ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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ひきあげる
2020/03/24

白パターンを選んで行動って、クライミングで次の足場、手場を探し、そこへ足や手をかけてぐっと体をひきあげて、自分のいる位置を進ませる感じと似ているんじゃないか、と先日、クライミングのシーンをTVで見て思いました。

白を選ぶのは、次の足場、手場をみつけてそこに足や手をかけた状態。でも、かけているだけではだめで、そこからぐっと体全部をひきあげるわけですが、それが行動。そうやって新なところに行く。そしてまた次の足場、手場をさぐっていく。クライミングはやったことないですが、きっと体の感じはそんななのではないか、それは白パターンの選択と行動に似た感覚ではないだろうか・・・と思いました。

それから、バレエの「体ひきあげて!!」(←これは絶対誰でもが毎回何度も言われる)もとても似ている感覚だと私は思います。できてないところはたくさんあっても、とりあえず、体を引き上げることへの意識をもって、ひきあげたときの感覚は、白を決めて、選ぶことと同じようです。それにより今までいたところとはちょっと違うところに自分が立っていることがわかります。こうしてできないところを持ちながらも、ひきあげる体験を通して、いずれ、全てをもってここにくればいいんだという白パターンの世界を体験していきます。

いずれも「ひきあげる」ということです。ひきあげるのには、意思が必要で、それに体がついていきます(行動)そうして進むわけです。体がはじめにひきあがって、心がそれについていくのではなく。だからまずは意思(意識)ありきです。

白パターンを選ぶというのは、ひきあげていっているということです。自分で自分をひきあげる。そして、いつも言っているように、ぶれてもいい、落ちてもいい、愚痴っても、悪口を言っても、怒っても、ふてくされても、いじけてもいいんです。パターンに自由にやらせてあげていい・・・でも、そのあとに「私」を思う。そして、自分で自分をひきあげたいのかどうかを確認してみてください。

本当に「私」の望んでいることは何なのか。今のままいる事なのか、自分をひきあげたいのか・・・を頭で考えるのではなく、ハートで感じるということです。ハートで感じるのは「このままいる」と「ひきあげる」という2つの部屋をつくり、そこへ「私」が入って一瞬で感じとってみるとわかりやすいと思います。これも練習をしていくと上手に使いこなせるようになります。

何もコメントなし
2020/03/23

シントラ声明(七浜 凪著)をひさしぶりに手にとり、開いてみた。

すっきりと、はっきりと、正しい言葉を届けてくれています。

以下はその言葉。

「人間は、だからしょうがないのだ、だからできないのだとあきらめた時点で進化が止まる。現状がイヤなら、前に進むしかない。そのためにやるべきこと。それは、苦しいと感じた時、その自分を見ることだ。真っ向から向き合い、踏みとどまることだ。自分が感じる恐怖、嫌悪感、喪失感、ストレス、悲しみ、嘆き、怒り、痛み。自分にそれがあることを認めなさい。自分がそれを感じる特性やクセを持つ人間であることを知りなさい。何にそう感じ、何がイヤなのかを知りなさい。自分を悩ませる核を見ることは、意識をそこへ向けるということ。意識は力を持つ。膿の表面に穴をあけ、外に出す。解放する。変化をもたらす。短絡的に苦しみを取り除くことや、自分を変えようとすることは、おまえがまだ自分を知らない証拠だ。そんなことできるわけがない。そんな魔法はこの世にない。おまえを作ってきた歴史を甘く見ては困る。その歴史を逆手に取り、自分の特徴を知り、自分という人間の手綱を握るのだ。苦しみから解放されるために。この世で、力強く生きていくために。輝く自分を見るために。そのためには、今いる自分をしょって立つしかない。」

何もコメントなし。

密教
2020/03/22

先日のお墓参りの際に、お寺さんから小冊子をいただきました。

お寺は「真言宗」真言密教です。

開祖は弘法大師空海さんです。空海さんが体系化した密教が真言密教なのだそうです。私は真言密教について詳しくは知らないので、ざっと調べてみたらとても納得できる言葉が並んでいました(以下、真言宗智山派 吉祥院 仏教コラムより)

