ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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何ごとも全て同じ
2021/11/22

今年最後の茅ヶ崎クラスも無事に終わりました。皆さまおつかれさまでした。そして、今年1年ありがとうございました。

今回も色々と学びましたが、その中でも難しかったのは、「伝える」ということだったような気がします。

いわゆるコミュニケーションをとる、ってやつです。コミュニケーションなんて日常的にやっているし、特にどうということはない、と思われるのですが、よくよく、それを見てみると、あれれ?必要なことを言っていない?、あら?伝わっていない?、え?その言い方では素直に受け取れないかも、などなど、起きています。

自分の気持ちや考えを素直に伝えることと、相手の気持ちや考えを尊重することを同時に行っているのがコミュニケーションなので、これはけっこう高等なことだと思います。

そして、こう言いましょう。このときにはこう返しましょう。と決められているといいのですが、コミュニケーションはそのときそのときで変わります。そうであるので、とにかく練習しかありません。

クラスのときや、勉強会のときに、お互いに話をし、そこにお互いに「快」が流れているかどうかを感じ、何か言葉にできなくても違和感があったらそれを伝え、また皆で考えてみます。それを繰り返すしかありません。

このあたりの練習になるのは何と言ってもレスポンスの練習です。レスポンスはカウンセリングのためだけのものではなく、日常のコミュニケーションにはばっちり使えるものです。今年はほとんど各クラスともにレスポンスの練習をしなかったので、来年は、やろうと思います(皆、あまり好きではないけれど(笑))

そして、よいレスポンスを行うためには、自分のパターンの代弁をすることです。誰かの(ここではパターンの)気持ちや言い分を代弁するということで、相手を尊重するという練習になります。

その感覚はとにかく自分にしかわからないものなので、自分で追い求め続け、練習し、試し、自分のものにしていくしかありません。・・・・と、今行われている大相撲の解説者のお二人が、先日、同じことを言っていらっしゃいました。

「何故、言われたことができないのか、何故、自分の悪いところが良くならないのか、自分で考えなくてはいけない。そして色々と試して自分で見つけるしかありません」と。「それも毎日毎日、いつもいつも考えることです」と話していらっしゃいました。

何ごとも全て同じ。その自分自身の姿勢が自分を高めていくのだと思います。

善きほうへ動かされていた
2021/11/18

「私が全てを決めている」だから、パターンから見れば「全ては決まっていて、自分の意思はない。だってちっとも思い通りにならないじゃないか」(くどいけど、また、この話)

今までの自分の人生を振り返ってみると、本当にそうだったと思います。あの出来事、この出来事。あのあまりにつらかったこと、あのときの死にたいと思ったこと。

今思い返せば、それがあったことで、私はそれまでの自分を変えて(いや、変えざるを得なかった、無理にでも)先に進む(先に進んでいることすらわからず、いくしかなかったと思う)。

そしてまた、何かが起きてまたまた、仕方なく、また動いていく。こうして自分の(パターンの)意思ではないように動かされていくことを繰り返していたと思います。自分で決めて、自分でやってきたと思っていたけれども、そうではなかったんだと今わかった気がします。

パターンの思うようにはいかなかった、でも、善きほうへ動かされていた。これは皆がそうだと思います。

しかし、自分と向き合ううちに、いつのころからか、自然に「私」の意志で自発的に動くということがわかるようになりました。そうして、初めて、生きているという実感がありました。

もちろんそれまでも生きてきたのに、動かされているのと、自発的にあるのとでは全く違うのです。パターンは自分に自由意志はない、と言います。しかし「私」は自由意志のかたまりです。だとしたら「私」で生きて、自由意志を十分に使っていくほうがいいです。

私は、人は幸せに生きるために生まれてきていると思っています。そのための成長なのだと思うんです。成長するために生まれてきているのではなく、心の幸せを感じられるようになるために成長する。自分が自発的に幸せになっていかれるように、自分の自由意志のかたまりである「私」としていくことだと思います。

今日から茅ヶ崎クラスの2日間セミナーです。今年最後のクラスです。1年を振り返りつつ、ゆっくりと、じっくりとやっていきたいと思います。

歯の検診
2021/11/17

2年ぶりに歯の検診にいきました。

横浜にある医院で、もう、30年もお世話になっています。

当時、なかなか悩ましい親知らずで、困っていることを仕事場の同僚に話したところ、この医院を見つけてきてくれました。それまでにも、いくつか医院に行って相談したのですが、お願いしよう、と思えるところがなく、どうしたものかと思っていました。

