ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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自分の次を生きたい
2025/10/02

死後の世界はあるのか。これは、わからないです。その世界があるということは人は死から先の世界でも生き続けるということなので、死はないということですが、これも、わからないです。

ただ、私は、死後の世界があるというほうが(ずっと生き続けるというほうが)今世の自分がより自分らしく生きられるように思います。死をむかえたら、そこで全て終わり、ということであると、現在のような生き方はしていないと思います。

その様に、根拠がないのに、リスクもあるかもしれないのに、その考え方に、在り方に惹かれるという時が人にはあります。その際に起きていることは、よく考えて、その根拠も探して、そうして納得し、だからそれは信じられると結論を出すというものとは全く違い「何か、そうなのだろう」「そうであったらいいだろうなあ」と感じられるもののような気がします。

考えてもわからないけれど、そうであることが自分にはしっくりくる、あっている、これかも…というような。又は、有無を言わさずに、納得させられてしまうというようなことが起きることもあります。このような、はっきりとはしないものごとなのに、でも、それを感じるのが人だと思います。

で、この出来事が実はとても大事なんじゃないかとこの頃思います。自分のことを振り返ってみたときに、大きな分岐点になったものは全部これだったと、今だから気づく。しっかりと考えて選んだのではなく、なんか、そうかもというものごとで選んでいました。というか、選ばされてきたというか、そっちへ流れたというか。

そこには、今までだったら選ばない選択肢がありました。最も大きいそれは、自分の過去において前例がないというもの。体験がないんです。それゆえ、損得で考えたら、明らかに損なのはわかる。だから躊躇しつつも、でも、そんな損が嫌ではない、損する自分でもいられる気がする、というような気持ちが優先していたのだと思う。頭は納得していないのに、心の奥底では、そうしてみたいというものがあって、そちらを選んだ…ということの繰り返しできていたなあと思います。

根拠がない、リスクがあるかも、損するかも、それでも選びたいというのは「私」にはそれらはどうでもいいものなので、もう、そういう選択からは離れて自分の次を生きたいと思ったのかも。大事なことこそ、心が望むことを選んでください。でも、そうしなくちゃではないのでそこは注意です。心が望むものを選ぶ、そこに従う、そうしていくほうが結果よきものへ向かいます。

それが一番難しい
2025/10/01

昨日書いた人間関係=自他関係。

自他関係とは、自分と他人の2つの関係。その最初に来る自分との関係を築くこと、実はそれが一番難しいと言われています。「自分との関係が築けたら、次に他人との関係が築けます。そしてそれが築けるようになっていったら、自然界との関係。そしてそれが築けるようになっていたら、霊界との関係なんです」と昔教えていただきました。そして、その通りだと思うし、それが安全な人の成長の進み方です。だから、自分との関係が危ういときに霊界にアクセスすることは怖いです。これも、今の自分が苦しいから、一気にそこにいってしまえれば楽になれると思うのだと思いますが…。

人はずっとずっと昔から、現代の私たち同様に、心にモヤモヤを抱えながら生きてきたのだと思います。そこを超えて、やすらぎを心に持ちたいという思いから、宗教も、哲学も、科学も、医療も、生活全般が発展していったのだと思います。

それらを自分で上手に使えるようになることと共に、最も必要なことは自分との関係をよくしていくことだと思います。ダメな人は誰もいないのに、自分で自分をそのように決めてしまい、自分で自分を苦しめています。パターンが…。

だから、天の子どもである「私」が心の奥底に入っていこう。そこにいるどんなパターンも、パターンが生み出すどんな感情も、スルーせずに、そこに目を向け、そこに風を通し、光をあてていってあげよう。パターンも感情も、そうされることで落ち着いていくのです。その積み重ねで心は整い、そこに少しずつやすらぎが生まれてきます。

