ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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自分はどこへ向かいたいのか
2024/03/28

自分はどこへ向かいたいのか。

それは決めていなくてはなりません。ここへ向かっていきたい、と。昨日書いた一致性を持って、一貫性を持って、まっすぐに(ビーム光線のように、と誰か言っていました)

そんなストイックに、そんな生真面目に、じゃなくていいんじゃないか、と思う方もいると思いますが、目指すところへ向かうとはそういうことです(これはどの職業でもそうですね。その仕事において目指したいところが決まっている人はいつもそこに焦点をあてています)

それも、誰かに無理やりやらされているのではなく、自分の意思なので、こうして歩むことは自分の楽しさであり希望でもあります。

ここへ行きたい→そうしよう→そうする→絶対行く、と自分で心底決めてしまえば、日々の生活の中にそのヒントになるものごとを発見するし、わからなかったことがわかったり、目指すところへ向かえるような物事が起こっていったりと、何かが後押ししてくれているんじゃないかという事もよく起こります(いいことが起きるということだけではないです)

そして、その連続を体験すると、やっぱりひとりで生きているのではなくて、何かが力をかしてくれている、必要な物事は与えてくれる、ということもわかります。

そして、そうなると、ひとりでしゃかりきに頑張らなくていい、どちらかというと肩の力を抜いていたほうがいいということもわかります(この部分が、あちらが決めるということなんだと思う)

ですから、この道は、深刻に、神経質に、過敏に、やるしかない、やらなくちゃ、頑張るで、進まなくていいんです。自発的に自分の意思で行うことであれば、きっと、深刻ではなく、神経質ではなく、過敏ではなく、やるしかないでもやらなくちゃでも、仕事を頑張るように頑張るではないと思います。

それが自分の向かうところへ行きつく姿勢です。修行じゃない。あくまでも自分の意思で行うものです。だから、楽しく進める、だから続けることができる(続けたい)という思いのあるものです。

この姿勢自体も、仕事場や家庭での姿勢とは違うものであることを肌で感じられるといいなあと思います。自分が向かいたいところは(多分、誰もが)今までの領域にはなかったところなので、今までのやり方は使えないんです。そのためにも、思考しすぎて、論理的でないようにしてください。

階段を登るには思考ではなく心の思いです。そして感覚です。ここが大人はとても苦手ですが、誰もがそれが得意であった子供の時の自分の体験があります。そしてそれは大人になった今でも残っているんです。階段を登りながらそこが発動していくと思います。自分はどこへ向かいたいのか、を、まず、はっきりと決めてください。

一致性は重要
2024/03/27

不一致を減らしていく。これはできればどういう場でも。ただ、仕事場や家庭の中ではそうできないこともあるので、そのときには、「今は「私」は「不一致」を選ぶ」と、自分で選択すれば一致します、と前に言ったようにしていけばいいと思います。

で、大事なことは、プライベートにおいてです。ここではできるだけ不一致にしないようにするということです。わかりやすいところでは、本当は嫌なのに「いいよ」と言ってしまったり、できそうもないのに「できます」と言ってしまったり、本当はおもしろくない誰かの幸せに「よかったね」と言ってしまったり…というやつです。これは意識しないと簡単に言ってしまいます。クセのように皆なっているからです。それが一般常識として蔓延していてそれを身につけてしまっているからです。ここを自分で意識的に修正していくことは大事です。それは、自分にも他人にも誠実であるということです。

そして「一致性」が大事なのは、現実を変えていくのに必要なものだからです。それは、宇宙にある、フィールド、とか、現実の可能性が含まれる特別な空間、とか、言い方は色々ですが、人の意識を受け取り、その意識に沿ったものを与えてくれる、もしくはその意識に沿ったところへ連れていってくれる、という場所に、自分の望み、理想を届けられるのは「一致性」のみだからです。

