ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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ちりばめる
2024/12/10

頑張っている自分にご褒美を…とよく聞きます。

毎日頑張ってやるべきことをやっている自分に、自分がうれしいと思うような、自分が欲しいと思うような、自分がほっとするような、気分転換できるような、そんなご褒美を自分で自分に与えてあげよう、ということなんだと思います。

ここで、毎回、気になるのは、ほとんどの場合はパターンがうれしい、欲しい、ほっとする、気分転換になるものごとを自分へのご褒美と捉えている場合がほとんどだということです。それが間違っているとはいうのではなく、その領域があるということです。

しかし、パターンと本当の自分というところで生きていると、ここはやはり見逃せないところだし、パターンのそれを選んだときの違和感とか、楽しいのにむなしいとか、ちっともほっとしないとか。以前は本当に楽しいと思えていたのに…。そういうことを感じられるようになっていると思う(成長の証)

昔は私もパターンのそれがご褒美だと思っていた。しかし、今は、もう、これは自分には合わないと感じます。

そしてもうひとつ、この、頑張っている自分にご褒美をはかえってきつい。なぜならば、ご褒美をもらうために頑張らないといけないから、です。で、欲深な私はいつでも自分にご褒美を与えたいと思いました。でも、いつでも、というのは365日毎日ということではなく、日々の頑張ってやるべきこととご褒美という相反するものを相反しないようにしてちりばめていけばいいんだと気付きました。それが多分10年以上前頃だったような。

そのころ、ちょうどワークペーパーで日常と非日常についてやったことがあって、これも同じだなと思った。この、頑張ってやるべきこととご褒美、頑張って過ごす日常と頑張らなくていいプライベートな非日常。ここに相反する意味づけがされているから片方は頑張る、片方は頑張らなくていいという極端な現象を起こします。ご褒美がくるまで我慢だ、非日常というプライベートがくるまで我慢だ、ということ。

でも、それらをちりばめてしまったら?毎日の生活の中に。頑張っている自分にはときおりご褒美がわたされ、ご褒美の中にも頑張るがあれば、どっちがよくてどっちがよくないということはなくなります。それがちりばめるということなんですが、じゃあ、具体的にちりばめるって?想像力を使って考えてみてください。

ワークの中に楽しみを
2024/12/09

魂の道場で行っているワーク。

語りかけ、白黒ワーク、意味づけワーク。それのどれも、自分の変容への即効性は…ありません。

継続していくうちに、そのワークの意味が感じられるようになり、自分のものになっていき、気付いたら、変わっていた、というものです。変わると言ってもぱきっと変わったというよりは、なんか、以前よりも楽になっている、とか、以前より落ち着いている、とかそんなソフトな感じの変化です。

私はそういう変化の仕方が安全で、元に戻らずいいと思うのですが。

今まで一体何回言われたか「それって時間がかかるのでしょう?」「これやってても、時間ばかりかかって、変わらない」…と。

というように、一般的にはわかりやすい即効性があり、こつこつやり続けなくても変化のあるもののほうが好まれるし、望まれます。

で、そういうものとしての代表的なものが思考で今自分に起きている物事の見方をかえて、納得するというものです。「こう、考えてみたらいいんじゃない?」「こういう見方もあるよ」っていうものです。これが使える場面というのもあります。しかし、全てがそうではない。特に、感情や感覚にまつわるものに対しては思考で対処は抑圧し続けていくということになります。

又は、五感をリラックスさせ、いい気分にひたって感情や感覚を落ち着かせるというもの。これはその時にはゆったりして、いい気分に浸れますが、それで今の自分が変わることはありません。

そもそも、適切なツールを使って(皆にすでに与えられている)自分で自分を変えていくことが、求められていて、そのように人は創られているから。そして、それには思考でも、いい気分でもなく、自分で直接自分の心の内に分け入っていくしかないのだと思います。

