ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ

今の自分を知る
2021/04/03

自分が幸せに生きるために、ということで、動画をアップされている方はたくさんいらっしゃいます。時々、そういう方の動画も見たりして、気づいたことがありました。

動画ではどうやったら幸せになれるか、どうやったら成功するか、どうやったら心おだやかにいられるか、というものが多いと思います。それだけ、先々の不安や、恐怖に、又は自他について悩んでいる人が多いのだと思います。

そこで提案されていることは、誰にでもわかりやすく、実行しやすいことです。それは、ざっくり言ってしまうと何があっても、自分はよい気分でいること、楽しくいること、前向きであることというものです。それはその通りだと私も思います。実際自分が選んだものがそうであればその結果を受け取ることになるからです。

しかし、何かそこから感じられるものに対して違和感もあるのです。

例えば、上から目線の人がいて、自分に対していつもえらそうな態度をとる。その人に対して自分の中に腹立たしさや、くやしさなどネガティブな感情がわく。そういうときも、それはそれとして、自分は自分が良い気分になれることをやって、思考をして(もしくはその人から離れて)いきましょう、と言います。

そんな人を相手にしなくていい、ほっておけばいい、その人にまきこまれなくていい、自分が良い状態でいればいい・・・・そうなんだけど、私は違うなあという違和感(違和感であって自分が正しい、それが間違っているということではないです)

じゃあ、私はどうなのかというと、私はその自分に対して上から目線の人を受け入れられる自分になりたいと思うんです。そのように自分自身が変わりたい。その努力をしたい。

それは自分がいつもいい気分でいるということよりも、自分が人として成長したい(そういう意味で正しくありたい)ということなのだと思いました。ここの違いなのだと思う。それを追ってやってきていたのか、とよくわかりました。

私もスタートは自分の苦しさから逃れたくて、もっと思い通りの人生にしたくて、わくわく、楽しいことをやろう、楽しい気分になるようにアファメーションしよう、良い言葉を使って良い気分を生み出そう、そうすれば自分はいつもいい気分でいられて、それによりひきよせられるものもいいものなんだ、ということでこの道に入りました。それもけっこうやったと思います。

でも、いつのころからか、もう、そこはいいと思ったのでしょう。努力して自分自身の変化を起こすことを欲するようになり、相手に満たしてもらうことや、自分を主張することも不必要となり、100%自分のことだけに向いていた意識が薄れ、ただ、ただ、相手を(他人だけではなく自分も、物事も)受け入れられる自分でありたいということへ変わってきていました。

これは、先ほども言ったようにこれが正しいことではないんです。ただ、自分は今、そうしていたくて、そこにいるということです。そして、そこから与えられる結果は、心に響く喜びであり、いい気分、楽しい、わくわくというものとはまた違ったものであることが感じられます。

これがまた変わっていくこともあるかもしれませんが、そのときは、ありのまま、変わっていこうと思います。色々な方の動画を見たことで、今の自分を知ったことは本当によかったです。

4月と言えば・・・・
2021/04/02

4月になりました。

4月は両親の結婚記念日&両親の命日&私たちの結婚記念日(だいたい私がこの日を忘れ、トミーに「もう、離婚」と毎年言われる)この流れでいくと私たちも4月に没となるのだろうか。そうなったらすごいですが…。

そんなで今月は再びお墓参りにいく予定です。で、いつ行くかが重要で、お寺の八重桜が満開のときをねらって行きたいのです。

ソメイヨシノの透けるようなきれいさは好きですが、より好きなのは八重桜です。八重桜の、あのちょっと人を見下げているような、毒を持っているような、くどさとか、どうよ!と挑んでくるようなところに心を抜かれて、よろよろ、ふらふらと近寄っていってしまいます(あぶない)今回もそんな毒気にあたってこようと。

去年の12月1日だったか、2日だったかに、父を見ました。それも昼間です。

11月23日から12月3日までトミーが腸閉塞になり、入院。手術をし、結構忙しい日々を過ごしていた頃です。今は面会はできないものの、持っていくものや、色々な手続きや、トミー大丈夫だろうかと心配もしたので、疲れていたんだろうと思います。少し昼寝をしようと思い、ベッドに横になったとたんに寝てしまいました。

そして、なぜだかぱっと目が覚めました。すると、ベッドの横に父が立っていました。私をのぞき込むように、少し腰を引いた態勢で。父だ、と私が思ったと同時に、父ははっとしたような顔をしてぱっと消えました。それは、私を見に来たことが、私には知れてはいけなかったのに、わかってしまった。見られてしまった。これはしまったーーー、という感じでした(そんなルールがあるのでしょうか)

