ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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人は意識そのもの
2022/07/04

外側を変えること、変わることが変化だと思っている人がほとんどです。

それも確かに変化ですが(誰にでもわかりやすい目に見える変化)しかし、変化を起こすには、まず、自分の意識を変えていくことが最優先です。

自分の意識はそのままに、外側の形だけを変化させても無理がある。又は、外側の変化をしたくても、諸々の事情によりそれができないというときもあります。そうなると、そういう人は変化をせずに我慢をしろということになってしまいますが、そういう人も変化を起こすことができます。

今、自分がおかれているところで、意識を変化させる。それは仕事場、家庭の中、など今のやるべきことをやりながら。どんなふうに自分という意識を変えていったらよいのか、それについて考えてみてください。

ここに立つということは、少なくとも誰かが、こうだから、ああだから、ではないということはわかると思います。周りを変えることではないということもわかると思います。どうしていけばスムーズに仕事ができて、日々をこなせるのか、そこには新たな視点が必要になってきます。

なぜならば、その問題と同じところにいて、その問題を変えることはできないからです(昨日も書きましたが)新な視点とは、ちょっと上の領域にあるものなのでそれを自分に使うことで、その場での意識の在り方を変えていくことになります。ちょっと上の領域にあるものが白パターンです。

そして、意識が変わるから外側が変わるので(それは自分の思い通りに周りがなるということではなくて)その機会がきたら(…と言うよりも、意識が変わるとそのチャンスはあちらから近寄ってきます)外側を変えることに邁進していけばいいです。

人は意識そのもので、全てはここから出発しています。だから自分の在り方、姿勢、やり方を変えていくということになります。これも、誰かが自分をそうしてくれるということはないので、自分でやるしかありません。

そう聞いてしまうと怖気づいてしまうかもしれませんが、自分でそうやりたくて今世も来ているので、できないということはないんです。

「私」はどうありたいのか?ということをいつも持ち、そのための変化を起こしていきたい、変わりたい、と思うときにはまず自分という意識を変えていくことに目を向けるといいです。

問題解決
2022/07/02

問題を解決するためには、その問題が起きている同じ領域では解決できない、と言うアインシュタインの言葉(この通りの言葉ではなく、このような言葉です)ですが、その通りです。

だとすると、何か問題が起きたときに問題が起きているこの領域よりも上の領域での、その問題に対しての捉え方、考え方、対処の仕方をみつけられれば問題解決できるということです。それもその通りです。

この言葉の意味をよーーーーく考えてみてください。何をいわんとしているのか?。上の領域での捉え方?考え方?対処の仕方?って?・・・・・・。

ここで中立ワーク登場です。「問題」を中立に立てて、まずは(きっと)マイナスの意味づけから出すことになると思います。それを出したら、プラスの意味づけです。中立に立っているのが「問題」なので、なかなかプラスの意味づけって考えにくいかもしれませんが、そこは頑張って出してみます。

「問題」のプラス意味づけ。自分のパターンを知ることができる、自分の成長につながる、自分の可能性を試せる、伸ばせる、自分の強さの確認、同じ問題を持つ人の気持ちに寄り添える、などなど出るかも。

そして、次にその上の領域の意味づけですが、例えば、人生(天、宇宙)が私に求めていること、引き受けられる自分の存在への誇り、刈り入れのとき、塞翁が馬、黒が満ちているとき(こうして白に流れる)、宇宙的ルールの確認、受け入れ、諦め、手放す体験、などなどがあるかも。

こうしてみてみると、ここから受ける印象があると思うのですが、最初に出したプラスの意味づけよりも、より、宇宙的です。起きている問題の捉え方というよりは、精神性の広がりのところに着目しています。天や宇宙のルールがここでは参入してきています。

前の意味づけよりもあいまいであり、抽象的であり、じゃあ具体的に何?と言いたいところかもしれません…が…根拠なく広がる感じや、解き放たれていく感覚、美しい在り方、体験していないけれどいいな、これ、という感じなど感じられるのではないかと思います(領域は上にいくほど抽象的になります)ということは、それは今のあなたにとっての真理だということです。

