ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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駆け抜けた人
2019/12/10

先日、上野で見た「ゴッホ展」で「永遠の門 ゴッホの見た未来」という映画の予告編を見ました。ちょうど隣町で上映中だったので、きのうはその「永遠の門」を見にいってきました。

本編にずっと流れているものは、ゴッホの激しい特異性でした。映画を見る前に軽くゴッホについての予習をしてから見たので、特にそこに目がいっていたのかもしれません。

生前、ゴッホの作品が人々から受け入れられることはなく、又、彼のあまりに激しい特異性から人間関係を誰とも築くことができず、貧しく孤独な日々を送ります。たったひとり、弟のテオだけがサポートをしてくれますが、そこにはテオの苦悩もあります。たくさんの挫折と事件と病院、療養所と落ち着くところのないゴッホでしたが、唯一描くことで自分を保つ時間が保てていました。

この映画の中でゴッホが思っていたことは「自分にしか見えていないものを他の人にも見せたい」というもので「未来の人々のために、神は私を画家にした」というセリフがありました。「イエスも生きているときには認められず、死んだあとからその偉大さを知る。自分もそうだ」ということを言うゴッホを見ていると、そこから、どの時代においてもこういうことはあるんだろうと思いました。

今は周りの人達には見えていず、理解されないこと。でも、そこにある真実を見ている人がいる。それはいつか時がたつことで皆が周知することにもなるのかもしれません。

描かずにはいられない、という激しく、何かに突き動かされるようにして37年の人生を駆け抜けたゴッホ。作品のひとつひとつには彼が削るようにして自分の命をそそいでいった痕跡があります。

そして、思い出したことがありました。約9年前「ひろしま美術館」で見たゴッホの「ドービニーの庭」この絵の前にひとりで立ったことがありました。まわりにたまたま人がいなくて、ひとり、この絵と対峙したわけです。ゴッホの独特のタッチで描かれている庭の風景です。そこにはこぼれんばかりの明るさがある。しかし見ているうちに、だんだんと怖くなってきたという体験をしました。人がいないのでまわりの静けさがよりそれを感じさせたのかもしれませんが、ゴッホが削ってそそいだ彼の激しい命によるものだったのかもしれません。この感覚が今回の映画で久しぶりに思いだされました。

さて、今日はこれから盛岡へ行ってきます。今年最後のクラスになります。今回も善いセミナーになるように、しっかりと行なってきます。

そんな生き方もある
2019/12/08

・・・日々、神を思う・・・

なんて言うと、とても崇高な、あたかも悟りの境地にいる人のように思えますが。でも、私、日々、神を思うんです。

神は私たちの大元、生まれ出でて、帰っていくところ。故郷を思うように、神を思う。そこが生きていくうえでの指針になっている。

それは白パターンを選んで行動しているときに、そこに神が在ることを感じるし、自然の中に、周りにいる人々の中に神を見るときもあります。神はあちこちに点在している。だから特別じゃない。そして、もうそこから離れることはしたくない。いつも、ともにありたいと思います。それが普通でありたいです。

でも、私は・・と言うと、喧嘩っ早く、頑固で、気が強く、お調子者で、ストレスにとても弱く、耐久力がなく、嫌なものは嫌で、皆ができることができないなど、そこはびっくりするほどスマートでもありません。そんな個性の私でも神を思うんです。崇高ではない私でも。

神はどんな人のことも受け入れている。それは自分の一部だからです。人間のほうからそれを切ってしまい、神を忘れてしまっている。

日々の忙しさや、他人との比較や、勝った負けたという仕事や、不安と恐怖の未来や、見失ってしまった自分として生きていることなどで忙しいので、ついついそちらが優先されています。そして、それが自分だと思っています。

しかし、自分を見つめていくことで、自分の中に在る「私」という神の分身にであうことで、そして、それが本当の自分であることを知り、私たちを送りだした大元の神のことを思い出していくように思います。そこを日々思い、そこを目指し、そしていつの日かそこに帰っていけばいい、そんな生き方もある。

未来への種
2019/12/06

弱い人が、一生懸命に怖さに向かっていること自体が尊いことです。

怖がりの人が、自分を奮い立たせて、勇気をもって行動すること自体が尊いことです。すぐに何でも諦めていた人が、自分の意思で続けていることが尊いことです。自分を否定している人が、自分を受け入れていく努力をしていること自体が尊いことです。