そのときに、同僚が「どうも、この医院は紹介がないと診てくれないようなの…」と言っていましたが、だめもとで連絡をしたところ、診てもらえるということで、伺うこととなりました。

初めて医院に行ったとき、レントゲンで親知らずの状態を確かめ、そこで、先生がおっしゃたことは…「伊藤さん、大丈夫ですよ。何かのときには僕がなんとかしてあげるから」…ということでした。この、僕がなんとかしてあげるから、が当時の私には救いの言葉となりました。本当にほっとしたことを覚えています。

それからは、毎年、検診にいくようになり、そこで、お世話になった歯科衛生士さんに「先生が僕がなんとかしてあげると言ってくださってすごく安心したんです」と話したところ「先生がそう言われるのなら、なんとかできるんですよ。先生、すごいですよ」と言われました。この、歯科衛生士さんが、その後、長い時を経て、私の一人目のクライアントさんとなられます。

で、今回の検診。2年ぶりでお会いした先生は変わらず、優しく、たのもしく、なおかつ、加齢とともに変化する口の中に対していい意味でのあきらめと、だからこそ大事にすることをあらためて教えてくださいました。

「全て、加齢が関係するんですね」と私が言うと「そう、そう思っておくことは僕はいいことだと思いますよ」と言われました。いつまでも若く、ということが良いことのように言われますが、現実は老化していくわけです。それを受け入れつつ、若い心で生きたいと思いました。

親知らずはありがたいことにこの30年静かに眠ってくれています。このまま、私の寿命がおわるときまで眠り続けていてもらいたいです。

保留
2021/11/16

昨日の、わかったこと。全て「私」が決めている、だから人に自由意志はない…ってやつ。

私としては、スピリチュアル係の人達の言っている、ひとつの謎が解けた感じでよかった、よかったなんですが。

この、わかるときというのは「あーーーーーそーかー」という感じで、一生懸命考えて導き出したものではなく、急にわかるというものです。この感じは疲れない。なんせ急に来るので。

しかし、考えて導き出すものというのは、私の場合すごく疲れる(一概に全部とは言い切れませんが)。以前はまだそれができていたと思うのですが、今は軒並みだめです。

きのうのことについて、その後、ちょっとだけ考えたことは「私」が決めるということは、「私」の親である「大元」が決めているということでした。「私」は「大元」から出発してずっとそことつながっているので「私」の意思は「大元」の意思。ということは、大元の思い通りに「私」を通してものごとは起きているんだろうなあと考えました。

もう、そうであれば、はい、はい、と聞いていくしかありません。そしてだからこそ、天に養っていただくということも起きてくるのだろうと思いました。

考えて導き出すということに疲れを感じるのと同じように、近頃は、書店にいくと疲れます。あまりの本の多さ(情報の多さ)にくらくらするからだと思います。昔はたくさん本がある、選び放題という楽しさがあったのに。

そして、これはだいぶ前からですが、身に着けるものを買いにいくときもそうです。たくさんあるものの中から、必要なものでなおかつ欲しいものを探すということがとにかく疲れます。たくさんあるのに、ない。それでも、ぎりぎり必要なものは現れるので、これも、急にわかる、と、同じように保留にしておけばいいのだと思うようにはなりました。

こうやって「私」がセッティングしたことにまた「私」がどうするのかです。今の私には「保留」を選びつつ、その状況に慣れること(パターンはすぐにわかろうとしたり、すぐに手にいれようとしたがるので)そして、いずれ必要なものごとは現れるし、必要なことはわかる、と信じていくこと、それは大元とのつながりを信じること、などを学ぶということだと思います。

人には自由意志はない
2021/11/15

昔からよくわからなかった「人には自由意志はない」ということ。「全ては決まっているから」なのだそうですが…。

これを聞いて人によっては「全て決まっているのなら、自分で選ぶことはできないのだから、ただ、起きることを受け入れていくしかない。自分から動かなくていい」と「運命」と捉えると思います。どういうことなんだろう?としばらく保留にしておきました。

で、昨日の朝、そーゆーことか、と理解しました。と言っても、これが正しいではなくて、私にとってはこれだろうというところへ落ち着いたということです。

それは、全ては「私」が決めているということです。「私」は本当の自分ですが、そのこと自体も知らず、ほとんどの人がパターンを自分だと思っています。そのパターンである自分があらゆることを決めて、言動しているので、あたかも自分で決めている(自分の意思)と思います。

でも、そうではなくて「私」が決めている(全ては決まっている)…とすると、この時点で、パターンである自分が決めているわけではない=自分だと思っているパターンには自由意志はない、と言えます。パターンから人を見たときには人には自由意志はない、と言えます。