又、スルーしないというのは「見張る」ということではありません。彼らをそのままにしておいてあげれば、必要なときに、パターンにひっかかり感情がわきます。それをスルーしないということです。この絶妙なタイミングで私たちひとりひとりは生かされているんです。人智を超えた大きな存在がその人を生かそうとしてくれています。だから、安心して、焦らずに、自分に向き合っていってください。その大きな存在のことも、少しずつ、気付いたり、理解できたりしていくはずです。あちらは常にラブコールを送ってくれていますから。

良い人間関係
2025/09/30

自分が体験したことしか、他人にはシェアできない…これはきっとあらゆることがそうだと思います。このことを違う言い方をするとしたら、人は自分にしていることしか他人にできない、です。

自分のことが好きでなければ他人を好きになることはできない。自分を赦していなければ他人を赦すことはできない。自分を待ってあげられなければ他人を待つことはできない。自分が自分の力で自分を楽にしていくことができなければ他人が楽に向かうことをサポートできない。

こう次々と書かれると、そこまででもないだろうと思われるかもしれません。確かにそこまで自分の変容がなくても他人にそういうことだってできると思うし、実際行っている人もたくさんいます。それが普通かも。実際、自己変容の体験をせずにカウンセラーに成ることがほとんどです。ここは人間の頭脳でできる。しかし、この頭脳のところだけで人と関わると(それが長く続くと)いずれ頭打ちになってしまうような苦しさを感じることになります。どうしたらいいのかわからなくなる(ここがすでに違うと思う)

自分自身の変容がないのに、他人を赦し、好きになり、待って、その人が楽になるようにサポートしようとしてもどうしていいのかわからなくなる。自分で体験していないから。それが自分を苦しめてしまいます。ここで、苦しむということはセンサーがちゃんと動いていることなのでいいことだと思いますが。

これはカウンセラーとしては必須(これは決して100%そうなっていないとカウンセラーにはなれないということではありません。そこに向かう努力をし続けることを自分が望んでいるかというところです)ですが、そうではなくても、人と関わるときには多かれ少なかれあることだと思います。

生きるということは他人と関わるということだからです。で、そういう意味でも良い人間関係が必要になるのですが、良い人間関係とは、自他関係と言われます。まず、自分自身との関係を良くする。それが自分の体験を通しての自分の変容です。そして、他人との関係にそれが自然と広がっていく。その通りだと思います。そのような人間関係であれば、自分が苦しむようなことにはならないと思う。そうであれば純粋に他人に向かうことができます。

だから、まず、自分。他人のためにそうなろう、ではなく、まず、自分なんです。自分を慈しみ、育てていく。誰の魂もまずこれをやりたくて来ていると思います。

自分で決めてしまえばいい
2025/09/29

自分自身のことを自分が納得していればいいだけだったんだ…と今だからよくわかる。それを、他人や社会に求めるから色々とややこしくなってしまうんだということも。

この宇宙にたった一人の存在である自分を自分が納得できれば、他人の生き方とか、他人の活躍とか、一般的な概念とか、価値観とかに自分を合わせようとしなくなります。自然に。

確かにそこに合わせていけば他人から認められるし、他人の上に立てるかもしれないし、一目置かれることもあるかもしれません。しかし、それは永久にではないです。他人がいるので。それは一時かもしれないし、一瞬だけかもしれません。

他人の決めたあらゆる概念の中で他人を納得させ続けることは大変なことなんです。たとえそうできても心中は穏やかではないでしょう。今度はそれを手放さないようにしようと他人の中で頑張り続けなくてはいけないですから。

では、自分が自分自身に納得するとはどういうことか。それは、自分専用のルールや、概念や、価値観や、生き方を自分で決めるということです。決めてしまえばいいんです。自分専用だから。

例えば、豊かに生きるって自分にはこういうこと、とか、働くってこういうこととか。それに対して他人からの承認を得る必要はないんです。ただ、自分が決めるときには、そこに対する体験があり、そこにそれを自分の価値観にするだけの自分の納得感があればいいわけです。

