ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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無人島に住む
2020/10/29

「対他人」のない世界ということ。

私を嫌う、苦手という人たちはもちろんいるだろうし、ご近所では私はとろいおばさん、もしくは「大丈夫だろうか、あの人」レベルで認識されているだろうと思っています。

そのくらい、色々とやらかしてしまっているので。一見しっかりしていそうに見えるからこそ、そのギャップに相手が驚くのが手にとるようにわかります。

で、こういうときに、対他人の視点(世界)で生きていると、なんてことをしてしまったんだ、なんて自分はだめなんだ、なんて頭が悪いんだ、きっと嫌われる、きっとバカにされる、ここは言い訳しておいたほうがいい、どう言おうか、と相手に、本当はそんな人間じゃないんですよ、と伝えることで自分を受け入れてもらおうということを中心にして考え、行動することになります。

これを続けていけば、ここに費やすエネルギーと時間は膨大なものになりますし、多分、死をむかえたときに後悔することになるだろうとも思います。ああ、もっとあるがままに、わがままに生きればよかった。他人の目ばかり気にしていた…と。

例えば、無人島にひとりきりでいるときにやらかしてしまっても、それほど気にならないと思います(人によっては自分ひとりであっても理想の自分じゃないと許せないという人もいるかもしれませんが)

いろんな多くの人に囲まれながらも、無人島にいるような自分になっていくことが、私たちには必要なことなんです。それは、私たちが全くやってこなかった(どちらかというといけないこと)ことです。

他人を中心にしての生活を今まではたくさんやってきた、だから反対にあるものを生活しながら体験する。あたかも無人島にひとりでいるような…。

こうしてバランスをとっていきます。この課題は大きいです。多分長い時間をかけながらやっていくことになるとは思います。でも、やるだけの価値はあります。そして、いつか、たくさんの無人島が自分の周りにはあり、そこにはひとりで住んでいる人たちがいるという感覚をもつようになると、一つ一つの無人島に住むひとりの人がとても大事に感じられるようになります。

無人島のワンネス。

対他人のない世界
2020/10/28

人は今の自分でいるしかない。

自分以上でも自分以下でもいられない。そこには良い/悪いはなく、ただ、今の自分でいることしかできないということです(自分には嘘をつけないという感じでしょうか)

どんなに背伸びをしようとも、どんなに謙虚でいようとしても、ところどころに今の自分がちゃんとあらわれていて自分を表現していると思うんです。

自分以上の自分を装うのは、他人を意識しているから。他人からすごいと思われたい、出来る人だと見られたい、成功している人、幸せに生きている人、レベルが高い人、非の打ちどころのない人、魅力的な人だと思われたい、などなど。謙虚を装うのも他人を意識しているから。他人から、なんて謙虚でできた人なんだと思われたい、能ある鷹は爪を隠す、謙虚は美徳、謙虚であれば嫌われない、謙虚であれば攻撃されたり、悪口を言われることもない、マスターのように謙虚でありたい、などなど。

こうして、自分では(厳密にはパターンは)考えて(もしくはそれが習慣化されて)振舞うということをしますが、やはり、どこかに今の自分が出ます。うまくやっているつもりでも、どこかに今の自分が出ています。

それは本人にとっては、失敗と思うことかもしれませんが、この今の自分が出るというところが私は人の心が持つ正直さなのだと思います。

魂(「私」)はこの課題(対他人)を終わらせることを望んでいて、今の自分でいることをやっていこうとします。成長した自分、進化した自分ではなく、いつも、今の自分でいることを「私」は望んでいます。

なぜならば、今の自分でいることにより、本領発揮ができることを知っているからです。そのときには今までのような対他人がないからです。そこに使ってきたエネルギーと時間を全て自分のために使うことになるので自分の本領が発揮できます。

そして何よりも、楽。目指せ、対他人のない世界。そのためにワークをぜひ。

心を開く
2020/10/27

昔々・・・・あるところに・・・・じゃなくて・・・・昔、あるカウンセラーの方から質問を受けたことがありました。「クライアントさんが心を開いてくれません。どうしたら心を開いてくれるようになりますか?」

