ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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付録だから…
2025/11/26

成長したい、と、願う。これはきっと皆にあると思います。

しかし、ここで言っている成長とは、パターンにひっかからなくなる、とか、ブレないでいられる、とか、冷静である、とか、いつもおだやかである、とか、安らかに生きる、とか、ストレスがない、傷つかない、毎日が楽しい、ということではありません(これが領域が違う、ミームが高いということではないからね)

確かにそういうものも、ついてくる。付録のように。でも、ここを目指しているのではないのです。

じゃあ、どこを目指しているのか?というと、どんなに厄介なパターンが騒ごうとも、それは、パターンであって自分ではない、ということが当たり前のようになって、そういうときにどうしたらいいのかもわかっている状態まで自分を育てるということが成長であり、目指しているところなんです。

で、さっきの付録のようについてくる、というのは、この本来の成長が主体であり、そこに付録のようにさきほどのようなことが(少しずつ、ちょっとだけ)ついてきますよ、ということなんです。あくまでも付録なんです。

きっと多くの人はこの付録が目指すところであり、そうなることが成長だと思っているのだと思います。それがあれば自分が嫌な思いをしなくてすむと信じているので、成長ってそういうことだと思っています。これ、パターンです(早く楽になりたいというような)そして、今までの意味づけです(それが違うのではなく、それだけじゃないということ)

ここで、そのパターンに動かされていくと、それを求めることになります。しかし、それって自分に起きてこないんです。パターンが求めている結果なので。

それよりも、付録を上回って、騒ぐパターンを、あたかも、泣いて怖がっているわが子を抱きあげたいと思うごとくの心で、王がそのパターンに向かっていく(ここで「私」の女性性と男性性の両方を使っています)ということが出来る自分になっていることのほうが、より喜びが大きいし、生きている実感があります。

そこには自分で「できる」という思いがあり、それも自分で創ったという喜びがあります。そして、これから先の人生においても、これを持っていれば大丈夫だという確信も持てます。その創ってきた確信があるから、安定した、安らぎの心でいられるのです。そして、そこがなくなることはありません。

付録ではなく主体に目を向けてください。そちらのほうがダイナミックでより自分のものでリアルです。目指すところの意味づけの更新とも言えます。この、成長の新な意味づけは少々、高い位置の意味づけですが、これは真理だと言えます。もし、自分がそうなったら…とイメージしたときに、爽快感を感じると思います(そう、そう、それそれと言われている)そのイメージを繰り返すことも役に立つと思います。

潤滑油
2025/11/24

「人間がそちらに出向いて見せてもらう、というものができるかもしれません。」と昨日書いたその夜に、TVで「玄海海中展望塔 」が紹介されていました。こういうものがすでにあったのか。こちらは人が海中まで降りていってそこに生きるものたちを見ることができるので、より、自然です。近い所では千葉県勝浦にあるようなのでいつか行ってみたいです。

さて、今年最後の大相撲も終わり、次は来年1月かあ。大相撲が終わった直後がなんとも寂しいのです。大相撲が行われている2週間は毎日正座してTVを見ているわけではありませんが、あの「音」が聞こえているだけで、なんか、いいんです。

こうしていい感じでいられるものがあることはありがたいことです。

こんなふうに、きっと皆誰でもそういうものがあると思います。小さなものごとかもしれないし、誰からも「えーーっ、なぜ?」と思われるものなのかもしれませんが、それぞれの、それを、大事にするといいです。

そして、それらは、全て、自分が善き生き方をしていくことへの潤滑油のようになってくれる物事だと私は思います。そういう物事の力もかりながら「私」が納得する毎日を送れるように…。やるべきはここだけだから。

色々な物事が私たちのまわりにはあります。その中から自分にとってのなんか、いい、をいくつか持っていると助けてもらえます。

水族館
2025/11/23

先日、10数年ぶりに「新江ノ島水族館」へ行きました(「新」とついていますがもうすでに20年たっています)

