ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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ある物語
2025/12/19

昨日は、お二人の方の真実について書きました。で、思い出した話がありました。それはひとつの物語りです。

ヨーロッパのある国のある小さな村に、都会から大金持ちの男性がバカンスにやってきました。この村は海に面しており、豊富に魚介類がとれます。その男性は美味しいものが大好きで、そこで水揚げされた魚介類を毎日楽しんでいました。

ある日、その男性は、ひとりの漁師の姿を目にします。たったひとりで、魚を取っているその男性に声をかけました。

「ここの魚介類は最高に美味しいです。だから、これを世界中の人々に届けたい。私が出資しますから、商売をしてみませんか。そうなると、あなたの生活はもっと豊かになり、あなたが毎日働かなくてもいいようになりますよ。人生が変わりますよ」と。

するとその漁師は「いいえ、私にはそれは必要ありません」と言いました。大金持ちの男性は「何故ですか?もっと暮らしもよくなるし、楽になるし、お金も入ってくるから、安心して生きられるのに」と聞きます。するとその漁師はこのように答えるのです。

「今の私の生活に満足しているからです。朝、温かいコーヒーを1杯飲んで、海にでかけます。そこで、今日家族が食べる分の魚をとってきます。そして、家に帰れば子供たちがいるので子供たちの世話をしたり、一緒に遊んだりします。それから夕方には妻と2人、話をしながらきれいな浜辺を散歩します。そしてゆっくりと眠る、この毎日同じことの繰り返しの生活が私にとっては何よりだからです」というお話です。

ここでも2人の真実が語られています。大金持ちの男性にとっての真実、漁師にとっての真実。それはどちらが正しい、とか、どちらがミームが高いとかということではありません。それぞれが信じていて、実際そこから「快」を感じている(ざっくり言うと)それがただ違うということです。そして、それは、それぞれにその人の真実です。

しかし、それも今はということであり、これから先に変わっていくことも多分にあります。自分がそれに対しての思いが変わっていったり、何故だか急に興味がなくなったり、それが維持できなくなったり、それを手放さなくてはいけないことになったり…と、今の自分の真実も永遠ではありません。

永遠にあるものは、人が作ったものではなく、人を超えたものが作ったものだけなのです。それは誰にもすでに与えられ、誰もが気が付かないけれどもすでにそれに守られ、その中で生きているというものです。そこだけは誰も逃れることができないところ。変えることができないところです。そういう、変わることのない、安定したそれがあるからこそ、今の自分の真実(快)を生きればいいと思うのです。

自分の真実
2025/12/18

今回、岩手クラスの方に言われたこと「熊が出るかもしれないから、散歩をしないでくださいね」。言ってもらってよかった。散歩するつもりでいたから。はい!と言うことを聞いて今回はほぼほぼ部屋にいました。

で、無料視聴できるプログラムがあったので見てみました。それは、日本人の元女優さんの現在のお話。

その方は子供の頃からお金持ちになりたいという夢があり、資産を増やしはじめたのは27歳の頃だったのだそうです。女優業をやりながらも、それよりもやりたいことは資産を増やすことだったのだそうです。

最初はマンションを購入し、それを売って、利益を上げ、またマンションを購入し、また売ってを繰り返していくうちに、だんだんと資産が増え、その後は投資で増やすほうへ。これは、投資の国アメリカで勝負したいということから60代にひとりでマンハッタンに渡り、そこで高級レジデンス2部屋を購入し、現在はそこに住んで、より、資産を増やすことを学び、増やし続けているという方でした。

これは自分にとっての大好きなことで、血が騒ぐのだそうです。その言葉通り、大好きなことに向かっているその姿には充実感があふれていました。資産を増やすこと、これは、この方にとっての真実なんです。そこに迷いはなく、純粋に増やしたいのだと感じられました。

自分にとっての真実を生きているとき、人は、躍動感や、活気、わきたつようなもの、明るさ、楽しさ、などをその身から発します。自分の真実を生きている人は同じようなオーラを発していると思います。それはぎらぎらしたものではなく(多分、ぎらぎらしたそれは、恐怖や不安、競争、勝ち負け、他人より抜きんでるため、が動機にあるのだと思う)生きる力みたいなもの。生きている、というエネルギー。人間が根底に持っている力です。

