ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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新な学び方を…
2025/04/14

今迄の学び方が誰でも身についています。もちろん私も。なぜならば、そういう学び方しか教わってきていないので、当然、それは自然と身についています。

で、仕事もその学び方と同じもので回っているので、ますますその学び方、やり方というものがしっかりと自分の身につき、ほとんどのことはこれでやっていかれます。これがダメだとか無駄だと言っているのではありません。それも知っている、ということです。

しかし、そうではない学び方というものもあります。でも、これは絶対必要なものではなく、それを求めている人が自分の身につけていけばいいものです。これがないと生きられない(この世において)というものではありません。だから知らない人が多いのだと思います。

で、ここで学んでいることはまさにそういうものです。今までの学び方では身につかないものです。今までのそれの真反対にあるようなものです。前者はわかりやすく、後者はわかりにくい。でも、後者を先に教えられていたら、前者は分かりにくい…となるのかも。

この相反するものを両方身につけて魂は本来の姿になるのだろうと思います。だからそういう学びは自分自身のバランスをとるという意味で、何より生きる意味ということで、とてもいいと私は思います。片方だけではなく、両方を知っていて、体験している状態です。

こうであれば「楽」というよりも、こうであれば本来の自分でいられるということです。本来の自分でいられるから結果「楽」なんです。ということは、片方だけでは「楽」ではないんです。ひとつに偏っている状態だからです。

ついつい、今までの学び方で、この学びもやっていきやすいですが(慣れてるから)今自分が学んでいることは新な学び方を学んでいることなんだ、あとの半分を学んでいるんだ、という視点をもってみるのもいいと思います。

その際、どんな資質が必要になるのかを自分で考えてみるとよりクリアになってくるかもしれません。

謙虚であれ
2025/04/13

先日、久しぶりに図書館へ行きました。散歩の途中でちょっと疲れてしまったので休憩をしに。

あの、つきあたりの、大きなガラス窓のところにある椅子に座りたい。そして、そこから見える樹々を見上げたい。まるで森の中にいるような気分になれる所です。

で、席が空いているといいなあと思いながら、奥へ進んで行くと…「えっ、えーーーーーー」。広いガラス窓から見える、大きな樹々の上部がみごとに切られ、空が見えている。今までの樹々の枝や葉がない。これはもう、森ではない。ただの空き地(なんで?なんで切ったのぉ?)樹々の下部は残っているので、また育つとは思いますが、あの大きさに育つまでにどのくらいかかるのか。

今まで、確かにうっそうとしていた樹々のために部屋に光が入ってきずらい状態ではあったと思いますが、こんなに明るく、すかすかになっちゃって。

あまりのやるせなさに、早々に図書館を後にしました。もう、来ないかも。

こうしてみると、本を読みに、何か調べものをしに私は図書館に行っていたわけでもなさそうです。落ち着いて本を読みたいときに利用していましたが、きっとこの森の中にいるような気分であれたから落ち着いて読めていたのかもしれません。

こうして、思いもよらずに気に入っていたものが急になくなることってある。これはこの世の常ではありますが、結構なダメージでした。

私はここの大きな樹々に助けてもらっていたということがよくわかりました。物言わぬものたちですが、その大きさや、優しさや、包容力、それがなくなって初めてそういうものを与えてくれていたことに気付きました。その存在の持つ力を感じたり、そこから学んでいることに気づけていればよかったと後悔しました。そして、それを樹々に伝えられればよかった。樹々はそれを受け取り、そこに関係ができる。それが共存していくということだと思いました。

本当に日々教えられることだらけです。私には今年になってからそういうことが続いています。学べということを言われているような気がします。謙虚であれ、自分。謙虚でないと感じられるものも感じられない。そこに在るものも見えない。

出張中のご飯
2025/04/11

出張中って、ご飯を作らなくていいのが、ほんとうにうれしい。沖縄へ行っていたときも、山形へ行っていたときも、そして現在の岩手へ行っているときも。何がうれしいってご飯を作らなくていいことです。特に朝ごはん。