私は昼間でもあるし、父なので怖いこともなく再び寝ましたが、きっと私が疲れていないか心配して様子を見にきてくれたんだろうなあと思いました。久しぶりに見た(と言っても一瞬です)父は亡くなったときのおじいさんではなく、若い感じでした(若返ることもできるのでしょうか)若くなった父でしたが、本当は、ばれないはずだったのに、ばれてしまった、と、慌てる父の姿は生前の父そのままでした。お墓参りに行ったら「あれは、ばればれだったね」と一緒に笑おうと思います。

亡くなった方々は、きっとこのように見守ってくれているのだと思います。だから、ひとりではない。無条件で自分のことを愛してくれた人たちが自分にはついていてくれている、と思って、今日もお過ごしください。

自分の創った世界で生きている
2021/04/01

自分の心が見ているもの(無意識に意識を向けているものごと)が自分の内なる世界として展開されています。

毎日腹立つことばかり、悲しいことばかり、嫌なこと、苦しいこと、そんな自分の現実を生きている。それらは、自分がそれに意識を向けている(起きていることをこうだと決めている状態)からそのように形になりそこに自分もはまってしまっていて、あたかも、それは自分のまわりで起こっている現実だと信じている、ということです。

自分の意識が現実を創る、とか、あなたが何を選ぶかによって現実は変わるとか、良い現実のためにいい気分でいよう、わくわくしようって、このことを言っています。

ただ、無意識に意識を向けているものごとが形になるというところを知っているといいと思います。無意識だから無意識。そして、その無意識というところは、ごくごく、あたりまえのこととしてあります。無意識にしていてもそこへすっといってしまうくらいのものだということです。洗脳とか、常識とか、皆がそうだからとか、あたりまえのこととか、慣れ親しんでいるものとか、クセ、習慣、そんなものです。

だからごくごく自然に、それを見つめることになり、その見つめる時間が長くなればなるほど、それを信じれば信じるほど、自分の中にはその世界が確固としたものとして出来上がっていくことになります。そして、そこで生きることになります。

でも、それは幻だとしたら?意識的にあろうとすれば、無意識という在り方はやめたいと思いませんか?意識的にある自分(「私」)が何を選んでもよくて、それを形にしていき、自分の中にできたその世界で生きるとしたら?多分「私」にとってよいものだけを選ぶと思います。

そうして、自分の中に今までとは違う世界を創ります。こう言われてもわかりにくいかもしれません・・が・・自分の中にどんどん入っていくことで、きっとこのことも少しずつわかると思います。自分が創っていたんだということが。

何をしていけばいいですか?白パターンを選んでください。選んだ白パターンの感じを良く味わってください。その白パターンの世界を今この目の前に起きていることにどうやって使うのか「私」が考え、実行してください。白パターンの感覚とともに。それを繰り返すことで、その選んだ白パターンを信じられるようになります。そうやって少しずつ自分の中の世界を変えていくことになります。

こだわり
2021/03/31

・・・・「私服の制服化」・・・・

私は特にミニマリストではありませんが、気がつけば、私服はずっと制服化しています。毎日同じものを着てよくあきないな、と自分で思いながらも、今日、何着よう…と考えなくていいのは私には何よりもいいのです。

基本形は決まっているので、季節に応じて、冬は厚手のもので、春と秋は薄手のもので、夏は涼しげなもので…ということで1年まわしています。岩手も沖縄もそのまま行くので、本当に制服化されています。

ほぼ「無印」のものなので、くたびれたものはまた同じようなものを買うようにしています、が、微妙にサイズ感が違っていて、今季はパスしよう、ちょっと古いけれどまたこれでいこう、というときもあります。持っている服の数が少ないので、何があるかを把握できているのもいいです。

ただ、私のこだわりというのか、ちょっと病的なところともいえそうですが、偶数で持っていないと気持ちが悪いというのがあります。例えば、同じ形のセーターを色違いで揃えるときには、2枚か、4枚。3枚というのは気持ちが悪い。これってなんだろうと思いますが、気持ちが悪いのはやはり嫌なので、気持ちよくいられるように偶数でいっています。

これはお皿もそうです。2枚じゃないと落ち着かないのです。そのため1枚がわれてしまったとき、もう1枚をおいておくわけにはいかず(気持ちが悪い)使えそうであれば何か他のことに使うか、もしくは処分。また、逆に、カップはひとつひとつ違うものじゃないと嫌なんです。ですからティーカップセットとかは買わないです。

