ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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断定できないところが現実
2021/08/01

自分を理想通りにしなくていい、ということ。

理想通りというと、黒パターンのいう理想の自分と思うと思います。これはもちろんそうなので、黒パターンのいう理想の自分になることは選択しなくていい。というか、選択したら大変。ものすごく疲れるし、頑張っているわりに結果がよくないし、あと、大変なのは、ずっとやり続けていかなくてはいけないマインドになっていってしまうということがあります。ですからこれは選ばない。

今日、言うところの自分を理想通りにしなくていい、は白パターンのことなんです。白パターンを選ぶ、というと、理想(理性的)となるものを選ぶ感じがするかもしれません。確かに、黒の真逆に白があるので、それはそれは理想的なものです。

しかし、自分がまだそこまで練れていないのにそれを選ぶとそれはそれで苦しいわけです。ですから白パターンは、ゆるく(何ごともゆるくしてしまう人は少々厳しく)選んでいくことも使ってみてください。

例えば、私が選ぶ白として…○逃げよう、○やめよう、○離れよう、○話があります…と言って思いのたけをうちあけよう、○とにかく接触しないようにしよう、○これだけはゆずれないとはっきり言おう、○だめになってもいい、これは言おう、行おう、などなど。これらも白パターンです。

これって、白パターンではないのでは?と感じるかもしれませんが、究極の白パターンを獲得するためには(愛の人になるためには)闘うべきときはちゃんと闘うことも必要なんです。勇気をもって、ちゃんと(「私」として)闘う。

こういう体験があって、初めて、なんとなく「人」「愛」というものを感じられるようになると私は思っています。だから、そういうことが一切なく、白パターン=天国的な、傷つかず、守られて、光に満ちて、何でも愛せる自分、というものではないんだということも知っておくといいかも。

そこの思い込みから解放されれば、より、現実的で、今の自分に合った(課題として必要である)白パターンを選ぶことができると思います。もしかしたら、理想的な白パターンを選んでいるのは黒パターンなのかもしれません。「私」に成りすまして…ということもあるのかも。

「私」は無理強いしないので、その感覚を指針にしてもいいかもしれません。かも、かも、ってはっきり言っていませんがひとりひとり違うので、断定できないところが現実。

狐にだまされた
2021/07/30

きのうの「山怪」の話の中には「狐にだまされた」「狐の仕業」という話が多く出てきます。それは、ちょっとした、人へのいたずらめいたものから、命を奪われてしまうことまで。

実際狐の仕業なのかどうかわかりませんが、長い間山とともに暮らしてきた人達にとって「狐にだまされた」「狐の仕業」はファンタジーで終わらせてしまうようなものでもないようです。

で、思い出した話。もう、15,6年位前のことです。以前、ヒーリングを教えてくださった先生が、都内にある病院に入院していた患者さんからヒーリングの依頼を受けました。先生が声をかけてくださり私はおともで(…というか、たぶんですが、先生は私にヒーリングの実際の現場を見せたかったのだと思います)一緒にその病院へ行くことになりました。病院のある駅で待ち合わせて、徒歩で15分くらいの病院へ向かいました。途中、商店街を抜けて、そこからすぐのところに病院はあったと思います。患者さんのお部屋に伺い、先生はヒーリングをされました。

そして、また2人で病院を出て、来た道を駅に向かって歩いていきました。「どうでした?ヒーリング、あの場で色々考えるということは必要なかったでしょう?」と聞かれたことを覚えています。で、私がそれに対してどう答えたのかは全く覚えていませんが、感想を言ったのだろうと思います。そんな会話をかわしながら歩いていったのですが、商店街になかなか行きつかなくて、来るときに、こんなに歩いたかな?と思いました。1本道なので、道を間違えたこともなく、とにかく商店街まで行こうとしますが、着かない。

すると先生が「狐にだまされた」とぼそっと言われたのです。≪きつね?…ここは都内だし、車がビュンビュン通っている道路わきだし。狐いるのか?≫と思いました。「時々、こういうことってあるんですよ、同じところをぐるぐる歩かされてしまうんですよ」と先生がおっしゃいました。

先生がきりっとした顔で足早に歩きだし、私もちょっと怖くなり必死についていきました。そして、商店街に着くことができました。そこからは来た時と同じようにすぐに駅に到着しました。

