ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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夜の女王のアリア
2026/02/19

先日、初めて「湘南フィルハーモニー管弦楽団」のコンサートに行きました。

曲目はモーツアルト「ドン・ジョヴァンニ」序曲、ベートーベン「ピアノ協奏曲第4番」、最後はベートーベン「交響曲第7番」の3作品でした。曲目プログラムによると、この、最後の曲(ベートーベン交響曲第4番)は演奏者が疲労困憊する曲なのだそうです(演奏者の体力や技量を全く気遣ってくれないベートーベンと書かれていた)

プログラムにそのように書かれているのを読んだからか、第4楽章を演奏している方達が、ゴールに向かって最後の力を振り絞るアスリートのように見えました(最終楽章はどの曲もそんな感じがしますが)体力と気力、何よりそれを上回る音楽への熱い思いがないと演奏家にはなれないな。

こちらの楽団も茅ヶ崎交響楽団と同じで、それぞれに仕事を持っている方達で編成されていて、年に1回のコンサートを行っています。月に2回の練習日があるのだそうですが、練習だけ出ればいいわけではなく、仕事の後や、休日も練習していると思います。それって大変なことだと思う。ある意味、プロよりも大変かもしれません。

しかし、このような形で音楽と関われていることが羨ましいです。音楽に触れることで自分の内で浄化が起きているように感じるこの頃です。本当の自分の個性を思い出すとか、この個性で生きていいとか、なんか、今までとはまた違うところにいるような気持ちになる。これが何なのかはっきりと言語化できないので、まだ潜在意識にうずもれているのだろうと思います。続、体験。

で、今朝はひとつ、私のカンフル剤のような‥「よし!」と毎回思える、好きな曲をはっておきます。モーツアルトのオペラ「魔笛」の中で歌われている「夜の女王のアリア」です。私はこの曲を聞くと「よし!」という気持ちになるのですが「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」という激しい怒りと狂気の内容です。夜の女王が憎む相手を娘に亡き者にするようにとナイフを渡し、それができなければおまえは私の娘ではない、と脅す。なかなかです。

それでも「よし!」となるのは何と言ってもこの高音でうたいあげる、ディアナ・ダムラウさんの高度なテクニックに裏付けされた「復讐と狂気」が圧倒的は迫力で表現されているからだろう、と、思います。ここまで表現できるって、これもまた羨ましい。よろしければ…。

https://www.youtube.com/watch?v=YuBeBjqKSGQ

人生とは…
2026/02/17

昨日書いた「本屋さん」で見かけた本。「人生とは長い時間をかけて自分を愛する旅である」(樋口耕太郎 著)。

なんて、素敵な言葉なんだろうと思いました。副題に「こころの資本の経済学」とあります。

著者は1965年生、盛岡市出身の方です「沖縄のサンマリーナホテルを取得し、愛を経営理念とする独特の手法で再生。」と書いてありました。結局、購入はしなかったので、内容はわからないのですが、この言葉を見たとたんに、心の中がさっぱりとしました。

「人生とは?」という問いはよく聞きます。それに対していろんな意味づけがあると思います。意味づけなのでどれが正しいというものはありませんが、私には、この言葉がベストの答えです。

ほんとに、人生とはこれだけだと思います。自分を愛すること、それが人生なんだと思います。それも、条件がそろって、目指す自分になったときに、何かを手にしたときに、何かを成したときに、そうして他人が自分を認めたときに、自分を愛せるようになるのではなく、今の自分、一瞬一瞬動き続ける心を持つこの自分を愛せるようになることなんだと思います。それが人生であり、最高の幸せなんじゃないかとも思います。自分を愛する事は、いろんな執着を手放していくことになるからです。

そして、そこへ向かって実は誰もが歩んでいるのだと思います。そのことに気づいていないだけで。あらゆる体験のひとつひとつが自分を愛することへつながっているのだと思う。人がやりたいこと、天が望むことは、このことだけだと思うし、そのために何度も転生しているし、次々とセッティングもするのだとも思います。

自分を愛するには時間がかかります。それは、自分を愛するものは自分の内にすでにあるのに、外にそれを探し、外にそれを求めるからです。そこではなかったんだ、とわかるまでに時間がかかってしまうのです。

