ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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ブッダボウル
2021/12/03

昨日、駅ビル内で、いつか食べてみたい…と思っていた「ブッダボウル」を食べました。念願の「ブッダボウル」。ブッダというだけあって、納豆、のり、アボカト、蓮根、麩、などなどが雑穀米の上にのっていて、精進料理に近い・・・が・・・真ん中に、どん、と、生卵がのっていて、一気に現世に呼び戻されます。

これらをまぜて食べます。「これを食べれば「ブッダ」になれるのかな?」と茅ヶ崎クラスの皆さんと以前から話していました。しかし、食べ終わっても…ブッダにはなっていませんでした。

何かに成るということが違います。今の自分を認めて、今の自分にOKを出すことで、ちょっとブッダに近づくという事だと思います。

今の自分にはいろんなものが含まれています。黒パターンも白パターンも今の肉体も脳も個性も性格も記憶も今までの過去もこれからの未来も前世の体験も。そんないろんなものがつまっている自分にOKを出すということです。

何かに成るというと、今の自分を捨てて、それになる、という印象がありますが、今の自分にOKを出せる自分に成るということですね。今の自分に捨てるべきものはないです。

ということで、今の自分のまま、沖縄へ行ってきます。今年最後の沖縄クラスです。1年を振り返りながら、皆さんにとって良いセミナーになりますよう、頑張ってきます。皆さまもどうぞお元気でお過ごしください。

「私」が求めているもの
2021/12/02

「自分の中の誰が話しているんですか?」「自分の中の誰が考えているんですか?」「自分の中の誰が今それをしようとしているんですか?」と、いつも自分を観察。

「私」は観察者、目撃者、そして本当の自分です。

今、話しているそれでいいの?今考えていることを「私」は欲しているの?それをしようと「私」が望んでいるの?・・・といつもいつも自分をみていくことが大事です。

長い間、黒パターンで皆生きてきたので、それに慣れてしまっています。黒パターンはただ反応しているだけなのでそれはすぐに表出しますが、それは「私」ではない。この「反応」から離れていくように意識して(努力して)いくことが大事です。練習しかないです。

反応は即座にやってくるもので、即座にきていることは反応だと思ってみてください。待て待て、これは反応だ、と。

そして「私」が本当に欲していること、望んでいることは(この場において、この人に対して、自分に対して)なんなんだろうと落ち着いて自分の内を見て見ます。その声を聴いてみます。すると「私」はそれは必要なのではない、それは欲してはいないし、それとは逆のことを望んでいる、など、わかると思います。

それこそが今話さなくてはいけないこと(もしくは話してはいけないこと)今考えなくてはいけないこと(もしくは考えてはいけないこと)今、しなくてはいけないこと(もしくはしてはいけないこと)です。この間、ちょっと時間がかかるかもしれませんが、この感じを身につけていかれるように練習していってください。だんだんと慣れていきます。一気にできなくてもやり続けていくうちにそっちが普通になっていきます。

そして、それを続けることで「私」が求めているものごとが以前のそれとまた質を変えて、より、統合的に、普遍的に、天意に沿った、広い視野で求めていることにも気づいていきます。

・・・・・・で、そこに現れてくるそれは「執着を捨てろ」ということなんだろう、と思います。あらゆることに対して。そうして初めて「私」は自由になれるのだろうと思います。

関わらなくていい
2021/11/30

草薙龍瞬さんという僧侶の方の言葉です。

「自分から伝えた結果、もし、相手が理解しようとしない、聞こうとしないのならそれはもはや関わる意味のない相手なのかもしれない。どのような関係であれ、一方的に苦痛に耐えなければいけない関係は存在しないはずだから。」

その通りだ、と思いました。

ここでは「もはや関わる意味のない相手なのかもしれない」とありますが「かもしれない」ではなく「(今は)関わる意味のない相手である」でいいくらいだと思います。

どーーーーしても、全ての人に対して優しさを持ち、寛容に関わること、誠実であることが良いことと思われがちですが、そのようなマスター級の白パターンをマスターでもない私たちが自分に強いる必要はありません。今の自分にみあう白パターンを作ることが何より大事です。その白パターンのひとつとして、もう、その人と関わらなくていい、があります。それが自他への優しさだと思うんです。