現在は岩手だけになりましたが、いずれの地も、朝ご飯が楽しみでしたし、実際とても美味しかった。好きなものを取り、自分のペースで食べて、あとかたずけもしなくていい…食べ物自体の美味しさもありますが、この、状態が美味しさ倍増になるのかもしれません。極楽ごくらくーーーーと本気で思う。

で、先日の岩手盛岡での朝ご飯のときに、自分がいつも同じようなものを取っていることに気付きました。これ、無意識にとっている。体が取っている。サラダ、おつけもの数種、魚、蒸した野菜数種、出汁巻き卵、ご飯とお味噌汁、フルーツ。そして部屋へお持ち帰りのコーヒー。だいたいいつもこのあたりの和食です。量的にもほぼ決まっています。

パンや、牛乳、ジュース、ヨーグルト、シューマイや、豚の角煮、ハム、目玉焼き、カレー、肉の炒め物、などは選んでいない。体が取らない。

周りを見ると皆さん、かなりのボリュームで和食、洋食を選んでいる。ちびっこの私が食べる量は皆さんが食べている量とは全然違うんだなあとも思いました。

体が食べたいものを、食べたい量で美味しく食べる。本来、こうして食べることが食事(たべること)なんだろうと思いました。

何を食べるといい、これは食べてはいけない、この量にしなければいけない、などなど頭で食べることはつらい。確かに今の自分の体にとって入れてはいけないもの、入れたほうがいいもの(今は)というときもありますが、嬉しい気持ちと単純に美味しいと感じられることを土台にして、でも、あまりにそれだけを重要視しない、ライトな食事をしていきたいです。結局、食事をして満たされた自分がその後、何をするのか、という事が最も大事なことだから。

出張中のご飯はその感覚を教えてくれているようです。それを持って日々も過ごすといいのだろう。本当にあらゆることから教えられているんだなあと思う。

向かっているのは…
2025/04/10

パターンはそのままでいい。自分の国に住んでいる民(パターン)はずっとそこに住んでいるのだから、そのままそこにいさせてあげよう。その姿を変えさせたり、家に閉じこめることなく、自由に暮らさせてあげよう。彼らが出たいときに出て、そのときに一緒に出てくる感情も感覚もそのままにしてあげよう。

「王」(「私」)が全ての民をお守りして、統率していかれれば、彼らは自由でいいわけです。そういう状態が自分を赦すということなんじゃないかと思います。自分の内の全てを赦す。赦すとは理解するということ。理解ができるから赦せる。

というように、自分に対して(それはいつか自然に他人に対しても)赦すということが少しずつできていくから、楽になるのです。

決してパターンにひっかからないから楽になるのではなく、又、そうなることを目指しているのでもなく、ひっかかってもひっかからなくてもそれはパターンにまかせて、何にしても「私」が対処していくから楽なんです。

私は先日、ある人に対してパターンがさわぎました(お会いしている方々ではありません)その人を認めようと(認めたいと)思うのですが、パターンがなんだかおもしろくない気分でいることに気づきました。一体何のパターンなのか‥‥まだ見えてこないのですが、そういうとき、カウンセラーなのにそんなではだめだ、とか、自分の未熟さが嫌だ、とか、まだ、こんなレベルか、とか…はないです(もし出てきたらそれもパターンなのでそれを赦せばいいだけで)

やるべきは、おもしろくない気分のパターンを探すことだけです。そしてそれをみつけたときには、王(「私」)が語りかけます。暫くそれを続け、いつもの白を言います。そしてそこに沿った言動をしたいからする。その結果、とか、その後の変化とかは求めず、ただこれだけをやっていきます。

その結果、とか、変化とか求めないんですか?と思うかもしれませんが、それらは自分の言動に対して与えられるものだと思っているので、それはあちらにおまかせをしています。それよりも、そうできる自分にうれしさを感じるし、そうありたいという思いを何よりも大事にしています。

