ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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心身を管理
2020/02/23

きのうは春一番だったようで。1日中強風が吹き荒れていました。

私は風に弱く、顔の皮膚がちりちりと痛痒くなったり、体が冷えるので、きのうはできるだけ外に出ないようにしてすごしました。

若いころは全く平気だったのに(どちらかというと、風に向かってぐんぐん歩くことが好きだったのに)この数年、風がこたえるようになりました。体の変化というものは自然に起きてくるんだなあ・・・と(あたりまえだけど)妙に実感しています。

しかし、その変化している体をその都度、いいあんばいに、コントロールしていくところに自分で管理している感もあり、そこはちょっとうれしいところです。心もそうですね。自分で管理できるようになると、それは純粋にうれしいことだと思います。

管理をするのは「私」です。たくさんの普遍的能力をもつ「私」。その「私」が今のこの体に何が必要なのか、何をしてあげるといいのか、この心に何が必要なのか、何をしてあげるといいのか、を把握し「私」の持っている普遍的能力を使ってそれを与えていってあげるということ。そうやって変化を続けるこの個体の心身の取り扱い説明書を完成させていくことが人生とも言えます。

そして、管理できるようになるためにはまず現状を知らなくてはいけないということです。風がこたえる自分の体のことを認めたくない、まだまだ私は若いからと現状を無視して、受け入れなければ、管理はできず、取説も作ることができません。

心もそうです。例えば「自分はすごい」と思うのは「自分はすごくない」と感じているからで、まずは、それを認めることです。そうか、自分はすごくないと思っているんだ・・・と。今の己を知る。正直に、素直に。ここから始まっていきます。

次回こそは
2020/02/22

きのうは、マンションのガス点検日でした。スケジュールが合うかぎり、毎回お願いをしています。

来てくださった方は私と同年くらいの男性の方でした。

「奥さん、ガスが地震などで自動的にとまったときのロック解除の仕方、わかりますか?」と聞かれ「さあーーーー」と、まるで他人事のように今回も答える自分が・・・なさけない・・・。思え返せば毎回そうだ。なんで覚えないのだろうか。

そこで、再び、その方法を教えてもらい、なおかつ、解除方法が書かれているシールを見えやすいところに張り替えてくれました。「こうして目の前に見えれば、いざというとき、あわてることなくできると思いますよ」と言われ、次回こそはしっかりと答えられるようであろうと思いました。

一通り終わると、その方が「ここは、海が見えるんですね。ちょっと見てもいいですか?私、海大好きなんですよ」と言ってリビングの窓にはりつくようにして海をながめました。

「いいですねえ。こんなに見えるんですか。あれは烏帽子岩でしょ?江ノ島、三浦半島、伊豆半島か。よく見えますね。いいなあ・・・・でも、よくないこともあるでしょう?」と聞かれました。

そこで、風が強いこと、塩害もあること、洗濯ものもいまいちからっと感がないことなどを話ました。すると「全てがそうですね。いいことだけなんてないんだな」とおっしゃいました。「私もそう思います。いいことだけはないですね。いいことも悪いこともありますね」と言いました。すると「でも、それでいいんだろうなあ、いいことだけだと人はだめになるんだろうな」と話されました。

こういうことを聞くと、人って素晴らしいと思うんです。その方が時間をかけて、いろんな体験を通して、人、人生、生きるということについての真髄をみつけていったからこそのその言葉。そのプロセスはきっといいことと悪いことの繰り返しだっただろうと思います。そんなプロセスが人には大事なんだと思います。

どんな仕事をしている、とか、どれだけ稼げている、とか、どれだけ他人に認められている、とか目にみえる、誰にでもわかりやすいことが一般的なところのその人への判断になりますが、自分だけの貴重な日々を通して、何を学んできたのか、という目には見えないけれど、心に響くもののほうが大切だと思います。

短い時間でしたが、そんなあたりに触れることができたその方との会話でした。

青いな、自分
2020/02/21

近所の魚屋さんで。

さて、今夜は何にしようか・・・と・・・レパートリーが極少ない私なりに悩んでいました。いつもの鮭か、おさしみか、頑張って煮魚か。

するととなりで同じように魚を見ていた女性(たぶん70代の方?)が「何にする?」と話しかけてきました。「そーーーですねえーー」とあごに手をそえて、ちょっとできる主婦風に答える私。

