ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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行動あるのみ
2025/01/15

今年は、なんか、善い動きになると感じている。お会いしている皆さんが…です。

皆さんのブログを朝読んでいるんですが「そう、そう、それでいいね。その心持ちでいこう」と思います。この「そう、そう、それでいいね」が増えてきていて、これはやはり去年からの努力の成果なのでしょう(…という年だそう。詳しくはまたクラスで)

で、成果というと、よいこと、うまくいっていること、できたこと、成功したことと捉えがちですが、そうでもないんです。一見、よくないこと、うまくいっていないこと、できないこと、失敗だったこと、など、パターンがネガティブさを生み出している物事を持つのも善い動きであることもあります、というか、善い動きに自分がしていかなくてはいけないんです。ここがすごく大事。

で、人の意志力とか知恵とか行動力って、ここでこそ使わなくてはいけないと思います。いわゆるいい感じでスムーズに生きている人ってここが上手なんだろうと思います。

一見、よくないことが起きたときには、何を選んでの今なのか?をクールに検証し、では、それではない「私」が納得することを考え、感じ、選んで、それに沿った行動をする(ここでの一致性がまたまた大事。気づいていても行動に移していなければ結果は同じ)。このように自分でよくないことを善い動きに自分でしていくということです。

これをどこかで勇気を持ってやってみてください。1回できると、また次もできるようになります。そうしていくうちにそれが自然と普通になっていく。やはり行動あるのみです。

成人式
2025/01/14

昨日は「成人式」だったんですね。いつも行く中央公園に着くと、向かいにある文化会館からどーーーーーっと晴れ着姿の女子、和装、洋装の男子が大勢出てきました(式典が終わったのでしょう)そのご家族も一緒なので、とにかく人数がすごい。

そして皆が向かいの公園に、道を横断して移動するので、信号前で細い歩道は一般の人も混じり、動けない状態になっていました。私もちょうどそこにいたので、しばし、華やかな女子にまじり、待機。じろじろ見るのは失礼なので、でも、着物や髪型やメイクをちらちらと見てしまいました。

皆さん、豪華です。流行りなのか、着物にブーツやピンヒールの靴をはいている人もいるし、髪には、金銀のモールのようなものが巻き付いていたり、水引で飾られていたり、全体にラメが散っていたり、小さな扇子や小花が飾ってあったり、と、色々です。レトロ風な着物の人もいれば、華やかで、凝った模様の着物の人もいます。変形型着物(?)の人もいます。帯もそれぞれ素敵でした。そういう女子に囲まれ、ネギが見えているエコバッグの私はどう見ても場違いでしたがこういう状況にならないかぎり、ここまで細かく見ることはなかっただろうと思いました。

で、自分の成人式の時は?と思い出す。私、当時はとんがっていたので「成人式?出なくていい、着物も着ない」と式典に出ることなく、着物を着て写真をとることもなく、そのころバイトしていたところで働いていました。そういう私に、両親は何も言わなかったというのも不思議です。でも、このことは後悔はしていないので、私はそうだったんだというところで終わっています。

成人になられた皆さま、これからの人生、山あり谷ありだと思いますが、たくましく生き抜いていってください…とまるで孫を見る様な私。

自分の好きなものごと
2025/01/13

ワークとはやらなくちゃいけないものではないし、やったら、こんなふうに変わるんだ、だからやろうというものでもないです。まして、私に「やれやれ」と言われるからやるというものでもありません。

ワークを善きものとして、続け、それを自分のものにして、自分の成長に使うためには「やりたいからやる」というものがないと、やらされている感が起こると思います。そうなるとただ、やっているというワークになり(パターンがやっている)そこで変化なく停滞します。

この「やりたいからやる」という動機で、その心持で、「私」が続けるワークには必ず、結果が出てきます。それは、楽になる、問題が消える、というパターン的な結果ではなく(そうなる場合もあるが)「なるほどねーーー」というような結果です。

今まで漠然としていたものの形がはっきりしてくる、私がやれやれと言っている意味がわかる、なんか整理されていく、芋づる式に次々と分ると言った方もいらっしゃいます。それは、楽になった、問題が消えた、もう、ひっかからない、というような単純なものではなく、どちらかというと「これ、おもしろい」というものです。この体験ができるといいなあと思うのです。

