ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ

この手間があって…
2021/04/19

スマホを持っていない私とトミー。夫婦でスマホなしはかなり珍しい…と思う。

以前、お子さんを連れた若いご夫婦からスマホを渡され「写真を撮っていただけますか?」と言われたのですが、撮り方がわからず、その方に教えていただきながら撮ったということがありました。そのご夫婦、おぼつかない私の様子に「そう、そう、いいですよ。上手、上手」と言ってくださり、無事に大役(笑)をはたしました。

その私が「スマホ脳」(アンデシュ・ハンセン著 スウェーデンの精神科医)という本を読んでみました。

まず、表紙に「スティーブ・ジョブズはわが子になぜiPadを触らせなかったのか?」と書いてあります。それを見て、わが子には触らせないのに、他の子にはいいのか…?とつっこんでしまいましたが、大事な大事なわが子には触らせたくないほどのことがこれにはあるということです(ざっくり言ってしまうと)

しかし、スマホの便利さやメリットももちろんあり(スマホを使っていない私がいうのもなんですが)現在使っている人がこの本でスマホをやめるということもないだろうとも思います。著者が言うように、または、もうすでにスマホの使いすぎがまずいと気づいている人たちが実践しているように、スマホに使われるのではなく、自分がスマホをうまく使うということになるのでしょう。

この本の中で、私にとって、なるほどと思った箇所がありました。それは脳の中にあるミラーニューロン(他者を模倣して学習する神経細胞)についての箇所で、その働きは模倣だけではなく「他人がどう感じているのか」と思うときに使われる部分もあるのだそうです。そして、それを最大に機能させるには、他人と実際に会う必要があるというところでした。

演劇や映画を観て、目の前にいる主人公に共感して感動したり、涙したりすることもあるのに、そのときの「他人を理解したい」というミラーニューロンは現実の世界で人と会うときほど活性化されないのだそうです。

生身の人と人が現実的に向きあうことでしか感じられない相手からの何かにより、結果、お互いに理解が生まれるのだろうと思います。誰かと向き合っているときには、そこに言葉があり、相手の表情や声のトーンや視線や振る舞いやちょっとした動きや呼吸や、人によってはその人の背景から感じられるもの、刻々と変わる空気感など、があります。そういうあらゆる物事を自分の全身全霊で感じているのが人間です。意識的でなくても。

人ってこうして、微細なかけらを集めながらその人を理解していくように思えます。しかし、この手間があって理解へつながるのだろうと思いました。

私はスマホを使っていなくても、これはPCについても同じことが言えます。なんとなく、だらだらと情報を集めていく使い方はしないようにしていきたいです。

その感覚を身につける
2021/04/18

「私」が自分の内のパターンたちを観察するとき、察知するときの感覚と、意味づけワークでプラスの意味づけにもマイナスの意味づけにも入らないものとして「ただ在る」「ただひとつの体験」という在り方とはとても近いものがあります。というか、同じだな。

意味づけワークは今の自分の哲学を知るということ、そして新たな意味づけで世界を広げるということをしていきますが、いずれ、どの事象に対しても、この中立的視点である、プラスにもマイナスにも入らない「ただ在る」「ただひとつの体験」という感覚を持てるようになるための練習でもあります。何故この感覚が必要なのかというと、その体験がワンネスに(愛に)続いていると思うからです。

そして「私」もこのプラスでもマイナスでもない「ただ在る」「ただひとつの体験」という感覚でパターンたちを見ています。いつも。そこには、パターンに対して可愛そうに、とか、不憫だ、とか、さぞ苦しかったろう、とか、いわゆる感情はなく、ただ「そうだよね」なんです。とてもクール。だけど深い理解から打ち出される共感がそこにあります。だからパターンは落ち着いていくのです。

こう見ると「共感」とは相手と同じ気持ちになることではなく、同一になることではなく、それへの深い理解であるということもわかると思います。深い理解のためには距離が必要です。

で、この「ただ在る」「ただひとつの体験」と捉える感覚、「私」がパターンに向かっている時の感覚、それを語りかけや、白黒ワークや、意味づけワークや、熟考や、話合うことなどを通して体験していってください。これをまた思考でやろうとしてもできないので、体験していくしかありません。