この在り方そのものが価値あることなんです。そこから何を得たのか、それにより、どんなものを手にしたか、どんなふうに自分が変化したかということが尊く、価値あることではなくて。

価値がある尊いこととは、現在進行形であるもの。行動がともなうもの。

そう思うと、一瞬、一瞬自分が何を選んでいるか、というところが最も大事で、それにともなう行動が大事なんだということを感じると思います。

わかっていてもそんなに一瞬一瞬はできないと思うかもしれませんが、ここは訓練です。だんだんと一瞬、一瞬選べるようになります。人生は自分の選択したものごとで、できあがっています。誰かから与えられているわけでもないし、何かに押し付けられたわけでもありません。その人の選んだものがその人自身に、そしてその人の人生になります。

だから今日も選ぶ。選び続ける。そして実践する。それが未来への種を蒔いているということになります。

フライパンと巨匠
2019/12/05

数日前の事、フライパンを使うため、フライパンが収納してあるガスレンジの下の引き出しを開けました。

そこには、大中小と3つほどのフライパンと卵焼きをつくるときのものと金網が重ねて入っています。

そのフライパン類をみたときに、一瞬にして、その美しさに圧倒されたという体験をしました。

これは初めての体験で、なおかつここのところこの手のことがなかったので、ショックを受けました。・・<なんてきれいなの>・・とつぶやいてしばらく凝視しました。それぐらい、そこに並ぶフライパンに美しさを感じました。

そこには今まで私が見たことのない、知らないフライパンの世界があった(今は、このときのその感覚になろうとしてもなれません)

そして、きのう、お天気もよかったので、上野の美術館に行ってきました。上野公園のイチョウがみごとに色づいていてそれを見られたのもよかったです。

そこで「コート―ルド美術館展」と「ゴッホ展」を見ました。それぞれ、素晴らしい作品が展示されていて、やはり、本物を実際見るのは楽しいです。しかし、私は、まず遠まきに、ぱーーーーっと見渡して、目についたものだけ側に近寄って眺めて、終えるというような見方をしているので、あっという間に鑑賞は終わってしまいました。

その後、近くのカフェでゆっくりお茶を飲みました。そのときに、考えたんです。今の私(あくまでも今のです)にはあのときのフライパンは、今見た数々の作品よりも美しかったと(巨匠の方々、ごめんなさい)あのときのキョウレツなフライパンの美しさは、私の心をがっちりとつかみ、有無を言わさない圧倒的な存在感があり、新な美をみせてくれました。

美しさとは無縁の無機質なものから受けた美しさ。それは今までだったらあり得ないと決めていたことだったのでそこが破壊されて、ショックでキョウレツだったのだと思います。

この一連のできごとはどこかへつながっていくのだろうと思っています。今までもちょっとしたこういう流れがあるときにはどこかへつながるということを繰り返してきていたので、きっと。そしてそれはいつも自分のためであり、誰かのために使われることになります。それを楽しみにしていきます。

もう片方のために・・
2019/12/03

ネガティブな感情に対して、それを嫌ったり、わずらわしく思ったりするパターンというのをほとんどの方が持っています。

だから、語りかけや白黒ワークをすることでネガティブな感情を生み出すパターンがなくなる、消滅することを(・・・そうじゃなくて、それは無理と知りつつも)どこかで期待したり、確認したりしてしまっているかもしれません。

そもそもネガティブなものはその働きをしているだけのものです。彼らの働きはネガティブな感情・感覚によってもたらされる状況の体験。そこを担ってくれているものたちです。これと同レベルでポジティブなものの働きもあります。この2つがある。

そして、この2つそれぞれは、自分だけという単体でいると自分というものを知ることができないんです。

光が光だけでいると、自分の光としての役目や、特徴、を光自身が知ることができません。ここに闇がいてくれることで、闇とは反対のものであることを光は知ります。闇も同じことです。

だから両方は両方のために存在しています。

人も同じです。自分だけという単体で生きていては自分がどういう人間なのかを知ることがでできません。他人がいてくれるから自分を知ることができます。

単体で生きてはだめなんです。あらゆる自分とは違うものに囲まれて生きて、初めて自分がわかります。

自分と他人、光と闇、善と悪・・・全てはもう片方のために存在している。

コミュニケーションが苦手、下手
2019/12/02

他人を傷つけたくない、と思っている人は多いと思います。特に女性は。

カウンセリングにおいてもこのことは聞きます。「どうして?」と聞いてみると「他人から傷つくような言葉を受けると、自分はものすごく傷つくから、自分は他人には傷つくような言葉は言わない」と言われます。