で、何事も、実は「やりたいからやる」という心でとりくむから、向上したり、理解が深まったり、結果に結びつくということ。やりたいからやるというところには、なんか興味がある、とか、なんとなく楽しい、とか、わからないからもっと知りたい、とか。知的好奇心がくすぐられるものがあります。で、楽しんで行うことは進んでいきます。ワークが皆さんにとってそういうものであるといいです。今年はここへの挑戦もいいかも。

そのためにも、まずは、よくわからなくても、ちゃんとやる(ちゃんとやるというのは言われた通りにやることをベースにして、自分でもそれについて考えるということです)、そして「なるほどねーー」を知る体験をする(それは善くできているということ)ことです。そうすれば、もっとやってみたい、もっと知りたいとなります。この、状態になれるものが自分の好きなことなんじゃないかと思います。

先生のカウンセリングを受ける
2025/01/11

昨日は、カウンセリングの先生の所へ行ってきました。

前回、聞くことを忘れていた「今の私への注意点をお願いします。厳しく、ダメ出しお願いします」を今回は絶対に忘れない…と思いつつ、色々と話しをしました。

所々で、先生から「それはどうして?」「どうしてそう考えるの?」「これはこうだからではない?」と聞かれ、そういう時は自分で再度考えるので、質問はカウンセリングにおいてものすごく大事と再確認しました。質問には、その人を知るため、その人が自分自身をどのくらい認識しているのか、を知ることになる、と後から気付きました。

こうして、私の内部に入り込んできてくれて、それにより、今の自分がよりよくわかりました。「あーーーーー、そうか、そういうことか」と。

そして、今回は忘れずに聞きました。「先生、今の私を見ていて、注意点をお願いします。どんどんダメ出しお願いします」と。

すると「自己観察は正しくできています。だから、あとは、イトーヨーコブランドとして伝えたいこと、提供したいことを貫いていくこと」と言われました。ここまでくるのにかなり話をしていたので、わかりにくいかもしれませんが、自分のやり方への「哲学」を持ち、それを自分の指針にして、ぶれずに行け、それを崩してはいけない、ということです。

でーーーー、これって、道場でやっている「自分はどうありたいのか?」というところと同じだと気付きました。先生はカウンセラーとしての私への注意点としてそれをおっしゃってくださったのですが、カウンセラーではなくても、個人として、自分の指針になる自分の哲学は自分の人生にはあったほうがいいです。それがないとあっちにふらふら、こっちにふらふらと、なってしまいます。その哲学は一人一人違います。これが正しい哲学です、はないです。だからこそ、パターンが考える哲学ではなく「私」が思う「自分はどうありたいのか」を自分の哲学にしていきたい。

そして、カウンセリングとは(カウンセリングで目指すこととは)そういう人を育てることだと先生がおっしゃいました。本当にそうだ、と思う。ただ、共感して、そうですよね―――では人は育たず、ということです。育てるというのは、その人もまだ気づいていないその人の可能性を引き出すことであり、道場的には新な視野を自ら持つ(ミームをあげていく)ようになることだと思います。そして、自分がその体験をしているからそれは伝えられるわけです。

先生のカウンセリングと私のカウンセリングは違うので、全てが同じということではありませんが、最も大事な部分は同じであったのがよかったでした。

そして、帰りは「関内」駅の近くにある「利久庵」というお蕎麦屋さんに行きました。横浜に住んでいたころはよく行っていましたがずっとご無沙汰でした。とても美味しかった。茅ヶ崎から通うか?と考えてしまうほど。蕎麦好きな方で「関内」に行かれるときにはお勧めです。https://osoba-n.com/

祖母のこと
2025/01/09

昨日、ふと、祖母のことを思い出した(母の母)。

祖母は若くして結婚し(明治の女性はそれが普通だったのだろう)3人の子を産み、育て、関東大震災と東京大空襲を体験し、生きていくために商人の人達が泊まる小さな旅館をはじめ、家族を養った。祖父は、お金にならない「発明」に明け暮れていたらしい(祖母曰くなので祖父には祖父の言い分があったと思う)