「心を開くって?」と聞いてみました。すると、何でも話してくれる、自分に隠し事をしない、うそをつかない、もっと感情を出して欲しいというようなことを話されたんです。そこで「〇〇さんはクライアントさんに心を開いていますか?」と聞きました。

その方はとーーっても驚いて「いえ、そうではなくて、クライアントさんの心を開くのにどうしたらいいか、ということが聞きたいんです。私はカウンセラーなので私がどうやったら心を開けるかということではなくて」と言うことでした。

そのあと、実はなんと返答したのか覚えていないのですが、その方の驚きようが残っています。

カウンセラーってきっとひとりひとり哲学を持っているだろうと思うので、どれが正しいはないですが、カウンセラーという役割と技術では人にむきあうことはできないだろうと私は思っています(というか、そうでありたいと)

目の前にいる方に、自分の心が開かれていれば、誰でもが持っているネガティブな感情はだめなものではなく、怖いものではなく、それは認めても、表現しても大丈夫なもので、コントロール不可能なものではなく、どちらかというと実は、自分の人生を善き方向へ向かわせるものなんだということ(という新な視点と世界)を伝えていくことができます。クライアントさんにそれを見せられるから、クライアントさんも少しずつ心を開いてくれるのではないかと思います。

自分が自分の心を開く体験をしたから、それが今はまだわからない(だから苦しいので…)クライアントさんに伝えられる。まずは自分の体験がないとはじまらないと思います。そこでの「クライアントさんに心を開いていますか?」でした。

カウンセラーでもクライアントさんでも同じなんです。人だから。自分のネガティブな暴れ馬のような感情に翻弄され、それで苦しんだという体験は同じです。だからこそ自分のほうから心を開いて、クライアントさんとの間に架け橋を作り、そこをお互いの心が行き来できるようでこれからもありたいです。

ゲゲゲの・・・・
2020/10/26

きのうは、トミーと遠足へ…。

遠足先は調布・深大寺。いつか行きたいと思っていた深大寺の参道にある「鬼太郎茶屋」へ行くためでした→ http://kitaro-chaya.jp/

深大寺には、日曜日&遠足日和で、多くの人が来ていました。

まずは参道にあるお蕎麦屋さんで深大寺そばを食べ「鬼太郎茶屋」へ。鬼太郎茶屋の中にある「妖怪喫茶」のメニューに「ぬり壁のみそおでん」→ http://kitaro-chaya.jp/menuというものがあり、それを食べることが今日の最たる目的だったのですが…あれれ?…残念なことに…前もっての予約が必要で入ることができませんでした。ちらっとのぞいた「妖怪喫茶」。興味をひきます。ここで「ぬり壁のみそおでん」を次回は絶対に食べようと誓いました。

深大寺にお参りして、その周りを歩き、久しぶりに木々の香りと土の香りを胸いっぱいに吸って、とても気持ちがよかった。ずっとずっと外ではマスクで過ごすことになり、今まではごくごく自然に吸っていたいろんな香が、今はこんなにありがたいものだったと思います。マスクがない日がまたいつかやってくることを願います。

茅ヶ崎を出て、新宿へ行き、そこから京王線で以前住んでいた明大前を通り、調布にまで行ったのですが、たまにはこうして都心のほうへ出ることはいいですね。刺激になるというか、ぴしっとするというか。

武蔵小杉のあたりに連立するタワマンに驚き、新宿駅の人の歩く速さにびびり、とにかく人が多いことにのけぞりながらも、ときにはそれもいいなと思いました。よい1日でした。

長い目
2020/10/25

・・・・「長い目を育てる」・・・・

自分で白パターンを選択して生活をしているのなら、それは必ず良い(善い)ほうへ向かっていきます。これは逃れられないルールです。

そのさなかに黒パターンで無自覚に行動してしまっても、どこかでそれに気づいて軌道修正すればいいんです。とにかくそうやって「私」の選ぶ白パターンで意識的に行動していけば、それへの結果は自然にやってきます。

