ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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自負って
2023/09/29

「自負」…その意味は自分の才能・知識・業績などに自信と誇りを持つこと。(goo辞書より)とあります。

「自負」って一般的には良いことなんだと思います。しかし、なんだか気持ちの悪い意味だなあとも思います。とてもパターンっぽい。何がかというと、それらってもう過ぎた物事であり、絶対でもなく、誰にとってもでもない。それなのにそこに価値を持ち続けていることにだと思います。

自分の才能・知識・業績ってそのときに発揮していただけのことであり、それで誰かが助かったとしても、それで成功したとしても、そのときのものは現在のものではないよね、と思ってしまうんです。現在の私はその当時の才能・知識・業績よりもより質のよい、よりユニークなものを生み出すであろうと思うほうが的確な気がしています。そして、そのためにはそれらを手放していくことです。

その在り方は自信がある在り方なのではなく先へ進む、創造していく在り方です。

そして、だいたい、才能・知識・業績ってなんだ?とも思うんです。たまたま、そのときにそれが役だったとか、誰かのためになっていた、とか、ブレイクしただけでそれを自信とか誇りにつなげてしまうのもなんだかなあと思う。それが自信、誇りになってしまうと、それらの意味更新はそこで終わってしまい、自信、誇りを熟成させていくことができません。

全てが変化し、流れています。以前のものは消えていき、もしくは形を変え、誰かに渡し、譲り、自分の手から離れます。だから「私のもの…」ではないんです。

その日その日を丁寧に生きて、そこで、使った才能・知識・業績はその日かぎりくらいに思っていれば、それを死守しようともしなくなるので結果、楽です。

スタート
2023/09/28

昨日からスタート「サザンオールスターズ 茅ヶ崎ライブ2023」これからの4日間(間1日お休みが入りますが)サザンファンにとってはたまらない日になるのでしょう。

茅ヶ崎の街も午前中からそわそわ感があふれていました。いつもは静かな図書館前の道も人でいっぱいでした。サザングッズに身を固めた人たちがあちこちに。

そして17時少し遅れて開演、花火がボーンと上がったと同時に「うぉーーーー」という歓声が聞こえてきました。その後ははっきりと曲が聞こえるというレベルではありませんでしたが、聞こえてくる桑田さんの声。きっと皆さん楽しんでいるのだろう。

で、思い出したんです。サザンオールスターズのデビューの頃のこと。1978年「勝手にシンドバッド」でデビューしたんですねぇ。45年前ですかぁ。私、22歳、そのころラジオ局でバイトしていました。

当時は、新曲は制作部の各人のデスクの上にレコード会社の人が置いていくようになっていました(レコードって…今や考えられないですが)そのデスクに置かれていた「勝手にシンドバッド」。勝手にシンドバッド??初めてみて、初めて聞きました。

先輩たち曰く…「何言ってんだかわからない」「これじゃあ、売れないだろ」…でした。確かに当時売れていた曲に比べると「よくわからない」という感じだったと思います。しかしそのあとに「いとしのエリー」が大ヒットして、その後、どんどん上っていったサザンオールスターズ。

ラジオ局で時々みかけた桑田さんはすごーーーく普通の人に見えていました。普通に制作部に座っているとスタッフに同化しているくらい。当時のアイドルの「きらきら」「すてき」やロックバンドの「かっこいい」人たちとは違っていたので、当時、誰も、こんなにビッグになるなんて予想もしていなかったのでは?と思います。

本当に、何がどうなるかって誰にもわからないんだと思います。これは誰もそうです。今の自分がこうだからこう、と決められるものではありません。決めてしまうことはしないほうがいいです。

4日間、サザンの皆さんが元気に過ごせますように。そしてサザンファンが楽しい時間を過ごせますように。私はベランダからステージのどんどん変わる照明や時々上がる花火をそして時々聞こえてくる曲でその雰囲気を楽しみます。

https://www.asahi.com/articles/photo/AS20230927002857.html?iref=pc_photo_gallery_next_arrow

