ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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ZOOM面会
2022/08/20

昨日は、施設に入居している両親とのZOOM面会でした。

ZOOM使用がほぼない私とトミー。そして初ZOOMで緊張気味の両親。「こんなふうに話ができるなんてねえ」と母は驚いていました。本当に、便利な時代になったものです。このように使用するのにはありがたいものだと思います。

色々と話しをしていくうちに、なぜだかだんだんフレームアウトしていく母。もう、飽きたのか、疲れたのか、最後は顔の三分の一くらいしか見えていませんでしたが、無事に終わりよかったでした。

母がとても穏やかな顔をしていたことにほっとしました。母の顔つきがとても穏やになったと以前父から聞いていて、それがよくわかりました。

ずっと自然の多い、北海道で生活をしてきた母。今までとは全く違う環境の中で、コロナがあって外出もできず、始めの頃は、息苦しさや、後悔などがあったと思います。きっと帰りたかったと思います。それが今は落ち着き、毎日を過ごし、おだやかな顔をしているということに、人間の持つ柔軟さのようなものを感じました(実際母に聞いてはいないので、私の印象や解釈でしかありませんが)

柔軟さの中には「諦める」「ゆずる」「手放す」「捨てる」などがあります。それらができるから(というか、せざるを得ないからかもしれませんが)柔軟でいられるのだと思います。

夢を諦めてはいけない、とか、自分の思いのままに生きていく、とか、自分をいつも優先する、ということがあります。それもそうではありますが、色々な諸事情で、そうできないときも人生にはたくさんあります。そんなときには自分の思いを押し通すことよりも、柔軟に、頑固にならずにいったほうが生きやすいです。

押したり、引いたりしながらいくということですね。何ごともバランス。

他のために
2022/08/18

昨日のスヌーピー先生の言葉。そして、今日は「アッシジの聖フランチェスコの平和の祈り」の中のこの言葉。

・・・・・「慰めされるよりは慰めることを 理解されるよりは理解することを 愛されるよりは愛することを 私が求めますように」・・・・・

誰でも、慰めてほしいし、理解されたいし、愛されたい、と思います。だから他人からそれらが与えられますように、と祈るかもしれません。しかし、この祈りはそうではない。他人を慰める、他人を理解する、そして他人を愛する、それらを自分が求めるような人になれますように…と祈っています。

ということは、他人から自分は慰められなくていいし、理解されなくていいし、愛されなくてもいい、ということになります。誰でもがまずは自分に与えられることを望みます。しかし、自分が成長していくと、自分のことは自分でやるからいい、それよりも他人に対してそうできる様でありたいと言う気持ちがふつふつと湧いてきます。

それは犠牲的な気持ちではなく、そうしなくてはいけないからでもなく、ただ、そうありたい、という自分の欲です。なぜ、そうありたいと思うのかと言うと、そこには、天の意思に沿った在り方があることをなんとなく感じるからだと思います。そこに在るときに人は自分の心に確固とした平安を感じるのだと思います。

しかし、この欲も、欲すればすぐにそうなれるということではなく、ふつふつと湧くそれを欲したり、また、自分が理解されていないことに腹がたったり、愛されていないと落ち込んだり(黒パターンの領域に転がり落ちるってやつですね)などを繰り返しながら進むのだと思います。

だからこそ、こう祈りたくなるのだと思う。私は、この祈りを見て、人の喜びは他のために向かったときが最も大きく、強いものなのだろうと思うのです。そして人は究極、そこをやりたいのだろうと。

しかし、そのように振舞えばいいわけではなく、それもやはり自分の成長とともに現れるものなのです。だから、今の自分でいればいいんです。自分がこう在りたいというところへの努力をこつこつと(普通に)続けながら。そういう自分をサポートしてくれるものたちが周りにはいて、それがいいようにひっぱっていってもくれます。一人だけで頑張らなくていいように、なっています。

もっともっと天を信じていい。

スヌーピー先生
2022/08/17

「幸せとは、あなたが愛した誰かであり、あなたが愛した何かなんだよ」スヌーピーの言葉。

スヌーピー先生、ただの犬ではありませんね。

この言葉、ちょっとわかりにくいかもしれません。一般的に(というか、ある領域においては)幸せとは誰かに愛されること、何かに愛されること、という意味づけがあります。そして、そうなることを目指している人がほとんどです。幸せってそういうことだと決めているからです。

