ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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明るい気持ち
2022/05/22

やるべきことをやっているのに、上手くいかない時というのが誰にもあります。

そういう時には、それはそれとして置いといて(無理やりに動かさないで)とりあえず明るい気持ちでいます。

上手くいっていないのだから、明るい気持ちでいるなんてできないと思うかもしれませんが「置いといて」を練習したことがあるので(もう、昔なので、忘れてしまっているかもしれませんが)その感覚はなんとなくわかると思います。

こういう時の明るい気持ちでいる、というのは、今までのところにいた意識をちょっと違うところへ移していることになり、それにより、上手くいかないなあ・・・と、そのことだけで、いっぱいいっぱいになっている心を1度リセットします。仕切り直しという感じです。

このリセット、仕切り直しという、意識のいるところにより、今までとは違うアイデアが湧いてきたり、間違えていたところがわかったり、より客観的にそれを見ることなどで、今までとは違うやり方を知ったりもします。

要は、上手くいかないときは1度引く。ただその引き先は、明るい気持ちというところ、ということです。

明るい気持ちへ動く…人によって、それぞれだと思います。ある人はその言葉を言うだけで明るい気持ちになるかもしれません。人によっては意識的に呼吸をするだけでそうなるという人もいるし、明るいという自分のイメージを浮かべる、もあります。

このときに、できれば、何かによって癒されるというものではないもの、自発的に自分を誘導できる何かを自分の中に持つことを考えてみてください。そうできるようになると、自分を癒してくれるものがなくてもいつでもどこでもやっていかれます。実はここがすごく大事です。自分の心の「王」に育っていくために。ただ、まだ癒しになる何かが自分には必要なので、それを使うということももちろんOKです。そのときにはしっかりとそうであるということを認識して選べばいいです。無自覚に明るい気持ちになるためには、今までもこれがよかったからそれ、という意識の在り方を少しずつ卒業していきます。

よろしければ試してみてください。

それはどこからきているのか
2022/05/20

「自分はできている、わかっている」という黒パターン。これも多かれ少なかれ皆持っています(昨日の自分は正しいと同じ類のものですね)

で、このパターンが大きく育ってしまうと、それがリーダーとして他のパターンたちを監視し、管理していくようになります。

そのリーダー的パターンは、自分はできている、わかっている、なぜならば、今までにこんなに人に褒められた、こんなに稼いだ、こんなに目立った、こんな贅沢に生きてきた、〇〇大学を出た、賞をもらった、マスコミに出た、すごいといつもいわれていた、優しい人といわれてきた、他の人が体験しないようなことを体験した、霊感がある、スタイルがいい、特出してできることがある、神に愛されている、などなどなど。ありとあらゆることで、なぜならばが構成されています。

そういう一見自己肯定感を感じられるようなパターンなので、自己否定するパターンのことが大っ嫌いです。私はダメだ、私は劣っている、負けている、おくれている、どうせうまくいかない、傷ついたら対処できない、自分には力がない、など。そういうパターンが出てくると、それを押さえつけたり、攻撃したり、言い含めてみたりします。そのパターンがいること自体に腹が立ち、くやしく、なくなってほしいと思っています。というぐらい否定的なパターンが怖いのです。

自己肯定感は一般的にはよいものとされ、それを持つことをすすめられます。しかし、誰がその自己肯定感を感じているのか、というところが最も大切なところです。

で、この黒パターンの自己肯定感により「自分はできている、わかっている」と大きな錯覚をおこしていきます。そうなると、他人の話を素直に聞くということをしなくなります。素直に聞いている様子であっても心の中では「それ、わかっていますので自分、出来ているんで自分」とその黒パターンは言います。なかなか賢いパターンでもあるので、自分にとって得になる人の話は素直に聞き、たいした人間じゃないと思う人の話は受け付けない、ということもやっていきます。

こうして、自分の中での選別、差別というものを確立させていくことになります。それは自然と他人にも行うことになります。

ポジティブな気落ちになった=白パターンの反応…とは言い切れないのと一緒で、自己肯定感=白パターンからのもの…とは言い切れないです。どこからきているのかを自分で観察していくことが必要です。

私は正しい。だから…
2022/05/19

「私は正しい。だから認められるはず」という黒パターン。誰でもが持っているパターンです。

これはあまりにも普通に、なおかつ根深くあるので、気づいても、気づいていないという状態です。

「それって、私は正しい、だから認められるはずというパターンでは?」と私が言うと「そうです」と皆わかっているんです。でも、頭ではわかっているけれど、それが腑に落ちてわかる(決して選びたくないという衝動)のには長い時間と色々な体験が必要になります(だから、ナビの私は言い続ける)