オーシャンデッキからは(天候にもよりますが)富士山と江ノ島が一望できます。その手前に広がる海。そして浜辺も綺麗に整えられていて、THE 湘南の風景を見ることができます。これを見るだけでもよかった(茅ヶ崎の海岸とは違います)

水族館は、地元、相模湾を中心に構成されています。浅瀬にすむものたち、深海にすむものたち、と、初めて見るものも多くいました。

海に生きるものたちを見るところなので、館内は全体に暗く、そこに展開される大きな水槽の中を泳ぐ魚たちを見ていると、ちょっと怖さもあり、ここは、ただ楽しいだけのところじゃないとも思いました。水の怖さなのか(多分そう)ちょっと息がつまりそうでした。

人は海の中では生きることができない。そこに畏敬の念もあり、そこでは生きられないんだという怖さが厚いガラスで守られていても圧迫感としてあります。人間が生きられない水中で生きているものたちに囲まれる、そんな怖さもあります。

そしてスペースの問題もありますが、大きなタコやウミガメは狭い中を動くしかなく、もっと手足を広げて動ける広いところへ出してあげたいと思いました。そこでは、どんなに力強く、動くのだろうと想像してしまいます。そういう姿を見たい。

いつか、遠いいつか、今のような形ではなくそのままの彼らを見られるようなものが作られていくといいなあと思いました。今はまだ、人間よりに作られている水族館(動物園も)ですが、人間がそちらに出向いて見せてもらう、というものができるかもしれません。

身体のこと
2025/11/22

この頃、身体の変化というものを感じています。私は神経質で、過敏に反応する心身を持ちながら、いまいち、身体のことがよくわからないという状態でずっと来ていました。

よくわからない、というのは、何か不具合があってもいけてしまう、ということだったのだろうと思います。一言で言ったら若かったから、やれてしまっていた。しかし、さすがに今年はそういう身体も「もう、そうはさせません!」と言っている気がします。

で、身体の変化というのは、具体的に、体力が落ちた、とか、集中力が落ちたとか、たくさん食べられないとかということより、なんか…別人になったような気さえするように身体の感じが今までとは違うんです。

なんていうか、脱皮したのか?と思うように、今までとは違う身体感です。

本人の知らぬうちに身体は身体のシステムにのっとって変化することを、この数年をかけて、こっそりと行っていたんじゃないかと思います。あなどれないな身体と思う。

新な身体は、これからも暫く続く「生」を継続するための身体として、まあまあやれるだろうというところを作っていた。その指令はどこからきているのでしょうか。

加齢にともなって身体は変化するものだとは思ってきましたが、変化、というよりも、作り替えのようなことが体内では行われるのかも。

人って、ずっと同じままいくのではない。心も身体も、そのときにふさわしいものを作ろうとするんじゃないかと思いました。向かうところは、そのときに、それぞれに、ふさわしいところなんだろう。働いてくれている身体に感謝しながら、どのようになっていくのかをみていこうと思います。

決める
2025/11/20

「決めればいいんですよ」と整体の先生の言葉。そうだね、うん、そうだった、と思う。量子力学的にも、まず意識ありきを考えても「決めればいい」。

で、自分のことに戻してこれを見てみると、昨日私が書いたこと「天を信じる、そして天と生きている自分を信じる。二人三脚でいく」これはすでに自分が決めていることだ…と気付きます。これ、今までの自己探求を続けていくうちに、自然と自分が決めていったことであり、そこには絶対なる根拠があったのではなく「そうでしかない」と思うようになっていきました。今はこれはゆるぎなくそうであると思っている。

こうして決めて、ゆるぎなくそうである、というものについては疑うこともなく、迷うこともないので、その決めたものごとはより確固たるものごとになる。そして、それが現実に反映されていく。決めるとはこういうことなんじゃないかと思います。

