ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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いいことづくめ
2021/01/10

結局、人の悩みって「思い通りにしたい」なんだということ。

色々なパターンが顔を出してはいるけれども、結局は「思い通りにしたい」が全ての根にあります。このパターンはずっと皆が持ち続けているパターンです。ということは、人の成長や進化とは、このパターンを超えていくことと言えます。

●思い通りにしたい…から…○思い通りでなくていい…へ。

ここへのシフトはきっと最も大変なところだと思います。それはあらゆることに対してですが、まず、目を向けるべきは自分自身に対してです。頭では、理想の思い通りの自分にはなれないことはわかっているし、そこではないこともわかっています。それでも黒パターンは思い通りにしようとします。そうじゃないと自分をたもてない、他人からどう思われるか怖い、他人から愛されない、認められない、そうなると生きていかれない、と思っているからです。そんな目に合わないためには、パターンの思い通りの自分でいなくてはいけないと固く信じていてそう決めています(これがけっこう頑固)

明るくて、優しくて、強く、勇気があり、おだやかで、誰からも信頼され、求められ、知的で、積極的で、落ち着きがあり、仕事もできて、収入も多く、健康であり、レベルが高く、人からうらやましがられるような自分、そして、理想の家族、理想の人間関係を持っている自分。そんな思い通りの自分ではない自分のことは愛せないのです。ここを超えていく。少しずつ。

(黒パターンの)思い通りの自分でなくてもやっていかれる、(黒パターンの)思い通りの自分でなくても大丈夫、(黒パターンの)思い通りの自分でなくても自分を認めていく、(黒パターンの)思い通りの自分でなくてもありのままの自分を許す、(黒パターンの)思い通りの自分でいたい、というところはもういい、自分はこのレベルではない(←これは私が以前よく選んでいました)(黒パターンの)思い通りの自分をもう選ばない、などなど白パターンを考えてみてください。

いろんな白を選びながらだんだんと○思い通りでなくていい…へ近づいていきます。近づけば近づくほど心は安定します。それはあらゆることを受け入れていく覚悟というものも育てることになるので体験から言えることですが、安定=覚悟とも言えます。

こうして思い通りでなくていい…を少しずつ選べるようになっていくと、物理的にも精神的にも自由になります。そして、いかにこれに縛られてここだけをどうにかしようとやってきていたのかがよくわかります。これから解放されることで時間もエネルギーもその分を他に使えるので、より自分に手をかけてあげられるし、ひいてはその視線は他人に向かいます。自然に。

いいことづくめのこれです。

先の見えないものは…
2021/01/09

自己探求の旅は「まあ、いいか」と「何がなんでも頑張る」の2つをそのときの自分の状態でいいあんばいで使っていくことが必要になります。

私がナビとしていても、いつもつきっきりで「今は、まあいいかだよ」とか「ここは頑張りどころだよ」とは言えないので、自分でそれをやっていくしかありません。

そう言われてしまうと難しいと思うかもしれませんが、2つを色々と試してみて、違っていたなと思ったらまたやり直して、を、繰り返していくうちになんとなくわかってきます。

この「なんとなくわかってくる」というものが、先の見えないものを探求していくときの目印になってくれます。目印って、誰にでもはっきりわかるものではなく、あいまいで、うっすらとしているものでもあります。

先の見えないものは、見えていないものなので、これでいけば確実とは言えないものなんです。本来。ですから「これは本物。これをやっていれば大丈夫。これが最高のもの」というものにはくれぐれも気をつけてください。

こんな時なのでスピ系ビジネスが今や増えてきています。

こうして自分でよくわからないながらもやり続けて自分で得ていくものこそ自分のものです。必ずそれにたどりつけます。

結局、生きるということは(人生を創るということは)そういうことだと思うんです。自分にとっての「まあ、いいか」と「何がなんでも頑張る」とそれをいかに上手に使えるようになるかだと思う。

結果、そこにはやすらぎや平安が訪れるので、これは動機としてはよいものなのだとも思います。

最後までテー
2021/01/08

きのうは、昨年の大晦日に亡くなられた「骨董師匠」のお別れ会でした。師匠、70歳。

美しいお顔で横たわっている師匠に数年ぶりに会いました。同じ茅ヶ崎市内に住んでいるので、いつでも会えるだろうと師匠への不義理をはたらいているうちに、こんな会い方になってしまいました。後悔しました。