私にはさっぱりわからない投資の世界ですが、それをお金に執着してレベルが低いとか、精神性がない、とは全く思いませんでした。ただ、純粋な自分の気持ちで動いて、結果を出していることがわかるからです。

又、前日には、90代の男性の方で海外でオーロラの研究を続けている方がTVに出ていました。その方の真実はオーロラの研究。やはり活力や明るさ、元気さ、少年のような探求心を感じました。

自分に正直であることってこんなにいい波動を生むんです。だから自分の好きなことをまず最初にもってくるといいのです。他人からどう思われようと、自分の心底からの真実を生きるということ。それが自分という人間を生かすことであり、幸せであるということだと思います。

基本をもう一度
2025/12/17

今年の岩手クラスも無事に終了いたしました。皆様、1年間ありがとうございました。

今回は地震のことがあり、少々心配もありましたが、全員集まることができ、何ごともなく予定通りに進み、本当によかった。

1日の夜だけ、今まで体験したことのない冷たい風が吹く日がありました。その風に皆さんもとても寒いと話していたので、よっぽどの冷たさと寒さだったのだろう。私はマスクをしてマフラーを顔にまき、手袋をした手をそのうえにおいて歩きましたがそれでも顔に冷たさがびんびんとささり痛かった。これだけ通っていて初めてではないか‥‥と。

で、今回のクラスでは、基本をもう一度確認するようなことが多かったのではないかと思いました。感情・感覚が湧いたらすべてパターン。だから感情・感覚はどんな小さなものでもスルーしない。パターンをみつけたら、母性の動機でそれを抱き、父性の王登場(すぐにこなそうとしない)そして語る。語るというのは、パターンをおとなしくさせるためでも、パターンを変化させるためでも、もちろんパターンが望むように楽になることでもない。ただただ、そのパターンへの理解と赦し。そして救済。だからこそ、そこに生まれる信頼の関係。

そして「私はどうありたいのか」が、パターンを上回るようにある「私」という意識を自分で創る(そこに繋げるように、白パターン、白黒ワーク、マントラを行っている)そして行動する。この一連の作業を正しい動機で行うことです。

それから「私」の資質には「耐える」「努力」「苦労」「諦め」などなどネガティブ(一見)なものも実はあると言う話をしました。最初に資質にはそういうものはない、と言っていましたが本当はあります。じゃあ、何故、そう言わなかったのか…最初からその話をしてしまうとパターンでそれらを行っていたと思います。ひたすら耐える、とか、苦労も我慢するとか。神の資質であるのだからそうしなくちゃと。

だから、ここに来てその話が出ました。それはもうそのことが分かる段階だからです。では、それらって、どういうもの?

…というように、時には、嘘もあり、作り話もありとしながらクラスは進んできていました。嘘は絶対にいけない、正直なことが正しいと言う意味づけだけだったら、最初から全てを話し、ここまで続いていなかったと思います。それを使うとき、それを誰のために、何のために使うのかを選んでいけばいいのだと思います。

そういう意味で意味づけの更新も自分の成長に伴って行われていく。全体に底上げされていっている感じを感じられているといいです。

走った
2025/12/11

先日、どうしても走らなくてはならないときがあり、久しぶりに走った。と言っても、走るとは言えないような走りでした。

自分でも走りながら≪あれ?足重い、身体が重い≫と感じながら。そして≪転ばないように、転ばないように≫と注意しながら。多分1分弱位の走りではありましたが、こんなにも走れないのか。と思いました。周りから見たら、走っているとは見えなかっただろうと思います。

50代の頃は時々走ることがあってもそれほど重さを感じることはなかったのですが(だから、いつまでもこうだと思っていた)今回は、笑ってしまうほどでした(走ることを継続している方はそのままいけるのでしょう)

