ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ

青々とした苔
2019/07/03

毎日雨で蒸し暑い。

こういうときには、青々とした苔のあるところに行きたくなります。

写真は4年前に京都の「祇王寺」に行ったときのものです。こうして写真を見るとつい先日のことのようにこの日、このときの「祇王寺」と、ご一緒した方のことを思い出します。写真を見ているだけで涼し気。この青々とした苔の上に大きく寝ころびたいところです。きっとふかふかして冷たくて、さぞ、気持ちがいいだろう・・・と思います。緑につつまれるこの時季の「祇王寺」はお勧めです。

今、「コケの自然誌」という本を読んでいます。以前に読んだ「植物と叡智の守り人」の著者、ロビン・ウォール・キマラ‐が書いています。

苔という小さな存在を、繊細に観察し、そこに心をよせて苔の声を著者は聴いています。こんなふうに生きているものに心を通わせることができるその心根から学ぶことが多いです。このような著者にはコケもきっと心を開き、彼らの秘密を教え、友好関係を築いてくれるのだと思います。

このあたり、私は学ばなければいけません。植物を大事にしていない私(命あるものなのに私にはどこかアクセサリー的な扱いがあり)はどうも植物からは嫌われているようで・・・自業自得です・・・。

ここを時間をかけながら選び変えていくことは私がやらなくてはならないことのひとつです。

2つをもつ
2019/07/02

以前おせわになった「キリスト教神秘主義」 のクラスで、人間が誕生するには、2つのフィルターを通って誕生するということを教わりました。

もともと人間は神の子として在り、その人間の元がこの地上に誕生するときに、2つのフィルターを通るということです。

1つのフィルターは大天使的なもの、そしてもうひとつのフィルターは人間的なものです。これだけでは何なのかわからないと思いますが、要は、人の中には各フィルターを通るときに獲得した、大天使的要素=永遠の存在、と、人間的な要素=一時的な存在(それは人間の世界の形態で善と悪とか私とあなたというように相対である)とがあるということ、でした。

道場でいうところの「私」という永遠の存在、そしてパターンという一時的な存在、その2つを持っている、それが人間ということです。ですからこの部分はとても共感できました。

で、この永遠の存在(高次の自己)というところを皆求めたがります。日々の生活に生まれる悩み、苦しみ、問題を高次の自己になってしまえばなくなると思っているからです。しかし、まずは、2極の片方で苦しんでいるのなら反対を生きて楽を体験し、そのバランスをとっていくスキルを身につけ、それをこの地上で使い、日々をスムーズに生きる力をつけるのが先と私は思いますし、それをスキップして永遠の存在にたどり着くことはあり得ないとも思っています。

これは道場で言うと「私」として生きるということと同じです。まず、これをやってしまおうとしがちですが、「私」として生きるためには、まず、この2極をどのようにコントロールし、選択するのかというスキルが必要です。肉体をもってここにいるわけだから。

そして、感じているのは、2極を生きる際に、内在している永遠の存在の資質を使うことになります。そうであればその部分とは少しずつ、接触していると言えます。

こう考えると自分の中にある永遠の存在は、特別なものではなく、よりよく私達が生きていく上で必要不可欠なものであり、それは練習によってどんどん使っていくことができます。

全てが用意されています。自分の中に。

だから自分に向き合うことが大事なんです・・・と・・・くどくどと言い続けています。

混沌とした中に・・・
2019/07/01

今日から7月。早い、本当に。

昨日は、同級生と会いました(6月は5人の同級生と会った)お互いに会いやすい所で、ということで、小田原で会いました。小田原まで行ったので小田原城を見学したかったのですが、天気がいまいちだったので、次回にすることにしました。駅から見えた小田原城。お城が見える町って、すてき。

昨日会った同級生とは1年ぶりでしたが、お互いにこの1年の報告をし、お互いに労い、笑い、やはり体力が落ちたという話で共感し合い、お互いに無理しないでいこうと誓いながらまた次回会うときまで元気でねーーーと言って別れました。