今ここで今までの感謝を述べるのなら、なんで会いにいって直接言わなかったのだろう…と。まだ聞きたいことだって、話したいことだってあったのに。なんで、またでいいか、としていたんだろう…と。

私は師匠から骨董について教えてもらっただけではなく、楽しい時間を共に過ごさせてもらいました。古いものを扱う仕事なので、霊感の強い師匠が体験した怖い話を聞かせてもらったり、逆にあり得ないだろうと思うくらいのばかな話もたくさん聞かせてもらいました。奥さんのMちゃんとも仲良くしてもらい、友達がほぼいない、わがままな私の友達としてお二人がいてくれました。

私が横浜に住んでいたころ、近所に小さな師匠の骨董店ができて、よくそこへ行くうちに、仲良くなりました。ある日、師匠から「今度、茅ヶ崎に越すことになったんだよ」と言われ、その後すぐに私たちも茅ヶ崎に越すことになり、再び交流がはじまりました。

先に越していた師匠がビール片手に「やっぱ〜さぁ、湘南の夏は、ビーサンとグラサンとテーシャツだな!」とうれしそうに言っていたのを今も覚えています。
「テーシャツじゃないよ、ティーシャツだよ、アイステーじゃないよ、アイスティーだよ」と言っても、最後までテーでした。

70年という師匠の人生。それは誰にも生きられない人生だったと思います。師匠だから生きられた人生。そしてそれは誰の人生もそうなんだと思う。自分の人生は自分にしか生きられないようにできているのだと思う。だから、自分の人生を自分が責任もって生きなくちゃいけないんだとあらためて思いました。

・・・・・師匠、私、しっかりと生きますよ。長い間、おせわになりました。ありがとうございました。さようなら師匠・・・・・

日常の中に非日常を
2021/01/07

日常と非日常。

人の生活のほとんどは日常です。日常にはやるべきことがあり、それに流されるようにして生活をしています。子供であれば学校へ行く、大人であれば仕事へ行く、そのほかに、子育て、家事、介護で日々忙しい方もいます。

例えば1週間のうちそれが5日あって、あとの2日はそこから離れて非日常を送るというのが多くの人のリズムだと思います(子育てや介護はそうとは言えないのですが)5日は我慢、2日は自由というような。

非日常では、自分の好きなように時間を使い、趣味や、ゆっくりすることを自由に行います。

で、バランスということで考えてみると、5日、2日をはっきりわけないで、日常の中に非日常を入れながら、1日の中に両方あるというようにしていくことでここのバランスはとれると思っています。

結局、全てはバランスなので、自分の1日というものもバランスよくあれれば、すっきりと生活ができていくと思うのです。

日常の5日間を我慢しながらすごすだけではなく、ここに2日間の自由な非日常を入れてみる。例えば、通勤中に好きな音楽を聞くとか、仕事場に好きな絵を置いておいて、意識的にそれを見るとか、自分が楽しくなれそうなアクセサリーを選ぶとか、ランチの後のお茶にこってみるとか、空を見上げる、深呼吸をする、などなど小さなことでいいんです。

その一瞬は、自分の非日常のとき。それが一瞬であっても、小さなそれらの寄せ集めが2日間のあの感じを彷彿とさせるということがあります。

日常の中にありながらの非日常を体験する。忙しいから無理と決めてしまわずに(決めてしまったらそこからは動かないので)忙しいからこそやってみることで、自由にいられる時間と環境がないと自分は自由ではないというところからはなれ、自分しだいなんだということになんとなく慣れていかれると思います。

上質の普通
2021/01/06

今日はもう1月6日。なんだかあっという間の年末から今日まででした。

「今年もどうぞよろしくお願いいたします。今年もお会いしている方々の成長と進化をよりサポートできるよう「私」の質をあげる努力をしていきます」

皆さまはどのような年末年始をお過ごしでしたでしょうか。私は、例年通り、年末の「SASUKU」(サスケ君のファン。今回は完全制覇でますますファンに)、そして、年があけて「ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート」(無観客での初コンサート。音というのは受けとる相手があってまろやかさを増すのだろうということを初めて思った。来年こそはぜひまたたくさんの観客の前で)、そして「駅伝」(最後の最後に首位交代。創価大、残念)とテレビ三昧の日々でした。