そういう意味で、頭で、これはこういうこと、もの、と考えて決めるのは違います。それは哲学っぽいけれど言葉遊びのようなものに感じられる。それが間違っているとは思いませんが、このように決めたものは、それに従わなくてはいけないというパターンが働きやすいです。それは自分への納得感とは違います。必要なのは、心身からの納得感です。

自分に納得するから、それが自分のものであると決められるということです。人にとって決めたことは強いです。この感じが得られていけば、あとは自然と流れていきます。いいあんばいに。私たちはそもそもそんなふうに創られています。だからそこへ向かうことが一番だと私は思います。

ドレス
2025/09/28

家の近くに「おばちゃん向け洋服屋さん」があります。

で、この1か月くらいだろうか、お店の入り口に可愛らしい小さな女の子用のドレスが飾ってありました。時々それは変わるのですが、いずれも、小さな女の子用のものです。

手にとって見てみたいなあとずっと思っていたのですが、昨日、お店に入り「ドレスを見せていただけますか?」と言ってみました。「どうぞ、どうぞ、見てください」と言われ、1つのラックにずらっと並んでいたドレスを見せてくれました。20枚くらいある。全てアメリカ製だそうで、3歳から8歳位の女の子がパーティーの時やピアノの発表会等のときに着るものだそうです。

3歳の女の子が着るドレスは、とても小さくて、それはそれは可愛いのです。何段重ねにもなっている白いスカートにベルベットの深紅色のリボンがついていたり、総スパンコールの銀色のものがあったり、ふわふわのスカートに小さなライトストーンが着いていたり、花柄にレースのベルトが着いていたり…と「可愛い―可愛いー」と私は興奮気味でした。

「私、孫がいないんですが、もしいたら、絶対買いたいです!」というと女主人の方が「そう言ってお孫さんにプレゼントするおばあちゃんが何人かいらしたんですが、ママが好きではなかったらしく一度も着てもらえなかったそうなんですよ」と話してくれました。「ママの趣味に合わなかったんですね」というと「そうなのよ。だからこのプレゼントは難しいの」とおっしゃる。私が「知り合いの方のお孫さんにプレゼントするというのも・・・・」と言いかけると「やめたほうがいいですね、難しいのよ」ということでした。ここまでのものとなると、好き嫌いは、はっきりと出るのかも。

次々と手に取って眺めている時の自分が、ものすごく至福感を感じていることに気づきました。(自分でもびっくりするくらい)いつまでも眺めていたいと思っているんです…ちょっと意外でした。久しぶりの興奮を伴っての至福の時。ほんとうに楽しいひとときでした。

軌道修正してこなかった
2025/09/27

昨日の続き。確かにここのところ、これは違うのではないだろうか、と自分の内にありながらも、軌道修正してこなかったということがありました。私のパターンです。

何か違っているよなと思いつつ、そのまま過ごしていて、なおかつ、体調不良とも戦ってきていたので、それが神さまのエネルギーをシャットアウトしていたのではないだろうかと思いました(こちらが一方的に受け取らないのだろう)

この綺麗な感じはもしかしたら1年ぶりくらいかもしれません。それは、1年位、そのパターンを選んできたと言えます。どこか違うと感じたのであれば、それが何なのか、見極めて、自分はどうありたいのか、というところで軌道修正すべきだったと、反省。これからは自分の何か違っているよな、という感覚を大事にしていこう。

こんなふうに、実は違っていたということをどこかでつきつけられて、はっと目が覚める。そこで反省したことをではどうしたらよいのか考えて、また歩んでいく。そしてまた、実は違っていたことを何かで知ることになる。そしてまた、はっと目が覚める。

この繰り返しでずっと来ていたとあらためて思いました。この繰り返しを嫌だと捉える人もいるかもしれませんが、私は、今はそれはないです。だからいつになったら楽になるのか?ということも思いません。昔は楽になることを目指していたのでとにかく早くそこへ行きたかった。しかし、それは幻であり、それを追っていくと現実的に生きることから離れていってしまいます。ファンタジーの世界で生きているような。