このできごと、ずっと忘れていましたが「山怪」を読んで思い出しました。「狐にだまされた」とはなんなんでしょう。

あの話
2021/07/29

今、「山怪」(山人が語る不思議な話 田中康弘著)という本を読んでいます。

この本を知ったのは、東北新幹線の中に置いてあった機関誌からでした。その中に「山径」の中におさめられているいくつかの話が出ていたのです。ちょうど、東北に向かうときでもあり、なんか、心惹かれ、購入しました。1つの話が短いものばかりで、読みやすく、でも、大事に味わって読みたいという気持ちがあり、ゆっくりと読んでいます。

怖い話というよりは、山の中で起きた不思議な話です。それも山とともに生き、山のことを熟知している人たちが体験したことが書かれていておもしろいです。

その中に、あの話がありました。「あの話」。

宮城県にいる女の子2人が、学校の帰りに、いつもの遊び場である森に行くために、歩き慣れた林道から森に入ります。すると、突然開けた場所が目の前にあらわれます。「あれ?こんな所あったかな?」と思ったそうですが、そこは学校の校庭のような広々としたところで、山の中なのに明るく、すごく気持ちのよい空間であり、2人は楽しく遊んだのだそうです。

しかし、不思議なことに、まわりの山が雪が積もっているわけでもないのに真っ白で、木が1本もなかったそうです。日が暮れるまで遊び、明日もここに来ようねと楽しみにしてそれぞれの家に帰りました。

そして次の日、2人はまた昨日と同じ林道から、あの場所をめざします。しかし、あの場所はなかったのだそうです。いくら探してもそこはなく、今まで通りの鬱蒼とした森であったという話です。

この体験をした人が、ここにもいたんだと思い、これはもしかしたら、多くの人が体験しているかもと思いました。共通点は「小学生」というところです。私も小学生のときでしたし、私が大人になってから聞いた方も小学生のときに体験しています。(この方も友達数人とそこで遊んだということでした)そして、ここに出てきた女の子2人も小学生です。

小学生って何かあるんでしょうか。もしかしたら、疑うことなく受け入れることができる年なのかもしれません。大人であれば、そんなのおかしい、あり得ない、怖いから近寄らないでおこう、自分の頭がおかしくなっているんじゃないか、とそのような展開になってもそう意味づけて終わらせてしまうのかもしれません。

小学生は(まだ)きれいだなあ、楽しそうだなあ、いい気持ちだなあ、というところだけでそこへ溶け込んでしまえるのかもしれません。

私の勝手なイメージですが、この現実世界と重なるように違う世界があり、ふっとそちらが前面に出てくることもあるのかもしれないと思いました。そして、それは頻繁におきていて、小さなそういうことであれば見落としているかもしれません。

自分で考える
2021/07/28

何か新しいことを始めたり、新しい仕事についたり、新しい人間関係をつくったり、新しいものを買ったり、何か今までとは違うものごとを選ぶとき、そもそも、何を信じて、それを選んだのだろうと考えてみた。

子供の頃は全て親が決めていました。学校とか習い事とか、生活全般を。しかし、大人になってからは自分で決めることになるのですが、そのとき、私は何を信じてそれを選んだのだろう?

若い頃は「皆がそうだから」だったと思います。そのうちに「自分の信頼するあの人がそう言っているから」「その道のプロがそう言っているから」「その世界で成功している人がそう言っているから」になったと思います。この時点では、自分で信じている、というよりは、自分よりも権威や知識や実績がある人の言葉のほうが何もない自分よりも正しいと信じていたわけだから自然にそれを選ぶことをしていました。

しかし、そこからもっと年を重ねていくうちに、絶対に正しい物事はひとつもない、年上だろうと、プロだろうと、実績があろうと、そこに絶対は全くないことに気づいていってしまうわけです。ケン・ウィルバーが言っているように「たまたまある特定の時に合意した、ということにすぎない」というように。

で、結局自分で考える、トライ&エラーを繰り返しながら、自分で導き出すしかないということになります。

それはどうしてかというと、絶対はないということと、自分自身が変化しているからです。合意もその都度、変化するからです。信じて選んでという行為はそのときの自分にとって必要だからということでしかないです。その選択が自分という王国を創ることになります。自分で創っているという感覚を持てるようになると、信じるというのはなくなります。ただ、必要だからに変わる。