いくら思考で「こうなりたい」と強く思っていても、そのこうなったときの感情や感覚、その言葉や行動に一致性がなかったら、それは現実化しません。「こうなりたい」と強く長い間思い続ければ願いが叶う、アファメーションすればいい、イメージを持つ、あたかもそうであるように感じる、という単独ではなく、それら全てがそろった、合わさったというのが「一致性」です。

不一致な願望とは「こうなりたい」と思っていても「無理かも、できなかったらみっともない、誰よりも勝ちたい」という思いも同時にあり、怖さや焦りや不安という感情ももちつつ、そんなことを思ってはいけないと思い、落ち着かないような、そわそわするような感覚もあり、それでも「私、そうなりたいんです」と言ってしまう、どきどきしながら。というようなものです。

この、ばらばらの状態の意識を放っているので、それは宇宙としても何をかえしたらいいのかわからないので何も変わらないを返しておこう、になるのだと思います。いわゆる、アクセルとブレーキを同時に踏み続けている状態です。

自分はこうなりたい、と願う。こうなっている自分はどんな感情や感覚でいるのか(黒パターンのそれではないです)を忠実に感じる。そのイメージを持つ、そしてそれに見合った言葉を言い、それを表現してみる。そして、そこへ向かうための具体的な行動を考える。そして必ず実践し続ける。これらが一致性のあるものであれば、それは宇宙に届きシンプルにそれを返してくれます。宇宙はわかりやすいものが好きなんだな。

それが「天が養ってくださる」と言うことでもあると思います。そう考えると、キリスト教も仏教も量子の世界を知っていたような気がします。又、ひきよせというのもこのことなのだと思います。

で、自分の心の中を整えるということは、一致性を作るために必須であることはわかると思います。そのためのいろんなワーク。結局、ワークやってください、といういつも通りのおちでした。

同時に出るパターン
2024/03/26

何かパターンが上がってきたときに「そんなふうに思ってはいけない」というパターンも同時に上がることがよくあります。

ほとんどの方はそのようです。ようです、というのは私はそうではないので、とても共感できます、とは言えないのですが(これは多分性格によるものだと思う)

で、もちろん、そのときには、この2つのパターンへ語りかけをします。例えば「自分にはできない」というパターンが上がってきたときに、同時に「自分にはできないと思ってはいけない」というパターンが出るということです。このときに、この2つがごっちゃになってしまうとからまります。ですから2つを分けてみていくことが大事です。どちらが正しいとか、どちらが本当なのか、ではなく両方あるものなんです。ただ、それを混ぜないということです。

そのためには、出てきたものをただ、単純に見ていくということです。切り分けていく、別に扱うようにします。ここはとても単純な作業なので思考しやすい人にとっては難しいところかもしれません。しかし、新なことを身につけることは難しいことなんです。だって今までやってきていないから。

いろんなパターンがある=すごく大変と思うのは、1つのパターンが出たときに、先ほどのように反対にあるパターンが出てきたり、それに関わるようなパターンがすぐに現れたり、そういえば、こんなパターンも…と違うパターンを思い出したりしてしまい、交通整理がつかない状態に自分でしているからです。いろんなパターンがある=すごく大変なのではありません。その扱い方が身についていないのです。

「私」が中心に立ち、出てきたパターンをひとつひとつとらえていけば、ごちゃごちゃになることはありません。そうやって「私」のリーダーシップ(このことが自分はどうありたいのかを反映しています)も育てていってください。

ここは基礎の部分です。そして、この基礎の部分がしっかりできるようになると、パターンと自分の距離感がリアルに感じられるようになり、どんなに強く大きなパターンでもそれと一緒になってしまうことはありません。

パターンは常に一緒にいる、しかし「私」はそれではない。だとしたら自分はどっちでありたいのか、ということになります。ここはしっかりと決めていかなくてはいけないところです。結局、自分を引っ張っていくのは、自分はどうありたいのか、というところです。慣れた価値観や言動のパターンでありたいのか、それとも忍耐と努力と継続力と意志力が必要になるけれど「私」でありたいのか。そこは自分の意思で決めていいようにできています。ここは平等に与えられています。