「自分の中にある可能性を仏と呼ぶ。密教はあきらめない、投げ出さない、逃げ出さない教えです。自分の可能性をどこまでも信じ切るのが真言密教です。あなたの中の可能性、理想の型があなた自身の仏なのです。つまりあなたが理想として、追い求めるものが仏に成る、成仏することになるのです。あなたの中には仏に成る可能性が眠っている。それを目覚めさせるための精進が仏道修行ということになります。あなたが目覚めて仏になれば今生きているこの世は仏の世界となります。」

あなたの中には仏に成る可能性が眠っている。あなたの中の可能性、理想の型があなた自身の仏なのです。・・・とあります。仏は「私」。仏になる眠っている可能性とは「私」を構成している普遍的能力、神の資質。それを日々の中で使い「私」を育てて、仏となる。そうなったとき、この世は今までのそれではなく、仏の世界になると。死んでからあちらで仏の世界にいくのではなく、今、この、現実においてそうなること、それがとってもとってもざっと言ってしまうと仏陀が伝えたかったことなんだと思います。

いつか幸せになろうではなく、今(この一瞬一瞬)を幸せに生きよ、それは誰にも可能なんだ、ということ。

魂の道場でやっていることはまさにそのことです。これからもこの道を歩み続けたいと思います。

よく考えたら母方のお寺は「天台宗」天台密教です。密教と御縁があるのかもしれません。

人生のほとんどがパターンだった
2020/03/21

「人生のほとんどがパターンだった」と先日お会いした方が話してくれました。

その話し方や、その方がそれに気づいたことへの驚きに満ちた様子に、思わず笑ってしまいましたが、言わんとしていることはとても共感できました。

パターンではない選択(「私」の選択)で人生をはじめから創ってきた人はいないだろうと思います(お会いしたことがないです)それは物心ついたころからはじまり(親からのパターンの刷り込みがあるので)自分が何者かを知り、自分で変えていくまで続きます。

従って、パターンで進学を決め、パターンで仕事を決め、パターンで友人をつくり、恋人も、結婚相手も、もしかしたら?・・・・こうしてパターンで日々を生きていく。ごくごく自然に。

ところがある時、自分の言動の元になっている信念、正しさ、哲学がパターンだった・・・・ということに気づく。「ええええええーーーーーー?」とそれはとてもびっくりすると思います。これはもう、目から鱗どころではないと思います。

自分の人生のほとんどがパターンでできていた、とわかってしまうと、自分の今までの人生は間違えていたということか?失敗だったのか?と取り返しのつかない今までの人生をどうしたらいいのか、と落ち込むかもしれません。しかし、そうではないんです。

例えば、今の仕事はパターンで選んだとします。この仕事だとかっこいい。この仕事をしていれば周りからも認めてもらえるし、そうなれば皆が私を賞賛するだろうし、あの大嫌いな〇〇子を見返すこともできる、というパターンで選んだ仕事。その仕事をはたしてこのまま続けていいのか、と思うかもしれません。

いいんです、続けてください。ただ、仕事へむきあうときに、今までのパターンをもう使わない、という白パターンを選びます。この仕事なら認めてもらえる、かっこいい自分、賞賛される、〇〇子を見返したい・・・を動機にして仕事をしないということです。新に白パターンを動機にします。

これは人間関係にももちろん使います。そして、余裕ができてきたら、日々の細かい自分のあまりに普通になっている言動にも目を向けてください。無意識でやっていること、癖のようになっていることはパターンで行われていることが多いです。

パターンで選んできてしまったものはこのように気づいた時点で、選び変えることができます。そうやって黒パターンで行ってきたことを白パターンで行うようにします。実践です。こうして少しずつ、黒パターンで築きあげてきたものは白く塗り替えられていきます。あたかも、はじめから白パターンを「私」が選んで人生を創ってきたかのように。だから、いくつになっても軌道修正ができるんです。

これこそが私たちが与えられた自由意志です。自由意志って好きなように生きるということではないんです(・・という領域)自由意志は、柔軟に、身軽に、修正するときに使うものです(・・という領域)そして、そうできる自分こそが楽で自由な自分なんです。