するとその方が「もーーーいやになるわよねぇ。毎日毎日三度三度ご飯の用意して。女の人って365日がそうじゃない?ご飯の用意に休みはないでしょ?もーー本当にいやよね」と言いました。「本当にそうですね、女の人は大変ですよぉ」と答えたものの「おいおい、おまえは違うだろ?作らない日が多いだろ?大変なんて言えんのか?」と心の声が。

「男の人は作らないし、手伝わないし、買い物から作ることから後かたづけまでみんな女の人。男の人はいい気なもんよ」と続きました。

よっぽどご主人に腹が立っているんだろうなあ、手伝わないご主人に不満があるんだろうなあ、もう、いいかげんご飯作りから解放されたいんだろうなあ、と、想像しました。しかし、次の言葉で私の想像は木っ端みじんになりました。

「あっ、カレイがあるわ。これを煮付けにしてあげよう。お父さん、カレイの煮付けが大好きだから」

ええ〜〜〜?と思わずその方の顔を見てしまいました。さっきまでの話は一体どこへ?まだまだ続きそうないきおいだったのに、それはどこへ?

「お父さん、カレイの煮付けが大好きだから・・・」というフレーズが頭の中をぐるぐるしました。なんて、お父さん愛に満ちている言葉なんでしょう。お父さんのこと、大事に思っているんだな、大切にしているんだな。なんだかんだ言っても。

夫婦って不思議。特に長年ともに生きてきた夫婦って。まだまだ私が体験していないことを先輩たちはたくさん体験しているのだろうと思いました。青いな、自分。

バランスをとるために
2020/02/20

バランスをとることが大事とよく言っています。

ひとつの事象に対して、プラスとマイナス、陽と陰、ポジティブとネガティブ、白パターンと黒パターンの2つの極がありますが、かたよってどちらかが大きいと、そこを使うことになるので、そこにはアンバランスが生まれます。

例えば「私はだめだ」という黒パターン(マイナス、陰、ネガティブ)が対極にある白パターン「私はだめではない」(プラス、陽、ポジティブ)よりも勝っていれば、必然的に黒パターンにかたむきそれで思考し、選択し、言動をしていくので、その結果を現実で受け取ることになります。そこにはネガティブな感情・感覚が伴います。

このバランスの悪さをよくしていこう(かたむきをなくす)ということで、大きくなりすぎた黒パターンを落ち着かせ、反対の白パターンを選ぶということをしています。一気にできなくても、意識的に白パターンを選び続けることで(実践もともないますが)だんだんと両極の分量が同じになっていきます。

・・・・「私はだめだ」もあるし「私はだめではない」・・・・もあるのが自然で、やっとおさまるべきところにおさまったという状態です。

できるだけこの状態をすべてにおいて作っていくことで心全体のバランスがとれます。

自分を観察する、ということは自分のアンバランスな部分を見つけ、このアンバランスに何がたりないのか、何を足せばバランスがとれるのか、ということを考え、ワークを通してバランスをとるというところを目指しています。バランスがとれれば、今までだったらいちいちひっかかっていた情報もすっと通ってぬけていきます。結果、楽です。

バランスがとれることで見える自分の心の世界はきっと今までとは違うように見えるはずです。「私はだめだ」は文字通りのそれだけではなかったという新な発見をするかもしれませんし「私はだめではない」一辺倒の不自然さや危うさを感じるかもしれません。この体験もまたバランスをとることへと通じています。

バランスもこうしてスパイラルに伸びて、その姿を変化させながら進化していくのだと思います。

才能、得意とするところ
2020/02/19

茅ヶ崎、沖縄、岩手のクラスで、自分の才能、得意とするところをできるだけ出してみるというのを以前やりました。

まず、この「お題」に躊躇する方もいらしたかもしれません。自分のことをそんなふうに言ってしまっていいんだろうか、それは謙虚じゃない、そんなことを言って皆から図々しと思われないだろうか、あたりのパターンにひっかかったのかもしれません。

