ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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ほどけていく
2025/03/26

去年から、新な白パターンということで「もしかしたら…」をお勧めしています。

この言葉に浸ることで、今まで決めつけていたものがほどけていくような感覚を持っていただけたらいいと思っています。

決めつけている物事に縛られ、それに価値があると信じ、それを得ようと誰もがするのですが、その決めつけていることでの選択が、今のその人にとって違っていればシンプルに苦しい。

ここからの解放が「もしかしたら・・・・・〇〇と、もう、決めつけなくても、いいのかもしれない・・・・・・・・・」です。「もう、決めつけなくても、いいのかもしれない」という言葉には、今まで、決めつけていたそれは違うんじゃないの?(間違っているんじゃないの?ではなく違うんじゃないの?です)今の自分にはふさわしくないんじゃないの?という感覚も含まれています。

物事ってひとつの解釈、意味づけ、だけではないんだということも心身に覚えさせている感じです。選択肢はたくさんある。今の自分に合うものをそのときそのときで選べばいい。選んでいい。自分は選べる。ということです。

こうして今まで自分の心身にはびこっていた、クセのような、根拠のない、決めつけをひとつひとつほどいていきます。ほどけたときの感覚も感じてみてください。これがとても大事です。なぜならば、自分がほどけていく感覚を実感できるとそれを再現することができて、それを他人に渡すこともできるからです。相手の人もなんだかほどけていく。

ワークって自分だけのものではないです。自分ができるようになることで他人にそれを渡している(自然に)という事も知らないうちに起こしています。

これは言葉を超えたところのものです。言葉で伝えようとしても限界があります。しかし、こういう世界で伝えることができます。というか、こっちが先の気もします。まずは自分で自分をほどいてあげよう。

2回目からは…
2025/03/25

皆誰でも、心の底ではわかっている。今の自分がどうしていけばより、よい自分になれて、よりよい人生を歩めるのか。本当はわかっている、ということが、今までのカウンセリング人生で皆さんから感じられたことです。

そして、それがあるのに、そうできないことで人は苦しむということも。それが不一致だからです。人って自分を騙して生きていかれないんです。

この、わかっているのにできない(変わらない)…を多くの人が体験していると思います。

で、これについて、以前、どなたが言っていたことなのか忘れてしまったのですが、印象的だった言葉があります。

それは、1回目に受け取ったもので、2回目を受け取らなくてもいい‥というようなものです。例えば、誰かが自分に向けて言った言葉に傷ついた。腹もたったし、悲しくもなった、という体験をしたとします。1回目のそれへの反応はきっと誰でもそうだと思います。

それが2回目にまたやってきたとき、1回目のときと同じ反応をしなくてもいい、ということです。1回目と同じように傷つき、腹を立て、悲しまなくてもいい、ということ。2回目以降、あなたはそれに対してどんな反応をしたいのか(選ぶのか)。それはあなたが好きなようにしていい、それによりあなたは自分を平和に保つことができる、ということだと思いました。

で、変わらないというのは、1回目の反応をずっと選んでいるということになります。2回目からを変えていけばいい。これはレベル的にはマスター級なので、なかなか難しいところですが、云わんとしていることはよくわかりますし、道場での白を選ぶ、そして実践するという作業は、2回目からすぐに、は無理でも、時間をかけながらそちらへの反応を身につけていくことはできます。

マスター級であろうと(マスターって2回目で違うものごとを選べる人なんだね。超マスターは1回目で選べる人)平凡級であろうと、やることは同じです。他からのそれに対して自分はどうありたいのか、を選び続けるということです。そう言ってしまうと外側だけを在りたい自分として振舞ってしまいやすいので、それを避けるために(心底そうなれるように)黒パターンへの語りかけがあるとも言えます。

地道なこつこつと続けていく作業ではありますが、少しずつその結果を受け取っている方はいらっしゃると思います。

あきらめる
2025/03/24

昨日書いたセネカの言葉「生きている限り、生き方を学び続けなさい」。

この言葉から思い出したのが「悟りのプロセスとは、移ろいやすい人生に影響されない能力を増すことです」というデヴィッド・R・ホーキンズ博士の言葉です。生き方を学び続ける、ということは、正に、移ろいやすい人生に影響されない能力を増す、ということです。

そう…人生って、心が移ろってしまうようなことがたくさん起きるんです。そういうときには影響されない能力が自分を助けるということになります。それはその事象に合わせて、生き方を選択することであり、今までのやり方ではないものを選ぶことでもあるでしょう。これが影響されない能力のことです。

では、影響されない能力とは具体的に何か。ここには色々なものが在ると思いますし、それは、それを選ぶ個性にもより変わってくるとは思うのですが、共通する能力として「あきらめる」という能力があるんじゃないかと思います。

