ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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自覚すること
2025/06/14

岩手クラスでも話したのですが‥‥。

自分の成長、とか、自分の努力で獲得してきた力に自覚的であってください。わからなかったこのことが今は実感できる。できずにいたこと、ずっと逃げていたことが少しずつできるようになってきている。怖がらずに挑戦してみることが少しずつ自然になってきている。自分ではどうにもできないことに対して以前ほど慌てなくなってきている。他人の痛みが感じられるようになってきている。などなどなど。その人によってあると思うんです。これは自分の努力の賜物です。そして、それはお金で買うことができないものであり、消えるものでもありません。それらはこれからも質をあげていきます。

そういうことに対して自覚的であるといいです。それは決して傲慢とか、浮かれているとか、威張っているとか、優越感につながるとか、という類のいる領域の話ではなく、ゆがみなく現実を知る、今の自分を知る、というとても大事なことなんです。

自覚しているから、また次に進めるわけです。この自覚があるから、もっと現実的に、ゆがみなく、偏ってしまっているところが見えてくる。それは、まだこれができていない、ではなく、ここのバランスが悪いというものです。

人は、できていないところに目がいきがちですが、できたところにも目を向けることでここのバランスはとれていきます。で、そこが深まれば、できている、できていない、という事ではなかったんだという事にも気づくかもしれません。

そうなんです。できている、できていない、で、人って構成されているのではなく、バランスがとれているか、バランスがとれていないか、という、今の自分が現れている(だけの)存在です。そこを自分なりのバランスのよさ(それは心身、生き方、仕事、生活、好きなことなど全て)を自分で再構築していけばいい(だけ)のだと思います。

その時に必要なのが自分の努力で得てきた力です。それはきっとアンバランスな部分を補い、自分を少しまるくしてくれていると思います(時々、こうして自分を俯瞰して見てみよう)ですから、自覚することを大事にしてください。

憧れている世界
2025/06/13

「わんこそば」にひとり参加していた女性に感動した私でしたが、今回は、もうひとつ、印象的なことがありました。

それはセミナー後、皆でエレベーターに乗って7階から1階に向かうときのこと。そこに2人の女子高校生が乗ってきました。この日は館内に高校生がたくさんいて。何かイベントがあったのでしょうか。

乗ってきた2人は上下ジャージで可愛い。そしてエレベーターの扉(外が見える)が閉まったときに、その乗ってきた女子のひとりを、扉越しに夢見るような目でみつめていた男子がひとり見えました。それはほんの一瞬。エレベーターは彼を残して降りていきました。

ちょうど扉のところに私はいたので、その男子とその男子に見つめられていた女子を同時に見ることとなりました(彼は、彼女と一緒に帰りたかったのかもしれない)

その男子の醸し出す、彼女のことが好き、という気持ちがあまりにストレートで、純粋で、私は思わず「ふふ」と笑ってしまいました。そして、すぐにまずかったな、と思い、男子が熱い視線を向けていた女子に「笑ってしまってごめんなさい。失礼でした」というと「違うんです、違うんです。そういうのではないんです。そういうのじゃないです」と言いました。「そうなのね」というと「そうなんです!」と言いました。その一言一言や様子が可愛らしく、高校生って、こういう可愛さがあるんだ…と思いました。

今までも高校生はたくさん見ているのに、この年代の女子(男子も)の持つ可愛らしさは独特なものだと感じました。多分ですが、1年前の私はそこまでの思いは無かったと思います。可愛い子だなあ、はあったと思いますが、そこまでで、彼らのまだ心許なく、不安定で、迷いや、夢や希望の中で生きている年代の子たちのはかなさが尊いものとして感じられました。そういう自分にちょっと驚き。

こうして一瞬のことであっても、人って自分を確認することがあるんです。そして、その体験はとても大切な気がします。こうして、私は、自分が憧れている世界にシフトしていくんだろうという思いが感じられた一瞬でした。憧れている世界…これはまたいつか話してみたいと思います。

わんこそば
2025/06/12

今回の盛岡で、私は初めて「わんこそば」を食べている人達を目の前で見ることができました。

お昼に入ったお蕎麦屋さんでのことです。目の前に7人座れるC型のテーブルがありました。そこにはやくみの用意がしてあります。

ほーーー、ここでわんこそばやるのか、と思っていたら、続々とお客さんたちがやってきました。サラリーマン風おじさん3人、大学生風男子3人、そして、残りの1席には20代とおぼしき女性が1人での参加でした(この1人で参加する女性にえらく感動しました。わんこは1人で(特に女性は)…とはなかなか勇気のいること、と思っていたので)

