ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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意識の領域 続きの続き
2020/05/31

白パターンを選択し、その感覚で実践するという領域で生きることで、きっと、少しずつですが、自分の哲学というものを築いていくことになると思います。

何故かというと、白パターンを考えて作るということは、新な今までにはなかった自分の意味づけを作ることになるからです。意味づけはその人の哲学です。それもいつでも軌道修正OKな柔軟な哲学。

そして、その哲学により自分の個性やたくさんある普遍的能力の中で何が最も大きく、得意なのかもわかってきます。この普遍的能力の特出しているものがご縁のある神さまですね(神さまたちは、特出しているエネルギー)それがなんとなーーくわかったときにはご挨拶にいかれるといいです。このように、この領域で、この段階で、自分というものがより理解できます。ですからそういう意味では、この段階での初参拝で十分だろうと私は思います。

「あの神社、すごいよ。救ってくれるよ」「あのお寺すごいパワーだよ。宝くじあたったよ」と誰かが言うのをあてにするのではなく、自分は?というところです。ますますここで自分の感性や、直観、直感が磨かれていきます。

これがあって、さて、自分はどんな世界(国)をつくるのか?です。これは形あるものを先に創るのではないということはわかると思います。どんな在り方という哲学ですね。自分の世界(国)の土台は何か?喜びなのか、心身の健康なのか、純粋な行動なのか、許しと理解なのか、自他を育むことなのかなど。自分の個性をそこにもってくるということです(もちろん、これだけではなく、他の資質も使います)

そうして、それを日々の生活の中に浸透させ、それに慣れていく。この時点でたぶん他人から見えるあなたは「個性的」とか「マイペース」とか「ぶれてない」とか「元気」などの言葉であらわされるかもしれません。しかし、私はその言葉ではなく「自分を生きている」とあらわしたい。「自分をいかす環境を作ったね」と言いたい。

それは今の生活、仕事においてもいかされます。もしかしたらここまで来て、違う仕事を選択する、生活自体を変える(あまりに自分の哲学と今の仕事とにギャップがあり、もうここでは自分として生きるのは難しい場合)こともあるかもしれません。それはそれで自分の世界(国)を彩るものとなっていくと思います。

その世界(国)で王として君臨していく。多くの民(パターン)とともに。自分の世界(国)とはこうして創っていきます。この領域は白パターンの領域よりももうひとつ上の領域になります。「私」を中心にする領域です。

でも、王は国を見守りながらも、心の旅に出ます。よりこの国をよくしたい、より民を幸せにしたい、隣国の王が困っているときには助けを出したい、そのために学び続けたいと私の「私」王は望んでいます。

意識の領域 続き・・・
2020/05/30

今まで住んでいた古い領域を出て、新な領域へ足を踏み入れ、うまくできたりうまくできなかったりしながらも語りかけワークを通して自己と向き合ううちに語りかけに慣れ、いよいよ、新しい自分の在り方を選ぶために白パターンを登場させていきます。

それは今まで無意識に使ってきた黒パターンの逆にあるものです。白パターンは自分でしっかり思考して作り(自然と降りてきたという他力はNGで「私」が自力で考えて創ります。創るという能力が後々必要になるのでここで練習しています)白黒ワークを通して「私」が選ぶという体験をします。

そして白パターンを「選ぶ選ぶ」と言っているまさにそのとき、意識はもう一つ上の領域へ移っています。今まででは味わえなかったような感情と感覚とともに白パターンの領域へ足を踏み入れています。

そうか・・・こんな世界があるのか、と初めから気づく人は気づきます。慣れないうちはきっと「だから?何?これだけ?」という感じかもしれませんが、ここも練習なので何度も繰り返していきます。こうしてだんだんとこの領域にふさわしい意識を育てていきます。そしてこの領域で実践していき、実際の生活に新な意識の自分を反映させていきます。

こうして時間をかけながらここの住人となり、そこで初めて自分の世界(国)を創ることに着手していきます(語りかけの領域で「王」のイメージ練習をしてきている方にはやりやすいかも)新に選んだもので土台を創り、その世界(国)をどんなふうにしていきたいのか。そこにはその人その人の個性が反映されます。

私はこのときが「守・破・離」の「破」にあたるのだろうと思っています。今まではナビの言うとおりにナビと同じコースを通ってやってきた。それが「守」。そしてナビとは違う個性を発揮して自分の世界を創るのが「破」。そして自分の世界(国)ができあがり、始動しはじめたら、ナビから離れる「離」となるわけです。

