ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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笑われる
2021/09/24

今日もリュックネタ。局の先輩からいただいたオレンジ色のリュック。すごく気に入り、今日は前かけ、今日は後かけと使いわけも上手になりました。

ある日の朝、出社のため、いつも通りに駅に向かって歩いていくと、目の前に中学生くらいの子供たちが列をつくって歩いていました。それこそ、リュックを背負っていて、たぶん、遠足なのだと思います。2列縦隊が細い道をしめていました。

どのくらいの人数かはわかりませんでしたが、この列の後を、このペースでついていけば、完全に電車に乗り遅れると、焦りました。そこで、列を追い越すようにして、前に進みながら、車が来たら中学生列に紛れ込み、また列を離れ、道の中央へ出て、小走りで前へ進む、これでいくことにしました。

車が来るたびに、列に紛れ込むように中学生に寄るので、ちょっと驚かせてしまうようで申し訳なかったでしたが、そのときには「ごめんね」「済みませーーん」と言いながら、遂行していきました。

よし、この調子でいけばもうすぐ列を超えられると思ったときでした。先頭を歩いていた男性の先生が、急に後ろを振り返りました。そして、ちょうど紛れていた列から小走りに出ていった私に向かって、先生が「そこ、出ない、出ない、ちゃんと列に戻りなさい」と言いました。

≪え?私ですか?‥‥≫まわりの生徒たちは大爆笑し、私も恥ずかしさと、中学生にしか見えない自分を情けなく思い、苦笑い。≪あっ、生徒じゃないんだ≫と気づいた先生は、平謝りで私を先に行かしてくれました。おかげさまで、電車には無事乗れましたが、あーーあ、私はきっとあの学校中での笑い者になるんだろうなあと思いました。

で、局に着き、こんなことがありました、と先輩に話すと、大うけされ、その日のうちに皆が知ることとなります。「何?何?ようこ、中学生に間違えられたんだって?リュックがまずかったかあ?」「そこ、出ない、出ない、って言われたんだって?笑えるーーー」と。それは番組のメインキャスターの人にまで伝わっていて「聞いたよ、リュック背負っていて中学生に間違えられて、注意されたんだって?これ、ギャグだよ」と笑われ、ご丁寧にそばにいたその方のマネージャーさんにも詳しく話をしていました。

あーーあ、しばらくここでもいじられるんだろうなあと思いました…が…そこは放送業界、どんどん新しい情報が入ってくるのでその日のうちにおわりました。

身長150p、当時は童顔で、ジーンズにTシャツで、リュックじゃ、まあ、仕方ないか、とも思います。リュックというと、真っ先にこのことを思い出します。これからもリュックは持ち続けていくと思います。

リュック
2021/09/23

今や、とても普通に使われている「リュック」。

会社員の方も、学生も、高齢な方も男女問わず、バッグではなく、リュックを持っている人を多く見かけます。

私が初めてリュックを持ったのは、22歳の頃でした。当時はまだリュックを使うのは、遠足に行く子供くらいで、大人でリュックを使っている人は、登山をやっている人くらいだったのでは?

それは、ラジオ局にいたころで、そこの洋楽班の男性がアメリカ出張し、そのおみやげにと若い面々にリュックを買ってきてくれたのです。新しいモノ好き、流行のものをいち早く手にいれたいという、おしゃれに敏感なその人がひとりひとりにリュックを渡してくれました。私はきれいなオレンジ色のものをもらいました。

しかし「なぜリュック?」と戸惑う人もいたりして。「これは、リュックじゃないんだよ、バックパックっていって、むこうではすごく流行っていて、これから日本も絶対流行るぜ」と「?」という顔をしている私たちに説明をしてくれました。

で、局内の若い人達は翌日からそれぞれのリュックを背負って出社です。年配のプロデューサーには「遠足か?」とからかわれました。

しかし、これが今まで感じたことがないくらい便利なものでした。なんせ両手があいている。背負ってしまうことで重いものもそれほど重さを感じずにいられる。今迄は大きなバッグにいろんなものを入れて、肩にかけ、そのほかにも袋を持ち、だったのですから、快適でした。雨の日も、リュックであれば、傘をさすのもすごく楽。濡れてもぱぱっとふけるし、何より丈夫です。こうしてだんだんとリュックの虜になっていったのでした。