こうしてみると、パターンをどうにかしたい、パターンがさわがないようになりたい、というのは「私」のやり方ではないということもわかると思います。ここがあまりにシンプルなので逆に難しいのかもしれませんが、向かっているのはこういう世界です。

ホテルにて
2025/04/09

今年初の岩手クラス、無事に終わりました。

今回は前回お休みしたのでやることが盛りだくさんでした…が…結局、見ているところは1つなので、たくさんやったことの中からその見ているところってどこ?を感じてみるといいと思います。そう、見ているところは1つなんです。そこへ向かうことはぶれずに来ているつもりです。これはクラスでも個人でも。

さて、私は、人工的な香りにとことん弱いのです(この頃は特にです)そこで、同じホテルに長い間泊まっていたので、そのむね伝えて、宿泊の時にはお部屋に消臭剤をまかないでおいていただいていました。多分、今やどこのホテルもエチケットとしてそうしているのではないかと思います(実際は他に泊まっていないのでわからないのですが)

そして、あのちょっと怖かった体験をしたあの階にはあれ以降、泊まることはなく今までいられました。今思うとこのことも、消臭剤とともに配慮していただいていたのだと思います。

しかし、今回みごとにこの2つに遭遇。後からスタッフがほぼほぼ入れ替わり、伝達されていなかったことがわかり、初日だけは苦手な2つに対応して過ごしました。泊まったお部屋はあの部屋の真向かいでしたが、何ごともなく。2日目からは新しいお部屋で快適に過ごすことができました。助かりました。

今回、セミナー会場に、古着やさんが出店していました。古着にはあの独特の匂いがあります。そのフロアーにはその匂いが漂っているわけですが、その匂いは平気なんだ、と思いました。人によってはあの匂いがダメという方もいらっしゃると思います。

このあたりおもしろいです。

自分の最善
2025/04/03

その時々で自分が具体的なものを選ぶ…と昨日書いたのですが。

この、その時々に自分が選ぶというのは、一瞬一瞬、自分がどういるのか、ということです。「いつもいい気分でいる」というのはこのことで、それは、一瞬の時に自分が選んでいる(…と言うより創っている)気分のことを言っています。気分と言っていますが、それは、いわゆる感情・感覚ではなく、その時の自分の最善と考えるといいと思います。それにより、そのときに自分という意識がどんな状態でいるのかが決まります。

これについては、人間の自由意思でなんでも選べます。よいものでも、よくないものでもそこは自由に。そして一瞬一瞬を重ねながら、そこに宇宙が関与して、その結果を受け取っていくのだと思います。

ここで起きていることは、大それた選択(創造)ではなく、一瞬のスペースに入るくらいに、小さな気持ち、小さな思い、思考、などです。それら全て最善のものであったらいいと思う。

それが持てるようになるためには(←あまり、この言葉は使いたくはないんだけれど…)自分に目を向け続けるということになります。

そう言われてしまうと、面倒くさい、神経質っぽいと思うかもしれませんが、そのくらい自分自身を自分で見て、管理(コントロール)出来るようになること自体が楽しく、嬉しいと感じると思います。これも少しずつ、継続していく。

さて、今日はこれから盛岡へ行ってきます。今年初の岩手クラスです。楽しく、深く、学んでいただけたらと思います。

そういうカラクリ
2025/04/02

「そういうカラクリでできているんだ…この宇宙は」と私は思っています。

そして、それを指針にして物事を見極め、決めるようにしています(時々、パターンのほうを選んでしまうこともあるけれど←この場合、ちゃんとその結果が来るので、後から後悔することになる)

スピの世界で言われている「自分の思いが現実を創る」から「心がすべてである。あなたはあなたの考えたとおりになる。あなたはあなたが感じたものを引き寄せる。あなたはあなたが想像したものを生み出す」という仏陀の言葉まで。もちろん、これだけではなく、それを伝えている人たちはたくさんいます。