祖父が亡くなってからは、茅ヶ崎へ越し、今度は、両親と一緒に生活できない状況にあった私と妹の面倒を叔父夫婦とともにみてくれた。

で、祖母のことを思い出した、というのは、祖母の人生は、ずっと家族のために働き続けた人生だったなあ、という事と、そんな人生であったのに、なぜ、あんなに明るく、おもしろく、遊ぶように生きていたのだろう?という事である。

私では祖母の様な人生を送るのは到底無理だろうと思う。これだけ便利な自由な世の中にいるのに、毎日のご飯が面倒くさいと言うくらいだから。自分の好きなことをやりたい、自分のペースでやりたい、という思いはある。

祖母は、毎日、毎日、朝から夜寝るまで、同じことを繰り返し、限られた人生の時間のほとんどはそこへ費やされていたと思う。そして、晩年は認知症が進み、施設に入居して人生を終わらせた。

自分の人生なのだから、もっと自分を優先したかったとか、自分が生まれてきた意味とか、意義とか、持たなかったのだろうか。そうできない自分の身の上を嘆いたりしなかったのだろうか。祖母から、不服感や憂鬱さやあわれさを感じたことがなかった(孫にはそれは見せなかったのかもしれないし、子供だったのでそのへんはわからなかったのかもしれないけれど)逆に、祖母からは、明るく、おもしろく、日々の中にある小さな楽しみを教えてもらった。それらを総称してみると、遊ぶような生き方だった。

私を含め、今の人達はどうだろうか。自分の人生は自分のために生きることが普通になっていて、そうなると、何かしらの自分にならなくてはいけないようなものも生まれてくる。自分はこれをやっている、これを持っている、それがある人生が成功している人生というような。そうやってはじめて安心できるというような。

今は、自分が好きなように生きていいという時代ではあるけれど、そうなのに、不満や不服が多いのはどうしてだろう。楽しく遊べないのはどうしてだろう。未来に不安を持つのはどうしてだろう。祖母の生き方は決められたところで、決められた生き方しかできていなかったのに、どうしてあんなに自由だったんだろう、祖母のまわりにある時間がなぜあんなにゆったりとしていたんだろうと思う。

祖母ももちろん人間なので、その心には悲しみも怒りも後悔もうつうつとしたものも宿っていたはずだ。でも、これは推測だけど、当時の、ほとんどの女性たちが生きる枠というものは決まってしまっていて、災害と戦争で、よりそこは狭められ、その中で生きていくことを強いられ、そこへの覚悟やあきらめをどこかで持ったのかもしれない。覚悟やあきらめを持つ人の明るさやおもしろさや自由さが出ていたのかも。自由であることの弱さや不安定感もある。そして、強いられるものにより人は強くなり、自由になるのかもしれない。私も祖母のように生きたいと思う。

いい気分、いい感じ
2025/01/08

で、「今」しかない、ということについてです。

その「今」をどういう状態でいるのか、というと、「今」いい気分でいる、いい感じでいる、という言い方になりますが、それは、楽でいる、とか、好きなように、全て思いどおりでいる、とか、嫌なものが一切ないように、ということではありません。状況によって成り立っている状態ではないということです。それらはパターンが、こうであったら、いい気分、いい感じでいられるのに、と、望んでいることです。

時にはパターンにひっかかることが全くない状態のときには、五感で感じ取るいい気分、いい感じでいる状態はあります。そして、そのときには心もおだやかでしょう。しかし、それは一時のことであったり、あったと思うとなくなったり、変化するものでもあります。絶対的にあるものではありません。

では、そういう不安定な状態でありながらも「今」いい気分でいる、いい感じでいるって何?ここにいつも言っている「自分はどうありたいのか?」が出てきます。

いつでも、自分の(パターンの)好きなように、何でも思い通りにしようと、誰かを使って、嫌なことが無い状態にしたい自分でありたいのか?それとも、そうではない自分になりたいのか?ということを自分に問う。「それでいいのか?自分」と。

パターンの言うとおりにいきたいと思う自分なのか、それとも、怖いけど、自信ないけど、でも、少しでもそこではない自分に向かっていきたいと願う自分なのか。「今」の自分はどちらなのでしょう。ここは本人の意思にまかされます。