そして、そのうちに、たまたま前にリュックをかけたら、これがなんと、もっと便利であることに気づきました。リュックを前かけで出社して笑われながらも、外に出る仕事の時には「あれ出して」「これ出して」と言う先輩の指示にも、前にあるリュックからささっと出せる、一目で何が入っているかわかる、体の安定もいい、と、前にリュックをかけることがほとんどになりました。

そのせいか、2度ほど、近所の大使館前で職務質問をうけました(これはリュック派の局内のほとんどの人がそうだったよう)中に何が入っているのか、見せてほしいということで、たくさん入っているテープを見せたことがありました。

そのリュックが今や普通になり、多くの人たちに快適さを与えています。

そして、すごくびっくりしたのは、今、リュックを前にかけている人がたくさんいることです。これって…いつからだったのですか?今の流行ですか?ほぼ、引きこもり状態の私には、この光景は衝撃でした。

以前は笑われていたそれが今は普通になっている。本当にわからないものだと思いました。

お墓参り
2021/09/22

きのうは、母方のお墓へお参りにいきました。

父方のお墓へはお参りをしているのに、ずっと母方のお墓へ行っていなくて、このお彼岸には行こうと決めていました。

フレンドリーなご住職にも、大変ご無沙汰してしまい、久しぶりにご挨拶をしました。お墓をきれいに整え、お花を入れて、お線香をあげて、手をあわせました。

すると、離れたところから「おい、ようこぉーー」と誰かが呼んでいるので見ると、茅ヶ崎に住んでいる叔父でした。偶然にも叔父もお参りに。私が叔父に向かって大きく手を振っているのを叔父のそばでご住職が見ていて「あははははあーーー」と大きな声で笑いました。

叔父の声がけがあり、私が手を振り、ご住職が大声で笑う…このひとコマの中に、私が育った環境が、私をつくった環境がある、と思いました。屈託のない叔父、元気なご住職、親しみやすい人たち。そういう人たちに囲まれて私は育ったと思いました。

母方の祖父、祖母、叔父たち、その家族の周りにいた人々。近所の人々。それは、いわゆる下町の人達で、その人たちの哲学というか、個性というか、そういうものをたくさんあびて私は育ったと思ったんです。人と人の関わりが深いこの土地で。

帰りは上野まで行って、公園を散歩し、ますますそれを感じた日でした。なんだか、ずっと忘れていたものを思い出したような気分です。これからは父方も母方も同じようにお参りしていこうと思いました。

父方のお墓へお参りに行ったときには、すがすがしく、清らかな気持ちになるのですが、母方のお墓へのお参りは、なつかしさと、楽しさを感じました。両方とも私には大事なもので、両方ともが自分の中にはあるとも思いました。

お墓参りとは、そういう、自分の先祖たちの個性を感じて、自分をまた知ることにもなるものなのかもしれません。本当に行ってよかったでした。

それをみつける
2021/09/20

昔、ある人から「あなたは、思考型の人ですね。神さえも思考で捉えている」と言われたことがありました。

そのときにはなんのことだか全くわかりませんでした。しかしここまできて、あの頃は、言われたとおり、神ってこういうものだろうと思考していたんだとわかります。

その後は、神って思考で捉えるものではなく感じるものなんだと思いました。よく神社とか仏閣にいくと「ピリピリ感じる」とか「波を感じる」とか「風が流れてくる」とか(時には見えるとか)と言う人たちを見ていて、あんなふうに感じられて神を知るのかと思いました。自分でも一生懸命その感覚を味わおうとしてみました…が…だめでした。