理解しあうことができない人は普通にたくさんいます。自分が理解しあうことを望んでも、相手が受け付けなかったり、何を言われているかわからなかったり。

しかし、それはその人が悪いのではなく、それはそれで仕方ない。だから理解してもらおうとしなくていいし、理解させようとしなくていい。その人をそのまま「そうなんだ」と受け止める(だからその人はそのままでいい、そして自分もそのままでいい)ことだけでいいと思います。

関わるというのもその質が上がっていけば、この方がおっしゃるように「理解をするために関わる、理解の共有をする」ということになります(しかし、その時点での理解というものも質が変わります)。

で、理解に自分を含める、優先するということです(時々私もこれを忘れるときがあります)。自分が苦しんでいないか、無理していないか、犠牲になっていないか、と自分への理解を深めることが大切です。自分を置き去りにして他人への理解を深めるというのは違います。自他同時にみていかなくてはなりません。

で、この関わらなくてもいい、ということ、これが腑に落ちて思えたとき、その相手への執着(期待とか予想とかコントロールとか)が消え失せ、それこそ自由になります。関わることでの不自由さや義務感のようなものが自分を苦しめていたことにも気づきます。

いつもいい気分でいることが最も大事なことなのですから、無理に関わることでそれを台無しにしなくていいです。

自己探求をしていくと、どうしてもマスター級白がちらつきます。でも、大事なことは今の自分がいい気分で(あくまでも「私」がです。黒パターンがではないですよ)いられる白パターンを作るということです。

お姫様
2021/11/29

きのうで、今年最後の大相撲が終わりました。

横綱・照ノ富士が2場所連続の優勝。おめでとうございます。今回の大相撲も、私の憩いのひとときとなりました。

でーーーーー、大相撲ファンの方達は、もう1年ほど前から気づいていたと思うのですが「お姫様」。(…とうちでは呼んでいる)土俵のすぐそばの溜席に連日座っている美しい女性の方。今回の九州場所にもいらしていました。

ネットでは溜席の妖精と言われています。きちんと正座し、背筋をのばし、その姿勢を崩すことがありません。拍手の仕方もちょっと違う。気品があります。

そして、びっくりするのは、毎日服が違う。服にあわせてヴィトンのバッグも変わる。取り組みをみながらもついついそちらへも視線がいってしまいます。

服は質のよさそうなワンピースです。パンツ姿は見たことありません。今回は白っぽいワンピースが多かったですが、とにかく着ているものが違うんです。育ちの良さを感じます。

この1年の間に、その女性を真似た方も出没しましたが、かないませんでしたねえ。真似る、模倣するって、どこか無理があるのでしょう。その無理の部分がかなわないにつながるのでしょうね。

このお姫様はその状態が自然であり、そのままでいるから、その存在が目にうつるのだと思います。自分は育ちがいい、他の人より良いものを着ている、持っている、だから目立つというのではないです。目立つのではなく目にうつる。ここに育ちの良さがあらわれるのだと思います。

そして、それぞれにその人の個性があります。それをそのままに表していけばいいだけなんだと思うんです。そこにあらわれるその人らしさ。その在り方に品というものもそなわるのだと思います。

また、1月場所でのお姫様を楽しみにしています。しかし・・・・長時間正座していて足がしびれないのだろうか、と、ちょっと正座しただけで、立つときにこけそうになる私は思うのです。

諦める白
2021/11/28

白パターンを選ぶときに使われる、大きな普遍的資質として「勇気」があります。

というのも、黒パターンとしてずっと使ってきたものを新な白パターンに選びかえるには、どうしても勇気が必要になるからです。それは、今までやったことのないこと、今まで考えもおよばなかったこと、である場合がほとんどなので、どうしてもそれを行うためには勇気が必要になります。

そして、勇気というと、強く、前進、というイメージがあります。しかし、勇気には強く、前進だけではなく、諦めること、手放すこと、縮小すること、離れること、降参すること、など、弱く、後退するイメージのものもあります。しかし、それらも、新な白パターンなので、これも、結局は強く、前進、であると言えます。