私服の制服化も、食器への思いも、自分が身につけるもの、持つもの、部屋の中にあるもの、と、私はこだわりが強いと思います。ただ、高額なものが欲しいのではないので、その点は助かっています。ひたすらそういう個性なんだと思い、その自分でいっています。

・・・・・とここまで書いて、こうしてこだわりを持っていることも、自分のこだわりが許されるほど平和だからだ、と思いました。平和に生きていられることに感謝です。今日もその気持ちをもちながら、こだわりの中で過ごしていきます。

平凡な自分で生きる
2021/03/30

茅ヶ崎クラスで話したことに、平凡な自分で生きる、という話がありました。

平凡という言葉を聞いて抵抗感や不満感を感じる方もいるかもしれません。そもそも、自分という個体はこの宇宙でたったひとり。だから平凡ではないという意味づけはもちろんできます。しかし、私が話した平凡な自分で生きる、は、その意味づけに行く前のことです。

今を生きている多くの人は教育のせいなのか、はたまた、平等のゆがみなのか、生活が豊かになりすぎたせいか、自分への価値(非凡さ=他人にはない才能、能力)を確認したがり、表明したがります。平凡な自分は認めたくない。

しかし、現実、非凡な人は若いときからその才能を発揮して、世界へ飛び出し、多くの人へ影響を与え、助ける生き方をしています。それは平凡の人にはできないことです。

で、私は?というと、私にはそれほどの体力も気力も知力もないわけで、それは私的には平凡となります。世の中のほとんどの人は平凡です。しかし、それをまっすぐに認めている人は少ないかも。そこを見ずして活躍をしている誰かを見て、自分は同じことはできないけれど、でも、私にも価値(非凡さ)がある、と思います。

その際によく使われるのがスピリチュアルです。目に見えないものなので、よくわからずとも、それに関わっている自分に価値を感じることができます。又、その世界では、あなたには価値がある、神から愛されている存在、と言われるので、それは自分が非凡な存在だと思えるのかもしれません。

で、私は平凡なんだから、平凡に生きる、それでいいでしょ?と思うのです。その平凡な私が「私」を育てることをやりたいと思い、それを継続している。そして、それが少しずつまわりの人達へじんわりと流れ、誰かがまた自発的にその人の「私」を育てる。これはこれで私らしいと思うのです。

今自分の仕事をすることで、それは誰かの役に立っている、誰かを助けている、誰かの気づきになっている。それで十分では?と思います。子供を育てている、介護をしている、家族を守っている、それは平凡なことなのかもしれません。でも、助けられている人たちがいるんです。もしかしたらそれに気づいていないのかもしれません。

自分の行っていることが十分であると思えれば、非凡であろうとも思わなくなる。そうなると、平凡でも、非凡でもどちらでもいい。平凡な人は平凡の役割をもち、非凡な人は非凡の役割を持つ。自分はどちらなんだろう?と自分を直視し、その自分が何をするのか、したいのか、が大事なのだと思います。

ワンネス U
2021/03/29

昨日は、ワンネスについて書きました。

ワンネス・・なんだかすごく崇高で、違う領域の話のように感じるかもしれません。

しかし、私は、それは、日々の生活の中で「私」が自分の心を自分で整えていく過程において、自然に少しずつ与えられるものだと思っています。

自分からそれを体験したい(…と多くはパターンが思っています。たぶん、そこには自分を癒す何かがあるとか、特別な能力がつくと思っているのかもしれません)と高いセミナー代を払って、セミナーを受けなくては体験できないものでは決してありません。

例えば「自分がやられて嫌だと思うことを他人にしてはいけない」と子供の頃、よく母に言われました(当時は、ただやってはいけないことだと思っていました)が、これも小さなワンネスです。自分がやられて嫌だと感じるように、あの人もやられたら嫌だと感じるだろうこと、だからそれはやらないということ。自分が苦しむように相手も苦しむ。そこには共通している苦しみがあって、それを感じる自分も相手も同じだね、そこに差異はないという感覚。そんな普通のことにワンネスが隠れているんです。

確かに、何かの具合で、たまたま、変性意識をもったときに、目の前にある消しゴムは自分で、自分は消しゴムなんだ、という、理屈ではない、有無を言わさず、それを知るということもあります。これもワンネス的感覚だとは思いますが、私としてはこれを体験したからといって、これが何の役に立つのだろうと思います。

それよりも前者の小さなワンネスのほうが、生きていく自他のためになると思っています。肉体をもって生きている地上にいる私たちが体験できるワンネス。そんな小さなワンネスはあちこちにちらばっています。ただ、それらが目の前にあることにまだ気づいていないのです。