そこには時間がかかります。1年、2年、3年で、それができるということはないです。しかし、私はそれだけ意味のあることなんだと思っています。大事なことには時間がかかります。だから、楽しめなくては続かないのだと思う。ワークの中に楽しみを見出していただけたらと思います。

一人で頑張らなくても…
2024/12/08

「自分一人で生きているのではないから、そんなに一人でなんでも頑張らなくて大丈夫」と、私はよく言います。

それは、私が信じていることなんですが。そして、信じているからか(これはそうだろうと…量子力学の事を考えると)そうなんだ、と思うことが起きて、積み重なって、ますます、そう思う。そして、そこへの信頼は又大きくなるを繰り返す。

何かをはじめたり、やめたり、引っ越しをしたり、仕事を変えたり、又は、一度決めたことを変えたり、貫き通したり、などなど、今までのいろんなことは決して私一人の思考で決めたり、得られたことではなかったと思います。もちろん自分の意思はあるけれど、動くときは動くし、動きたいと思っても動かない時は動かないというように。

それは、人智を超えた何か(この宇宙のルールそのもの)がこの地上に生きている(又はあちらで生きている)人間を総合してみながら(宇宙のバランスをとるため?)決めていることなんじゃないかと思うようになりました。

そうして「私」にこうしてね、とセッティングを促しているように思えるんです。ですから、自分をどこに導いていくのかはあちらにおまかせして「私」がセッティングしたことが今やるべきことなので、それをやっていけばいいと単純に思います。

それにより、きっと今までとは違う何かを与えてもらい(それは物事かもしれないし、精神的な何かかもしれない)それは「私」の喜びになります。この流れ、というか、このシステムというか、そこを体験していくうちにきっと一人で頑張らなくていいんだということを感じると思います。

そんな根拠もないことを信じていいのか、と思うかもしれませんが、ワークや祈ることを続けていくことで自分で何か、気付いたり、見つけたり、変化を感じたりすると思うんです。それと同じことです。自分がやるべきことをやっていくうちに、一人で頑張らなくても大丈夫なんだということに気づいたり、見つけたり、変化を感じたりします。そうなってくると、それを信じていくことも可能だろうし、信じるものは大きくなっていくので、その世界に生きることになると思います。

もう、一人で頑張らなくて大丈夫。あちらといつも二人三脚。それは見守られているということであり、善き道を照らしてくれていると思います。

まずは自分
2024/12/07

人は、自分にしていることを同じように他人にするし、自分ができることしか他人にもできない‥‥。

というのは大前提だと思います。そこを知らずに、言動してしまうのが人なんですが、よくよく自分を観察してみると、その通りであることがわかると思います。

もっと違う言い方をすれば、人って、そうやって自分というものを誰もが表現しているということです。いや、表現しているというよりは、自然にその人が出てしまっているということです。いくら、自分を大きく見せようとしても、知識を振りまいても。

で、多くの場合は、その作っている自分を他人はその人だと思ってみています。相手が見えていない状態です。言葉は悪いですが、騙されている。実際そうやって騙されて、事件や事故になっている物事はたくさんあります。

確かに社会の中で生きるには、それ用の自分を作っておくことでスムーズにいったり、かえって相手が安心したりということはあります。そこはそことして、でも、冒頭に書いたことは人という生き物にとっての大前提なのだと思います。

このことを知っているのと知らないのでは人生そのものが大きく変わると思っています。それを知っていれば、本当の意味で謙虚になれると感じるし、その自分が他人に接するということで、相手にも誠実なんじゃないかと思うし、誠実に接してもらえることが人には一番うれしいことなんじゃないかとも思います。

だとすると、やることはひとつ。自分に向き合うということです。どんなパターンがあり、それに対して「私」は何を選ぶのかを、決めていくこと。そうやって不一致を一致に少しずつ変えていくこと。自分をそうしながらより知って、より、よいほうへ「私」が導いていくこと。そこには自分に対する誠実さがあり、その自分であれば同じように他人にも誠実に接します。そして、誠実であれば、自分にできることだけで十分とも思えます。