例えば、小さな決め事ってそれぞれにあると思うんです。「自分は料理は失敗しない」とか「自分はいつかできるようになるとわかっている」とか「自分はセンスいい」とか「自分は教えることが上手」とか。なんか、それについてはわかっているからそこへの心配や迷いがないというような。これが決めているということなんです。

その人にとっては当たり前のこと、すごく普通になっていること、それが決めていること。そこには迷いがないでしょう?ただ、自分の心からの納得がないことを決めるのは難しいです。

今、自分にわかりやすく自分で決めていることを思い出し、その感覚を探ってみてください。この感じで次なる決めることにあたっていかれればいいんだなということがわかると思います。

これは逆もあります。「私には無理」「私にはできない」「私はやれない」などなども普通になってしまっていればそれは決めていることになります。ただ、それらがパターンであると思えれば、決め事にはしないですみます。決めるということはすごく大事なことです。

そういうことか。
2025/11/19

自分の成長を早くせねば、と、焦らなくていい。なぜならば、あちらの世界が本質、本番だから…私はこちらの世界から去る時までに今世の課題をいい感じで終えられていればいいだろうと思っています。

それと、いつも言っているように成長って自分一人の力でできることではなくて、あちらとの共同作業なので、あちらの都合もふまえると、早々自分の思い通りに成長は成されないだろうとも思います。だから焦らなくていい。

そもそも、今の自分でいいんだよ、という「私」であり、これが土台です。しかし、それは何もしなくていいということではもちろんありません。やるべきことを継続する。後は待つ。この在り方、この視点です。

ここはほとんどの人が苦手で、待ちきれなくなってしまう(これについては先生がおっしゃっていた通り「多くの人はできる前にあきらめちゃうから」)のだと思います。

こうして、時間をかけることを通して、待つ力は鍛えられ、大きくなっていくのです。思い通りに行かないことにもだんだんと慣れ、それでも大丈夫な力を養っているんです。だから、焦りそうになったときには、こうしていろんな力を鍛えているんだと思えばいいと思います(これを白にしてもいいかも)

ここのところ、自分の身に起きた不調であったり、変化を見ていて、だいたい年単位での移行だと思いました。これは私のことだけではなく、周りの人達を見ていても、1年、2年と時間がかかるのです。そこをどうにか早く自分の思う通りに解決しようとしても、それは空回りしているようになり、どこかでそれをあきらめて、1年、2年たったときに、そこが修復、変容していたりします。

時間をかけると自然とこうなるんだよなあ、と思います。これがあちらの仕事なのかもしれません。だとすると、私たちに求められているのは、やるべきことと待つことです。で、待つためには、それを忘れるということです。常にそれ(成長の証、結果)を見つめてしまうのは、そこには疑いがあります。いずれ…を信じられていれば、疑わなくてもいいんです。だから、早く早くと焦ることもないです。だって、いずれそれはやってくるからです。

天を信じる、そして天と生きている自分を信じる。二人三脚でいく。そういうことかと思うのです。

新な価値
2025/11/17

パターンが望む価値あるもの。以前クラスでもやったと思います。パターンが望む価値あるものは一般的に言われている価値あるものごとです。

お金、土地、持ち家、見た目、若さ、健康、持ち物全般、仕事の内容、肩書、役職、学歴、成績、才能、家柄、他人からの賞賛、評価、他人から見える幸せ、活躍、有名度などなど。それらは誰が見てもわかりやすく、他人を納得させられるものです。それをどれだけ自分が手にできるか…。ここは競争の世界です。その中でいかに勝つか。

その競争に負けてしまった人も、目に見えないもので対抗しようとすることがあります。私は心が綺麗、優しい、おだやか、正しい、人に迷惑をかけない、悪いことはしない。もしくは私は見える、聞こえる、未来がわかる。私は神を知っている、神から愛されているなどなど。

物質的な成功よりもこちらのほうがレベルが高いと誤解しているので、そういう自分は勝った気さえしてしまいます。しかし、これらは全て同じです。そこには共通して他人との闘い、比較、差別があるからです。そして、これで人は幸せにはなれないんです。