同級生たちと会うって1年に1回くらいかも。皆にまた1年、元気で幸せでいてほしい。

私たちがお茶を飲んでいたテーブルの隣のテーブルに、おばあちゃんたちが4人座ってお茶を飲んでいました。皆さん白髪で、たぶん同年代のお供だちという感じでした。楽しそうに話している姿を見て、同級生たちともこんなふうになれるといいなあと思いました。

耳が遠くなって、何を話しているのかわからなくなったり、人の話も聞いていなかったり、勝手に話したりしても、それなりに楽しいと、これまた勝手に思えるような間柄。そこには、ちゃんと、とか、整然とということはなく、なんとなくでいいというあいまいな時間が流れるのではないかと思います。

年をとることはあいまいを許すこと、そしてそのあいまいの中に自分を溶けさせること・・・・・とふと思いました。

そもそも、私たちはあらゆるものが存在する混沌とした中に生きています。それをはっきりさせようとして苦しくなる。自分自身も混沌とさせてあげたい、と思う今日この頃。

必要かどうか・・・
2019/06/28

近頃、買い物をするときに、欲しいからではなくて、必要かどうかでだいぶ決めるようになりました。

欲しいな、と思ったとき、今あるもので代用できるんじゃないだろうか、今、あれがあるからいいか、というように、本当に必要かどうかで買い物をするようになってから、お金ってそれほど使わなくてもいいんだという事にも気付きました。

知り合いに「お金はあまりいらない」と言っていた人がいて、その人は「そもそも、お金を使わないからお金はそんなにいらない」と話していました。当時はその感じがわからなかったのですが、もしかしたら、こういう感じなんだろうかと近頃わかった気がします。

TVで「駅ピアノ」を見ていたら、ピアノを弾いていた元エンジニアの男性が、その仕事をやめて、今は他の仕事をしていて「給料は減ったけれど、お金をあまり使わないので全くかまわない」と言っていました。

又、件の老後資金の2000万円問題に対して「まわりでは2000万、どうやって貯めようと言う人が多いけれど、お金をあまり使わないので自分には必要ない」と言っている人もいました。

無理して我慢してお金を使わないのではなくて、自分にとって本当に必要かどうか、で決めるというのが、お金の断捨離をしているようでいいかんじです。そして、必要なものだけに囲まれていると、自分が全てのものに目が行き届いていて、管理できている感じがして、これもまたいいです。

全てにおいて、コンパクトに、身軽に、いたいです。

大きく大きく広がり続けていくのは、魂だけでいい。

「私」がセッティングしている
2019/06/26

自分に起きる諸々の嫌なこと、悩み、問題。そこまでではないものの、ずっと続いているもやもや、いらいら、悲しみ、不安、重さ・・・。

頭で、それを考えないようにしようとしたり、こう考えればいいんだと思ってみたり、何かに打ち込むことでそれを忘れようとしてみたり。きっと多くの方がこの方法は使ってきたと思います。

そのときは一瞬、それから離れることができて、頭で、そうか、こうすればいいんだ、自分はもう、そこを超えた、自分にはもう、それはない、と思います。しかし、数日たてばまたもとの状態になっている、ということを繰り返している方がほとんどだと思います。

これは・・・そうですね。思考で対処していることは対処でしかなくて、その根本に目を向けていないからです。それでもそれを繰り返してどうにかしていかれる方はそれはそれでいいだろうと思います。根本に目を向ける作業には、努力が必要になるので。だったら思考で対処して、それを繰り返すという選択もあります。ただ「魂の道場」ではそれは使いません(熟考はしますが、それは対処法を考えることではないので)ですので、そこを究めていきたい方はそういう先生を探すといいと思います。

自分に起こっていることは、全て「私」がセッティングしています。神が与えているものではないんです。このもやもや、も、いらいら、も、問題も、悩みも、全てです。「私」が「私」の成長のために自らセッティングしています。セッティングは自分が以前に蒔いた種の結果です。しかし、それは罰ではない。ただ、同じ種を蒔かないようにしようという気づきのために、そしてそれは幸せに生きるためにです。