で、これは正しい自分と、間違っている相手、という構図です。こうして自他の分離感を強めていきます。敵と味方のような。そして、とにかく自分が正しいということを相手に認めさせようとし続けます。そのために時間を使い、エネルギーを使い、相手にそれを認めさせる、それをお互いにやっているのがこの世です。

ですからあちこちで闘いがあり、その闘いでどちらが正しいかをはっきりさせ、認めろとするのですが…。不毛の闘いです。だってないからです。正しいとか間違いとか。

で、そこから見えてくるものは、人は、その不毛の闘いを一生かけてしなくてはいられないほど、自分の正しさが通らないことが、自分が認められないことがつらいんです。ひとりでは不安で、不安でしょうがないんです。認めてくれる(あなたは正しいよ、と言ってくれる)他人がいることで、やっとそこにいることができるということです。・・・という領域にほとんどの人がいます。

ですからその波に皆がのみこまれているんですね。ここからの脱却です。

「でも、伊藤さんは他人から認められているじゃないですか」と思う方もいるかもしれません。それもひとつの意味づけですが、もし、私がこの意味づけでいるとなると、いかに認めてもらうか(どれだけ私は正しいか)を強引に出していくという方法をとることになります。そこにおいては自分が生き残っていくためにはその方法しか知らないからです。そういう意味では、このパターンが頑張ることで生きてこれたとも言えます。

私は自分という個性と自分が提供しているものを主張するのではなく、表現し(主張ではなく表現なので受け取る側が主になります)それを見聞きした人が、私と会った人が選んでくれればいいというところでいます。

これは、この在り方であることで、お会いしている方がまだ「私は正しい。だから認められるはず」という黒パターンが考える他人あっての自分というところにいても、新しい波をかぶることになり、その影響を受けることがわかっているからです。真理に近いもののほうが力があります。

そして、そのときには「私は正しい。だから認められるはず」は、実はなかったということにも気づけると思います。そして、いつも言っているように次の領域へ行けば行くほど、楽になります。なぜ?そこが「私」にふさわしいところだからです。

考えるな…
2022/05/17

「そこにただ在るものとして捉える感性」・・・如実知見のこの感性を育てる、磨いていく。思考でできるものではなく、身をもって体験し、自分の身につける。

ブルース・リーが言っている「考えるな、感じろ!」これは映画「燃えよ!ドラゴン」の中でブルース・リーが弟子に言った言葉(私、見ていないのですが)だそうです。武道では、また違うニュアンスではあるだろうと思いますが、ただ在るものとして捉える感性を体験し、感じるためにはやはり「考えるな、感じろ!」です。

言葉でそれを表現するとしたら、意味づけワークのマイナス意味づけでもなく、プラス意味づけでもない中間(真ん中)にある「ただ一つの体験(としてあるもの)」ということです。そこには意味はなく、ただ一つの体験として存在しているということを言い表しています。これが思考的にそれを理解するときには使われますが、これを体験し、感じるということなんです。

そこで感じられるものは?と感じてみるといいかもしれません。ただ、そこに存在しているだけであることを感じてみます。そして自分の中に起きていることもそれとして感じてみる、肉体に起きていることもそれとして感じてみる、自分のまわりに起きていることもそれとして感じてみる、ということです。

感じてみる、というのは、イヤだとか苦しいとか悲しいとかという感情の事を言っているのではありません。又は重いとか息苦しいという感覚の事を言っているのではありません。それが存在していることをただ在るものとして感じてみるということです。

で、道場としては通常のワークの他に全く関係ないだろうというようなことも色々とやります。それは、そこから人によってはこの感じるという体験をする可能性が十分にあるからです。このあたりは貪欲にやってます。純粋に楽しいし。

ブルース・リー師の「考えるな、感じろ!」を貼っておきます。

https://www.youtube.com/watch?v=2d5o8d1kitM

ひとつの練習として…
2022/05/16

如実知見→仏語。現実をありのままに見抜くこと。(コトバンクより)

ここには、見抜く、とありますが、私としては見る、と思っています。

そして、ブッダが述べたと言われる言葉があります「全ての悪の根源は無知であり誤解である」これは如実知見ではないことにより、起こることだと私は思いました(ブッダがそういう意味で言ったのかどうかはわかりませんが…今の私の如実知見への意味づけです)

如実知見という在り方があることを知らないことが無知であり、それゆえにあらゆることを誤解します。この人はこうだ、この人はレベルが低い、この人はすごい人だ、この人では無理だ、この人はできる、これはこう、あれはこう、これはおかしい、などなど。