愛の欠如
2023/09/27

昨日の日記の補足。自分の中に「愛」が欠如していると苦しむということ。

どのように苦しむのかというと自分の中に「愛」を見いだせないため、外側に求めるようになります。それは主に他人に求めます。他人に認めてもらいたい、理解してもらいたい、わかってほしい、大事にしてほしい、かばって欲しい、保護してほしい、自分だけを愛してほしい、などなどです。それを自分のパートナーや家族や友人や会社の上司や同僚や、時には自分の子どもにも求めます。

しかし、求めても求めてもそれを手にすることができません。どうしたら相手が自分の求めているものを与えてくれるかを色々と試しますが、手にはできないんです。なぜならば自分を満たす「愛」は自分の中から生み出すしかないからです。

そして、これが自分に責任を持つという事でもあります。他人に求めている間はその責任を放棄していて、自分の変わりに誰かに「自分のやるべきことをやって」と言っていることになります。でも、誰もできないんです。パイプの中には自分だけなので。

「愛」の欠如はこのように個人レベルから世界レベルにまで広がっています。国々の争いも、国を構成しているひとりひとりに「愛」が足りていないのでその集合として「愛」の欠如した国になります(世界中)。

こう考えてみると、ひとりひとりが自分で自分の中を愛で満たすことの大切さがわかると思います。そのためのひとつのやり方として語りかけがあります。

王である「私」が自分の心の国の民に愛を与えていく。そうして、その心の国を愛に満ちた国にしていく。そうであれば、もう、他人からもらおうという思考や思いが出なくなります。それはもう必要ではなくなるんです。他人からのそれは、私の国にはフィットしないんです。

それぞれの国は唯一無二です。だからそれぞれが自分の心の国を創っていかなくてはなりません。たくさんの民(パターン)が待っています。その民に愛を与えてあげてください。民は皆王様に愛されたいのです。

愛を知ろう、育てよう。
2023/09/26

語りかけで愛を知ろう、育てよう。

自分の内に存在しているたくさんのパターン(と言っても、最終的には「自他、物事、全て自分の思い通りにしたい」なんですが)たち。そのパターンたちに語りかけをしていますが、ただ、語っていればいいわけではなく、語ることでパターンに向けて(自分の内に向けて)愛することをしています。

「そうだよね、あなたは〇〇と思っているんだね」というこのワンフレーズだけであっても、そこに愛があればパターンはその言葉をかみしめ「私」の声に耳をかたむけ、落ち着こうとします。

これ、考えてみてもわかると思います。もし、自分が怒りに震えているときに、どこからともなく「そうだよね」と声をかけられたら「え?」っと一瞬、その怒りは中断され「なんだ?なんだ?」とその声の主を探し、その言葉を聞くと思います。そして、そこでの言葉が今の自分の言いたいことや感情のことまでを変わりに言ってくれていると「なんて、自分のことをわかってくれているんだ」とそちらのほうへ気持ちが動くと思います。そのときには少し怒りもおさまっているかもしれません。

こうやって自分に愛を向ける。きっと誰も長い間やってきていないし、学校でそのことを教えてもらったこともありません。人によっては自分は愛をもらえるほど良い人間じゃない、それほどの人間じゃない、などと思います。でも、それは違います。皆が「愛」に基づいて創られていてそもそも「愛」のかたまりなんです。

愛のある語りかけでそれを知ってください。そうやって自分に愛をたくさん与えてあげてください。それを続けることで、自然に他人や他のものへの愛も芽生えていきます。

語りかけで愛を知る、育てる。そんな威力も語りかけにはあります。語りかけって奥が深いんです。もしかしたら、この語りかけの世界だけで、進むべきところや真理がわかるくらいです。とてもシンプルなものですが、自分の道具としてぜひ大事にしてください。携帯にも便利、どこでも自分ひとりで使える、おまけに「ただ」。

聖母
2023/09/25

昨日は、母方のお墓参りに行ってきました。秋らしい気持ちのよい日だったためか、お寺の多いこの街にはたくさんの観光客の方が来ていました。

この、ちょっと華やかであり、昔からの街並みのあるこのあたりも好きです(この辺も住んでみたい)いつも寄るお蕎麦屋さんが混んでいたので、となりの上野に行き駅の目の前の「東京文化会館」の「精養軒」でお昼を食べました。

