ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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開示
2022/01/16

今年初めての岩手クラス、全員参加で、無事に終わりました。皆さま、ありがとうございました。今年もよろしくお願いします。

当日は、晴天に恵まれ、岩手山が大変きれいでした。しかし、寒かった〜。そして、道は所々凍っていて、お約束のへっぴり腰、よちよち歩きで会場へ行きました。

会場へいくまでに1つ信号を渡らなくてはいけないでのすが、毎回、歩みがのろく、いつも信号が変わるぎりぎりでやっと渡るという状態なので今回こそは、と、横断歩道では真ん前に立ち、信号が変わるのを待ちました。今回は絶対に余裕をもって渡るぞ、と思って。

しかし、歩みはじめたら、後にいた人たちにどんどん追いこされていき(以前はおばあちゃんにも追い抜かれる)やはりぎりぎりでした。普通に歩いている周りの人達をみて、何故?なんで?と連発しながら到着しました。

さて、クラスですが「開示」についての話をしました。開示って今の自分の状況を話すというものです。今、自分の中に起きていることを、客観的に実況中継するという感じでしょうか。この、客観的というところがすごく大事です。客観的だからあるものをただある、として見られていて、表明できます。

それは「こんな状況になったのは、あの人が悪いのではなく、あくまでも、まだケアされていない自分のパターンによるもので、もっと自分が向きあってあげなくてはいけないと今思いました」というものです。

で、クラスでも話したのですが、いずれ、開示が必要ではなくなるときがきます。そもそもは自分の中で起きていることなので、わざわざ開示しなくてもいいものだからです。

でも、そうやって自分というものを相手にみせていくということはほとんどの人が苦手で、やってきていないので、あえてやってみるということをしています。それも、相手を責めるのではなく、自分の問題としてそれを表明するというときに、どんな言葉を選んでいくのか、難しいと思いますが、だからこそやってみる価値があります。

そして、実際、ひっかかっている自分の状況を開示することで、相手もまた自分のパターンにひっかかり、それをまた開示したら、また開示した人のパターンにひっかかるということが連鎖します。

これは、どこかで相手を責めていたり、100%自分のものとして引き受けられていなかったり、自分は正しい、自分にあれこれ言うな、何かを言われると責められている、というようなパターンが相手の開示を聞いていたりします。

又は、相手の開示を聞いていない。それよりも自分がどうかえそうかと考えてしまっている。それらのことにも開示を通して気づいていかれるといいと思います。

この開示は必ず、今の生活に、これからの未来に役立ちます。絶対に。それは、実際の生活にいかされていくし、相手を尊重するということが自分の心身に溶け込んでいき、それがどういうものなのかを体験します。私としてはスキル的なところよりもこちらを重要視しています。

開示は愛の行為、それも自他への。そうやって愛の人になっていくと思っています。ですから、どんどん練習してみてください。

さて、お知らせがあります。18日に引っ越しをします。えっ?どこへ?岩手?沖縄?北海道?東京?奈良?(←憧れの地)・・・いえ、茅ヶ崎です。それもすぐそばで駅から徒歩2分弱のところです。

本当はまだまだ今の部屋にいたかったのです。しかし、引っ越しを選択することになった出来事がありました。これはまた落ち着いたら書いていこうと思います。

で、明日から暫くの間、日記をお休みさせてください。さくさくと引っ越しをすませ、諸々の手続きや、かたづけなどが終わり、新生活がスタートしたときからまた書いていきたいと思います。どうぞ皆さま、お元気でいてください。では、また、お会いする日まで。

心の感覚で決める
2022/01/12

多分、10年位前のことです。

ある、セミナーに参加したとき、先生から、このような質問が皆になげかけられました。

「知り合いの人から、自分を成長させたい、という動機でこのセミナーはきっと役に立つだろうと思い参加したところ、全く内容のないひどいセミナーで、騙されたという気持ちになりました、と聞きました。その後、その人は、セミナーに参加することが怖くなり、どうやって良いものをみわけるのかわからないと言っています。皆さんだったらどうしますか?」

それぞれが考えました。

で、「伊藤さんは?」と聞かれたので「自分の心の感覚で決めます」と言いました。それに対して先生は「それは違いますね、なぜならばその人は自分の心で決めて参加したのにそんな結果になったのですから」ということでした。