そうやって自他を決めてしまいます(これも意味づけですね)そこにはただ、現実をありのままに見るというものはなくて、自分のフィルターを通してその自他を見ています。誤解は誤解を呼び、ますますお互いに決めつけて固定させてしまいます。

この、誤解をとき、からまってしまったものをほどいていくのが、如実知見だと私は思います。そうは言ってもこれがなかなか難しい。頭ではわかっても、体験として、体感として身につけていかなくてはならないので、どうしたらいいのかわからないと思うかもしれません。多くの場合、決めつけないでおこう、と思考をしてそのようにする、という事が行われると思いますが、それはいつも言っているようにふるまっているだけなので。

そこでひとつ練習となるものとして、いつもやっているワークが役立ちます。それは自分の中に生まれる数々の感情や感覚に敏感になることです。それを繊細に感じ「そうなんだ」と「私」がそれを見る視線。それはきっとまっすぐで、判断がなく、正直で、リアルで、そこにただあるものとして捉えていると思います。特にこの、そこにただ在るものとして捉える感性を磨くことです。如実知見はその感じによく似ています。

まずは自分の内で練習していくうちに自然とそれは他人に対しても持てるようになります。

ワークって本当によくできていて、いろんな要素を含んでいます。深めていくうちに1つのワークも次の扉が開き、こんなふうにも使えるんだというワークの新な面があることに気づきます。

現実をありのままに見ることが自由につながっていることは言うまでもありません。

15歳の私
2022/05/15

先日TVで映画「小さな恋のメロディ」をみました。(なんか、TVばかりみているようですが、お昼の映画は主婦の友です)

この映画は今から50年も前のものです。(そういえば、今日は沖縄復帰50年です。ご縁に感謝です)10代の少年、少女の幼い恋の物語ですが、今回みて、こんなにも透明感のある映画だったのかと思いました。当時の映画製作スタッフ全員が20代であったということで、20代特有のフレッシュさが画面にのっていたんじゃないかと思います。

そして同時に、この映画を見に行ったときの私(15歳だったと思う)を思いだしました。当時、私は茅ヶ崎に住んでいて、東京にいる友人と一緒に、有楽町にある映画館でこの映画をみました。

映画はロンドンが舞台です。そこで見る初めての外国の街の感じや、学校の様子、制服のすてきさ、街の中にある古い建物、墓地や公園などなど、茅ヶ崎しか知らない私には夢のような世界でした。

映画全般に使用されているのはBee Geesの曲で、その曲の美しさと映像の美しさに驚きと感動を覚えたことを今も覚えています。友人が「ロンドン、行ってみたい」と言っていたことも。

そして、帰りに2人で銀座に出店していた(これも、また50年前、初めての出店だったとのこと)カップヌードル店でそれを購入し、歩きながら食べた(これが当時は流行りでした)ということも楽しい思い出でになっています。

あれから50年かあ…とじんわりと思いました。そして、そのときに心に響く感動を持ったものの記憶って今でもみずみずしく生きていて、それを思い出すときには、心がちゃんとそこにいるんだなあと思いました。

15歳の自分を思い出しながら…よろしければお聞きください。

https://www.youtube.com/watch?v=ICwBIJsLdY4&list=RDGMEMQ1dJ7wXfLlqCjwV0xfSNbA&start_radio=1&rv=PoTmN9TE6F4

追い求めているうちは手に入らない
2022/05/14

昨日の補足として。
「精神領域」に入った人が「物質領域」にいる人を見て、バカにしたり、優越感にひたったり、どこかで闘っていたりということはすごーーーく普通にあります。私もかつてそうでした。自分は知っている、でも、あなたは知らないでしょう、というような。

それはもろ、黒パターンで、その状態がすでに物質領域と昨日書きました。で、そう言うと、物質領域にいる人をバカにするのはやめよう、優越感にひたるのもやめよう、闘わないようにしよう…と、言動という形だけ(外側)を変えようとしやすいです。でも、それは違います。

バカにしても、優越感をもっても、闘ってても、いいんです。というか、パターンがやっていることなので、それを正直に認めるということです。「ああ、そうなんだ」とそのパターンに気づいて、ケアをしてください。決してそういう言動をしてはいけないということではないということを再度、確認してください。

そして、たぶんですが、この状態のときって、同時に「まだ、そんなことしてんだ自分」というようなパターンも出てくると思います。こんなに学んできたのに、こんなにワークだってやってきたのに、まだ、バカにしたり、優越感にひたったり、勝ちたい自分がいるんだ、ショック、自分は成長していないんだっていうものです。これもパターンなので、これもまた大事にしてください。そのままいていいんです。どんなパターンも。