これは走ることだけではなく、他にも色々あると後から思いました。ペットボトルの蓋が開けられなくなっている、とか、100円玉と1円玉を見間違える、とか、文字を読み間違える、とか。先日も「ひじき」という言葉を思い出せずに「ほら、あれ、あれ、なんだっけ、ほら、あの、海の、シジミじゃない、モズクじゃない…あれよあれ」…ということがありました。これが普通にあります。

だんだん、そのようになることはわかっていたつもりでしたが、実はまだわかっていないということがわかりました。そこを少しでもキープさせたいのであれば、日々、その練習をしていくことになります。ちょっと走る、握力をつける、目と脳のトレーニング、とかを継続的に行う。

しかし、私にはそこまでは難しいです。変化し続ける自分を受け入れ、ちょっとだけ努力をするようにしようと思いました。

今日はこれから盛岡へ行ってきます。無事に皆で集いセミナーを終えられますように。今年最後のしめくくりのセミナーです。大事におこなってきます。

天災
2025/12/09

岩手の皆様、地震は大丈夫でしたでしょうか。

全く知らずに今朝、知りました。天災はどの地域であっても、大難は小難に小難は無難になって過ぎていきますように。

人には自分自身への執着があります。私もある。もっとこうだったら、こうなれたら、こうしたい、などなど。そしてそれがあるから他人との比較も自然と生まれます。

他人から離れることは少しずつ練習をしていけばできますが、最後に残る人は自分。その自分からも離れていくって、最も難しいことなのだろうと思います。執着を手放すって、難しい。でも、そこに向かいたい。その先にあるものへたどり着きたいからです。

で、天災です。それに見舞われたとき、人は、自分への執着などと言っていられません。まずは生きること。自分には必要だと思っていた数々のものごともなくなってしまったとき、生きるためだけに在る、という自分を初めて体験することになります。

まだ私はそこまでの体験はしていないので推測ではありますが、そこで頑張って生きている自分は、余計なものがない、まっすぐな自分なのかもしれません。そういうことも人間の進化を考えると天が与えるのかもしれません。それにより、元々の生き方を思い出すのかもしれません。

天災って「天」という字が使われています。自然災害も天の計らいのひとつ。何かそこには意図があるのだと思います。でも、人々が守られますように…と祈る。それも天は受け取ってくださると思います。

音楽に親しむ
2025/12/08

昨日、「第九演奏会」(ベートーヴェン 交響曲第9番 ニ短調 op125合唱付)に行きました。いつもの茅ヶ崎交響楽団によるものです。

去年は茅響の第九だから当日でも入れるだろうと、失礼なことを思っていたら、すでに完売で行かれず。今年は早くからチケットを買いました。

茅ヶ崎交響楽団(90名)+ちがさき第九を歌う会の方達(180名)そしてソプラノ、アルト、テノール、バリトンの声楽家の方4人と指揮者の方、と、とても大きなステージでした。第一楽章から最後の合唱付の第四楽章まで、1時間15分ほどでしたが、その力強さと歯切れのよい演奏に満足しました。

ちょうど木曜日に見たクラシック番組でベートーヴェンの晩年の話を聞き、それも重なり、人間ベートーヴェンのことを思いながら聞くことができました。

ベートーヴェンも同じ人間です。その一生には、私の想像を絶する心身の痛手があったことと思います。それでも音楽を続けていくことを願い、その通りに生きたベートーヴェン。そして、そこから生み出された名作の数々。それは現代を生きる私たちに、そしてきっと未来の人々にも感銘と勇気、優しさや慈愛を与え続けてくれると思います。

第四楽章の最後の最後の部分がすごく好きです。演奏者もラストに向かって最も一生懸命に奏でるであろうと思われる部分なので、全員が力強く演奏していて、それを見るのも好きです。こうして聴衆の心もまきこみながら、ベートーヴェンの描いた世界に連れていってくれるのだろうと思いました。

来年も必ずいこう(しかし、何故12月に第九なのか。年始に聞いて「よし、今年もやるぞ」というのでもいいのに、と思うが)

