ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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天災
2025/12/09

岩手の皆様、地震は大丈夫でしたでしょうか。

全く知らずに今朝、知りました。天災はどの地域であっても、大難は小難に小難は無難になって過ぎていきますように。

人には自分自身への執着があります。私もある。もっとこうだったら、こうなれたら、こうしたい、などなど。そしてそれがあるから他人との比較も自然と生まれます。

他人から離れることは少しずつ練習をしていけばできますが、最後に残る人は自分。その自分からも離れていくって、最も難しいことなのだろうと思います。執着を手放すって、難しい。でも、そこに向かいたい。その先にあるものへたどり着きたいからです。

で、天災です。それに見舞われたとき、人は、自分への執着などと言っていられません。まずは生きること。自分には必要だと思っていた数々のものごともなくなってしまったとき、生きるためだけに在る、という自分を初めて体験することになります。

まだ私はそこまでの体験はしていないので推測ではありますが、そこで頑張って生きている自分は、余計なものがない、まっすぐな自分なのかもしれません。そういうことも人間の進化を考えると天が与えるのかもしれません。それにより、元々の生き方を思い出すのかもしれません。

天災って「天」という字が使われています。自然災害も天の計らいのひとつ。何かそこには意図があるのだと思います。でも、人々が守られますように…と祈る。それも天は受け取ってくださると思います。

音楽に親しむ
2025/12/08

昨日、「第九演奏会」(ベートーヴェン 交響曲第9番 ニ短調 op125合唱付)に行きました。いつもの茅ヶ崎交響楽団によるものです。

去年は茅響の第九だから当日でも入れるだろうと、失礼なことを思っていたら、すでに完売で行かれず。今年は早くからチケットを買いました。

茅ヶ崎交響楽団(90名)+ちがさき第九を歌う会の方達(180名)そしてソプラノ、アルト、テノール、バリトンの声楽家の方4人と指揮者の方、と、とても大きなステージでした。第一楽章から最後の合唱付の第四楽章まで、1時間15分ほどでしたが、その力強さと歯切れのよい演奏に満足しました。

ちょうど木曜日に見たクラシック番組でベートーヴェンの晩年の話を聞き、それも重なり、人間ベートーヴェンのことを思いながら聞くことができました。

ベートーヴェンも同じ人間です。その一生には、私の想像を絶する心身の痛手があったことと思います。それでも音楽を続けていくことを願い、その通りに生きたベートーヴェン。そして、そこから生み出された名作の数々。それは現代を生きる私たちに、そしてきっと未来の人々にも感銘と勇気、優しさや慈愛を与え続けてくれると思います。

第四楽章の最後の最後の部分がすごく好きです。演奏者もラストに向かって最も一生懸命に奏でるであろうと思われる部分なので、全員が力強く演奏していて、それを見るのも好きです。こうして聴衆の心もまきこみながら、ベートーヴェンの描いた世界に連れていってくれるのだろうと思いました。

来年も必ずいこう(しかし、何故12月に第九なのか。年始に聞いて「よし、今年もやるぞ」というのでもいいのに、と思うが)

…というわけで今年も音楽を楽しみ、心身を助けてもらいながら過ごすことが出来ました。あんなに苦手意識があったクラシック曲であったのに、ピアノをはじめたことで、その素晴らしさを初めて知りました。音楽を学んでいたころは一体何をしていたのでしょうか。でも、私にとっては今だったのだろう。

これからも音楽に親しんでいきたいです。しかし‥‥これも魂の成長を助けるものとしてあるということ‥‥いつか、まだ先のいつかだとは思いますが、それも手放すときが来る。あちらへ帰るときが近くなれば、それすらも、もう、持てなくなる(というより、多分ではありますが、もう、いい、と自分が思うのかもしれません)魂の成長を助けるものごととは、そういうものだと思います。だからこそ、今、音楽を大事にしたいと思いました。

ゆったりといけばいい
2025/12/07

あらゆるものごとが自分(という魂)の成長のためにあると思います。用意される、セッティングされる。

自分に起きるよいことも悪いことも、小さなことから大きなことまで自分のためにある。そういう視点を持つと、ちょっと冷静に物事を見ることができると思います。

そこで体験したひとつひとつに「よかった」「悪かった」と普通に意味づけをしているのですが、それもまた塞翁が馬であるから、絶対ではないです。

大事なことはそれらから何を学んだか、何を感じたか、知ったか、そしてこれから先、何を選ぶのかです。これは「よかった」ときも「悪かった」ときも同じです。そう考えると、どっちも同じ様に使うことができる。