しかし、自分にとって傷つくと思われる言葉が相手にとっては傷つかない、ということもあるし、傷つけないように注意して話した言葉に相手が深く傷つくこともあります。又、言葉を発しなくてもその人の存在自体に傷つくと言う人も普通に大勢います。幸せそうな夫婦を見て、ものすごく傷ついたり、元気な人を見て、傷ついたりすることもあります。傷つきやすい人であればあらゆる他人を見て傷つくことになります。

結局、傷つくというのはそれぞれのパターンの問題です。だから傷ついてもしょうがないのではなく、自分のパターンだからこそ自分でケアできるという事です。

又、それぞれのパターンの問題だからどんな言葉を発してもいいというものでももちろんありません。そこには配慮が必要です。配慮と言ってもマナーのようなものではなく、言葉を発する前にどんな動機で自分がそれを言いたいのかをしっかり確認することが必要になります。それが黒パターンからの動機であれば言わない。白パターンに選び変えてから言う。それを正直に話すことです。

そうすればそれが相手には必ず伝わるとも言えない。相手もそれぞれが違うからです。ここでは、そういう相手を理解する(許す)ということになります。

本来、それぞれが違う人と人(わかりあえなくて当然)はこのようにしてコミュニケーションをとるものだと思います。かつての私もそうでしたが、私たちはコミュニケーションが苦手で下手です(この文章に傷つく人もいるでしょう、そうしたらケアしてね)でも、だからこそ身につけたい。大人になってからではないとできないコミュニケーションスキルを自分のものにしていきたいものです。

楽しめる自分になる
2019/11/30

今年最後の茅ヶ崎合宿、無事に終了しました。茅ヶ崎クラスの皆さま1年間ありがとうございました。そして、沖縄からのゲストの方もありがとうございました。

今回も熟考し、ワークをし、身体も動かし、イメージし、言葉にし、文章を作り、感覚に浸る、と色々行いました。苦手なもの、やったことのないこともそういう中にはあったと思います・・が・・苦手だから、やったことがないからこそやる、やってみる、結果よりもやってみるということが大事です。これにどんどん慣れて、苦手なことにも、やったことがないことにも楽しんでいただきたいと思います。

私たちは何かをやる=できないといけない、と思いがちです。できないと恥ずかしい、みっともない、バカにされると思います。しかし、このできないといけないが、新なことを行うことを不安にし、躊躇させます。

結果にとらわれず、とりあえずやってみようということがとても大事です。そして、誰でも初めから完璧にできる人などいないです。とりあえずやってみているうちにだんだんとできるようになります。

諦めず、焦らず、後回しにすることなく、今、やってみよう。そして、それを楽しめる自分になる。

思い通りでなくていい
2019/11/28

何事も思い通りじゃないと嫌、それも今すぐに・・・と以前はよく思っていたなあと思います。

今すぐに思い通りでないと嫌なのは、そうではないと耐えられなかったからだと思います。そのままいられない、この不満の中で、不快な中で、不都合な中で、いることができなかったからなのだと。だからできるだけ思い通りにしていこうとしたのですが、それこそ思い通りにはいかず・・・。

本当に必要なのは、思い通りじゃなくてもいられる自分を育てていくことでした。

私はかなりこの、何事も思い通りじゃないと嫌、それも今すぐに・・・が強かったと思います。今も全くないわけではないですが(こだわるところは変にこだわるので)少しずつですが、全体的にできるようになってきたと思います。

白パターンもだんだんと変化をしていきました。○もしかしたら・・・思い通りでなくても大丈夫なのかもしれない→○もしかしたら、もう、思い通りでなくてもいられるのかもしれない→○もしかしたら、思い通りでなくても、もう、私はやれるかもしれない○もしかしたら、思い通りでなくても大丈夫(まだ、もしかしたらを使っているところが笑えます)→○思い通りでなくても大丈夫→○思い通りでなくていい・・・というふうに。

で、自分がそうなってくると、他人のこともそういう見方をするようになるということがわかります(人は自分を見ているように他人を見る)思い通りのその人でなくていい、今のその人でいい。