どれだけ自分が愛されているか=大事にされている、認められている、大切に扱われている、守られている、傷つかないでいられる、安心できる、などなど。ここでの愛されるってそういうことです。

しかし、スヌーピー先生はそう言っていません。「幸せとは、あなたが愛しただれか」「あなたが愛した何か」と言っています。それは、自分が誰かを愛することができた幸せ、自分が何かを愛することができたことでそんな自分が幸せを感じることができます、ということを言っています。

愛されることよりも、愛すること。愛するとは、理解すること、赦すこと、であるので、理解されるよりも理解すること、赦されるよりも赦すことでもあります。そこに人は幸せを感じるんです。

それは大きなことを言っているのでもなく、日々の生活の中でちょっと困っている人を助けた、とか、道に空き缶が落ちているのを拾って、ゴミ箱に捨てた、とか、そういうことも「愛」に基づいて行われることであり、それにより自分にわかるだけの小さな幸せを感じることってあると思います。

幸せってそういうこと(…と言う意味づけ)と言っています。

なんか、晴れ晴れするような幸せですね。人の成長にともなって、自分が与えてもらうよりも、与えたくなる、ということが起きてきます。それも自然に自分の中から湧き出るようにやってくる。それを待ちながら、楽しみにしながら、日々、自分がやるべきことをやっていかれることも幸せだと思います。

絞り込む
2022/08/16

自分を知るということ。

知ることで、自分がどんな個性を持ち、どんな才能を持っているのかも自分でわかります(誰かに自分って、どんな人間で、自分にはどんな才能があるのかを聞くことはないですよーー)

で、自分を知るためにこの世にある全てのものごとはあると言えます。自分を知るというのは自分を成長させ、進化させることでもあるので、人間がそうするために全てのものごとは用意されていると私は思っています(それだけ私たちは愛されているのだと思います)

例えば、自分って・・・音楽はどんなものが好きなのか、心地いいのか。絵はどんなものが好きで心惹かれるのか。文学は?TV番組は?身につけるものは?部屋に置くものは?食べ物は?何をしているときが自分らしいのか?そのほかにも。

そして、どうしてそれが好きなのか?何故それに惹かれるのか?それの何がよいのか?などを自問してみると、より具体的に見えてくると思います。漠然と見聞きしているものごとの中に実は自分が潜んでいて、自分にそれを教えてくれるんです。

そして、その部分を絞り込んでいくと、自分という人間の最も大切な部分が見えてくると思います。その大切ないくつかを持って生きればいいと思うのです。

それを見つけるためには一時、自分ではないものごとからもいろんなものを見聞きし、たくさん触れることは必要になりますが、その漠然としているところから絞り込んでいくことで、自分についての整理(自分の断捨離)をすると、大切なそれが自分の核となり、それだけを持っていくことで、余分な情報や知識、物事を自分に入れないようになっていきます。

一般的に、豊かであるということは、いろんなものを自分に取り入れて、持っていたほうがいいと言われますが、私はその逆なんじゃないかと思います。自分を現わすそれだけを持ち、それにより個性というものが際立ち、それこそが豊かさなんじゃないかと思うんです。豊かさとはたくさん持っていることではなく、皆と同じものを持つことでもなく、たくさんあるものごとの中から自分を現わしているものだけに絞り込んでいくこと。そんな今の私の豊かさの意味づけ。それにより、シンプルに、簡潔に、身軽に、存在する。

今日もぼちぼちと
2022/08/15

毎日の夜ご飯、皆さんはどうしていますか?

料理が好きであれば、色々と作ること自体が楽しくてバラエティにも富むと思いますが、いかんせん、料理が嫌い。でも、食べないと生きていかれない。仕方なく作る。こんななので、レパートリーは増えず、なんとなく同じものを繰り返しています。

が、ここのところ、ニューメニューでこれはいい、と思ったものがあります。

肉を野菜に巻いて焼く、というのがありますね。アスパラに豚バラ、とか、もやしに豚バラとか、えのきに、ニンジンに、と、とにかく肉を巻いて焼くというもの。これは結構便利と思っていたのですが、片栗粉をうすくつけたおくら1本にひき肉を手でぎゅっとにぎりつけて、塩、コショウを軽くして焼くというのがありました。

これは、豚バラを巻くよりももっと簡単だと思いやってみました。予想以上にすごく簡単。そして、私としては豚バラを巻いたものよりも、肉感を感じられておいしいと思いました。これは、塩、こしょうで食べたり、ポン酢で食べたり、からし醤油で食べたりして、どれもいけます。