この視点を持つことで問題は解決していきます。と言っても、いわゆる問題がなくなるということではありません。問題を問題と捉えなくてもいいということに気づいていきます。だとしたら?そこで、何をすべきかを考えてみればいいということになります。何をすべきか?も今までのそれとは違い、見守ること、その時が来るのを待つこと、流れに身をまかせてみること、抵抗しないこと、逆にその問題を使って開拓すること、ひとりで頑張らないこと、などなど多岐にわたります。

そして、それは、いずれ、問題ではなく、自分の人生におけるひとつの今の体験(だけのこと)なのでは?というところへ思いが広がるかもしれません。

これがどういうわけだか人に安堵感を与えてくれます。こんなに根拠のないあいまいなものが。問題が発生した領域では解決できなかったことが上の領域ではこのような解決ができるということです。

自分のためだけに
2022/07/01

コロナ後に急に聞きたくなったクラシック音楽。今でも毎日クラシック音楽にひたっております。

今まで見たこともなかったクラシック系番組まで見たりして。はぁーーーそうだったんだ、え?そうなの?の連続です。

で、こうなってくると、ト長調って?なんだったっけ?とか、フラット1つは何調?とか、この記号は何?この言葉は?などなど、どんどん疑問がわいてきて、もうすでに忘れている過去に学んだことをもう一度おさらいしたくなり、小学生用の五線譜ノートを買ってきて、こつこつと勉強しています。

そして、初めて知ったような気分になり、はーーー感動もんだこれは、とか、なるほど、そうなっていたのかぁ、とか、自分でもうるさいと思うくらい独り言(年を取った証)を言いながら学んでいます。今や、調べようと思えば、検索すればたくさんの情報を得ることができるので、これは本当にありがたいです。アナログ人間の私もこれには大感謝です。

今はただ自分のために学んでいる、自分のために音楽を聞いている、そしてピアノを弾くのも自分のため。全部自分のためだけにできることが嬉しいです。当時は、先生に怒られないように、ダメ出しされないように、試験があるから、学期末の発表会があるから、皆がやっているから、と、自分のためではないところで全てを行っていたということを思い出しました。

バレエもそうでした。今は家で自分が動きたいときに椅子の背をバーがわりにして、自分の好きな動画で自分のために動いている。私にはそれで十分だと感じられます。

プロになる人は、きっと若い頃から音楽やバレエに対して魂がふるえるような体験ができるだけの感性と才能とそうなるにふさわしい条件を備えているのだと思います。

私にはそれは全くなかったので、プロになるということは無理なことでしたが、今、この年になって、その素晴らしさがやっとわかり(それはやはり魂がふるえるような思いです)それを自分の心のために行なえることが、少々オーバーですが夢のようです。

絵をみたり、舞台をみたり、映画をみたり、好きな器や小物を買いにいったり、全て自分の心のためだけにできることが今はうれしいです。

昔はこんな服を着ていればすてきと思われるだろうとか、まだ誰も見ていない映画を先取りできたら嬉しい、とか、特別な自分を他人に認めてもらいたい、というところで生きていました。

そういうところにどっぷりいた私が、年を重ねていくごとに、鎧を脱ぎ、いらないものをそぎ落とし、最も大事なものだけをもっていこうと決めたこと、そうして純粋になっていけたこと、それが何よりです。そうなれたから、クラシック音楽の贈り物を心で感じられるようになったのだと思います。ありがたいことだと思います。

今日も好きな曲を聞きながら1日を過ごします。

匠になるまで
2022/06/30

もっと自分を信じてよい。

自分に向き合い「私」とパターンの違いを感じられるようになり、それにもとづく体験も重ねてきたのですから、その自分のセンサーや、感覚をもっと信じていいんです。

それは自分自身が生み出したもの(創造したもの)です。これがこれからの人生の指針となり、宝となります。そこをもっともっと磨き上げていくために、もっともっと自分を信じるということです。信じれば信じるほどそれは大きくなります。

そうなってくると、もう、他人は自分のパターンのために必要ではなくなります。他人を自分のパターンを満たすために使わなくなります。そうなれば自然と他人との比較というものもなくなります。これ、本当になくなります。他人との比較って、どんな感じだったけ?というくらいに。そして、そうなれているからこそ、他人と純粋につきあっていくことができます。または、つきあわなくてもいいと純粋に思えます。