黒も白も、ネガティブもポジティブも、陰も陽も。この世にある全てのものは、本来、意味がないものなので、同じ様に使えるものとしてあるということです。だから、あとは自分がそれに対してどう使うかです。

なんて簡単に言っていますが、ここが使えるようになるのにはコツコツと意識的にやっていくしかありません。

例えば、私も、体調が悪い日(…という黒、ネガティブ、陰)のときには「嫌だなーー、つらいなーー」と思います。しばし、それだけになり、ぐずぐずと考えたりするパターンが出現。しかし、これに飲み込まれたままではいたくない、と思う(いてはいけないではなく)。そうだね、そうありたいのか、と自分を確認します。(それが白にもなる)

そうすると、そこに小さな灯がともり、それは自分が望んでいるものなんだ、そうありたいんだと再度、確認できます(もちろん、ものすごく痛いとか苦しいとかはまた別の話です)これがとても大事だと思う。コミットしていることになる。

このとても小さな体験が、成長につながるんです。また次回、同じような状況になったときにはまた同じことを繰り返すのだと思います。しかし、そのうちに、繰り返すことは減り、瞬時にどうしたいのか(どうありたいか)がわかり行動することになります。この段階で以前よりは成長していると言えます。こういうことなんだ、成長って、と思います。

そこには自分ができるところの「どうありたいか」でやっていくので、無理がないです。そしてうまくできなくても、違っていても、いつでもやりなおしがききます。そのくらいゆるやかなもの。だから小さなところからゆったりといけばいい、と思っています。

自分のどうしても無理
2025/12/05

「どうして、今の仕事を選んだのですか?」とちょっと親しくなった方には聞きたくて聞いてしまいます。男女、年齢問わず。

どういう動機で仕事を選んだのかに興味があるから…だろう。で、今まで伺ってきた方達(クライアントさんではない方達)の中に数人でしたが「消去法で決めました」という方達がいらっしゃいました。

「消去法とは、様々な選択肢がある場合に、誤りや、あり得ないものを消去していき、最終的に残った選択肢を選ぶ方法。」(Wikipedia)とある。

やりたくないものごと、自分にはどう考えても無理、これは心身がつらい、と思うものを消していくことで選択が絞られていきます。その中から仕事として興味がある、できるだろう、やってみたい、というものを決めていくということです。

で、ある方は「まず、やりたくないことを出していって、消去法で絞っていって、いくつかやってみようかなあというものがあり、それでも、絞り切れないときに、なぜか、そのうちのひとつのことをやる流れになってしまって、やりはじめておもしろいと思うようになり、今にある、なんです」と話してくださいました。

又ある方は「他人と一緒に働くということができない性格なので、ひとりでやろうと思ってこの仕事をはじめました。とはいっても他人とは関わることになるので、それなりに常識も後から学びました」という方もいらっしゃいました。

私も、初めて働いた放送局は、ジーンズで働ける場所だからそこがいいと思ったというものでした。当時、ジーンズが大好きだったので。というか、いわゆる社会人としての服装が嫌で嫌で仕方なくて、あれだけは着たくないと思っていました(今は服装もそこまで厳しくはないのだろう)

それが我儘で、これじゃ社会で通用しないと言われても、そして、そうだろうなということは頭ではわかっていても、やっぱりそれは無理だった。私の場合は選択の基準になったのは着るものだったんです。

そんな我儘を言えるくらいありがたい状態だったことへは感謝していますが(両親も何も言わず)人ってもしかしたら、自分のどうしても無理(嫌なものは嫌)を貫いてしまうこともあっていいんじゃないかと思います。無理なことを、誰でもそうなんだから、皆がやっていることなんだから、働くとはそういうことなんだから、というところに自分をあてはめなくてもいいんじゃないかと。

そういうものだよ、普通はこういうことなんだから、が出てきたときには、本当にそうしたいのか(本当にそうなのか?ではありません。これもまたどこか枠に入れていくことになるからです。あくまでも自分の気持ち)無理はないのか、と自分に聞いてみるといいかもしれません。それがあるから自分の輪郭が見えてくると思います。自分の気持ち(感情・感覚)を知ることでしか自分は見えてこないんです。