もう1品、1口サイズに切ったトマトとブロッコリースプラウトと釜揚げしらすを混ぜて、オリーブオイルと塩少々をかけただけのサラダ。これも簡単なおかつ美味しい。バクバク食べられます。そして数日は冷蔵庫で保存可能なので、こういうのが私はすごくありがたいです。

料理…いつまでやるのかなあ、定年が欲しいところです。

小学生の頃、母が近所に住む占い師さんから「洋子ちゃんは、お料理がとても得意な人になるから楽しみにしているといい」と言われたと私に嬉しそうに話したことがありました。しかし、その後、全くその兆候が見えないまま66年たってしまった。これからそうなるということはないでしょう。今日も、ぼちぼちとやっていきます。

自分に誠実に
2022/08/14

自分に対して誠実であることは本当に大事なことだと思います。他人に対して誠実である前に自分に対して誠実であろう。自分に誠実でないと他人にも誠実であることはできないし。

だから、誠実であれというときには、まず自分だな、と思ってください。

しかし、それは黒パターンが思うそれではありません。自分はが体が弱いし、何もできないのだから、本当はやってみたいと思うけれどこのへんで我慢しておこう、それは自分への誠実さだ、とか。本当は自分もできたらいいなあと思う、だけど、私にはそれだけの能力も意志力もないからそれはあきらめた方がいい、その方が自分を苦しめないですむ、それが自分への優しさだとか。これらは黒パターン。


または、逆に、これ以上はできない、でも、そんなことに負けたくない、弱音を吐いてはいけない、だからやり切る、とか。初志貫徹、それができないことは意志力の弱さのあらわれだから、決してあきらめない、とか、これらも黒パターン・・・・このあたりが難しいところですね。

どっちをどう選べばいいのか、わからない、と言う方も多いかと思います。ここは、あなたはこっちですよ、あなたはそれじゃないですよ、と私が決断もできず(確かにナビの役割としてその人の傾向を把握する努力はしていますが、絶対でもない)

で、このあたりをどのようにそれぞれが判断するのか、というときに使うのが、2つの部屋を作ってそこに「私」が入ったときの初めの印象で決めるというものです。これって、本当に使えます。ただ、そのためには「私」を使うこと(ワーク)をやってきていないと無理です。

そこを省いて、これをやってみてもほぼほぼ黒パターンのほう(思考での選択)を選びます。選んでも、あとから違うとわかれば選び変えればいいだけではありますが、その分、時間とエネルギーを使うので私はもったいないなと思います。

私のカウンセリングの先生はそこを惜しむなと言いました。どんなに年月をかけようとも、どう見ても違うだろう、無駄だろうと思えても本人がそれに気づくまでやらせてあげなさい、と。カウンセラーはそれを一緒にいて待ってあげられように、と。先生の相手を待ち続ける意思はすごいと思います。私にはここまではできない。そして、私は効率性も使いたい。

ここでの効率性とは天のルールに乗っていくというそもそもの在り方というものです。誰もが天のルールのもとに生かされています。それを知り、察知し、そこに沿えるのは「私」だけで、それゆえ、何かを判断、決断するときには天とつながっている「私」が選べばいいのでは?という、とてもライトなものです(ただ、いつも言っているようにそれを選んだから全てがスムーズにいくということではありません。「私」はあくまでも成長に必要なものごとをそのときに選ぶのでいい感じでいくときもあればそうではないときもあります)

その「私」の感覚を自分で磨き、それを使って決めていくことで、悩みや問題にかける時間やエネルギーのロスは少なくなります。ここが一番大事なところだと思います。思い悩むということにずっとエネルギーと時間を使ってきていませんか?これは子供の頃からよく考えなさいと言われて育ってきているのでそのパターンによるものです。で、考えて考えて決めて実行したことはそれの結果なので、それを受け取り又悩みもっと考えなくては…と思い、またその結果を受け取とる、を、ぐるぐる。

又、選んだあとに後悔することも減ります。これは多分、腹をすえていくということを同時に学んでいるのだと思われます。選んだのだからそれで行くか…という感じです。

そんな軽くていいの?…うん、それでいいの。だって、ぷちっと生まれた自分は普遍的要素で構成された「私」であり、それを中心にして生きていくということは天のルールに乗っていくことでしょう?そうであればいいように流れていくだろう、と私は思うからです。そのシステムはすごくライトだと思います。