そんなときに思うのがまだまだの魂だから感じられないんだろう、ということでした。もっと高い魂の自分にならないと神は感じられないんだと思っていました。高い魂の自分になるために、これはやってはいけない、これはやるべきである、こんなことを思うべきではない、こんなことを言ってはいけない、もっと瞑想をしなくてはいけない、神とつながる言葉を口にしなくてはいけない、体に良いものだけを食べてオーラをきれいにしなくてはならない、パワースポットにも行かなくてはいけない、そして、本物の先生につくことが必要だと思っていました。

今思えば、これ、全部黒パターンでした。そもそも、なぜ、神を感じたいのか?という元のところはすっかり見落としていました。

そして、自分に向き合うことを続けていくうちに、いつのころからか、日常の生活の中に神をみつけることが起きてきました。それはごくごく小さなことでした。

お母さんと子供が手をつないで話ながら歩いている姿や、電車の中で恥ずかしそうにお年寄りに席をゆずっている中学生の男の子の姿や、本を真剣に読んでいる人の姿や、楽しそうに連れだって歩いている女の子たちの姿や、お年よりの手をひいて歩いている私くらいの年齢の人の姿や、散歩をよろこんでいる犬の姿や、のんびり寝ている猫の姿や、大空を飛ぶとんびの姿や、美しい自然の姿や…。そういうものの中に神がいることを感じてから、神は自分でみつけるものなんだということを知りました。全てのものに神は宿っていて、自己主張することなく、普通に存在しています。だから皆生きられている。

その人の中のそれをみつける、その物の中のそれをみつける、出来事の中のそれをみつける、言葉の中のそれをみつける、そういうことだったんだ、と今の私は思います。これから先、また自分の成長にともなって神を違うようにとらえるようになるかもしれませんが、今のままでも十分だなと思っています。

大切なことは体験するということ
2021/09/19

気を付けていること、と、悲観的であることは違います。気を付けていることは、常に自分を見ていることですが、悲観的であることは、常に物事を悲観的に受け入れていくことです。そして、それはやはりその結果になります。そしてまたまた悲観していく。自分自身に。自分の人生に。生きることに。

又、反省と自責も違います。反省はそれについてのみをふりかえり、次は気をつけよう、というものですが、自責は、ミスをした自分をだめだ、と責めるものなので、このクセがあるとこれも自分を痛めつけていくことになります。

人への共感と同調も違います。共感は今目の前にいる人を一切否定せずに向き合うことであり、同調は相手の黒パターンを満たすことになります。しかし、ほとんどの人が同調が好きで、それを求めています。だからカウンセリングにおいては特に、同調をしてはいけないことになります…が…同調するカウンセラーが多いです。

ぼーーーっとしていることとリラックスしていることも違います。ぼーーーっとしていることは自分を誤魔化していたり、相手から切り込まれることはないので保身できたりします。リラックスは(多分、最大のリラックスは神と自分だけしかいない状態だと思う)繊細であり、センサーもよく働き、だから、安定していられる状態だと思います。

などなど・・・まだまだ、たくさんありますね。似ているけど違うって。で、大切なことは、これらを知識として入れておくんじゃなくて、実際体験していくということです。悲観も、自責も、同調も、ぼーーーー、も、やってはいけないことなのではなく、誰でも、まずは無意識でやることなので、それを体験し、そこからそれへの結果を受け取り、また自分で考えてみるということだと思うんです。

そうやって体験を通して自分のものにしていくということが豊かになっていくということだと思います。

わからない所にいる人
2021/09/18

「コロナ、今、どうなんですか?ワクチンは、どうなんですか?」とお会いした方に聞かれ、私がウーーーーンと考えていると「あれーーー、一番そこから離れていて、わからない所にいる人に聞いちゃったぁ」とその方が言って大笑いになりました。ほんと、その通りです(よく見ているなあと感心)

で、わからない所にいる私としても、一応、(今のざっくりと両極の情報)を見聞きしましたが。

両極情報には、コロナの脅威、変異株が次々と出てきて、すでに医療崩壊、経済崩壊…の危機。だからワクチンを打とう。そうやって集団免疫をつくりましょう。あなたの大事な人のために、皆のために打ちましょう。