しかし、このときに必要なのは、自分のことを知っているか?ということです。自分が今こういう状態で、これを改善させたり、変化させるには、これが必要で、これを捨てて、ということをわかっていることだと思います。自分をよくわかっていないと選べなくなります。そして、そのことがとても大事なことなんだと思う。

新しい知識だから、皆にとって必要な情報だから、ということだけで取り入れるのではなく、それは自分にとって必要なのか、今の自分という人間にとって、と、しっかり考え、自分で決めることが、必要なのだと思います。

情報があふれかえっている。自分に向き合わなくてもいい状況を誰かが提供してくれる。ますますその量は増えているし、これからはもっと増えていくでしょう。だから、飲み込まれていかないように、自分で考えて、選別していくということだと思います。

やはり、自分を観察
2021/07/27

・・・オリンピック・・・日本選手の快挙が続いています。特に若い人たちの活躍が心地いい。

そういう人達を見ていて、もう、時代そのものが変わり、選手たちのスポーツに対してのとらえ方も、在り方も、今までの様ではない人達が出てきているんだなと思いました。

競泳男子400メートル自由形で金メダルを獲得したのは、チュニジアのアハメド・ハフナウーイさん、18歳。ノーマークであった選手でした。アフリカ大陸初の金メダルなのだそうです。

レース後に解説をしていた人が、このような予想外なことも起きる、と言う話から「当然、このレースではこの選手がとるだろうと皆思っているのですが、もしかしたら、レースになれている=経験のある選手にはできない泳ぎが彼にはできたのかもしれません」というようなことを言っていました。

「自分には経験がある、ということは確かに強みではあるけれども、その分、色々と考えてしまいすぎるのかもしれません」…と。その解説を聞いていて、なるほどーーーと思いました。

経験値を上げていくことは、それへの信頼を強めるものとなります。それは自分への自信にもなると思います。しかし、もしかしたら、それへの慣れが生じてしまうのかもしれないし、知っていることだから、考えることもでき、結果、逆に枠を作ってしまうのかもしれません。アハメド・ハフナウーイさんは、もちろん、自分のベストをつくそうと思っていたとは思いますが、経験がない分、そのための戦略を立てることはできず、ひたすら泳いだのかもしれません。その在り方が、金メダルへつながったのかもしれません。

以前、禅は初めてのときが最も純粋に行える、ということを読んだことも思い出しました。禅というものが全くわかっていない初めての禅。それがもっとも純粋。やればやるだけ(わかればわかるだけ←…と思っていることが実はわかっていないんですが)そこには混じるものが入ってくるのでしょう。ですから、たくさんやって、わかった、ということは注意だなと思いました。

私も気を付けようと思いました。この仕事を続けてきて、自分はどうなのだろうと。経験に頼ってやっていってしまっていないか。やはり、自分を観察し続けなくてはいけないとあらためて思いました。

黒パターンが違っている
2021/07/26

黒パターンを見つけ、語りかけをつくり、語りかけを毎日していても、なんかぁーーー、なんか、しっくりこない。なんか変、ということってあると思います。

そんなとき、もっとたくさん語ってあげなくちゃいけないんだ、ではなく、ほぼほぼ、黒パターンが違っています。

この黒パターンが違っている、という視点はいつも持っているといいです。

本来は、黒パターンは無意識で反応するくらいのスピードで動くものなので、そうだとすると、今起きたことに対して反応しているということになります。

例えば、今目の前にいる人が自分に言った言葉、した行動、など。反応が起きるちょっと前に起きたことについての黒パターンの反応なんです。だとしたら、そのことを黒パターンにすればいいわけです。

●あの人にあんなことを言われたくなかった、●あの人からこんなことをされたくなかった…など。それをそのままもってくれば黒パターンは安心します。

しかし、何か、そこで考えすぎたり、深くその裏にあるものを探そうとしたり、または、それを認めたくない、認めてはいけないときには、ちょっとかするような違うパターンを作ります(パターンが)それを語りかけしても、もともとが違うので、こんがらがってきます。パターンによってはそのこんがらがったものをまた違うように解釈して他のパターンを出してくることもあります。

こうしてわけがわからなくなる。このあたりで難しくて私にはできないと感じることもあるかもしれません。しかし、そうじゃないんです。

そんなときには・・・・聞いてください。そのために私はいるんですから。そうしながら、修正して、しっくり、じっくりとできる語りかけをつくっていきます。
起きていることはすごく単純なことです。

