ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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たくましさこそ生きる知恵
2019/08/24

今回の盛岡クラスも無事に終わりました。

そして、クラスからまたお一人、カウンセラー試験に合格された方がいらっしゃいます。藤岡好恵さんです。好恵さんも、何度も試験に挑戦してくださいました。全て、パーフェクトにできているのに、私のわがままで「何か、もう一つ欲しい」だの「もっと力を抜いた好恵さんが見たい」だの相変わらずワケのわからない、失礼なことを言って彼女を困らせていたと思います。しかし、今回、それを見事にやり切った好恵さんがいました。そう、その、新なものは、また好恵さんの魅力になりました。・・・・というふうに、試験は確実にその人を魅力的にします。

今回のクラスでとても感じたことですが、皆さんが「私」を使い始めているということを感じました。この「私」って、神の資質でできているので、崇高なイメージがあり、どうにかしてそれを感じたいとか、それにつながるとか(厳密にはつながりません。だって「私」が自分だから)何か特別なものとして捉えがちです。「私」は与えられる恩恵ではないです。

「私」は瞬間、瞬間、黒を選ぶのか、はたまた白を選ぶのかをこの地上においては決める存在で、それを行動する現実的な存在です。この地上での生活をスムーズにするものです。

「私」は無限で宇宙に広がるというものではないです。それはしっかり日々の生活の中で「私」を使い、動くことができてからの話です。それも宇宙の前に他人との関係→自然界との関係を経てからのものです。その最も大事な部分を(最も難しい部分を)皆さんがやりはじめていることがとてもうれしかったです。

それは、例えば、諦めること、手放すこと、より理解すること、言えなかったことを言うこと、人は絶対ではないことに気づくこと、自分のセンサーを信じていいことなどです。そうやって苦手だったこと、やらないできたこと、今までの見方が狭かったことを知ることが少しずつできるようになっていかれていることは「私」そのものの行動でしかありません。黒パターンにはできないことです。それを見ることができてとてもうれしかった。

これは沖縄クラスの方も、茅ヶ崎クラスの方も、又、個人でお会いしている方々もです。「私」で生きれば今の嫌なことがなくなるんじゃないんです。神に守られるのではないんです。「私」を使うことでたくましく、なるんです。「私」を使うことで知恵を持つのです。そのたくましさや知恵こそ生きるスキルになります。

これからもたんたんとご自分のペースでやっていってください。

この世は夢なんだぜ・・・
2019/08/20

先日、日記に登場した叔父。一言で言ってしまうと「自分を生きた人」「自分のための人生」で言われていたような人でした。

一族の中でも社会の中でもまわりからの評価は変わり者。本人は、そんな他人の評価には興味なく、こんなことしたら嫌われるとか、すごい人と思われたいとか、がっつり稼いで安泰でいたいとか、人から必要とされたいとか、そのあたりがない人でした。

仕事はとてもできる人。でも、あるときから「金持ちがより金持ちになる手助けをするような仕事はしたくない」と言っていわゆる一般社会からドロップアウトして、その後は食べていかれるだけを稼ぐというような生き方をしていました。クライミングを教えていたのもそのころです。「教えてよ・・・」という人がまわりに集まってきて自然とそうなる。

そんな叔父のところには小学生からご老人まで遊びにきていました。人が寄ってくる。変人なのに。すごいことを言うわけでもないし、彼と会うことで何かを学ぶわけでもないし、オーラがすごいとか、話がうまいとか、何もない。でも、何故だか気になる人でした。

で、きのう、こんなちゃらんぽらんで、特別にすごい人でもなく、財を成したわけでもなく、時間があれば山に遊びに行ってしまう生き方をしていた人がなんでこんなに命拾いをすることが多かったのか、皆に愛されたのか、と考えたとき、わかったことがありました。それは、叔父は「ずるい人ではなかった」ということです。そこに彼の全てがあったのだと思いました。他人を自分のパターンを満たすために使うということを選ばなかった人でした。

いろんな言葉を私は彼からもらっています。「この世は夢なんだぜ、あちらが現実なんだ。だからどんな嫌な夢でも夢にまどわされちゃいけないぜ」「現実のあちらへいく(死)までのたいくつな時間、楽しく遊ぶことだけをしていりゃいいんだ」こんな人が身近にいたんだとあらためて思いました。きっと今もあちらで山に登っているのでしょう。

さて、今日はこれから盛岡です。暑いのだろうか、それとも・・・・といつも気温チェックをしているのにいまいちずれている私なので、今回もそうかも。では、行ってまいります。