も、あれば(陰謀論的ですが)コロナは嘘、ワクチンは危険。ワクチンにはマイクロチップが入っており、自分の本来の免疫は破壊され、結局は人口削減が目的という人間たちの計画、だから騙されないように。というものもあります。

しかし、私には、どちらも同じようにしか感じられず、わからないのです。

なぜ同じようにしか感じられないのかというと、その2つが同じ領域にあるものだからです。だから主張は真反対であっても、同じにしか感じられないんです。

その領域は「これか/あれか」「私は正しい、あなたは違う」「恐怖」「不安」が特徴です。これらがあると、どうしても体現されていくものはお互いの「争い」です。それは「差別」や「分断」にもつながります。こんな根拠もある、こんな証拠もある、こんな現象も起きている、これだけの数字が示している、この権威ある人が告白している、だからこれが正しいのです、だから、惑わされないで…とお互いに言い続けている。

しかし、ありあまるほどの、情報があるのに、その領域に「真実」がないということを感じます。「真実」「真理」「本質」…それらを感じられるところを自分は選んだ。なんせ、そこに向けて学んできたのですから。そして、お会いしている方達、日記を読んでくださっている方達にも、圧倒的な人数で構成されているこの領域を抜けていってもらいたいと思います。

違う領域にいけばコロナに感染しないのか、というと、感染するかもしれません。苦しむことにもなるかもしれないし、もしかしたら命が終わるかもしれません。しかし、この時代に、この世の中に、その寿命でOKです、と、自分から手をあげてやってきたのは自分です。だとしたら、そうなったときの自分にも真実と真理と本質を見いだせるようで、ありたいと思います。

なーーーんて、マスター級なことを言ってますが、そのときになってじたばたするかもしれないな、私、もあります。でも、じたばたが過ぎたときに、きっと私はそこを見据えるだろうと思います。

そして、これだけは言えることは、もし、そこで命尽きたとしても、私は自分の人生に満足してあちらへいくだろうということです。やりたかったことはやりきった、いろんな人たちとすごしたこの人生は楽しかった、と思えます。

それぞれの「私」は「私」という魂でこの人生を生きることだけを求めています。そして、そこに向かおうとしている人たちにはきっとそれが与えられていきます。今、世の中のほとんどの人達が誰かの言っているその人にとっての正しいことを信じて、そこに従っていきます。それをやめよう、自分で考えようとはその領域でも言われていますが、その領域で考えるということは、そこの中で答えをみつけるということになります。

小さな自分という「神」
2021/09/17

年を取ると丸くなると聞いていましたが、ほんとか?と思います。自分をみていて。

若い頃よりも嫌なものごとはよりはっきり嫌になっているじゃないか…と思います。どこが「丸」いのでしょう。

かと言って、サッポロビールのキャッチコピーのように「丸くなるな、星になれ」というほどの「星」にもなれていない。年をとって「星」になる人もいます。さん然と輝く「星」に。希少だとは思いますが、そういう方は同年代の人たちにも、若い人達にも希望と夢を与えることのできるまさに「星」です。

私、丸でもなく星でもないのならなんなんだと考えました。そこから気づいたのは、近頃「諦める」という力を獲得したということです(それが丸でも星でもない何の形かはわかりません)これはきっとこれからもより育つだろうと思います。

諦めるというのは、ゆだねる、身をまかせる、流れと共に、おまかせする、腹を決める、覚悟する、というものです。最後の腹を決める、覚悟するというところに自分への執着が減ってきていることが感じられます。

これは、私は、若い頃にはまったくなかったものなのでこの獲得には年月が必要だったのだろうと思います。私にとっては、これは魂の課題でもあると思います。昔は、全てにおいて今すぐに思い通りじゃないと嫌だったので、これのバランスをとるためには「諦める」は必要だと思うのです。

そして、やはり近頃感じていることですが、感性は若い頃よりずっといいと思います。若い頃は感性さえも思考していたので、わかりやすいものにしか感性が動かず、今思えばあまりに表層的なものしか見えていなかったと思います。