そして、自分の内にあるネガティブなものたちのことも。一般的にはそれらは良くないものと言われ、思われているので、そこをどうにかしようとするところにも時間をかけてしまいます。自分が持っているもので闘かうものはひとつもありません。それが自分を赦すということであり、それが自分を愛するということだと思います。こうして、人の持つ最も大きな執着(自分自身への執着)を手放していくのです。

この本に書かれていることはそういうことではないと思いますが、今回、この、素敵な言葉を目にすることができました。本もいつか読んでみたいと思います。

新店舗
2026/02/16

駅ビルにて、長いこと書籍と文具を販売していたお店が先月で閉店となりました。私がそのことを知ったのは閉店2日前でした。必要なものがあってその店に行ったら、閉店のお知らせが貼られていてびっくり。会計の際に顔見知りの男性スタッフの方に「閉店されるんですか…ショック」と声をかけました。

すると、その方は「長い間、来てくださりありがとうございました。本当はもう少し頑張りたかったんですが、できませんでした。」と目に涙を浮かべながら話されました(この状況がすごく弱い私。一緒にうるっとくる)

「こちらこそです。私の両親もずっとお世話になっていました。長い間、ありがとうございました」と応えました。この日は多くの方が訪れたようで、レジは今までにない混み具合でした。皆さんの気持ちの表れだな。

帰る道中、さて、これから書籍と文具は何処で買うか…困ったな、と思いました。茅ヶ崎の個人商店では、欲しいものが無いことが多いのです。特にお気に入りで使ってきたノートはここにしかなかった。

こうして寂しさとともに閉店した数日後。なんと、駅ビル入り口に「書籍と文具の店がオープン」と貼ってあるのを見つけました。それも、茅ヶ崎には今迄ない大手です。ずっとお世話になっていた店舗の閉店にうるっと来ていた私なのに、この、告知に喜ぶ.。

早速、オープンの日、行ってみる。すると、今までの店内のレイアウトをそのまま利用して書籍は配置されていました。従って、どこにどんな本が並んでいるかがわかり、あたかも閉店はなかったかのように慣れ親しんだ「本屋さん」がそこにはありました。おまけに文具は今までよりも増えている。

いやーーーよかったーーーー、と思った薄情な私。まあ、これもありだな、と自分に都合よく理解して、早速、お世話になっています。

1年計画
2026/02/14

今回の岩手クラスで、私が1年計画でやっていることの話になりました。それについて「それを聞いたとき、1年も時間をかけるのか、と思った」というレスポンスがあり、その続きを話ました。

1年計画は今年の5月で終わるのです(とりあえず)。しかし、それは、5月までに計画したことができるようになることを目指しているのではなくて…という話をしたら「そうなんですか?」と反応が…。

そうだね、普通は、これこれができるようになるための1年計画なんだから、1年たったらそれができるようになっていようと思うし、出来るようになる努力を1年するというイメージだと思います。

でも、私は、そうは思っていなんです。できないことが、できるようになるためにやる、ということではなく、まず、継続してみる。私にはそれは1年やってみようなんです。そして、やり続けて自分の内がどんな風に変化したか、または、全く変化しなかったのかを見るというものです。

それにより、1年計画の中にあったもので今後も継続したい、継続するべき、というものはこれからも続けることになります。

又は、1年やって「自分にはこれはいらない」と気づいたり「自分には合わない」「このやり方に偏りすぎなんだ」とわかったりするかもしれません。それは、自分をより知ることになります。これもあくまでも今の私にとってということです。

自分を知る1年計画ということなんだと思います。1年は短いほうで、場合によっては2年、3年とかけることだってあります。何より、この学びはもうすでに30年以上続けているわけだし。これは個人的にはこれからも続けたいし、続けるべきだとも思っています。

で、そこまでかけてくると、できる、できない、できている、できていないという視点をもちながら行うことじゃないんだなと気付く。そもそも、道場で行っていることは、できる、できない、できている、できていないと、判断できるものではないです。長く続けられるものとはそういうものなのかもしれません。そこがないとしたら、何があるのでしょうか。

魂の大欲
2026/02/12

「考えるな、感じろ!」…ブルース・リー先生の端的にして、深い名言。

「考えるな」と言われると「考えるなって?こういうことかな?どういうこと?考えないようにすればいいんだ」と考える。「感じろ」と言われると「感じるってこういうことかな?感じてみよう」と考える…と私たちはやりがちです。