自分の思うままに生きろ
2019/08/19

「自分のための人生」ウエイン・W・ダイア―著を読み終わる。

ざっくりと、かなり簡単に言ってしまうと「他人の評価など気にせず、自分の思うままに生きろ」ということでした。

他人の評価など気にせず・・と言われても・・と思う人のほうが多いのではないかとも思いますが、ここをキョウレツに勧めているのにはワケがあります。ほとんどの人が他人中心に傾いているからです。これはものすごくアンバランスな状態。そこがあまりにも極端になり過ぎている場合、一度、極端に自分中心に傾かせていくことが必要になると私は思います(道場的には黒から白への選択)そこについてのことが書かれているのだと。

その自分中心の心の在り方が書かれているところがあります。『何より大切なことは、彼らが自分自身を愛しているということだ。成長したいという願望に、背中を押されて彼らは行動する。どちらかを選択せよと言われたら、必ず彼らは自分を大切にするほうを選ぶ。自己憐憫や自己否定や自己嫌悪におちいる隙を、自分に与えない。彼らに「自分のことが好きですか」と尋ねれば、ただちに「もちろん、好きですよ」という答えが返ってくるだろう。』(「自分のための人生」より) VIVa!!自分中心。きっと皆そんなふうでありたいと願っているのではないかと思います。だから、そういう自分を創れと著者は言います。

この尊い体験があるからこそ、他のために、というところが自然と、それは以前のそれとはまったく違う質のものとして自分の中に芽生えてきます。自分自身を愛したように、他に対して愛するということはどういうことなのかがわかってきます。そして、今度はそれを体験する。

だから、まずは自分自身なんです。他人にかまっている場合じゃない、他人に目を向けている場合じゃない、他人のことをジャッジしている場合じゃない、他人にふりまわされている場合じゃないです。自分に向き合い、自分を成長させていくことがまずやるべきことです。

また来年の夏
2019/08/18

夏だから・・・不思議なお話しを・・・

叔父がロッククライミングの生徒さんたちとある山に行った時の話です。

皆が登る岩壁に叔父は準備をしていました。まずは叔父がひとり登って皆が登れるルートを決めるのだそうです。ここに足をかけて次にここに手をのばし・・・というように所々に目印をつけ、金具を打ったり、命綱をつけて登るため、色々と準備が必要なんだそうです。生徒さんたちは下から叔父を見上げて待っています。

叔父が三分の二ほど登ったとき、頂上から男性の大きな声ではっきりと「〇〇さーーーーん」(〇〇のところには叔父の名前が入ります)と呼ばれたので「えっ?」と身体をそらして上を見たと同時に、そらせた身体と岩壁の間を大きさのある石が落ちていったのだそうです。あのまま岩壁を見たままだったら、石が頭に直撃だったと言っていました。下にいた生徒さんたちにもその石は当たることなく皆が無事でした。

その後、叔父は頂上に上りましたが、そこには誰もいなくて。一体、誰が自分の名前を呼んで、危機から救ってくれたのだろう、と話していました。

冬の山小屋で、深夜、友人と2人寝ていたときのこと。早くに寝てしまった友人のいびきを聞きながら、叔父はなかなか眠れずにいました。うすぐらい小さな小屋の中、2人しかいないのに、もうひとり誰かがいるような気がしたそうです。友人のいびきとは違うテンポで、もうひとつのいびきが部屋の隅から聞こえるそうです。人のそれのようでもあるし、動物のそれのようでもあるし。部屋の隅を目をこらしてみても、何も見えない。しかし、確かに何かが息づいていて、いびきははっきりと聞こえるのだそうです。

しかし、怖いという気持ちにはならず、逆に、とても落ち着く、安心できるもので、守られている感じがしたと言っていました。2人(?)のいびきを聞きながら眠りにおちた叔父。

「山は不思議。でも、山だけじゃないの。普通に生活をしている中にも・・・」ということでいつか私の体験も。それはまた来年の夏。

夏だから・・・
2019/08/17

夏だから・・・不思議なお話しを・・・

私の叔父(すでに亡くなっています)は若い頃から山とご縁のある人でした。若い頃の山登り、本格的に登山、ロッククライミングと、ずっと山とたわむれ、山に遊ぶ人でした。

その叔父から聞いた話です。

友人と2人で初冬の山に登り、道に迷ってしまったときの話です。2人とも山には慣れているはずでしたが、来た道を戻っているはずなのに、下山することができず、朝が来るまで動かずにここにいようということにしたのだそうです。

そうは言っても初冬の山の夜は寒く、どこかへ避難できないものかと思い、歩きだそうとしたとき、真っ暗ではっきり見えない道の先に、ちゃんちゃんこを着た小さな女の子がひとり立って叔父たちの方を見ているのだそうです。