しかし、これも年をとるにつれて、深まっていったと思うのです。いわゆる…酸いも甘いも…という体験を通して、感性は開かれていったのではないかと思います。そういう意味では年月が必要です。そして、これもきっとこれからもっと育っていくだろうとも思います。

これらは「私」を構成している普遍的資質にあるものですね。気がつけば、獲得したいものが物質や、目に見えて他人にわかりやすいものから、自分に内在している「私」を構成している普遍的資質に変わっていったことが最もうれしいことです。自然とそうなっていったというところには無理がなかったので、そう自分にしてあげられてきたことがうれしいです。

大元から生まれた私たちは、この、普遍的資質を体現して生きるということを目指しています。たくさんある普遍的資質を自分の個性や課題とあわせて体現して生きることを「私」は望んでいます。体現するとは、自分の在り方を表現する、表明するということです。そして、その体現は他人の目にうつるものでもなく、評価されたり、賞賛されたりするものでもないんです(より、体現が純粋化したときには、自然と他人に善き影響を与えています)

それは大きく大きく言ってしまうと小さな自分という「神」がこの地上で生きているということになります。

バランスをとる
2021/09/16

バランスが大事ということはきっと皆がなんとなく、または、はっきりとわかっていることだと思います。

誰でもが「私」が決めるという生き方をする前は、あらゆることのバランスが悪い状態にいます。これはごくごく普通なことです。アンバランスは黒パターンによってつくられるので、まずは、本当の自分「私」ではない生き方をするという事からすれば、必要なことでもあります。

アンバランスゆえのネガティブな感情や感覚、それがあるからこそ、人は、そこではない選択をし、新な生き方をしていけます。そうやって本当の自分「私」として生きることを覚えていくんですね。・・・というか、思い出すんですね。

そこにはバランスをもって(整って)生きる生き方が体現されていくわけですが、この先に何があるのでしょうか?何に向かっているのでしょうか?

バランスをとるということは陰陽を同じくらいの分量で持つということでもあります。ほとんどの人がはじめのうちは陰の分量のほうが多く(時には陽のほうが多いこともありますが)います。

そこを陽の部分を大きくしていくことで、だんだんと分量的に同じくらいになります。そしてそのころになるとこの陰陽が流れ続けていることも感じられると思います。固定しているのではなく、流動しつづけている陰陽。そうやってバランスってとっているんだなという感じです。

で、そこから見えてくることは、陰陽どちらにも属さないところというところです。それは、陰陽どちらへの執着も薄まるということです。陰だけ薄まって、陽は濃くではないんです。この2極にあるもの(特に極端にあるもの)がどちらも薄まる状態。どちらへも執着が薄い状態です。

これは両極から中央へ集まってきているイメージでもあります。中央というのは力が最も強く、しっかりしているところなので、そこに力を集中させたいのだと思う。

バランスをとりましょう、とよく言われていますね。でも、何故?というところも感じられていくといいと思います。

自己主張ではない
2021/09/15

自分の意見を言う、とか、自分の思いを伝える、とか、言うべきことは言う、とか。ほとんどの人が苦手だと思います(多分日本人は苦手かも)

そして、自分の思いを言おう、と言うと、そのモチベーションがないと言えないと思っている人も多いということに気づきました。そのモチベーションとは、相手に言いたくなるような衝動(怒りとか、打ち負かしたいとか、清水の舞台から飛び降りるくらいの勇気や覚悟とか、勢いとか)のことをどうも言っているようだということにも気づきました。

ある意味、けんかごしじゃないと自分の気持ちを言えない、という感じなのだろうか。そうやって負けない対話をしないといけないと思っているのだろうか。

そうじゃあなくって。自分の意見も自分の思いも、言うべきことも、自己主張ではなく自分を表現するということなんです。自分はこういうふうに感じていて、こういうように考えていて、こういう人間です…と表現すること、表明すること。これが自分の意見を言う、思いを伝える、言うべきことを言う、というときのベースに必要なものなんです。