魂を少しでも成長させたい、そうやって幸せに生きて欲しいという天の意思のもと「私」はその意図を受け取り、色々とセッティングして、少しでも進ませようとする。いろんなことが起きていて、心中、おだやかではない、苦しい、不安とパターンは騒いでも、それを持ちつつ、自分はどうありたいのか、です。

そして、そこで選びたいものを、決めたときに、感じるものが、いい気分でいる、いい感じでいる、ということです。そうそう、これを一番求めていたんだよね、と思えると思います(パターンは嫌がるので、そのときにはケアと選択)そういういい気分、いい感じです。

第九
2025/01/07

本当は、去年の年末に聞きたかったヴェートーベンの「第九」。

茅ヶ崎交響楽団の「第九(合唱付)」に行くつもりでした。茅響なので、当日券でも余裕と思っていたら(ごめんなさい)完売で、行かれなかった。

そして、先日「ウィーン・フィル×リッカルド・ムーティ「第九」200周年記念公演in cinema」というのがあることを知り、昨日見てきました。

「第九」初演からちょうど200年となる2024年5月、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団による公演が行われ、その演奏を収録したものを上映するというものでした。指揮は、リッカルド・ムーティ氏でした。

昨日の観客は10人。ゆったりと見ることができました。始まったとたんに、これは、実際の公演で見た方が全然いいよなあと思ったのですが、見ていくうちに、実際の公演では見ることのできない部分を見ることが出来ていることに気づきます。

指揮者の目の動きや、細やかな手の動き、「歌って、丁寧に」と言っているのだろう、この表現は、と思える姿。演奏者の表情や、指の動き、息継ぎの様子や、指揮者の思いを受け取るしぐさや、汗を拭く姿まで見えて、見ることで受け取れる臨場感があることを感じました。ここまで近づいて見ることは実際の公演ではありません。

楽章が進むにつれて、そういうことを考えることなく、その場にいるような気持ちになりました。第四楽章の最後の最後のところが好きで、ここは何度聞いても高まるものがあります。今回も、それを感じ、曲が終わると、映像の中の観客とともに拍手をしていました。年のはじめに見ることができて本当によかったでした。

で、感じたこと。音楽って、ひたすら「今」だけなんだということ。ここをやっていけば、ここへ行ける、というものではなく「今」どんな音を出すのか、「今」指揮者は何を求めているのか、「今」自分にとって最高の音を出す、表現する、と、「今」しかない。その「今」の連続で曲になっていっているんだと思いました。

ドレミ…と奏でるのではなく、ドを奏で、レを奏で、ミを奏でている。それもただ奏でるのではなく、いかに美しい音を、求められる音を、として、奏でているんだと思いました。そうして結果美しいドレミを奏でていたということなんだろう。

これは、自分の在り方にも通じていて、一瞬一瞬の積み重ねにより、結果、善きようであったということと同じだと思いました。「今」が大事なんです。何ごとも。未来も今の積み重ねです。今というときを一瞬一瞬何を選ぶのか、自分はどうありたいのか、やはり、そこしかないと思いました。

ありがとう!
2025/01/06

昨日は、イトーヨーカドー茅ヶ崎店の閉店日でした。

なんだか気になり、朝・夕と2回行ってしまった。食料品売り場では顔見知りのレジの女性に最後の挨拶をしました。「長いこと、いらしていただきありがとうございました」と言われ「こちらこそ、本当にお世話になりました。ありがとう」と言いました。

他の階も一通り見て回っていると、館内放送があり、今までの感謝の言葉がのべられました。そして最後に「閉店のセレモニーは交通の妨げになるため行わない」という旨の言葉が流れました。

TVで見るような、ほたるの光が流れる中、店のシャッターが下りていくのをまわりで大勢の人たちが見て「ありがとーーー」と口々に言っている光景がここでもあるんじゃないかと思っていたのですが(私も行く気まんまんだった)それはなくなりました。