その後、いろんな意見が出て、先生としては、とにかくそこに関する情報を集めてよく吟味して決める、ということでした。

このとき、色々と思ったのです。まず、全く内容のないひどいセミナーであったとしても、そこから何かは得ようとしなかったのだろうか?損した、お金がもったいないに終わらせないもある。そして、心で決めるというのは、ほぼほぼ、黒パターンで決めていることになるので、その人は何故そのセミナーに決めたかをその人の中の誰が決めたのか?というところまではいたっていなかったんじゃないだろうか。そしてもし「私」が決めて参加したセミナーであれば内容が酷くても、そこには騙されたは出ないだろう…などなど。

・・・・・・という話まではしませんでした。話だしたら長くなるし、そのクラスにおいては、そういうことは不必要だと感じられたからです。

心で決める、直観で決める、ひらめきで決める、などなどは、あいまいで、根拠がなく、あぶなかしく、幼稚なイメージをもたれやすいですが、誰が決めているのか、が問題です。誰が考えているのか、誰が見ているのか、聞いているのか、話しているのか、行動しているのか。そこをみていくうちに、心で決める、直観で決める、ひらめきで決める、も、養われ、自分が決めるときのとてもいいツールになると思っています。

今日はこれから盛岡です。今年初めてのクラスなので楽しみです。雪・・・どんななんでしょう。とりあえず無事に新幹線が走ってくれることを祈って、行ってまいります。

たくさんある選択肢
2022/01/11

「勇気」(また、この話ですが)を使う。

そう言われると、何かにチャレンジする、嫌なことから逃げない、今迄さけていたことを行動に移す、などなど、積極的に動くことがイメージされると思います。しかし、それだけではない(という新な意味づけ)も自分で考えてみてください。

あえてその場を離れる、逃げる、関わらない、手を引く、今の自分の力量をみて自分を守る、まだできないのに無理強いさせない、辞める、撤退する、規模を小さくする、手放す、そして、嫌われる・・・・・勇気・・・・・というものもないですか?

もしかしたらこちらの方が積極的に動くことよりも難易度が高かったりすることもあるかもしれません。もちろん今までの積極的に動く勇気も、選択肢としてもちながら、新たな意味づけも持ち、そのときそのときの自分に合わせて使いわけていけば、自分を中心にして自分で自分の人生を創っていくことを感じられると思います。

ただ、今迄ずっと積極的な勇気は怖くて使ったことがない、ずっと避けてきた、できればそれを使わずに生涯いきたい、と言う方はぜひ挑戦してほしいです。新な意味づけは、隠れ蓑になる可能性もあるので、そこは自分で考えます。

どんな勇気を使うのかを今の自分をみながら臨機応変に使うということです。中立ワークの醍醐味はここです。で、あらゆる意味づけを持っていると(たくさんの選択肢があると)かなり生きることは楽になります。それはわかると思います。たったひとつの選択肢しかないと、どんな状況であってもそれを使うしかないので、それは苦しくなります。

いつでも、誰にでも、たくさんの選択肢があり、どれを選ぶのかを自由にしてあげればいいです。もちろん選ぶのは「私」です。ここは絶対にぶれずに選んでみてください。黒パターンでは選ばないように、選ぶときの感覚は大事にしてください。

より強い勇気
2022/01/09

「勇気」がどうしてそんなに必要なのか?

それは去年、ある方からデヴィッド・R・ホーキンズ博士の「意識のレベル」についてのレクチャーをいただいたことによります。

それまで、白パターンを作って、選ぶことには勇気が必要でした。今までとは違うものを選ぶには、勇気がいります。そのときにきっと勇気を使って、選び、実践したという体験は多くの方にあると思います(○勇気をもって言ってみよう…のような)私自身もこのあたりに使われるものが勇気だと思っていたのですが、その後の人の精神性の成長のためには(可能性を広げるためには)より、強い勇気、より、大きな勇気、が、必要になってくる、ということを教えていただきました。

特に、他を受け入れる(受容)ためには勇気が必要でそれは白パターンを選ぶときの勇気よりもより強く、大きなものであるということでした。

はあーーーー、そうだったのか。他を受け入れる(受容)にはひたすら優しさ、包容力、というイメージがありますが(もちろんそれもありますが)それらを持つためには勇気が必要になる。それは自分よりも相手を優先する勇気であり、相手を受容する自分の心のスペースを相手のためにあける勇気であり、それを相手に示す勇気、引き受ける勇気、などであることを確認しました。