じゃあ、一体いつひっかからなくなるんですか?バカにするパターンも、そんな自分はだめだというパターンも、と思うでしょう。

これは、語りかけをたくさんやればひっかからなくなるのではないです。このパターンへのワークを続けて(でも、それがイヤだからやるのではなく、心を整理していくために)いくうちに、今の自分の状態を本当に受け入れたとき(これでよかったんだと本当に思えたとき)これらのパターンは落ち着き、暴れなくなり、結果、気づいたら、ひっかからなくなっています。

こうで在らねば、と、追い求めているうちはそれは手にはいらず、それでいいんだ、と、今の自分に一切差別をしなくなったとき手に入ります(それは、望んでいるもののときもあるし、より大きな気づきが手に入り、望んでいたものはもう必要ではないということもあります)これは全てがそうです。この宇宙のルールのひとつなんでしょうね。

ですからよく言われているように、やるべきことだけをたんたんと行い、あとは天にまかせるということなんです。

そして、成長とは、今の自分と違う人になることではなく、今の自分の全てを理解し、それで生きることしか実はないということに気づき、それを選択することです。

そのとき、いいあんばいでいろんなことが落ち着き、与えられます。そういう意味でも、昨日も書いたように私たちは何かの力により生かされているんです。

自分の内の「私」が納得する在り方。そして天が納得する在り方をするということです。

領域
2022/05/13

道場では意識の領域を「物質領域」と「精神領域」とにざっくりと分けています。それぞれを「黒パターンを選択している領域」「白パターンを選択している領域」と言ったりもして。ほんと、ざっくりですが。

そして、その2つの領域は、誰でもがまずは「物質領域」「黒パターンを選択している領域」で生きます。そこではあらゆることが誰かのせいで、何かのせいで、そこでの断定的な意味づけであらゆることが行われています。自分自身や自分の人生はまわりの価値観に合わせてつくられています。そこでは、それは当然であり、普通であり、現実ってそういうことと思っています。目に見えるものを多く持つことで豊かになり、それにより皆に認められることが成功することという1つの価値観が頂点にあるところです。そこで楽勝であればそれはそれでいいのですが、もし、そこで成功しても今度はそれを失うことが恐怖なので、なかなかハード。

そこで一生を終える人がほとんどですが、何かそこにいることに違和感があり、苦しさがあり、そこで求められることだけなのだろうか?と疑問をもったり、病気やケガやうまくいかない人間関係や大きな問題にぶちあたり、そこにいられなくなった、という人達が、何かのひょうしにその次の領域「精神領域」「白パターンを選択している領域」に移動していきます。

意識の領域はこのざっくりの中でも細かく分かれていて、その後もまた次々と上がっていきます。それは上がれば上がるほど、真理に近づき、人本来の生き方をしていくようになります。

で、ここからが大事なんですが、「物質領域」だからレベルが低い、「精神領域」だからレベルが高い、ということではないということです。ここを間違えないようにしないと、私はあの人のようにお金に執着していないし、肩書だの、認められたいだの、もう、そんなレベルではない。私はそんなものより崇高な真理に近づくという「精神領域」に生きている…と優越感を感じたり、物質領域にいる人たちを下に見ることで自分の存在意義を感じるというような、もろ、黒パターンとして生きることをしてしまいます(この時点で物質領域にいるんですが、そこに気づかない。←これが物質領域の証)

領域って、ただ、それぞれの領域には、こういう特徴があります、というだけのことです。「物質領域」はその担当で、そこでやるべきことをやっているというだけのことなんです。これもまた天が豊かになるためのものでもあります。

また「精神領域」はその担当で、そこでやるべきことをやっているだけなんです。それぞれの特徴のある領域をただやっているだけ。ですから「物質領域」にいることがだめではなく、低いのではなく、そこで生きたいと言う人はそれでいいわけです。全てが必要なんです。そこを間違えない。

よく見てみれば、精神領域にいる人ができない物質領域での成功をしている人たちがそこにはいて、自分のできないことをそこでちゃんとやっている人たちがいるわけです。

ただ、過去世や今世の課題やら、何かの力で、そこで生きられない、耐えられない体験をし、移動させられてしまう、という在り方で上がってきているのだと思います。これも自分の意思だけで上がるのはたぶん魂がマスター級の人のみなのだと思います。

・・・・というように何かによって動かされているのが私たちなんです。

こんなレベルか…
2022/05/12

茅ヶ崎は狭い町なので、日々の買い物も決まったところしかありません。

横浜から茅ヶ崎に引っ越してきて、15年ほどになります(その前も15年ほど茅ヶ崎に住んでいました)

