ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ

柔軟さと直感
2021/05/11

先日、マンションのエレベーター内で、よくお見受けする年配の女性の方と一緒になりました。その方が「毎日毎日、家にいなくてはならなくて、本当に嫌ねえ。もう、どこにも出られなくて気が狂いそうだわ」と言いました。「そうですねーー」と言いましたが、正直、言われていることがわかりませんでした。

これから、その方は、たぶん買い物に出かけられるところのように見えました。近所にスーパーがあるので、そこへ行かれるのだろと思います。

日常的な買い物であっても、こうして、穏やかな日に外に出て自分の足で歩いて、時々歩く道をかえたり、道端の花を見たりすることでも気持ちが晴れると思います。特に今は新芽のときで木々がきれいです。上を向けば、きれいな空も見えます。小さな子供も遊んでいるし、散歩している犬もいるし、なかなか楽しめる外出だと私は思うのですが。

この方にとっては、これは外出ではないのでしょう。以前のように、お友達と会って好きなところへ出かけたり、いつでもどこへでも、不安なく今まで通りに行かれることが外出なのでしょう。

私はもともとがほぼ家にいる状態だったので、それほど、この1年間の生活に大きな変化がありませんでした。従って、息が詰まる、とか、気が狂いそう、とか、もう限界ということなくやってきています。うちは外食も多いです。

今の状況は、ひとりひとり感じ方や捉え方が違うので、相手のそれは尊重したいです。

ただ、今までのやり方、今まで通りに固執してしまうと苦しいと思います。いろんなことが移り変わっていっているので、これからも、今までのようにはいかなくなると思います。さあ、そのときにどうやって自分を保って生きていくのか。

そういうときに一番役立つのが柔軟さだと思います。これとこれがない、だとしたらこれだけでどうにかできないか。このやり方ではもうだめだ、だとしたらこのやり方は手放して、こんなことはどうだろう?と、柔軟に考える。やってみてだめだったらまたそこで考える。そのときにはぜひ、部屋をつくって「私」が入って直感で決める、も、使ってみてください。

柔軟さと直感、これは使えると思います。逆に固執と頑固さと過去のデータ、これはもう使えなくなるだろうと私は思っています。

遊ぶ
2021/05/10

人の成長・進化も楽しい、おもしろいと思えるから続くのだと思います。

そのためには自分の内側へ入り、観察、洞察、語りかけ、白黒ワークなどなどいつも自分に意識を向けていることが必要になります。そのことが楽しいから、そこに面白味があるからやっていかれる、というか、やりたいのだと思います。

もし、これがまるで修行のように感じられ、苦しい、大変、楽しくない、おもしろくないという人達には、成長・進化という遊びがあっていないのかもしれません。でも、それでいいんです。成長・進化がレベルが高いことではないし、もしかしたら、やり続けても何も得なかったということだってあるかもしれません。それでも、このプロセス自体が楽しくて、おもしろい遊びだから、ということが何をするにしても最も大切な気がします。

本当に好きこそ物の上手なれです。自分は本当にこれが好きなのだろうか…とみてみるといいと思います。

亡くなった叔父がよく言っていました「人間、死がスタート地点で、そこまでの長い退屈な時間をどれだけ楽しく遊ぶか…それだけなんだよ」と。小学生だった私にはそのときはなんのことかさっぱりわかりませんでしたが、今となってはこれは名言です。

自分にとって楽しいこと(パターンの楽しいではなく「私」の楽しい)をしていってください。本当に楽しいことであればそれをやっているとき、それにむきあっているときにはとても満足すると思いますし、その楽しさ、おもしろさが何かを動かします。その満足感が自分を豊かにしていくし、その余裕が他人への優しさにもなります。

私はこの、成長・進化への歩みが楽しい、おもしろいです。うまくいかないときもあるし、パターンにひっかかって「あーーー、面倒くさ、もう、いや」とパターンが言うときもあります。そういうことがありながらも、それでも、そこにある意味を考え、自分の新な課題と受け取り「私」はどうありたいのか、と自分に問い、自分で答える、こういう作業がやっぱり楽しい、おもしろいと思えます。