そして、それから先の精神性においてもより勇気が必要になるのだそうです。最終的に人があらわすことのできた最上の意識レベルは「解脱」「悟り」であり、そこには自分の命を天にあけわたす勇気があるのだろうと思いました。そのことについては、こう書かれています。

「これは人間の範囲における意識の進化の頂点を示す。私という肉体的な区別は存在しないので自分という存在の運命にまったく関心を持たない。神の恩恵であるこのレベルは歴史を通して世界的に記録されている最高水準の人間によって達成された。ブッダ、キリスト、クリシュナがいる。」(パワーかフォースか デヴィッド・R・ホーキンズ著より)ここに至るまでにどれほどの勇気の質を上げてきたのだろう…と思います。まだまだそこには遠い私なので、イメージだけでの思いですが。

で、気づいたのは、これは勇気についてだけではなく、理解、赦しについても同じだということです。この2つも精神性が上がっていくほどより強いそれが必要となります。そして、たぶん、最終的には、天にあけわたすための理解と赦しになるのだろうと思います。天にあけわたすこと、それは、天とひとつになること。魂はそこを目指して、ひとりひとりの中で今を生きているのだと思いました。

それは遥か遠い遠いところのものだとは思いますが、その共通の思いが誰の中にもあると思うと、たのもしい気持ちになります。

勇気を使う
2022/01/08

何ごとも自分次第。

今起きていることに自分がどう意味づけし、自分が何を選ぶのか、結局、そこだけです。そして、その意味づけと、選択の幅を広めて、深めていくことで、それはより質を上げ、より本質的なものへと向かっていきます。

で、本質的なものへ向かっていけば、サポートも起きやすく、それゆえ、この在り方でいいんだな、と自分でも納得していかれるので、それでいこう、とまた進むことができます。と書くと、こうしてよいことに恵まれるんだと思うかもしれませんが、そうでもありません。

進むことで、次の課題は普通に来るし、生活もごくごく普通になります。またそれにより、よいことに恵まれることも追わなくなります。

それでもこの道が魅力的なのは、やはり、自分という人間の可能性を少しずつ実感していかれるからではないかと思います。

去年は「勇気」というものについて考える機会がありました。自分の可能性を広げていくためには、一にも、二にも、勇気が必要になります。

例えば、もう、他人から大事にされなくてもいい勇気(嫌われる勇気という本がありましたね)病気になったり、ケガをしたときにそれを受け取り、治療に専念する勇気、もう、お金にしがみつかない勇気、もう、他人におせっかいをやかない勇気、だらだら見ていたTVやSNSから離れる勇気、こうあらねばならないというルールを手放す勇気、ちゃんと仕事をする勇気、ごめんなさいが言える勇気、嫌われても言うことは言う勇気、弱気になる自分を自分でひっぱっていく勇気、などなど、あると思います。

こういうような勇気を自分に使う、自分に課す、この繰り返しがあるからそれができるようになる=自分の可能性が広がったということになります。勇気なくして可能性の広がりはありません。自分の可能性を広げるってこういうことです。

一般的には、自分はこういう仕事について自分の可能性を広げる、と思います。そう考えると、自分にはこれが向いている、これが合っている、だから、そういう仕事をみつけようとするのですが、実際そうやってみつけたはずの仕事なのに、なんだかなあ、ということがあると思います。

それは自分の可能性を広げているのではなくて、自分の得意なところをやっているということになります(もしくは、自分でもできそうなことを)そこには勇気はいらないんです。大事なのは、勇気を使うことです。勇気を使うのには、怖さや不安がつきものです。でも、そうしていくことで、勇気を使えた自分はあきらかに以前の自分よりも自分の可能性を広げたことになります。こうして精神性をあげていきます。

今の仕事は自分の思い描く仕事ではないかもしれない、でも、そこには自分の精神性をあげていくために勇気を使う場面があるかもしれません。そうであれば、そこで自分の可能性を広げるということができるはずです。全ては必然です。誰でもいつでも自分である「私」がセッティングしていますから。「私」は勇気を使おうー使おうーとしているように思えてなりません。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。
2022/01/07

皆さま、よいお正月を過ごされたでしょうか?