サインを指針に
2024/03/25

今の自分がやすらぎを感じながら、落ちつきを感じながら、満足感を感じながら存在しているのであれば、それは本来の在り方ですよ、このままいこう、というサイン。逆に今の自分が不安で、もやもやしていて、寂しさや怒りや焦りを感じながら存在しているのであれば、それは本来の在り方から離れていますよ、何かを変えよう、というサイン。

このサインを指針にしてただただ柔軟に生きればいいんだけど、そこに気づき、柔軟にその都度、選択していくことが人間は苦手で、あらゆるものごとにしがみつきます。

変化することが怖いのでしょうか。今に慣れてしまっているから、それしかないと思うからでしょうか。たとえ、今がつらくても、それを選び続けていきたいのは、そこに価値があると思っているからでしょうか。それが人生だと思っているからでしょうか。自分は変化していかれないと思っているからでしょうか。

しかし、現実、つらさがあるのであれば、しがみついているものごとが本来の自分として生きるためには、必要のない、というか、かえって心身にとってはよくないものなんです。本当はもっともっと生き生きと、自分を表現して生きられるのに。

そこを抜けたいのであれば、良い感覚のものを選んでいくことです。心身がほっとするものごとを。心身の力が抜けていくものごとを。心身が生き生きと力が満ちてくるようなものごとを。本当に喜びを感じるものごとをです。それを選んでいくということが、今まで選んできて、クセのようにしていた心身にとってよくないものごとを捨てていっているという状態なんです。良い感覚のものを選び続けていれば、良くないものが入ってくるすきまはないはずです。

いずれにしても自分が全てを選んでいるんです。そしてちゃんとその結果が与えられる、現実化している、ということです。その現実に満足していますか?思考するのではなく、感じること。

心を動かせるのは…
2024/03/23

「思考では心は動かない」ということ。

もちろん、思考して、これからはこう思っていこう、とか、これからはこういう思いはやめていこう、とか、思考で心をコントロールできるレベルのものもあります。それはそれで使えるのでいいと思いますが、そうではないものに対しては思考で動かすことはできないと思います。

心は生きていて、その中にはいろんな感情があり、感情があるということはパターンがいます。特に、大きく、根をはって、長い時間のもと大きくなっているものがあると思います。

それは、いつでもこのパターンにひっかかる、とか、反応するようにすぐにこれが騒ぐ、とか、なんか、手こずるようなパターン。それを動かすには「こうしよう」「こう思おう」「こう考えよう」では動かないということです。

そのパターンは「そんな…思考でオレを動かそうとしてもだめだぜ。オレは聞かねえよ」と言っている。そんなオレを動かすには?まず、動かすというのが違います。動かすのではなく、動きたくなるようにしてあげることです。オレはそれなりに自負を持って生きているので、なかなか頑固です。

そのオレを安心させてあげるためにやっていきたいことは力で無理に動かすのではなく、動きたくなるように導いていくことです。

その時に何が必要なのか。それは「愛」です。

ものごとを変化させていくには「愛」しかありません。特にオレには「愛」が必要です。語りかけはその「愛」を与えている行為です。

「私」がパターンの代弁をしていますが、そのためにはパターンの気持ちが理解できていなければできません。相手を理解する、相手の根底にあるそれを理解する。それは「愛」あってのものです。分析力がある、とか、観察力がある、とかということではないです。理解をするというのは理解をしたいという思いがあって初めてできるものであり、理解をしたいという在り方はまず、相手を大事にしている状態です。ここで「私」は「愛」のひとつである理解や受容、赦しを使っています。

