ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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森を見る
2021/03/05

木を見て森を見ず、にならないように。

森を見るということは全体を見るということ。これが大事です。

一本一本の木をじっと見ていても、それらによってできている森にまで目が向かないのでは森という在り方がわからないと思います。

例えば、ワークをするときに、丁寧に行うことはとてもよいことですが、これが正しいやり方なのか、これであっているのか、ここの言い方が変じゃないか、ちゃんとできているのか、など、ひとつひとつをじっと見つめすぎてしまうと、それを納得しないとできないとなりうることもあると思います。

バレエでも、この角度でこのように足を上げるというところだけにこだわると、体全体というところが見えなくなってしまいます。ピアノでも、このドでいいのだろうか、このくらいの強さでいいのか、指をおいてすぐにはなすのか、となるとピアノを弾くということではなくなります。声楽でも、この声の出し方でいいのか、これが正しい発声か、というところだけでは歌にはならず。絵をみることもそれがあり、近くに寄って、細密にそれを見るだけでは、絵から3m離れて見る全体は見えてきません。

確かに全て、細かく見るというときも必要ですが、それはあくまでも、いずれ全体(森)を見るためのものです。語りかけ、白黒ワーク、意味づけワークなども細部まで丁寧に行うことは大事ですが、その全体像は?ワークの持つそれぞれの森の姿が見えているでしょうか。

木を大事にしながらも、どんどん森の中へ入っていってみてください。そしてそれを俯瞰してみてみましょう。

それは自分自身をみるときもそうです。自分の一部だけに執着するのではなく、それを大事にしながら自分という森をいつも見てみる。森大きくなってるな、ときっとわかるはずです。

楽しく生きる
2021/03/04

きのうはおひなさまでしたね。今年は何も出さずに終わってしまいましたが。

そしてその日は祖母の命日でした。私に最も影響を与えた人。母や父からの影響よりも、もっとインパクトの強い影響力がある人でした。

明治生まれ。浅草橋にて東京大空襲、関東大震災を生き延びて、戦後、世の中がごたごたになってしまったときに、小さな商人向けの旅館を自分ではじめて子供3人と夫(祖父はある意味ぼんぼんだった)を養い、95歳まで生きた人でした。

大変な時代を生き抜いてきたせいか、どこか達観していて、それが子供心に安心感や安堵感を与えてもらっていたような気がします。

私は祖母のことが大好きでした。何かトラブルがあっても「大丈夫よ。どうにかなるから」とよく言っていた。そしてどうにかなるんです。

「人は強くできている」ともよく言っていました。「だから怖がらなくていい、いざというときにはみんな底力が出るから」と。そして「楽しく生きることよ」と。

「楽しく生きる」このことを忘れてしまいがちです。日々忙しい。やるべきことにあふれている。どうしてもそちらが優先されてしまいます。でも、本当は楽しく生きるということを最優先していいし、したいのではないかと思います。

祖母の時代からみれば今はあらゆるものごとが便利になり、もっと時間に余裕があるはずなのに、朝から晩まで働いていた祖母のほうが楽し気に見えていたのはなぜだろうと思います。そういうことを今の大人になった私は聞いてみたかった。

これについてはゆっくりと考えてみようと思いました。祖母から宿題を出されたような気がします。

「私」は思っていないけれど…
2021/03/03

先日お会いした方が言った言葉「もう、それを使わなくていいんだあ」ここでのそれとはその方がずっと使ってきた「黒パターン」のことです。

「もう、黒パターンを使わなくていいんだあ」「そうだね、そう、そう」と言う私。もう、黒パターンを使わなくても大丈夫な自分になっている。それは、白パターンをしっかりと選べるようになっているという喜びよりも、もう、これからは、今までの黒パターンを使わなくていいという喜びのほうが勝っているようでした。

「これっておおおおーーーっていう感じ」ということも言っていらして「うん、おおおおーーーっていう感じがするよね」と話しました。「おおおおーーー」は、まさか、こんなふうになるなんて、こんなに黒パターンを使わなくていいということが自分を生き生きとさせるなんてということを表現していたと思います。