その体験を増やしていくことで「私」が自分であること、その「私」が選んでいけばいいんだという自分への信頼を持てるようになると思います。

そして、そこまでにいくのには、長い目を育てることが大事です。育てる長い目というのは「待つ」ということです。「待つ」という能力。

今の悩みや問題に対して「これは「私」がこれからの自分の幸せのためにセッティングしたものなんだ。だからこのまま白パターンを選び続けて、その結果を受け取ろう」または「今のこれは自分の今までの業を終わらせるものなんだ。だからこのまま白パターンを選び続けて、自分を軽くしていこう」など。それを待つ、長い目。

結果が来る前に、こんなにやっているのに、何も変わらないとそれをあきらめてしまうのはとてももったいないです(以前おせわになった霊能者の先生が「多くの人が結果が来る前にあきらめてしまうんですよ、待てなくて」と話していました)結果は来るまで待つということです。

また、待っているときには、そのことさえ忘れて日々のやるべきことをやっていくという在り方がいいです。まだかなあ?もう、変わったかなあ?これはきっと自分が変わったことへのサインだ、とそれを探したがる黒パターンを選ばないということです。それは不信で、そちらが大きくなると(主になると)不信感を生み出しているその黒パターンでいることになります。

または、白パターンが違っているから、結果が来ないんじゃないかと考えすぎてしまうこともあると思います。これは、自分の作った白パターンがあきらかに黒パターンではないのであれば大丈夫です。これが正しい白パターンというのではなくそこに属しているものをあげていればよいということです。よりしっくりくるものがあるときには、それにもどこかで気づくのでよりいいものを、完全なるものをと思わなくていいです。これも、よりいいもの、完全なるものを欲しがる黒パターンなのでそれは選ばないということです。その黒パターンはそうであれば早くに結果がくると思っているのでしょう。

「私」は必ずそうなることはすでにわかっているので、行動をしていくことに信頼をおいています。だからこそ待つ、長い目を育てる。これも練習です。初めからできる人はいません。特に私たちはすぐに結果が来ることにしか慣れていないので。そのスキルはもう皆持っています。あとは、この、待つというスキル。これを持てたときに両方のバランスがとれて自分が中庸に立つということになります。

もっと働けーーー
2020/10/24

ここのところ、亡くなった親族が、数日間、入れ違いで夢に登場します。

母が出てきたり、祖母が出てきたり、先日は叔父が出てきて「ようこ、おまえ、もっと働けーーー」とカツを入れられました。働くというのは仕事量を増やすということではなく、もっと体を動かせということだと思いました。叔父は亡くなった頃よりだいぶ若くなっていて、ニコニコしながらそう言いました。夢の中で私は、そうか、十分に体を動かしていないから、体の調子が悪いのか(実際は悪くないですが夢の中では調子が悪いことになっている)と思っていました。

なんで、こんなに亡くなった親族が・・・と思ったら、お借りして読んだ「はじめての日月神示」(中矢慎一著)の中に「死んだ者も、今、共に生き、共にくらしている」ということが書かれていたのが頭に残っていたからだろうと思いました。

母が亡くなってすぐの頃にやはり夢の中で「すぐそばにみんないるのよ。とても薄いカーテン1枚でしきられているだけで、こちらからはいつも見えているのよ」と言って、その状態を一緒に見たということを思い出しました。そのときには、母は遠くにいってしまったのではなかったんだと安心したのを覚えています。

それからもう20年がたちましたがその間、私が困っていたり、深く落ち込んでいたり、迷い続けていたときに母はサポートをしてくれました。そのたびにとても薄いカーテン1枚で・・・という言葉がうかびました。本当に、自分ひとりきりではない。自分のことを愛してくれていた人達がカーテンの向こうにいつもいてくれるんです。