お墓参り
2020/03/20

きのうは、気持ちのよいお天気の中、お墓参りに行ってきました。

もしかしたら〜境内の桜が見られるだろうか〜とちょっと期待していきましたが、残念、まだでした。来月は両親の命日月なので、桜はそこでねらいたいです。

それでも春をあちこちに感じられる境内で、ゆっくりとお参りができました。

ひとりで行ったので、もくもくと墓石を洗い、草むしりをし、古いお塔婆を抜き、お花をいけて、お線香をあげて、手を合わせました。♪〜わたしの〜お墓のまえで〜泣かないでください〜そこにわたしはいません〜死んでなんかいません〜♪と頭の中に流れましたが(そのとおりだと思うけど)やはり手を合わせて、言葉をかけることは気持ちのよいものです。日々の感謝と、そちらで幸せに楽しくいてね、こっちは大丈夫だから、ということを伝えました。墓石の横にオカメインコのポロンの骨も埋めたので、ポロンにも声をかけました。

お参りのあとはいつもとても心が晴れやかになります。お墓の中にお骨が入っているメンバーを思い浮かべると、楽しいこと、おもしろいことが好きで、笑うことが好きな人たちだったのでそれをいただけているのだろうかと思いました。

晴れやかな心でお寺をあとにして、父が好きだった洋食屋さんでグラタンを食べ、母が好きだった名物「葛餅」を買って帰りました。

・・・平凡な人たち・・・無名で、特別なことを成しえた人たちでもなく、財を成した人たちでもなく、戦争に翻弄され、空襲で持ち物を全て無くし、それでも生きなくてはならなかった人たち。だからこそ一生懸命に生きなくてはならなかった人たち。苦しいことも楽しいことも、受け入れながら生きた人たち。苦しいことが多かったからこそ、楽しもうとした人たち。そういう人たちのもとに生まれてきたことが私はとても幸せだと思います。

すごいぞ人間
2020/03/19

きのうの日記に、エックハルト・トールさんのお名前が出たので、今朝は、エックハルト・トールさんの言葉をひとつ。

「現状を受け入れることにより判断を停止させた瞬間、あなたは心から解放される。あなたは、愛や、喜びや、平静のための空間を生み出しているのだ」この言葉を読み説いてみたいと思います。

まず「現状を受け入れることにより・・・」と言っています。この現状を受け入れるということをパターンは嫌います。現状を受けいれてしまったら、こんなに自分はうまくいっていない、とか、こんなに自分はみじめ とか、自分って大した人間じゃない、とか、ただの普通の人間でしかない、などなどを認めなくてはいけなくなるから。そして、それを他人に知られてしまうから、それは困る、それは嫌とそのパターンが現状に抵抗します。

抵抗するのはそこに判断、裁きがあるからです。自分自身への判断、裁き(もっとこういう自分だったらいいのに、そうではない今の自分との比較による判断、裁き)他人との比較による判断、裁きです。

そのあとに言葉が続いています「現状を受け入れることにより判断を停止させる・・」と。現状を受け入れたときって「ただ、そうなだけ」の状態なんです。そこには判断も、裁きも、期待も、開き直りも、思考も、感情も、何もなくて、ただ現状ってそうなんだ・・・というものです。もうそれを受け入れざるを得ないような感じ、目を覚ませーーーという感じ(・・・と私は思う)です。

で、その感覚を持った瞬間(本当に瞬間)心底からの解放を感じます。パターンの抵抗により現状を受け入れない世界で生きているとそこは狭く、息苦しい世界です。それが瞬間にぱーーーーっと目の前が開け、それにより心は広がっていきます。何を今まで自分を閉じ込めていたのか、何でこんなに自他を判断し、裁き、抵抗し続けてきたのか、何やっていたんだろう自分・・・と。

そして、そのあとに出てくる言葉は「あなたは、愛や、喜びや、平静のための空間を生み出しているのだ」です。この愛、喜び、平静は心が解放されたところに存在しています。それは、愛、喜び、平静などなど(他にもある)の質のものが生きるための空間(場所)です。それは自分を解放した心が生み出すので、彼らが本来の生き方をできるように、彼らのための空間を作っている、ということができます(・・・と私は思います)