成長・進化も遊びです。これは修行では決してありません。軽やかに遊んでください。

「私」優位になっているとき
2021/05/09

何かを得ようと頑張れば頑張るほど得ることはできず。こうなりたい、こうでありたいと思えば思うほどそれから遠のく。お金に執着すればするほどお金を失い、健康であろうあろうと求め続けてもそうならない。

これは、先日も書いたように、強い力をもつ●自分にはそれらがない、という黒パターンが根底にあるからです。起きていることはそのパターンに対して「それらがない」がちゃんと与えられているということです。

なかなかわかりにくいところではありますが、それをやってやってやり切ったときに、人は、疲労感とともに諦めの境地に陥ります。疲労感は心身の力みが抜けるということ。そして諦めの境地は執着を手放した状態。自分としてはだめだったと思うのですが、そこにどういうわけだか得たかったものや、求めていたものが現れたりもします。現れたりも、なので絶対現れますではないですが。又は、違ったものがやってくる。

これってどういうことかというと前者は黒パターンが欲していたもの。執着を手放したときには「私」優位になっているとき。

「私」を構成している普遍的能力に「執着」はありません。「力み」も「(黒的)頑張る」もありません。で、結果が与えられる。

このような体験を多くの方がしていると思います。気がつけば、あのとき、なんであんなにうまくいったんだろう、なんであんなにスムーズだったのか、それ以前はあんなに毎日頑張ったのにそうではなかった、というものです。

・・・・・と見ていくと、どうも、キーは「私」の持つ普遍的能力以外のものを使っていてもだめなのかもということが見えてきます。逆に言えば「私」の持っている普遍的能力を使うことが大事なのでは?と思えます。

「私」の持っている普遍的能力を使うということは「私」はどうありたいか、ということにつきます。この場面において「私」はどうありたいのか。

どうありたいのか、が見えれば普遍的能力の中の何を今使うべきなのかがはっきりとわかります。これはその瞬間に「私」の在り方を「私」が選択しています。どうありたいのか?と自分で問い自分で答えを出しています。この連続でいったら?選び変えることで更新していっているそこが根底となり、それにみあった結果へ移っていくということが自然と起きてきます。

「私」を構成している普遍的能力を選んで、使って生きること。これだけの単純なこと。少しずつそうしていく日を増やしていけばいいと思います。一気にできなくても。でも視線はぶれない。楽しめれば一番いいです。

「私」の成長・進化
2021/05/08

成長・進化という言葉(私もよく使いますが)、黒パターンがそれをとらえると、理想の自分の姿とか、全くパターンに引っかからない自分とか、とにかく「楽」しかない自分とか、毎日が充実している自分とか、人間関係がばっちりな自分とか、豊な生活をしている自分とか、そんなイメージを黒パターンは成長、進化と思っていると思います。成長し・進化する=ミームが上がれば、そうなるのだろうと黒パターンは思っています。

すると、無意識のうちにそこを求めていたり、その結果を確認しようとしたりします。

しかし、この成長・進化はすることはありません。どんなにミームが上がろうと、嫌なことは起きるし、パターンの理想の姿にもなってないし、充実していない日々は普通にあり、煩わしい人もまわりにはいるし、生活もこれと言って変わっていない。

では、どこに目を向けて成長・進化と言っているのかというと、あくまでも「私」の成長・進化であるということです。では「私」のそれとは具体的には?「私」はそのままでいい、というスタンスにあります。それはパターンを含む自分の全てに対して思っているもので、そうやってパターンたちをおもりし、リードし、それゆえに自分の全てを許していくことで「私」自身は成長・進化していきます。そもそもあるものはそのままでいいという見方をしています。

今までの自分の生き方も、過去にあったいろんなことも、自分の個性も、性格も、自分はだめだ、劣っている、と言う黒パターンたちもそれはそれでいいと「私」は言います。なぜならば、どんなものも「私」は抱きかかえていくことができるからです。「私」がどれだけあらゆることを抱きかかえていかれるか・・・この度合いが成長・進化になります。

そして、その「私」が本当の自分です。本当の自分を成長・進化させていくために今世もここにやってきました。自分に向き合うことで少しずつ、本来の「私」の在り方を思い出し、それを育て、自分の全てをそのまま持って生きる。そうして「私」は育つ。

「私」が育つに従って、以前よりは高いところから自分のことも含め見ているので、今まで気づかなかった意味や、今までは見えていなかった点や、わからなかったことへの気づきがおこるのです。だから結果、自然と「楽」になる。