亡くなった人たちとのそんな関係もある。だから、やっぱりちゃんと用意されている。

ちゃんと用意されている
2020/10/23

一昨日は久しぶりのすばらしい快晴でした。

おだやかな海も清々しい空もきれいでした。

肌寒くもなく、暑くもなく、私の苦手な風もなく、本当に「快晴」。ずっと快晴の日がなかったので特にそう感じたと思います。

その日、セッションにいらした方が帰るとき(夕方)に「あーーーーあ、今日は本当にいい1日だった!」とおっしゃいました。その澄みきった言葉が部屋中に響きました。

それはカウンセリングに来てよかったということではなく(笑)この快晴の1日を過ごせたことに対しての言葉でした。「本当ね、気持ちのいい1日だったね」というと「お休みの日がこんなにいい1日で本当によかった」と。その方は明日からまた忙しい仕事に入っていきます。

でも、今日、こんなに気持ちのよい快晴につつまれたことで、明日への気持ちをつくっていけたんだな、と思いました。きっとこの快晴が自分を元気にしてくれたということを感じていると思います。

自然には、一瞬にして人の心の奥底に入っていく力があると感じています。やはり、長い長い時間を生きてきたものがもつ特有のものだと思います。そういうものが私たちのまわりにはちゃんと用意されています。自分の悩みや問題だけにしか目が向かなくなってしまうと、まわりに用意されているものが見えなくなってしまいます。

悩みや問題でつらいときには、ふと視点を変えて、自然に触れてみるといいと思います。それは小さな1輪の花かもしれませんし、窓にあたる雨の音かもしれませんし、太陽の陽のあたたかさかもしれません。

ずっとずっとあるものたちに助けてもらいながら私たち人間は生きてきたのだろうと思います。私たちを生かしてくれるものたちを創造してくれた大いなるもののおなかの中で今日も生きる。

何かをしなくては・・・
2020/10/22

何かをしなくては・・・と多くの人は思うのだと思います。

何かって?と聞いてみると「意義のあること」「価値のあること」「世間でよしとされていること」「人から必要とされるようなこと」などを聞きます。そして、その何かがあれば充実感や自己肯定感や達成感なども感じられると思う、と。そのときに誰かと自分を比べていればそれは特に強く思うと思います。

これもパターンです。その何かをすでに見つけていて、これはぜひやりたいという方はそれをもちろんやればいいんですが、特にそういうことはなくても、なぜだか、焦りや空虚感を感じながらそう思うのはパターンです。パターンはその何かに全てを払拭できる価値があると思っているんです。でも、そんな何かはないです。

何もしなくてもいいかも、今は。だって特にこれといってやりたいというものごとはないし。今はこの何もしなくていいを選んでみよう、という白パターンを選ぶこともあっていいと思います。何もしなくてもといっても毎日ご飯は食べるし、毎日眠るし、散歩したり、趣味をしたり、買い物に行ったり、誰かと会ったり(今はそれが難しいと言われてはいますが)は普通にあります。その日々を営むことがそれなりにできているのなら、そんな基本的な日々で十分じゃないかと思います。

この基本的な日々は、まさに健康な心身をつくっているときであり、日々の慣れてしまった行動をみなおし、深めるときです。だからこそ大事なときでもあります。

何かをしなくては・・・と思ったとき、自分の中の誰がそう言っているのか、思っているのかをみてみるといいと思います。何かをしなくては、から離れてみると、そこに自分のやすらかさが存在していることも気づけると思います。

人ってよくできている
2020/10/21

先日、スーパーに買い物に行ったときのこと。片手に品物を持ち、片手に財布を持ってレジに並びました。

私の番がきて、カウンターに品物を置きました。するとレジの方が「お客様〜〜こちらは・・・・」と言いました。

…「?」とカウンターを見たのですが、何を言われているのか一瞬わからず…。すると「こちらは・・・・お財布ですね」と言われました。再度カウンターを見たら、黄色い(それも使いこんだ=それなりに汚れた)財布がぽんと置いてあるではありませんか(…と他人事のよう)もちろん手には品物を持ったままです。

「ひゃー」とあわてて財布をとり、品物をおきました。「ごめんなさい、ぼーっとしてしまいました」とわけのわからない言い訳をしてその場をやりすごそうとしている私。レジのお姉さんは優しく「いいえ、ありますよね、ぼーっとしてしまうことって」と言ってくれました。

