ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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器を育てる
2020/02/13

・・・ケン・ウィルバーメッセージ・・・これは2011年3月16日に日本の人々に向けておくられたものです。震災の直後に人々が混乱と悲しみの中にあるときに。

これは確か、当時、各クラスでも皆で読んだものだと思います。その中にこんな一節があります。

「五感がとらえることのできる現象を、緩和するためにできることがあれば、何でもしてください。しかし、それらの中に息づく目撃者の中に錨を降ろし続けてください。それにより日々の現実は「あなたをより傷つけることにはなりますが、それほど悩ますことはなくなるのです。」・・・・「なぜなら、あなたはそれらと自己同一化することを止めたからです。「これでもなく、あれでもない」という全ての公平な目撃者としていつづけることができるのです。」

ここに出てくる自己との同一化ということが人々を苦しめるものになります(しかし、それらが悪いのではないです)自分は出来事ではない、自分は感情ではない、自分は思考ではない、自分は記憶でも肉体でもない、それらとはべつのところに「私」は存在している。その「私」が自分の中の全て、または外に起きているものごと全ての「静謐な目撃者」となってみている、ということです。そこに錨を降ろしているということです。

これを頭で理解するのではなく、ワークを通して、熟考を通して、対話を通して、少しずつ体験していくことになります。この「知性」を得ていくためには、継続的練習が必要になります。たんたんと、同じことを繰り返しながら、それを自分の身につけていく。

そうやって自分という器(諸々の能力を収容、活用する深層的能力)を大きくし、変容させることであり、その器の中に入れるものを変え、増やしていくことではないということも言われています。

今日も自分という器を育てていきましょう。

赤い玉
2020/02/12

先日、家のリビングでワークペーパーを作っていたとき。

そのときはちょうど太陽が西に傾いているときで、部屋の中には西からの陽がさしこんでいました。外に見える空と海は静かです。

なんだか左目にちらちらと見えるものがあり、左を見ると、小ダンスの上に置いてある、渋い赤黒色のトレーの丸くカットされた角の部分にまあるい赤い玉が見えました。ちょうど陽がそこに当たっていて、あたかもそこに赤い玉があるように、浮かび上がるように見えていました。ちょっと朱色がかった色といい、まあるい形といい、とてもきれいだった。

静かな部屋の静かな一瞬に見えている赤い玉をしばらくじっと見ていて、普段は見えないものも、何かのひょうしに、それは思いもかけない時に、所に現れるものなんだなあ、と思いました。その姿や現れ方が思いもよらないものであればあるほど、その美しさは際立つのでしょう。

私の母の名は「瓊子(けいこ)」といいました。この「瓊」という字について、昔の知り合いの漢字好きの方が「珍しい字だ」と言って調べてくれたことがありました。

そして、この字には「赤い玉」という意味があると後から教えてくださいました。「きっとお母さんのご両親は赤い玉のような美しさを持った女性になることを願っていたんだね」と言われたことを思いだしました。

母は「赤い玉」が似合う人だったと思います。生前、私は何も母に親孝行をしてあげていなくて、今になってですが赤い玉のネックレスをプレゼントしてあげればよかった、と思います。

その後、赤い玉は陽の動きとともに消えていきました。それを見ながら、自分がとても満ち足りていることを感じて、その気持ちのまままた仕事にもどりました。こんな一瞬のできごと。しかし、この頃はこういう一瞬がとてもよいものに感じます。

・・・ということは
2020/02/11

誰の人生も、良いこと半分、良くないこと半分です。半分ずつあるからバランスの取れた人生になります。

そして、誰もがそうですが、まずは、黒パターンで生きます。黒パターンで生きるというのは本当の本来の自分「私」ではないもので生きるということです。実際、黒パターンが自分だと思っているし、そこからわきあがる感情が自分だとも思っています。そこでは苦しさやもんもんとしているという結果がついてまわるので「一体なぜ?」という疑問を持つことから黒パターンで生きることをやめていくことになっていきます。

・・・ということは黒パターンがいてくれて、それで生きるという体験があるからこそ、新な、本来の生き方(白パターンを選んで生きる)ができるようになるということです。

・・・ということは優しくなるには、まず、優しくない生き方を体験するということ、正直になるには、まず、正直ではない生き方を体験するということ。まずは、他人を嫌って、悪口を言って、無視したり、わざとひどいことを言ったり、思ったりする体験があって初めて他人を大事にできるようになります。