・・・・視野が広がることが楽になることなんです・・・・

黒パターンの思う成長・進化は、条件付きなので、その世界は狭く、物質的です。それに対して「私」の成長・進化は条件をもとにしているのではなく、物質的ではなく、普遍的です。そこには全体性というものがあります。

成長・進化、それを誰が見ていて、誰が求めているのかというところに目を向けてみるといいと思います。

読書タイム
2021/05/06

夜、ベッドに入ってから本を少し読むのが楽しみです。と言っても数ページ読んだだけで、本がばさっと落ちて「さあ、寝るか」となるので、1冊を読むのにすごく時間がかかります。

で、今回やっと読み終わったのが「日本奥地紀行」イザベラ・バード著(平凡社ライブラリー)です。裏表紙にこう書いてあります。

「文明開化期の日本・・・・・。イザベラは北へ旅立つ。本当の日本を求めて。東京から北海道まで、美しい自然のなかの貧しい農村、アイヌの生活など、明治初期の日本を浮き彫りにした旅の記録」これを読んで読みたいと思いました。

実在の人物イザベラ・バードは1831年英国に生まれました。子供の頃から病弱であったイザベラは、23歳のときに医者にすすめられてアメリカとカナダを訪れます。その後も医者のすすめでオーストラリア、ニュージーランド、ハワイなどへ旅行をします(なかなかのお医者さんだと思います)そして、47歳のときに初めて日本を訪れました。

東京から北上し、東北地方を巡り、北海道へ入ります。その道々で出会った日本人、アイヌの人々との生活や、その地方で目にした風習や、風景などが細かい描写で記録されています。

当時の東北地方に住む人々は外国人を見たことがないので、彼女のまわりにはいつもたくさんの村人が興味深々に集まっています。やっと宿の部屋に入れてやれやれこれで一人になれると思っていると、障子に穴をあけてたくさんの目が自分を見ている、というありさまです。

夜寝るときは、害虫に悩まされ、貧しい村では食べものに困り、冷たい雨の寒さに脅かされながらの旅は大変なものだったと思います。そこにもってきてもともと病弱であったので、旅の途中で体調を崩すことも何度もあったようですが、そのときには休みながら、それでも旅を続けました。

毎晩、数ページずつの読書でしたが、そのページにくりひろげられるできごとや、そこに登場してくる人々がまるで目の前にいるかのように感じられ、しばし、私もその当時のその場所に誘われていきました。

現在、ベッドの中にいる私が、そのひとときを一緒に感じることができることが、とても幸せでした。ですから、最後の一文を読み終えたときに、とても寂寥感を感じました。これで、この日本とは最後なんだと。これは以前読んだ「植物と叡智の守り人」ロビン・ウォール・キマラー(築地書館)のときも同じだったなと思いだしました。

最後の文章を読み終えたときに、もう、私はあの森には行かれないんだと寂しさを感じたものです。

知識や情報の収集、確認、または、まだ言葉にできない自分の内部で起きていることを表面化させるきっかけになる本もありますが、今はこのように楽しむために読む本へ興味が移っていっています。この本も私の持っている数少ない本たちとともに大事にします。

自分の責任
2021/05/05

自分がいかに不憫な、可愛そうな、運の悪い生き方をしてきたか、を、ずっと持ち続けている人は多いです。

母親にこんなことをされた、父親にこんなひどい仕打ちをされた、信じていた人にこんなことをされた、言われた、恋人に、夫に、兄弟に…とあります。確かにその人にとってはそれはつらい出来事だったのですが、いつまでもそれを思い出し、そこから抜け出せないでいること(それについて黒パターンで記憶し、持ち続けること)がどれだけ自分自身と自分の人生を暗闇につれていくものなのかにどこかで気づかなくてはなりません。

それを持ち続けるということは、ずっとその話を他人にすることにもなります。それはまるで、わざわざ、苦しい体験を思い出して(決して忘れないように)復習し、再刷り込みをしているようなものです(素粒子動く)

やられたことを早く忘れろと言いたいのではなく、いつまでもそこにいたいのか、それとも、それはそれとして現実にあったけれど、もう、そこを使わない在り方をしたいのか、ということへの自分の決意が必要ということです。