この「ぼーっとしてしまいました」は便利な言葉でこういうときに使えます・・・と言っている場合ではない。だいたい、そんなにいつもぼーっとしていていいのか、自分、と思います。そして何より実際ぼーっとしているのではないのに、このようなミスをするんです。

若かった頃、このようなミスをしている人を見ると「信じられない」と思っていました「もっと注意すればいいのに」「なんであんなことしちゃうんだ」と思っていました。でも、今自分もそうなってきていて、注意をしていてもそうなるということがよくわかるようになりました。

そして、それにより獲得した新な能力があることにもこの頃気づきました。それは、以前であればそういうミスに対して、不安感や焦りを感じましたが(ありがたいことに)そういうミスをすぐに忘れるんです。

これは若いときほど広範囲にわたって、長時間、集中できなくなっているというところが関わっているのだと思うのですが、目の前のことを次々にやっていっている(というかそうしかできない)のでミスに対して留まることがない。はい、次となる。留まっていられないということは以前にあった、自分を責めるとか自分を厳しく見るとかもなくなります。

人の苦しみって、そこだけに長時間、留まり続けてしまうためと言えます。執着ですね。逆に言えば、そうできるだけの体力も気力も能力もあるということです。執着し続けられるくらい力があるということです。これ、新しい「執着」への意味づけですね。おもしろい。

よく、おばちゃんが図々しいと言われるのも多分にこのあたりの能力がなくなっていくからだと思います。そして、今起きているものごとをずっとひきずって、関わり続けることができなくなってきていることが人を楽にさせていくんだという実感があります。

自分に対しての「こうありたい」という執着を年をとっていくことで人は自然にはずしていかれるようになっているのではないかと思いました。加齢とともに失うものはある、でも、失ったところに新な何かが流れてくる。人ってよくできていると思う私です。

本当に申し訳なかった
2020/10/20

もし、30代に戻してあげる、と言われても、もう、あのときには戻りたくはありません。戻してくれてなおかつボーナスまでつけてもらっても、あの30代の不安定な自分にはもう戻りたくありません。

不安定で不満でそれなのに自分は正しいと思っていたがゆえに、まわりにいた人たちを傷つけ、迷惑をかけ、本当に自分本位で生きていたと思います。きのう、夜、ベッドの中でそのことを思い出しました。

今までの誰かに嫌な思いをさせたこと、うそをついたこと、自分の都合のいいように相手を動かしたこと、利用したこと。ああ、あの人にもこの人にも、と次々と思い出しました。そして、思いだした人たちに謝りました。そこには、かつて謝った人たちもいましたし、新に思い出した人もいました。

こうして・・・本当に申し訳なかった・・・と思うとき、それはその人へももちろんそうなんですが、私の中ではその人のご両親のことを思います。そのご両親の宝である我が子に対して私がその人を傷つけたり、ひどいことを言ったりするのを知ったら、どんなにそのご両親は傷つき、悲しむだろうと。こちらへの視線の方が大きいです。

人が大事に大事にしているものを粗末に扱っていた自分が恥ずかしい。もう、そんなふうに自分本位な生き方はしたくない。そうやって他人と関わることはしたくない。だから30代に戻りたくはない。

今、あのころから成長・進化した自分がいます。成長と進化は「私」を構成している普遍的能力を意識的に使うこと(白パターンの選択と実践)でそれ自体を大きく深くしていくことになります。そこにはいろんなものがありますが、私にとって、自分のしていたことが恥ずかしいことであったこと、それは、自分も相手も深く傷つけていたことを知れたこと、そして、もう二度と自分が恥ずかしいと思うことはやりたくないと思えるようになれたこと、誰かの大事な大事な人を大切にしたいと思えるようになれたこと。それは私にとって最もほしかったものではないかと思います。

自分に向き合い、自分で自分を育てていくことで、その人にとって(今世)最もほしいものにも自然とであうことになると思っています。

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