2つの部屋、たくさん練習して自分のものにしてください。

視野を広げる
2022/08/13

意識の領域を上げる、とか、ミームを上げる、とかってスピリチュアル的なことではなくて、自分の今の視野を広げるというとても現実的なことです。

視野を広げることにより、選択肢がぐっと広がることになります。上がるということは今までよりも高い位置にいるので、今まで見えなかったことが見えます。従って、色々なことが起きても、たくさんある選択肢の中から今回はどれを選ぼうかな、となるので、以前より、楽だし、自由だし、ということです。

これが、意識の領域を上げる、ミームを上げる、視野を広げるということだと思います。

そして、そこには、我慢とか耐えるとかはありません。我慢しなくてはいけない、耐えるしかない、というのは選択肢が少ないところにいるからとも言えます。どうしても自分の視野の中にそれしかなければ、そこで選ぶしかないので、自分に我慢や耐えることを強制するしかないです。

かなり高い領域にいる方たちは、あえて、我慢や耐えることを選びたい、ということでの選択をする場合もあります(そのときには我慢、耐えるの質も変わっていると思う)それもその人の視野の中にはあるものだからです。しかし、ほとんどの人はそこにはいないので、今の自分としてはそれがふさわしいのかどうかを吟味します。

今の自分に無理を強いていないかという吟味の仕方です。ここを間違えると、ひたすら耐える日々を送るようになります。

私は、楽に自由になるためには、とにかく、自分の視野を広げていくこと、それを拡大させていくことしかないと思っています。そして、人がやりたいこととはそのことで、それを別名「私」を機能させて生きる(「私」で生きる)という事になると思います。

あらゆる選択肢がいつもあることを知っていってほしいです。これが今の自分にとって、無理なようであれば、これを。これが背伸びしているようであれば、こっちを。これがつらいのであれば、あれを。というふうに。

それを行うためには今の自分(自分の技量)をちゃんと知るということが必要になります。今の自分を知る、偏りなく、ゆがみなく、率直に、正直に、素直に、自分にウソをつかずに、他人を入れずに、今の自分を知る。それは、どれだけ自分に対して誠実であることができるか、ということだと思います。

ちむどんどん
2022/08/12

暑いですね。‥‥冒頭はこの言葉で始まるしかないくらい暑い。

沖縄の方がまだ暑くなかったでした。陽ざしは確かに強烈でしたが、こちらの暑さとは違いますね。

観光客もだいぶ戻ってきていました。ちょうど夏休みなので、来島した人が多かったと思います。あと、朝の連続ドラマの影響も多分にあるようで「ちむどんどん」という言葉をあちこちで目にしました。多くの人がそこに流されていくのは、日本人特有かも。

さて、今回のクラスは3人と少人数でしたがその分、じっくりとできたと思いました。あたりまえなことですが、人数が少なければ、その分、ひとりひとりにエネルギーを注げます。

で、この頃、感じていることですが、クラスの場合、誰かに対して言った言葉を他の人も聞くことになるので、自分にもそれをあてはめて聞くということが自然に起こります。

例えば、誰かに「勇気をもって」と言った言葉を聞いた他の人たちも、自分もそうしなくては、自分も勇気をもとう、と捉えるというように。しかし、ひとりひとり違うので、もしかしたら、勇気よりも優しさをもつこと、とか、勇気をもつことよりもっと自分を見ること、とかが、その人には必要なのかもしれません。

かと言って、他人が言われたことは自分には関係ない、ということでもありません。そうなってしまうとクラスとしての意味がなくなってしまいます。

また「勇気」はどの段階でもとても必要なもので、ずっと使い続けるものなので、誰にとっても勇気を持つことは求められます。ただ、タイミングとか、その人の個性とかで、それが今なのか、勇気より他のことが優先されるときもあります。

そこを、自分でどう捉えるか、というところは自分で時間をかけながら自分で見つけていくしかありません。日本人は(と言っても外国人と接したことがないですが)真面目なので、自分にあてはめがちになりやすく、そこが難しいところなのかもしれない、と思いました。

先ほどの「ちむどんどん」ではありませんが、皆がそこに向かってしまいやすい、という傾向があると思います。こういう小さなことの積み重ねで、今の自分を知り、自分に今は何が必要なのかを感じ、自分で選び、決めて自分を動かしていくことが大事です。