もう、そこを使わない在り方とは、その人から「こんなことをされた」と言う視点を変えて、その人からもらいたかったものがもらえなかった、満たされなかった、という自分の問題であったというように、自分ごとにして気づくことです。

もっと愛されたかった、もっと大事にしてもらいたかった、あのとき、こんなふうにしてほしかった、などなど。そうか、自分がもらえなかったこと満たされなかったことに対して腹がたっていたり、傷ついていたり、根にもっているのか、これも結局は自分の(パターンの)問題か、と腑に落ちたときに、もう、もらわなくていい、満たしてもらわなくてもいい=使わない、というところへ動き出していくことになります。

私は昔、殺されかけたことがあったのですが、例えば、それについてずっと「あの人にこんなひどいことをされた」というところを選んで生きていたら、今はダークサイドにいっていたと思います。あの人にこんなことをされた、被害者の私、あのことさえなければ私は幸せになれたはず…と自らダークサイドへ(ちゃんと)落ちていくのです。

私のカウンセリングの先生は、私のこのできごとについて「それは相手の責任ではなくてあなたの責任だから」とぴしゃりと、はっきりと言い切りました。当時はそう言われて驚きましたが、今はすごくよくわかります。そんなことになる前に、逃げ出すのか、他の人に助けを求めるのか、自分を守るという決意をすることなく、相手に自分を預けっぱなしで、相手によってあのできごとが起きたというのは、私の自分に対しての責任放棄ということです。

誰にでもつらい過去のできごとはあります。しかし、自分の責任のもとに起きているのです(一人では生きられない子供についてはまた別です)これを「私」のセッティングと考えればよくわかると思います。自分を可哀そうで不運な人間、被害者だと思いたいのか、それとも、自分はそういう人間ではない、そうでありたくないと思うのか、どちらを選ぶかです。

ただ、シンプルに自分の在り方を決める
2021/05/04

「現実の出来事に関係なく、ただ、シンプルに自分の在り方を決めればいいだけです。周りで何が起きようとも、あなたの好きなように感じ方を選ぶのです。すると外の世界がそれを反映しはじめます。」(バシャール インタビューより)この言葉どうでしょうか?

ここでのキーは「シンプルに自分の在り方を決める」「自分の好きなように感じ方を選ぶ」です。この在り方を選び続けることで、外の世界がそれを反映するからと言っています(素粒子動く)それは、現実にどんな出来事が起きようと、周りで何が起きようともです。

で「シンプルに自分の在り方を決める」というのは、どんなに気持ちが揺れようが、飲み込まれようが、ちょっと落ち着いたときに、はたして自分という「私」はこうして揺れ続け、飲み込まれ続ける在り方を選びたいのか、そうしていきたいのか、それとも、今すぐそうなれなくても、揺れ続けたり、飲み込まれ続けたりすることを超えた自分になりたいのか、このどちらを選びたいのか?とシンプルに決めるということです。

このときに、揺れ続け、飲み込まれてもいいじゃないか、そのあとに「私」を思い出していかれれば。という領域もあるし、もう、そこを超えるという領域もあります。バシャールが言っているのは後者のほうです。道場的にもそちらです。前者はそこに居続けることになるため、新な更新がなされません。

又、「自分の好きなように感じ方を選ぶ」というのも「好きなような感じ方」=「私」が選ぶいい感じの感じ方をするほうを、ものを選んでいけばいいということです。

最初はうまく選べなかったり、選んだつもりだったのに、また戻っていたり、と動くと思います。でも、それでいいんです。ここは自分を待ってあげながら、練習をしていくことになります。練習、鍛錬しかありません。本当の自分で生きるためには練習、鍛錬ははずせないものなんです。頭でこう考えればいいよねーーーーではないところに新な自分が待っています。

人生はいろんなことが起きます。思いもしなかったこと、理不尽なこと、もう、無理と思うことも。そんなときに、バシャールの言うこの在り方を自分がしていたら、きっと、そこでのダメージは半減し、半減できてよかった、というところではないところで、その結果を受け取ることのできる自分に気づくことになると思います。これが喜びなんです。

ただただ、のんびりと、自分を愛して生きればいいと言う人もいますが、それは黒パターンが言っている自分を愛するということでは?黒パターンは先へ進むということをしないので、そのままでいいとさかんに言います。このことについても、自分はどうありたいのかをシンプルに決めるといいと思います。