これを持って言ったことは、相手にとっても、あくまでもその人の表現であり、表明であり、おまけに自分との関係を築きたいと思っているから行われていることなんだということまでも感じられます。これをただ自己主張(自分の正しさ)だけでがんがんいくから、うまくコミュニケーションがとれないんです。

こういうことって中学生くらいから教えていくといいのに、と思います。そういうことを習ったことがないまま大人になってしまうので、コミュニケーションがわからず、自分も傷つきたくないし、自分が相手を傷つけてしまって自分が悪者になるのもいやなので、まあまあ、あたりさわりのないところでの話をしていくことになります。これが大人だと思っている。社会ってそんなもんでしょ、と思っている…という領域です。

そこでは、自分の意見や思いを相手がわかるといいなあくらいのオブラートをかけて話す、ということになるので、なあんだか、ぼわっとした話になるし、ぼわっとした人になる。そこには感動がないわけです。心に、魂につきささるような、時には雷鳴にうたれるようなショックはないわけです。

道場では、このあたりも練習したいのです。知識でこういうことを知ってもできないんです。実践して練習して獲得していくものなので。体で覚えろ。こうして大人のコミュニケーションをとれるようになっていきたい。

この数々の道場の練習に疲れたときには「自生塾」の岩崎 マーガレット 葉子さんが作成された「根拠はないのだけれど、、、瞑想」でリフレッシュしてください。私も誘導してもらってゆったり、リラックスしております。誘導されるっていい。

舌ぴりぴり
2021/09/14

今回の盛岡は、清々しい気持ちのよいお天気に恵まれました。お昼にはじゃじゃ麺、夜には焼肉と冷麺と(あと残すところはわんこそば)これもまた充実でした。

いつも宿泊しているホテルにセミナー前日に入ったとき「あーーーそーーーだった」と思いだしたことがありました。それは、部屋に備え付けられていて、お掃除のあとに使われているであろう消臭剤のことでした。

私は近頃、においにとてもとても弱くなってしまっていて、この部屋中にたちこめる(…と感じているのは私で、一般的にはうっすらと匂うレベルだと思う)人工的な香りに舌がぴりぴりしてしまいます。

前回は掛布団に多めに消臭剤がかかっていたらしく、ベッドに入ってからだんだんと舌のぴりぴりが強くなり、眠れず、真夜中に、掛布団を上下反対にセットしなおして、においのついてない側のシーツでそれをくるみ眠りました。あのとき、もう、このホテルはだめかもと思っていたのに、今回ホテルについて、チェックインしたときにそのことを思い出したのです(あいかわらず学習していないんです)

そして部屋に入ってみると…やはりにおう。窓をあけることはできず、しばらくドアをあけて換気をしましたが、さっそく舌ぴりぴりです。そこで布団の上下移動とシーツでくるむ、を、早々と行いました。次の日はお掃除の方に消臭剤をまかないようお願いしました。

このホテルは慣れているし、朝ごはんがおいしいのでこれからも宿泊したいのですが、この舌ぴりぴりが・・・・不快です(ここまで書いてきたら舌がぴりぴりしてきました)

そこで、帰りがけにフロントスタッフの方に「ご相談があるのですが…」ということで次回から消臭剤を使わないで、部屋の用意をしていただくことが可能かどうかうかがいました。すると「もちろんです。次回からはそのようにしてお待ちしています。気づかず申し訳ありませんでした」とご丁寧な返答をいただきました。ああ、よかった。もっと早くに申し出ていればよかったでした。次回からは舌ぴりぴりもないでしょう。



さて、今日はひとつご報告があります。岩手クラスの「魂の道場認定カウンセラー」である中條洋子さんがホームページを開設されました。「魂の道場認定カウンセラー」の頁にアップされていますので、どうぞご覧ください。

私、初めてこのホームページを見たときに「かっこいい!」と思わず言ってしまいました。どこかハンサム感のあるこのホームページと、実際、小柄で可愛らしい中條洋子さんとのギャップがかっこよく感じられたのだと思います。いかにもこの人が作った…というものではない、外された感のかっこよさ。これから、ブログが楽しみです。

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