それ、プラス「私」はとてもクールなので、相手の様子も冷静に見ています。ここでは「愛」のひとつである智慧、リーダーシップを使っています。そうやっていくことでパターンのオレも「私」を信頼するように動いていきます。「愛」のひとつである信頼や育てるというところも使います。というように「愛」=天の意思のもついろんなものを使いながら「私」はパターンと関わっていくのです。そして小さかった「私」自身も育てていきます。これこそは、パターンがいなければできないことです。

心を動かせるのは「愛」。

本当にほしかったもの
2024/03/21

私はあの人に受け入れられていない、認められていない、わかってもらえていない、とかとか。あります。くどいけど、皆が持っているパターン。

でもさーーーー、自分を受け入れていないあの人のことを自分も受け入れていない。自分を認めていないあの人のことを自分も認めていない。自分をわかっていないあの人を自分もわかろうとしないでしょ(パターンは自分のことは置いといて、相手にそれを望んでいるんですが)

ということは、自分はあの人と同じところにいて、同じことをしているということです。自分を受け入れていない、自分を認めていない、自分をわかっていないその人をそれでいいと自分が心から思えれば、そこでの悩みは解決します。これが同じところで解決することはできないので、新しい領域で解決する、ということです。

と言うと、そうしよう、と思うと思いますが、そうしないでください。そうしてしまうというのは、今までのやり方を持ってきているということで、それは、心の世界には通用しません。思考(パフォーマンス)では心は動かないんです。思考でやると、心からそう思うということは起きないです。ですからここも新なやり方で。

まずは、そーかーあの人と同じことしてんだ自分、と気付き認めることです(これを認めたくないというパターンがある方はそこも語りかけです)そして相手にそうあってほしいというパターンへ語りかけをします。そして白黒ワークも。そして実践も。その実践で初めて、相手にそれを求めないことを行動にしてみるということを試していきます。

でも、またパターンは騒ぐ。そのときには「だまりなさい。「私」が決める、「私」がリーダー」と言う。そして「私」が選んだ白パターンをしっかりと確認し、その白パターンに沿う言動(これはその都度変わるので自分で考えてみてください)をします。これを繰り返し繰り返し実践します。それが練習になっています。

そのうちに、頭がそれに慣れていき、脳は更新されて書き換えていかれます。そうなると習慣化していく。そして、それを続けていくうちに、あるとき気付くと思います。…自分変わった…と。それはかすかなものかもしれないし、又は、はっきりと自覚するものかもしれません。そこもその人その人で違うと思う。こうして、新な領域の住人になっていく。そのときには、きっと、受け入れてもらえなくていいし、認めてもらわなくていいし、わかってもらわなくていい、という心になっています。

もちろん、求めていなくても受け入れてもらうこともあるし、認めてもらうこともあるし、わかってもらう時もあります。そこは相手におまかせ。

それらをもう求めないって、えらく崇高なことのような、すごく神聖なような感じがするかもしれませんが、それよりも日々の生活がしやすくなってよかったという、えらく現実的なことです。こういう体験をしても、黒パターンは一緒に生きているし、時々ひっかかることもあるし、やっぱりご飯作りは嫌いだし、腰が痛い日もある(私)それでもこの事を知り、そこで生きる日々は本当にほしかったものです。

そしてそれは誰にでも起きることなんです。特別な人にしか与えられないことではない。そのカードは選び続けていってください。

予告編のように
2024/03/20

先日、お墓参りに行ってきました。境内の桜をちょーーっと期待していましたが、やっぱりまだだった(だよねーー)来月は両親の命日なので、その時に期待しよう。

で、今回もお寺さんからのお土産をいただきました。その中に仏教伝道協会の「日めくりブッダせいかつ」というカレンダー様のものが入っていました。31個の仏教のことばが書いてあります。Q&Aっぽい。

例えば「将来が漠然と不安だ」という思いに対して→「今できることをちゃんとやればいい。その不安の正体はほとんどが妄想。今考えてもしょうがないことや、考えても何の解決にもならないことは考えない!」

