボができて、受診して、先生の言葉があり、焼き切るをびびりながら初体験し、そこでの自分の弱さを実感し、ということがあったから、何を選ぶのか?がやってきたわけで、全てが必要なことだったとわかります。イボよ、ありがとう。

こんなふうに人って生きているのだと思います。誰でも。だからよく言われるように全てに偶然はない、必然であるということ。そして、必然だと思い、それを起こすもの(与えるもの)が存在していると思うのです。だから、ひとりで頑張らなくていいんです。起こることが起きて、なるようになる、そしてそこには「何を選ぶのか?」という自分の参加という枠も用意されている。

今回の事を通してそう思いました。…とこの記事を書いていたら、ぽろっと、鼻の頭のカサブタが落ちました。ちゃんと代謝している肌にも感謝です。

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