私は大晦日は妹の店「こまめ」にて、お正月の用意のお手伝い。そして、何もせず、年が明けて、普通に7日たちました。何もしないからだと思いますが、ますます、お正月というものがなくなっていっていて、ただ、新しい年になったという感じです。

もし、子供たちがいて、孫がいて、となると、皆で集まり、お正月、という気持ちがわくのだと思いますが、トミーと2人なので、もう、うちはこれでいいね、ということになっています(良いのか悪いのか2人ともおせち料理が好きではないというのもあります)

で、クリスマス〜大晦日〜お正月というときにありながらも、パターンを見たり、熟考したりしている自分をみて、どういうときでもそれは変わりないと思いました。

昔は、オンとオフ(仕事モードとプライベートモード)があり、それはごく普通のことであり、そこにどっぷりと浸かっていました。オンは、やるべきことをやる日、それ用の自分としている、頑張る、我慢する、オフは、やるべきことから離れる日、自分のままでいる、リラックスする、好きなことをする、というものでした。その他にも、特別な日とそうではない日もありました。

しかし、いつの間にか、そのオンとオフがなんとなぁく、入り混じり、境がないような状態になっていき、今はオンもオフもないような状態です(お正月がなくなっていくのに似ています)ある意味、統一された、統合されたというのか。で、そうやっていられることが幸せということでもなく(もちろん不幸でもなく)それが気づけば普通になっていたということなので、それでいいか、という今の状態です。

今はこれをベースにして、今年も自分の課題…自分の愛度を上げる…だけをみつめていきます(永遠なる課題です)自分の愛度が高ければ高いほど、お会いしている方達へ善きものを渡していかれることは、もーーーー、よくわかっています。それだけだということ。ですから、そうしていきたいです。それも楽しみながら。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

1年を振り返り
2021/12/31

早いもので今日は大晦日。今年1年、ありがとうございました。

この1年を振り返り、反省すること多々。まだまだ自分の未熟さを感じたこの1年でした(…と毎年感じています)そして、同時に自分の成長を感じた1年でもありました(これも毎年感じています)毎年、どっちもあります。

で、反省のほうは毎年同じところ。しかし、成長のほうは毎年違う。それを見ても成長とは自分から取りにいくものではなく、天が、これからのこともふまえてちょうどいいものを与えてくださるのだろうと思います。反省のほうは自力で乗り切れということなのでしょう。

このあたりもうまくバランスがとれている気がします。二人三脚の。

来年も今まで通りに天に向かって歩み続けてまいります。皆さんもぜひ、反省点と成長点を具体的に振り返ってみられるといいと思います。そして、ぜひ、来年もご自分の道を歩んでいってください。

健康なときもある。体調の悪いときもある。問題なくいかれるときもある。問題で苦しむときもある。うれしいときもある。悲しいときもある。この良いとき悪いときどちらのときでも「私」が何を選ぶのか、が、重要です。ある意味、それだけと言えます。その在り方を自分で定着させていくことが自己探求の道です。

全員が「私」です。それをことあるごとに思い出し、自分に教え、細胞レベルで浸透させ、自分という個性を大事にして、日々が美しいものになりますように。

どうぞ皆さま、良いお年をお迎えください。お正月明けに、また日記を書いてまいります。

無自覚な習慣
2021/12/30

無自覚な習慣というのがあるのだそうです。

ごくごく毎日、自然にやってしまっている習慣。例えば、朝ご飯を食べながら連続ドラマを見る。朝、必ずコーヒーを飲む。チョコレートをつまむ。お風呂から出たらストレッチをする。私がまさに無自覚で行っている習慣です。

よく考えたら、朝ご飯を食べながら連続ドラマを見なくていいし、コーヒーも飲みたい日と飲みたくない日とがあるだろうし、チョコレートは食べたくて食べているというよりはどこか中毒的。夜のストレッチはいいことなんだけど、その日の体の調子で、やらなくてもいい日もあると思うし、いろんなやり方があってもいい。なんとなく、ずっとやってきているから…というのが、無自覚な習慣。

ここも、もっと心身の声を聴いて、その日、その時、どうするのかを決めていくことがいいんだろうなあと思いました。・・・・ということは、今、どうなのか、に意識を向けるということになります。このあたりがもっと意識的でありたいと思います。

