ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ

強み
2025/06/24

お世話になっている整体の先生が遺伝について話を聞かせてくれることがあります。

長い長い先祖の歴史(肉体的、性格的歴史)の中に今回生まれてきた私たちです。そこには遺伝が関与していて、遺伝にはたくさんの要素があるそうです。中にはやっかいなものもあるし、手間をかけないと生活できないような遺伝もあるようです。

でも、いつも先生がおっしゃるには「良くないことは、良いこともある。陰陽です」ということです。いわゆるやっかいな、面倒な自分の遺伝的個性。自分でも、嫌だなこれ、何で自分だけ、と思っていても、そこには、それの「強み」があるということです。強みは、ただ、強さなのではなく、才能であったり、特出しているものであったり、魅力であったり、だろうと私は思いました。

この話はいつも腑に落ちます。まさに黒パターンの横にはいつも白パターンがセットであり…という状態と同じと思えるからです。そして、その心の状態はまさに天が人に与えてくれた恩恵であると思うんです。誰でもがまずは黒パターンで生きるのですが、そこにはすでに白パターンが用意されていることに私たちがどれだけ大事に愛されて生かされてきたかを感じます。

で、遺伝の前に。そもそも、何故、この時代に、この国に、この両親の元に、生まれてきたのか?というところがある。もし、違う両親の元であればまた違った遺伝を獲得していると思うし、それにより体験も全く違うものになると思います。でも、この両親の元に来た。それは、ここに来ることが必要だったからだろうと思いました。

無駄は何もない。間違いも何もない。おまけに嫌だな自分のこういうところ、やっかいだな、面倒だなという遺伝として有無を言わさずに与えられてしまったものにも、逆に強みがあり、私たちはそれに変えていくこともできる…と施術を受けながら思いました。

チェロの音色に‥
2025/06/23

昨日は、NHK交響楽団の12人のチェロリストによるコンサートを聞きにいってきました。

会場はおなじみ、茅ヶ崎市民文化会館。カラスに攻撃された公園の向かいです(現場を横目で見ながら)。

1月から不調続きであったときに、動画で見た(というか、聞いた)Jodok Cello(ヨドク・チェロ  スイスのチェロリスト。街中で、大自然の中で(この時はほぼ素足)ジャンルを問わず楽しそうに演奏する)さんの演奏するチェロの音と、彼の様子に、そのときの心が和んでいくのがわかりました。

チェロの音ってこんなにも優しいものだったんだと思いました。弦楽器っていいなあと思う。今まで一度もさわったことのない楽器ですが(よく考えたら全部そうか)機会があれば弦楽器はやってみたい。そういうことがあり、今回、12人のチェロリストの演奏を聞いてみたいと思いました。

曲は初めて聞くものばかりでした。12人のチェロの音には厚みがあり、その厚みはあたたかく、優しく、心身をくるんでくれるようでした。自然と安心感がわきます。

で、聞いているうちに、オーケストラは皆が黒い服を着ている…ということに思いが飛んで…。これ、なんでだろうと。包容力のある音に包まれながら、そのことを考えた。

で、黒い服を着て、黒子に徹する、ということが浮かびました。作曲家のその曲への意図を、演奏者は自分を消して表現するためなのかも、と思いました。黒は自分を消す色かも。目の前の演奏家12人が自分の好きな服をそれぞれが着て舞台に上がり、バッハの曲を演奏したら?それはそれでおもしろいという見方があると思いますが、黒い服のほうが、バッハの思いが表現されやすい気がします。最優先されるもののために色を単一化しておくという感じでしょうか。演奏者同士も、その単一化があることで、意志疎通がしやすい、とか。

又、観客も、黒い服(プラス男性はシャツの白も)という視覚的情報の少なさによって曲に心を寄せられるのかもしれません。

アンコール曲はバッハの「G線上のアリア」でした。それはそれは美しく…を心身に感じながらも映画「セブン」の図書館での場面で流れていたこの曲の事を思い出し…。その図書館のたくさんある机の上に置かれていた緑色のライトの緑色を思い出し…。樹々の緑色にも心和ませてもらってきたということを思い出し、でも、そこでカラスに襲われたことも思い出し、と、思考しながらのコンサートとなりました。

なんだか、頭自体を解放してあげていた気がします。それも、ものすごく贅沢なBGMの中で。良い時間を過ごすことができました。

白パターン
2025/06/21

何故、白パターンを選ぶのか?