ここのところがうっすらとでも見えてくると、もう、思考で対処をするということを選ばなくなっていきます。

「私」がセッティングしている、ということ。

私は内向的
2019/06/25

・・・・私は外向的に見えるらしい・・・・

積極的で、ものおじしない、誰とでもすぐにうちとけて、と見えるようです。しかし私はどちらかというと内向的で、できるだけ目立たないところで、自分らしくいたいです。でも、その自分らしくの中には、お祭り小僧的な部分や篤いものがあります。

見た目や、仕事からのイメージと、本人が知っている自分とはかなりかけはなれていることがほとんどかもしれません。

人は、はっきりと内向性(的)、もしくは、外向性(的)と区別されるものではないという記事を読みました。人の性格は複雑です。その記事にあった「16のパーソナルティ 無料性格診断テスト」やってみると、自分の思っている自分に近いものが上がってきました。

もちろんこれが全てではありません。性格は「私」ではなく「私」に色をつけるものです。それでもなかなかおもしろかったテストなので、よろしければどうぞ。

https://www.16personalities.com/ja

バイトサマサマ
2019/06/24

はたしてどうなのだろう?・・・とあれから考えていましたが、いまいちクリアにならず。

しかし、この違和感は確かにあって、それは何?

で、気付いたのはそれは、仕事を、時間を売るのか、又は、自分を売るのか、という仕事の2つの形態というところに視点を向けているところからきているのだと思いました。仕事の形態ということで仕事を見たら、確かに、この2つがわかりやすいです。

しかし、仕事に携わっている人がどのように自分の仕事を捉えているのか(それはどちらの形態であっても)というところで見れば、人の数だけ仕事の形態はあります。それは誰のものでもない自分のオリジナルなものです。

これは仕事だけではなく、自分にまつわる全てにおいていえます。これは、こういうものです、これか、これです、と決まってしまっていることはないです。自分で自分用にどうそれを捉えるのかということができます。

そんなこんなで、考えていたときに、高校生だった私に叔父が言った言葉を思い出しました。私は高3の夏休みにバイトをしていて、でも、バイトは楽しくなく、ただお金のためだけにいやいや行こうとしていた私に叔父がこう言ったのです。

「おまえ、いいなあ、バイト行って、今まで知らなったことを教えてもらって、おまけにお金までもらえるんだぜ。本当ならおまえがお金を払って教えてもらわなくてはいけないくらいのことを教えてもらえるんだからバイトサマサマだな」

そのときの私にはその意味がわからず相変わらずワケのわからないことを言う人だと思っていましたが、私のバイトに対しての捉え方(時間を売る、我慢して働く、お金のため)だけだったものに、思いもよらない新な見方がそこにやってきたことになります。ただ、まだ自分にそれを理解する力がなかったのですが、そういう新な見方とは頭のどこかに残るのかもしれません。

「そうか、そんな捉え方もあるのか」という体験は目を開いていきます。

「これ」か「あれ」かという2極からの選択しかないのではなく、「これ」と「あれ」の間にたくさんの選択肢があります。それを使うことが自由や楽の幅を広げていきます。このあたりの力を養うのには「意味づけワーク」がいいです。

スイデンテラス
2019/06/23

山形、庄内。今回ご用意していただいたホテル→「ショウナイホテル スイデンテラス」https://suiden-terrasse.yamagata-design.com/ 

スイデンはあの水田。水田の中に建っている個性的なホテルでした。

水田の中なので窓から見えるのは水田と山々の風景。のどかなその風景とホテル自体のとてもシンプルな造りが、静かな時間を提供してくれます。こういうホテルでひとりで数日過ごすのもいいなあと思いました。ホテル特有の非日常的な空間ではないんだけれど、現実から切り離されているような空間でした。

ライブラリがあり、そこにはおもしろそうな本がたくさん並べられていました。本を選んで、座り心地のよいソファに座り、ゆっくりと読む。手にしたのは仕事に関する本でした。

タイトルも作者も実は覚えていなくて、ぱらぱらと開いたら、まず「時間で仕事をしない」という事が書かれていました。時間で仕事をするというのは、これだけの時間働けば、これだけの収入になるというものです。