ただ、信じてよい自分の部分は「私」のみです。間違っても黒パターンではないので、そこはくれぐれもご注意ください。

黒パターンは自分が消されてしまうのではないだろうか、と思うと「私」になりすましたり、とても一見、よいことをささやきます。正義を語り、愛を語ります。ほっとさせたり、安堵感を与えたりします。しかし、何かそこには違和感があったり、もやもや感があったり、無理があったりします。言っていること、考えていることは美しくても、よくよく見ると、結局、自分の保身であることがほとんどだからです。

それに対して、そのような感覚を持つということは、それにもう同意しない自分になっているということです。

そこを見間違えると黒パターンの信じていることに突き進んでしまうので、ここはしっかりと見極めてください。

磨き上げていく作業は楽しいです。自分特有の微妙な感覚がわかってきて、ちょっとした職人さんになっていくような気がします。それをぜひ、匠になるまで続けてください。匠に向かって磨き上げるには、新たな視点、深い理解というものが必要になります。これが匠の道具なんだと思います。

その道具を使って、不要なところはより削り、その中にある「私」を彫り上げていくのだと思います。

マイルールを創る
2022/06/29

誰の内にもある「美しいもの」真・善・美のかたまりである「私」。あなたはどうありたいのか?という答えをもっているのはこの「私」です。

どうありたいのか?・・・・それをいつも表明したい、表現したい、創造したいと「私」は思っている。しかし、パターン(主に、恐怖と不安を生み出すパターンが支配していて、リーダーとして君臨している)に覆われていて、あなたはどうありたいのか?もパターンが考えるそれになっています。「私」のどうありたいのか、それが発揮できない状態です。

このことをエックハルトトールさんは「機能不全」と言い、アサジョーリさんは「同一化」と言っています。機能不全を本来の機能している自分に、同一化を本来の非同一化した自分に、変えていく(思い出していく)ということです。道場としては黒パターンを持ちながらも白パターンを選んで実践、行動。その言葉は色々とありますが同じことを言っています(先日、シェアしたストア派哲学も同じことが語られています)

今まで時間をかけて(誰もが過去世からのもちこしなので)固めてきてしまったものを溶かしていくことは正直、大変なことです。でも、知ってしまったらやめることはできない。いや、やめたくない。ましてや以前に戻りたいとは思いません。この肉体があるうちにどこまで行かれるかはわかりませんが、歩み続けたいです。

・・・・・・と決めること。それを求めている方にはお勧めします。機能した自分、非同一化した自分、そして白を選ぶ「私」がそれを求め続けたいと願い、祈ることを続けてしっかりと自分で決めていくと、必要なものごとは、必要なときに現れ、手にすることができることがわかると思います。

それは物質でもあるし、情報や気づきや新な知恵や出会いや。それは実はたいそうなことではなく、ちょくちょくと自然に起きていて、それゆえわかりにくいかもしれませんが、自分に向き合うことをしていると、よくあることです。

どうしたらいいか?と思っていたら、思いもよらぬ選択肢が目の前にあらわれたり、想像もしなかったようなアイデアや知恵がわいたり、ということってありませんか?この感じがわかってきたら、それに乗ってみるといいです。それには、それの真偽を見極める目が必要と思うかもしれませんが、そうではなくて(見極めたいのは誰なのか?)こうしてくるものは自分を助けると決めればいいんです。そしてそれをマイルールに登録。

まだまだ自分へ向き合うこともしていない場合は、リスキーかもしれませんが、ある程度、「私」が力を発揮してきているのであれば、自分でそうであることを決めるということがあります。決めていいんです。自分で。

いや、私なんてまだまだだから、と思っていることを決めているから信じられない、だから見極めたいと思うのです。

こうして助けてもらえること、それはとても助かることです(ひとりで生きているのではないことがすごくわかります)そこで助けられ…また進めと言われているような気もします(しかし、助けられ、私は特別とか、私は成長したとか、私は神に愛されているとか、パターンっぽい意味づけをしたとたんに壊れます。帯から離れる(笑))