白パターンは正しいから…ではないです。今までの(今の)自分の状態が黒パターン側に偏っているからです。その偏りに縛られて、それが当然と思っている、だから仕方ないと決めていることで現れている現実を変えていくためです。それは黒パターンが動機になっているので、すっきりとした感情でいることができません。黒パターンの感情はそういうものだから。

その(極度な)偏りに在り続けている自分という意識を動かしていくために、黒パターンの反対側にある白パターンを選ぶということをやっています。今まででは選ぶということすらなかったかもしれません(気づいてはいても)。しかし、学んでいくうちに選ぶことが自分にできるということが理解できます。その体験の現われ自体が白パターンを選ぶということです。

そこには勇気がいる。怖いかもしれない。やってみたけれどうまくいかないかもしれない。継続しなくてはいけない。強い意志を持って。と、大変…と思うかもしれません。しかし、この、大変と思っているのも黒パターンで「私」はやりたいのです。今世こそは!

そうやりながら、今までは黒パターンでは体験できなかったことを体験していく。それは、やはり気分のいいものです。ということは、それが今の自分の真実であり、それをやりなさいと言われているということです。そうやって、バランスをとっていきなさいということだと思います。

そして、それはゴールではなく、そのあとも新な展開がやってきます。

というように、白パターンを選ぶということは、とても深い意味があるんです。これがあって、新な展開、新な気づきが与えられます。そうなってくると、ますますおもしろいと思います(興味のある方にとっては…ですが)。白パターンを選ぶことは、その後ろにはあるものが控えているということを時々思い出してみると、いいと思います。

カラス
2025/06/19

先日、中央公園を散歩していたときのこと。

公園入口から入り、ぐるっと一周して、公園出口の所で、今まで見たこともないような大木を見つけました。大木の幹、枝にきれいな緑色の葉がたくさん茂っていて、こんな木は見た事ないと思い、側に近寄ってよーーーく見てみたら、大木に寄生している植物の葉が幹にも枝にもからみついていました。

見上げるとそれは木のてっぺんまで続いていて、寄生植物の生命力の強さに感心していると、急にカラスが「かあーーかあーーかあーーー」と鳴きはじめました。数羽のカラスが一斉に。その声はこの木の上から聞こえてくる。その声が段々と大きくなり「があ〜があ〜があ〜〜」に変わりました。

何事?と思ったのですが、もしかして…私?と気付く。そういえばさっき見上げたときにカラスの巣が見えた。これは‥‥カラスが怒っているということ?まずいぞ、と、くるりと後ろを向き、早足でその場を離れました。

公園を出て、あーー、びっくりしたと思いながら歩いていたら、音もなく後ろから飛んできたカラスにガツ〜ンと頭を蹴られた。「痛!」と言うと同時に私の頭の上を大きなカラスが飛んでいきました。そのカラスの他にも数羽のカラスがあちこちにとまってこちらを見て「があ〜があ〜」と鳴いている。

蹴られた頭部はジンジンして痛い。とりあえず、公園の向かいにあるショッピングセンターに入り、蹴られた部分を確認しました。突かれたのではないので、ケガをしていることはなかったでしたが、怖かったです(ヒッチコックの映画の「鳥」を思い出しました)。

家に帰ってきてからカラスの習性について調べてみたら「カラスが昼に鳴く理由としては、コミュニケーションのほか、外敵の接近というのが大きな割合を占めることが多いです。とくに4〜7月の繁殖期は気性が荒くなり、縄張りに近づいた外敵に対して威嚇や攻撃をするときに大きな声で鳴くということが多くなります。」(生活110番より)とありました。

彼らの縄張りにずかずかと入っていき、おまけに木の上の巣にも目を向け、彼らとしてはまずは警戒して鳴き、威嚇して鳴き、それでもそこにいる私をいよいよ攻撃した、ということだったのでしょう(ごめんね…カラス)

又、カラスは外敵である人の顔を覚えていて(頭いいんだな)また攻撃されるかもしれないので、しばらくは、攻撃された場所には行かないほうがいいともありました。繁殖期が済んでしまえば攻撃することもないのだそうです。というわけでしばらくは中央公園は出禁となりました。

皆さんもこの時期は、どうぞ気を付けてください。カラスがいそうな木は見上げないほうがいいようです。私は、来年このことを忘れ、また同じことをしそうなので特に注意だ。

思考について
2025/06/17

熟考は私も好きで、時々やりますが、1回を短い時間にしています。というのも、集中して考えても、わからないものはわからないからです。ずーーーと集中し続けてわかればいいけれど、わからないんです。この、あいまいなままいることがほとんどの人は苦手です。