こうなってくると、普遍的な資質たちを生かしていくのも人ということになります。すごいぞ人間。やはり神の子なんでしょうか。

そして、決して忘れてはいけないこと、それはその力を誰にでも平等に神は与えているということなんです。特別な人にだけ与えられているのではありません。これも現状を受け入れるということです。

現状を受け入れることは、ネガティブな自分を受け入れるということだけではないんです。人間が与えられている可能性を受け入れるということでもあります。

こうありたい
2020/03/18

きのうの日記を読んで、私も彼女のようでなければいけない、そうできていない自分はだめだ・・・と思われた方がいらっしゃるかもしれません。そのあたりのパターンにひっかかるとつらい日記だったかも(笑)

家族がいる、ローンがある、子育てがある、介護がある、年齢的に、体力的にとひとりひとりその環境と条件は違います。それなのに・・・「私」の衝動に正直に仕事を・・・というのは現実的ではありません。これは決して彼女のような仕事をみつけなくてはいけない(転職すべき)という話ではありません。

現在の仕事や自分の今置かれたところから、衝動に正直に何かを大きく変えるべきと言っているのではなく、彼女のエッセンス(自分の衝動に正直である)を今の自分にも使うことができるのではないか?という話です。

全ての能力(衝動に正直の能力)がそうなんですが、一気に大きいことに使うのは無理です。でも、小さな練習の積み重ねでその能力は大きくなり、結果、大きなことにも使うことができます。そこへいくためにも、自分が扱える衝動を、少しずつ使ってみてはどうでしょうか?

例えば、今の仕事場でこれを使うとき、仕事なので(いろんな人と関わるので)嫌な思いをしたり、なんで自分だけこんなに大変なんだ、もっと自分の大変さをわかってほしい、上司が嫌だなどなど出てきます。出てはいけないのではありません(パターンなので)しかし、それでも、私はどうありたいのか、という「こうありたい」というところが衝動であるということです。自分はこうありたい、だったら自分のためにそうしよう、という正直さ。こうして少しずつ、自分の「こうありたい」を確認しながら、仕事をしていくことで、もしかしたら、思いもよらないような展開になったり、それこそ、転職ということも出てくるかもしれません。

そして、私がお勧めしたい正直な衝動として人間関係があります。今までは仲がよかった、つきあいがあった、一緒にいて楽しかった・・・でも、今、正直、ちょっと負担、ちょっと苦痛、と感じている人間関係、それにもこのエッセンスを使うといいと思います。

人と人との関係も変化します。それは当たり前のことです。それでも多少無理してでも関係を続けようとしてしまいがちです。エックハルト・トールさんだったと思いますが(間違っていたらごめんなさい)そういう人間関係を「中毒的な人間関係」と言っていました。中毒的な人間関係から離れる、ということはまさに自分の衝動に正直に動くということです。この選択を少しずつしてみるというのもひとつです。これができないというのはたぶん、嫌われたくない、冷たい人だと思われたくない、一緒にいるとお得、などのパターンがあるからかもしれません。しかし、もう、そのパターンの世界で、人間関係を築いていく自分ではいたくない、という衝動があればぜひそれに正直に動いてみるといいと思います。それはもちろん相手に冷たく接するということではないですよ。

こうして小さな衝動を正直に感じ、それを選べるところで使ってみることで、だんだんとその在り方に慣れていきます。衝動に正直という能力は直観(感)につながっています。直観(感)はとても大事。

衝動
2020/03/17

先日のTV番組で見た女性(TVネタ多し)。20代前半の動物園で働いている女性なんですが、その動物園は来場者数がとても少なく、数人のスタッフでどうにか運営をしているような動物園でした。

皆がなんでもやらなくてはまわらないような状態。そこで働いていたその女性が、大変な毎日にもかかわらず、とても力強く働いているんです。結局、その動物園は人手にわたり、彼女はそこをやめるのですが、その後の就職も、あまり運営状態がよくない動物園を希望します。