ひとりだったので、カウンター席に通されました。外を見ることができる長いカウンター席は椅子をひとつずつあけて座っているため、ゆっくりとできました。横を見ると、本を読みながらコーヒーを飲んでいる方、今まさに食事をしている方、美術館のしおりを読んでいる方、など、ひとりひとりの空間でひとりひとりの過ごし方をしていて「自分のパイプ」を連想しました。

お昼を食べ終わり、せっかく上野まで来たので「国立西洋美術館」の常設展を見にいきました。久しぶりです。

たくさんある絵の中にとても鮮やかなブルーの色が目を引く「悲しみの聖母」(カルロ・ドルチ 1655)という絵がありました。聖母が息子であるキリストの運命に嘆き、悲しみにくれている様を描いたものだそうです。美しい横顔にそれが現れています。

そして頭の周りには後光が描かれ、聖母の身体からは光が発せられています。それはオーラとも言えるし、波動とも言えるし、それはまさに自分自身が発信していると言えます。こんなに嘆き、悲しんでいるのに、発信しているものは崇高であり、強さがあります。嘆き、悲しみというネガティブな感情を持っていてもそれを上回るもの(愛)が聖母の内にあり、その内にあるものが光として描かれています。

感情がネガティブなものであろうと、感情よりも強いそれには「意思」があり、ドルチはそれを描いたのだと思いました。

…ということは、私たちも、ネガティブな感情を持つ→それが発信されると考えがちですが、それを上回っているものが勝るのだろうと思いました。よく考えてみたら感情はパターンが生み出しているので、それを超えているものを皆が持っています。それが、ネガティブな感情よりも勝るとき、きっと私たちもこの身体から光を発しているんです。ですからいつもポジティブでいましょう、ネガティブなものは持たないようにしましょう、ではないということです。

発信しているものは、感情ではなく、その人の根底にあるものなんだろうと思いました。

新しい私
2023/09/24

茅ヶ崎クラス、おつかれさまでした。そして、今回ご参加くださいましたFさん、ありがとうございました。なかなかハードな2日間でした。

今回、思ったこと。それはもっと、今起きていることに、単純でいいということです。単純という言葉のイメージや意味づけもそれぞれだと思うので、いくつか言葉を並べてみると。簡単、軽く、あいまい、思考する道すじが見いだせない、深く考えない、意味づけない、ポイントだけおさえておく、そこで起きていることで本当に必要なことは1つだけなので、そこを見ていくだけ、という感じです。

どうしても、考えすぎてしまうんです。そして辻褄を合わせようとしてしまうんです。そのように教育されて、そういう社会の中にいるので、その影響は受けています。でも、その思考は、自分の探求に使うとかえって苦しくなるんです。だから新しい道具が必要になる。それが単純にという言葉で表すことができると思います。

「今日のことは今日まで。一晩寝て、次の日に目覚めたら新しい私」と言いました。これなんです。新しい道具。これを身につけていくことです。

そうは言っても、朝目覚めてもずっと悶々としているのは変わらないじゃないですか、は、まだ自分で創っていないから。ずっとそれで慣れているから。それが普通だと思っているからです。そして、今起きていることが主導権を握っているからです。それにおまかせしてしまっているからです。

新しい私に毎朝、生まれ変わっている、そしてその新しい私が今日1日をどう生きるか。それだけのことなんです。難しく、ややこしい、複雑な日は実はないということです。

あぶない、あぶない…って。
2023/09/21

「あぶない、あぶない、気をつけなきゃ」と知り合いの人でよく言っていた人がいました。

これは、あの人に言うと皆に伝わってしまう、あの人にこう言うと必ず裏で何か言われる、あの人にこう話すといつも誤解される、あの人にこれを言うと傷つけてしまう、だから「あぶない、あぶない、(言葉に)気をつけなきゃ」ということでした。

これを聞くたびに私はいやーーーな気分になりました(でも、カウンセリングの場ではないし、ま、いいかと思う)何がいやーーーな気分なのかというと、この言葉とその心をもちながら、表面上は、人と接しているわけです。で、その人の場合、とても表面上はいい感じなんです。優しく、おだやかで、いかにも、あなたのことはわかっているよ、という感じをかもしだしています。だからまさか自分のことを「あぶない、あぶない、気をつけなきゃ」と言われているなんて、きっとその人の周りの人たちは知らないと思います。