やっぱりまずは自分。

精神的な無理
2024/12/06

いつもお世話になっている美容師さんと話しをしていたとき「普段、人に話さないこともここ(この美容室)では話せてしまう、とよくお客さまに言われるんです」とおっしゃいました。

それを聞いてそーーーーだろうなあと思いました。私も、ここへ来ると、ほっとする感があります。この感じを癒されると表現する人が多いのだと思います。そして癒されている感があれば、普段人に話さないことも、なんだか話したくなり、話すということが自然に起こるのだろうと思います。

美容師さんはそれを狙って、この仕事をされているわけではもちろんないですが、それが自然にできていて、自分では気づいていなかったそれを、お客さまから教えてもらったのでした。

一体、何がそうさせているのだろう?と考えて、それは美容師さんの人となり、個性、なんだろうと思いました。今まで色々と話しをしてきて、そこから美容師さんの人となりというものがだんだんと感じられます。それは、無理しない方なんだろうというものです。

自分に無理をさせない。そうは言っても仕事となれば、無理する場面もあると思いますが、精神的な無理を自分に強いていない方だと思いました。そのありかたがきっと他人をほっとさせたり、ゆるめたりするのだろうと思いました。

精神的な無理、というのも、色々と人によって違うと思うのですが、美容師さんの場合は、自分にとって不本意なことであれば、断る、とか、そこからは離れるということを自分のためにやってあげている、というものだと思います。

その際、一般的には、不本意ではあっても、恩があるし、お世話になっているから断れない。不本意ではあるけれど、離れずにいたほうが得るものがある、波風も立てることがないし、周りにも迷惑をかけない、自分も恩恵がある、というところでそこに自分を合わせていくと思います。普通にそういうものだと思っているから。

美容師という仕事ですから、お客さまのニーズにこたえていく仕事だし、そこでの会話はお客さま優先にはなりますが、それはそれとして、でも、自分にとっての大事なところは貫いてきたのだと思います。それが美容師さんにとっての自分に無理させないだろうと。

それはひいてはお客さまにも無理させない、になる。なんとなく、そうか、無理しなくていいんだ…という影響をお客さまは受けるのかもしれません。そんな波動がお客さまをゆるめているのかも…と思いました。

小さなことを…
2024/12/04

自分を赦すって、黒パターンに好き勝手させることでも、パターンに共感しすぎて、そこと自分が同一してしまうことでもありません。

じゃあ、何?というと、今持っている(存在している)全てのパターンと一緒にこれからも生きていくことだと思います。それは、私はダメだ、も、私は自信がない、も、私は弱い、も、誰にも負けたくない、も、自分は特別も。とにかく全てです。時には「あの人さえいなければ」というパターンだってあるかもしれない。それも、もちろん、これからも一緒に生きていく…という意思を持つ(腹を決める)ということです。

そして、気付いたら、自分を赦していた、ということ。気づいたら、ってところが大事です。それは、自分を赦すを目指していないということでしょう?目指してはいけないんです。目指すのではなく、いつもどうありたいか、いつもどんな意思を持っているのかです。目指すは未来。いつもは今。今にあるということです。

赦すということで見てみると、自分の全てを赦せる自分でありたい、という意思を持ち続けること。今、そうじゃなくてもです。これがもしかしたらアファメーションで言うところのあたかもすでにそうであるように…ということなのかも。そしてその意思を宇宙に発信し続けること(実際動かしてくれるのはあちらなので)

まず、ここありきであれば、パターンにひっかかり、語りかけをし、白黒ワークをしたときに、この意思は全ての根底に流れています。そういう意思を持つ自分がワークをしているときにはこれを目指そうはないはずです。ワークを純粋にしている。

目指そうとすると、そのためにどうしたらいいのか、という事に必ずなります。何をしたらいいのか、どう考えたらいいのか、こっちのほうが効きそうだ、とか。そのやり方は今までのやり方であり、これから先には通用しなくなるということなんです。