全員初めてなので、テーブル中央に立つお姉さんが説明&注意点を伝え、いよいよ始まりました。

「では、いきますよ。おわんを持ってください。ハイハイ、どんどん、ハイハイ、どんどん」という掛け声とともにそれぞれのおわんにお姉さんがお蕎麦を投入。大学生風の3人男子は「おわんを出し過ぎない、おわんをもっとしっかり持って」と注意され、なかなか難しいものだな…と私は注文した「にしんそば」を食べながら思う。

お蕎麦を投入するにもリズムがあるようで、そのリズムをキープするための掛け声、おわんの位置、おわんをしっかり持つということでもあるようでした。

あっという間に全員が20杯。「まだまだ、これから、ハイハイ、どんどん」とお姉さんは攻めて来る。一体何杯いくのか…そして、誰が最初に終わるのか、それを見届けたい。そのために自分のお蕎麦はできるだけゆっくり食べました。

30杯になったときに、お姉さんが女性の方に「どうですか?おなか」と聞いたら「ちょっと苦しくなってきています」と答えていましたが、まだいけそう。そしてそのあとも「ハイハイ、どんどん」は続きました。そして全員が40杯食べたとき、お姉さんから「これはかけそば約4杯分にあたります」という説明があり、かけそば約4杯って食べられないだろうに、なぜわんこだといけるのだろうか?と不思議でした。

さすがに私のお蕎麦は食べ終えていましたがもう少し見ていたいので、お茶のおかわりをいただいてねばる。これ50杯いきそうだ、と思ってふと時計を見ると、もう出なくてはいけない時間になっていた(これからクラス)「決着がつくまでわんこ見てて遅刻しました」とはさすがに言えない。

レジで会計をしたときに、お店のおじさんに「次回はわんこに挑戦してください。過去に100杯食べた方もいらっしゃいましたよ」と言われました。私は多分、あのスピードで食べたら20杯でもう終わりかも。しかし、初めて見る事ができてよかったでした。

いつか、それが…
2025/06/11

6月の岩手クラスも無事に終わりました。ほっと安心。

で、パターンのこと(…と突然)。いつも言っているように、パターンを変えようとしない、ということ。語っていれば小さくなる、と言っていますが、それは消えることではないし、ひっかからなくなることでもない。小さくなるというのはパターン自体が安心している姿のことです。ですから、相変わらず、ひっかかる、それを持ち続けている、それでいいんです。

この、ひっかかるというところに執着してしまうと、ひっかかるレベルの自分が嫌であったり、自分はもっと大きな存在なんだ、とか、ミームが上とか、精神性が高い、とか、違う領域にいる、とか、すでにできている、とか、そのあたりにからめとられていきます。それ自体がパターンなので、それを選んではいけないと言えます。

選んではいけないのに選んでしまうのは「私」が機能していない状態であるということです。これは、パターンにしてみればうれしくて、とにかく、理想の自分になろうとします。パターンとしては、ひっかからなくなることが、成長・進化・心の統合だと思っているので、そちらを目指します。でも、苦しさがある。

どのパターンに対しても、そのパターンを上回るものがいつもひっぱっていくということになります。

・・・・・パターンを上回るもの・・・・・なんです。

パターンはこう言っている、それも強く、今までの体験を根拠に、その力は強い、そして、すぐに反応する、すぐにそれについて思考する。それは彼らの特徴です。しかし、それを上回るものがいればいいと思いませんか?

上回るものは、パターンの言い分も感情もよくわかっている。だけど、それを上回るものが決めていく。いつもいつも。その力自体が統合なんだと思います。これもひたすら練習しかありません。たくさんやっていく。そしてエラーする。またやっていく。そしてエラーする。これでいいんです。これが嫌だというパターンもいるかもしれません。やるからには正しくとか、間違いなく、というような(それがあるようであれば語ってください)

「私」は知っています。長い長い魂の歴史を思えば、そんなに簡単に単純なことではないことを。そして、物事は全て熟成させていかなくては真理に近づけないことを。

いつか、それが普通になりますように。

心配しなさんな。
2025/06/05

時々思い出すのは祖母がよく言っていた言葉です。

…「人間、いよいよのときにはどうにかなるから、心配しなさんな」…というものです(特に女性は…とも言っていました)