わかりにくい文章になってしまいましたが、ずっと普通に使ってきた(使っているという意識もなく「私」が使われていた)黒パターンをもう使う必要がなくなったということは、黒パターンからの解放をあらわしています。私たちは黒パターンに縛られ、操られ、黒パターンの絶対に自分を優先させてやるという気質に踊らされて生きてきました。そこには一喜一憂する感情の波とからめとられているような不自由さがあり、重さがあり、結局、ぐるぐる回るだけで動くことのできない枠があります。

そこを抜けて、自由になれる。これは大きな喜びだと思います。誰もが黒パターンから離れて、彼らの縛りから自由になり、のびのびと生きていいんです。そして、それは誰もが願っていることだと思います。そこに向かって歩んでいるんだということをどうぞ忘れずにいてください。

それを身につけていくことのひとつに、語りかけで「そうだよね、あなたは〇〇と思っているんだね・・・(「私」は思っていないけれど)・・・というフレーズを入れてみてください。これはパターンに言いきかせているのではなく「私」自身の確認です。

そして、ここで書いた「・・・」も大事。前後についてますね。前のこれはパターンのいる領域よりも上の領域を意識するためのスペースです(これから「私」はそう思っていないというせりふをいうための空間への移行)後ろのこれは再びパターンのいる領域に戻るためのスペース。できそうであればそれも感覚として捉えられるとベストです。

2つの世界をもつ
2021/03/02

「私」はそれらとは違う。ということも昨日に引き続き、時々チェックしてください。

それらとは、体、感情、パターン、思考、記憶、性格、過去の体験など。「私」はそれらではないということ。この感じを深めていかれますように。それらの影響を受けない「私」であるということです。

「私」は普遍的な資質で構成されていて「私」は大元につながっています。というよりも大元から生まれた小さな1滴。だからその1滴である「私」は大元につながっている。「私」「私」「私」と言いながら、胸より少し上を意識してみると「私」の奥深くに大元という「私」のふるさとがなんとなく感じられると思います。それは、ここがあれば大丈夫という感じ。そこにひたっているうちに、この心のフィット感は現実世界にはないということも感じます。

ここから生まれ、また、ここへ帰る。そのことを感覚をともなって思い出すこともぜひやってみてください。

自分は毎日忙しく生活をしている、仕事がある、ローンがある、子供もいる、介護もある、などなど誰もがそのような日々を送っています。しかし、この世界だけではないということ。現実とは全く違う「私」のふるさとを誰もが持っているということです。

現実に疲れたら、もういやになったら、にっちもさっちもいかなくなったら、故郷のふるさとへ思いをはせることで(そこへ逃げ込むことで)その一瞬でも少し解放されると思います。そうやって、2つの世界をもつといいです。こっちで疲れたら、片方へ逃げ、そちらで休んでまた現実へ戻る。それを上手に使えるといいと思います。

これも、それは本当なのか、ただのイメージだけではないのかと思う方もいると思います。が、私は人の意識したものは創造されていくことを信じているので、そう、思うのであればそうなると思っています。そんなものは一切ない。死後はただ真っ暗闇の中にとけていくだけだと信じていればそうなるのだろうと。

自分が何を信じて、何を指針にして、豊かな人生を創るのか。私はどうせなら、夢や楽しみのあることを信じていきたいと思っています。

時々チェック
2021/03/01

「あなたは、完全になろうとしていないですか?」と思うこと多し。

例えば、魂の道場での学び。これを通して完全な自分になれる、なろう、それが成長・進化と思っていませんか?知らず知らずのうちに・・・。これは道場以外のところでも。仕事を通して、家族を通して、何か自分のパターンの思い描いている自分の完全な姿。理想の姿。それを求めていないだろうかということです。