今起きているということをあきらめる。起きていることの意味を知る、みつける。そして、それといられている自分を感じてみる(ここは少しずつ)あきらめるというと、ひたすら自分を抑え、我慢して、心はもんもんとしながらしぶしぶといるという事をイメージしますが、それではありません。「あきらめる」は、あきらめることの意味を理解した自発的行為だと思います。

例えば、今、こうなっている(結果)ということは、その種を自分がどこかで蒔き、それを刈り取ることが今起きていて、ここは勇気を持って、自発的に刈り取ろうとするのもひとつのあきらめ。私は、刈り取った(終わらせた)ということ自体が新な種にもなるんじゃないかと思います。

又、悟りのプロセス(悟りへのプロセスというほうがわかりやすいかも)とは…という言葉もあり、悟りというものもとても人間的な現実的なことだと感じます。自分自身がどれだけ、生き方を学ぶのか、影響されない能力を増していくのか、という地に足をつけて行うことの必要性がここでは語られています。

このためにも、意味づけワークをたくさん行ってみるといいと思います。そこで出てくる新な意味づけが、きっと新な生き方、影響されない能力になり、それからの自分を支え、よりよき道を歩んでいくことになるからです。

で、そういう生き方をしている人にサポートをしてくれる何かが、そういうルールがこの宇宙にはあるということです。生きるってこことの二人三脚。

生き方を学び続ける
2025/03/23

日記が止まってからなんと1か月以上たってしまいました。今まで、こんなに長い間書かなかったことはありませんでした。ご心配をおかけしました。

で「元に戻りました」…と以前なら言っていましたが、今回の日記休み(いや、去年後半から今年に入って自分に起きたことの数々、自分の選択、言動、その結果)から学んだことがあります。それは、もう…私は元には戻らない…ということです。

元に戻ったらまたきっと同じことを繰り返し、今回起きたことから何も学ばなかったことにもなります。何かが起こるのは、より善い方へ動くため。だから、そこから学ぶべきものごとを知る、そしてそちらへ自分で動く、ということがない限り、人は同じことを繰り返し続ける。

なんて、偉そうに言ってますが、ここに至るまでの間には、戻らずに、次へ進むところへ誘うような他人との関わりがあったり、誰かの言葉にそこへのヒントがあったり、と、自分について考えるありがたいこの1か月ちょっとでした。

で、思い出したのが「生きている限り、生き方を学び続けなさい」という古代ローマ哲学者セネカの言葉です(55の魂に響く…のどこかにあった)。

生き方を学び続ける、とは、その時々の自分の生き方があるのだから、それを学べということなんだと思います。私はここがわかっていなかった。

それは、今までの生き方に執着することなく、その時々の自分にとって、必要な生き方とはどういうもので、それを生きるために何をどう変えたらよいのか、を「私」に沿って考えるということだと思いました。それを生きている限り続けなさいと賢人は言っている。

ということは、そういうふうにして生き方は変化していくものであり、そこへの柔軟性と知恵とフットワークの軽さが自分を新な生き方へ連れていくのだろうと思いました。

そして、そこにはネガティブ(これがないと人は動かないから)な物事とそれを手放すことが伴います。今までの生き方で使ってきたものごとを手放して、新な生き方をする。

手放すというと、怖い気がするかもしれませんが、今回体験したことは、手放すって、誘われていく、導かれていくということなんだなと思いました。こうして次へ向かうことなんだと。それは怖いことでも不安なことでもなく、ごく自然なことだったのだと思いました。

人ってこうやって生きていくのか…という体験をしたこの期間でした。なんだか、新な年を迎えたような気がします。

不甲斐ない
2025/02/13

今日はとても良いお天気となりました。昨日は夜遅くまで強風で荒れていたのですが、今朝は海も静かです。

今日から今年初の岩手クラス開催のため、盛岡へ行く予定にしていました‥が‥体調不良のため、遠方へ行く自信がなく、キャンセルさせていただくことになりました。

岩手クラスの皆様、ご迷惑をかけてしまい申し訳ありません。

体調不良を詳しく書くと長文になりそうなので省きますが、ちょっとずつ知らないうちに体調不良が積もっていったんだろうと思います。まあ、こういうときもあると受け入れつつ、見直しや、もっと自分を大切にすることを考えてみようと思っています。

こうして体調不良を体験すると、普通に生活ができるということがとてもありがたいことであることを知ります。2025年は、私にとっては不甲斐ないはじまりとなりましたが、これも次へ向かうことになるのだろうと…幽かに思います。