この3つは毎年見ているのですが、今回はここに「嵐」が入ってきた。

昨年で活動休止になった「嵐」。特にファンではありませんでしたが「VS嵐」はずっと見ていました。そこで見せるメンバー同士のやりとりや、ゲストへの自然な気遣いなど(はんぱな大人より大人の気遣い)アイドルでありながら、アイドルらしくない彼らの姿があまりに普通になりすぎていて、知らないうちに私も彼らに楽しませてもらっていたのか、と、今さらながら気づきました。

こんな記事をみつけました。「嵐がデビューする2年前の1997年、大手証券会社や都市銀行の経営破綻があった。その後、「格差社会」「勝ち組・負け組」という寒々しい言葉が流行。安定した普通の生活を過ごすことが難しいと多くの人が感じた。社会学者の鈴木洋仁・東洋大研究助手は「嵐を評すれば“偉大なる普通”。人々が安定を求めた約20年、普通であることの偉大さを示し続けた」と話す。彼らの堅実さ、安定感が時代の価値観に合致した。5人はグループ内に序列を作らず、誰も置き去りにせず横一線で走り続けてきた。出しゃばらない奥ゆかしさは、「草食男子」のイメージにも重なり、「派遣切り」がささやかれる世の中を癒やした。」(読売新聞 オンライン)

”偉大なる普通”・・・・かあ。普通であることが実はどれだけ自然に人々の心の中に入り込み、入りこまれていた方はそのことに気づかず、しかし、それに助けられていたり、元気をもらったりしていたのかということ。それも偉大なる普通となれば、上質の普通ともいえます。ものごとは上質になればなるほど細やかな波動をもつので、ごくごく自然に、わからないうちに入り込んでいく。普通であり続けることは他を助けます。だから普通であれ。

その普通を携えて、またきっと「嵐」として活動をするときもやってくるのでしょう。20年間、おつかれさまでした。「VS嵐」楽しかったです。

新しい大晦日
2020/12/31

2020年も今日が最後です。

なんだか、あっというまに大晦日を迎えてしまった感があります。

今年は、コロナで岩手、沖縄へ行くことができなかったり、恒例のプチ熱中症で体調が悪かったり、トミーの手術があったり、父が入院したり、叔父が入院したりと、色々ありましたがそれなりにやってこられたことに感謝です。

思うようにいかないことの中にありながらも、楽しいことや、新しい発見や、新な思いや、自分をより知れたことなどもたくさんあった1年でした。私はこの魂の道を歩いていくことが好きなんだなあとあらためて思いました。自分の好きなことができて、幸せだと思うのです。そして、それらをまた皆さんとのセッションで使っていこうと思います。

今回、我が家は、一切お正月の用意をしないで大晦日を迎えています。ここまで何も用意をしない大晦日は初めてです。明日の元旦から今まで通り、スムージーとパンの朝ご飯でスタートします(おめでとうーーーと言いながら)

今までできないながらも一応やってきたのですが、2人ともそれほどおせち料理やお雑煮が好きではないので、だったら、普段と変わらずでいいんじゃないかと言う話になりました。子供がいれば、皆で祝い膳を囲んでというのもいいですが、私たちにはそれもないので、今までのまま、そのまま来年に入っていくということになりました。

こうしてみると、節目節目がなくなっていくように見えますがそれはそれでいいのかもしれません。ますますイベントなしの我が家です。料理が苦手な私としてはありがたい新しい大晦日です。

今年1年ありがとうございました。お会いしている方々、日記を読んでくださっている方々、どうぞ皆さま、良いお年をお迎えください。日記は来年6日からまた書いていきます(多分・・・)