この、あまりに不快な不一致さ、それも他人に向けられているそれ、そして自分の保身が私にはとにかくいやーーーな気分なのです。これも自分のパターンと言えばそうですが、ここは自分の哲学に反するというところでもあり、ゆえにこの人とはもう、おつきあいはなしにしようと思い、今はそうです。

しかし、思うに、こういう人って多いのだろうと思います。とりあえず誰かの意見に合わせておいて、あとから本当は、こう思っていたんだよねえ、とか、本当はそうでもなかったけれどああ言っちゃったんだよねえ、とか。たくさんあるんだろうなあと。こうして、表と裏を使いわけていくことが普通になり、そういう自分にも気づかなくなっていきます。そういう人が圧倒的に多いのだろうと思います。それが大人的態度と思っている人もいるし、そういうことが人間関係をスムーズにすると思っている人もいるでしょう(そういう領域ということなんですが)しかし、そういうことではないです。自他を大切にするということは、そういう表面上をきれいにしておくということではないです。

自分も傷つき、他人も傷つけ、その先にあるものです。そこへ分け入っていくのか、それともその手前でやめておくか。成長するということは覚悟がいることです。勇気がいることです。

今日から茅ヶ崎クラス2日間です。今回はゲスト参加もあり、とても楽しみです。皆で学んでいきましょう。

小冊子より
2023/09/20

昨日はお墓参りに行ってきました。暑い日ではありましたが、やはりお墓参りに行くと気持ちがいいものです。

で、お寺さんから小冊子をいつもいただきます。これを読みながら好きなランチを食べ、ゆっくりするというのがまたひとつ楽しみです。

でーーー、今回の小冊子は「おてらおやつクラブ」と言うNPO法人の小冊子「てばなす」でした。「おてらおやつクラブ」という名前も初めて知りました。

その小冊子の冒頭にこう書いてありました『「てばなす」という行為はお釈迦様が説かれた慈悲の実践のひとつです。不安なことが多い現代社会。なんだか自分の価値や可能性を目減りさせていくように感じるからか、なかなか手放すことができません。自分がしたことを手放す、見返りを求めない。わかっちゃいるけど、見返りがほしい私がいます。「てばなす」ことができない私は「ためる」「たくわえる」「まもる」「かくす」ことで視界不良になり、不安な毎日を過ごしています。・・中途省略・・子供の貧困とよばれる社会課題の解決の助けにできないか、そんなアイデアから始まったのが「おてらおやつクラブ」の活動です。当初は個人的な活動でした。せっかく坊さんになったんだから、何かいいことをしなければならない。人の目・社会の目を気にした坊さんの卑しさや謎の義務感が動機でした。いいことをしている自分を認めてもらいたい…と訪れた支援の現場で「まだまだ全然たりません」と投げかけられた言葉が活動を全国に広げていく決心と後押しをしてくれました。』(おてらおやつクラブ代表理事 松島靖朗 奈良の安養寺 住職)

ここまで開示してご自分のことを話すご住職に、まず驚きと、そのありかたへのありがたさとを感じました。

小冊子といえどもたくさんの人の手にわたるものです。ほとんどはこのような開示はしないでしょう。「えーー、住職なのに?ためる、たくわえる、まもる、かくすなんて、まずいでしょう。」と思われるだろうと推測するからです。そんな他人の自分へのバッシングが怖ければそんなことは書きません。

「そんなご住職だと、信用できない」「やっていることは素晴らしいのにがっかりした」と思われるかもしれません。だから、カウンセラーやセラピストで、美しいことや、誰もが言っている事だけを書いている人がほとんどなのは、こんなこと書いたら誰も来ない、こんなこと書いたらだめなカウンセラー、セラピストだと思われる、というパターンで、無意識で(それがいいことだと思っていると思う)書いているからだと思います。パターンは自分を守ることが第一なので。