彼女は面接に行き、その動物園で1日体験をします。動物園側としても、力仕事や、汚い大変な仕事が多いので、とにかく1日働いてもらって、本人の気持ちを聞きたいというのがあったのだと思います。TV番組ではその様子が放映されていました。

その中に「ちょっときつい仕事なんですが・・・」という仕事をたのまれていました。それは動物たちの小屋の床そうじでした。床には糞尿や、食べかすや、汚れたわらなどが散乱しています。そこを手際よく掃除している彼女に取材者が聞いています「つらくないですか?嫌じゃないですか?」すると彼女が「掃除は全く嫌じゃないです。この仕事、楽しいんです」と言いました。その様子と言葉から本当にそう思っているんだ、ということが伝わってきました。「私、このにおいも好きなんですよね」「とにかく楽しい」と話す彼女の顔は輝いていました。

掃除後の小屋の中はぴっかぴかでした。そして、その小屋にいるヤギでしょう、彼女の顔を見上げていました。ヤギの目が「あなたがだーーーいすき」と言っているようでした。ごまかしのきかない動物たちには全てわかっているのだと思いました。

この仕事は、たぶん、これだけの労働にみあった給料ではないだろうと思います。時間外にやるべきことや、責任を負うことも、生きているものを相手にしているので悩むことも、問題もきっとあると思います。それでも、動物が好きで、彼らが安心していられるようにしてあげたい、動物と関わっていたい、という思いで彼女は働いていて、それができるのであればそれは何でも楽しいんだろうなあと思いました。

仕事ってこういうことなんだろう・・仕事の原点って、きっとこういうことだったんだろう・・・

今は、まず、食べていかれる仕事でより給料がいい、有給がある、休みもしっかりとれる、そして、きれいな仕事で、あまり責任のないところで、というところで仕事を選ぶことが普通になっている昨今で、こうやって働いていることに疑問を感じさせない若い人がいるということが驚きでした。

彼女のような人を、勇気がある、やる気がある、強い、だからそうできる、と思うかもしれませんが私は、彼女は正直なのだと思います。自分の衝動に。自分が楽しいと思うことに。だからそこに勇気ややる気や強さが出るのだと思います。そうだろうけれども・・そうできる人のほうが少ない、と多くの人は思うのだと思う。でも、そうなのだろうか?衝動というものはそういう疑問さえも吹き飛ばすくらいのものなのだと思います。

衝動というものとかけ離れてしまった私たち。でも、今からでも少しずつそれを取り戻すことはできる。続く・・・・

感覚を主軸にして
2020/03/16

AとBのどっちを選んだらいいのかわからないとき、人はひたすら考えます。考えても考えても答えがでないという体験を多くの方がしていると思います。

こういう場合、それぞれを選んだときのメリットとデメリットを書き出して、メリットの多いほうを選ぶという方法を一般的にはしていると思います。

それはそれでありかもしれませんが、私はこれは使わないです。なぜならば、物事って条件だけではないからです(あまりに極端な場合はこのやり方も加えますが)そして、人は条件がそろっていれば満たされるというものでもないと思っているし、だいたい、条件自体も変化し、こちらも変化します。

私はこのようなとき、時々日記に書いているように、AとBの部屋に「私」が入って一瞬の感覚で決めています(一瞬が大事)透明感、明るさ、深さ、広がり、楽しさ、わくわくする感じ(全て、根拠がないんだけど)などがあるほうを選びます。

そして、選んだらとにかくそれに邁進します。振り返らない。邁進していくために何をしたらいいのか、具体的にどうするか、などなど考え即行動します。邁進には、できなかったらどうしよう、とか、もし、だめだったらどうしよう、とか、失敗できない、とかを極力入れないようにします(それらはパターンなのでさわいだら語りかけと選択)とにかく「私」が選んだのだから、という白を選び続けます。

「私」が選んだのだから、選んだものごとは一切リスクがなく、嫌なことや、無駄や後悔がないということではありません。それはあります。それは何を選んでもあります(メリット、デメリットという思考方式で選んでも)しかし、この邁進していくときの夢中さ、一心不乱さで培われた力がリスクや嫌なこと、無駄や後悔が後々出てきても、その力のほうが勝っていくということを起こします。