完全な自分、理想の自分とは、誰の言動にも引っかかることのない自分、何でもわかっていて、超えていて、従って人から何も言われない、逆に人の手本となり、多くの人を癒し、それにより自分の価値や存在意義を常に感じられ、それがあることで自分の心は安定し、おだやかで、やすらぎがあり、そんな自分になることで他人からも高く評価されている。パターンは騒がない。自分にはいつも白パターンしかない。というような。

決してそこを目指しているのではありません。目指しているところは逆です。

毎日のようにパターンにひっかかるという現実を許し、何もわかっていないことを知っていて、なかなか超えられず、人から注意もされ、人の手本となることなく、自分を癒すので精一杯。自分の価値を感じられない、存在意義を感じられないと不満を言うパターンを愛し、そのパターンにより不安定さやむなしさを感じていることも認め、こんな自分じゃ他人から高く評価されることなんてないだろうとまた他のパターンが騒ぐ。これも全てOK。黒パターンに飲み込まれ、白パターンでいることも少しの間・・・というような。

でも、それでいいんです。というか、そうなっていってほしい。そして、何より、ここにある成長・進化を知ってほしい。

それは自分は「このことがわかっている」ということ。わかっているから、黒パターンへ語ることができ、白パターンを選択できる。この「このことがわかっている」ということがどれだけの成長であり進化なのか。なぜならば、ほとんどの人はこのことがわかっていないからです。だから機能不全なんです。機能不全だから苦しいんです。それがわかっているということは確実に機能しだしているということです。それが成長・進化でなくてなんなんでしょう。

パターンの望む完全な自分ではない、現実の自分でもやっていかれる自分。理想の自分は幻であることを知っていて、もう、自分に嘘はいらない、自分をごまかさない、という自分。そこに現れる、新な在り方。

たぶん、一家族にそれはあなただけだと思います。家族を代表してそれをやるあなたです。開拓者はつらいです。でも、皆をひきつれてあなたは歩くという魂としてきています。ですから知らず知らずのうちに完全になろうとしていないだろうか?と時々チェックしてみてください。

やりながら創っていくもの
2021/02/28

先日書いた日記の・・・・「これ、実現するな、という感覚。この感覚が現実を創るときに必要なんじゃないかと思うんです」・・・・ということについて。

心に生まれ、心に宿るその感覚。自分にしかわからないその感覚。とても大切なその感覚。

そう言われても、わからないと思う方は多いかもしれません。だいたい、そうだという根拠はあるのか、ちゃんと証明されているのか、そもそも感覚って?どんなものなのかわからないし、自分にはそれをキャッチする自信もない、ということかもしれません。

しかし、これは体験していなければわからなくてあたりまえで、それを体験する前から分かろうとするのが、まず、違うと思います。

そして、根拠とか証明とかって自分で創るものです。とりあえずやってみてだんだん見えてきたときに、ああ、確かにこれは自分の証拠になりうる、証明になりうる、というものです。

そしてそれをキャッチする自信がないというのも同じで、使ったことがないものに対して自信なんてもてるはずはないです。これもやり続けていくうちに、ああ、自信って、自分的にはこういうことなのか、これなら再現できそう、と少しずつそれに対しての自信も創っていきます。

なぜだか私たちは、根拠、証拠、自信、などはそもそもがこういうものとして存在していて(これはそのほかにもたくさんある)それが自分にないのであれば、自分には無理と思いこんでいます(パターンが)これは良い、悪いではなく、そう考えて決定する領域に自分がいるということです。

よく聞くのが「新なことをやる自信がない」という言葉です。新なことをやる自信なんて誰にもないです。だってやったことないんだから。それはやりながら創っていくものなんだという新な目を持つことが大事だということです。とにかく練習の継続です。そうしていくうちにきっとサポートしてくれるものも、その姿勢に感動して手伝ってくれると思います。そしてその感覚が心にわいてくると思います。

自分にはまだまだ自分の知らないことがあるという謙虚さを持ち、それを求め続けること、そんな姿勢が創りだす根拠、証拠、自信は今までのものとは全く違うものであることにもきっと気づくと思います。そして、それが一番うれしいことかも。