「諦める白」というのは実はとても大事なものです。今あるものを諦めていくことは、たぶん、いわゆる強く、前進のイメージのある白パターンよりも「私」を大きく育ててくれるように私には思えます。

諦めることは変化し続けていく自然の理にかなっているし、人間、諦めることをしないことは年をとるたびに苦しみが増していくことになるからです。

又、何かを諦めるから新しいものが入ってくるというのもあります。今のままでいながら新しいものも欲しいというのは無理です。自分のスペースは決まっているからです。そして今もっているものは、もう、自分には合わない、ふさわしくない、ということも大いにあるからです。

よく、流れに乗っていけと言います。それは、こういうことなんだろうと思います。そのためには、諦めるときは、諦めようと腹をくくっておけばいいのです。今から。そのときがきて初めてそうしようとしても、それは、きついと思うので。

風のごとく、水のごとく生きるというのは、こうして前進したり(一見)後進したりしながら、そのときそのときに合わせて動けるということです。そのフットワークの軽さは絶妙であり、バランス感覚にもたけています。

そして、それは「私」がセッティングした流れなので、そこに乗っているときは「いい気分」でいられるはずです。成長することにはこんな面もあります。

いい気分でいる
2021/11/27

いつも「いい気分」でいるといいです。

ここでのいい気分とは、白パターンの部屋に入ったときの「私」の感覚のことです。あの、頭で考えているのではない、ハートの部分に感じられるあの感じです。

あの感じを気づいたときに自分の中によみがえらせます(嫌なことや困ったときにすぐ使えるように用意しておくといいかも)

このときに、ちょっと意識してみてほしいのですが、その瞬間、違うところにハートがいっている感じがすると思います。胸のあたりが急に軽くなる感じ。

そうすると、そこには「そう在る」というものだけしかなくて、さっきまで考えていた、どうしたらいいか、どうしようか、というところではない在り方に自分がなっていることが感じられると思います。これが道場的「いい気分」です。

これを1日のうちに何度か(何度も)よみがえらせます。そうすると、今起きている厄介な問題が解決するのではありません。今、大変だと思っている黒パターンが静かになるのでもありません。そういうご褒美や奇跡が与えられるわけでもありません。しかし、あの一瞬の静寂と平和と懐かしさはそういうものよりも大切であることを「私」が知っていることがわかりますし、これは確かなものです。

そして、もしかしたら、この在り方が今起きているあらゆることも包みこんでいくのかもしれないとも思えます。

そして「私」が選びたいのは、この、「そう在る」ということです。これは絶対にそうだなと感じます。そのためには練習です。自分で練習していくしかありません。

「いい気分」をよみがえらせるためには(生み出すには)自分専用の言葉を使うというのがあります。例えば「いつもいい気分」とか「私はやっていかれる」とか「「私」はこれを欲する」とか。なんでもいいです。とにかく、あの、白パターンの部屋の感覚になれればいいので。

又は、白パターンの部屋をイメージをすることでそれがよみがえるということもあると思います。他のイメージでももちろんいいです。

自分専用のそういうものも見つけて、使ってみてください。こうして「いい気分」でいる自分をたくさん感じてください。

こうして「私」という意識を大元に近づけていきます。それは近づけば近づくほど、幸福度はましてくるのだそうです…と習いました。

本当の自分って
2021/11/26

自己探求をしていく上で大事なこと、それは自分が変化した証拠を探さないという事です。

前よりパターンにひっかからなくなっているか?前ほど傷つきにくいか?以前ほど、他人と比べないようになっているか?前よりご先祖さまからのサポートが多いか?シンクロニシティがよくおきているか?よいことに恵まれているか?などなど。

そもそも、自己探求はそういうものを手に入れるためにあるのではないということです。そういうものを手にすることもあるかもしれない。でも、それは付録のようなもので「だからあなたは変化しましたよ」という証拠ではありません。