このことだったのだろう、人には自由意志はない、とは。それについてどの領域で解釈するのかで違いがでます。それは真実だ、嫌、そうではない、ということだけが解釈ではないです。

「私」はひたすら魂の課題に向かわせるためだけを見つめ、そこへ少しでも行こうと今後を決め、セッティングまでして、そのセッティングに対して「私」としてまた何を選択して、言動するのか、を繰り返しているのだろうと思いました。

パターンである自分とすると、これはほとんど嫌なことや、問題、悩み、というとらえ方をすると思います。そして、苦しいので、パターン的にどうにかしようとします。一時それがうまくいったようにみえても「私」としてはそれは不本意なので(そうはさせませんよ、という感じか)また次を決めていきます。

「私」が次に決めていくことはパターンにはわからないことだし、頭で考えてもわからないことです。「私」はそういうものとは違う領域にいるからです。

人生何が起こるかわからない、というのもこういうことだからだろうと思いました。私たちは生かされている、と言われます。これも「私」によって生かされているということかもしれません。パターンだけしか自分の中になかったら、生きるという事も難しくなるのかもしれません。

パターン的にはどんなにつらいことであっても「私」は自分が元気に明るく歩いていかれるように、たくさんの体験をし、智慧を使い、感性豊かに幸せにいかれるように、そして、課題に向かっていかれるようにしてくれているのだと思いました。

「私」は自分です。だとしたら、自分自身へ感謝です。「私」から「私」へ感謝です。

更新
2021/11/14

人が成長していく過程にはいろんな要素が必要です。そしてそれぞれの要素自体が段階的にその質(意味)を変えていくものなので、これだけやっていればいいということではありません。

という意味で、成長することは複雑であり、それらをどんどん使っていくことなんだろうなあと思います。

シンプルに生きると言いますが、これもきっと複雑な体験をして見出したことなんだろうと思います。創造することとゆだねることも。自分の努力で創造していく体験をしたからゆだねることを知ったというように(何か1つを体験すると、意外と、その反対も知るということが起きているのかもしれません)

結局、更新し続けることです。

しかし、その更新はやらなくてはいけないことではなくて(人は自由意志のもと、自分で選んでいいのですから)探求することが好きな人には、楽しんでやれることでもあります。

私はかれこれ約30年間、この探求をし続けていますが、何をやっても続かなかった私の唯一続いているものとしてみると、やはり楽しいから、おもしろいから、があることがわかります。

確かに初めてこういうことに触れた36歳の頃はとにかく生きることが苦しかったから、そこから抜けたかった、という動機でしたが、新な生き方を学び、今にいたっています。

今でも困ったことや、問題はおきますが、36歳の頃の知恵とは全く違うものを更新し、持てたおかげでそれなりにやっています。この年になってあの36歳のときのまま更新しないできていたら、心身、生活はかなりひどい状態になっていたと思います。ということで更新し続けることが大事です。

これは、こう、と決めてしまったらそこで止まります。止まってしまうと、もっと見えるべきものごと、聞こえてくるものごと、感じられるものごとをシャットアウトしていきます。それゆえ、豊かさを感じられなくなります。

更新するためには、自分で疑問をもつこと、自分で考えてみること、自分で調べること、他人の意見も聞いてみること、自分で試してみること、自分で今の自分の哲学をつくること、です。とにかく自分でやってみるということです。今の自分でいいんです。今の自分がやるからこそ意味があることなんです。

自分に向けての赦しと如実知見
2021/11/12

自分の中に起きる感情、感覚は自分のパターンが生み出しているわけだから、自分の責任。それを知っているからこそのワークです。

しかし、ワークはそれだけのことではないんです…と以前も書きました。ワークは、自分を整え、バランスをとるために行うべきことなんですが、そこがある程度できるようになったら、新に変容した自分として他人と向き合うということへ、広げていってください。

何ごとも自分が得たものは他のためにも使えるようでありたいと思います。今までは自分ひとりのためのものであった自分の心を他人のためにスペースを空け、使うということです。これができるようになって、ワークも完成と言えます。

他人と向き合う、他人と関わるということをほとんどの人がやらずにきています。もちろん私もそうでした。そもそも、他人への向き合い方や、関わり方を私たちは習っていません。

誰とでもスムーズにいくこと(ぎくしゃくせずに、自分も他人も嫌な気分にならずに)が他人と向き合う、関わるときのコツのように思っていました。それゆえ、ありのままの自分を表明したり、他人の心に触れることは、タブーでもありました。