自分の世界は最初にスタートした喧噪の領域でもつくれますが(ほとんどの人はここでつくっています)そこでは黒パターンがつくるので、その結果です。

この「私」が選んだ白パターンの領域で、もしくはそのもう一つ上の領域に足を入れながら、自分の世界を創っていくといいです。また続く。

意識の領域 
2020/05/29

きのうは茅ヶ崎のグループクラスの日でした。皆、元気に集まれて、本当によかった。感謝です。

今回は新型コロナウィルスの話から、今まで話してこなかった話まで、話通しましたが「結局、自分で自分の世界を創る」というところがキーでした。

自分で自分の世界を創るというのは、自分がどの領域の住人になり、そこでどんな自分の世界を創るのか、ということです。

多くの人たちが住んでいるところに自分もいる必要はなく、そこでは、もう「私」が望んでいる在り方ができない領域であれば、そことは違うところへ移動していいわけです。より「私」がいやすいところへ、移り、そこで自分の個性をいかして自分の世界を創ります。

多くの人たちは、黒パターンを選択した領域にいます。そこはよくないことは何かの、誰かのせいで、常に苦しさや焦りや不安が蔓延しています。他人との比較による勝敗、権威、支配という力の獲得、競争と争いの世界です。思考と物質が最優先され(精神性はまだ未熟)それを多く手にした者が成功者として人々の上に立ちます。その世界に平安ややすらぎはありません。しかし、それが欲しいがゆえにますますそれらを集め、自分を安心させようとします。この領域ではそれが普通なのです。

しかし、ここで生きることには恐怖と不安、もやもや、苦悩がつきまとうので「もう、ここはいい」という視点を持ったときが次の領域へのパスポートを手にしたことになります。いよいよ冒険のはじまりです。今までの苦しみは自分のパターンのなせる業であった・・・という全面的に自分の責任としてものごとをとらえていく新な冒険です。

それをあらわす語りかけという100%自分に向かうワーク。この領域で初めて人はずっと外側に向いていた視線を自分へ向けることになります。そういう意味ではここへのシフトは今までとは反対のところに立つので、最初はわけがわからないと感じると思います。

しかし、この領域へ足を踏み込んだことで、その人の意識は一つ上の領域へと移っています。この新な領域は自分の内に起きている自分の感情や感覚、何かの結果を自分の責任と認識しています。ですから、もう、何かの、誰かのせいにすることからはなれていきます。実は、何かの、誰かのせいにするところからはなれることで自由を獲得していかれるということなんです。

この領域に入ることで、心は喧噪の(外的な)世界から、静かな(内的な)世界へいることができることを学びます。続く。

自分は何を大事にしていきたいのか
2020/05/28

なんとなく、人々がわさわさしていますね。いろんなわさわさがまじりあっているようで、無意識でいると足をすくわれそうな気配です。こういうときはそれにあおられないようにして、こういうときこそ、地に足をつけて、自分について熟考していくといいと思います。

熟考は、これから(も)自分は何を大事にしていきたいのか・・です(未来への展望)

今回の自粛できっと感じた方もいらっしゃると思いますが、遊びに行かれない、人に会えない、旅行も行かれない、ショッピングもできない、おいしいものも食べに行かれない、映画も舞台も見られない、など、手放さなくてはいけない、あきらめなくてはいけないものごとがそれぞれにあったと思います。それは寂しいことだったと思いますが、それが続くうちに、それ、なくても自分いいかも、ということも感じたかもしれません。

・・・と言うことは、今まで持っていて当たり前だったものごともそれほど必要ではなかったのかもしれません。そうやってみていくと、本当に手放せないもの、あきらめられないものが残ります。それが自分の最も大事なものなのかもしれません。

だとしたら、それを持ってこれからをどのように具体的に生きていくのか、ということを熟考することができます。それを形にできるのだろうか、それを今の仕事にいかせるのだろうか、もしかしたら仕事を変えることなのだろうか、大事なものを持って生きるってどういうことなのだろうか、大事なものを体現するって?そうやってひとりで考えます。まわりの情報や、ちまたの話、これからはこうなるというその道の専門家の話は聞いたとしても、それはそれとしておいて。

自分の大事にしていきたいものをさぐってみてください。これからをより軽く、シンプルに生きていくためのものになると思います。

もし、雨の降る日があったら(急に話がとびますが)雨の音を目をつむり、聞いてみてください(暴風雨だと無理だけど)そのとき・・ちゃんと瞑想の形をとらないと・・と考えなくていいです。その場で目をつむり1分だけでもいいです。雨の音を聞き、雨のにおいをかいでください。落ち着いて熟考することをサポートしてくれます。