自分の決め事を創る
2025/12/04

自分についても、自分の生活についても、自分で決めて自分で創ればいいだけなんです。

もちろん、人はひとりで生きているわけではないのでどうしても他人とかかわることになります。そのときに、そのかかわりがスムーズにいくように、ということで、取り決め事はあります。一般常識とか、皆が共通でもっている認識とか。それも使いながら、でも、自分自身と自分の人生においては創ればいいということなんです。

で、ここに時間がかかります。試行錯誤して、創っていくものだからです。

ここが短期間に一気にできる人は稀で、マスター級だと思います。そのレベルの魂は、自分の決め事を創るのに、どれが必要でどれが不必要なのかがもうわかっていて、それゆえに迷いもないし、全てを的確に選択していきます。そして、能力や才能を使うのではなく、天のルールの中にある資質を使うことも自然に行います。だから時間も労力も無駄にしません。そういう人はほぼほぼいません。

私たちは、何度も同じところを行ったり来たり、または何度も同じミスをしながら、落ち込んだり、傷ついたりして、やっと少しずつそこへ向かうことができます。この時点で魂のレベルというものがわかります。私もずいぶん長い時間をかけています。今だって、完成されているわけではありません。またやっちゃったよ、と思いながら、それでもどうありたいか、で続いています。

そんなふうではありますが、それでも、声を大にして言いたいことは、生きるということは自分の決め事を自分で創るということです。他人の創った一般常識や皆との共通の認識を自分自身と人生の土台にしてはいけないということです。

そして、それが人間にしか与えられていない「創造」というものです。動物たちにはこれは与えられていないのです。だとしたら、それをどんどん使っていこう。

「はい」と応える
2025/12/03

この時期になると、来年のカレンダーがたくさん並びます。可愛らしい動物ものがとても多いです。

そんな中に、目つきのわるい猫のカレンダーがありました。これは、もしや、去年初めてみた「ワル猫カレンダー」の2026年版?と手にとってみたらそうでした。

ぺらぺらめくってみると、今回もワルまっさかりの猫たちが各月のモデルになっています。見かたによっては可愛いと言えそうな気もしますが、一般的には可愛いとは言えない。でも、どこかかっこいい彼ら。

そしてその猫の横に書かれている言葉がなんかいいんです。その言葉も他人から言われたら「はあ?わかってますけど‥」と思うと思いますが、この、目つきの悪い、太々しい、心に傷持つ(ような)、開き直っているような、諦め、達観しているような猫からのメッセージだと思うとどういうわけか「はい」と素直に受け入れたくなる。ウソのない迫力というものなのでしょうか。

言葉のひとつに「弱い奴を守るから強くなれる」というのがありました。そうだね、そうだね、とうなずく私。で、真っ先に浮かんだのがパターンを守る「私」。パターンたちは子供なので弱い存在です。その弱い子供たちを「私」が守ることで「私」自身が成長し、強くなっていきます。「私」を強くするためにはパターンを「守る」ことをやらなければいけない。それはどんなに狂暴なパターンであっても。弱いから狂暴なんです。狂暴の下には恐怖と不安があります。

守ることって怖いことだったり、手間のかかることだったり、継続しなくてはいけないことだったり、時には嫌になったり、と、色々とあります。それも先が見えない中で守り続けていく。そうやって、育っていない「私」は勇気をもってそこへ飛び込まなくては強くなれないんです。「私」だからすでに強いんじゃないです。これは強さだけではなく、どの資質もそうです。

「私」って神の分霊だから、もっと気高いこと、美しいことをやるというイメージがあるかもしれませんが、どちらかというと逆です。とても現実的で、まっとうなことを「私」はやる。でも、まっとうなことがどんどんできるようになっていくうちに気高い強さや美しさが知らないうちに身についていくという感じです。強いから気高いし美しい。強さってとても奥が深くて、強いから、悲しみや寂しさも自由も楽しさも深く知ることができるのです。

そう考えると強さは最も基本になる資質だと思います。強さがどれだけ自分の世界を広げてくれるものなのか。

そうやって強くなるのは、ワル猫が弱い猫を守るのも一緒。「やっていることは同じだね、お互い頑張ろう」とその猫に言いました。「お前もな」と言われた気がします。「はい」と応える。

