ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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パターンの特徴
2024/07/27

パターンは、自分の思い込みを信じています。そこに何も疑問を持つことなく、信じ切っています。ですから、それに対しての他の選択は「ない」と思っています。その思い込み自体が天のルールから離れているため、そのパターンから出てくる感情・感覚は苦しみや、憂鬱や、焦りや、不安や、怖さ…など多くのネガティブなものとなります。原因と結果です。

パターンはそれが苦しいのでより自分の信じていることを押し通そうとします。又は、いかに自分の望むものを手にいれるか、画策します。そのやり方しか知らないから仕方がないんです。

そして、パターンの特徴として、とにかくすぐに反応するということ。誰かが言った言葉に、行動に、自分の周りで起こる全てのものごとに、考える時間なく、反応します。反応の仕方も慣れたものなのでとにかく早い。そしてそれが正しいと信じ切っている。

これを変えていくのが「私」なのですが、そのためには、そういうパターンたちを納得させるのではなく、彼らの特徴や性格を熟知した上で、彼らはそのままにしておきつつ「私」が新なものを選んでいくということになります。「私」が選んでいくものはパターンたちと同じ領域にあるものではないので、それにより問題解決にも自然と繋がっていくということになります。

今世はこの一回きりです。「私」が選び続ける人生を生きるか、パターンの反応に従って生きるか、そこも自分で好きな方を選んでいいようにできています。ただ、あちらへかえったときに「今回もやらなかった」と後悔することになるんじゃないだろうかと思うのですが。

生きている間にできるだけ後悔しない生き方をしようと言われますが、死んだあとも、それは続くのだと思います。魂は死なないから。

防災無線放送
2024/07/26

暑い、暑いと言いながらも、今年は熱中症になることなく今のところ来られています。毎年、何回かプチ熱中症になっていたので、大変ありがたいです。

今年は何故?というと…あのお助け柑橘ジュース。そしてレモンやシークワーサー、梅干しなどがとても美味しく感じられていてよく食しているからじゃないかと思います。

詳しいことはわかりませんが、美味しく感じられるものって身体がバランスをとるために欲しているのだろうと思う。しかし、あくまでもバランスをとるためなので、美味しいからと食べ過ぎてしまうのはよくないので抑え気味にしてはいます。

それから、気付いたことが。茅ヶ崎市ではここの所、毎日のように、防災無線放送が流れます。内容は熱中症への注意喚起です。水分を補給する、必要以上に外に出ない、などなど言っています(実際は、響いてしまって聞きとりにくいんですが)。

もちろんご高齢の方や現在体調が良くない方や小さな子供などには注意は必要だと思うのですが、毎日、毎日、この放送で、過度に注意しすぎになってしまう気もしました。放送って、独特なネガティブな雰囲気を持っています。人はネガティブなほうへいきやすいため、特に不調ではない人も怖い熱中症にならないことに気を使い過ぎてしまうようにも思いました。

この酷暑でも、自分なりに、自分のやり方で元気にいられるといいと思います。この、短い夏を、暑い、暑いと言いながら楽しもう、というのもいいと思うんです。

日本には四季があり、日本に生まれたということはそれぞれの季節をそれなりに過ごせる身体を持っているということだと思います。個体により、得意な季節と苦手な季節はありながらも、まあまあ、過ごせるようにできています。だから、あまりに過敏にならないように、自分のいいあんばいで過ごしていきたいです。

タイムパフォーマンス
2024/07/25

「タイパ/タムパ…って何?」…タイムパフォーマンスの略だそうで「費やした時間に対する満足度を表す言葉です。費用対効果を指すコスパ(コストパフォーマンス)の時間版となります。時間あたりの密度を高めタイムパフォーマンス(タイパ、タムパと略す場合もあるが同じ意味)を重視する価値観は、Z世代と言われる若者を中心に広がっています。映画や動画などを倍速で視聴する人が増加しており、人々はますますタイパを求めるようになってきています。」(caroa用語集)

そうなのか…。私としては、映画や動画を倍速で?それは無いだろう…から始まり、色々と言いたくなりますが、これもまた自分のパターンなんだと思いました。このことに少しではありますが、違和感や不快感や抵抗感などがわいてくるからです。

これらを生み出しているパターンは? ●タイパには深さがない、あさはかだ、というものだと思う。パターンは深さがあることが良いことと思っているのだと思います。

しかし、これは自分の世界のこと。現実として、それはあり、若い人たちの間では、できるだけ効率的に多くのものを得ようとする傾向にあり、今後それは増々そうなっていく可能性もある。そこに、価値を感じているからです。

