ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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2024/10/22

カウンセリングを習っていた頃、先生からどんな人がカウンセラーに向くのか、という話を聞きました。

年代としては、50代から上で、あらゆる体験をしてきた人がいいということでした。

社会に出て働いたことがある、結婚したことがある、子供を産んで育てたことがある、離婚したことがある、不倫したことがある、病気やケガや事故で入院したことがある(できれば精神科に2回くらい入院したことがあるとよい)人から裏切られたり、いじめられたり、傷つけられたりしたことがある、そして自分も他人を傷つけ、いじめたことがある、喧嘩したことがある、夜遊びもした、ギャンブルもした、お金で苦労したことがある、両親が不仲であった、などなど、あらゆる苦労、悲しみ、怒り、憎しみ、をたくさん体験をしてきた人がカウンセラーには向いているとおっしゃっていました。

初めてそれを聞いたときに「そうなんですか?」と思ったことを覚えています。いやいや、カウンセラーになる人は品行方正、社会的にも、倫理的にも、人間的にも、生まれや学歴も、高い人…と思っていたので驚きました。先生はご自分の先生から教えていただいたのだそうです。

で、心当たりがけっこうある私だったので、だったら私もカウンセラーになれるのかなあ、と思ったのかもしれません(よく覚えていないけど。又これらのことはあくまでも大人になってからの話で、まだ庇護されて生きる子供に求めるものごとではもちろんありません)

・・・・というように、職業のイメージってあると思います。そして、そのイメージは意外と強固で、万人に共通してあります。そして、そのイメージの自分になろうとするような気がします。会社員はこんな感じ、教師はこんな感じ、医療関係者はこんな感じ、社長はこんな感じ、クリエイティブなことをやっている人はこんな感じ、主婦はこんな感じ、など。そこにもカウンセラーはこんな感じがあるわけです。

しかし、そのイメージというところをとっぱらってしまうと、そこには、その人がいる。生身のその人がいる。その生身のその人がその仕事をしている、というのが本来のものだと思います。生身のその人では頼りないという思いを持つ人もいる(もっとイメージ通りのカウンセラーがいい)し、生身だからこそ頼りがいがあるという人もいます。どっちが正しいのかではなく、そんなふうに人はいる。自分はどうありたいか。

頑張る
2024/10/21

頑張るということ。これがなかなか難しいと思う。

何が難しいのかと言うと、自分の精神性の成長も、今までの頑張るのやり方に固執してしまうから。それが頑張ることとして成立していて、そこで頑張りに対しての何かを手にする領域においてはその頑張るでいいのだと思います。

しかし、そこから離れて、違うところへ向かう(ということが精神性の成長)ときに言われるであろう、頑張る、はよくわからない頑張るだと思うんです。

クラスでも何度もでてきているブルース・リー先生の言葉「考えるな、感じろ!」も、感じろと言われているから感じようとすると思います。考えない、感じよう、感じよう、どんな感じ?何を感じているの?‥‥と頑張る。気づけばそこは今までの思考の世界です。

感じようとするいきみが、本来のところから離れていってしまう。じゃあ、それはどうするのか?というところですが、よく言われるのは頑張ることをやめる、ですが、私はそれは違うと思っている。何故かというと、そこは、頑張るのか、頑張らないのかのどっちかであり、頑張るそのものの変化がないからです。これは外側のところを変えているだけ。

では、何がある?例えば、今までの頑張るを使わないことを頑張る。

今まで学んできた、習ってきた、練習してきたものごとを集めたところにある頑張る、を見てみる。

頑張るという言葉に変わるものを自分が見つけてみる。そこにはその道を歩くために必要であろうエッセンスがわかっているからということがその言葉の裏にはある。

…って、やっぱりわからないーーーかもしれません。そのくらい新しいことってわけわかんないんです。でも、私はそれでいいと思っています。なんせ初めてのことだからです。

でも、やっていくうちに(自分が知りたいと思い続ければ)何かが見えてくるはずです。というか与えられる、と私は思っています。それがやってくるまで待っていればいいと私は思います。となると、待つ力が必要になります(もちろんやるべきことをやりながらの待つです)待てないというところがあればそれはパターンなのでケアをしてください。

新な頑張るはこうして待つ練習にもなる、そこに必要なエッセンスを見つける練習にもなる、総体的に自分自身や自分の人生を見る練習にもなる…きっともっとあるはず。というように、新な領域では、何かひとつを得るのではなく、広い範囲にわたって同時に得ていくものが在る事にも気づきます。

相性
2024/10/19

昨日は、足の指先に違和感があり、時々お世話になっている整形外科へ行きました(これは腰からきていると判明)