いよいよのときって、人によってそれぞれなんだと思いますが、どの人にとっても、いよいよのときがそのときなので、それについて今から心配しなくて大丈夫。そのとき、どうにかなるから、ということなんでしょう。

関東大震災、東京大空襲を生きのびた人の言葉なので、実際「そうなんだろうなあ」と思えます。それと同時にその言葉を自分で言ってみると、胸のあたりがじんわりといい気分になります。それにより、これでいいんだ、と思えて、安心します。この感覚は「今の自分にとって真実ですよ」と自分で確認していることになります。そして、今までの人生も、いよいよのときには、どうにかしてきた、どうにかなってきた、おさまるところにおさまった、とわかります。これはきっと皆そうだと思います。だから、これからのことも「心配しなさんな」なんだろう。

さて、今日はこれから盛岡へ行ってきます。今回も2日間セミナーなので、ゆっくりと、行ってまいります。クラスは学びの場であり、遊びの場、ヒーリングの場、想像の場、創造の場。少しずつクラスという枠をこわして、そこに流れている時間と空間に、本来ちりばめられているものをクリアにしていきたいと思っています。

この現実の世界を生きよう
2025/06/03

先日書いた「思い通りにならないのがあたりまえ」という前提。だから、何が起きてもひたすら我慢しなさい、ということではないし、そんな人生だから、楽しいわけがない、と、諦めるということでももちろんありません(遊ぶように人生を生きる…という人たちもいます)

「思い通りにならない」と捉えて、意味づけているのはパターンであるということはわかると思います。パターンは全て、本当に全てにおいて思い通りにしたいので(だからより自分自身への理解が深まると、黒パターンの名前は「全てにおいて思い通りにしたい」これのみになると思います)このパターンの望む「思い通り」について、それは無理です、という意味での仏陀の言葉なのだと思います。

それに対して「私」は思い通りという概念を持っていないので、ただ、その事象があるというところにいます。で、そうであればその「私」はパターンが「思い通りにならない」と言っているその事象に対してどう意味づけ、そこから何を選んで、言動していくのか…ということになります。今の自分が考えられる意味づけと選択と言動…それでその事象に向き合っていかれればいいんです。(量子の話も知っていればますますそうしようと思うはず)

それが少しずつ出来るようになっていっている自分を感じたときに、人生、こういうふうにしていけばいいんなら、思い通りにならなくてもいいや、と思うのではないかと思います。ここでパターンが勝っている場合は、パターンは諦めないので、あの手この手で思い通りになるように頑張り続けます。でも、これには無理があります。ここも今の自分を知る一つのポイントになると思います。まだまだパターンのほうが勝っているな、と、クールに見ることができます。ここを正直に見られるから先に進むことができます。

自分を含め、自分の周りに起こるいろんなことを自分という「私」はどうしていくのか。パターンが小さくなれば、パターンが大人しくなれば、いい、ということじゃなかった。それは、パターンに変わってね、と押し付けてしまっている。しかし、パターンはそれができない。そうではなく、それを上回る「私」として存在すること、こっちをやっていかなくてはいけないということです。そのほうが現実的だということです。それにそうできる自分に喜びも感じられるのではないかと思います。

私たちは苦しむためにこの世にやってきたのではありません。パターンではなく本当の自分の喜びや幸せを感じながら生きるためにやってきたのです。そのことを成長とか進化というのではないかと思う。これはすごく現実的。こうして、しっかりとこの現実の世界を生きよう。

パターンと「私」の語りかけの違い
2025/06/02

黒パターンを嫌う黒パターン(多分、プライドパターン)。それが行う語りかけと「私」が行う語りかけとは全く違うものです。

それをざっくりと、わかりやすく表すと、黒パターンの語りかけには、勢いがあり、熱があり、情があり、達成感や満足感や頑張った感があります。そこには目的(楽になりたいなど)があり、それらは一般的にはいい感じのもの、必要なことだと思います。こなしていく、かたづけていく、これが終われば、という仕事に対する時のものと似ているかもしれません。このやり方に私たちは慣れているので、最初はどうしてもそうなってしまいます。

「私」の語りかけは、あっさりと、すっきりと、後に残らず、その一瞬に全てを集中して行っている感じです。それができた喜びとか、達成感、充実感はないです。語りかけ中には静寂な時間が流れ、それはあたかも瞑想をしているような時間です。その動機は、必要なことであるから、パターンが苦しんでいるからというものです。「私」はパターンよりも上の領域にいるのでパターンの言いたい事、感情・感覚がよくわかっています。物事を俯瞰して見ると細部と全体が見えるように。それが共感力になっています。