それよりも大切なことは、前のようにひっかかっても、傷ついても、他人と比べても、サポートが来なくても、シンクロニシティが起きなくても、よいことに恵まれなくても、それはそうであるとして、現実をゆがみなく認められ、いられる「私」を育てることです。

「私」は証拠を欲しがるパターンと一緒にいますが「私」にはそれらは不要です。ただ、今あるままでいいと言います。そして、パターンがそれらを欲しがることには理解を示し、パターンたちはそのままでよいと許します。

パターンはそれを願っていても、「私」はそうは思っていないし、それゆえ、それは選ばない=証拠探しをしない(・・・という実践)。こうして「私」として居続けることを選択します。

「私」で生きるってこういうことです。「私」で生きるというと、どうしても「私」ってこういうイメージだろうという振舞(おだやかで、優しく、ブレず、知的で、微笑みを絶やさず、など)をすることと思うかもしれませんが、そういうことではありません。

それは選ばない(だからそう考えない、そう行動しない)というところに「私」の醍醐味があります。そんな「私」をどれだけ意識的に使えるか、というところで「私」の成長は変わってきます。

そして、間違えやすいのは「私」がいることで自分が支えられるというものです。こうなると「私」の他に「自分」というもうひとりが出てくることになります。そして、この「自分」が本当の自分で「私」により自分は守られ、知恵を与えてもらい、引っ張って行ってもらえると思います。だから安心していいという感じですが「私」が自分です。自分が「私」なのですから「私」が教えてくれる、「私」が導いてくれる、守ってくれるではありません。

いわゆるハイアーセルフが「私」であり、それが自分、と私は思っています。それだけすごい存在なんです、本当の自分って。

服を何枚持っているか
2021/11/25

お会いした方と服を何枚持っているか…という話になりました。

私は女性にしてはたぶん、すごく枚数が少ないとは思っているのですが、実際何枚あるのか数えてみました。

数に入れないものは、下着、パジャマ、部屋着、コートなどのアウター、小物類(マフラーとか、スカーフとか、靴下とか)、アクセサリー類、靴やバッグなど。それらは数に入れずに、日常生活で着ているものの数だけです。

でーーー、私は1年を通してもっているものの数が34枚でした。自分では、もっと少ないと思っていたので、こんなにあるの?とちょっとびっくり。これにアウターが4枚あるのでそれを入れれば38枚。プラス、パジャマ、下着、部屋着、小物類を入れれば、60枚超えるくらいになるのではないかと思います。こんなに持っているのか・・・・私。

ミニマリストになりたいわけではありませんが、もう少し少なくていいだろうと思いました。物がなくてかつかつになるのは嫌だけど、物に重さを感じるのも嫌です。

ちょうどいい私のサイズの持ち物として服も考えたい。着るもの(スタイル)はもう、決まっているので、同じものを何枚ももたないようにすれば、10枚くらいは減るのかもしれません。ちょっと挑戦してみたいところです。

で、思い出したこと。私が小学生のころ、服を買うというのは、今の服がもう着られなくなったときに、買ってもらったという記憶があります。ちょっとしたほころびは母が直してくれて、それを着ていたし、今のように、安価で服が買えるという時代ではなかったので、服を買いにいくのはちょっと特別な感じもありました。

買ってもらった服は、またそれが着られなくなるまで着ることになるので、子供ながらに大事に着ていたと思います。あのころの服やモノに対する扱いかたのほうが今より丁寧であったと思う。あの感覚が懐かしい。

そういう意味では、今回の盛岡で靴が壊れるまで履ききったのは、げげーーっとあわてましたが、使い切った感があり、靴にも感謝できました。

この感じが私はいいんだと思います。必要で好きなものを私サイズで持ってそれを使い切るまで丁寧に使う、そんな風でありたいです。

白パターンはとても大事
2021/11/24

白パターンはとても大事。

黒パターンへの語りかけだけを続けていても成長はないです。今の自分にぴったりくる白パターンを考えて、ちゃんと白黒ワークをやり(←スキップしない)「私」が白を選び(←頭で選ぶのではなく、感覚として選ぶ)それを実践する。そして、初めて成長するのです。