先生は変わらず「元気」でした。腰が痛くても、膝に水がたまっていても、患者さんより動きが遅くても、腰、痛てえんだよと言っていても…「元気」。そんな先生に会うとこちらも元気になります。

診察室に入り「おはようございます。お願いします」と私が言うと「おはーーっす。あのさあ、ちょっと先にお茶飲んでいい?」とおっしゃるので「どうぞ」と先生がお茶を飲むのを待つ。

「俺ってさ、トークドクターだからさ、喉かわいちゃうんだよ。ほら、治らないものってあるじゃん。特に年とると。そういう患者さんに、大丈夫だよーー。皆痛いから大丈夫。オレも痛いんだよ。一緒だよ。大丈夫、大丈夫と言って、少しほっとして帰してあげたいんだよ。だからずーーとしゃべるの。これさ、明石家さんまだったらきっともっとうまいんだよ。しゃーーないやろ、年なんやから…とか言っちゃったりしてさ。いや、俺だって骨折とかひびがはいっているときはちゃんと治療するよ」と、しゃべるしゃべる。

「私、先生のそういうところ、いいなあと思うんですよ。そう思っている患者さん、多いと思いますよ」と言うと「いや、いや〜でもさ、ちょっと安心させてあげたいんだよ。ところで何だっけ?」ということで本日の目的、骨中心の血液検査の結果。

骨的には食生活を褒められました。これからも今の食生活を続けるように、でも、もっといい状態にしようと欲張らないことと言われました。もっとよくしようではなく、ちょうどいいところが必要なんだそうです。なるほど、これ、全てに言える。

そして、ずっと高く、ずっと薬を飲むことを拒んできていた総コレステロール値が間違いじゃないかというくらい低くなっていました。水をよく飲むようになってから下がり始めてはいましたが、その比ではありませんでした。

何故?と考えた。で、この3ヶ月の食事だろうと思った(それ以前の水もあるだろう)今までの人生で初めて食べるものを制限したり、選んだリしながら過ごしてきた3ヶ月。面倒だなあと思うときもあったけれど、食べ物と体をこうして知ることは私にはよかったと思いました。

「またさあ、何かあったらいつでも来てよ。できることはやるからさ」という先生の言葉にまた元気をもらい帰ってきました。

…相性だなと思う。人と人が関わるって。相性がいいことで効果は倍増するのだろうと思いました。

人間とは何か
2024/10/17

「夜と霧」から私の感動は続いている。

これは‥‥私に新なものを見せようとしている、と思いました。でも、それは自分はレベルが高いからではなく、今の自分にそれが必要だから与えられているということです。レベルが高かったら与えられることはないでしょう。

今回はフランクル先生を通して、そこにあるものを学べと言われている気がします。

どういうところに私の感動はあるのか。それは「人の真価」についてです。本の中に幾度となく出てくるそれらについて。フランクル自身もそれを体験し、自分以外の人たちの中にもそれを見る。そのような人たちはごくわずかであったようですが、最後まで人間であることを捨てなかった人達です。

この悲惨な状況下であったからこそ、平和なときにはそこまで自分の本来の真価を高みに上げることが出来なかった人がここではそれが可能であったというところに、人間の偉大さと大きな希望を感じられ、それが私の感動となっています。

このあたりのところを私は学んでいかなくてはならないのだと思います。できないことをやっていくのが学びです(だからできること、得意なことだけをやっていてはいけないんです)そして、学ぶとは、知識を増やすことではなく、そこに基づく実践であるわけですから、きっとセッティングされることも起きてくるでしょう。私はそれに向き合う。

人間とは何か…。

以下「夜と霧」(新版)ヴィクトール・E・フランクル 著 池田香代子 訳 みすず書房 より

「たとえば、こんなことがあった。現場監督(つまり被収容者ではない)がある日、小さなパンをそっとくれたのだ。私は、それが、監督が自分の朝食から取り置いたものだという事を知っていた。あのとき、私に涙をぽろぽろこぼさせたのは、パンという物ではなかった。それは、あの時この男が私にしめした人間らしさだった。そしてパンを差し出しながら私にかけた人間らしい言葉、そして人間らしいまなざしだった‥‥。こうしたことから、私たちは学ぶのだ。」

…こうしたことから、私たちは学ぶのだ…はい。

そうではない世界にあるもの
2024/10/16

落ち着いて、あえてゆっくり、丁寧に、という物の考え方、捉え方。

それはだらだらといつまでも無意識で考え続けるのではなく、決められた短い時間でありながら丁寧にそれに向かう状態です。

で、ワークはそれぞれがそれに値すると思っています。語りかけも、白黒ワークも、ゆっくり行ってもせいぜい5分以内です。そこを落ち着いて、あえてゆっくりと、丁寧にやっていきます。