この在り方は、もしかしたら、一般的には冷たく、厳しく、親しみを感じにくいものかもしれません。「情」がないからでしょう。「私」は情ではなく「愛」として存在しています。その「私」が語るのが語りかけです。

‥‥と言われてもねえ、わからない。と思われるかもしれません。確かに、最初に書いたように、私たちが獲得してきたことは、全てを仕事モードでこなす、というものです。そこを子供のときから求められ、それを身につけてきています。「私」はそことは反対にあるものなのでわかりにくいかも。しかし、ここは迷いながら挑戦していくしかありません。

語りかけをするときに「私」が語ると決めて、王として、パターンとの距離をとり、しかし「愛」そのものである王として語ることを、色々と試していきます。「愛」そのものである王として…の部分は今の自分の愛度でいいんです。それでいけばいいんです。そこからきっと、ああ、この感じか…とわかるときがきます。その愛度は、自然と自ら深めていきたいという気持ちになっていくので、最初から愛度100%を目指さなくてはと思わなくていいんです。

ここはどれだけ自分を赦せているか、というところに関わってくるのでゆっくりといけばいいんです。これも自分を赦すことのひとつ。自分への愛。

「私」はとても仏陀的。
2025/06/01

仏陀の教えの大前提となっているのが「思い通りにならないのがあたりまえ」ということだそうです。

人間とか人生とかって、そういうふうにもともとできているのに、自分の思い通りに自分自身を、人生をコントロールしたいという強い欲望が、そうなれない自分を、結局、苦しめていくことになる、ということです。

だから、それが腑に落ちてわかったとき(それを受け入れたとき)から、人は心が軽くなり、生きることが楽になっていきます。これがありのままということです。

人の苦しみって、決まっていることに抗うから。ということであるのなら、今、自分が苦しいのは、思い通りにならないことを思い通りにしようとしているのかもしれません(パターンが)そこを見てみるのもいいと思う。

で、道場的には「黒パターンを嫌い、その黒パターンを思い通りにしたがる黒パターン」が先ほど出てきた人生をコントロールしたいという強い欲望だと言えます。もちろん、認められたい、とか、他人にすごいと言われたい、というストレートな黒パターンはあります。それはわかりやすい。

そしてその他に黒パターンを嫌い、その黒パターンを思い通りにしたがる黒パターンがいることに気づいていないと、それが「私」になりすまして語りかけをすることもあるだろうと思いました。これが、きっとプライドパターンなのだろう。

…黒パターンに執着する黒パターン…です。

そのパターンは自分が語りかけをすることで、他のパターンを抑えつけたり、出てこなくなると思っていたり、ひっかからなくなると思っていたり、語りかけをすることで苦しさから逃れられる、楽になると思っていたり、何かが変わると思っていたり、全てのパターンが言うことを聞くようになると思っていたり、自分の思うように心を整理したい、そして、自分が思い描く自分になろうとします。そのような衝動を感じたときには、こいつかも、とみてみるといいです。自分が思い描く、ここがポイント。

この黒パターンは他の黒パターンも、自分自身さえも、思い通りにならないのが当たり前という事を知らないのです。ですので、語りかけにやたらと執着します。たくさん語ればもう苦しまなくなるんだ…と。

しかし「私」はすべてそのままでいいと言います。ということは、黒パターンはいつ出てきてもいい、いつひっかかってもいい、黒パターンは成長しなくていい、変わらなくていい、なぜならば「私」が毎回受け入れられるからです。そして、そういう「私」が行う語りかけはあっさりしていて、語ったらあとはほっておけるようなかんじです。なんせパターンたちはそのままでいいわけだから。「私」はパターンに(も)執着していないんです。

心を整える、統合していく、というのはそもそものありのままの心にOKを出せるようになっていくということです。「私」はとても仏陀的。自分の内に仏陀がいる。そしてそれが本当の自分。

原因と結果
2025/05/30

先日、夜ご飯がおいしくて、ばくばく食べてしまいました。おなかいっぱいになりはじめていたのに、もうちょっと食べたいと思い、おかわりをして。

で、夜中に胃が変。「これはーーー食べすぎーーー」と胃をさすりながらあんなに食べなければよかったと後悔しました。

で、すべて、こういうことなんだと。

胃が変になったのは結果であり、その胃の不調に見舞われた夜中という現実。その原因は食べすぎ。それも自分が食べることをやめずに、食べ続けたという自分の選択。この現実は結果であり、そこには自分の選んだ原因があるということです。こうして夜中も、次の日も胃が不調…という現実をつくる。