で、昨日の「私」はどうありたいか、も、考えるんです。「どうありたいかなあ?」と。でも、ここも「感じろ」なんです。ここは、思考で導き出せてしまうものなので、そちらへいきがちだし、そこで出たものは「確かに、そうだ」と思えるものなのですが、そこに息づいたものが無い場合には、思考で生み出したのだと思います。

「私」はどうありたいかは魂の大欲です。すぐにそうなれなくとも(なれないからこそ)そこへ向かいたいという魂の叫び、大欲。それは思考とは離れたところにあるものです。で、それを「私」にとっていい感じの言葉にしていく、ここは、どんな言葉がいいのか考えることになります。

で、息づいた魂の大欲を感じられるようになるのに、今、自分の内に起きている、感情・感覚を感じるという最もシンプルなことが必要になります。ここがなくて、魂の大欲を感じよう、は無理です(思考して作れるけれど)やはり土台あってのものなんです。

「考えるな、感じろ!」って、このことにもあてはまります。今、自分の内に起きている感情・感覚を考えずに、感じること。この積み重ねだと思う。いたって簡単なことなんです。だからいつも自分に問う「今、何を感じている?」と。それが魂の大欲につながっていくのだと思います。

極寒
2026/02/11

今年初めての盛岡はとても寒かった。初めて体験した寒さ。風が強く、冷たく、しっかり歩かないと身体が持っていかれそうでした。

ホテルから会場へ向かう道を気をはって歩きました。まずは足元注意。転ばないようにゆっくりと。そして、顔の肌がぴりぴりしないようにと、マスク+マフラーを顔にぐるぐる巻き+ニットキャップで耳をしっかり覆い、目だけしか出ていない状態でかなり怪しかったですが、これでちょうどよかった。

皆がこの寒さの中、集まり、2日間のセミナーを無事に終えることができて本当によかったでした。

で、今回(も)色々と話しをしたのですが、基本の大切さを再度確認しました。

この学びでまずやったことは「今、何を感じましたか?」「今、どんな気持ち?」と、自分の感情を感じる、感覚を感じることでした。最初の頃は、感情を聞いても、思考していることが感情だと思っていたり、感情がよくわからない、という事もあったと思います。しかし、それを何度も繰り返していくうちに、自分の内に今湧いてきている感情を感じることが少しずつできるようになっていったと思います。

そして、それができて、初めてそれを生み出しているパターンは何なのか?と次へ進む。そして、語りかけに進みました。

この、今湧いている感情・感覚から必ず自分の内へはいるということです(この形が綺麗でしょう?)感情・感覚という、人であればだれもが持っているものから入り、進んでいく、この在り方は自然だし、無理がないし、何ものも置き去りにしていないです。

しかし、語りかけに慣れることや、白黒ワークに慣れることや、「私」はどうありたいか、というように先へ進んでいくうちにこの最初の最も大事な部分が抜け落ちてしまい、すぐにパターンをみつけ、語りかけをし、白パターンに移行し、「私」はどうありたいか、に移してしまうことをやってしまいがちです。

「私」はどうありたいかはとても大事なところではありますが、土台あってのこれです。そして思考で、できてしまうところなので、そちらのほうが早いし、慣れています。しかし、この「私」はどうありたいか、も、思考で導き出すものではないのです。ある感覚を伴って息づいているはずです。

基礎の部分を丁寧に扱う。この流れを崩さない。ここはとても大事なところ。だから「今、何を感じている?」「今、どんな気持ちでいる?」と自分に問うことを継続してください。

自分に戻る
2026/02/05

いつも食材を買う近所のスーパーに行ったら、店内には、近隣の小学校の1年生、2年生、3年生の子どもたちの絵が飾ってありました。

各通路の上部にびっしりとです。必要な食材を買い物かごの中に入れ、レジに行く前に、その絵を見て店内を歩きました。

1年生、2年生、3年生ってとても子供のイメージがあるのですが、力作が並んでいました。きっと一生懸命に描いたのだろうと思わせるものばかりでした。

自分の描きたいものを素直に描いている、自分の思いや、自分の大切なもの、自分の夢、あこがれ、未来、自分が感動したもの、そして、悲しかった出来事も。その悲しみも昇華されて。それらがひとりひとりの物語として描かれていて、ひとりひとりと対話しているようでした。こんなふうに子供の絵を見たことはありませんでした。