では、この、ご住職、なぜ、ここまで自分を開示して書かれたのでしょう。書かなくてもすんだことなのかもしれないのに。考えてみるといいかもしれません。

鼻の下に汗
2023/09/19

日中の暑さが半端ない。朝晩は少し涼しく感じはしますが、とにかく日中の陽の強さ、まぶしさが強烈です。

今年は暑さゆえなのか、はたまた加齢によるものなのか、今までにはないところから汗が出ます。それは、目の下と鼻の下。小学生によくみかける汗の位置(昔の子は…かもしれないです。そういえば、今の小学生にそういう子はいないかも)

小さい子が鼻の下に玉の汗をかいているのは、可愛らしいけれど、この年でのそれだとねえ。鼻が出ちゃっているんだろうか?と一瞬見えたりして、まずいです。目の下の汗も。そこまで労働しているのだろうか?と思わせます。というように今年の夏は初めてのことばかりです。まだしばらくは暑い日も続きそうです。どうぞ皆さまお体ご自愛ください。

さて、本当の自分「私」はこうありたいと思っているのに、黒パターンにひっぱられたり、飲み込まれたりして、こうありたいがその姿を消してしまうことはよくあります。そんなときにはこうありたいではなく黒パターンの言っていることが本当のことのように感じられたり(そっちのほうが慣れていて、長く使っているので)それが正しいと思ったりします。

しかし、どこかでそれが自分のありたい姿なのか?と問うてみれば、それはパターンであって、自分じゃないということに立ち戻ることができます。だから自分はどうありたいのかがすごく大事なんです(くどいですが)

パターンは色々言ったり、考えたりします。周りもパターンで生きている人たちがほとんどなのでそういう人たちの中にいると共鳴しあい、ますますそれは大きくなります。

ですから、自分のために、自分の未来のために、自分はどうありたいのか、をいつも自分になげかけてください。今の自分は、この瞬間の自分は、ありたい自分なのだろうか?と。

それは聖人君子になることではなく、この宇宙のルールや、人が生きる意味にわけいっていくことだと思います。清くなるのではなく、純粋な探求者になっていくことなんです。そのためには道を間違えないように、いつも、今の自分は自分のありたい姿なのだろうか、ありたい言動をしているのだろうか?と自分に問うてください。

ここがしっかりしてくると、あれこれ考えたり、迷ったりすることがなくなります。そうすると「すっきりといる」という現象が起きてきます。まずは心ありきです。

適応
2023/09/18

・・・・・「生き残る種とは、最も強いものではない。最も知的なものでもない。それは、変化に最もよく適応したものである」・・・・・ダーウィン

この言葉、もちろん人間にもあてはまるものです。人も健やかに自分の人生を全うするためには、ここが大事、と思います。

生きている中で起こる様々なことに対して、私たちは思考を使って解決しようとします。それが間違っているということではありません。それで解決できればそれでいいわけですから。

しかし、その解決がひたすら自分を守るもの(先に進まないもの)であると、同じようなことが起きたときには、また、思考で解決するということが繰り返されます。それでもいいという人はそれでいいのですが。私は耐久力がないので、とにかく根底から変わりたいと思ってしまいます。

で、その起きたことへの解決を、このダーウィンの言葉に沿って考えてみると「慣れる」ということなんじゃないかと思います。以前も書いた気がしますが「慣れる」こと。自分の心身にダメージとなるものは総じてネガティブな物事です。だからネガティブに「慣れる」。

私の場合、例えば何かショックなことが起きた。2日間ほどそのことで頭がいっぱいになり、ああでもない、こうでもないと考える。するとそのストレスは体に出て、蕁麻疹が出る、とか、眠れない、とか、腰が痛む、とかになる。しかし、3日目くらいから、解決していなくても、落ち着いてきて、それを抱えたまま今までの心身の状態に戻る、という感じです。ここで適応という言葉がなんとなくわかる気がします。

それを見ていると、ここには慣れるが働いていてそれにより今までのように生存できるのだと思いました。

起こることには全て意味があり、それは変化を促しています。そして、変化に抗わず、そこに乗り、新しいところに自分がいくときには、それに慣れることが一番だと思うのです。

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