自分で決める、マイルールを創る。

正しく生きる
2022/06/28

正しく生きなければいけない。というか「私」が育ってくると正しくいきたくなります。

正しく生きることには、時には痛手があったり、損をしたり、失ったり、理解してもらえなかったり、立ちいかなくなったり…と一見イヤなことがおきることがあります。

しかし、それでも正しく生きたいという思いが、自分の中の勇気や、行動力や、意志力や、継続力を使っていこうと思わせます。

・・・・・そうやって在ること自体が本当にやりたかったことなんだとわかるからです・・・・・

しかし、それらは黒パターンが嫌うものです。で、黒パターンがささやくんです。「楽しく生きればいいんだよ、楽しむために生まれてきたんだよ」「自分ができることだけやればいいんだよ。だから今の自分のままでいいよ」「意志力なんて皆もっていないものなんだからそれを身に着ける必要なんてないよ」「そういうことが出来る人は一部の人だよ」「あなたはよく頑張っているから今のままいけば十分だよ」などなど。

そうやって自分が傷ついたり、失敗したり、怖い目にあわないように保身に走るのが黒パターンです。そして、そのパターンの思い描く楽しいをパターン的には自分を生きる=正しく生きるということだと言ったりもします。

正しく生きる、には楽しいはありません。楽しいは一時のものだし、状況によって楽しくなくなるものでもあります。そこには自分を楽しませてくれる他人や物事が必要なので、それらがないときには楽しくないと感じます。

正しく生きるというところに表出してくるものは、喜びです。それは、普遍的なものであり、とても個人的なものであり、その体験が色あせていくことがありません。その体験は自分の魂の中にしっかりと入り込み、また、そうしていきたい、という意志にもつながります。普遍的なものは継続性があるんですね。

ただ、それを育てるのに時間がかかります。これが多くの人にとっては、苦手なのだと思います。一般的には、時間をかけて努力することは時間の無駄とか、まどろっこしいとか、馬鹿げていると思われがちです。実際そのような言葉も聞きます。

しかし、そのような捉え方をしている(意味づけ)ということは、楽しいしか知らないからです。そのうえに在る喜びを知らないからです。

全ての事象には、今一般的に思われている、捉えらえていること(意味づけ)以外に、新な視点(意味づけ)となるものがあります。そこに少しずつ体験を通して接触していくと、限定的な楽しさよりも、喜びを求めたくなると思います。それがどれだけ人を自由にし、解放し、のびのびとさせていくかがわかるようになるからです。

人は結局、良い感情や感覚に惹かれていきます。それもパターン的なそこよりは普遍的なそれにです。

あなたは美しい
2022/06/27

昨日につづき、今朝も「老後とピアノ」稲垣えみ子著(ポプラ社)からの言葉はつづく。

あるとき(たまたま)ピアノを弾いた著者は今まで体験したことのなかった体験をします。それは自分の中から出てきた「生の自分」とでもいうべきものとの出会いです(以下抜粋です)

『・・・・で、その生の自分というものが「美しいもの」であることに驚く。53年も生きてきて、そんなものが自分の中にあるなんて全然知らなかった。いや、生の自分なんて実のところ全く美しくもなんともないと思うけれど、それが、偉大な作曲家が生み出した神のごとき旋律という奇跡のフィルターを通して出てきたとき、まるで良き師に導かれた生徒のごとく、この上なく美しいものとして表出するのである。だとすれば、これは私だけのことじゃないに違いない。世にあるものは全て、本当はその中に、美しさをどうしようもなく抱いているのではないだろうか。ああ、これって本当に凄いことじゃないだろうか。私はずっと、何事も目標を定め、それに向かって邁進すればすごいものを手に入れられると思ってきた。でも、そうじゃなかったのである。「本当のすごいもの」は、そんなものとは関係なくそこにあったのだ。こうありたい、こうあらねばというエゴを捨て去った先に、その眠っていた鉱脈に気づくことができる。エゴを捨て去るとは、何かを信じるということだ。自分を信じる。曲を信じる。それは自然と歴史を信頼するということだ。その巨大なものの中に自分も連なっているのだ。自分の小ささと、大きさを同時に認めるということ。それが自分の演奏をするということなんじゃないだろうか。』