感覚
2021/02/25

自分の意識が現実を創る、という言葉はもう、耳タコくらい聞いている言葉だと思います。

そこから、ひきよせ、いつもこんなふうになりたいとイメージする、アファメーション、具体的にノートに書き続ける、潜在意識に書き込む、ポジティブな感情で自分を満たす、などスピ系でよく使われています。

で、それを試した人は多くいると思います。皆、自分がなりたい自分になりたいし、望む人生を送りたいと思っているから。しかし、いくらこれらを行っても何も変わらないと言う方が多いのではないだろうかと思うのです。それは、そう望みながら実は潜在意識で望んでいない(きっと無理、私にはできない、変わることが怖い、今のままでもいいなど)からだと言われています。

これも確かにある。これは自分で自分をよく見ていけばみつけられると思います。もし、あるとしたらそのパターンのケアは必要です。それにより望みを叶えるアクセルとそれを止めるブレーキを同時に踏むことを解除していくことになります。

そして、どうありたいのか、どうなっていきたいのか(物質的なことから精神的なことまで)がより優先して動いていくことができるようにしてあげます。優先して動かしていきたい白パターンを作り、選ばなくてはなりません。

で、私はそこから後がすごく大事な気がしています。というのは、例えばさきほどの自分の望みにブレーキをかけるような黒パターンを落ち着かせ、新な白パターンを作り、選び、それにそって行動をし続けていくと、あるとき、わかるときが来るんです。何がわかるのかというと「これ、実現するな」ということが。ふと、心にそれがあらわれるんです。

そのときの感覚、この感覚が現実を創るというところに必要なんじゃないかと思うんです。これはポジティブな感情以上に私は大事なんじゃないかと思います。

例えば、病気がそろそろ治るとき「治るな」とわかるときってありますよね。あんな感じです(自分の心身に起きていることなので自分にしかわからない)そのときって治るでしょう?「治るな」という感覚が、治るを創るのだろうと。

ですから白パターンを選び続けていくうちに自分の中にこの感覚がわいたら、それを逃さず、しっかりと受け取り、それを再び深く感じてください。そうか、この感じか、と。それにひたってみてください。そのうちにそれがあたりまえのように感じられるときまで。そうやって現実って創られていっているのではないだろうか…?と思っています。

ひとつひとつは奇跡
2021/02/24

茅ケ崎駅前にある「クローバー珈琲焙煎所」がきのうで閉店しました。クローバーさんはいつも茅ヶ崎クラスのあと、皆でお茶をしながら、色々と話しをするのにちょうどよいカフェでした。次回こそは絶対食べようと思っていたものもあったので本当に残念です。今までおせわになりました。ありがとうございました。

・・・・・と好きだったお店が閉店していくのはさびしいです。沖縄でも今まで行くたびに楽しみにしていた日本蕎麦屋さんが閉店となりました。いつも通りに行ったところ、閉まっていて、しばしお店の前でぼーーぜんとしてしまいました。

今まで普通にあったものごと、あってあたりまえだったものごと、そういうものが急になくなってしまう、ということ。そしてなくなって初めてその大切さや貴重さがわかるということ。私はこういう思いはたくさんしてきているのに、それでも、普通にある、あってあたりまえ、と知らず知らずのうちに思ってしまっています。

本当は、であえていることは奇跡なのかもしれないのに。そんなふうに思うほどのことではないささいなことも、ひとつひとつは奇跡なのだと思います。

例えば、毎日見ている海と空。これも毎日同じものはひとつもなく、それも、刻々と変化しているものであり、その一瞬は二度と見ることはできないものです。そうやって海と空を見ているのか、それとも見慣れたいつもの風景として見ているのか。それは見ているようで見ているのではないかもしれません。

見ているということは、普通にある、あってあたりまえという視点で見ることではないのかもしれない。変わりゆくものであることを前提にして、初めて見えてくるものが、そこには同時にあるのだと思う。