来年が皆さまにとりまして、良い年になりますことを祈って・・・・。

それは自分にふさわしいのか?
2020/12/30

それは自分にふさわしいのか?・・・・・上から目線のように感じられるかもしれませんが、この観察眼はすごく大事。

決してその「それ」をばかにしたり、見下したりしているのではなく、それはそれとして、今のこの自分という個にそれはふさわしいのか?ということです。ふさわしいものには、興味がわき、楽しさがあり、すっきり感があり、安定感があり、心が広がるような感覚もあるかもしれません。それは今の自分にふさわしいものごとです。それを感じられたら、それを使うということです。

それが自分にふさわしいかどうかを自分の感性で決めていっていいということです。

これがいつも受け身でいると(一見、謙虚な人に見えますが)そのものごとに、他人に、自分がふさわしいのかどうかを決めてもらうということになります。それは、ものごとから今のあなたでもいいですよ、と言われているようなものです。そうではなくて、自分が選んでいいんです。全て。それはものごとや他人に対してだけではなく、自分に対しても同じです。

この言動は今の自分(「私」)にふさわしいのか?ということ。小さな神である自分(「私」)に、魂の道を歩んでいる自分(「私」)に、こうでありたいと望んでいる自分(「私」)に、この言動は、この人はふさわしいのだろうか?・・・・・・ということです。この視線をいつも持つことも「私」を大きく育てていくことになります。

他人に対してそんなことを思ってはいけないとパターンは言うかもしれません。でも、ものごとのときと同じようにゆがみなく自他を観察をします。自分の感覚もしっかり感じます。相手がどんなに力を持っている人でも、素晴らしいことを言う人でも、いろんな領域が存在しているので、それぞれのところにそういう人達がいます。

これは自分のプライドのためではありません。プライドというぺらぺらしたもののためではないです。自分という個への尊厳です。

ひとりひとりが自分への尊厳をとりもどしていく「自立」の時代が風の時代です。ただ、自由に、勝手に、気ままに生きることが自立なのではなく、自立には尊厳がついてくる。自分への尊厳があるから、自分のための自立ができると思います。

実は悟り続けている
2020/12/29

昨日の日記に「いわゆる悟りといえるものです」と書きました・・・が・・・厳密には悟りのひとつといえるものです。

ここでの悟りとは特別な力、人知を超えた何か、特別な体験、至福体験、悟りというやすらかな世界にいくこと、ではありません。

私は悟り(…の意味づけ)は、小さなひとつひとつの自分の体験から気づいたものであり、発見であり、魂の成長と捉えています。

例えば、ずっと人の悪口を言っていた人があるとき、そんな自分をむなしく思い、もう、これはいい、もう、ここからは卒業だ、というのも悟りです。とても自分勝手に生きてきた人が、それ故に問題をおこし、それを助けてくれた人がそばにいたときに初めて今までの自分を省みます。あんなに自分勝手な生き方をしてきたのに、そんな自分を助けてくれる人がいる。この人のためにも自分を変えようと気づく。これも悟りです。働きすぎて体を壊した人が、自分がどれだけ無鉄砲に働き続けたかに気づき、そこを変えていくことも悟りです。今までずっと何かに、誰かに守られて生きてきた人が、その違和感に気づき自分で生きようと、怖いけれど勇気をもって一歩を踏み出すのも悟りです。自分を否定し続けてきた人が少しずつ自分を肯定していこうと努力をするのも悟りです。というように、ここでの悟りは人の成長とともにあるものです。

そのときに悟りを起こすのはその人の内の「私」です。それが悪口や自分勝手や働きすぎや依存や自己否定から卒業させようとします。それは日常の中で起こり、その人特有のものです。だからこそ、その人の悟りになります。

ある領域に存在しているスピ系のものに私が興味を持てないのは、痛みを伴う個人の体験からかけ離れているからです。本当は逃れられない(逃れる必要のない、逆に必要なもの)ものであることが理解できてしまうと、ネガティブな痛みをなくすということが私には違和感でしかありません。

悟りはもっともっと身近なもの、そして誰もが普通に実は通ってきているものです。ただ、悟りという言葉のもつイメージからまさか自分にそれが起きていたことには気づいていないだけです。思い返してみてください。生まれてから今まで私たちはたくさんの気づきや発見を繰り返し成長しています。それは悟り続けてきていたということです。ちゃんと「私」がそれを起こしています。それってすごいと思いませんか?人にはもともとそれが与えられています。それは「私」は神のコピーだからです。ひとりの小さな神として今日も生きていきましょう。