「他人と比較してばかりいる」という思いに対して→「比べるのをやめると毎日が楽ちん。比較こそ心を疲れさせる大きな原因。比べるのをやめてとりあえず今の自分でOKと肯定してみると心は落ち着き毎日が楽ちんに過ごせるようになります」(日めくりブッダせいかつ よりの抜粋)という感じです。

で、思った。これらの回答、コメントって仏教でいうところの中庸にいる体験をした方の言葉なんだよな、と。そして、それらの悩みを違う領域(中庸)で解決している答えです。その体験をしてしまうと、人はそれが普通になるので、そこに立っての物事の捉え方、言動になります。それはあたりまえのことです。

しかし、中庸を体験していない人にとっては、これらは頭ではわかるけれども、イメージとしてそうなんだろうなあ、とは思えても、体験と照らし合わせることができないと、そこどまりになる、と思いました。これもあたりまえのことです。そのようにしたらいいのは、わかっている。だから、そうしようと、実際やってみたけれど、努力したけれど苦しい。と、又違う悩みが出てきます(これは決してブッダを、仏教を、否定しているのではありません。私はブッダファンです)

中庸を体験した人、悟りを体験した人、マスター級の人の言葉には、真理があり(言葉は違えど言っていることはひとつだと思う)人の魂を引き付けるものがあります。その体験をしたいと思います。そういう自分に成ってこの現実を生きたいと思います。純粋に。

でも、すぐに自分がそうなろうとしてもなれないし、行動だけそうしようとしてもかえって苦しくなる。ですから、これらの言葉は、又はその人の在り方は、自分のこれからの姿の予告編のようにして、見聞きしてみるといいと思います。私はそうでした。いつか自分もそうなるんだ…と。すると、そこへの楽しみやわくわく感がありました。そのくらい軽い気持ちでいけばいいんだと思います。

移行していくのにどう在れば?
2024/03/19

他人に大事にされたい、認められたい、理解されたい、というパターンはほぼほぼの人が持っていると昨日書きました。これ、本当にほぼほぼの人が持っています(年齢、性別、関係なく)という私も、そうでした。多分、人一倍。

で、ここが苦しいんです。なんせパターンの思うように、思うときに、思う言葉で態度で満たしてはもらえないからです。一時、満たされても、そのときだけです。

この3つのパターン(元のところは1つ。他人からもらいたい、なぜならば、自分では生み出せない(立てない)からですが)これを超えていくためには、違う領域へ自分が移るしかない、という事も昨日書きました。ここもその通りです。

だけど、ここへの移行には時間がかかります。何年やってもそこへいかれないと思うかもしれません。そこへ移行したいという「私」の思いがあるのに。しかし、一気には行かれず、なんかわかったと思うとまたパターンにひっかかり戻されるような体験を繰り返します。それがつらいというパターンも動くかもしれません。

しかし、それでいいんです。何故かというと、新な領域って、今までいた領域とは全然違うところだからです(と言われてもわかりにくいですが、例えば、新な領域は、先ほど出てきたパターンと反対のところなので、そこだけで言えば、他人からもらわない、自分で生み出す(自分で立つ)領域と言えます。でも、それだけではないです)

そんなところに一気に行ってしまったらパニックになると思います。そのこともふまえて、その人が自然に移っていかれるように時間をかけてくれているのだと思います。

誰でもが、移行のためにどうすべきかを思考しまくります。そして、それを整理して、納得しようとします、が、そのやり方が使えないことも、わかってくると思います。ただ疲れるだけになるかも(ネガティブな感覚はそれが間違っていますよ、のサイン)。

では、どう在ればいいのか。移行していくのにどう在れば?まず、肩の力を抜いて、時間がかかるのであれば、時間をかけるしかない、と、腹を決めることです。そして、いつも言っているように、自分ひとりで生きているのではなく、自分の後ろにいるものたちの意思もあります。ということは自分の努力だけではいきません。となると、あちらのOKを待とう、と、より腹を決めることが大事です。