「私」はそこから何を見るのか
2021/07/25

茅ケ崎2日間グループセミナーも無事に終わりました。なんだかあっという間でした。

毎回、毎回、やっているところ(向かうところ)は同じです。そこへ向けて、色々とやっています。レスポンスをやり、パターンをみつけ、語りかけをし、白パターンを作り、ワークし、実践し、瞑想やイメージワークをやり、語り合い、一緒に考え、意味づけをし、物語を作り、理論的に説明し、以前は、塗り絵もやりましたし、体を動かしたことも、・・・と色々やるのも、全部その目指すところへ向かうためのものです。

その向かうところ、が、魂の道場の担当分野なので、とにかく、望んでいる方達がそこへ向かう1段1段の階段をのぼっていかれるように、ナビの私は頑張る。頑張ると言っても私がおぶって連れていくことはできないので、自分でやってもらうしかありません。

私は、ナビし、必要であろうという提案はしますが、強制はできません。あくまでもその人の意思しかありません。

階段をのぼりながら、何をしているのかというと、そぎ落としていくことをしています。今までいたところで生き残るために心身につけてしまった「鎧」を。そしてその鎧を構成している価値観や常識やクセや習慣などを。

認められたい、守られたい、目立ちたい、大事にされたい、全てにおいてもっともっと、というクセ、自分を肯定したい、自分に自信をつけたい、評価されたい、必要とされたい、すごいと言われたい、傷つかない強さがほしい、好かれたい、リスクを負いたくない・・・・・などなど。そういう、本来の自分ではないものをそぎ落としていくことをやっているんです。

成長・進化って、新な情報や知識を入れることではなく、不必要なものを手放していくことなんです。それは先に進めば進むほど必須となるものです。

階段を上がっていくにつれて、もう、自分じゃないものは必要ではないと気づくと思います。そのときには、自ら手放すことを望むかもしれません。そしてそぎ落としたものがなくても実は、全然平気だったと気づくと思います。なぜかというと、すでに満たされている本当の自分が残ったからです。これがあればいいんだと気づくと思います。いや、本当の自分でいたかったのだと気づくと思います。これを長い間求めていたのだと気づくと思います。

そうして本当の自分として次の領域に自分の足で立つ。そこからぐるりとまわりをみわたしてみてください。自分の全てでつかみとったそこから。そこから何が見えるのか。「私」はそこから何を見るのか。

そんな希望を感じてほしいです。

つゆ草
2021/07/22

小学校の5年生のときだったと思うのですが(その年に東京から茅ヶ崎に越してきました)学校から家までは歩いて20分くらいだったと思うんです。

6月だったか、7月だったか、晴れた日(多分早くに学校を出たので、土曜日だったのだろうか)の下校のとき、一人で、家に向かっていたんです。

いつもの歩きなれた道で、両脇には家々が立っているいつもの風景で。で、ふと左側を見たら、見慣れている家と家の間に空間があり、大きな木があって、その木の下一面に「つゆ草」が群生しているんです。

つゆ草のきれいな青色の花がたくさん咲いていて、思わず、その木の下に行って、しばらく周りに咲くつゆくさを見ていました。こんなにたくさんのつゆ草が咲いているのを今まで見たことがなかったので。本当にきれいでした。大きな木が中央にあるので、その木の陰でつゆ草はより深い青色に見えて、子供ながらに深く感動しました。

こんなすごいところがあったなんて。でも、なんで今まで気がつかなかったんだろう。ずっとここは通っていたのに。と思いましたが、また、明日もここに来ようと思って家に帰りました。

そして次の日、どきどきしながら昨日のその場所へ行ったのですが、ないんです。大きな木もつゆ草も。この家とこの家の間だったのに。何度もそこを行ったり来たり、右側だったかなと右側をさがしたり、もしかしたら1本となりの道かもとその周りをまわってみたのですが、ないんです。しばらくあちこち探しましたが結局見つけられず、家に帰りました。

家族には誰にも話しませんでした。多分話しても、信じてはもらえないと思っていました。

そうして月日がたち、大人になってから、このような体験をしたと言う方がいることを知りました。つゆ草ではありませんが、木があって花がたくさん咲いていて、とてもきれいだったからまた行きたいと思って行ったらなくなっていた…という。それを知り、やっぱりあれは本当だったんだと思いました。今でも道端に咲いているつゆ草を見るとあの時の情景が思い出されます。できたら、もう一度、大きな木にもたれかかってつゆ草にかこまれてみたい。