ゆっくり言う「そうだよね」。ゆっくり言う「もしかしたら…」。そう言うことで感じられるそこの世界は、きっと日常のものとは違うと、少しずつ感じられていくと思います(でも、感じようとしない)そして、ここには呼吸もつきもので、その力も借りてワークをより生き生きとしたものにしていきます。

息を吸いながら言う「そうだよね」。息を吐きながら言う「そうだよね」。どちらが正しいのかではなく、その違いを感じてみるといいと思います。それがわかると今日はどっちにしようかも選択できます。より生き生きとしたもの、フレッシュなものにしていくのに使えます。

こういうことも、落ち着いて、あえてゆっくり、丁寧に…という心があってこそのものです。

日々忙しさの中にいると全てをそのリズムで行うことが普通になってしまいます。しかし、そうではない世界があるということです。そして、これからの「道場」ではこのそうではない世界にあるものを見ていきます。

再び読む
2024/10/15

今、私は、感動している。

この3週間ほどゆっくりと「夜と霧」(ヴィクトール・E・フランクル著)を久しぶりに読んだからです。

今までも2回ほどは読みかえしていたと思うのですが、今回は、まるで初めて読んだような感動があるのです。

ここに書かれていることはかつて本当にあったことであり、それは、この時代に日本で生きている私には想像もつかないものです。強制収容所では、まず、今日1日生きられるのかどうか、労働できるのかどうか(労働ができなければ処分されることになるので)今日も訳もなく殴られたり、蹴られたり、わざといじめられたりされるのではないか、小さなパンのひとかけらをどうやって手にし、どうやって食べるかなど、毎日があまりに残酷で劣悪な状況にあります。

しかし、その中にいながら人間の真価を高みに上げていった人たちがいた(わずかな人たちではあったようですが)とフランクルは書いています。そして、フランクルも暴力、空腹、寝不足、病気、家族の死に苦しみながらも自分をどうにか生かし、時には他の人を助けることでこの体験をされ、この本はできあがったということです。

このようなことが書かれています「被収容者は行動的な生からも安逸な生からもとっくに締め出されていた。しかし、行動的に生きることや安逸に生きる事だけに意味があるのではない。そうではない。およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。」(夜と霧 ヴィクトール・E・フランクル みすず書房)

平和な安定した環境の中にあっての言葉ではないからこそ、それが私を感動させたのだと思います。また、そんな劣悪の中にも、今と同じように被収容者同士の中に生まれる優越感や、劣等感、優しさや、ずるさ、絶望と絶望を踏みとどませる考え方、目の前のことだけを見るのか、はたまた全体としてのそれを見るのか、などもそのままそこにあるということに、環境が違っても、時代が違っても、人間にはいろんな人がいて、そこの部分は変わっていないんだと理解できました。

時間をおいてまた読み返したい一冊です。

合同セミナー終わりました
2024/10/14

岩手と茅ヶ崎クラスの合同セミナー、無事に終わりました。皆さま、ありがとうございました。

2日間のセミナーはあっという間に終わってしまい、時間そのものが早くなっている?と思うくらいでした。セミナーって不思議で(私の場合)今回はこれをやろうと用意していくのですが、そのときになると、それよりも話したいことや、それよりも優先されることが現れて、結局そっちに時間をかけるということがほとんどです。今回やれなかった分は、また、タイミングのよいときに、自然とやってくる、やるべき時にやりたいと思います。

3日目はプチ観光で「岩山」へ。空気が澄んでいて、とても気持ちがいい。盛岡の街や周りの山々が良く見えます。これは茅ヶ崎では見ることのできない風景で、新鮮です。山の樹々のいい香りもして。

今回は、展望台にも上りました。やはり上に上がって見える景色は今まで見えていた景色とは違います。高くなった分、より全体が見えて、より、はっきりと、細かく見えて、それによりリアルな感じがします。

これは、意識の領域を上げていくということと同じだと思いました。上がれば、よりそのままが見える。だからより気づける。そしてより知ることができる。

今回、毎朝、ホテル近くの川に沿って散歩もしました。どんどん歩くこと自体も気持ちよいのですが、2日間、犬の散歩をされている、お二人の飼い主さんとちょっと言葉をかわしたり、犬に触らせてもらったりしてそれも楽しかった。

犬って、目があまり良くないと聞いたのですが、今回あった2匹の犬とはまず目がばっちり合いました。そのときに「あれ?」という顔をして、一瞬立ち止まり、次に尻尾がちぎれそうになるくらいふって走って側にやってきました。この、わかりやすい感じが犬のいいところというか好きなところです。そのままでいる、ありのままでいる、というところを体現している存在。彼らから学ぶことも多いのです。