自分はこれらをたくさん手に入れて幸せですよ、という方はそのままでいいと思います。それが幸せだと感じられているのだから。しかし、それがなくなってしまわないように、より自他を納得させるために新しいものを探し続けることは大変なことだと思います。

で、道場でやっていることは、この際限のない領域を離れて(卒業して)次の領域へ行こう、ということです。そして、その次の領域へ行きつくには階段を登っていかなくてはなりません。その時に、今までの価値に変わる、何か新な価値になるものごとを自分で見つけていくことになります(それは階段を登るモチベーションにもなるとも思います)

今までの領域での価値のように、一般的な誰にでもわかるそれではなく、階段の途中にすでに用意されているものでもありません。自分でみつけなければならないんです。自分で創らなくてはならないんです。

最初はよくわからないかもしれませんが、このことを知っていくと、だから自由なんだときっと思えると思います。自由ってなんでも好き勝手にできることではなく、こういうことか、とそこでひとつ自分の新しい価値(価値という言葉はふさわしくないのですがとりあえず)を自分のものにしていきます。それがおもしろいです。

語りかけは瞑想
2025/11/16

皆、忙しい毎日を送っています。

私もこう見えて、朝から夜までが早い早い。気付けば1日が終わっています。

しかし、語りかけをするとき、このときには、まさに今ここにある、という心身の状態です。そこに流れる時間は普段無意識で物事をこなすために使われている時間とは違うものです。

「そうだよね…」から始まるこのワーク、今さらですが心身を「今」に戻してくれる力があることを実感しました…久しぶりにパターンにひっかかり、昨日、語りかけをしたのです…そこであらためて持った印象が先ほどのことです。

人は息詰まると、旅行に出たり、自分の好きなことをしたり、買い物をしたり、美味しい物を食べたり、おしゃべりしたり、運動したりします(いわゆる気分転換)それはそれらによって自分を戻したいからではないかと思います。ここまで感じている人はいないかもしれないけれど、何か自分を戻すものごとが今必要だという衝動からそのようにするのだと思います。

そして、それはそれでいいわけです。だから、それはそれで楽しむ。ですが‥丁寧に行う語りかけ1回で、それに匹敵する、いや、それ以上の心身の状態(戻る)になる、と昨日、思いました(だから、毎日の忙しい、も、この、意識で行えばいいんだよなあと反省。そしてまた無意識に時間を使い、それに気づいて反省)

語りかけをはじめると、一瞬にして違う領域にいきます。「王」である「私」がパターンのいいたいことを代弁していくうちに、そこに在る、永遠なるものを知る。そしてそこが自分の帰るところであり、そこ(天)がいつも一緒にいてくれていることを実感できる、信じられる状態で自分が在ることも感じられる。

それを再確認できるのが語りかけです。1日1回でよいので、今の自分の最高の丁寧さと集中力で行って続けていってください。語りかけは瞑想。

セーター
2025/11/15

冬と言えば、ニット。私はセーターやマフラーや手袋など、ニット製品が好きなのです。

先日、寒い日にセーターを着て、マフラーを巻いたときに、今まではあまり感じたことのない、優しく包みこまれるような、労われるような温もりを感じました。(この歳になったからか)

いつも同じものを着ている私ですが、この3年位は「軽くて、柔らかくて、暖かいニット製品」に移行しています。これもきっと歳が関係していると思う。若い頃のようにウールの太い糸でがっつり編んであるセーターを着る体力が落ちているし、マフラーもそこまでのものが使いこなせなくなっています。で、軽くて、柔らかくて、暖かい…ものがいいと思うようになりました。

暖かいと言うと「カシミア」。暖かいです。しかし、カシミア100%は柔らかすぎて、ちょっと心元ないのです。あと、それなりの値段なので、気楽に着られないというのもあります。(このあたり、貧乏性)。メリノウールは、軽いし、柔らかさがありますが、暖かさでは落ちます。