結局、この邁進していくときの夢中さ、一心不乱さ、というものを、どこかで勇気をもって選択し続け(これが「私」の資質の中で、今まで使ってこなかったものをいつか、使わなくてはならないようになるということです。そうやってバランスをとりたい)体験することが、その心意気を創っていくのだと思います。

たぶん、この体験を1度すると、間違えた選択をしたくない、失敗はしたくない、無駄や後悔はしたくない、などのパターンの世界でものごとを決める世界だけではないんだということがわかるのではないかと思います。

一瞬の自分の感覚(あくまでも「私」の感覚)はたしかです。なんか嫌な感じ、なんかいい感じ、なんか苦しい、なんか楽しい、その感覚は、今のそれはあなたにとって、必要ではないこと/必要なことを教えてくれています。

感覚という目にみえない、根拠がはっきりしないもの。しかしそこに今の自分が現れているといっても過言ではありません。思考をはなれ、感覚を主軸にして生きるという今までとは違った世界が実はいつも目の前にあるということを知ってください。

楽しいもの
2020/03/15

今回の盛岡も、いつものように「焼肉&冷麺がおいしかったーーーーー」っと、書きたいところでした・・が・・今回は私の直前のドタキャンで、岩手クラスの皆さまに大変ご迷惑をかけてしまいました。申し訳なかったです。

ドタキャン理由はちょっとデリケートなことなのでここに書くことは控えますが、岩手クラスも沖縄クラスも茅ヶ崎クラスも、私にとってクラスは毎回とても楽しみなので(個人のカウンセリングが楽しくないということではないですよ。個人は個人の楽しさがあります)とても残念でした。

ここまで書いて、思い出したことがありました。それは、15年くらい前だと思うのですが、あるセラピストの方に「カウンセリングが楽しい」と話したら「あなたは、そんなに人の苦しみが楽しいのか」と軽蔑するように言われたことがありました。そのセラピストの方は、私をカウンセラーとして最低だと思ったのだと思います。

その後は「カウンセリングが楽しい」と言うことは封印していました。

その後、セラピストやヒーラーやカウンセラーの方たちと仕事を一緒にする機会を与えていただいたり、セミナーなどで同業の方々とお会いして話をしていくうちに、多くの同業の方は、人の苦しみは自分も一緒に苦しむべきで、苦しみは苦しみでしかなく、ネガティブなものは早くなくしたい、早く解決したいと思っている、これが正しい在り方というものがあるように・・・と理解しました。

それから「楽しい」への意味づけの違いというものを思いました。もちろん意味づけなのでどれが正しいはありませんが意味づけにはその人の今の哲学があらわれるので、そこの部分にずれがあるような場合はひっかかるだろうと思いました。

カウンセリングが楽しいのは、もちろん人の苦しみが楽しいわけではありません。苦しみは誰もが持ち、体験しているものです。それはもちろん私もです。だからこそそこで味わう痛みやつらさや怖さなど共感できます。

それはそれとして現実に確かにある。しかし、その後ろに、その奥に本当の自分が存在し、人が長い間ずっと望んでいる「私」として生きるということへの冒険の旅へ一緒に出ることは、私には楽しいことです。

苦しみを持ちながらも、ともに歩き、その道の途中で、苦しみについて初めてみる景色に気づき、自分という美しい花を発見し、選択し、歩いているうちにそれが自分の身についていくことを感じられる。そしてその気づきと発見が増えれば増えるほど軽く、シンプルになる不思議。

特にクラスにおいては人数分の景色があり、人数分の花が咲いています。そこで皆でそれを鑑賞し、感じ、また歩く。そんな楽しさをお会いしている方々に体験してもらいたい。カウンセリングって楽しいものなんです。カウンセリングは自分の可能性の発見の連続だから。

そして、楽しいから続く、楽しいからのびる、楽しさの中でしか、才能も、個性も開花しません。だから、楽しさを感じてもらえたら・・・と思います。そして私も楽しみたい・・・と・・・思いもあらたにまた5月に岩手盛岡へうかがいます。

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