雨は大地を落ち着かせ、クールダウンしてくれます。人々のわさわさも落ち着くかもしれません。

サーーーーッと、まっすぐに降る雨の日があるといいのですが・・・。

崩していく
2020/05/27

「緊急事態宣言解除」となり、街の声、人々のインタビューを見ました。

「うれしいけれど、反面怖いです」「解除になってもウィルスはいるので、人が出てくることはまずいと思う」「また出社するのがイヤです」「家から出ることが減り、太ってしまったのでジムへ行きたい」「一気に欲しかった物を買います」「さすがにもう経済をまわさないと。よかったと思います」「変わりなく、ずっと店をやっていました。おかげさまで5月は大きな黒字でした」・・などなど人それぞれ。

その中で「解除になった翌日に、もう、マスクをしていない人がいたんですよ。あぶないですよね」と言った女性の方がいました。

私は外を歩くときにはマスクなしで歩いています。でも、店舗に入るときや、人が多いときにはマスクをつけるようにはしています。マスクは予防効果はほとんどないらしいので自分のためではなく、あくまでも他の人のためです。私がマスクをしていることで他の人が安心するのならそうします、というスタンスです。

そういう他人への気遣いが、今やマナー、常識のようになっているマスクですが、どうなんでしょう。これからも続くのでしょうか。それって必要なんでしょうか。

駅近にあるスーパーに買い物に行き、帰ってくるまでの間に外を歩いている人でマスクをしていない人とはほとんど会いません。会っても1人、2人。そういうときってお互いに目があいますね。あなたもですか・・・という感じ。

日本人のこのような一斉に同じ行動をとるというのは美点でもあり、怖くもあります。大多数の人がやっていることをやらないと、変人扱いされたり、はじかれたり、攻撃を受けることもあると皆思っているからもあるでしょうし、なぜだか、大多数の人がやっていることは常識であり、正しいことだと思われています。ですからそこに入っていたほうが自分も安心、安全、というところがあるのだと思います。

今回のコロ君で、こういうところも少しずつ崩れていくといいなあと思っています。

それは、常識が変わるということではなく(大多数にによる常識は根が深いので早々変わらない)自分で考えるということに多くの人が気づいていくといいなあと思うのです。偉い誰かが言ったから、あの先生、教授が言っているから、みんながやっているから、みんなでやらなければいけないと言っているから・・・。それをただうのみにするのではなく、自分はどうなんだろう。それって自分にとってよいことなのか?それって何?と思ったら自分で調べる(誰かに聞くんじゃなくて)そして自分なりの答えを導き出していく。そして、他の人のことも考える、という今までの在り方の崩し方です。他人にどう思われるのだろうというところから自分をまず優先して、そして他の人のことも含め・・という考え方の変化。

今日は気持ちの良い日です。今日もマスクなしで散歩して、マスクをつけて買い物です。


流動的
2020/05/26

ケン・ウィルバーの言葉で「正しさとはどんな個人または文化が、ある特定の時にたまたま合意したかということにすぎない」というものがあります。

この言葉、とても気にいっています。この正しさの部分を真実におきかえても成立すると思います。

で、正しさとか真実って人にとって最も大事なことであると思っている方は多いと思います。実際私はずっとそうだと思っていました。ですから、絶対的な正しさとか、真実とかを探すこと、それを持つことをしたかったというときがありました。

今振り返ると、それがあれば自分の核ができる、とか、誰からも攻撃されない、とか、それがあれば守られるとか、そのあたりが欲しくて私はそれを求めていたのだと思います。

しかし、あんなに欲しがっていた、核、とか、攻撃されない、とか、守られる、というものは、正しさや真実というところから離れたときに、訪れるのです。それらから離れるというのは、より広い視野で世界を見渡すようになるので、核、攻撃されない、守られるが欲しいのなら自分で創ればいいということがわかってくるようになります。そうか、もらうのではなくて創ればいいんだ。

そして、それらは強固な意志とか、類まれなる強さとかで創るものなのではなく、ケン・ウィルバーの言葉のようにそれらは「たまたま合意した」というものであるというところに出来上がっていくものだと思いました。

たまたま合意なので、明日はもう違うかもしれないし、もう、興味がなくなるのかもしれません。又はそのときの合意とは違う意味づけをしていく自分にある日なっているのかもしれません。

そんなふうに流動的なものが正しさ、真実。それに合わせた、核や攻撃されないや守られるも流動的であればいいんだと思います。その中には、核って何?必要ないか、とか、攻撃されてもいいんじゃないの、自分が自分に恥じない生き方をしていれば、とか、守られる?誰に?何に?自分で守ればいいじゃん、とか、などなどもきっと入ってくる。そこは自由にあればいいですね。