今回は神社への参拝から教えていただいたことでした。それが他人から、何かの出来事から、自分の病気や不調から、と、自分に教えてくれるものは誰にでもあると思います。こういう事からも、自分ひとりで頑張らなくていいと言えます。それがその人にとって必要なことであれば、いいタイミングでやってきます。自分にできることは、肩の力を抜いて、心を開いてそれを受け取ることだと思います。これも、そういうルートを自分が創るということなのだろう。

綺麗な心身に
2025/09/26

先日、近所の神社へ行きました。

いつもぬかづけを買うお店の近くに、厳島神社があります。氏神様です。そちらの方へ…。

この神社では他の人に会うことはほとんどありません。人がたくさんいるのは元旦くらいです。なので今回も他の人に気を使うことなく参拝できました。

いつも通りに日々の生活ができていることに感謝し、今、自分がやるべきことや、なかなかできていないことなどをつらつらとご報告し(報告されなくてもわかってるよ、と言われている気分)でも、自分は…今生、これをやりに来ていることはわかっているから今できていないこともできるまでやり続けます!と宣言し、目を開けました。

すると、とても綺麗な心身になっていました。いわゆる、透き通った感です(何かが落ちた)で、帰り道、同じ道を通っているのに、見えている風景が来るときとは違うように見える(このように、固定されているものはないし、その時のその人の意識により環境は変わる)と思いながら歩きました。

実はこの綺麗な感覚を私はここのところずっーと忘れていたという事に気づきました。毎月、参拝に来ているのに、その感覚を思い出すことはなかったんです。

そして思いました。神さまはその神さまのエネルギーをいつも向けてくださっているのに、私が、パターンでいることで自ら作った心の状態でいたために、それを受け入れなかった、シャットアウトしていたんだ、と。。。続く。

目撃者
2025/09/25

パターンは過敏に反応します。これはこういうこと、これはこうあるべき、とパターンは固く信じているので、そこに引っかかる物事が起きれば、即反応して、感情を生み出し、それ自体も嫌なので、そこを対処するためにすぐに思考します。

あっという間にそれは行われます。パターンにひっかかることって毎日あるので、このパターンの反応は毎日起きているはずです。パターンが反応していることに気づかなければ、それは繰り返されるので、それが普通になります。しかし、それがパターンであることに気づければ、自分が意識的にそこをリードしていかれます。そこまでいこう!そのためには日々練習。

ケン・ウィルバーのこの言葉をどうぞ。真理を教えてくれる力強い言葉。そして、これが「私」です。「私」は自分。自分を見失わないように。


「私には見る身体、感じる身体が有る。疲れたり、興奮したり、病気になったり、元気になったり、重かったり、軽かったり、甘かったり、酸っぱかったり、痛かったり....私には身体がある。私は身体を通して感覚する。でも私は身体では無い。私は身体を通して感覚するもの。

私には起こっては消えていく望みが有る。でも私は望みでは無い。私は起こっては消えていく望みを見つめるもの。

私には漂う感情が有る。でも私は感情では無い。私は漂う感情に気付くもの。

私には取り留めのない思考がある。でも私は思考では無い。私は取り留めのない思考を知るもの。

私は以上のどれでも無く、それらの全てが無くなっても残るもの。私とは、意識の中心。意識の源泉。静かな明晰性。目撃する意識。私とは、全ての感覚、望み、感情、思考を見守る不動の目撃者。」

私はできる
2025/09/24

「最後は何を信じているか」なんだね…という話をしました。うん、そうだと思う。何を信じているかというのは、自分の内で自分は何を信じているか、という身近かなものごとのことです。

で、最強のそれは「私はできる」というものです。「私はいつかできるだろう」「これはできるはず」「続けていれば私はできる」「私、やれるな」「私、いける」…というようなものです。しかし、ここでのそれはパターンのそれではないです。パターンの場合は「私はできている、わかっている、できる人間だ」という感じなので、それとは言葉は似ていても反対にあるものです。