肯定する生き方
2025/12/02

自分と自分の人生を肯定して生きる…と言うと、それは無理と思う人のほうが圧倒的に多いです。なぜならば…と、肯定できない条件を次々とあげて、だから無理と判断しています。

ここで気づくといいのは、まず、これはパターンであること(「私」はそうは思っていない)です。パターンは自分と自分の人生を肯定できるようになるには、これと、これと、これと…が必要であって、自分にはそれがなかったから、もらえなかったから、今もないから、今さらそれは持てないから、肯定できないと決めているということです。

これは今までの領域のものをそのまま信じているということになります(意味づけがとまっている)もっと言えば、それを選んでいる、そこにいたいということです。そこに苦しさはあるものの、慣れているところだし、それなりにストレス解決法もわかっているので、新なことをしなくてもいいと思えます。

そして、もし、これを基準にして自分と人生を肯定するとなると、誰一人として肯定して生きる人はいないでしょう。それぞれに、この領域での足りていないものはたくさん持っているからです。肯定できるための条件を満たしている人は誰もいないからです、このことに気づいているかということです(ここで自分が今どこにいるかも知り、素直に受け入れる)

で、ここでの学びの一つのゴールは自分と自分の人生を肯定して生きることです。しかしこれもまた、違う条件出しをして納得することでは作れず、短期的に身に着くものでもありません。ただ、言えることは、これを拒むパターンがいると思います。冒頭に出てきたパターンのような。その他にも。そこから入っていかなければなりません。

多くの人がこの思い込みにより苦しんでいます。留まることも苦しく、かといって先に行くことも怖い。だから「私」はどうありたいのか、なんです。ここで初めてアインシュタインの言う、違う領域での解決がなされていくということです。

結論を言ってしまうと、自分と自分の人生を肯定して生きると、もう、十分だという安息間に包まれます。その包んでくれるものに守られていることもわかります。

まだらの状態
2025/12/01

与えてもらえる自分になる。

それは、必要なときに、必要なものごと(物質だけではなく)がやってきて、それを受け取る自分として在るということです。

その時の受け取る心がどんな状態であったらいいのか。それはマスターたちがおっしゃっているように「澄んだ心」の状態だと思います。

「澄んだ心」を思い出すために、そしてこれからの自分がそうなっていくのに参拝(澄んだエネルギーにふれる)も祈りもあると言っている方もいらっしゃいます。

澄んだ心というと、チリ一つ落ちていない、無垢、というイメージがあるかもしれませんが私は心の奥までを見ている視線だと思っています。黒パターンのことも白パターンのことも、澄んだ目で見ていることで澄んだ心は作られていくと感じています。

その視線があり、黒パターンと白パターンへの理解が深まり、それによりバランスがとれていくのですが、これも一気にできることではなく、本当に少しずつ(ガンジーが言っていたようにカタツムリが歩むごとく)ですが、パターンの住む心は段々と澄んでいきます。

それと共に自分はどう在りたいのか…「澄んだ心を持つ自分でありたい」…と決めることも大事です。

そして、その澄んだところに、入ってくるものがある。それが与えられるものです。だから、澄んだ部分がまだらでもいい。それが少しずつ増えていけばいい。ものごとの変化はそんな風になされていくものだからです。

だから、焦らず、腐らず(これらはパターンなので語ってください)自分の心もまだらの部分が広がっていくんだなあ…と肩の力を抜いてやるべきことをやり続けてください。

生きている実感
2025/11/30

いかに、自分自身を含め、物事の、事象の、後にあるものを知っていくか、そのものの奥に在るものを知っていくか…というところだと思う。その視線、在り方があるから自分をはじめ、全てのものは発展していくのだと思います。

これって、こういうことです。これだけでは、そこで止まってしまいます。で、そこに息苦しさを感じるのは、止まっている状態は違いますよ、というサイン。本来は動き続けるものだからです。

それは、こういうことがその後ろにはある、とか、そこにはこういう意味があるのか、とか、今まではこう見ていたけれどそれだけは無かった、とか、今まで気がつかなかったけれどもここにはこんな感情や感覚がある、とか。これらも与えられるものであり探すものではありません。だから、昨日書いたように、与えてもらえる自分の心を創ることになります。