ハードルが高い
2020/12/28

きのうで、今年のカウンセリングを終えました。

今年は今までにない年になりましたが、それでも今までどおりカウンセリングを続けることができ、又、お会いしている方々が変わりなく、学び続けてくださったことをうれしく、たのもしく思いました。

自分が得たものはそれぞれの生活の中でおおいに使っていってもらいたいです。ここでの学びは情報を得るということではなく、学んだことを生活の中で使ってみるというところに意味があります。うまく使えるときも、うまく使えないときもあります。それでも試してみる、やり続けてみるというところが大事です。その努力は必ず実ります。人が心から望み、意識的に行っていることは全身全霊が、そこに向けて動こうとしてくれるからです。

ここで行っているパターンで今まで生きてきたところを、だんだんと白パターン(「私」が選びたいもの、新な視点、新たな意味づけ)を選択し、それを実践し続けていくということ=「私」(の選択)で生きるということは、実は、すごーーーーーくハードルが高いことです。

今ごろ、そう言われても…知っていたらやらなかったのに…と思う方もいらっしゃるかもしれませんが(笑)ここへのシフトは、いわゆる悟りといえるものです。

生まれて今までずっとパターンで生きてきた自分を「永遠なるもの」として自分自身も、人生も、生き変えていくということは、真逆の生き方を獲得することになります。それは大変なことです。それでもやりたい、と望み、願い、そこに向き合いたいと思っているのはずっと生き続けている魂の欲です。そして、そこへ近づけば近づくほど人は楽に、自由に、軽くなっていきます。

その後も魂は停滞することなく、進み続けます。そこからなんとなく見えてくる風景を少しずつ感じてみると、そこは自然と導かれるようにすーーーと入っていかれるところなのではないかと思えます。

そこと比較をしてみれば、やはり、このパターンから「私」へというところのほうが意味があり、それゆえ大変だと思います。

大変、大変と言われてしまうと心が折れそうになるかもしれませんが、では、その前に存在していたパターンの世界で生きることが大変じゃないのかというと、それはもっと大変だったでしょう。そして、そこはもういいとどこかで思ったとも思います。人の意識は、最終的にはこの「永遠なるもの」にかえっていきたいようにできているのだと思います。

整然と・・・
2020/12/27

「ちょっと待て、今これを考えているのは自分の中の誰?」「ちょっと待て、これからこれを言おうとしているのは自分の中の誰?」「ちょっと待て、これからこれを選ぼうとしているのは自分の中の誰?」と「ちょっと待て」を自分に言うことで、パターンでの言動は減っていきます。

パターンが考える、言動することは今まではごくごく普通のことであり、それは自分の意思で行っていることだと誰でもが思っています。ですから、それを「ちょっと待て」と止めて見てみることが最初はすごく違和感があるとは思いますが、それでもこれの繰り返しで、意識的でいないと100%(といっていいほど)パターンで言動していること、そして、実は、そうではないものを選ぶことができることがわかってくると思います。

そうやって、脱パターン、パターンとの非同一化を体験していきます。この脱パターン、パターンとの非同一化は今まで知らなった「私」を知るためには必要なことです。「私」と「私」ではないもの、その2つが自分の内に在るということを初めて知っていきます。

この切り分けにより、ごっちゃになっていた心は少しずつ整理されていきます。整理されれば、自分の心を遠くからながめることもできます。あんなにごっちゃになっていたと思っていた心が、整然と見える。整理していけばそんな風景でもあるのか、心って。

心は複雑、誰もそれを解明できない、自分ではどうすることもできない部分、潜在意識の力がつよく、それにより人生は決まる、自分でさえも自分のことはわからない、などなど、かつて言われていたことを今も信じている必要はありません。それが必要な時代もあったと思うし、それが間違っているということではありませんが、それでも心についてもそれぞれの概念を再構築(新な意味づけ)をしていけばいいと思います。

いずれ、その概念が姿をあらわしていくので、できるだけ軽やかなものを作っていったほうがいいです。複雑に重い心とともに生きるより、シンプルで軽い心のほうが生きやすいと思う。

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