体験するためにはとにかくやってみるということです。一度、その感覚を体験したら、それが消えてしまうことはありません(と私は思う)焦らず、あきらめず、でも、修行ではないので(やりたいから、興味あるからくらいの感じで)ライトに取り組んでいっていただけたらと思います。

たぶん、この体験をしたときには「なーーーんだ、こんなもんか。もっとすごいことが起きると思ってた」くらいのことだと思います。実はそのくらい普通なことを思い出そうとしている。

自分を見るのがつらい
2021/04/17

「自分を見るのがつらい」ということを多くの方から聞きます。何故かというと、自分の汚い部分を見ることになるから、自分の嫌なところを知ることになるから、自分にそんなところがあるんだとつきつけられるから、だから、自分を見るのがつらい…と。自分を見るのがつらいので、語りかけもやりたくない、というところへつながっていきます。

まず、これがパターンであることに気づいてください。●自分を見るのがつらい、というパターンです。ということは自分のことを見ているのは誰?パターンが見ているということです。パターンが自分を見ているときにはつらさが出てくるので、それを感じたときには、これはパターンだなと中断します。

自分を見るのは自分の内の「私」です。「私」しか自分の内を見ることはできません。なぜならば「私」にはジャッジがないからです。ジャッジがないからただありのままに見ることができます。それはまるで、自分の内で起きていることなのに、あたかも他の人を見ているような感覚です。棚に置いてあるパターンという置物を見ているような感じです。ただ、それがあるだけ。この感じを身につけていきたい。

これは「私」とパターンが分離している状態です。分離しているからこそ、ゆがみなくただ、パターンを見ることができます。ちょっと難しいかもしれませんが、この感覚は自分を解放し、自由にさせるためには必要です。

そして、考えてみてください。自分というものは半分はポジティブをもち、半分はネガティブをもっています。だから、自分の汚い部分、自分の嫌なところ、自分にそんなところがある、ということはあって、あたりまえのことです。それなのに、どういうわけか、自分にはそういうものがない、ない自分であって欲しい、と思っているんです(パターンは)でも…いないですよ、そんな人。マスターたちにも。マスターたちはただ、それらとの付き合い方を知っているという人たちです。

全て、自分の内にあるものを、そのままに、受け取れる自分に成長をしていく。ただ、それだけのことですが、それはあまりにシンプルなことなので、かえって戸惑うのかもしれません。それは、ずっとパターンが信じてきたこと、ネガティブはよくない、これはだめなもの、こういうことはやるべきではない、これは恥ずかしいこと、などなどの洗脳によるものであると思います。ですから、これもといていくことが必要だろうと思います。

心のままに
2021/04/16

沖縄クラスは小禄南公民館で毎回行っています。コンクリートでがっちりと造られた古い建物で、どことなく、遺跡のようでもあり、なんとも形容しがたい建物です。

建物の外にある階段になぜだか草がボーボー生えていて(だから遺跡のように見えるのかも)忘れ去られてしまった建物のような感もありますが、地元の方達に愛されている公民館です。

で、今回、窓を開けていつもの瞑想を皆でしました。私が誘導しながら皆がそれぞれに自分の心をだんだんとオープンにしていきます。

「根拠はないけれど…私はやっていかれる…」・・・・と誘導をはじめたら、開けられた窓の外から小鳥たちのさえずりが聞こえてきました。「ピチ、ピチュ、ピピピピ、ピッツ、ピツッツ、ピピ、ピチュ・・・」とかわいらしく、きれいな鳥たちの声。なんて贅沢なんでしょう。瞑想のリアルBGMです。

あのとき、あのさえずりを皆は聞いただろうか。皆にあの声が届いていただろうか。

窓の外を見ると、青々とした植物が見えました。誘導しながら、私はどこかの国の遺跡の中の森の中にいるような気分になりました。鳥たちのさえずりによって、やってきたあのときのことがとても印象に残っています。

近頃、自分から取りにいく(求める)ということをやめていて(というか興味が薄れていて)自分の目の前にくるものごとをそのまま受けとるようになっています。これが正しいとか、ミームが高いということではありません。人ってそういう時期もある。

そして、そういうときに受けとるものとは、なんでもないものごとなのに、気づきがあり、答えがあり、意味があるということを知りました。受け身でありながら、自然と得ているものがある。そんな時期を終えて、また、自分から取りにいく(求める)ということをしたくなるときがくるのだとも思います。自己探求は、それを交互に行っているのかな、と思います。これも心のままに。ただ、心のままに在ればいいと思っています。

ネタ切れなので・・・
2021/04/09

今朝は完全にネタ切れ!ネタ切れのときは写真!