その後ろにあるものに接したときに(少々大げさに言えば)この世界の奇跡を見たような気持ちになります。見たというより、つきつけられた、というほうが強いかもしれません。

こんなにも世界は美しかったのか、こんなにも緻密に全てが計られていたのか、こんなにも守られていたのか、恩恵を受けていたのか、生きることってこんなにも素晴らしいことだったのか、ということに私は感動しました。で、その気づきはその時だけのものではなく、消えることなく自分と共にいてくれます。

これは、特別な力ではなく(スピリチュアルとか、感覚的なことではなく)「生き方」を学ぶということなんだと思います。

「生き方」とはどうやって稼ぐか、どんな仕事をするのか、誰とつきあうか、ではなく(その領域もあるけれど←この領域に対して「人はパンのみで生きるのではない」とイエスはおっしゃいました)自分が肉体を持ってこの世で生きるときに、自分自身との軋轢(ほぼほぼここが原因になっています)なく生きていく生き方のことを言っています。

その生き方を学ぶことが人には必要で、それによりあらゆるものごとが変わっていく様子を見、知っていく体験をし続けることが、どの魂もやりたいのだろうと思います。なぜなら、それにより、生きている実感を感じられるからです。生きている実感は物事の後ろに奥にあるということです。ここをぜひ体験してもらいたい、と願う道場主。

今日も1日1回の語りかけを大切に行ってください。

今年の振り返りから
2025/11/29

11月も、今日、明日で終わり。残すはあと1か月。12月に1年を振り返る、ということが一般的ではありますが、私はどうも毎年11月にこの1年について思うことが多いので、今年を振り返りました。

2025年の大きな出来事は何と言っても今年1月からの「睡眠障害」による心身の変化でした。特に前半は初めてのことだったので、どうにか元に戻そうと必死でそれが原因でかなりまいりましたが、後半になり、それを諦め、なるようになるだろうと適当に応じていくうちに、少しずつ自分なりの睡眠というものを身体が作っていってくれているようになりました。身体としてはこの個体を生かそうとどうにかするんだろうなあと。

で、そこから学んだことは、全て意味があって起きている、という精神性と、加齢により、昔のような睡眠はもうとれなくなっている、という現実(人にもよるのであくまでも私はです)でした。

それらを見たときに、自分の心身とは言え、自分でも認識できていない心身のルール(天のルールを心身は素直に感じ取ってそれで動こうとする)を無視したり、抗ったり、思うようにしようとしたり(全部パターン)してはいけないんだと思いました。

もっと自分の心身を信じていい。なぜならば、私は、私を生かしてくれているものの中で生きていて、そこのルールにのっとって起きていることだからです。

この「私を生かしてくれているものの中で生きていて」ということが深く感じられようになりました。これも睡眠障害のおかげです(でた、塞翁が馬)。睡眠障害が私の目を広げ、すでにあったのに気づかなったものへ視線を向けさせ、今まで知らなかったことを体験をさせてくれました。

こうして人は豊かさを増すのだと感じられました。自分の内が豊かであれば人は十分満足できます。そしてそこにはやすらぎや楽しさが自然とあるのです。

で、そういうことに気づく、そういう体験をするために、何が最も必要なのか、ということです。気づこう、体験をするんだ、ワークを頑張るんだ、と思っていてもそれはやってはこないんです。そうやって自分で勝ち取るものではないからです。とにかく与えてもらうもの(特にとても必要な気づきは)なんです。

ということは…「与えてもらえる自分になる」こと、これが最も必要なことなんです。あちらはとても与えたがっています(もう少し科学的に言えば、似た、エネルギーのところにそれは入ってくるということ)。このことも頭ではわかっていると思います。しかし、頭でわかっているのではなく「そういう自分になる」ということが求められるのです。

では「与えてもらえる自分」になるって?それは、今までワークを通して自分が感じてきたことから少しずつわかってきていると思います。少なくとも黒パターンに突き動かされ、なんとなくそれを選び、それにしがみつきながら生きることではないということはわかっていると思います。では、どうすればいいですか?残り1か月、このことに真摯に向き合ってみるのもいいと思います。

今迄もこの哲学にのっとってやってきましたが、より、その確信が持てたことと、まだまだ、知らない世界が待っているんだということへの楽しみも感じられる1年でした。

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