それは以前に比べるとどこかクールで、その人に関心がないようで、優しくない感じがするかもしれません。実際このあたりに関わっていたと思いますが「洋子ちゃんは以前のほうが優しかった」と言われたこともありました。それは・・・優しかったのではない、自分の思い通りにしたくて、いかにも相手を思っているように、その人にアドバイスめいたことを言ったり、その人が変わるようにと接していただけでした。今思うと申し訳ないことをしていたと思います。

そのままでいい、というのは、大きい存在の健全なあきらめを感じます。思い通りというのもパターンが望んでいることで、「私」の資質に思い通りはありません。ということは「私」には思い通りではない在り方が普通であるということになります。このことについてはこれからももっと考え、自分で深めていきたいです。

今日から茅ケ崎クラス2日間合宿です。今回は沖縄クラスの方もお一人参加されます。今年最後の茅ヶ崎クラス、皆で楽しく、なおかつしっかりと学んでいきたいと思います。

サルかな
2019/11/27

先日、近所の喫茶店でランチをしていたら、となりの席に2人の男性(2人とも30代前半でしょう)が座りました。注文がすむと、一人の人がバッグから資料を出して早速話がはじまりました。

聞こえてくる話は・・・投資のお勧めの話でした。2人は面識があるようで、ずばずばと話は進みます。「これは信頼できるものである、これだけ儲かる」と資料を色々出してぐいぐい押してきます。

話しを聞いている人は、保険会社の終身のものに2つ入っているということを話ていましたが、その終身の弱み(「実は、私も知らなかったんですけどね、終身って…」と言って超小声で話している部分は聞こえなかった)を言い、それより投資だと力説していました。

そして営業マンはこう質問しました「〇〇さん、自分が60歳になったときって想像できますか?ちょっと想像してみてください」と。相手の人が「う〜ん、想像はできませんね。でも、人間終わってますね」と言いました。「そーーーなんですよ、60歳ってもう人間終わってるんですよ、終わってしまっているともう無理なんです。お金をつくることはもう無理なんです。だから〇〇さんにはぜひ60歳前に財産をつくっておいていただきたいんです」とヒートアップ。

そうか・・・・60歳って人間終わっているのか。人間終わって何になるんだろう・・・・サルかな。

もう少し続きが聞きたくて、もう1杯コーヒーを注文してしまった私。

その後、話は60歳を過ぎて財産がない人の悲惨さにうつっていきました。こうなると、もう、脅しです。相手の人がどうこたえるのだろうか・・・と思っていたら、話は趣味の話と車の話に変り、投資話へのこたえはありませんでした。

なんだ、これならコーヒーを注文しなくてもよかった。

60歳すぎて人間終わって、でも、それなりに元気に生活をしている人、そういう人がたくさんいることをいつか彼らも知ることになるのかもしれません。年をとらないとわからないことはたくさんある。人間でもサルでもいいや・・・こう思えるのも年をとったからだと思いました。

自発的であれ
2019/11/26

先日の日記に書いた「私の宝物」。

バレエの先生から教えていただいていた大切なこと。それはピアノの先生についても全く同じであったことにも気付きました。

高校生のときに通っていたピアノのレッスン。私にとってそれは、やらなくてはいけないもので、その義務をはたせばいいものでした。

ある日、あまりに弾けない私に先生が「こんなに何もできないで来るのなら、もう、弾かなくていい」と言いました。私は泣いてしまい涙がピアノのキーの上に落ちたとき「ピアノが汚れるから帰って」と言われました(私、帰ってとよく言われますねえ)なんて酷い先生なんだ、と先生を嫌いました。ピアノが好きだったとか嫌いだったとかということ以前に、ピアノ=嫌な先生というものでした。

当時、私は自発的に練習をしたものをもって先生に教えてもらうということはなく、レッスンが練習のようになっていました。先生としてはこれも教えたい、あれも教えたいというのがあったと思います。しかし、全く自発的ではない私だったので先生にしてみれば不甲斐なさや、腹立たしさや、あきれたと思います。まだ子供だったからそういうことが全くわからなくてもしょうがないとは思いますが、そういう自分であったことに今はっきりとわかります。本当は先生から学べることはたくさんあったはずなのに。

もうこの世にはいらっしゃらない先生に謝り、感謝をしました。

バレエの先生もピアノの先生も私に全く同じことを教えてくれていました。「自発的であれ」ということです。全てにおいて。やらされている間は何も変わらないと。自分の人生なのだから自発的に自分で自分をコントロールしていきなさいとお二人は言っていたのだと思います。芸術の世界と魂の世界は根っこでつながっている。

だから、白を選び続けること。

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