ただ、唯一動かしたくないのは「私」というところです。その流動的な作業は「私」が行うということです。そうやって「私」は自分の国を建国し、そこでの流動的なルールを創っていきます。それは自分だけのもの。だからこそ素晴らしい。そのルールは隣国の王には同じようには理解されないかもしれない。でも「私」という王同士なので「私」というところでの結びつきはあります。それがあればいいと思える。

自分のために
2020/05/25

トミーから「何をやっているときが一番楽しい?」と聞かれました。そうだなあ・・・と考えて「おうちでバレエも楽しいし、ピアノも、カウンセリングも、自己探求も楽しい」というと「そうでしょ、それはできないことができるようになるからだよね、それが楽しいんでしょ」と言う話になりました。

トミーは若い頃からできないことが少しずつできることが楽しかったのだそうです。だからお金もそのために使ってきたと。それが今もそのまま続いているということでした。

私もそうだなあと思いました。バレエもピアノもカウンセリングも自己探求も今までできなかったことやわからなかったことができたり、わかったりすることは楽しいことです。そして気付いたのですが、それは技術的なことだけではないなと思いました。

これらを通して、例えば自他に優しくなれる、自他を許せるようになれる、強い自分になっていく、正直な自分になっていく、おおらかになっていく、感受性豊かになっていく、表現力がつく、など、心も今まで自分ができないでいたことができるようになる。これはすごく楽しいことです。

そして、カウンセラーである私としては、どちらかというと、こちらのほうが優先されていて、あらゆることは(楽しいことも)自分の精神性や霊性を成長させるためにあると思うのです。なぜならばそのために生まれてきているからです。そこをスムーズに行うための潤滑油的存在が楽しいことであり、大変な仕事であり、家族も、友人も、病気も、ケガも・・・色々ある。

今回のコロ君もそうです。それらがあるから、本来の課題に気づける。それがあるから自分を成長させていかれて、新な自分と出会っていかれる。そう考えると、私たちは皆が愛される存在として送り出されてきています。良いことも良くないこともたくさん与えられて送り出されている。すべては自分のためにあります。あとは自分がそれらをどのように使うのか、自分のために、ということです。

求めよ・・・さらば・・・
2020/05/23

視点を上げる、上の領域で生きる、ミームアップ、スピ系でいう5次元の意識、上のレイヤーということに向かって生きることを「私」(魂)はやりたがっている。だから何度も転生している・・と私は思っています。

そうやって少しずつ自分の意志と努力で上がっていくことで、生きること自体は変わります。そこには変わらずの日々があり、仕事をして、家事をして、普通に生活して、人間関係があって、生きるための健康とお金も必要で、なんですが、それらのとらえ方、見え方、意味づけ、そして見える風景、得るものが今までとは違うものにだんだんとなっていきます。

そして同時に他への理解や許しも深まるため、自分中心ではなくなっていきます。自分と自分の家族だけ幸せならいい、自分だけ好きなことをやって自由に楽に生きられればいい・・ではいやだと思うようになります。これら自他への変化が自分の得る幸せとなります。

先日、見つけたデヴィッド・R・ホーキンズ博士の言葉にこんな言葉がありました。「霊的な献身者にとって、喪失を埋めるものは、喪失がより大きな自由をもたらしてくれるという気づきである」ああ、そうだな・・・まさに、そうだ、と思いました。

このちょっと厳しい言葉も、今の自分の心には深くさらさらと入ってきます。以前であれば、きっとこの言葉は怖く、抵抗感や疑問があったと思う。最も大事な人を喪失してもそうなのか?大きな喪失のあとに自由だなんてそれはあまりにむごいと。でも、今はそうではない自分がいて、この言葉のあたたかみや生きる希望をそこに感じています。

自己探求のおもしろさは、こういうところだと思いました。こうして以前の自分ではない自分を実感するということです。あきらかにそれを実感する。そして、この理解は頭でやろうとしてもできず、こつこつと自分に向き合うという実践でしか体験できない、だからこそ、なお、おもしろいです。実感がある。

そして、これは確実に言えることですが、自分が真摯に「私」の成長・進化を求め続け、努力をしていくと、それをサポートしてくれるものが働きかけてきてくれるということです。目には見えない何かが、サポートしてくれて、教え導びかれていきます。これは特別なことではなく、宇宙のルールとしてそれがあります。だから誰でもがその体験をします。