この在り方自体が、新な領域でもあります。結果ではなく進行している在り方そのものが新なものです。今までは結果全てであったのに、結果を追わない在り方。本当に今までとは全然違う領域。でも、不思議なことに、ここに、やすらぎがあるんです。

お互いにひっかかりあう
2024/03/18

ネガティブな感情や思考(黒パターン)で自分が言動しているときは、それが自分の内側から外にもでていき、同じような感情や思考を持っている人のそれを大きくしてしまう。

おまけに、よりそれは大きくなって(それは、影響を受けた人がそれを自分の中で大きくしてまた外に出しているから‥だと思う)自分に戻ってくる、ということを何度か話したと思います(聖書にもそれが書かれています。7人連れて帰ってくると)

ですから、ネガティブなことは自分の内で起きていることで、誰にも迷惑をかけてないからいい、ではない、ということです。

で、仕事場でも、他人が集まるところででも、もしかしたら電車の中とかでも、自分のパターンにひっかかることがよくあるというのは、他人が持つ同じパターンの影響を自分が受けてしまっているから、というのがあります。

例えば、大事にされたいという自分のパターンがあって、そこの力が強いとします。その人が仕事場や他人の集まるところへ行ったときには、なぜだか、そのパターンにひっかかることが多い。それは自分の周りにいる人たちも同じように大事にされたいというパターンを持っていて、お互いに同じパターンがひきあい、響き合い、お互いにそこを大きくしていくことになるからです。目には見えませんがそういうことが起きているのです。

誰の中にもほぼほぼ、認められたい、大事にされたい、理解されたいというパターンはあります。ですから、このパターンは共振しやすい(ひっかかりやすい)と思います。自分が認められたいようにその人も認められたい。自分が大事にされたいようにその人も大事にされたい。自分が理解されたいようにその人も理解されたい。それをお互いに発信しているので、お互いにひっかかりあうことになります。この場合、自分はこの人が嫌いと思っていますが、多分、相手も自分の事を嫌いだと思います。

この問題を解決するには、あのアインシュタインの言葉です。同じ領域では解決できないので違う領域に自分がうつることしかないです。それは、自分が新な選択をするということです。そのための白黒ワーク。「私」は何を選びたいのか…です。

空を飛ぶ夢
2024/03/17

昨日ふと思った。

そういえば、ここのところ長い間、空を飛ぶ夢を見ていない…と。

昔は、よくこの手の夢を見ました。ちょっと助走してぽんと飛び上がるとそのまま空中をただよい、好きなようにあちこちを飛びまわる。低いところを平泳ぎをするようにしてぐんぐん進んでいったり。高いところから一気に下に落ちて地面に着くぎりぎりのところで足を地につけてジャンプすれば、また空に浮かび上がり飛び続ける。あの落ちるときのふーーーと体の力が抜けてしまう感じや、飛んでいるときの空を切るような感じなど、実際体にそれを感じながら見ていた夢でした。

あんなによく見ていたのに、もう、全くないのはどうしてでしょうか?トミーにも聞いてみたら、やはり、もう、そういう夢は見なくなったと言っていたので、年齢に伴うものなのだろうか。懐かしいなあ、また観てみたいなあ、と思いました…が…もう体があの感覚についていかれないのかもしれません。だから頭はそれを知って、その手の夢は見させないのかもしれません。

このように、気づかないうちに、今まであったこともなくなってきていることに時々、気付きます。こうして体ってその年にあったようにうまく変化していくのでしょうか。これは、すごいです。そう言えば、あんなに年中なっていた「結膜下出血」もここのところ起こりません。調べてみたら、加齢とともに減るものらしく。もう、出血するパワーがなくなってきているのか(‥(笑)‥)

体はこうして色々とその時その時のいいあんばいに変化していく。自然に。ゆっくりと。そんな体への畏敬の念を持つこの頃です。

こうして、日々、元気を感じていられることがありがたいです。

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