よくわけのわからない表層的な向き合い方、関わり方を良しとしてきました。しかし、それは、他人と向き合い、関わっているのではなくて、他人と向き合わなくていいように、関わらなくていいように、のものだったと今はわかります。

本当は誰もが他人と心の通い合う関係性を求めています。毎日そうあることは必要なくても、自分が誰かとそういう体験をできたら、きっと人生は豊かに感じられると思います。人は自分と自分の家族が幸せなら豊かさを感じたり、喜びを感じたりするのではなく、他人との健全な心のふれあいのときにそれを感じられるものです。

自分へのワークを続け、変容した自分が他人に向き合うときには、その人への理解というものが芽生えていると思います。理解ができれば、出てくる言葉も、的確でシンプルなものになると思います。こうしてコミュニケーションができあがるわけですが、ここへの挑戦は、頭でわかってもできるものではないので、これもまた、とにかく練習をしていくことになります。その練習の場としてグループでのセミナーは試しやすいと思います。失敗しても、うまくいかなくても、それでもどんどん怖がらずに練習してみてください。

これは、ありのままの自分でいるということへの練習でもあります。自己探求、成長、進化の先には「ありのままで存在する」ことがまっています。もちろんその先はあり、その先のところが広く知識として認識されているところなのだと思います(他を赦すこと、如実知見など)そこへ一気にいくことは無理です。まずは今の自分がありのままにあればいいということです。

・・・・自分に向けての赦しと如実知見・・・・そして「私」はいつでもどこでもそうしています。

壁ドンと靴
2021/11/11

今回の盛岡で起きたこと。

いつもの盛岡のホテルにチェックインし、消臭剤いの匂いがしない部屋であったことにほっとし、早めに寝ようとベッドに入ったのが22時頃でした。そして、眠っていると、突然、頭のあたりの壁から大きな音がして目が覚めました。

音は、明らかに、壁を叩いているものでした。音の感じからして、こぶしで、狙いを定めて強く叩いているような音でした。ドン、ドン、と何度も聞こえ、はじめのうちはとなりの部屋の酔っぱらったおじさんが無意識に足で壁をけっているんじゃないかと思いました。

しかし、その音の迫力と、どこか怒りをこめて、同じ所に狙いをさだめて叩いているような音に怖さを感じました。

そこで、隣の部屋からの音を確認しようと思い、部屋のドアをあけて、音のする隣を見てみると、部屋がないんです。壁しかない。もしかしたら上からの音が響いているのだろうか、と考えている最中にもドン、ドンと同じところで音がしています。

そこでフロントに電話をして、状況を話したところ「すぐに確認してみます」ということでしたが、音源はわからず。そして、最後に小さく弱い音で「トン」となって音はしなくなりました。

「どうしますか?お部屋を変えますか?」と聞かれ、今から移動は面倒くさいと思いましたが、またあの音がはじまったら眠れないので、移動することにしました。時計をみたら23時40分。

部屋中のものをとにかくバッグとリュックにつめこんで、寝間着から服に着替え、すっぴん(こういう時にマスクはいい)で、フロントの方に案内されて、上階の部屋へ(いわゆるアップ・グレード)はーーーーこんな部屋があったのか…床にしかれたふわふわ絨毯が、全てを物語っていました。ベッドに入り、これで、また音がしたら…これはただもんじゃない…と思いながらも、そのまま眠りにおちました。盛岡滞在中はそのお部屋だったのでその後の「壁ドン」はありませんでした。

そしてセミナー1日目。ホテルを出て会場に向かって歩いていると私の横をおじさんが追い越していきました。そのおじさん、靴が壊れているらしく、靴の甲の部分から靴底までをガムテープでぐるぐる巻きにしている靴をはいていました。両足とも。

おじさん、靴買えばいいのに。着ているものはきれいなものを着ているのに、と思いました。

そして、セミナー2日目。その日は朝から「大人の社会科見学」であちこち歩いたのですが、帰りがけになんか足元が変。急に歩きにくくなって、なんだろう、と右足を見て見ると、げーーーっ靴が壊れている。靴底が剥がれていて、ぱかぱかしています。左も見てみると、げげーーーっこっちも壊れている。これじゃ、あのおじさん状態です。おじさんの知恵を拝借して、私もセミナー中はセロテープで甲から靴底をぐるぐるまいてとめました(その後、靴を買いにつれていってもらいました。お手数かけました)

・・・・・というようなことが時々あります。何かが目について、それがその後自分に起こるということ。こうなりますよ、と、教えてもらっているのか、目に着いたものが起こると自分で決めてしまっているのか、わかりません。そんなわけであの「壁ドン」もしばらく注意しようと思いました。