こんな夜の山に子供一人は危ないだろうと叔父が声をかけるとその女の子はくるっと向きをかえてすたすたと歩いていくのだそうです。その子を助けなければと後を追う2人。時々その女の子は立ち止まり2人を見てまたどんどん歩き出すということを繰り返したそうです。

そうしていくうちに、遠くに光がうっすらと見え、その光から山小屋だとわかったそうです。女の子はどんどんその山小屋に向かって走り、山小屋の入り口の前でふっと消えてしまいました。

叔父たちはこうして、無事山小屋に着くことができました。小屋の管理人に女の子が来なかったか聞いたのですが、こんな夜に小さな女の子がいるわけないと言われた・・・・と言う話でした。

「山は不思議だ。山には何かが住んでいて・・・・」と叔父はよく言っていました。明日はその第二弾です。

洗剤
2019/08/16

洗濯石鹸「ウタマロ」というのをずーーーっと使っています。https://www.e-utamaro.com/products/sekken 

そもそも使い始めたのは、キッチンで使う布巾類を洗うものを探していていたときに(汚れ、ニオイ、が消えて、なおかつ、洗ったというキュッと感があり、安くて、変な石鹸のニオイのしないもの)たまたま近所の薬局でみつけたのが「ウタマロ」でした。そのぶこつな外見と妙に綺麗なグリーンブルー色も気に入り購入しました。そして使ってみると上記の全てをクリアしていて、それ以来ずっとファンです。

最初は布巾類とトミーのYシャツの襟ぐりの汚れへの使用だけだったのが、今年の長い梅雨時には、洗濯をしてもなんとなくニオイが抜けないTシャツや、タオル類も「ウタマロ」で洗ってから洗濯機に入れるとニオイがしないことがわかり、それからはニオイが出そうなものにはがしがしと石鹸をぬりつけて洗濯をしました。

しかし、この石鹸には蛍光増白剤が入っているので、生成りのものは色抜けしてしまうらしということを知り、むやみに使えないとも思っていました。

で、つい先日、駅ビルで「ウタマロリキッド」というのを見つけました。洗濯用洗剤です。こちらは蛍光増白剤は入っていないとのこと。これはいい、ということでこちらも購入しました。

実は洗濯用洗剤もずっと悩みの種でした。私はどうもあの洗剤のニオイが気持ち悪く、かといって石鹸洗剤は落ちも悪く、どうしたものかと思っていたところみつけたのが「洗濯マグちゃん」http://miyamotoss2.sakura.ne.jp/magchan_web/でした。これを1年ほど使っています。変なニオイがしないのが気に入っているのですが、これだけではいまひとつというときに使うものが欲しくて探していました。これからは「洗濯マグちゃん」+「ウタマロリキッド」又は「ウタマロリキッド」のみで・・と試してみます。たかが洗剤、されど洗剤。


<・・・・お知らせ・・・・> 「魂の道場 認定カウンセラー」の新田 真紀さんのHPをアップしました。どうぞご覧ください。

心に刻む
2019/08/15

今日は終戦記念日です。

私は直接戦争を知りませんが、祖父母、父母からそのときの話を聞くことがたびたびありました。東京大空襲にみまわれた祖父母、母は「よく生き残ったものだ」と後々もよく言っていました。

鈍い轟音とともに連日B29が飛来してきて、ぱらぱらぱらと焼夷弾を落としていき、真っ暗な闇がまるで昼かと思うくらい明るくなり、猛火に囲まれ、無我夢中で逃げ回ったと話していました。

8月15日になると、もうすでにいない祖父母、父母の話していたことを思い出します。

本当に多くの方々の犠牲があり、今、私たちは生かされているということをあらためて心に刻もうと思います。

この地球、どこへ向かっているのだろうと思います。私たちが戦争や自然破壊を繰り返し、もう、地球は「いい加減にしてくれ」と言っている。すでに手遅れであることを語っている学者たちもいますが、本当にそうなのではないかと思えます。

もうすでに遅いかもしれませんが、償いの気持ちと感謝の気持ちを持ちながら、私は生かされている間、正しく生きようと思います。そしてそういう人がひとりでも増えていくことをサポートしたい。それが、多くの犠牲になられた方々へ向けてできることなのかもしれません。

世界中が平和になりますように。そのために平和な心を持ち続けられる強い自分でいられますように。

ただ語る
2019/08/14

きのうの日記に出てきた言葉。・・「結果探し」・・これについて書いてみたいと思います。

私たちはほとんどがこれをやればこれを得られる、これを得るためにこれをやる、そのために時間とお金とエネルギーを使う。それは、それにより、望む結果が得られるからと思っているからです。

そういう在り方は普通にあって、それには子供の頃から馴染んでいて、社会の中ではよりその色を濃くしていきます。ムダなこと、先の見えないことは極力避ける。

すると、自己探求においても、この在り方を自然と使います。ワークをしたら→楽になっている、全然平気になっている、もう、それはない、というようになるんだろうなあ、と思います。