でも、そういうものだと思っています。自発的に考えることは大事だし、好きだけど、それへの気付きとか、それへのその時の答えとかは自分で導きだしているのではなく、あちらから与えられていると実感しているからです。そして、それは最終的な答えが与えられているのではなく、次に続くものでもあることがわかります。その人に今、あったものが与えられています。

そして、もうひとつ思っているのは、人は万能ではないということです。なんでも自分で考えればわかる、解明できると思っている人が多いことに驚きます。それは自己探求においても、行きつくことができると思っているかも。しかし、それは無理でしょう。あちらへ帰ってからもわからないでしょう。それが人なんです。

現在、宇宙について解明されているのはごくわずかであり、それはあらゆるものがそうだろうと思います。それでも私たちは生きている。わからないことがあっても生きています。生かしてもらっている。

ですから、自分でわかろうとする追い詰める思考、決定付ける思考、本当の所を知りたがる思考をしないということです。そうしているのは、黒パターンです。そうであると、思考することを深刻にしていきます。とにかく答えまで出す、というような。これは、何かについて納得したがっているパターンです(今の状況を不安定に感じているから)本当の所がわかれば安心できると思っている。でも、本当のところもない…続きがあるからです。しかし、パターンはこのことは知らないので、自分でわかることができると思って思考します。おちつきどころを探したり、自分の意見に近いものをさがしたりしながら。でも、パターンなんです。

ここで必要なのも、そのパターンがあるということを認め、それへ語りかけをするということです。誰が、そうしたがるのか、しているのか、を見極めていくことです。何故?とパターンに聞いてみてください。きっと思いを言うと思います。

思考はごくごく自然に行われがちですが、ここに思考の罠があります。思考にこそ、誰が?という目で見ていく必要があります。

きれいな丸になる
2025/06/16

黒パターンの領域を抜けて、白パターンの領域で生き始めて、少しずつそこの住人になっていく。そして、その領域から「私」の領域へ…と移行していく私たち(と私は思っている)なんですが。

この「私」の領域って?何?と思うかもしれません。白パターンより上なんだからそれはそれは天国のような、やすらぎに満ちた世界だろうと思うかもしれません。そういう世界が用意されている、すでにある、そんなイメージがあるかもしれません。

しかし、そういう世界が在る、用意されているのではなく、白パターンの領域でも少しずつ体験しているように、そこで自分のその世界を創造し続けるということです。そこにそれを創るということです。「私」であることがいやすい世界を自ら創っているということだと思います。

だから、そこを目指すんだ、と、イメージ付けてしまったり、期待をしないということです。そうなると、そこに執着していく。「私」として生きる、「私」としてあろうということが目標になってしまいます。

えっ?…それが目標なんじゃないの?と思うかも。しかし、先ほど書いたように、そういうところが在る、用意されてはいないので、もともと、目標となるものはないんです。

しかし、「私」を知ることはできるんです。

例えばある黒パターンにひっかかって、それに飲み込まれ、翻弄され続けているときに思います。「ああ「私」よりもパターンのほうが勝っているのか。ということは、このパターンについては「私」を十分に機能させていないのか」。ここで今の「私」の(そのパターンへの)力量がわかります。又は、ある黒パターンにおいては、それをケアできていて、白も選べていい感じでいる。そんなときには「そうか、このパターンについては「私」が機能していて、なおかつ、白も選べていて、いい感じでいけているな」と、今の「私」の(そのパターンへの)力量がわかる。このそれぞれの時の「私」の様子、成長度、「私」は愛のかたまりなので、愛度を総合したものを知ることができます。こうして今の「私」を知ることができます。その瞬間には「私」としているし、「私」として生きていると言えます。もっと言ってしまえば「私」の領域にいる(それを創っている)とも言えます。

こうして、日々の中で「私」を見ること、感じることができます。そもそも「私」はあるがままにです。「私」の成長についてもそうです。今の「私」をあるがままに見て、その成長度も見て、今の「私」を知る。それでいいんです。そして、またやるべきことをやる。その連続で確かに「私」に力がついてきているわけですから。

この学びにおいては、どこかを目指そうとしなくていい。今のままでいい、でも、やるべきことをやる。この、目指さない、目標をもたないという在り方(やり方)は今までにはないものですが、それが身について、それが自然になったときに、今までの(←これも大事)在り方、やり方、と、この新しいもので、きれいな丸になるのです。そして、その真ん中にいつもいればいい。