・・・求めよさらば与えられん・・・積極的に求めなさい、そうすれば与えられると聖書にあります。そのとおりだと思います。与えるものがいるのです。その与えるものはきっと神のルールなのでしょうが、ある地点を超えてサポートにこられないのだと思います。その地点までは自分が積極的に行くしかないのでしょう。そして、ある地点ではじめて出会うのだと思います。

イメージをもって
2020/05/22

きのうのアインシュタインの言葉「いかなる問題も、それを作りだした同じ意識によって解決することはできない」

語りかけという行為はこれにあたります。黒パターンが生み出すネガティブな感情・感覚。そして黒パターンの言い分(思考していること)を「私」がただただそのまま聴く。そしてそれを言葉にして黒パターンの代弁をしている。という行為は黒パターンと同じ意識のものではできないということです。

「私」は黒パターンと同じ意識ではなく、従って同じ領域にいるものではありません。彼らより高いところにいます。だから、受容できるし、理解できるし、許すことも、彼らの信頼を得ることもできます。

これがもし、同じ意識で同じ領域にいるものであれば、説教したり、考え方を変えさせたり、おだてたり、おどしたり、なぐさめたり、アメとムチを使ってそのパターンをおさえつけ静かににさせようとします。その意識という領域においてはそれが普通で、そのやり方しかないからです。こうなっては解決どころかよりひどくなります。ですから語りかけのときにはしっかりと「私」を意識することが大事です。

「私」は高いところにいるものなんです。高いところというと上から目線とすぐにむすびつける方もいますが、それは高さというものがわかっていないからです。黒パターンの領域においては上から目線というとらえ方をします。しかし、その意味づけだけが正しいのではなく、ひとつの事象に対して意識が変われば意味づけも変わっていきます。高さとは質であり、質が上がることで、より熟成した意味づけや言動へ変わってくることが自然です。

時々言うのですが「私」を「王」のように思って「そうだよね・・」を言ってください・・と。これは「王」のようにというイメージをもつことで高きところにいる自分というものを創っていきたいからです。本当に国民に愛されている「王」は国民と同じところにはいないんです。高いところという違う意識でいるからこそ国民ひとりひとりが見える。それを「王」は知っているのです。そしてその違う意識が国民を救っていくことも知っている。そんなイメージです。

語りかけはそいういう行為なんだといまいちど確認してみてください。そして「私」は彼らとは違う意識として違う領域から彼らのことを見て、声をかけている存在なんだということも確認してみてください。だからこそその行為が真摯に行われたときパターンたちはその声を聴き、その存在に安心します。ああ、この国にずっといていいんだなと思います。

このイメージをもって語りかけをしていってください。

0か100か
2020/05/21

・・・・0か100か・・・・というやつ。

やるのなら100、そこに満たないのであればそれはもういい、0でいい。いらない。自分には無理。できない。だからそれは切り捨てて、また別の100になりそうなものを見つける。

又は、やるからには100でなくては自分が納得できない。他人も100を自分に求めている・・・・という方は多いです。

この両極端な在り方は自分の望んでいる(パターンの望んでいる)100をいつも手にできればいいのですが、そうはいかないことが多いので、結果、自分に挫折感や、敗北感、未来への不安などを与えます。100を手にできないことが自分のパターンにひっかかるんですね。

で、そこをどのようにして修正していくのかということなんですが。よく言われるのは「100じゃなくていいんだよ。50でOKを出せれば」的なことです。人によっては「50にいよう。50はちょうど半分のところだから中庸に立って・・云々」というのもあります。

しかし、その横ライン1本の中からどの位置を見つけるかが修正につながるのではないんです。厳密には、ここでの修正としたらそれもありかもとは思いますが。

じゃあ、どういうことなのかというと(道場的には)この0か100かをこの横ライン1本が存在している領域より上の領域に存在してこの件について考えるということになります。

そのためにワークはまず必要です。ワークの効用のひとつに、やり続けることで領域を上げるということがあります。なぜ領域を上げる必要があるのかというと、今いるところから上がることで、もっと今起きていることを俯瞰して、より広大に見ることができます。そうであれば、今までのところでは考えられなったことが考えられたり、見えなかったものが見えてくるからです。

アインシュタインの言葉です。「いかなる問題も、それを作りだした同じ意識によって解決することはできない」

0か100かが存在する領域の中で、それを解決することはできないんです。それについての思考を色々と変えてみるということぐらいになります。大事なのは成長していく、視点をあげていくことです。視点は上がれば上がるほど、選択肢がたくさんあることを発見します。

その領域で、0か100かって何?と考えてみるということです。これは新な意味づけですね。その領域で選ぶ白を選び、実践したとき、もう、すでに、でも、とても自然に0か100かを抜け出ていることを知ると思います。

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