誰もが自分の内に「美しいもの」を持っています。それは神の資質の部分である「私」・・・ここで言っている「本当のすごいもの」。その自分の内のそれを見つけるために人は生きていると思うのです。

しかし、人はそれを自分の外に求め、目に見えるものでの結果を受け取ろうとします。しかし、それは「そこにある」のです。自分の内に。ずっとずっと昔から。今も。その限りない「美しいもの」が誰の中にも潜んでいる。

あなたは美しい。すでに。「私」は真・善・美を拡大したもので、尚且つそれが本当の自分であることがわかったとき、あらゆることは善い意味でどうでもよくなり、生きることを楽しめるようになります。こんなふうになりたい、ではなく、もともとあるそれになるということです。生の自分です。

そして、そこにいたる道はたくさんある。「魂の道場」だけがそうなのではなく、たくさんの道があります。芸術に関わっているもの、武道や茶道など「道」がついているもの、心をこめて行われている仕事、家事、子育て、介護。自分に合うそれを通して、又は今自分がおかれているところで「本当のすごいもの」をみつけていってください。

これを見つけることが人が最もやりたいことです。そのための転生です・・・と考えると、全てのものはそこへたどり着くための道具であるとも言えます。あらゆる方面に道具として用意されているものごとに私たちは囲まれているのです。

在り方、姿勢、やり方
2022/06/26

先日、日記に書いた「老後とピアノ」稲垣えみ子著(ポプラ社)

この本の中に出てくる、数々の道場での学びとの共通点。この共通点を深く読み解く、というひとつのワークペーパーが作れると思ったくらいにドンピシャの内容でした(ワークペーパーは作ってはいませんが)

ちょっと練習すればすぐに弾きたい曲が弾けるようになるだろう‥くらいの軽い気持ちでピアノを再開した著者でしたが、それはそうそううまくいかず。

毎日何時間も練習をして、手に痛みが出てしまい、それに悩まされたり、ずっと自分に誉め言葉をかけ続けてくれていた優しい先生から、あるときはっきりとダメ出しをされてショックを受けたり、反感をもったり(これは、教える側と習う側両方の気持ちが理解できて個人的にかなり共感)もう、できない、もう、嫌だ、と思ったときもあると思います。

悩み、考え、そもそもピアノを弾く意味があるのか?という問いにも向き合いながら、著者が気づいたことは「ピアノに取り組む基本的な姿勢そのものが根本的に間違っていたのではないだろうか?」という事でした。これはまさに、自己探求をするときの基本的な姿勢にも通じるものです。

では、何が違っていたのか…それは、今までの自分の社会一般で普通とされる在り方、姿勢、やり方(目標をさだめてがむしゃらに努力をして、結果を出す)を、ピアノにも当てはめていたことがです。そりゃ、そうだよな、と思う。そのやり方しか知らないわけだし、特に社会でばりばりと仕事をして結果を出してくればそれを使うのはあたりまえです。

この気付きから、著者は新な在り方を模索していきます。手の痛みを通して気づいたこと、「こんな風に弾けたらとひたすら頑張ってきた。でも、それは自分の身体にノーをつきつける行為だった。まだ努力が足りないんだと弾きまくり、でも、そうすればそうするほど結果は離れていった。」と言っています。

こんな風になれたら、楽になれたら、幸せになれたら、というところに目標を置き、がむしゃらにワークを頑張り、結果を手にいれるという在り方、姿勢、やり方も今の自分にノーをつきつけることになります。ワークをすることで今の自分ではないこんな自分になれると思って努力する、しかしそれにより本来あるべきところからは離れていきます。

結局、今までの身についている在り方、姿勢、やり方が通用しない世界があるということなんです。これはなんとなく頭ではわかっています。しかし、実際それが通用しない(かえって複雑にしてしまう)ということに気づき、新なスキルを身につけるというところに「普遍なるもの、永遠なるもの」はその姿を(自分の中に)見せてくれるのです。

ただ、ピアノを練習していればそこを知ることができるのではなく、ピアノへの在り方、姿勢、やり方を土台にして、今の自分を知り、自分の身体にイエスを出し、その身体にあった練習をひたすらこつこつと素直に続けることなんだと著者は気づきます。