怒り
2022/08/05

以前、あることがあって、すごく腹が立ちました。

腹が立つという感情が出てきたので、もちろんパターンです(ご存じ、思いどおりじゃないことがイヤ)で、そのときに自分のパターンの感じをよくよく見てみたのですが、そこに、傷ついた、悲しい、裏切られた、などなどの感情はなく、ただ、腹が立っただけだったことにちょっと驚きました。

パターンへの語りかけで「感情のところは3つは出しましょう」な〜んて言っているのに、私は「腹たった、頭にきた、怒りがわいた」と怒りだけ。この怒りに全てが詰まっているような感じで、これは乱暴に扱うと爆発しそうでした。爆発すると、私、狂暴になりそうで、ここは封印しております(大人になりました…ってあたりまえか)

で、考えて見たら、ここのところ、傷ついた、と感じることがない。悲しいもない、裏切られたと感じることもないことに気づきました。本当に?と再び自分の中を見つめる。近頃すぐに忘れるので、そのせいではないだろうかとも思いましたが、昔はこれらは確かにありました。人一倍。

うーーーーーーん。どこにいった?これらの感情が全く消失したはずはないので(それはまずいので)どこかで生きているだろうとは思います。

ただ、対他人というところで、出てくるこれらの感情が出てこないということは、対他人が薄れているんだろうと思いました。昔は他人によって一喜一憂していたということです。

怒りは第二の感情と言われていて、第一の感情は、理不尽さへの悲しみや、苦しさなどでそれを押さえてしまって怒りになるということなんですが、第一の感情は感じられると思っているので、私はとにかくストレートに怒りがくるんだろうなあと思いました。これからも注視していきたいと思います。

対他人が薄れるということ。これはなんか不思議な感覚です。家を1歩出れば、他人がたくさんまわりにいます。その人たちとすれちがったり、知り合いには挨拶したり、自分の横を車が通っている。この状況は昔と全く変わっていないのに、自分自身が違うことを感じています。

自分がそこにいないような、なんだか映画の中のできごとに参加し、見ているような気がします。これは昔とはあきらかに違います。自分という意識が変わってくると、感覚的に何か変化も起きてくるのだろうと思います。これもまた深追いせずに注視していきたいです。

さて、今日はこれから沖縄です。今日は少し暑さがおさまり、移動も楽だと思います。よかった。皆さまも気をつけてお過ごしください。

人間のフィルター
2022/08/04

誰もが大元からぷちっと生まれ、頑丈なパイプに守られながらこの世に生まれてきている。そしてそのパイプの中が自分の世界となり、その世界をどのようなものにするのかは自分の自由意思に託されている。そしていつの日かまた大元の元へ帰るときにはそのパイプの中を通って帰る。

すごくすごく簡単に言ってしまえば人の一生ってそういうことです。で、その根拠はあるのか、と言われればないです。本当にそうなのか、と問われればわかりません。しかし、精神性や霊性の成長を考えたとき、これが私としては納得できる哲学なんです。

大元から生まれてきたのなら「私」として存在することが本来の姿のはずです。しかし、そうではないのは、この世に着く前に「人間のフィルター」なるものを通るからだそうです(キリスト教神秘主義のクラスで習いました)

それまでひとつであった(ワンネス)「私」がこのフィルターを通ることで、人間の世界の形態を獲得するのだそうです。そのときに「善と悪」「私とあなた」というような相対性を可能とする意識を持つのだそう。しかし大元からのぷちっによる「私」(普遍的で永遠なるもの)はもちろんその心に持っているのです(そっちが自分なので)

こうして、自分と大元だけのパイプの中にいながら、他のパイプの他人対自分という視点をもって生きることになります。そこに生まれる、比較、競争、勝敗、上下、優越感、敗北感、焦り、不安、恐怖、嫉妬、悔しさ、悲しさ、うらみ、卑下、虚栄…などなど。とても人間っぽいものはこの人間のフィルターを通ったからなんだなと思います。そして、それが成長するうえで必要だから私たちはそのフィルターを通ってきているんです。

ただ、ここで忘れてはいけないことは、大元のエッセンスを持っている自分「私」がいるということです。人間のフィルターを通ったことで獲得したこれらを持ちつつも(結局、黒パターン)本来の出発したときの自分が何ものであるのかを常に思うことで、それを思い出し、意識的にそこへ帰っていくことができます。

その時には今いる自分のパイプの世界が全てであり、自分の横には他の人のパイプがあり、その中で生きているその人をそのまま見る、知るという感覚(如実知見)を味わうことになると思います。だから「自分のパイプの中で自分のことだけやっていればいい」ということになります。

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