愛の人になるためには愛ではない人として生きることが必要なんです。

愛はすべてをもっている。だから、私たちが心に思うこと、言動すること、考えることには、愛ではないものはないとも言えます。

今、人を嫌っている自分(・・のパターン)がいる、人に嫉妬している自分がいる、人を馬鹿にしている自分がいる、不安と恐怖にかられている自分がいる・・・しかしそれらはこれからその反対にあるものとであい、ひとつになるところへ向かっていっているんだと思ってください。自分の中に捨てるべきもの、消すべきものはひとつもありません。

現実を見る
2020/02/10

今年に入って、ああ、そうかと思ったこと。

それは他人に「負けたくない」他人に比べて「自分はだめだ」他人に「認められたい」他人の言葉に「傷つく」などなどのパターンにひっかかりやすいというのは「自分はできる、自分はできる人間(のはず)なんだ」というパターンがあるからなんだろうということです。

そのあたりのことを数人の方に聞いてみたのですが、そうだということでした。「自分はできる、自分はできる(はずの)人間なんだ」というパターンがもともとあるのだと(けっこう大きく。でもあってはいけないではもちろんないです)

確かにこれがあれば(このパターンは)誰かと常に競争をし、比べ、負けてしまえばだめだと思い、傷つき、でも、自分はできる人間なんだから認めてもらえるはずとも思います。

この場合も両方のパターンへ語りかけ、それぞれに白を選ぶことになるのですが、それと同時に現実を見るという練習もやっていくといいと思います。

この現実を見るというのは、パターンが入り込まない感覚のもので、例えば、現実として「ああ、あの人にはかなわないな(自分もそうなりたいから追いつけるように努力しよう)」「そうか、ここがあの人のようにできてないんだ(だったら努力しよう)」と他者との能力や力などの違いだけを素直に受け取るものです。ここでは言い訳も、開き直りも、すり替えも、無視も、数々の感情も感覚も思考もなく、できていない自分をちゃんと認めるということだけがあります。

だってできてないでしょう?確かにできてない。そうか・・・ということです。

これをパターンで受け取ると苦しいです。でも、そうではない現実を見るで受け取ると苦しみはありません。楽に生きている人ってこれだけと言っても過言ではない。

現実をよーーく見てください。自分よりも能力のある人はごまんといます。自分よりもできる人はたくさんいるんです。それが現実なんだということです。そうやって自分自身をゆがみなく見る、他人のこともゆがみなく見る、それにより、その領域の謙虚さというものと出合い、身につけていくことができます。

現実を見るということは謙虚であるということ。

今年もどうぞよろしくお願いいたします
2020/02/09

大変、ご無沙汰しておりました。

そして、間抜けなくらい今更ですが『今年もどうぞよろしくお願いいたします』・・・と・・・本当は1月6日の日記に書くつもりでした。

ところが、年末にPCを壊してしまいました。暮れの忙しい大晦日に(本当はそれほどでもなかったんだけど)近所の家電販店に壊れたPCを持ち込みました(この時点で、トミーの大晦日誕生日はいずこへ?)

家電販店のPC担当の方から「何やったんですか?」と聞かれ思い当たるのはあれでした。

「画面がフリーズしてしまったので強制終了しました!」と言うと「あぁーーー、きょーせーしゅーりょーですかあーー」と言われました。「でも、今まで何度もやっていても大丈夫だったから」と言うと「強制終了は簡単にやってはいけないんです。いよいよのときだけ」というお話。自分的にはフリーズ=いよいよの時なんだけどなあと思いましたが、PCの知識がないので何を聞いたらいいのかわからず&言われていることもわからず。

「中を見てみないとわからないけれど、もしかしたらデータもだめになっているかも」という話から、しばしPCを預け見てもらいました。無事にデータは生きていてくれましたが、諸々時間がかかってしまいました。そして、本日よりまた日記更新とあいなりました(よろしければ今年もおつきあいください)

で、年明けよりPCのない生活が続いたわけですが、時間があまるんです。ということはけっこうPCを見ていた時間があったということになります。電車の中でも街の中でもスマホを見ている人たちを見て、皆、見すぎだろう、と思っていましたが実は私もそうだった。

確かにPCは便利、だけど知らず知らずのうちに使用過多になっていく。今年は意識的に必要なときだけ使うようにしようと思いました。

そして、今年初の動画をみました。

それは数人の方から勧められていた、あるお正月番組でオンエアされたものでした。ピアノ曲「ラ・カンパネラ」を弾いた漁師さんの動画です。

動画を勧めてくれた方たちが「感動した」「背中を押された」「勇気をもらった」「自分も頑張る」と話していましたが、本当にそうでした。漁師さんの気持ちを思うと、うれしさと半端ない努力に涙がぽろぽろ流れました。見られた方もいらっしゃると思います。よろしければご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=5jribFOthfI&list=RD5jribFOthfI&index=1