・・・・ということで、日記があいてしまうかもしれませんがどうぞよろしくお願いいたします。

2月の個人カウンセリングは予定通りに行いますのでどうぞいらしてください。

辛いときは
2025/02/12

人生色々なことが起きます。

本当に困ってしまうことや、理不尽なこと、思いもかけないこと、もう、嫌だ、無理だ、と思うこと、などなど。これは誰にとっても平等(‥と私は思っている)に起きます。

私は神様を信じているから、私は正しく生きているから、自分は守られて、自分にはそういうことは起こらないということはないです。なんで?なんでそういうことが起きるのか?…そういうふうに人ってできているし(そこに意味があり)それが人の人生であるからだと思います。

そしてその最中にいるときにはストレスマックス、心身を壊したり、先が見えない不安や怒りや悲しみが起こります。その最中はそれが自然だし、誰でもそうなります。その最中にも一切心身が乱れることなく、平静にいられるのはマスタークラスの人しかいないでしょう。だから、こんなに学んでいるのに自分はそうなれないなんて思わなくていいんです。普通は皆そうです(私も)。

しかし、この最中が和らいだり、少しだけ何かが変わったりしていくことで(必ず動くので)見えてくるものは、実は全部善きほうへ動いていたのか…ということです。

こんなつらいことが起きた、でも、それがあったから、新しい何かを得ることができたり、今までは知らなったことを知ったり、そして、何より今までの自分の考え方とか、在り方とかを見直すことにもつながっていたり。

こうしてみると、色々なことが起こるって「見直せ」ということなのかもしれません。しかし、それは罰ではなく、これからより善く生きられるように、それは、天とともにスムーズに生きられるように、そもそもの天の子としての人間の生き方っていうものがあるんだよ、ということを教えてくれているのだと思います。

ですから、辛い時にも頑張ろうではなく、辛い時は必ず動く、それは善きほうへ動いていくから…と、静観しつつ考えてみるといいかもしれません。そして、何を変えていくべきなのか、何を取り入れていくべきなのか、を考えてみる。こうして自分を創造していくことをしているんだろう…と思います。

神々しささえ…
2025/02/10

以前、何かの記事で読んだ方のこと。それは女性の方(40代)で、病気になられて歩くこともできないほど弱ってしまったご自分のことについてのものでした。

病気になる前のその方はとても丈夫で、健康で、スポーツが好きで、社交的で、快活に毎日をおくっていらしたのだそうです。疲れる、とか、しんどい、とかというものとは無縁であり、それがご自分にとっての普通だったのです。

しかし、40代に病気に罹り、体力が落ち、筋力も落ち、気力も落ち、気持ちも沈み、苦しみ、しばらくは外に出たくなくて、家の中で過ごしていたのだそうです。そうしながらも時間をかけながら少しずつ心身が落ち着いていくにつれて、外に出て歩いてみたいという気持ちがわいてきて、家の近所にある小さな階段を登ってみようと思ったのだそうです。

一段、また一段と手すりにつかまりながら登ったそうです。昔であれば駆け上がっていたその階段が、今は一段一段が自分にとってはとても大きな一段です、と話していらした。自分の横を歩く人達はどんどん自分を追い越して上がっていく。それでも、今、自分にできるこの一段を登ることはとても嬉しく、やりがいのあるものになっていますと‥‥。

これを読み、人間って尊いと思いました。今おかれているところで、自分が生きていくために、自分が自分にしてあげられることを見出す能力が人間には備わっているのだと思うのです。そういう状態になるまでの苦悶の時間もまた人間には与えられますが、この方はそれもそのまま受け入れた(諦めたのか、もう、昔の様にという期待を持たなくなったのか)のだと思います。

その苦悶の時間も永遠に続くことはなく、どこかで次へ動いていくために変化します。それに抵抗せず、時間をかけてそこにいたことが、階段を登ってみようという気持ちになったのではないだろうか、と思います。

多くの人は(私もです)早くよくなるようにしがちですが、もしかしたら、与えられている苦悶の時間は、人の能力を呼び覚ましてくれるものにもなるのかもしれません。以前と同じように階段を駆け上がることはできないけれど、今の自分に合ったものを自分に与えてあげているという姿は神々しささえ感じます。こうして自分を支え、自分を生かしていかれる人でありたいと思います。

自分自身への自負
2025/02/09

「自負とは、自分の能力や功績を人に誇れるくらいには立派であると信じることである。言い換えると、「自分はこのくらい凄いと自分で言ってしまえるだけの自信がある」ということである。主に「自負する」「自負がある」「自負心」といった言い方で用いられる。」(Weblio辞書より)