…ということで数か月ほど前に作ったドールハウスの二作目です。横16センチ、奥行き13センチ、高さ14pのお部屋。これは「工作室」という名前がついていて、部屋の主は工作が好きな人なのでしょう、色々な道具や作り途中のものなどが置いてあります。

完成したこの部屋をじっと見ていると、自分がそこにいるような気がして、なかなか楽しいものがあります。この椅子に座って、窓の外の風景を見ながら、次はこれを作ってみようと案を練る。楽しいでしょうね。

ドールハウスのいいところは自分では持てないような部屋や、住めないような家が目の前にあらわれるところです。こんなカフェでお茶したい、こんなお店に入ってみたい、というような素敵なお店もたくさんあり、はまる人ははまるだろうと思います。ちょっとねらっているカフェもあるんですが、もう、あの細かさはできないかもしれません。もし、作るのなら、これも、1歳でも若いうちに(笑)と思います。

さて、今日はこれから沖縄へGOです。沖縄クラスのあの独特なほどけるような感じとともに、ゆっくりとじっくりと皆さんで学んできます。どうぞ皆さまも良い週末をお送りください。

足場をかためる
2021/04/08

先日お会いした方が「こうして、自分の足場をかためていくことで、ワンネスに向かっていくのか…とわかった」と話されました。そうだと思います。

まず、自分の足場をかためていく、その先にワンネスがある、本当にその通りだと思うのと、そのことに気づいていただけてよかったと思いました。

私は足場をかためることがとても大事だと思っています。何ごとも基礎、土台、それがあって先に進めると思っている。

例えば、ピアノ。はじめから自分の好きな曲を弾きましょう。そのために最初にやる教本のバイエルはやらなくてもいい、指の練習もいりません。というやり方が少し前にはやっていたようです。確かに大人になってから趣味でピアノを弾くのであれば、わざわざ、最初の教本からやらなくてもいいのかもしれない。時間をかけながら自分が弾きたい曲を最初からやればいいのかもしれない、というのはあります。でも、最低限の基礎の部分はがんばって自分のものにするといいと思うのです。なぜならば、実際曲を弾くときに厚みが出るからです。厚みを出せるのは自分には基礎という余裕があるからです。

ピアノだけではなく、バレエも、声楽も、絵(は自分が体験がないのでわかりませんが、きっと)も、陶芸とか、彫刻とか、そして、どんな仕事も。最初から自分の好きなものを作ればいい、やりたいようにやればいいというものではありません。誰かに基礎を習い、練習して、自分の土台を作る。そして自分が好きなもの、やりたいもの、表現したいものへと広がるのだと思います。

で、心の探求も全く同じです。まず、目を向けることは自分の足場をかためていくというところです。足場をかためるとは、自分で自分の心のお守りができるようになり、自己完結ができるようになっていくことです。自己完結はもう他人を使わないので(今までのように自分の人生に他人が登場しなくなるので、その分余裕ができる)自分と普遍的に存在しているものとの生活(笑)になっていきます。もちろん、これは、他人を受け入れないということではないですよ。そこについては以前よりも他人のことが思えるように(思いたい…と)なります。自分の在り方として、いつも、この時にどう在るか、在りたいか、ということを確認していくことになります。そのときに普遍的に存在しているものが役に立ってくれます。そして、その目がだんだんと自然にワンネスへ向いていくのだと思います。