そのことに気づくのは「私」です。ですから「私」を大きくしていくことです。ワンネスも、非二元も、特別なことではないです。「私」の成長と進化にともない自然とその感覚が見えてきます。それも、もちろん、全体愛に向かっている途中にあるものなので、それがゴールでもありません。そんなお土産付きな「私」の成長と進化。楽しむことが一番です。

ワンネス
2021/03/28

茅ヶ崎グループは今回もゆっくりと2日間の合宿を行いました。

一般的に、セミナー、講習会などは、決まった時間の中でできるだけ多くの情報を伝える、できるだけたくさんの新しいものを伝えるというところに重きをおくと思います。そして、受け取る方もできるだけたくさんのことを受け取っていこうとするもののような気がします。

そんな一般的な在り方に逆行するように、各グループともに、ゆっくりと、そのときそのときの場の感じや参加されている方達の感じから、話すことが変わったり、ひとつのことを集中して話したり、と、かなりスローペースでやらせていただいています。こうして、ひとつのことについても、時間をかけながら、そのときに皆で感じたり、考えたりしたことを話しあいながら(参加型)行うセミナーでありたいです。

で、今回もワークなどを通して、道場として最も大切にしているところへ向かうべく行いました。これは個人のカウンセリングにおいても同じです。

最も大切にしているところとは「ワンネス」というところです。これ、よく聞く言葉だと思います。頭ではたぶん、私もあなたも一緒、ひとつ、ということだろうなあとなんとなく皆わかっていると思います。

しかし、そのときの心の在り方は?それが自分の中に生み出されている感覚とは?そして、それは人間のもつ何を共通として発露されるのか?これも体験でしかわからないものです。理屈でワンネスが導き出されても、大事なことはあなたはそれを体験しているか、そしてそれを他に向けているか、というところだと思います。

ワンネスの体験は、自分が愛の人になることへ向かっていくプロセスから受け取った体験そのものということだと私は思っています。

自分のパターンに向かって愛を発揮していますか?自分の体に向かって愛を発揮していますか?そして、それが自然に他人にも向けられていますか?自然界に向かって、そしていつか霊界に向かっても…。愛の人になる、それで体験するその人のワンネス。これが道場で目指しているところです。

自分が幸せであればいいということではなく(まずはそれを体験しますが)自分がいつも心おだやかであればいいということではなく(これも、まずそれを体験しますが)特別な力を得たり、特別になることではなく、愛の人になるということ。そして、きっと神とひとつになるとはこのことだろうと思います。どれだけ愛を自他へ向けられるか、そして、そのときの体験。

この体験が最も貴いことだろうと思います。だから、そこへ向かいます。

自分を労う
2021/03/25

カフェでお茶を飲んでいたら、となりのテーブルにいた女性(2人)の方が話しているのが聞こえてきました。

「だからね、私、言ったのよ。〇〇さんはよく頑張っていると思うよ。だから、そんなふうに自分を責めなくていいのよ。〇〇さんが頑張っていることは皆わかっているよ…って」

するともう一人の方も「そうよ、そうよ、自分を責めることないのよ。あんなに頑張っているじゃない」と。

どなたかお2人のお知り合いの方が自分を責めているようで、その方への優しい言葉だったようです。それを聞いていて、そうなんだよなあ、こんなふうに他人に対しては優しく見てあげられたり、言えたりするのに、自分にはこういうことを言ってあげないんだよなあと思いました。これはたぶん、このように言っているお2人も。きっとほとんどの人が。

自分に対しては皆厳しいです。あれができていない、これがだめだ、出来が悪い、もともと価値がない、など、他人には言わないだろうということを自分には言います(パターンが)

自分のことも同じように優しく見てあげられたらと思います。だって、毎日、本当に頑張っている。「よく頑張っているね」「よくやっているよ」「なかなかのもんだよ」「大変だったのに頑張ったね」「今日も無事に終えられて偉かったね」「おつかれさま、今日も頑張ったね」などなど、1日の終わりには自分へ労いの言葉をかけてあげてください。・・・・と言うと「そんなに頑張ったこともしていなかったし」「ミスばかりだったし」「今日も、みんなみたいにできなかったし」とまたすぐにパターンが言うかもしれませんが、それは選択せず、1日の終わりには自分に優しい言葉をかけてあげてください。