例えば、禅の世界では、ひたすら禅を組むように、祈りの世界ではひたすら祈るように、いろんな物事が成就していくときには、ひたすら練習するように。ここには、何か、よくわからないけど、まだわからないけど、それでも魅かれる何かがあるからだと思います。やりたいのはそこに何かを感じているからではないでしょうか。それは目指しているというのとは違います。

それを感じている、という小さなところを感じ、言葉にできるといいです。小さなことをひとつずつ、ちゃんと感じてみて、言葉にしてみてください。

きゅうりの古漬け
2024/12/03

茅ヶ崎駅近くにある、お総菜屋さん。

「土士田」(としだ)さん(この漢字、土が2つではなく2番目の漢字は士です。わかりにくいが。創業1934年)。とてもお世話になっています。

こちらの、ぬか漬けが、特にきゅうりの古漬けが、私は好きで。我が家ではこの古漬けきゅうりをうすく輪切りにして、そこに細かくきざんだしょうがをまぶして食べています。祖母がよくこうしていたのを覚えていて、まねしたら、これはねーーー、美味しさ倍増です。食欲があまりないときでも、毎日でも、美味しく食べられます。

ただ、古漬けなので、普通のぬか漬けのようにいつもあるのではなく「今日はあった!」というラッキーな時にしか買えません。

先日見に行ったら、たっぷりとあったので4本買いました。私の隣にいた方は20本買っていき(多分、飲食店の方か?)残りは少なくなっていた。これはなかなかの争奪戦だ。

古漬けの他にも、ポテトサラダも、里芋の煮ものも、きくらげこんぶも、五目豆も、どれを食べてもはずれたことがありません。こちらのお店は特におじいちゃん、おばあちゃんに人気のお店です。お一人で住まわれているのでしょうか、買いに来ている方が多いです。

ご高齢の方には強い味方。そして、私のように料理が苦手な人にとっても強い味方。

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/04e0f7ce415db1c16dd6f8d2ff58e69d385a112c

クールに
2024/12/02

ずっと長いこと思っていましたが。黒パターンのひとつとして、自信がない、自分にはできない、自分は劣っている、自分はダメだ…などがありながら、別の黒パターンで自分はわかっている、自分は誰よりも上、自分はできている、自分は特別…なども同時に持っているという人がとても多いです。「自分はやってきた、という自負があります」「私だってできているところはあります」と言うことも聞きますが「だから?何?」と私は思うし、言う。そんなふうに、自分を不一致で生きさせる領域に居続けさせていて苦しくないですか?という意味で。

そして、多分、後者の黒パターンが前者の黒パターンを抑えて、後者が自分だと勘違いさせて(これがリーダーとして)生きているのだろうと思います。でも、勘違いなんです。間違った認識をしている。

しかし、そのことを言うと多くの人が、不機嫌になる。これも後者の黒パターンが怒るんですが。これがパターンなんだということに気づかなければいけないし、気付いたら自分でケアし、新なものを選び続ける努力をしていかないと、変容していくことはありません。ただ、そこには自分がそうしたいのかどうかが優先されるので、このままでもいい、という人もいます。

そして、その内的行動の他に、もっと客観的に、ゆがみなく、自分をみて自分を知らなくてはいけないと思います。そもそも、後者のパターンが信じているほどの人間なのか?自分というところです。自分の個性や性格などもふまえて、そこまでじゃない自分というものをちゃんと知っていかなくてはいけないと思うんです。

この、本来の自分と自分の黒パターンが信じている自分とのギャップがあるから苦しむ。そして、その通りに扱ってくれない人を嫌い、憎むようになっていきます。それは結局、自分を苦しめることになります。

自分がどれくらいの人間かがわかり、それが納得できれば、どれだけ安心して、自由でいられるか。しかし、それは自分を過小評価するのではなく、自分を厳しく見るのではなく、今の自分に色を付けずに、ゆがみなく、自分をクールに見るということです。