店内の各階には大きなボードが置かれ、そこには用意されている小さなカードにメッセージを書いて貼れるようになっていました。私も2枚書いて貼りました。たくさんのカードを見てみると、それぞれの思いが書かれていて、次々と読んでしまいました。「閉店なんて、ふざけんじゃねーーよーー(泣)」「毎日の買い物が助かっていました。ありがとう。」「おつかれさまでした。皆様のご多幸をお祈りしています。」「家族で毎週来ていました。」「屋上の小さな遊園地が楽しかった。」「憩いの場でした。」…などなど(この通りではないですが、このようなことが書かれている)。

ここには、これを書いた一人一人のイトーヨーカドーがあり、そこにはその人の生活があり、思いがあり、それぞれのヨーカドーとの歴史があるんですね。そう思うと、この1枚1枚は大切なものだと思いました。

私としては、名前が似ているせいか、特に親しみを感じてもいました。さびしくなります。

そう言えば、去年の1月には、ずっと通っていたお蕎麦屋さんが閉店し、今年はこちら。こうして、ずっと、あり続けるものはなく、いろんな物事は必ず変化していくのがこの世の中です。自分自身も変化していきます。そこに抵抗せず、流れに心身をまかせて次にくるまた新なものごとを受け入れていく、そうやってめぐっていくものなんだな。

ありがとう、イトーヨーカドー。

お正月も終わり…
2025/01/04

今日は4日。今日から仕事はじめです。

今年も…「私」に恥じない、「私」が納得する仕事を(在り方、生き方を)していきます。

今回の年末年始もいつもどおり「三大見たい番組」を見て過ごしました。

まずは、年末に行われる「SASUKE」。5時間にもわたる番組なので、ファンのサスケ君が出る後半だけ見ればいいね、と毎年言うわりにはしっかり見てしまいます。で、やっぱりおもしろかった。好きだな、これ。

次は年が明けて「ウィーン・フィル・ニューイヤーコンサート」です。今回の指揮者はリッカルド・ムーティ氏でした。ウィンナ・ワルツを中心に、優雅で、華やかで、軽やかな曲をたくさん聞くことができました。私は何と言っても「美しく青きドナウ」が好きで、毎回、特に楽しみにしています。そしてその「ドナウ」、今まで聞いたことのないドナウでした。指揮者ムーティさんの「ドナウ」だった。とてもドラマチックでダイナミックでした。ムーティさんはイタリアの方なので、その血の内に宿る熱が、今まで聞いたことのない「ドナウ」になったのだろうかと思いました。胸がいっぱいになりました。

そして、2日、3日は箱根駅伝。これも長丁場なので、見たり見なかったりを繰り返しつつ、やっぱり見ている。特に茅ヶ崎の海岸線を俯瞰で撮ったシーンが毎回あり、この、わずかな時間のシーンを見ることが私には、駅伝でもあります。王者、青山学院大、再び優勝かあ。ちょっとドラマが欲しいです。

そして、昨日は年に数度の出勤日でした。どこへ?「こまめ」へ。で、行きの電車の中でのこと。4人かけの座席に一人で座っていた私の斜め向かいに「失礼します」と言って大きな荷物と長い棒状のカバーのかかったものを持った女性が座りました。2人だけだったので「それ(長い棒状のもの)は何なんですか?」と聞いてみました。すると「これ、駅伝の応援の旗なんです」とおっしゃいました。「応援されてきたんですか?おつかれさまでした。どちらの学校の?」と聞くと「東京国際大学です。まだまだ知られていない学校で埼玉にあるんです。上位に入るというよりも、シード権がとれるかどうかというところなんです」と話してくださいました。

「シード権持っているかいないかで相当変わりますよねえ」といかにもわかっている口調で話す私。それに対して「そうなんです。シード権がとれない選手たちのくやしさは痛いほどわかります」と話してくださりました。その後、東京国際大学は8位で入りシード権獲得と知り、その方に「おめでとうございますーー」と心の中で言いました。

「こまめ」勤務も終わり、こうして私のお正月は終わったのです。なんか、今年はいい感じでいきそう(皆さんが…です)。ですので、私もこの感覚を持って、善きナビとしての質を上げていきます。

2025年
2025/01/01

明けましておめでとうございます。

2025年が皆様にとって素晴らしい一年となりますようお祈りしております。

「魂の道場」は引き続き本当の自分として生きていく道を歩んでいく方々のお手伝いをしてまいります。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

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