そこには「そういうカラクリ」がある。そして、それが科学的にも解明されつつあることも嬉しいところです。

人という意識。どんな意識の自分でいるか、何を選択するのかということがどれだけ大事なことか。これは今までの自分と今の自分を比べてみたときに、歴然とわかることです。それはきっとこの道を歩んでいる方達も体験していることと思います。自分が体験したことだから信じられる。

で、そういう宇宙をもっと信頼していいんだと思うんです。信頼すれば宇宙が良く計らってくれるからというご利益を求めるのではなく、現実として、自分の思いを変えることで、確かに変わってきた、自分自身が、自分の生活が、生き方が、仕事や他人に対する思いが、人生が。ということ。これは確かなことになると思います。

どんな意識の自分でいるか、何を選択するか、というときに「頑張る」ということが浮かびやすいかもしれませんが、この「頑張る」は曖昧過ぎます。ここはその時々でより具体的なものを選んでいったほうがいいです。この場において、この一瞬において、今の自分にとっての具体的なものごととは?と考えてみるといいです。

どんな種を蒔くのか
2025/04/01

昨日は寒い中(気温7〜8度。曇り)中央公園にお花見に行ってきました。というか、いつもの散歩コースにお花見が加わっただけですが。

公園の外側にある歩道は左右に桜の樹が植えられていて、ほぼ満開でした。そこはまるで桜のトンネルのようでした。茅ヶ崎は桜の名所と言われるようなところがなく、駅近で桜を見るとしたらここくらいかもしれません。特別なところがない茅ヶ崎にはふさわしい位の桜の道。

で、桜のトンネルの出口付近で、その歩道の測量をしている人達がいました。男性ばかり、7、8人ほど。人が行き来しているところで測量をするというのは大変そうでした。

歩いていた私は、このまま通っていいのか、ちょっと待ったほうがいいのかわからずにそこで立ち止まってしまいました。すると、親方のような方が、近くにいた測量員の男性たち3人に「バカみたいにつったってんじゃぁねえよ。ちゃんと通る人の誘導をしなきゃだめだろう」と大きな声で言いました。

言われた男性たちは若い人たちで、新入社員なのか、バイトなのか、その言葉に困った様子でした(初仕事だったかも)結局、他の測量員の方が誘導してくれて、私はじめ、立ち止まっていた数人はそこを抜けることができました。

さて、親方に注意された3人の若者が、ここで、どんな種を蒔くかです。

親方の注意に対して「そうか、自分ができることは何だろう。考えてみよう、わからなければ聞いてみよう」という種を蒔くのか「そんなこと言われたってわかんないよ、だったらちゃんと指示しろよ」という種を蒔くのか「ほら、やっぱり注意された。自分はいつでも注意されるんだ」という種を蒔くのか。

人間なので、こんなふうに単純な気持ちだけではないですが、ざっくり言って、どう自分に起きたことを受け取るのかです。その受け取りがそもそもの種になると私は思う。ネガティブに受け取り(黒パターンで受け取っている)それを決める。又は、ポジティブに受け取り(白パターンで受け取っている)それを決める。それによって結果は変わってきます。

と言っても、そういうカラクリでできているんだ、この宇宙は…と気付くまでに時間がかかるし、気付いてからそれを自分が試しながら実践して練習していくことでそれは活きたものになるので、ここも時間がかかります。

でも、いつか、そういう体験をしてくれるといいなあと思いました。近頃は、若い人を見ると特にそういう気持ちが湧いてくる。老婆心であろうか。

こうして、今日、この桜の道を通り、この場面に出くわしたのも私に起きたこと、与えられたことです(全てが与えられていることだと前に話したと思います)そこで自分はどんな種を蒔くのか…です。

親切心
2025/03/30

先日、ある商業施設のエスカレーターでのできごと。

1階下へエスカレーターで降りようとしたら、私の前の前に大柄なおじいちゃんがエスカレーターに乗れずに立ち往生していました。片手には大きな袋を2つ持ち、もう片方の手には杖。バランスが取れずにエスカレーターに乗る事ができないでいたんです。