で、なぜ、もっと意識的でありたいのか?というところですが、昔だったら、そうやって、崇高なところ(だと思っていた)へ行きたい、という思いから、その世界の先輩たちがやっていることを自分もまねて少しでもそこへ近づきたいと思っていたからと言えます…が…今はそこではなくて、もっと自分自身をコンパクトにできるんじゃないかという探求心からになっています。コンパクトさを感じられる自分へ挑戦してみたいからです。

無自覚な習慣はだーーーーと流れていっているのに対して、コンパクトにするのは、ひとつひとつが区切れている状態です。なんせ、ひとつひとつを選んでいますから。流れているとひとつひとつがよく見えないのに対してコンパクトであればひとつひとつがはっきり見える。この体験をしてみたい、と思います。

こうして、人って(皆が皆ではありませんが、そういうことに興味を持っている人は)意識の開拓を続けていきたいものなんだと思います。そして、これはひとりでできるものです。いや、ひとりでないとできないものです。そこが素晴らしいところだと思うんです。

これは、ひとりひとりに天が与えてくれたものです。それを与えてもらっていない人はひとりもいません。

この時期が嫌い…というパターン
2021/12/29

気付けば、もうあと数日で今年も終わりです。

毎年書いていますが、1年でもっとも嫌いなこの時期。

スーパーにはお正月用品が並び、人があふれ、ついこの間まで「ホワイトクリスマス」」の曲が流れていた店内に、今は「第九」が流れ、年があければ「春の海」に変わる。

なんか、この、みがわりの早さというのか、これには、これ、という決まりというのか、それがどこにいってもあって、その圧が私は苦手です。

ただ、じっとこの時期がすぎゆくのを待っていますが、これもパターンです。苦手、嫌だ、という感情がともなっているのであきらかにパターンです。

何が嫌なのかをパターンに聞いてみると、せわしなさがただよっている周りがイヤ、自分も同じようにしなくてはいけないように言われているような気分になるのがイヤ、そうやって自分のペースを乱されるのがイヤ、料理が下手だからいつもと違うものを作るのが負担…などなど言っています。

で、もしかしたらもっと何かがあるような気もしています。が、まだそこはわからず。

このように、パターンは、周りから強いられている、自分のペースを乱されていると勝手に思っています。誰も何も言わないし、やっていないのに。ざっくり言えば、周りの状況全てがパターンにとっては思い通りじゃないのがイヤです。これはパターンの特徴ですね。

さあ、ここでどんな白を選ぶのか。といいながら何年もそのままにしています。だから毎年同じことを言っている。何故、白を選ばないのか?それはこの時期我慢をすれば過ぎていくものだからなのでしょう。それが良いのか悪いのか、ということよりもそれほどのダメージではないからだと思います。

しかし、そろそろこのパターンの選び変えもしてみようと思います。方向としては、そういう時期に惑わされることなく、平穏でいられる白です。まだ考え中ですが、来年の今頃、何を思っているか。

利自他
2021/12/28

「利他」 他人に利益となるように図ること。自分のことよりも他人の幸福を願うこと(goo辞書より)

大変、崇高な気持ちになることではありますが。しかし、こうなろうと思ってなれるものでもなく、私は、まず、自然に気づいたら、ちょっとそっちにいっていたな、くらいのものであったらいいと思います。ライトに。その先にここで言われているような「利他」があるのでしょう。

中学生の男の子が恥ずかしそうに目の前に立っているお年寄りに席を譲っている姿を電車の中でみたことがありました。彼は譲ろうかなあ、でも、ちょっと恥ずかしいなあ、誰かが譲ってくれるといいのに…ときっとその迷いはありつつも、意を決して譲ったのです。

そのときに、これは利他である、とか、利他を実践しなくてはいけない、とか、そんな考えは全くなかったと思います。ただ、彼が選択したことが結果利他だったということです。この在り方が私は好きなんです。

自分の中から沸き起こる動機と行動。それが善きものであれば、それは相手の人にとって温かいものとなり、本人にとっても喜ばしいことになります。そのお年寄りが、お礼を言って、席につくと、彼は照れくさそうにして他の車両へ移動していきました。その光景を、私だけではなく、数人の人が見ていて、皆、優しい目でそれを受け取りました。こうやって周りにいる人にも善き影響を与えるのです。

これは「利自他」ですね。そこには誰の犠牲もないので、より、パワフルなのだと思います。「利自他」でいきましょう。それも思考してのそれではなく、自分の中から湧き上がってくる理性「私」の声に従って。その声にしか「利自他」も「利他」もないんです。

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