「私はできる」の根拠は一切ありません。それで全くいいのです。なぜかというと、それは自分が内側で決めていることだから。もう少し深く言うと、どこかでわかっていることだからです(わかっていれば根拠はいらない)それがひっそりといつもずっと自分の内に在る。それもごく当然に、自然に、という人は強いです。

そういう人はなんだかいい塩梅でいきます。もちろん魂は成長したがっているので、色々とセッティングしてそれにより悩んだり、苦労したりもあります。でも、そういう時にも「最後に信じているもの」があるということは強いです。

人によっては「自分はどんどんよくなることがわかっている」と言う方もいるし「自分には必要な物事はその時に与えられるから」と言う方もいました。これも根拠なし。でも、その方は見ているとそうなっていっているのです。で、その体験からまた自分の決めているものをより決めるようになり、それは大きくなるのだと思います。

これ、天のルールのひとつです。これは特別な人だけに与えられているものではなく皆が持っているものなんです。全員、天の内に住んでいるから。心が綺麗だから与えられる、とか、正直だから与えられるのではなく、自分の内のそれを認識する。

自分の今までの生活の中で、この体験も誰もがしているのではないかと思います。自分の中ではこれはこうなる、とわかっていることです。それを具体的に思い出してその感じを感じてみる。それと同じなんです。

それを自分のうちの「私はできる」にあてはめて、その感覚を感じてみるといいと思います。最後はそこ。

以前やった「根拠はないけれど…」の瞑想。これをやってみるといいかも。あの言葉の中にそこへの気付きや誘いがあります。

川の流れに逆らって歩くようなもの
2025/09/23

私の足は外反母趾です。ありがたいことに、痛みはないのですが、今年はいつもよりサンダルを履いている期間が長かったせいか、足裏が疲れた感じがしていました。

そこで、「外反母趾の人のための歩き方」という動画を見ました。外反母趾の人が足に負担をかけない歩き方を習得しよう、というものです。

で、そこで言われていたことなんですが。まず「今の自分の歩き方を知る」→今の自分の歩き方が間違っているから足に不都合があることを知る。そして、今の自分の歩き方を知るからこそ違う歩き方を習得することができる。

次に「常に戻ってしまうことを意識する」→人は慣れ親しんだところへ簡単に戻る。以前の歩き方に簡単に戻ってしまう。

それから「いつも意識を持つ」→新な歩きかたを得るために毎日練習をするのだが、新しい歩き方を(+)と捉えると今までの歩き方は(−)と捉えられる。練習は(+)だけではなく(−)を減らしていくことが大事。そして厳しいかもしれないが当初は24時間自分の歩き方に気を付ける。これらがないと習得はできない。ということを話されていました。

これって…心の成長も全く同じだ。自分の心の成長(成長というのは、本来の姿に戻るという)のためには、まず、今の自分を知ることです。自分の内にどんなパターンがあるのか、そこから出てくる感情も知っているのか。その結果も知っている。

そして、意識的でいなければすぐに元に戻ります。まあ、いいか、こう考えればいいか、面倒くさい、またか、もう嫌だ…という以前の自分にすぐ戻る。黒パターンで言動する自分にすぐ戻る。

又白パターンを(+)とすると黒パターンは(−)であり、ただ、白を選び続けるだけではなく、黒を選ばないことをしていかなくてはならない、だからそういう意味でもいつも意識的でなければならない。それらがないと心の成長は習得することはできない。

人が今まで生きてきて心身につけてしまったクセを変えるには、並々ならぬ努力が必要だということです。それについて、動画では「川の流れに逆らって上流へ歩いていくようなものなので最初はとにかくつらいと思います。気を抜いてしまえばすぐに川の下流に押し流されて行きます」とおっしゃっていました。

本当にねえーー、そうだよねえーー、と共感です。何事も、すぐにできるものごとなどないということです。でも、だからこそ出来てくることが嬉しい。こういうことを通して、人間、本当の意味で謙虚になれるとも思います。

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