なまけもの先生
2021/05/02

「なまけもの」という動物がいます(南アメリカ、中央アメリカの熱帯林に生息する。 生涯のほとんどを樹にぶら下がって過ごす。 食事や睡眠から交尾、出産までも樹にぶら下がったままで行う。Wikipedia)

丸い目をした鍵のような手を持つ毛むくじゃらな動物です。動きがものすごくスローで、早く動けーーーーといらっとしそうになるくらいのスローさ。

そのなまけもの、あの動きゆえに餌食になることももちろんあります。そんなとき、ほとんどの動物は激しく抵抗するのだと思いますが、なまけものは、脱力するのだそうです。・・・・と以前話を聞きました。脱力するって?それは自分の痛みや苦しみを逃すために脱力することを本能的に知っているのです、というような話でした。実際なまけものに聞いたわけではないので、そう説明する人の観察によってのコメントなんですが、なんか、そのことはずっと頭の中にありました。

彼らは、相手と闘うようにはできていない、早く逃げるということもできない、相変わらず樹にぶら下がったままでいるしかない、もしくはたまたま地上に降りていたらそこいるしかない、というときの彼らの最後の最後の手段が脱力なのかもしれません。

これは人も同じだと思う。本当に本当につらいときに、もう、降参してしまう、ということでそこから逃れるということができます。これって、脱力です。もう、しっかり、とか、頑張る、とか、責任、とか、どうでもいいや、というところに脱力は生まれます。私は、これって自分を救うと思うのです。

もう、いいじゃないか、お手上げですーー、もう、できません、降参ですーー、もう、どうぞお好きなようにーー、と自分が選んだときの脱力感。ああ、もういいんだ、と心底思えたときの脱力感。これも絶対持っていたほうがいいと思います。そのときに感じる脱力感は、ほっとするものだと思います。それは今のあなたにとっての真理ですというサイン。

こうあるべき、こうでありたい、こうならなくては、というところ(それも、一般的な価値観でのそれ)があまりに強いと結局自分を追い込んで、苦しむことになります。でも、最後の最後に「脱力」という奥の手が自分にはあると思えれば、自発的に、正しく、頑張れると思います。

なまけもの先生から教えてもらったことでした。

きのう1日を振り返ってみた
2021/05/01

今朝の日記はきのうの自分の1日を振り返って書いてみよう。ということで書きますが、人の1日なんてどーーでもいいという方はパスしてください。

朝、6時半頃、トミー出勤。私はまだベッドの中にいる。その後、7時頃に起床。トミーが使った食器などをかたづけながら、洗濯機を回す。

そして、朝のお祈り。8時には「おちょやん」を見ながら朝食。朝食はトミーが作ってくれたスムージーと目玉焼きと全粒粉パン。パンにバターをぬり、残っていたきな粉とハチミツもかけてみた(おいしい)チーズもひとかけら。

その後、洗濯物を干して、PCを立ち上げて、まずメールチェック。いつもほぼない。コーヒーをのみながら日記をアップ。と同時に一番のお楽しみ、カウンセラーの皆さんの日記を読む。ひとりひとりの思いが伝わり「そうだよねえ」「いいねえ」「すごいな」などといいながら。その後、食器を洗い、掃除機をかけ、昨日はこの時点で9時半頃でした。

で、おうちでバレエをする。大好きなロイヤルバレエ団の動画の2014年版のプリエから始めて2018年版のバーレッスンへ飛び、センター2つまでを行う。近頃動画の中ほどにジャンプが入っていることに気づき、ジャンプもしてざっと50分ほど。うっすらと汗をかき、息もほどよくあがり、体はいい感じです。何より精神が満たされる。ロブの美しいピアノで動けることへの気持ちのよさにどっぷりつかると、私はこれがあれば生きられるといつも幸福感を感じる。

そのときに先日学んだ素粒子のことを思い出し、こうして快の状態を意識すればその素粒子がぼんぼん生まれて、それはそこに照射された状態になり、それにより不確かな存在の電子が確かな存在になり物質化されていく(のだそう)おまけに外側へもその影響がでる(のだそう)。なんか、ここまで解明されていて、結局自分で全て創っていることがわかると、黒パターンはもう絶対選んじゃまずいと思う。