ですからまずは自分の足場をかためる。自分が立っていられる自分専用の土台を作っていく。

神とともにある
2021/04/07

人が心底から(心底です)優しさを発揮しているとき、そこには神がいる、と私は思います。

その優しさは小さな小さなものであっても、その優しさを誰かのために、何かのために、人が優しさを発揮しているまさにそのとき、そこにはその人とともに神がいるのです。

それは自分の中の神が現れている(だからそこに神がいる)とも言えます。いつもは自分の内にそれはあって、優しさを発揮すると、それが大きく現れます。

毎日の生活の中であちこちに神とともにいる人達はたくさんいます。道に落ちている缶を拾ってゴミ箱に捨てている人。恥ずかしそうに、電車の中で席をお年寄りに譲っている中学生。「いつもありがとうございます」と声をかけているレジのスタッフ。エレベーターのドアで「お先にどうぞ」と言っている人。道端に咲いている小さなすみれの花を「かわいいねえ、こんなところでも咲いて、健気だね」と立ち止まって見ている親子。こんな普通にある場面、でも、そこは特別な空気感があります(その人の神の空気)

これは、優しさを発揮しているときだけではなく、勇気や、理解、許しや、素直さ、強さや、意志力など「私」を構成している普遍的資質を使っているときも同じようにそこに神が現れています。

私たちは皆が神の子供です。ですから本当の自分を構成しているものを使うときには神としての自分が発揮されているということです。

こうしてみると、この地上にいる人は全員神であり、もし、全員が自分である神を現して生きていれば、この地球自体も助け、地上は平和なものになると思います。

誰もが、自分の神を現して生きたいと思っていると思います。そこには、共通の魂の課題という永遠につながるもの(自分だけではなく、皆で)があるからです。もう、目先のものごとではなく、本質のところにあるもので生きていく。そこにしか、本当の平和も安らぎも幸せもないと私は思います。・・・・というところに自分は今いるということですね。

頭を下げる
2021/04/06

TV番組「情熱大陸」を見ました。

今回は「桜守」の3人の男性の方達が登場。桜の名所、奈良県の吉野山(行ったことないけれど)そこの3万本もの桜の木が満開になる1週間のためだけに、1年間、桜の世話をしている方達でした。

毎日、3人で山に入り、桜の木々をみまわり、傷をおってしまっているものの手当をしたり、苗木を育て、植樹をしたり、はたまた桜を見に来る人々が安全に道を通れるように、危険なものをどけたりと、全ては多くの人達に桜を楽しんでいただきたい、という一心で働いていることが伝わってくるような3人の方達でした。

「桜は我が子と同じ」と話していらして、そういう気持ちがないと、続けられないだろうなあと思いました。お昼には奥さんが作ってくれたお弁当を食べ、それぞれが自分の車で少々休憩し、また働く。

その、姿を見ていて、とても良い気持ちになりました。

しかし、同じ3人でいつも一緒、となると、お互いに気持ちが合わないときも、何かから気持ちの行き違いがあったりということもあると思います。お互いに息詰まりそうなときもあるかも。そういう、人ならだれでもが持っているそういうものを超えて存在していてくれるのが桜なんだと思いました。

その美しさゆえの大きな存在、そういう桜が多くの人を癒し、勇気づける。その存在の在り方に3人の桜守は頭を下げているのだろうと思いました。それが3人の方達には共通なものとしてあり、それが結束感にもなっているのだろう、と思いました。

頭を下げるものが自分の人生にあることは幸せなことだと思います。それは人ではないです。もっと大きな存在です。普遍的に存在している永遠な存在。それとともに生きられることは、幸せだと思う。そんなことを思った番組でした。

しかし、実際見てみたいですね。吉野山の桜。そのときには、きっと桜守の方達のことを思いだすでしょう。

承認も事象のひとつでしかない
2021/04/05

昨日の「承認欲求」の続きです。

「誰かから与えてもらった自分の価値はあくまでも与えた人のそのときのパターンの判断によるものがほとんどだからです。それは、その人のパターンにとって都合がいいことに対して与えられたものだからです。」と書きました。ちょっと意地悪な言い方かもしれませんが、ほとんどの人がパターンで生きている現実においては、私はそうだと思っています。