白パターンが自分を変えて(自分の可能性を伸ばすと同時に今の自分でいいことに気づく)いくと思ってもいいくらい、白パターンの選択が必要となります。

で、時々聞かれるのが「白パターンを選ぶべき」「白パターンを選ばなくてはいけない」ということ。これは、違います。

白パターンは選ぶべきものでも、選ばなくてはいけないものでもありません。白パターンは「選びたいもの」なんです。「私」が。

白黒ワークをしたときの、白パターンの部屋に入って感じる感覚により「私」が選びたいんです。今すぐそうなれなくても、かなり勇気いるなぁと思えても、けっこう面倒くさいと思っても、それでも「私」が選びたいと思う白パターン…ということです。このときに、遠い先に感じる可能性をみつめられると思います。そこに向かっていくんだ、という感覚。それをワークで感じてもらえるといいなあと思います。

又、選ぶべきもの、選ばなくてはいけないもの、という感覚は、本当は選びたくないんだけれど、本当は望んではいないんだけど、などが含まれているので、そこは自分でよく観察をしてみてください。もしかしたら黒パターンが白パターンを選ぶことへ抵抗しているのかもしれませんし、選ばないと成長しない、成長しないと苦しいという黒パターンが押しているのかもしれません。

そこではないところで「私」が選びたい、だから選んでいるという感覚を育ててください。

まだ、そこまででなかったら黒パターンを選んでいてもいいんです。白パターンが感覚的によいことはわかってはいるけれど、今はまだ黒パターンを選んでいたい、もありなんです。黒パターンがいけないものではないからです。

うまくできるときもあり、うまくできないときもあり、を繰り返しながら「私」を育てる。結局、ここです。「私」を大きく育てる、というところ。観察者としての「私」そして、それが自分であることを身につけていくことです。

リトル・ダンサー
2021/11/23

昨日、お昼を食べながらTVで映画をみました。「リトル・ダンザー」(2000年イギリス映画)

今までも何度か見たのに、また、見てしまいました。

炭鉱夫として働いている父親と兄と認知症のおばあちゃんとの家族の中で少年ビリー(11歳)はバレエダンサーになることを夢見ます。とはいえ、レッスンに通えるだけのお金はありません。第一、バレエなんて男がやるものではないという父と兄の猛反対にあいます。

彼の踊ることへの情熱と才能を見出してくれたバレエの先生との出会いにより、彼は、一時はあきらめた「踊りたい」という自分の衝動にも素直になっていきます。その後、紆余曲折ありながらも、父と兄が彼の夢を叶えさせようとしてくれます。そして…成長した彼は…。

と、ほぼ話してしまいましたが、一生懸命に生きている人々の日々の生活と、生き様が核になり描かれています。そこに、突如あらわれるバレエの世界。そして、何より、ビリーを思う父、兄、おばあちゃんの彼への気持ち。それがひしひしと伝わってきて泣けました。

人とは不思議なものだと思います。この父も兄も、この仕事をして生きる人生と自分自身にどこか辟易としていたのだと思います。そこにはあきらめがただよっています。それでも生活のために働かなくてはならない。そして、いつか、ビリーのことも、この町に住んでいる多くの男達のように、炭鉱夫として働けばいいと思っていたのだろうと思います。

しかし、そこにバレエ・ダンサーになりたいという、思いもしない話が持ち上がり、結局、父と兄はビリーを支える側にまわります。もう、自分たちの人生には夢はないと思っていたのに、誰かを支える側に立ったとき、そこには今まで知らなった、生きることへの張りや喜びがあったのだと思います。

それは、家族以外でも起こることであり、ここに登場するバレエの先生もきっと同じような体験をしたと思います。ビリーは自分の家族ではないけれど、自分がビリーを支える側になったことで、先生の人生も豊かになっただろうと思います。

誰かを支える側にいくということがもたらす幸せ。これこそが本当の幸せではないかと思います。人はこの体験を誰でもがしたいのだと思います。幸せになる、ということは自分が、という視点をまず持ちますが、誰かを支える側になったときに(もう、自分のことはいいとなったときに)初めて味わう幸せなのだと思います。

何度見てもやっぱりいい映画でした。

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