そうこうしているうちに11時。近所のスーパーに買い物に行き、クリーニングをとって、帰ってきたら12時。昨日の残りのお味噌汁と、ご飯と、買ってきた焼き鳥と、サラダでお昼を食べる。いちごのデザート付き。銀行へいくのを忘れていたことを思い出し、駅前の銀行へ行く。ATMに並ぶ長蛇の列。銀行の入り口を飛び出て人が並んでいる。家に帰り13時30分。洗濯物をとりいれ、お風呂場に干す。

14時からのクライアントさんが来宅。カウンセリングを行う。カウンセリングは私にとって精神の解放、創造の楽しさ。

その後、夕食の準備をする。そして洗濯物をたたむ。トミーの帰宅が19時半頃なのでそれから2人で夕食です。ちなみに昨日の夜ご飯は、焼き魚、キャベツをゆでたものにしらすをたっぷりのせてポン酢をかけたもの、大根おろし、納豆、昨日の残りのじゃがいもの煮たもの、キムチ、小松菜としめじとみょうがのお味噌汁。そして、お昼に買った柏餅も。

食べ終わったらすぐに食器を片付け、翌日の用意をし、あとはTVを見て(るろうに剣心を半分ほど)お風呂に入り、お風呂上りに足裏もみとストレッチをする。ベッドに座り夜のお祈り。そして、ベッドに入り、読みかけの本を読む。読んでいるうちに寝てしまい、23時30分頃就寝。・・・・・

ほぼ変わり映えのない生活を繰り返していますが、この生活が嫌ではありません。こうして普通に生活していることのありがたさを感じます。私にはこれで十分です。こんな具合で今日も始まる。

「私」は厳しい父
2021/04/30

人には罰は与えられない。天は神は人に罰を与えないです。

しかし、自分が自分に与えます。私もかつて、若気の至りと言え、本当に悪いことをしてしまったとき(日記には書けませーーん)こんなことをした私には必ず罰が来ると思っていたらちゃんとその通りになりました(笑)。今だから笑って言えますが、当時は「ほら、やっぱり。やっぱり罰があたった、天罰だ」と思っていました。そのおかげで、もう生き方を変えようと思ったのでよかったのですが。

こうして自分が自分に与える罰、でも、それも罰ではなくて、軌道修正させるためのセッティングです。これを「私」がやるんです。神や天使がやるんじゃないんですよ、自分が自分にやるの。

以前お世話になったキリスト教神秘主義のクラスの先生が「現在のパーソナリティに、原因と結果の法則をもたらしているのは永遠のパーソナリティです」とダスカロス著「エソテリック・ティーチング」に書かれていることを基に話してくださいました。「永遠なるパーソナリティが、どんな楽しみ、どんな痛みを与えるかを決めている」と。

ここでの現在のパーソナリティとはパターンで無自覚に生きている自分と考えられます。それに対して永遠のパーソナリティは「私」です。そして、この永遠のパーソナリティはまるで父親のような厳しさをもっているのだそうです。成長のために、進化のために(それしか考えていないから)とセッティングをする。

それに対して、守護大天使は「あのーーー、そこまでやらなくても…。本人もわかっているでしょうから…お手柔らかに」と母親のような立場なのだそうです。それでも、決定するのはそれぞれの「私」なので、結局、頑固おやじの言うとおりとなります。

「私」は星飛雄馬の父のようなものと思っていれば、まあ、ここまでのセッティングもやるな、という気持ちにもなれます。それも、自分を愛するがゆえのことです。

誰も苦労するためにここへきているのではありません。自分の幸せを自分で創り、楽しみ、喜び、幸せを感じて生きるためにきているのです。しかし、それはいわゆる一般的なそれではなく、魂本来のそれを望んでいるので、なかなか厳しい現実がやってきます。その厳しい現実に向き合っているというそれ自体に意味があり、そこからのたくさんの体験というお土産をもって本当の我が家へいつか帰ります。

今、このときを、そんな思いで生きるとまた今までとは違う感じで過ごせるかもしれません。起きていることには一切無駄はない、一切罰はない。そこから自分を愛するために何を選ぶのかというところだけです。

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ

- Topics Board -