また、逆に、自分にはそんなものはない、そんなにすごい人ではない、というあたりのパターンにひっかかった方もいらしたかもしれません。

自分の誇れる部分を表明することって苦手という方のほうが多いです(否定的な部分はどんどん出せるのに)特に日本人はそうなのかもしれませんね。

そうは言いつつも、皆さんが出してくれたそれぞれの才能、得意とするところはそれぞれ、その人だけのもので、どれも「そうだよね・・・本当にそうだねーー」というものばかりでした。自分で自覚しているそれって、他人にも感じられているところなんだということもよくわかりました。

岩手のクラスで「洋子さんの才能、得意とするところってなんですか?」と聞かれ「えへへへ・・金儲け・・」と言いましたが(こんなふうに親父っぽくうけようとするところはさすが60代)あとから考えてみました。そして、思いついたのは「やり続ける力がある」と「人を育てるのが上手い」ということ。自分で「そうだよね・・・本当にそうだねーー」と言い、自分自身をそのときも育てました。

で、あとからわかったんです。人を育てるのが上手いのは、人(自他とも)に興味があって、人が好きだからなんだろうと。好きだから、時間をかけられるし、待てるし、継続できるし、ガチになるんだろうと。

・・・・ここまで書いて「ずっと洋子さんのセッションを受けているのにちっとも育ってないんですけど」と言われたらどうしよう、とも思いましたが・・・・

誰でも、その人の中に才能、得意とするところがあります。そして、それは誰かと比べて勝つものではありません。自分を最大限に活かし、きっと他のためになるものです。いろんな才能、得意とするところを持つ人たちがいるからこそ、豊かな地になっていく。そんな素晴らしいものです。

マイナスの意味づけだけではない
2020/02/18

いつも自分の心を平和に(できるだけ。ぶれてもいいから、でも「私」に気づけるように)私たちは皆が創造者。

TVを見れば、朝から夜まで「コロナウィルス」の話でもちきりです。インフルエンザのように、まだ、はっきりとわからず、特効薬もないコロナウィルスには怖さを感じるとは思いますが「怖い、怖い」「不安、不安」「危ない、危ない」と皆がコロナウィルスに意味付けをしていくと、そうなっていくのでより怖いです。

今はわかっている範囲で自分なりに対応していくしかないので、そこをしっかりとやっていけばいいのだと思います。今までよりも丁寧に手洗い、マスク(予防にはならないといわれていますが)、のどを潤す、疲れすぎない、よく寝る、食事はバランスよく、いい分量で、よく噛んで食べる、気持ちよく体を動かす、不必要に人混みに行かない、こういうときこそ、自分の好きなことをする、などなど。

そしてとても大切なことはストレスをためない。これはそうしようと頭で考えても対応できないので、自分の中に起きたネガティブな感情を生み出すパターンへの語りかけ、白黒ワーク、そして、白パターンの世界へゆっくりと身も心もひたる、温泉につかるように、を、うまく使っていってください。1日に何度もその温泉に入るといいです。自分専用の温泉です。

それでも感染してしまったら?病院に入って治療。それで死んでしまったら?・・・・そのときは、向こうで元気に生きよう・・・・と私は思っています。

「正しく怖がる」と言われていますが相手がまだ見えていないので、もう一つ手前で「正しく生活する」がまずのような気がする。また、これから変化が起きてきたらそのときにまた考えるとして。

今回のことは決して中国だけの問題ではなく、私たち全員の(地球人としての)問題なんだと思います。全員をつくっているのはひとりひとり。だから、ひとりひとりの問題でもあります。今回のことで自分の何を変えていくべきなのか・・・ということの問いかけでもあると思います。地球人になげかけられていること。

終息するのに時間はだいぶかかると思いますが、いつかは終わるでしょうから。この機会を自分を大切にする、生活の見直しのために使うというのもまたいいと思います。

何ごとも両極の意味づけができます。コロナウィルスへの意味づけもマイナスの意味づけだけではないということです。それぞれがプラスの意味づけを作ってみるといいと思います。それも自分専用の意味づけ。