「まさしくピアノとは永遠の修行である」というところにまで著者の意識は覚醒していきます。これ、まさに自己探求の道です。つづく。

幸せなこと
2022/06/25

一気に真夏の暑さとなりました。今日は34度くらいになりそうです。

私はこの時期「熱中症」に注意です。以前、軽い熱中症をやってから、毎年、繰り返しています。ただ、この数年は「なりそう」というのがわかるようになったので、そのときにはすぐに「経口補水液」を飲んで対処しています。寝不足や疲れでもなりやすいこともわかり、できるだけそこはうまく過ごせるように氣を使いながら過ごしています。

若い頃の、あの、炎天下での運動とか、遊びとか全く平気(というかすごく好き)だった頃が夢のようですが、これが今の私です。

今の私(昔の私ではなく)でいる、ということは、いろんなことを諦めていくことでもあるし、これからの未知なる自分を想像することでもあります。

しかし、大切なことは今、このときの自分です。

未来にこうなったらいいなあという希望を持つことはよいことだと思いますが、今の自分が未来へ持つ希望なので、若干上乗せさせている氣がします。実際は未来の自分はそこまで持てなかった、その通りにはいかなかった、全く予想外のことが起きた、などなどが普通なんじゃないかと思うのです。

しかし、そのときに、今そのときの自分でいられることへの認識や、腹を決めることや、自分への尊厳や、感謝や、そいういうものがあれば未来を必要以上に拡大視することなくいられます。

希望に向かって生きるということは素晴らしいことですが、そこへの執着が強いと結局、希望が自分をしばりつけます。

私たちは一人で生きているのではなく、天の意思の元に生きています。ですから天の大きな計画の元にひとりひとりがその人にとってのよいところを与えられ、天のひとつのピースとして存在しています。

天の計画にはひとりひとりが必要で、その人の未来も天によってある意味配剤されます。それが自他のためになるものだからです。このようなひとつの哲学を持つと、今の自分というものが無駄でも、だめでも、いらないものでもなく、その逆であることがちょっとわかるかもしれません。それが信じられるという事は幸せなことだと思います。

1つのパターンだけに
2022/06/24

起きていることはすごくシンプルなことなのに、ひたすら複雑にして大変にしてしまっているのが私たちです。

それで言動してしまうので、つじつまが合わなくなったり、よけいわからなくなったり、と、より複雑化していきます。

最初に起きたことだけを見ればいいのですが、それを見せないようにするパターンがいるので、こんがらがってしまうのです。

例えば、もう、嫌だな、と感じたとする。これはパターンですが、実際そのパターンがもう、嫌だ、逃げ出したいと言っているのです。いいとか悪いとかではなくて。そのときに、そんなパターンがあることはいけない、とか、みっともない、とか、きっとあの人にばかにされる、とか、もっと自分はやれるはずとか、また違うパターンが言いだすことがあります。この時点で最初のパターン+このパターンで2つになります。

で、またそこに、いやいや、そういう黒を嫌ってはいけない、などと言ってくるパターンもいたりして、ここでまた1つ+されて3つになる。その3つがああでもない、こうでもない、と言い出してわけがわからなくなるということです。またそこに、やっぱり自分はだめだ、というパターンも入り込んでくれば4つになる。

こうしてどんどん大きくしていき、結果、もう、わけがわからなくなり、対処できないとわかると、全て切り捨てて終わりにしようとするか、自分を犠牲にして終わらせようとします‥が‥根本のところが解決していないので、また同じことは必ず起きます。

だから気づかないといけないんです。最初が肝心であると。最初の気持ちはどうだったのか?悲しかったのか、怖かったのか、くやしかったのか、それを無視してしまうから次々とパターンが出てきてしまうのです。

1つのパターンだけに「私」の視線を向けるということがとても大事です。1つのパターンだけです。そのときに向き合うのは。

いくつものことを同時に行なったり、考えたりしているのはほとんどの人がそうです。そのクセがパターンにおいても行われるのだと思いますが、それが通用しない、いや、かえって複雑にしていって後々大変になることを知ってください。シンプルにするのも複雑にするのも結局自分です。

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