で、自負を持つことが大事といわれ、これが自分の自信にもつながるのだと思います。しかし、どうなのだろうか。

例えば自分は頭がいい。勉強ができる、クラスでもずっと1番だったと言う人が大学に入ったら、自分の周りは自分よりも頭のいい、勉強のよくできる人だらけだった、というのはよく聞きます。ということは、自分は頭がいい、自分は勉強ができるという自負はがらがらと崩れていく。又は、自分はこれだけの成功をした(これだけのことを今やっている)という自負を持つ人も、自分以上に成功をした人や活躍中の人が沢山いることを知って自信をなくすということもあるのかもしれません。

こうして他人との比較における自負においては自分よりも負けている人の前では使えるけれど、自分よりも勝っている人の前では使えずというものになります。これも自負の一つの意味づけで、これはこれでありです。

で、自負の新しい意味づけとして、自分の内側で自らが起こしたことへの自負というのはどうでしょうか。

例えば、なかなか行動に移せない自分があるとき勇気を持って行動する。それは他人から見たら小さな行動ではあるけれど、自分としては初めての勇気ある行動だった。それを行った自分自身への自負。誇り、自分はやった。できた。完璧ではなかったけれど、とにかく行動した…と言う体験を自分の自負にする。それは他人に話さなくていいと感じると思います。他人からの理解とか承認とかというところとは違うところにあるものだから。そして、それは自分の中でじんわりとした喜びとして感じられると思います。

こんなふうにして自分自身への自負を高めていかれるといいのでは?成長とか、意味づけを更新していくとかって、自分の内で起きていることでもあります。いや、そちらが先だと思います。これについても自分はそれが誰よりできている、と、他人が出るようであれば、それは、冒頭に出て来た自負と同じということになります。

理解し合う
2025/02/06

自分は正しいとほとんどの人は思っていると思います。

自分の考え、判断、言動、それらは正しいと。だからそれを受け入れない人や、それに反対する人がいると、腹が立ったり、相手を嫌いになったりします。

そこには、正しいということよりも自分をちゃんと理解してくれないことへの怒りがあるのだと思います。正しいから、というよりも、理解してくれないから、わかってくれないから、腹が立つ。

ということは、他人は(もしくは特定のあの人は)理解してくれるものだ、理解してもらって当然と思っているのかもしれません。そして、理解してくれる人がいないと自分は存在できないと思っているのかもしれません。

しかし、自分と全く同じように、自分が望むように自分を理解して、わかってくれる人っていません。家族であっても、親友であっても。自分も誰かにそうできないと思うんです。

理解し合うってなんだろう。相手が望むように理解することはできなくても、まず、大前提として相手も自分も人間である、という共通のものであるということです。ここが大きな理解となると思うんです。

人間だから、同じように、苦しみを味わったり、悩みをもったり、怖さや不安をもったり、怒ることも、悲しむことも、逃げることも、怯えることも、楽しいと思うことも、うれしさも、喜びも、人間だから自分と同じようにその人の心の中にはあって、それを感じて生きている人なんだ、ということ、それが大きな理解だと思います。

そこに自分がいられればいいと思います。そうだね、そういう気持ちにもなるかもしれない…、そんなふうに考えるかもしれない…、と相手を理解する。それで十分なんじゃないかと思います。

共感っていうのもそういうことです。「そうですか…苦しいんですか」という言葉のことではなく、自分もその人も人間。そうであるから感じ入ることのできるその人の苦しさ。それを感じている自分が心を開いて、その人の前にいること、それが、共感なんだと思います。

頭と心
2025/02/05

「もしかしたら…〇〇と、もう、決めつけなくてもいいのかもしれない・・・・・・・・・・・・・・・・」

これをマントラとして、できるだけたくさん言っていくことをお勧めしています。歩きながら、食事の用意をしながら、一息ついたときに、お風呂の中で、時にはこのための時間を作ってあげて椅子に座って、空を見上げて。この単純な作業が脳を更新させていきます。

そして、今まで通りに白黒ワークも行ってください。マントラの様に手軽にできるものではないですが、時々はゆっくりと落ち着いてワークをします。

その時の白の部屋の最初の言葉はマントラで言っている言葉です。「もしかしたら…」。そして、そのあとに続く言葉は自分が今までに獲得した自分でも認識できるものを言います。それも優しく。たくさん言う必要はありません。

で、そこで感じる感覚と、マントラを言っているときの感覚とが違うのがわかるといいです。マントラは頭に対して行われている感じがあります。又、ワークの方は心の奥深くで感じ入る感覚があります。言葉をキャッチするところが違うということです。

この2つをやり続けるということになります。特にワークはとても大事なのでこちらは丁寧に行います。この2つを今の自分にはどのくらいの割合でやったらいいのかも自分で感じて決めてください。

頭と心が一致していくといいです。

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