やばい
2025/06/15

「やばい」という言葉。

今や、年代、性別、関係なく誰でもが普通に使っている言葉です。この言葉を使わない人のほうが珍しいくらいに、今やあらゆる場面に登場します。

前回の茅ヶ崎クラスで「やばい」の話をしたと思う。私はこの言葉の使い方に、ちょっとした危機感を感じているということを。

どんな危機感かというと「やばい」は何に対しても使えてしまう言葉なので(語源はそうではなかったようです)その人の真意がどこまで伝わっているのだろうかと思うからです。酷いことがあると「やばい」。嬉しいことがあると「やばい」。美味しい物を食べたときに「やばい」。まずいものを食べたときに「やばい」。うまくいっていても、いっていなくても「やばい」というように、便利に使えます。

お互いにその雰囲気が分かり合えばいいし、わかりあっているからいいよね、というものなんでしょうが、この言葉でやりとりをしていくと、お互いにそれぞれが抱いている微妙な気持ちや感覚、思考を表現していこうとしなくなるだろうと思うのです。なんせ便利だから。

特に若い人達にそう思う。だとしたら大人である私たちが「やばい」と言っている若い人に「やばいって?どういう風にやばいの?」と聞いていくことが必要になるのかもしれないと思います。聞かれれば人は考えますから。そして、自分を知り、それを伝えようとする。

で「生と死の哲学者」岩崎 大さんが、このことについてわかりやすく話していました。以下です。

『すごい、やばい、えもい、は使い勝手がよすぎる一方でそれを言った時点で満足して思考がとまっちゃうんですよね。そうではなく物事の機微をきちんと表現できる語彙力っていうのが知性のひとつの表れなんだと思います。』このコメントは知性を感じる人(頭がよいと思われる人)とは?…というところへのコメントだったのですが、私はこれを読んで「思考がとまっちゃう」という表現がわかりやすかった。起きていることってまさにそうだと思ったんです。

思考しなくてもいいから「楽」という「やばい」。知性とか頭が良いとかは置いておいて、より楽に、というところへ全てが進んでいってしまっている気がします。自分の言葉で自分の今を伝えようとする姿勢やそれをできるだけちゃんと受け取ろうとする姿勢には、エネルギーも時間も練習もいります。そういうことが段々省かれていっているように感じます。

しかし「やばいって言っちゃいけないのか」ではないんです。ここも楽に思考しないで、自分にとってそれはどうなのかと思考することが必要だと思います。その言葉の後ろにあるもの、そして、その言葉でやり取りしている後ろにあるもの、それについて自分はどう考えるか…です。

そうやって面倒くさそうに思えるものごとに魅かれ続けている私。

自覚すること
2025/06/14

岩手クラスでも話したのですが‥‥。

自分の成長、とか、自分の努力で獲得してきた力に自覚的であってください。わからなかったこのことが今は実感できる。できずにいたこと、ずっと逃げていたことが少しずつできるようになってきている。怖がらずに挑戦してみることが少しずつ自然になってきている。自分ではどうにもできないことに対して以前ほど慌てなくなってきている。他人の痛みが感じられるようになってきている。などなどなど。その人によってあると思うんです。これは自分の努力の賜物です。そして、それはお金で買うことができないものであり、消えるものでもありません。それらはこれからも質をあげていきます。

そういうことに対して自覚的であるといいです。それは決して傲慢とか、浮かれているとか、威張っているとか、優越感につながるとか、という類のいる領域の話ではなく、ゆがみなく現実を知る、今の自分を知る、というとても大事なことなんです。

自覚しているから、また次に進めるわけです。この自覚があるから、もっと現実的に、ゆがみなく、偏ってしまっているところが見えてくる。それは、まだこれができていない、ではなく、ここのバランスが悪いというものです。

人は、できていないところに目がいきがちですが、できたところにも目を向けることでここのバランスはとれていきます。で、そこが深まれば、できている、できていない、という事ではなかったんだという事にも気づくかもしれません。

そうなんです。できている、できていない、で、人って構成されているのではなく、バランスがとれているか、バランスがとれていないか、という、今の自分が現れている(だけの)存在です。そこを自分なりのバランスのよさ(それは心身、生き方、仕事、生活、好きなことなど全て)を自分で再構築していけばいい(だけ)のだと思います。

その時に必要なのが自分の努力で得てきた力です。それはきっとアンバランスな部分を補い、自分を少しまるくしてくれていると思います(時々、こうして自分を俯瞰して見てみよう)ですから、自覚することを大事にしてください。