1年間ありがとうございました
2019/12/28

今日で、今年のカウンセリングは最後になります。

今年もつつがなく仕事ができました(先週、今年初めて風邪をひきました・・(笑)・・)

多くの方々に助けていただきながら(トミーにも)無事に1年、過ごせましたことに感謝いたします。そして、今年も遠いところを、お忙しい中、通ってくださった皆様、いつもグループセミナーを楽しみ、積極的に参加し、探求と冒険の旅を共にしている皆様、本当にありがとうございました。皆様から教えられたことはたくさんあり、それがまた「私」を成長させてくれました。

2019年は、仕事の中で、大きな動きと変化があった年でした。それにより動揺したり、ショックを感じたりということもありましたが、そのときに、自分本位にならずに(黒パターンで行動せずに)「私」が起こることをそのまま受け入れゆだねられたことはよかったです。

そして、全てが「普通」でありました。普通に生活をし、普通に仕事をし、普通に生きました。そんな普通の毎日の中できらりと輝いてくれていたものは、おうちでバレエと久しぶりに触れたピアノでした。この年になって初めて知ったそれらの美しさを身体と心と魂で感じられたこと、それがあるということで私にとっては十分な日々でした。

明日から来月5日まではお休みになります。日記も6日から書いていきますのでまたよろしければおつきあいください。では、どうぞ皆様、お元気で、良い年末年始をお過ごしください。

新な意味づけ
2019/12/27

・・・これは(今)やるべきことだから・・・ということが何か自分が今、優先するときの目安になっていることは、普通に私たちがやっていることだと思います。

特に仕事や家事や介護や育児の場面において、やらねばならないこととして普通にあると思います。これ、もちろんやらなくてはいけないことなんですが、近頃、もうここだけで動くのはやめたいと思うようになりました。そして、少しずつそこも選ぶようにしています。

全てが自分の魂の成長と進化のために起きていることだとしたら(・・と私は信じている)やるべきことだからというよりは、自分の魂のバランスをとるために、という視点と選択もありなんじゃないかと思います。

今、やるべきことはこれだけど、魂のバランスをとるというところで考えるとそこはたくさんやっているので、違うことを(もしくは違う視点で)これを今選ぼうというように。

そして、本来はそうやってでも生きていかれるように人はできていたのかもしれません。ただ、皆の意識の歴史の中に「やらなくてはいけないこと」があとからあとからあってそれに突き動かされていくことが人生のように思い込んでしまっているという共通のパターンが大きくのしかかっているのかもしれません。

やらなくてはいけないことをたくさんやり続けている人がえらいという意味づけも長い年月につくられ、ますますそこは普通になっていく。

このように、ごくあたりまえのように思っているものごとにも、疑問をもったり、自分だったらどう考えるだろうとみてみると、意外とそこにはほころびがあり、そこから違う何かをたぐりよせられることもあります。

それは自分の新な意味づけ。確定されているものはひとつもなく、自分がどうしていきたいかしかない。それは魂の成長と進化のために・・・というものです。

帰省ブルー
2019/12/26

いよいよ、忙しい時期に入ってきましたね。

この時期、食材を買いにいくのも嫌なほどです。年末年始は年々苦手になる私。今回は何もせず新年に入る・・という選択もありかも・・と本気で考えています。

TVで「帰省ブルー」という言葉を聞きました。夫の実家へ帰省する妻の帰省ブルーが頻発しているのだそうです。

「<〇〇さん、何もしなくていいのよ><〇〇さん、いいから座ってて>と義母に言われても、もちろん座っているわけにはいかず、義母よりも先に気づいて動かなくてはならないことの大変さ。そして、何より自分のそんな大変さに気づかず、手伝おうともしない夫に腹がたち、家に帰ってきたときはぐったりです」という方もいれば、帰ってこられる側の義母も「できたら帰ってきてほしくない。その間の水道代、ガス代、電気代、食費、雑費全てが倍増。気を使い、おまけに毎日出る洗濯の山」という方も。

独身女性の方も「実家には帰りたくない。帰ると結婚しろ、とか、これから独りでどうするんだ」とうるさいという方も。人に集まってもらいたいと言っているのは子供たちだけでした。彼らはできるだけ人がいたほうがお年玉が増えると言っていました。