近頃、買い物時に、ちょっとひっかかることがあります。それは「いつもありがとうございます」と商店の方やスーパーのレジの方から言われることです。これがイヤなんです。イヤという感情がわくので、パターンです。

ほぼ毎日のように同じところで買い物をしていれば、そう言われることだってあると思います。相手の方は感謝の気持ちからそう言っているのもわかります。

でも、イヤなんです。何がイヤなのかというと、覚えられたことがイヤなんです。覚えられたくない。ただ「ありがとうございました」で終えてほしい。とパターンは言います。

でも、よくよく考えてみると「いつもありがとうございます」と言う人の中には好きな人もいて、その人が言う分にはいいんです。好感を持てる人はその言葉を言っていいけれど、そうではない人は言わないで。覚えないで。という感じです。

モーーーーーー本当に、なにこれ、なに言っちゃってんの、あんた。こんなレベルか…と思います。

しかし、白パターンを作り選び変えをしてとは実は思っていなくて。これはこれでいいと思っています。日常生活に支障があるわけではないし、相手のせいではもちろんなく、自分の問題なのでそう言う相手の方にも普通に接しています。そして、このこだわりが、どこか自分の個性の片りんを感じられるものでもあるので(子供の頃から目立ってしまうことがいやでした)

ただ、わかったことは、私はこれからもこのように、なんだかよくわからないことを言いながら面倒くさいばあさんになっていくんだろうなということです。よそ様に迷惑をかけない程度であればいいと思います。これも自分の個性として大事にしてあげたいのです。

ちょっとごちゃっとするかもしれませんが、黒パターンは全てを白パターンにかえていかなくてはいけないというものではありません。そこに起きていることを自分の責任として受け入れられていて、まあまあよしとするものも、パターンの中にはあります。自分の個性の片りんっぽいやつ。

「私」が抱えられておもりできる、暴走させなければいいわけで。自分にとってどこまでがそれでどこまでがそれではないのかも自分の奥にどんどん入っていくことで探し、決めていくしかありません。

そして、この感覚が実はワンネスというところへもいずれつながっていくのです。それは、きっと、その時が来れば、扉が開いて自然とそこへの気付きもおこります。いつか、このことも話したいと思っています。

土地の整備
2022/05/11

語りかけをやってね、とずっと言っていますが、語りかけをやっていれば変わるということではありません。しかし、それが必要なことであることはわかると思います。

語りかけは黒パターンの荒れ地を整備していくようなものです。土地を整備して、その上に王国を創りたいので、整備=語りかけというとらえ方もできます。まず、土台作りです。

ひたすら毎日、何度も何度も語りかけしていれば何かが変わると思いがちですが、絶対に変わりません。それを行う動機(誰が語っているのか、語りたがっているのか)によっては、パターンを増幅させることもあります。

では、変容のためには、必要な気づきのためには、何が必要なのかというと「私」はどうありたいのか?という自分への問いをいつも持つことです。ここに白パターンの登場というものが(わかりやすくするために)あります。フランクルの言った「人生はあなたに何を求めているのか?」というものです。

だからと言って、すぐに白パターンを登場させるのは違います。早く、白パターンを選んで楽になりたい、成長したいと思うのは黒パターンなので、そういう場合ほぼほぼ黒パターンが白パターンを選んでいます。「私」は早く、早く、成長、成長とは思っていません。そのあたりの微妙なところは自分で理解していくしかありません。

私が以前お世話になった先生のところでは「私」はどうありたいのか?を「理性的思考」という言い方をされていました。これも全く同じことを言っています。黒パターンは「エゴ的思考」であり白パターンを選ぶ「私」のどうありたいのか?で導き出されるものが「理性的思考」であり、いかに「理性的思考」ができるか?というところで初めて人は変わることができます。

「理性的思考」にはいろんな要素が必要になります。例えば、物事の後ろにあるものを見る、理論立てて理解する、起きていることをゆがみなく見る、目先の損得を使わない、そこに含まれているあらゆるものを見ること、パターンを管理し、抑制すること、などなど。難しく感じるかもしれませんが、ざっと言ってしまうと、普遍的であり多方面的であり利他的であるということだと私は思います。

黒パターンはひとつの見方しかできず、自分のことだけです。

人は「真・善・美」に触れているとき、またはそこを魂の大欲として目指し、そこで行動するとき最も幸せを感じます。

そこへ向かうためにも、黒パターンを甘えさせないということがとても大事になる時というのがあります。それは「私」はどうありたいのか?が黒パターンに勝ってきているときであり、そこには良い意味での黒パターンを抑え込んでいくことの必要性が感じ始められるときだろうと思います。

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