とにかく1日生きたのですから。それで十分です。他人に対するように、自分にも。自分が自分を労うことは誰かを労うことにもなります。自他の境なく。

さて、今日はこれから茅ヶ崎クラスです。今回から茅ヶ崎クラスは毎回2日間となりました。クラスの皆さんの「学びたい」という思いから、そのようになりました。私も1歳でも若いうちのほうがいいと思い(笑)引き受けました。今回も、じっくりと、楽しく学んでいただけたらと思います。

何役もこなす
2021/03/24

「自分の心の中で起きていることを丁寧に見て、スルーせず、ありのままに観察していってください」とよく言っていますが、再確認をしていただきたいことがあります。それは、観察とは、見張ることではないということです。

「私」は心の中を見張っているのではありません。見張り役ではなく、観察者です。それも愛のかたまりの観察者です。何ひとつジャッジせず、高い智慧をもち、何よりも幸せに生きること(課題をクリアしてより善く生きること)を全うしようとしています。

この「私」の観察は、ネガティブな感情や感覚が出ていても「ああ、そうなのね」という軽さしかありません。ただ、出ているものを察知しているだけ。だから何?という感じ。でもそのパターンは傷ついて、怖がっているのね、だったら「私」が一緒であることを伝えてあげましょう。ということだけです。伝えたんだから、もう、出なくても大丈夫でしょ?ということもなく、出たいときは出なさい。またそのときには会いましょう、じゃあね〜〜〜。くらいの起きていることへの軽さです。

それに反して、見張るというのはもちろんパターンがやっています。パターンを嫌うパターンです。何故見張るのか?というと、そのパターンは自分もパターンなのに、他のパターンはいやなものだと思っているからです。それがあるから成長できてないと思っているし、それによって苦しむんだと決めているからです。ワークをしていれば、こんな状態にならないはず…と怒っています。だから心の中をいつも見張るんです。

すごく真面目に自分に向かうことに取り組んでいると(いいことなんだけど、誰が取り組んでいる?)ついついそちらへいきやすいかもしれません。

だいたい、嫌じゃないですかあ?そんな自分を見張る毎日なんて。自分をありのままに愛せる自分になりたいだけなのに。そして自由でありたいだけなのに。

人が心底自由を感じるときって、今のそのままの自分であるときなんです。そして、そこへの気づきと少しずつのシフトが新な領域になります。その目を持っているのが「私」です。だから「私」は高い領域にいます。パターンと同じ領域ではないです。それが本当の自分。これってすごいことだと思いませんか?

「私」は観察者、パターンの母と父、挑戦者、王、セッティング係、パターンたちのカウンセラー、宇宙とつながるもの。何役もこなす、すごいものです。

反省
2021/03/22

1週間前、ご飯の用意をしようと、ピーラーで野菜の皮をむいているときに、あやまって左手の中指の指先を削ってしまいました。

爪の先を少しですが、野菜の皮とともに爪が落ちてしまった。痛さはそんなに感じなかったのですが、出血で、しばし料理は中断。あーーあ、やっちゃった、です。とりあえず家にある消毒薬で手当てをし、バンドエイドをはって再びご飯の用意をしましたが、小さな傷なのに、こんなに不自由なことなのかと思いました。

爪が少々ない、ということで、指先に力が入らない(爪の役割ってすごい)力を入れれば痛い、料理中も、かばうつもりでいるのに、そういうときに限って、お皿にあたる、壁に爪先をぶつける(その痛さがけっこうなもの)というとほほ状態になる。

ケガとはいえないようなケガなのに、人の体は細部にいたるまで本当にうまくできていて、ひとつひとつの動きも小さな部分がちゃんとそろっていることでその集合でスムーズに動いているのだなと思いました。

それから気づいたのは、爪の伸び具合が遅いということです。若い頃はあっという間に爪って伸びていたと思うのですが、毎日見ていても、なかなか伸びず。これは老化でしょう。そして、これが全身においておきているのがわかります。それでも一生懸命に生きてくれている体に感謝です。

年齢が進むにつれて、体を大事にしようという気持ちが育ってきました(若い頃はかなり雑でした)それと同時に、体から離れていく意識が育っていっています。自分の体なんだけど、感情、感覚、パターンと「私」に距離があるように、体とも距離が本当に本当に少しずつですが生まれてきています。感情、感覚、パターンを観察するように体のことも見始めている感じがあります。この感覚はおもしろいです。

今回、時間がなくてあわててピーラーを使っていてこうなったので、今後、ピーラーを使うときは落ち着いて、ゆっくりと、集中してと、言いきかせながら使用しよう、と、反省しました。

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ

- Topics Board -