ワークをするたびに「どうだろう、楽になっているかな?そういえば楽になっている気がする。よし、これは使える」という具合にです。

しかし、自己探求において必要なことはすごくざっくり言ってしまうと、結果はどうでもいいということなんです。やりたいことは、今までの反対のことです。今まではこれを得るためにこれをやる、という、結果ありきでした。新しくやることは、何かを得るため、何かになるために、というところではなくて、その行為そのものありきをやっていくというものです。あいまいで、目に見えなくて、どうなっていくかもわからないもの、その在り方が自己探求をしていく上で必要となります。

逆に言えば、その今までにない在り方を創る出すために自己探求を使うとも言えます。先の見えない、予想外になることもある、というところでもいられる自分。

この2極の世界において、片方だけではまだ不完全で、両方を持つことでバランスが整います。それをやっているんだということです。

結果探しは何故するのか?自分がそうしているなあと感じられたらそこにはパターンがあるのでどんなパターンなのかを見つけ、語りかけをしてあげてください。そうすればどうにかなる、ではなく、ただ語る。

他人が出てこない
2019/08/13

黒パターンには他人が関わっています。誰かとの比較、誰かに言われたこと、言ってもらえなかったこと、誰かが自分にしたこと、誰かが自分にしてくれなかったこと、などなど。

それが、白パターンには他人が出てこなくて、自分の中での新な視点、気づき、発見などに変ります。白黒ワークを行ううちに、そんな白パターンの心地よさや、そうか、いいな、この在り方、という本来の自分の望む在り方や、目指したいところを感じるようになります。

こうして、少しずつ、少しずつ、ずっと他人が関わっていた自分の在り方、生き方が自分ひとりのものへと変わっていきます。

そうなってくると、自分が選んだものごとに対して「こんなふうに思われたらどうしよう」とか「何か言われたら嫌だな」とか「こんなことを選んで仲間はずれになるかも」「これであいつに勝てるかも」などの今までは普通に馴染んでいたそのような思考も出てこなくなります。これはとても不思議ですが、そうなっていきます。

これが「自分の人生を生きる」ということになるんですね。

このように自分を中心にして生きることが悪いこと、自己中心、わがまま、自分勝手、他を大事にしていない、謙虚じゃない、と一般的には思われていると思います。そんな人間になってはいけないと言われてきたとも思います。

しかし、こうして自分の人生を生きているからこそ、他人を自分の黒パターンを満たすものとして使わなくなり(自分で満たせるので)その分、他人とそのままに対することができるようになるんです。他人と比較し、競争したり、ランク付けをしたりする必要がなくなり、他人からこうしてもらいたい、こう言ってもらいたい、と黒パターンを満たすことを要求することもなくなります。結果、純粋に他人とよい関係を創ることになります。

ワークを続けていくときっとそうなるんだろうなあと感じている方は多いと思います。これも、頭でそうなるのではなく、自然にそうなっていかれるように。もう、なれたかな?まだかな?なんかなれてるな、なれている気がする、と結果探しをするのではなく、毎日の自分のやるべきことをやっていってください。このスタンスにより、プロセス自体を大事にするという能力が開花します。結果は二の次。今ここでのいい在り方を選んでいくことが今に生きるということにもなっていきます。

花火大会中止
2019/08/11

きのうは、茅ヶ崎花火大会のはずでした・・が・・高波のために中止となり、夕方から駅構内は、中止を知らずに来た人人人であふれかえっていました(せっかく浴衣を着て、きたのにねー)

それでもビーチへ行く人々。花火は見られなくても、夜の海を見て、夏を感じたかったのでしょうか。しかし、早めに通知をする方法はなかったものか。クレームもきたと思います。

今年は花火を見ることができないのかぁ、とちょっと寂しい気持ちになりました。いままではあたりまえのように毎年見ていたので、あってあたりまえになっていました。あってあたりまえのものがなくなることで、あたりまえはないんだなと初めてわかります。

こうして見て見るとあたりまえに思っている毎日の生活も、実はあたりまえではなくて、ある日急に消えてしまうこともある(いつまでもあると思うなあたりまえになっている日々)そう思うと、だらだらと不平、不満を言いながら、びくびくと固まって生きている場合じゃないと思えます。あたりまえと感じるくらい平穏な毎日なのだから、それを与えられていることで、自分がやるべきこと、できること、挑戦する場があります。

あたりまえが消えてしまった生活を送っている人達が世界中にはたくさんいます。私たちはとても恵まれています。そういうことを思い出させてくれた今回の中止になった花火大会。

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