後ろには人がどんどんたまってしまい。私の前にいた女性がおじいちゃんの腕を支えて「大丈夫ですか?お手伝いしますよ」と声をかけました。するとおじいちゃん「よけいなことしないで!」と言い、再びエスカレーターに乗ろうと挑戦します‥が‥乗れず。後ろにはますます人がたまります。声をかけた女性が振り返って、私に「よけいなことしないで…っていわれちゃったのよ…」と何とも言えない顔で言いました。

でーーーダメ元で私も声をかけてみました。「お荷物を私が持ちましょうか?」と。すると「ありがとう、お願いします」と言って大きな荷物2つが渡されました。これで片手があいたのでエスカレーターのベルトを握ることができるため、おじいちゃんはエスカレーターに乗ることができました。そして1階下のフロアーへ到着。「この階でいいんですか?」と荷物を渡しながら、おじいちゃんに聞くと「はい。本当にありがとう、お世話になりました」とおっしゃる。

よかった、よかった、と思ったのですが、なんか、視線を感じる。すると「よけいなことしないで」と言われた女性がじっとこちらを見ていました。

そりゃそうだろうと思う。自分にはあんなこと言っておいて何でこの人にはお礼を言っているのよ…と思うよな。親切心から最初に声をかけたのは自分なのに、とも思うよな。もし、逆の立場だったら私もそう思うだろうな。‥‥と。

こういう事も現実には起きる。しかし、現実に起きていること自体だけが見るべきところでもない。あの女性が心に持った親切心は本当だったと思う。それに従ったのだから、その親切心はあの女性自身にかえってくる。今すぐではなくても、きっとかえってくる。

後から、なんですぐ横にあるエレベーターを教えてあげなかったのだろうと…エスカレーターに乗ることだけに目が向いてしまっていた自分の思い込みに反省。

強いメンタル
2025/03/28

自分の精神性を上げていけば、強いメンタルの持ち主になれると思われがちなんですが。

強いメンタル…何があってもそれに飲み込まれることなく、平穏な心のままでいる。いつも平常心。嫌なことや心配事や、問題にも理性的に立ち向かうことができる。そして、超強いメンタルであれば、嫌なこと、心配事、問題さえも持たない…という感じでしょうか。

ミームが上がれば、領域が上がれば、そうなれると思っている人は多いのかもしれません。ということは、現状が嫌、つらいのだと思います。

いろんなことに飲み込まれて右往左往したり、一喜一憂したりする現状が嫌なんだと思います。揺れ動くことでのストレスやプレッシャーを感じながら生きることがつらいので、確固たる、保証された、そうではないものを手に入れたい。

それは、自分のメンタルを強くすること。そのためにはミームを上げること、領域を変えること、それできっとそれは手に入れられると思います。人によってはミームだの領域だのわかりにくいものよりも、空手を習う、滝行をする、仕事をガンガンする、放浪の旅に出る、などを選択する人達も大勢います。ここも、何故?と問いてみれば、メンタルを強くしたい、というものが出てくるかも。元は同じな気がします。

というように、強いメンタルっていうものがあり、それが手に入れば、わずらわしい自分の感情に振り回されて生きなくていい、と思う。

で、本当に強いメンタルとは、わずらわしい自分の感情に振り回されて生きられるメンタルだと私は思います。そういうメンタルを自分で作っていくことが自然とミームや領域を上げていたということで、ミームや領域が上がったからそうなるのではありません。いつも言うようにそこを与えるのはあちらなので。

この在り方をよくよく見てみると、ただ強いだけではなく、多くの知恵を含んでいる。だから、わずらわしさを持ちながらも、平和を感じたり、感謝を感じたりするのだと思います。

道場として目指しているのはここです。わずらわしさが一切ありません、という極端な在り方はパターンとしては楽だけど人としては無味乾燥。いろんなものを持っているから魅力的な人になる・・・・と思う。

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