今の現実というのは、このように自分が選んだものごとの結果なんだとあらためて思いました。これは身体についてのことだけではなく、心、生活、人間関係、仕事など今の自分の現状は結果なんだということです。

その結果が、自分の望んでいる結果を大きく外れているのであれば、何か自分が選んできたことが違うのかもしれません。又、信じていること、あまりに普通になってしまっていて当然だと思っていることが、自分にはもうふさわしくないのかもしれません。そういう目を持って自分を見てみると、これを手放したほうがいい、とか、これをいつまでも握りしめなくていい、とか、新な選択という可能性があることへ目が向いていくと思います。

このこと自体も、そんなことあり得ない、自分ではどうしようもない、ということを選んでいれば(原因)そこはそのまま(結果)となります。

そして、そこで気づくといいと思うのは、そんなことはあり得ない、自分ではどうしようもない、というのは今までの領域に属しているものであるということです(それは、自分の内の誰が言っているのか、考えているのか、行動しているのか、と同じ視線で、それはどこに属しているのか…)今までの領域は、普通は、とか、一般的には、とかの制限がかかっているところなので自分自身にも他人にも制限をかけていきます。そこからはみださないようにして、生きるところです。だからそこに居続ければそこだけしか知らずにいることになります。

しかし、それが全てではなく、今までは知らなった新な選択というものがあります。原因があり、結果があり、そういう現実にいる自分。だとしたら、自分にふさわしい、新な原因を自分が選ぶ、作ることをやっていってもいいのでは。これを少しずつ、実際自分が体験していけば、こうやって作っていけばいいんだということもわかってくると思います。ただ待っていても与えられることはないから。

オチまでに5分
2025/05/28

先日、駅ビル地下の食料品売り場で、お肉を見ていたら「さあーーーー今日は、安いよ、安いよーーーー」と言いながら接客しているおじさん(私と同年位の方)が私の横にいました。

そしてそのおじさんの隣には、私より少し年上であろう女性の方がいました。私とその女性の方がお肉のパックを手にしたときに、そのおじさんが「茅ヶ崎のお客さんはこうしてすぐ買ってくれてありがたいです。いいなあ茅ヶ崎。越してきたいなあ」と言いました。

私もその女性の方も思わず笑ってしまった。すると、おじさん「本当ですよ、茅ヶ崎、ザ・湘南じゃないですか。僕なんて埼玉ですよ、埼玉。埼玉から今日は来たんです。湘南、海があって、いいじゃないですか」と言いました。

するとその女性の方が「海っていったって汚くなっちゃって。昔は本当にきれいな海でした」と言いました。私も「そうでしたね、きれいな海でしたねーー」と話し、どんなふうにきれいであったかの話で盛り上がる。

すると、おじさん「僕の父は〇〇ホテルのコック長をやっていたんです」といきなり切り出してきてお父様の昔の名刺まで見せてくれました。「あらーーほんと」とか「わーーほんとだ」と言う私たちに「仕事ができた父だったんですが、でも母は大変でしたよ。頑固で職人気質の父だったので、全て父の言う通りでした。口ごたえなんてできなかったんです。そういうところは僕は父に似なくてよかったと思うんですよ」と話しがプライベートなほうへ。

「お母さま、大変だったわねえ、でも、昔の男の人ってそうよ。自分が家族の中で一番えらいと思っているんだからーー」と意味深な発言をするその女性の方。

すると「僕は、間違っても父のようにできないですよ。今、妻に口ごたえなんかしようものなら、何されるかわからないですから。怖いですよーーー。だからすべて従っているの」と言い3人で笑う。

このオチまでに5分はたっていただろう。手にしたお肉のパックが温かくなってしまってはまずいということで、お開きに。ここには書けない話の内容のものもあり、初めて会う人たちなのに、なんで、そういう話をしたんだろうと後から思いました。

比較的、性格が似ている3人だったのだろうか。似ているので、深刻なプライベートな話でもお互いにそう意味づけていなくて、だからできたのか。全くの他人だからこそ話せたのか、真相はわかりませんが、なんか気があったのかも。もう、会うことはないだろう3人。

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