じゃあ、パターンは置いといて、私のこれに対する哲学は?と言えば、私は「費やした(又は努力した)時間に対する満足度」…というところでの価値観は今の自分にはない。しかし、使い方によっては便利なものかもしれない、使えそうな部分には使ってみてもいいかも、と思います。これが正解なのではなくて、私はそう思っているということです。

ここには感情が一切出てこないので、この、哲学としてという捉え方をしていくことですっきり整理されます。

そして、タイパ重視の人達が、そうではないという人達を攻撃しないように。そしてそうではないという人達がタイパ重視の人達を攻撃しないように。そのためには、それぞれの哲学というところでお互いに理解できるといいです。

人の数だけ宇宙があると言われていますが、そういうことです。ただ、自分の宇宙が正しいのではなくて、自分が選んだものが浮かび上がっているというだけです(良くも悪くも)

この文章が全て
2024/07/24

今、読み返している本より。

「人間は本来、愛情深く、受容的でゆるしに満ちたものです。私たちは愛を与え、または受けるように創られています。私たちは愛を与えているとき、あるいは受けているときに肉体も、情緒的にも、精神的にも、又は霊的にも最高の状態にあると言えます。つまり本来、機能するべきやりかたで機能しているからですが、これこそ私たちの自然の状態なのです。」(無条件の愛とゆるし E・R・スタウファー著)

この文章が全てなんだと思います。

天のルールとはそういうもの、そして、そのルールの中で生きるように創られている人間。だからそのように生きれば肉体的にも情緒的にも、精神的にも、霊的にも本来の在り方でいられるのでスムーズに生きられる。自分の心に天国を創れ、です。

そして、その土台になるものは「愛」だと説いています。本当にそのとおりだと思います。「愛」にまつわる体験をしていくことが勧められています。

頭では理解できる。そしてそうありたいと願う。では、どうしていくのか。私は自分で自分を愛することが最初ではないかと思います。そのために自分の内のパターンのことを愛する作業をしていきます。ここでの練習により自分を愛するということから、愛する感覚を身を持って体験します。

その体験は消えることなく、次のステップへ自分を導いてくれます。それは天を信頼するということです。自分で意識的に行うワークを通して、何か自分を支えてくれているものの存在を感じられるようになっていくと思います。「感じる」というよりも「そこのカラクリがわかる」というものかもしれません。こうなっていたのか、こうであったのか、とわかっていく。それが積み重なることで、信じざるを得ないという心に変化していきます。

そこへの信頼と感謝。根拠はないけれど信じることの強さが増していきます。そのときには自分はひとりではないという事にも気づく。そのときに心底ほっとする。

天はどんな生き方を自分に望んでいるのか、その意思もわかるようになります。こうしながら少しずつ自然に、本来の自分に向かうのだと思いました。向かうというよりも与えられるのだと思います。

そういうものなのだ
2024/07/23

人は絶対的なものが欲しいと思います。

これを持っていれば絶対大丈夫。ここに住んでいれば絶対大丈夫。この人についていけば絶体大丈夫。これがあれば、これを用意すれば絶対大丈夫。と思います。そうやってこれがあれば絶対大丈夫というものを見つけようとします。

これは自分の外側にあるものでもあるし、自分の内側にあるものでもあります。正しく生きていれば絶対大丈夫。神を信じていれば絶対大丈夫。「私」で生きれば絶対大丈夫。自分を成長させる努力をしていれば絶対大丈夫。宇宙のルールに乗っていれば絶対大丈夫というものです。

このときの大丈夫は、危険なことや死、もっと身近なネガティブなものごとから守られる、守ってもらえる、自分はこれでそういう目には合わない、というものです。

これを求めて多くの人は彷徨ってしまうのだと思います。もちろん、この時代、災害に備えて必要なものを用意することは大事ですが、そこを肥大化させてしまうのは恐怖と不安からきています。それにより、振り回され、落ち着かず、時には騙され、時には危ない道へ入っていってしまうこともあるし、心身を病むこともあります。そして、何より自分の人生を守ることだけのために使ってしまうようになります。これ、もったいないよーーー。

まず…絶対大丈夫なものはありません。どんなに正しく生きていても、又は、何かのときのためにあらゆる物を用意していても、絶対に大丈夫ということはありません。そこにはひとりひとりの過去世からの歴史、課題が関わっていたり、運や、そのときの状況やタイミングなど複雑にあります。

人は大変な目にあうときはあいます。そして死ぬときは死にます。このことが自分の中で普通になると、心には安心感が広がります。心に安心感があれば、絶対大丈夫を求めなくなります。これは不思議なことです。しかし、このよき感覚はそれでよい、ということだと感じます。そういうものなのだ、という視点。これもまた持っているといい視点だと思います。