うーーーーん、どうなんでしょう、この事態。表には出なかったものの昔もあったことなのでしょうか。ただ、それは当たり前のことと皆が捉えていたのでしょうか。時代とともに捉え方は変わるとも思うし、自分にとってのそれを考えてもいいし、また、年に1回のこのことなら我慢してみるのもいいのかもしれません。いずれにしても自分で(家族で)考えて、選ばなくてはいけないのでしょう。

家族というところの難しさ。面倒さ。でも、それだけでもない複雑さ。

こんな夢をみた
2019/12/23

こんな夢をみた。

私はお風呂場の掃除をしている。何か背後に気配がするのでふりかえってみると、お風呂場の扉のむこうに人影が見える。黒い背の高いまるでマントをすっぽりとかぶったような人影だ。

ダースベーダーのようだと思いながら「誰?」と私は言う。しかしなんの返答もない。私はその扉をあけてみた。するとそこに父が立っていた。90歳のときの父がにこにこしながら立っていた。

「えーーー?どうしたの?」と言いながら私は父の手を握る。するとその手がとても温かかった。これは妹に知らせないと、と思ったら妹がそばにいる(こういうところが夢っぽい)「〇〇ちゃん、見て見て」と妹に声をかけると妹も「ああーー本当だあーー」と言って父の手をとっている。

これはトミーにも言わなくちゃと思い、トミ―の部屋へいき、父がいることを伝える。父はトミーの部屋に来てにこにこしている。「お、お、おとうさん・・・・」と驚いているトミー。

父に母のことを聞いてみた。すると「本当は言いたくないけど、調子が悪くて治療に通っている」と言って今の母の写真を見せてくれた。母は40代頃の若さに戻っていてきれいだ。父が「誰でも自分の好きな年代になれるけれども、自分は年取った自分が好きだからこのままでいい」と話した。

そんなやり取りを通して、これからの時代は、こういうことが普通に起こるようになるんだと思った。誰でも、その人の大切な人に、こんなふうに簡単に会えるようになる・・と。いよいよそんな時代になっていくのかあと思った・・・という夢。

何よりも父の手が温かかったことが私はうれしいでした。温かい気持ちであちらにいるのではないかと勝手に思いました。母が調子悪く、治療院に通っているというのはわかる気がしました。母は生前、●自分の身体は弱い、●自分は健康ではない、というパターンを強く持っていたので、死後もその体験をしているのだと思いました。生きているときにどんなパターンを持つかはとても大事です。

母にはパターンのことを話てあげようと思います・・・と、ここは半分ファンタジーですが、半分本気です。

鶏のために・・・
2019/12/22

私はあまり卵が好きではない。

食べられないわけではないけれど、どうもおいしいと思えないのでほとんど食べません。トミーは卵が好きなようで毎日食べている。なくなったら私が買ってくるんだけど・・・。

今は、平飼いしている鶏の卵か、放牧している鶏の卵かを買うようにしています。これはそのほうが安全だから、よりおいしいから、健康的な鶏の産む卵だからではなく、彼らの卵をいただいていると思うと、彼らができるだけ歩きまわり、できるだけストレスなく、産卵をしてもらいたいというのがあるからです。

鶏の本来の姿でいてほしい。

日本では動けない状態で産卵させるバタリーケージというものがほとんどです。動けないのでストレスから病気にもなりやすいので、消毒散布もせざるをえないだろうと思います。海外ではこのバタリーケージを廃止する方向へ向かっているのですが、日本ではまだまだのようです。

卵を産めなくなった鶏は、結局は食用になってしまうのだから、ケージでも放牧でも同じだろうと思う方もいると思いますが、私は、そうは思えず。産卵工場のようなところで、歩きまわることも、止まり木で寝ることも、できない、人の都合により、使えなくなるまで使われている鶏を思うとつらいです。自分も、もし、ずっと動けないところに一生入れられていたらと思うと・・・。

平飼い卵も、放牧卵もそれなりに高いです。それだけの施設を維持しなくてはいけないので。手間はとてもかかると思います。その分価格が高くなっても、私はこれは続けていきたいと思っています。

今はネットでよりおいしい卵が手に入ります。そして、スーパーではとても安価で買うことができますが、もう、自分本位でいただくものでもないと思うようになりました(これは、皆さんもぜひそうしてください、ということではありません。これが正しいということではないので)

以前、どなたかから聞いた言葉「安価なものには見えないところで誰かの犠牲がある」この言葉が胸に響く。誰かの犠牲も皆が少しずつ請け負って緩和されるものであれば・・・そうしていきたい。

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