これが自分を赦すということです。赦してしまえば、どんな自分であってもいいと思える。いい意味で、自分への尊厳や愛をもって「この程度の自分だから…ね」と自分に言えるようになります。程度っていう言葉に引っかかる人もいるかもしれない。しかし、程、度。総合して自分を見たときにこのあたりの人間という目安のこと。

考えを減らし…
2024/12/01

ミニマリストの佐々木典士さん(ぼくたちに、もうモノは必要ない 著者)のインタビューの中に「考えることを減らし、楽になる」という言葉がありました。この言葉が飛び込んできました。

ミニマリストって物を極力持たない人というイメージがありますが、これは、物に限ったことではないんだろうと思いました。

考えることで頭の中がいっぱいいっぱいになっていることから、考えることも減らしてみよう、ということでしょう。

多分、物を減らした部屋で生活をしているうちに、それでも何か自分を圧迫するような感覚を感じ、そこから気づいていったことが、この、考えることを減らす、ということだったんじゃないかと思いました。そして、それを意識的に続けてみると、そこに現れてきたのは「楽」になるという実感だったのだろうと思います。

私たちは、無意識で日々たくさんの思考をしています。それは途切れることなく続き、それが習慣になり、自分の普通になります。これは部屋の中が多くの物で溢れてしまう事と同じでこちらもそれは途切れることなく続き、それが習慣になり、それが自分の普通になります。
その考えることを減らす。これも物を捨てるのと同じで自分の意思で、自分が行動するしかありません。

部屋に限りがあるように、思考する脳にも限りがある。そんな部屋に住み、そういう脳を持つ自分にとっての断捨離とは?何をどれをどのくらい自分が持ち、管理できるのだろうか。そして、そこに風の通る空間はあるのか?これがすごく大事。

この後、佐々木さんの話は食べることにも普及していきます。「あまりグルメに走らなくなり、シンプルな食事に手を合わせるようになりました」と言う佐々木さん。部屋、身につけるもの、考えること、そして、身体に関わる食べることも、自分に合うものに減らしていく。それにより、丁寧な暮らしをしているご自分に気付き、それが自分にはとても気持ちのよいものだから継続しているということなんだろうと思いました。

持ちすぎている、考えすぎている、食べ過ぎている。それも誰かが言ったことを信じて。全てに断捨離。

ワル猫
2024/11/30

本屋さんにはたくさんの来年のカレンダーが並んでいました。

動物好きな私は犬や猫のカレンダーに目がいきます。無邪気な可愛らしい子犬や、くりくりお目目の子猫。街の中でポーズをとる(…とっているわけではないがそう見える)ちょっとおしゃれな猫も。相変わらず人気なのかニッポンの代表「柴犬」も。草原を走り回る犬たち。のんびりと昼寝をしている猫たち。

かわいいね、のどかだね、いいね、と見ていました。

そんな中、こ、こ、こ、これは?…というカレンダーが目につきました。表紙には「ワル猫カレンダーMOOK 2025 まっすぐ前を向いていこう」と書いてある。そしてその表紙の猫は、眼光のするどい、意志力ありそーーな猫でした。じっと見ていると「喧嘩売ってのか、おい」と言われているような気になります。可愛いーーという対象ではない。

しかし、しっかりとこちらを見据えるその姿には神々しささえ感じます。人間になんか媚ない。来るなら来い、と挑戦的。

これ、きっとノラ猫だよね、このクール感をかもしだすこの猫は飼い猫ではありえない、と勝手に思いましたが、もしかしたら飼い猫?かも。飼い猫だったら、家族は彼のしもべだな。

サンプル品があったので私のお誕生月の5月を見てみたら‥‥もっとワル猫だった。ふてぶてしさと、威圧感さえある猫がそこにはいました。いわゆる不細工で可愛いでもない。そしてそこに書かれていたワル猫語録は「都合の悪いことから目を背けるな。」だって。「全てわかってんだよ、何、やってんだよ、おまえ」と言われているようでした。

でも、何か魅かれる彼ら。なんなんでしょうか。我が道をゆく、というところなのでしょうか。そうなんだろうな、きっと。

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