身体の語彙を増やす
2024/07/22

昨日の「クラシック音楽館」という番組内で、NHK首席指揮者のファビオ・ルイージさんが、東京藝術大学の指揮科の学生4人に指揮を直接教えるというのを見ました。

ファビオ・ルイージさんは65歳。イタリアの方で、40年にもわたり指揮者として活躍されてきた方です。ご自分の経験を日本の若者に伝えたいということからこのクラス(6時間)が行われたのだそうです。

藝大の指揮科の中から選ばれた4人(女性1人、男性3人)。きっと将来はそれぞれが指揮者になることを願って、日々練習に励んでいるのだと思います。私は指揮法は知りませんが、きっと、それぞれが自分の指揮ができている4人なのだと思います。

彼らの指揮を見ていて(指揮を知らない私が言うのも何ですが…)印象として、真面目さが前面に出ていて、一生懸命で好感が持てるものの、何かがプラスされれば、または何かをマイナスすればそれはもっとよくなるのだろうと感じました。緊張ももちろんあったと思います。

で、ファビオ先生。こちらも印象としてですが、とにかく身体を使うことで(身体の語彙を増やすのだそう)そこでの必要なことを教えていらした。直接、指揮をしている学生の背後からその学生の両腕を持ってファビオ先生が指揮をします。学生はその通りに動かされる。こうして、その感覚を身を持って教えている場面がとても印象的でした(次からは一人でやるんですよ…とファビオ先生は笑いながら言っていた)

又「君はこの部分をどのように演奏したいのか?それをどうやってオーケストラに伝えるのか?」と聞く場面や「どうしてホルンの彼女を見ないのか、今ホルンが大切な部分を演奏しているのに。次はオーボエの人を見る。オーボエの人が大事な旋律を奏でるのだから」と言って、指揮者はただ、拍を降り続けることと曲を表現することだけではなく、オーケストラのメンバーひとりひとりとのコミュニケーションをとることが何より大事であることを教えていました。

結局、人と人との関係性がそのときの演奏に全て反映されていくのだと思いました。素晴らしく感動する曲とはそこがあるからなのかもしれません。そして、それは技術で行われていることだけではなく、指揮者のマインドに関わってくる。

こう考えると、これは全ての対人関係においても言えるのかもしれないです。自分がどんなふうにして他人を見ていて、接しているのか、それが自然に浮かび上がってくるのが自分の人間関係なのかも。ここは豊かでありたいと思います。

推進力
2024/07/21

黒パターンの領域で起きている黒パターンがらみの悩み、問題。それを解決するには何度も書いていますが、アインシュタインのあの言葉です。同じ領域では解決できないんです。

今、読み返している「無条件の愛とゆるし」(E・R・スタウファー著)の中にもこのことが以下のように書かれていました。「つまり、問題は、それが生じたレベルでは決して解決され得ないものです。解決するなり、癒すなりするためには、より上位のレベルまで持っていかなくてはなりません。」

今問題が起きている領域よりも上の領域にある知恵という力強さにこそ解決できるものごとがあります。道場的にはそれは白パターンの領域です。で、白パターンを選んだときに、感じる、黒パターンの領域にはなかった感情・感覚。これこそが解決のカギになっています。白パターンの部屋に入って感じるもの。広がりがあり、勇気が湧き、挑みたいという気持ちになり、安定感があり、安心感があり、希望がある、など色々あると思います。

それは今までのように思考で理解しているのではなくてダイレクトに感覚として「私」が察知しているものです。まず、ここが今までとは違います。

そして、そこから「私」が具体的な行動を考えます。そう見てみると、白パターンの部屋にあるものは、現実的な行動に結びつける推進力です。推進力って、黒パターンの領域にはありません(黒パターンの領域は保身力です)

推進力は健全な元気を生み出すのだと思います。

白の部屋が持つ、推進力。白の部屋にある、癒しの部分だけではなく、この、推進力も同時にあることを感じてみてください。同時にある‥何か一つを選んでも他のものも同時にあるということ。ここもまた白パターンの部屋の特徴です。

生き様
2024/07/18

大相撲夏場所が始まり、ご機嫌な私(本当に単純だと自分でも思う)

前回優勝した力士は今回も勝ち進んでいく、というわけにはいかず。周りの期待が大きいだけにプレッシャーもあるだろうと思います…が…きっとそういう事も全て置いといて、その日の取り組みだけに集中して毎日とっているのだと思います。それはきっとどの力士もそうだと。