さて、今日は、茅ヶ崎グループです。2日間、皆で楽しく、集中して、学びたいと思います。毎日、酷暑ですね。どうぞ皆さまも気をつけてお過ごしください。

引き算
2021/07/21

自分の成長を願い、自分を変容させていきたいのなら。

多くは、何をやるべきかと考えます。もっとこれをやったほうがいい、これも学んだほうがいい、これも知っておくといい、と今の自分に何かをプラスしていくことが普通です。

しかし、このときに、何をやめるべきか、何を手放すべきか、何を引いていくべきか、ということのほうが大事だと私は思っています。引き算をしていく。

今、うまくいっていないことへの原因をみつけてそれをやめる、ということ。これの繰り返しで、今の自分に必要なものだけをもつことで、軽く歩んでいかれると思うからです。

多くの場合、今の生活をそのままにしながら新なものごとを手にしようとします。でも、それは無理です。なぜならば、新なものごとが入るスペースがないからです。新たなものごとを入れたいのなら、それ用のスぺースをつくらなくてはなりません。何かを手放すからこそ新たな何かを手にすることができます。・・・・と私は信じている。

そして、そうしていくことで、ものごとへの執着というクセもだんだん薄れていくのがわかります。執着は恐怖と不安です。失うこと、捨てること、なくすことに慣れていくということは、執着すること自体が成り立たなくなってくるので、自然とそれからも離れていく(離れざるを得ない)のだと思います。

そして、あんなに手放すことが怖かったものごとも、離れてしまえば、それほどでもなく、どちらかというと、新たな船出にわくわくするということも起きるのだと思います。

こうして循環しながら自分が生きていくということを私はやり続けたいと思います。こうして自分をどんどん自由にしてあげたいのです。

心も断捨離
2021/07/20

自分が生まれてから今までに起きたことを時間をかけてゆっくり思い出していく修行(ワーク)があるようです。自分の振り返りのようなものでしょうか。

その起きたことを思い出すときに、感情を入れないで、ただ、思い出すというのがキーなのだそうです。実際やってみると、多くの場合、その起きたことを思い出すと同時に感情や感覚が一緒にあらわれてきます。あのときにあんなことを言われた、やられた、と思いだすと同時に当時の悔しさや、悲しみや、怖さも思い出されてしまうのです。起きたことだけを思い出すことがとても難しいと、その修行を行った人が話しているのを聞きました。

それを聞きながら、私(きっと皆さんも)は自然とそれができるようになっていたと気づきました。今まで生きてきて本当につらかったこと、悲しかったこと、嬉しかったことも、そのときにはそこにまつわる感情や感覚は確かにあったのですが。そして、自分に向き合うことを知らなかったときにはそれは思い出すたびに傷ついたり、憂鬱になったり、怖さや悲しみをともなっていたのですが。

自分に向き合う修練により、起きたことをただ、起きたこととして捉えるようになっていたんだなと。多くの場合、感情、感覚が自分だと思っています。ですからある出来事を思い出せば、あのときの自分=そのときの感情、感覚も思い出します。

しかし、道場では、感情、感覚は「私」ではないが大前提としてあるので(その在り方と感覚を修練するので)自然と、思い出と感情・感覚は切り離されていくのです。いいとか悪いではなくて。修練の力です。

そして、この、出来事と感情・感覚を切り離してみていく目を育てることで、そこには、自然と良いこと、悪いことのジャッジが薄れていきます。それは「出来事」として捉えられていき、現実にあったこととして捉えられていきます。

こういうと「それはあまりにドライで悲しく思う」という方もいるかもしれませんが、それはライトであると言えます。そしてライトであるから先に進めます(持ち物が少ないから)起きたことを感情と感覚でいっぱいにしてしまうと、そこには重さがあるので、そこにひっぱられて先へ進むことは難しいです。

楽しかったこと、うれしかったことは大切な思いでだから…という方もいます。でも、それも重くしないということもできます。

こうしながら「ただ、あるもの」「ただあったこと」としてコンパクトに心にしまうことができます。心の断捨離です。物だけではなく心も断捨離して、軽やかに生きていくこともいいと思います。

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