上手く描こう、先生に褒められるように描こう、という、大人になるにつれて持ってしまうものがまだない年代なのでしょうか。余計なものがなく、そうだからか、あちらからまっすぐにやって来てくれるように思えました。

結局、全てを見て回り、やっとレジへ。そして、レジの女性と飾られている絵について話もして、ちょっとした美術館での鑑賞のひとときでした。

横尾忠則さんが、これからの自分の課題は、子供になることだと話されていたことを思い出しました。子供の描く絵のような絵を残りの人生でどれだけ描けるか、そこへの挑戦と。ちょっとそれが分った気がしました。

子供たちの絵が私に教えてくれたこと、それは自分に戻るということでした。私の心の奥にひっそりとあったそれが、子供たちの絵を通して、浮かび上がってきたようでした。この数年、ずっと思っていたことはそれだった気がします。そうか、そうしたかったんだね‥自分に戻る。

今日はこれから盛岡へ行ってきます。キーンとした寒さを味わってきます。今年初めての岩手クラスです。今年1年は新な領域へ少しずつ入っていかれるように、善きナビでいられるように、と思います。

それを選びたいのか?
2026/02/03

自分の内に起きたネガティブな感情やそれを生み出しているパターンを「どうにかしよう」とすると苦しくなる。どうにかしたがっているのはパターンだから。

ネガティブな感情が湧き、パターンをみつけ、語りかけをして、白パターンも考え、白黒ワークもし、「私」の気持ちのよいほうを選択して、実践する。これだけをたんたんとクールに毎日行っていけばいいだけなんですが、その途中で思考するんです(パターンが)。これが「どうにかしよう」ということ。

パターンはこのネガティブな感情に耐えられない、早く解決してすっきりしたい、楽になりたい、そうなって自分の成長を感じたい、などなどを望んでいます。そして「私」が機能していなければ、それを手にいれようとするパターンに従ってしまいます(「私」がそのパターンを選んでいると私は思う)

そして、自分の内に何か、パターンが望むような結果を見出して、少し安心する。しかし、そこには解決はないんです(アインシュタインの言葉を思い出してください。上の領域にしか解決はありません)

やりたいことはそういうことではなくて。これはもう今までずっとやってきているじゃないですか。それが「私」にとっての善きこと(宇宙にとっての善きこと)であれば、もうすでに心は穏やかに、すっきりと、日々、生きることが楽になっているはずです。でも、そうじゃない。ということは何か違っていることをしているということです。今の自分は自分が選択してきたことの結果です。この場合はパターンを選択してきた結果ということです。

その時に考えがちなのは「語りかけが足りないんだ」ということですが、そうではなくて(時にはそれもあるかもしれませんが)何か間違っているんじゃないか、と自分を見ることなんです。そもそも語りかけをたくさんやったところで、解決はしませんし、すっきりともしません。パターンは何も変わらなくていいからで、これからもずっと引っかかります。やりたいことは、それを変えることではないのです。

パターンと同じ領域で「対処」ということをもうやらないということです。上の領域での解決をしていきたいのです。そのためにやることは、もうわかっているのですから、パターンに考えさせないで、やることだけをやるということです。ただ、無意識であると、そこでパターンの思考という余計なことをして、対処に向かいます。

それを選びたいのか?「私」は。それが欲しいのか?「私」は。これは自分で決めていくしかなく、誰も与えてはくれません。厳しいですが、そう。

こうして心は整っていく
2026/01/31

昨日の日記の補足になりますが。

パターンを赦すということは、如実知見、だと私は思っています。ただただ、ありのままに見て知る、又は聞く。何事も自然にそのものとしておいておくということで、抵抗しない、作為的にしない(そのものをパターンが納得するような意味づけや行動をしないということ)ということだと思います。

その在り方は意味づけワークの中間にある「ひとつの事象」と同じ感覚です。ここには、無機質な感じがあると思います。ひとつひとつのパターンもそうなんです。ただ、そのパターンの個性ゆえにひっかかりどころはそれぞれで、ひっかかれば自然と感情を生み出します。