ずっと勝てずに心が折れそうになっても、もう、無理と思ったとしても、体調がいまいちでも、それでも今日はこのいちばんに集中しようと自分の気持ちをそこに持っていくのだろう…と相撲をとったことのない私ではありますが、思いました。

力士は強い人たちだからそうできるのではありません。このようなことを繰り返して、強い力士になっていくんです。

この、自分の気持ちをそこにもっていく、ということ、これは大相撲だけのことではなく、誰でも、どこででも、使えるといい。

落ちている気持ちをそのままにせず、自分の本来のありたい姿のところに自分で(←ここが大切)持っていく。この作業の積み重ねでその人の「生き様」が生まれるのだろうと思います。何ができるからすごい、とか、偉いとかではなく、この落ちている時の心を自分が望む在り方のところへ自分でもっていくこと、そのことに人としての価値があります。

そして、それがその人の「生き様」となり、それに対して人は感動したり、共感したり、励まされたり、教えられたり、勇気を与えらえたりするのです。「生き様だろ」…と自分に言い聞かせて、今日も洗濯物をたたみながら大相撲を見ます。

黒パターンに育ててもらっている
2024/07/17

「パターンにひっかからなくなることを目指しているのではなく、ひっかかるパターンと一緒に生きることを目指しています。」という昨日の日記。

こうしながら、ネガティブなものに慣れていくということにもなります。「ひっかかる」と言うときにはだいたい黒パターンのことであり、そこにはネガティブな感情、感覚が伴っています。ほとんどの人はこのネガティブな感情、感覚が嫌いで、苦手で、それに飲み込まれることで悩みになります。

でも、そもそも存在している黒パターン。彼らをなくすことはできませんし、なくしてはいけない彼らです。「私」を育ててくれているのは彼らでもあります。だから、そんな黒パターンと一緒に生きていかれる「私」になろうということです。

これを自分のものにしていくうちに、ネガティブなものごとへの耐性や、それへの新な面に気づくことや、起きていることへの新な意味づけなどで、それへの決めつけが、ゆるんでいきます(この時点で、身体もゆるむ気がします。連動するのかも)

ゆるんでいく黒パターン、そしてゆるめている「私」により、以前ほどネガティブを特別視することも消えていき、気が付いたら「この程度であれば一緒に生きられる、いや、一緒にいてあげたい」という気持ちがわいてくる。黒パターンってそういう役目ももっているものです。

そんな気持ちにさせる彼ら。これはまさに無差別を知ることのきっかけにもなってくれていて、そこへの思いは「愛」そのものです。だとすると黒パターンが「私」に愛を教えてくれているとも言えます。人の成長はネガティブにあり。いずれ、ネガティブって何?というところへいくのだろうと思います。

ひっかかる
2024/07/16

パターンにひっかからなくなることを目指しているのではなく、ひっかかるパターンと一緒に生きることを目指しています。

だから語りかけで「あなたはあなたのままそのままでいい」と言っています。自分の内にあるもので何ひとつ、いらないものはない。全てが一緒に生きている。

だからパターンがひっかかっても、それでいいんです。それは自然なことだからです。そのことが腑に落ちてわかると、目から鱗。そして、何より心身は解放されます。解放、自由になるとはこういうことなのかと感動すると思います。

なかなかそこが頭ではわかっていても腑に落ちないのは、パターンを嫌うパターンがひっかかるからです。何かに、ひとつのパターンがひっかかったときに、同時に動く「ひっかかった」事を嫌うパターンです。

「こんなに長く学んでいるのに」「こんなに語りかけしているのに」「こんなに頑張っているのに」「まだ、こんななのか」「成長していない」「変わっていない」「もっとこんなふうになるはずだったのに」などなどそのパターンは言います。それは「私」が言っているのではないですよ。黒パターンです。このパターンにとって、学ぶということはそうなることだと信じています。

ですからそれにも語りかけをします。そのパターンはきっと昨日書いた「理想の自分」を思い描いているのでしょう。理想の自分はパターンにひっかかることがないと思っている。しかし、それはパターンのいる領域での信念であり、それはとても狭い世界の決めつけなのです。狭い世界では他の選択がなく、従って苦しくなります。おまけにそれは幻だし。

それが違うものだったということが分かり出すと、いつ、どこでも、何回でもパターンがひっかかっても、その都度の対応を「私」がするようになります。対応できれば、ひっかかっていてもいいわけで。

従って、やはり「私」を育てていくことです。自分という人間の持っているもの全てにOKを出せるようになる。これはひいては無差別というところにもつながっていきます。自分が頑張っているその方向性を確認して、もし、違うものを目指していたのなら、軌道修正をしていくことになります。

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