目の前のことだけになりすぎず、大きな目ももちながら、ここもバランスをとっていかれると、いいですね。

共感で・・・
2020/02/17

黒パターンに寄り添い、彼らの声を聴くということは、彼らに同調するということではありません。

この、同調というものがけっこうやっかいです。同調することが優しさとか、自分を許し、理解すること、それが自分を愛することと勘違いしやすいです。こういう場合の「そうだよね」には、妙な安心感や、妙な安堵感があります。それは慣れ親しんでいる安心感や安堵感です。同調によるそれには味方感があります。味方感は自分は正しいと言われているような気持ちになります。

それに対して「私」が言う「そうだよね」には、パターンとの間に距離があり、パターンの声を正直にそのまま、ゆがみなく、現実に起きていることを代弁しているものの、客観的にながめている風があります。「なるほど、このパターンはこんなふうに言っているのか・・・「私」は全くそうは思っていないんだけど、でも、あなたの言いたいことを理解しているよ」というものです。これは同調ではなく、共感です。

同調と共感の微妙な違い。共感は相手と同じにならないとできないのではないということです。

人はほとんどの人が同調されることが好きです。相手が自分に同調してくれれば、自分は正しく、それに対してこの人は賛同してくれて、この人は私の味方だ、だからこの人は良い人だというようになっていきます。

共感においては共感をしてくれている相手がいるからこそ、自分でやろうというところへつながっていきます。共感をしてくれる人が自分を救い出してくれるのではなく、共感という自分を理解してくれている人に、自発性をしめしたいと思います。こんなに自分のことを理解しようとしてくれている、そういう人がいてくれることに感謝だし、その人のためにも頑張りたいと思います。

ですからパターンに対しても共感の姿勢をくずさないようにして、よりそってあげてください。パターンが「こんなに自分は理解されているんだ、許されているんだ、愛されているんだ」と思えるように。それを感じたパターンは、もう、おとなしくしていても大丈夫なんだ、ということも理解し、パターンレベルであっても「私」に協力していきたいという気持ちもわいてくるようです。

そこまでの信頼関係を「私」とパターンの間で作るといいです。そうやって自分の中に平和な国を作る。

祈りでつながる
2020/02/16

きのうの日記に「自分の中に生きているたくさんの人たちに助けてもらうところは助けてもらいながら一緒に生きれば」と書きました。

そんなことあるのか?と思われた方もいたかもしれません。

私は皆さんにお祈りをお勧めしているのですが、お祈りを続けていくと、先祖と一緒にいる(もしかしたらそこには過去世の自分もいるのかもしれません)のを感じることがあります。実際「お祈りを続けているうちに、先祖を身近に感じました」と言われた方がいらっしゃいます。

これは自論ですが、こちら側から祈りという行為を通して、先祖へ心を向けていくうちに、あちら側は喜んでくださるのだと思います。そうするうちに、何かのときにちょっとしたヒントを与えてくれたり、サポートをしてくれたり、必要なものごとを教えてくれたり、ということが少しずつ起きてくるのを感じます。

また、私の中に流れている先祖の方の能力で、今の私の仕事に使えそうなもののスイッチが入るということも起きているんだろうと思います。自分の知恵や能力を考えたとき、それ以上のものを感じるときがあるからです。

いずれにしてもそれは誰かのために使うものであり、そこをはずれてしまってはいけないこともわかります。ここがすごく大事であることを思います。

こうして、少しずつ、自分だけではない自分を感じていくことで、もう、ひとりで頑張らなくていい、と思うようになりました。子孫には幸せでいてもらいたいと先祖は願っているはずです。どうにか、サポートをしたいと思ってくれていると思います。

こちらから心を向けるお祈りは感謝と宣言、そして先祖の方々の幸せとやすらぎを願うものです。それは、個人、家族を離れて、地域に(氏神様に)国土に(日本中に)世界に(地球に)宇宙に(太陽系に)と広がります。ひとりひとりの祈りがこうして自分のことだけではなく、広く広がっていくものとなりますように。