そのようにできている。神からそれを与えられている。そのようにできているのだからそれを変えることはできないんです。そして、そうであるから「私」ではないパターンが「あっ、今動いた」と「私」がわかることができます。この「私」が「わかる」という事が大事なことでこの体験は「私」ならではのものなんです。

パターンがいるから、成長できた、パターンがずっと自分を支えてくれた、と、考えがちですが(そう思う時期もあるので、それはその時期ではモチベーションになってくれます)本来はそういう結果(利益)を「私」は欲しがらないんです。ただ「わかる」というところにいます。パターンに引っかかるとは、自分の内の「私」ではないものが動いた、という、ただ、それだけのことなんです。

「私」は観察者です(静謐な観察者とケン・ウィルバーが言っていたと思う)観察者ってかなりクールです。それが本当の自分です。そう聞くと、感情を感じないようにしよう、感じてはいけないと思うかもしれませんが「私」は正直に、歪みなくそれを察知します。察知するという立場にあります。どんな感情も自然に出るときは出る(ただ、ひっかかっているだけだから)それでいいんです。

昨日でてきた、パターンを嫌うパターンはとても思考し、分析します。それについてはこう考えればいい、こういうことだったんじゃないか、そう考えると落ち着く、こうしてみれば少し楽、こうしていこう、など。一見前向き、一見解決を出してきます。でも、その根底にあるのは、パターンが引っかかるのが嫌、その時のネガティブな感情が嫌(耐えられないから)というものです。思考、分析で対処をしているときはほぼほぼ、このパターンがやっています。そのときには、それは誰がやっているのか?と自分に問うといいです。

そして、こうしながら時間をかけて全てのパターンを赦していったときには、どういうわけだか引っかかることがあきらかに減っていきます(この不思議)そのときにはパターンを嫌うパターンも同じように引っかからなくなっていきます。こうして心は整っていくのだと思いました。

あなたはそのままでいい
2026/01/30

「私と皆の違いは、たったひとつ。私は全てのパターンを赦している…これだけ」と以前言っていたと思います。そのことを先日お会いした方がおっしゃっていて「そーーーーーなの。本当にそれだけなんだよぉーーーーー」と話しました。

私の言う全てのパターンを赦している、というのは、言葉の通り、どんなパターンも全てそのままでOKということです。

これを阻止するパターンが、パターンを嫌うパターンです。これが動いていると、そちらへ引っ張られやすくなります(至極全うなことを言うので)パターンを嫌うパターンは、とにかくネガティブな感情を生み出す他のパターンが大嫌い。それがあるから自分は安泰ではないという事を信じています。

一つのパターンが何かに反応してネガティブな感情を湧き出したときに、同時に、このパターンが出現。そのパターンはそんなレベルが低い自分ではない、とか、また引っかかった、とか、これでは成長していないじゃないか、とか、これはどうにかしなくては…そうだ、語りかけだ(‥と思いそのパターンがやることも)というものです。

このパターンは他のパターンをどうにか自分の思うようにしたい。引っかからないようにしたい。でも、その意に反して、出てくる(引っかかる)ので、ますますそこへ執着していきます。それは、パターンに引っかからないことが成長と思っているので、それを失くそうとすることに執着します。

「私」はそのままでいいと言っているのに、それじゃ嫌なんです。という事はこのパターンは「私」を信頼していないということです。

で、このようなパターンでさえも、ひとつのそれとしてそのままでいさせてあげるということがパターンを赦すということです。語りかけで楽にしてあげることはあってもその在り方は変化しなくていいんです。だから自由に引っかかっていい、ということです。

で、私と皆の違いはここだけだと思う。自由に引っかかるパターンと毎日いる、というところが基本になっているということ。引っかかって当たり前だし、それがパターンと関わるときの大前提になっている。このたったひとつのことなんだと思います。

それを思考でではなく、心底、そういうものだというおちどころがわかれば、多分、その場で目がひらけると思います(まさに覚醒)だから、パターンを嫌うパターンにも母の目を向け、父である王が語りかけてあげてください。そして「あなたはそのままでいい」ということがどういうことなのかを少しずつ体験していってください。

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