私が10代のときにバイトをしていた頃はこの感覚だけでした。「今日は〇時間働くから〇円になる。まだ〇時間しかたっていない、あと〇時間か。早く終わらないかなあ」自分の時間を売ること、それが仕事だと思っていました。

もう、このように時間を売るのではなく、自分自身を売ろう、と著者は勧めています。自分自身とは自分の得意とすること、自分の才能、自分の魅力、自分の個性・・・これらは仕事に成るもので、時間〜自分自身へと移行することで仕事は楽しくなるし、やりがいも出てくるし、質も上がるということです。そしてそこで手にするお金は誰かを笑顔にした結果のもの。それへの対価が手にするお金だという考え方でした。

この考え方は多くの方が言っていることです。少し前にも「もう、時給でお金がもらえる楽な仕事から真っ先に足を洗ったほうがいい」という記事を読んだことがありました。しかし、何かひっかかる気がします。はたしてどうなのだろう?・・・。

目の前には広いテラスがあり、そこにはツバメの巣がありました。ちょうど巣立ちした子ツバメだちがびゅんびゅんと目の前を飛んでいるのを目で追いながら、はたしてどうなのだろう?と考える・・・・・・・・続く。

抗わないで・・・・
2019/06/20

令和になってから、変化が起きていると言う方がまわりに多いです。

今まで考えなかったような展開や、予想外のことが起きる、何かを手放すことになった、など、今までのままでいることに固執してしまうと身動きがとれなくなっていくかもしれません。

こういうときには、抗わずに、展開に乗る、起きたことも受け入れてみる、手放すことになったことは手放す、ということをしていくのがいいと思います。

誰でも、自分が慣れ親しんだものごとがなくなることは怖かったり、寂しかったり、不安だったりすると思いますが、何かが変わること、終わることは何かのスタートだし、何かがなくなることで、新なものが流れてきます。そして、全てが変わることが自然なありかたなので、それを受け入れるといいです。

楽しみながら。これからだ、きっと何かが待っていると思って。

今日はこれからとても久しぶりですが、山形、庄内へ行ってきます。先日大きな地震があったのですが、庄内は大丈夫だったということでした。それでもきっと大きな揺れだったと思います。・・・・ということで、行ってまいります。

「私」を育てることは、奇跡を起こす
2019/06/19

それぞれの「私」が成長・進化していくときに、ほとんどの方に見られることとして、自分の両親への理解、許し、愛おしさ、などが、人によっては徐々に、人によっては一気に起きてきます。

それはたとえ、両親との確執があり、言葉や実際の暴力に傷ついた体験があり、一生、この親のことはきっと許さないだろう、この親が死んでも悲しくない、早く死ねばいい、と根深く思っていても、それでもこの奇跡と言えるような体験をするようになります。

それは理屈を超えて、自分の中に芽生える純粋な気持ちです。それは、私はその方の「私」が育ち、その資質である、理解や、許しや、共感や、受容などの力が成長・進化したからだと感じています。

「あんなに嫌いな父だったのに、あるとき、父の背中を見ていたら泣けてきた」「母に愛された記憶もなく、じゃまものとしてずっと扱われてきたのに、だんだんと、この人の痛みを感じて、泣けた」「なぜだか、もういい、昔のことはもう全ていい、と心底、納得できてて、今は一緒にいてあげたいと思う」などなど。

私は、この体験こそとても神聖なものであり、崇高なものだと思っています(愛は身近にあるんです。天の高いところにあるのではありません)そして、まず、親に対して(兄弟に対して)のそれが起きてから人はそれが自然と他人にも向かっていきます。ですから、そういう話を聞くと、よかった・・・と思います。

それは、その方が自分を変容させたという証です。具体的に何の変容なのかというと、もう、自分で自分を満たせるようになってきたという変容です。それがないときに一番近くにいる親からそれをもらおうとします。

その方がつかんだそれは、自分の肯定になっていくものです。そして、そういうその方と一緒にいることでご両親は自分の子を誇りに思い、そういう子供を生み育てた自分たちを肯定していきます。特別なことじゃないんです。でも、気高いものです。

「私」を育てることは、奇跡を起こします。

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ

- Topics Board -