憧れている世界
2025/06/13

「わんこそば」にひとり参加していた女性に感動した私でしたが、今回は、もうひとつ、印象的なことがありました。

それはセミナー後、皆でエレベーターに乗って7階から1階に向かうときのこと。そこに2人の女子高校生が乗ってきました。この日は館内に高校生がたくさんいて。何かイベントがあったのでしょうか。

乗ってきた2人は上下ジャージで可愛い。そしてエレベーターの扉(外が見える)が閉まったときに、その乗ってきた女子のひとりを、扉越しに夢見るような目でみつめていた男子がひとり見えました。それはほんの一瞬。エレベーターは彼を残して降りていきました。

ちょうど扉のところに私はいたので、その男子とその男子に見つめられていた女子を同時に見ることとなりました(彼は、彼女と一緒に帰りたかったのかもしれない)

その男子の醸し出す、彼女のことが好き、という気持ちがあまりにストレートで、純粋で、私は思わず「ふふ」と笑ってしまいました。そして、すぐにまずかったな、と思い、男子が熱い視線を向けていた女子に「笑ってしまってごめんなさい。失礼でした」というと「違うんです、違うんです。そういうのではないんです。そういうのじゃないです」と言いました。「そうなのね」というと「そうなんです!」と言いました。その一言一言や様子が可愛らしく、高校生って、こういう可愛さがあるんだ…と思いました。

今までも高校生はたくさん見ているのに、この年代の女子(男子も)の持つ可愛らしさは独特なものだと感じました。多分ですが、1年前の私はそこまでの思いは無かったと思います。可愛い子だなあ、はあったと思いますが、そこまでで、彼らのまだ心許なく、不安定で、迷いや、夢や希望の中で生きている年代の子たちのはかなさが尊いものとして感じられました。そういう自分にちょっと驚き。

こうして一瞬のことであっても、人って自分を確認することがあるんです。そして、その体験はとても大切な気がします。こうして、私は、自分が憧れている世界にシフトしていくんだろうという思いが感じられた一瞬でした。憧れている世界…これはまたいつか話してみたいと思います。

わんこそば
2025/06/12

今回の盛岡で、私は初めて「わんこそば」を食べている人達を目の前で見ることができました。

お昼に入ったお蕎麦屋さんでのことです。目の前に7人座れるC型のテーブルがありました。そこにはやくみの用意がしてあります。

ほーーー、ここでわんこそばやるのか、と思っていたら、続々とお客さんたちがやってきました。サラリーマン風おじさん3人、大学生風男子3人、そして、残りの1席には20代とおぼしき女性が1人での参加でした(この1人で参加する女性にえらく感動しました。わんこは1人で(特に女性は)…とはなかなか勇気のいること、と思っていたので)

全員初めてなので、テーブル中央に立つお姉さんが説明&注意点を伝え、いよいよ始まりました。

「では、いきますよ。おわんを持ってください。ハイハイ、どんどん、ハイハイ、どんどん」という掛け声とともにそれぞれのおわんにお姉さんがお蕎麦を投入。大学生風の3人男子は「おわんを出し過ぎない、おわんをもっとしっかり持って」と注意され、なかなか難しいものだな…と私は注文した「にしんそば」を食べながら思う。

お蕎麦を投入するにもリズムがあるようで、そのリズムをキープするための掛け声、おわんの位置、おわんをしっかり持つということでもあるようでした。

あっという間に全員が20杯。「まだまだ、これから、ハイハイ、どんどん」とお姉さんは攻めて来る。一体何杯いくのか…そして、誰が最初に終わるのか、それを見届けたい。そのために自分のお蕎麦はできるだけゆっくり食べました。

30杯になったときに、お姉さんが女性の方に「どうですか?おなか」と聞いたら「ちょっと苦しくなってきています」と答えていましたが、まだいけそう。そしてそのあとも「ハイハイ、どんどん」は続きました。そして全員が40杯食べたとき、お姉さんから「これはかけそば約4杯分にあたります」という説明があり、かけそば約4杯って食べられないだろうに、なぜわんこだといけるのだろうか?と不思議でした。

さすがに私のお蕎麦は食べ終えていましたがもう少し見ていたいので、お茶のおかわりをいただいてねばる。これ50杯いきそうだ、と思ってふと時計を見ると、もう出なくてはいけない時間になっていた(これからクラス)「決着がつくまでわんこ見てて遅刻しました」とはさすがに言えない。

レジで会計をしたときに、お店のおじさんに「次回はわんこに挑戦してください。過去に100杯食べた方もいらっしゃいましたよ」と言われました。私は多分、あのスピードで食べたら20杯でもう終わりかも。しかし、初めて見る事ができてよかったでした。

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ

- Topics Board -