そして、誰に対しても、刻々と変化し続けているその人をちゃんと見るということを大事にしたいと思いました。その人のその一瞬は二度と見ることができない奇跡であると思います。

分断
2021/02/23

ある有名な占い師の方に「なぜ、あなたは占いにやってきた人に、こちらを選んだほうがいい、こちらへ行きなさい、これはやってはいけない、と、アドバイスをするのですか?そこまであなたが決めてしまっていいのでしょうか?」と質問をした人がいました。

それに対してその占い師の方は「今まで自分で決めることをやってこなかった人に自分で決めなさいと言っても、決められないのです。ですから、私はそのようにしています」と答えていらっしゃいました。

それに対して、質問者はそれはおかしい、と思っているようでしたし、占い師の方は自分のやり方が正しいのだからまわりからがたがた言わないでほしい、と思っているのだろうなあーーと感じました。

そこに流れる分断の状態。正しい、間違っているには分断しかない。昨日の日記に書いたとおり、これは正しいことだ、これは間違っているではなく、そういう考え方(意味づけ)もある。そして、その人はそれを選んでいる、ということだけです。

もし、この占い師の方が嫌な人はリピートすることはないでしょうし、これがいいという人はまた行くでしょう。

道場は占いではないので、自分で考え、自分で決めるということは押していきます。たとえ、今まで自分で決めることをやってこなかった人でも。だからこそそこをやってバランスをとるということをやります…ということを私は選んでいる。それが嫌な人はやめるでしょうし、それでもOKの人は継続されます。これも、継続してるからこのやり方が正しいということではないということです。

ここには「今必要だから」というものしかないんです。今必要なのでその人が力をつけそこを超えれば、もうそれは必要ではなくなるものです。そのくらいのものなんです。全て。ちまたにあるものの中から今の自分に必要なものを選んで、それで自分を成長させたり、元気にしたりできれば、それでいい。深刻にせず、重くせずものごとに関わることもできます。そこには正しい/間違いはもう存在しません。

正しいのか間違いなのか
2021/02/22

「正しいも間違いも実はない」と言われています。

これは確かにそうです。

それでも、人がそこに固執するのは、そうは言っても、やっぱり正しいはあり、正しいを選べば安全。そして、間違いもあり、間違いを選ぶと危険。と思っているからじゃないのかと思います。安全か危険のどっちか。だから、間違えてはいけない、選択を間違えたら大変なことになる。今より苦しむ。それは嫌だから、だから正しいほうを選ばなくてはと思います。

でも、本当に正しい、間違いはないんです。いずれも自分がどう意味づけしているかというものであって、その意味づけはたくさん作れて、尚且つ、どれも選べるからです。そして、それは自分の成長によりどんどん変わっていくものでもあるからです。だから全ての事象には意味がないということに慣れるために道場では「中立ワーク、意味づけワーク」を行います。

で、話は戻り、本当は「正しいも間違いも実はない。あるのは今の自分にとって適切か不適切かだけだ」by ponta ということなのではないかと思います。

こうなるとぐっと言葉は柔らかくなり、そこには余裕があります。それにより不適切でもそれほど危険はともなわないな、と思えるし、適切でも絶対安全でもないんだろうと思えます。

・・・今の自分にとってそれは(又は何が)適切なんですか?不適切なんですか?・・・それを自分で決めていくことになります。

自分にとってなので、それを他人にゆだねることはできません。他人と自分は違うから。他人の意見を聞くことはできてもその決定はできません。自分で決定していくしかないんです。そのためには、正しいのか違っているのか、ではなく、今の自分にとってそれは適切なのか不適切なのかで決めていったらいいのではないでしょうか。

軽く、肩の力を抜いて、いつでもなんでも軌道修正可能と思い、なるようになる、といういいかげんさと適当さも持ちながら。このあたりの能力がこれからは特に必要になると感じています。正しいのか間違いなのかというがっちりしたところから離れてみるということです。

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