で、みつけたのがヤクの毛。ヤクは、ウシの一種で、野生のヤクはチベットの標高3000〜6000mの高地にいるのだそうです。現在は家畜としているものがほとんどらしい。そのヤク100%のニット製品は持っていないのですが、ヤクとウールの混合セーターがあり、これが、軽くて、柔らかくて、暖かい、という事に気づきました。

あと、アルパカとか、モヘアとかの持つ個性も好きですが、やはり100%のものは持っていません。これらも混合がいいのかもしれません。そして、今は人口繊維もいい具合に入っていて、強度もアップしていると思います。

いずれにしても、動物たちの毛で作られているものだから、大事に着たいと思う。

ニットにつきものなのが「毛玉」…これがねえ。ちょっとくたびれた印象になってしまいます。でも、着慣れているセーターって心身に馴染んでいるし、愛着もある。そこで、毛玉取りブラシを去年買ってみましたが、実際にはそれほど取れるものでもなく、今はハサミでちょきちょき切ってみています。そして、クリーニングではなく、手洗いをしています。こうして、手をかけることで、セーターやマフラーを大事にしようという気持ちが以前よりも芽生えました。どうしても劣化はしますが、大事にしていきたいものたちです。

抗う
2025/11/13

昨日書いた「天のルールに抗うこと」って何?ここで言ったそれは、何でも自分で、その時に、わかろうとすることを言ってます(もちろん、天のルールに抗うことはそれだけではないですが、ここでのそれについては)

しかし、それって、向上心があり、熱心で、積極的な状態だからいいことじゃないの?と思うかもしれません。それが抗うことなのか?と。

今までの領域においては確かにそうだと思うし、そうやってその領域にあるものごとはわかってきました。しかし、次の領域へ向けて階段を上がっていくときに、これは、パターンだったのかもと気付くかもしれません。何でも自分でわかろうとする、それは、自分にはわかるはず、わかるべき、わかりたい(←特にこれはいいことだとも思っている)があると思います。

まず、人はわからないことがほとんどなんです。そして、わかるのではなく、与えてもらうのです。それは自分に用意ができたときに。それは気づきであったり、実際の体験であったり、そこで初めてああ、こういうことだったのかと自分が理解する。それは今まで知らなかったこと、わからなかったことです。

で、私たちがやるべきことは、わかろうとすることではなく、与えてもらうための「道」を自分が整えることです(このやり方を私たちは知っています)その道を通って与えられます。今はわからない自分であることを認め、ひたすら自分の「道」を、綺麗な、歩きやすい道を作っていく。

私もわからないことだらけです。それでも、すっきりと、平和に生きられているのは、自分に用意ができれば、そして、必要なことであれば与えられるということを体験を通して知っているからだと思います。私は学ぶことも、考えることも大好きですが、それはわかるためではなく、成長のためでもなく、与えてもらうためでもありません。ただ、それを軽く、楽しんでいる感じです。そうやりながら、結果、自分の「道」を整えていたんだとわかります。そして新なものが入ってきます。

階段を上がっていく途中では「あら?」と思うことが次々と出てくる。今までの自分の常識が覆されていったり、できていたことが違っていたということがあったり、新な意味づけには驚かされることもある。思うようにいかない(今までの領域のように)混乱する、迷う、戸惑う。そういうものたちもそのままにして持っていくことが大事であること、それで進むべきなんだ、と、いろいろです。

こうして人智を超えた何かが創った天、宇宙に流れているであろうルールを少しずつ私たちは知っていくのだと思います。それは新に知ると言っていますが、思い出していくことなのかもしれません。本来の人としての在り方=天のルールなのかもしれません。ですからそのルールに抗うというのは本来の人としての在り方に抗うということでもあります。それは自分に抗っているのかもしれない。自分に抗って自分の中に闘いの場をもたないことです。

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