一体だれが生きているのだろう
2020/02/15

人は誰でも、その人にとって必要な体験をしていろんなことを学びます。

昔、カウンセリングを学んでいたころ、先生から「その人の体験を奪ってしまわないように。それがどんなに無駄に見えても、それは違うだろうと思っても、それでもその人にとっては必要な体験だから」とよく言われました。

もちろん命にかかわることであったり、どう見ても社会的にまずいことであったり、他人へのやってはいけないことであった場合は別ですが、そうではないものごとは「その人がそこから何かを学ぶまで自由にやらせてあげなさい」と言われました。たとえ、それがどんなに遠回りの道のりに感じられても、そのままにということでした。

当時は、それが無駄だとわかっていたり、遠回りをして時間を過ごすことがわかっているのならその人のためにそれは違うと教えてあげたほうがいいんじゃないかと思っていましたが、今思うのは、先生のおっしゃる通りということです。結局、その人が体験したことしかその人ではない。

じゃあ、遠回りしている間に死んじゃったらどうなんだろう?と思うかもしれませんが、その遠回りして得た体験を来世にいかせばいいとも思えるようになりました。来世に生まれたときにまたすべてを忘れてしまうけれど、魂には遠回りの体験はしっかり刻印されています。それはどこかで姿を現してくると思います。

こうしてとても長い目で一人の人をみたときに、その人の中には本人さえも気づいていないその人の過去世での体験が生きています。それは過去世の人も同時に生きているということ。また、肉体というところにおいても、自分では気づいていないものの、先祖からうけついできたものは自分の肉体や性格などとして生きています。先祖も同時に生きている。

こう考えたときに一体誰が生きているのだろう・・と思うときがあります。私はそれぞれの人たちを代表して今生きているんですが、自分を構成しているものは過去の人たちなのかもしれません。その人たちが同時に生きている。そう考えると自分というものもいるようでいていないとも言えます。だから、そんなに深刻にならなくていい、と思うんです。

自分の中に生きているたくさんの人たちに助けてもらうところは助けてもらいながら一緒に生きれば。そんなことを思う今日この頃。

音楽の力
2020/02/14

きのうは、デンマークの画家、ヴィルヘルム・ハマスホイ(1864-1916)の絵を見に上野へ行ってきました(「ハマスホイとデンマーク絵画」)

開館後すぐだったせいか、ちらっと中を見ると人が少なかったので、そうだ、音声ガイドを借りようと思いました(音声ガイドは初です)ナビゲーターは女優の宮沢りえさんです。ガイドマークのあるところで操作するとその絵についての解説が宮沢りえさんの優しい声で流れました。

数枚の絵のところではBGM(その音楽もこの時代のものだそうで)入りの説明もありました。その音楽を聞きながら絵を見てみると、音楽のないときとは絵の見え方が全く違うことに気づきました。音楽があることで、その絵の上下前後左右に広がっている世界やそこにいる人々の心までもが見えるようでした。

音楽のみも選択できたのでしばらくは解説なしで音楽のみで見てまわりました。こうも違うのかというくらい、絵の世界を広げる音楽の力は素晴らしいです。私は音楽で想像力を上げていく個性なんだとよくわかりました。

そして、もうひとつ。「絵は3mくらい離れてながめる」とは父がよく言っていたことで、私は美術館ではできるだけそうしていましたが、混んでいるときにはそれができませんでした。しかし、今回は人が少なかったので、どの絵も3mくらい離れてながめることができました。

詳しく見たいときには近寄って見ましたが、やはり、離れてながめることで、その絵がいきいきと見えます。これは目の前の方を見ているときも同じように感じます。その方の部分のみを見ているよりも全体を見ることでその方の活力や個性というものが見えてきます。

何ごともしっかり細部まで見ることが必要なときもありますが、ざっくりと遠くから全体を見るということで見えてくるものもあります。

ハマスホイの絵だけではなく展示されている北欧の画家たちの作品が、全体に落ち着いた、ゆったりとした場をつくっていたと思います。これも、人が少なかったからかな。美術館はできれば人が少ない状態がいいですね。難しいですが。

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