合同セミナーへ
2024/10/09

「死ぬまでに1度でいいから茅ヶ崎と岩手の合同セミナーやりたいなあ〜」とかつて言っていた私。

その後、自ら動こうとせず、皆さんからの後押しで、開催できた合同セミナーでしたが、今回、第3回目を開催することになりました。これもひとえに皆様のおかげです。で…今日は、これから盛岡へ行ってきます。

茅ヶ崎クラスも岩手クラスもやっていることは同じなので、今回もスムーズに進んでいかれることと思います。人数が増える分、ひとりひとりの個性が溶けだし、自分により深く気づいたり、理解できたり、という事も起きていきます。

こういう体験のひとつひとつが、自分の学びの質をあげていきます。そして、その質を高めていっているときには、疑問が色々と出てきます。その時にはそのままにせず聞いてください。このように、学ぶ、疑問を持つ、理解するということが学びの醍醐味だと思います。その醍醐味のところに皆さん、入ってきていると感じています。ですから、ぜひ、楽しんでいただきたいと思います。

道場としても、新な領域へシフトしていくことがこれからの課題なのでこの時期に合同で学べることはよかったと思います。

皆さんが、善い時間を過ごせますように。

では、行ってまいります。

自分を生きるって。
2024/10/08

自分を生きるって…自分のそれを見つける。新な意味づけをそれに持つ。そして、その更新を続ける。という事なんだと思う。

それは人それぞれに違います。そこを限定すると、共通のそれになりますが、限定しなくてもいいという意味づけを自分が持てれば、皆と共通なるものを持たなくてもいいということです。

でも、それは、自分本位、奇をてらうとかあえて孤立するということではなくて、自分にとっての健康、お金、仕事、人間関係、家族との関係、生き方、在り方。物質面においても。すべて。自分のそれって、なんですか?を見つけていくことで、自分を生きるということができるんじゃないかと思うんです。

ですから、これが絶対はないということです。

で、この新たな意味づけを持つには、高みから見る事が必要になります。高いから見渡せるとか、高いから細かいところも見えるとか、高い分、今まで見えなかったことは見渡せます(高いから偉いのではないですよ)そのある程度の高さには、自分で登っていかなくてはいけないのです。

高みに登るには、努力は必要になります。日々、自分はどうありたいのか、を忘れずに、やるべきことをやり続け、新たなものを選んだのであればそれを行動に移し、継続し、結果は期待せずにおまかせする。そうして気付けば、今まで見えなかった自他を見ることになるし、自分の周りで起きていることも良く見えるようになっていました、ということになります。

それにともない感受性も取り戻していることに気づくでしょうし、感性も磨かれていきます。より素直に、正直に生きている自分にも出会っていきます。いいことづくめだ。こうして自分を生きる。

何かを成す
2024/10/07

何かを成すってどういうことだろう。

一般的には何かを成した人は認められ、賞賛され、特別な人に見られる、というのはあります。そこでの何かというのは、誰もが一目おく仕事や地位についていること、それで稼いでいること、を言います。政治経済の世界から芸能界まで、あの人だ、と誰もが知っているような人はここまでくると成功者とも言われます。

ここまでではないとしても、それなりに皆が承認している仕事をしている、特別な能力を使うことをやっている、フォロワー数が多いなども、何かを成したことになるのだと思います。その領域においては。

そして、それを天職といったり、自分を生きている、と言ったり、自分のやりたいことをやっている、と言ったり、自己実現と言ったりします。

‥‥という世界に多くの人は住んでいるので、そこでの何かを成しているかどうか、という判断に自他をあてはめていきます。そして自他をその中においてどのくらいのところにいるのかを判断し、そこに確定していくことになります。

この領域において、専業主婦で子供を育て、親の介護をし、自分で稼ぐことはしていない人は何かを成したとは認められないんです。

しかし、その自分を支えている何かがなくなってしまう日は必ずやってきます。ただの人になる。昔こうでした…と話しても今はそれがない。そうなるとその人は過去は天職に生きた、自己実現したが、今はそうではないとなるのでしょうか。天職って、自己実現って、そんな薄っぺらいものなのでしょうか。そんな一時のものなのでしょうか。

大切なことは、どう生きるかです。自分は成していないという領域を出て、いわゆる成していたものがなくなっても、自分を成す生き方が自分はできているのだろうか、と自分に新な視線を向けることです。そして、その生き方を身につけるから(自分の成すを見つけること)心は安定し、それこそ天職につき、自己実現したと自分に言えるのだと思います。

自分が何を信じて生きているのかをもう一度見直してみるといいかもしれません。そして、そこにいたいのかどうかも感じてみます。

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