バレエ小考 | - 2023/01/14
- お家でバレエも続いている。
相変わらず、ロイヤルバレエ団の動画のバーレッスンの部分とセンターの2つくらい(その後は難し過ぎてできない)をやっている。2022年版がアップされて喜んでいたら、あっという間に見れなくなっていて、ショックだった…が…まあ、仕方がない。
で、先日のピアノと、バレエも同じで、面倒くさいと思うし、やらなくちゃと思うもあり、これも実はやりたーーーいという日はほぼない。週に2日動くときもあるし、10日に1回のときもある。それでも続いている。
で、動くということ。レッスンに通っていたころに比べれば、動く、という事自体の力は完全に落ちている。しかし、今は、ピアノ(ここで使われている曲がクラシックの曲をアレンジしたものが結構ありそれを知るのもおもしろい)に合わせて動いているときに、若かった時には感じられず、知らなかった、自分をほどくように解放していくことが感じられるようになった。これも、そういう意味では、今のほうがぜんぜんバレエ的だと思う。感性としては。ただ、身体がついていかない。
バレエは、私が今までの人生の中でつらい日を送っていたころにやっていたものなので、動いているとき、何かの拍子で、そのときのつらさを思いだすのである。あのときに住んでいた街や部屋や、バレエのレッスンに通う道や、レッスン後に感じるなんともいえない不安定感。その思い出がバレエにはあって、今もそれを古い写真を見るように思い出す。
しかし、だからと言ってそんなことを思い出させるバレエが嫌なのではない。かといって好きというのもなんか違う。それでも続いているのである。うーーーん、わからない、と思いながらも動いている66歳。
この在り方はピアノと全く同じだ。
で、プロでも何でもない私が気づいたことは、ピアノもバレエもきれいな形あるものではないということだ。こういうもの、というものではないという意味づけを持った。
今の私の感性が、そこから感じる開放感や、小さな美しさは自分が最も大事にしたいものなのだ。それは、ピアノとバレエだけから受け取るものではなく、好きな本を読んでいるときや、好きな絵をみているときや、好きな曲を聞いているときや、鉢植えに水をやっているときや、掃除をしているときや、器をながめているときや、動物に接しているときや(今一番欲しいのはこれ)道場のクラスや。何もない日々の中にもちりばめられている。それが、自分の感情・感覚を解放する。
ほどいて、かたまらせないで、決めないで、表現して、もしくは表現したものをそこに見つけて、流れるように、たおやかに、混沌として、そこに居続けないで。そう生きることが私の幸せだと近頃思う。幸せだと思うと、そうやって生きたかったんだとわかる。幸せは、ずっと自分が望んでいたものを知ることかも。
感性は若い頃よりも全然よくなっている分、身体的な力は減っている。ここでも自然に与えられるものと手放していくものとがバランスをとるために「私」により(もしかしたらもっと上から)行われている。
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