実際、誰か(のパターン)にとって都合のいい言動を私がすると「さすが、伊藤さんだね。よくわかっているよねえ、できるねえ」と言われたりします。私の中の承認欲求パターンは満足します。時にはその人により承認してもらおうとその人が気に入ることまでそのパターンは言ったりして。

しかし、何かの拍子に、その人のパターンに引っかかる言動を私がとれば「あんな人だと思わなかった。あんなこと言わなくてもいいのに。どれだけ私が傷ついたのかわかってないと思う、伊藤さんって」ということになる。そこですかさず謝れば「本当はわかっているんだよね。でも、注意したほうがいいよ。あなたはストレートすぎるから」などと言われる展開もある(実際ストレートなのでそこは何とも…なんですが)

そんなことを繰り返して生きてきた以前の人生。他人に気を使い、忖度し、空気を読み、自分を承認してもらう。そして他人も自分にそれを求める。そういうことをしている自分が見えてしまえば、そして、それがとても嘘っぽいことを知ってしまえば、もう、そこはいいと心底思います。他人からの承認なんて、あてにならないし、自分が誰かを承認することもあてにならない。

だから自分で自分を承認できるようになろう。それは、誰からも承認されないけれど、私は自分の価値を知っている、ということではなく、私には承認への執着はないので…と切り捨てることでもなく、私はそれでも健全に生きる努力をし続ける、していく、というその事実、それがあれば十分ではないでしょうか。

健全に生きるためには、自分のあらゆる部分を使って生きているわけで、そこには他人の承認などありません。それでも毎日生きている。それは事実。そういう自分を自分で承認してください。そして、そもそも承認って何?と意味づけしてみるのもいいと思います。承認も事象のひとつでしかありません。

承認欲求
2021/04/04

「承認欲求が自分にはある」と思っている方は多いと思います。というか、ほぼ全員。その度合いは違っても人はそれをパターンにもっています。子供から大人まで。

そして、その承認欲求のパターンを満たすことに一生を使ってしまう人も多いと思います。どうすれば他人に認めてもらえるか、どうすれば褒めてもらえるか、すごいと言ってもらえるか、さすがと見てもらえるか。それがあれば自分の価値を感じられるので(パターンは)承認獲得のために努力をします。

しかし、それにより得た承認は一時のものであり、より承認欲求は強くなります。なぜならば、誰かから与えてもらった自分の価値はあくまでも与えた人のそのときのパターンの判断によるものがほとんどだからです。それは、その人のパターンにとって都合がいいことに対して与えられたものだからです。

そして、何よりも、その承認欲求パターンが自分を苦しめます。パターンは言います「他人に承認されないということが自分がダメな証拠なんだ。イケてる人は他人に承認されている。それがないことは価値がないということなんだ。これができていない、これもわかっていない、こんなこともできない、だから誰にも認めてもらえないんだ。それは存在価値がないということなんだ。そんな自分が許せない」と。許せないんです。他人から承認されない自分を。

このパターンの言い分はかなり辛辣であり、自分の心身をえぐるようなパワーがあります。そして、なんとなく、もっとものような気にもなります。これは、それだけ個人的にも、社会的にも、他人からの承認が全てにおいて大前提になっているからです(こんな感じで洗脳)

この自分の心身をえぐるようなパターンの攻撃、怒りにのみこまれていくと、とにかくこの責め苦から逃れたいと人は思います。とにかくこの苦しさから逃れたい、離れたい、楽になりたい…それが高じてしまうと、その一心で発作的に自死へ向かってしまうこともあります(…とお会いした方が、承認欲求が満たされない苦しさから自分にもその可能性はあったとお話してくださいました)自分の心身を責めるこのパターンは自分の命を終わらせてしまうこともあります。

誰も、あなたに「あなたはだめだ、生きている価値がない」とは言っていません。でも、自分の中にいるこのパターンが自分を攻撃するのです。自分を苦しめているのは他人ではない。自分であるということ。でも、そうであるからこそ自分でそこから抜け出ることができるんです。それは自分の中にあるものだからです。

いつも通り、語りかけと白黒ワークと意味づけワーク(洗脳をとくワークともいえる)で、少しずつ、少しずつ、自分を苦しめる承認欲求からも離れていくことになります。

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ

- Topics Board -