あきらめることはない
2021/11/10

昔の自分が選択してしまったことへの後悔。

これは誰でもあります。もちろん、私も。いや、私は人一倍あると思います(色々、やらかしました)

で、今はこの、自分を観察し、パターンをケアしたり、新な白パターンを選んでそれを生活にいかすということをやっていますが、当時は、こういうことを全く知らないし、まだ、子供だったし、ということでそれ(黒パターンの選択と実践)は仕方がないことと言えます。しょうがなかった。

又、魂の成長のためには、まず、自分ではないことをやらないと成長できないので必要なことであったとも言えます。それはそれとして現実にあったことですが、だからといってその過去をそのままにしてしまったり、見ないことにしてしまったりはしないことが大事です。

例えば、この人と結婚しよう、と決めるときに「愛しているから」とだいたい思いますが、はたしてどうなんでしょう?とそのころの自分を見てみると、お金持ちだから、とか、仕事が安定している人だから、とか、自分の我儘が通る人だから、とか、世間的に恥ずかしくない人だから、とか、もうすでにその人の両親がいないので楽だから、とか、自分にはこの程度の人でいいんだ、とか、この人なら自分を捨てないだろう、とか。そういう黒パターンで選んでいたということってあるんじゃないかと思うんです。ただ、それに気づいていなかっただけで。

これは仕事についてもそうです。実際、知り合いの人で「私もカウンセラーにでもなろうかなあ。スーパーでレジ打っているよりもかっこいいし、座ってできるから楽だよね」と言っていた人がいました。これはまさに黒パターンですが、それを選んで実践するという人は多いと思います。

人間関係も、自分に対しても、とにかく黒パターンで選択して実践してきたのが今までの人生です。そして、その結果を誰もがもれなくうけとっています。

しかし、もう選んでしまったから手遅れと思わなくていいんです。気づいたときに、今までの黒パターンを使うことをやめて、新な白パターンをつくり、選び、実践し続け、その心意気で生きていけばいいんです。

例えば、結婚相手へのそれらを、もう選ばないという白パターンにして、具体的に何を自分がやっていくべきなのか、どんな視点を相手に持つべきなのかを考えて実践します。それを行っていくうちに、そちらが本筋になっていきます。そして、ちゃんと完結させていっています。

いくつになっても、選びかえることができます。そして、新な在り方を結果として受け取ります。誰の人生も、取り返しがつかないもの、と、あきらめることはありません。

デビュー待ち
2021/11/09

「報恩寺 五百羅漢」についてネットで調べていたら、現在するのは五百体ではなく四百九十九体なのだそうです。

なるほど、あと一体で五百体か。その一体って?きっと、それは、それぞれの自分なんだろうと思いました。

羅漢は、聖人、高僧、という立ち位置にいます。まだ人間くささがあるから馴染みやすいです。それぞれが、それぞれの個性をいかしつつ、仏道の教えを日々実践して、自分を上げていった方達です。私たちの先輩です。

そして私たちも日々、自分で自分を整え、上げていくことをしているわけですから、いつか…報恩寺の五百羅漢のメンバーに入れていただくこともありでは?と思いました。

そのとき、あなたはどんな姿で、現れたいですか?冷麺食べている姿もいいし、お金勘定している姿もいいじゃあないですか、バレエを踊っている姿、ピアノを弾く姿、赤ちゃんを抱っこしている姿、料理をしている姿、走っている姿、寝ている姿…なんでも。心には仏道を持ちながら、仏陀の背なかを追いながら、人間くさいありのままの姿であるからこそ、あとに続く人たちを助けられるのだと思います。

又、「この五百人それぞれが自分の能力で世の中を良くしていくための使命を与えられていたといわれています。」という記事も読みました。使命というと、敷居が高いですが、使命は命を使うということ。命=「私」です。それぞれが自分の「私」を使えばいいということです。

「私」を構成している資質の中の何が得意なのか、何が自分らしさなのか、それを使っていけば、自分の能力で世の中を良くしていく、ということになる。

それも、頑張って、頑張ってやるのではなくて、自分がやりたいからやる、という在り方です。やりたいと思っていても、出来ない時もあるし、やってみたけど「なんだかなあーーー」という時もあります。そのときにはがっかりするし、嫌になるし、怒りもわいてくるでしょう。でも、それはそれでいいじゃあないですか。そしてまたやりかたいからやる、ということの繰り返しです。これを止めない、継続させる。そうやって「私」を使い続けてください。それが使命だと私は思います。

自分はまだまだなのではなくて、自分は羅漢デビュー待ちだと思ってください。

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