…というわけで今年も音楽を楽しみ、心身を助けてもらいながら過ごすことが出来ました。あんなに苦手意識があったクラシック曲であったのに、ピアノをはじめたことで、その素晴らしさを初めて知りました。音楽を学んでいたころは一体何をしていたのでしょうか。でも、私にとっては今だったのだろう。

これからも音楽に親しんでいきたいです。しかし‥‥これも魂の成長を助けるものとしてあるということ‥‥いつか、まだ先のいつかだとは思いますが、それも手放すときが来る。あちらへ帰るときが近くなれば、それすらも、もう、持てなくなる(というより、多分ではありますが、もう、いい、と自分が思うのかもしれません)魂の成長を助けるものごととは、そういうものだと思います。だからこそ、今、音楽を大事にしたいと思いました。

ゆったりといけばいい
2025/12/07

あらゆるものごとが自分(という魂)の成長のためにあると思います。用意される、セッティングされる。

自分に起きるよいことも悪いことも、小さなことから大きなことまで自分のためにある。そういう視点を持つと、ちょっと冷静に物事を見ることができると思います。

そこで体験したひとつひとつに「よかった」「悪かった」と普通に意味づけをしているのですが、それもまた塞翁が馬であるから、絶対ではないです。

大事なことはそれらから何を学んだか、何を感じたか、知ったか、そしてこれから先、何を選ぶのかです。これは「よかった」ときも「悪かった」ときも同じです。そう考えると、どっちも同じ様に使うことができる。

黒も白も、ネガティブもポジティブも、陰も陽も。この世にある全てのものは、本来、意味がないものなので、同じ様に使えるものとしてあるということです。だから、あとは自分がそれに対してどう使うかです。

なんて簡単に言っていますが、ここが使えるようになるのにはコツコツと意識的にやっていくしかありません。

例えば、私も、体調が悪い日(…という黒、ネガティブ、陰)のときには「嫌だなーー、つらいなーー」と思います。しばし、それだけになり、ぐずぐずと考えたりするパターンが出現。しかし、これに飲み込まれたままではいたくない、と思う(いてはいけないではなく)。そうだね、そうありたいのか、と自分を確認します。(それが白にもなる)

そうすると、そこに小さな灯がともり、それは自分が望んでいるものなんだ、そうありたいんだと再度、確認できます(もちろん、ものすごく痛いとか苦しいとかはまた別の話です)これがとても大事だと思う。コミットしていることになる。

このとても小さな体験が、成長につながるんです。また次回、同じような状況になったときにはまた同じことを繰り返すのだと思います。しかし、そのうちに、繰り返すことは減り、瞬時にどうしたいのか(どうありたいか)がわかり行動することになります。この段階で以前よりは成長していると言えます。こういうことなんだ、成長って、と思います。

そこには自分ができるところの「どうありたいか」でやっていくので、無理がないです。そしてうまくできなくても、違っていても、いつでもやりなおしがききます。そのくらいゆるやかなもの。だから小さなところからゆったりといけばいい、と思っています。

自分のどうしても無理
2025/12/05

「どうして、今の仕事を選んだのですか?」とちょっと親しくなった方には聞きたくて聞いてしまいます。男女、年齢問わず。

どういう動機で仕事を選んだのかに興味があるから…だろう。で、今まで伺ってきた方達(クライアントさんではない方達)の中に数人でしたが「消去法で決めました」という方達がいらっしゃいました。

「消去法とは、様々な選択肢がある場合に、誤りや、あり得ないものを消去していき、最終的に残った選択肢を選ぶ方法。」(Wikipedia)とある。

やりたくないものごと、自分にはどう考えても無理、これは心身がつらい、と思うものを消していくことで選択が絞られていきます。その中から仕事として興味がある、できるだろう、やってみたい、というものを決めていくということです。

で、ある方は「まず、やりたくないことを出していって、消去法で絞っていって、いくつかやってみようかなあというものがあり、それでも、絞り切れないときに、なぜか、そのうちのひとつのことをやる流れになってしまって、やりはじめておもしろいと思うようになり、今にある、なんです」と話してくださいました。

又ある方は「他人と一緒に働くということができない性格なので、ひとりでやろうと思ってこの仕事をはじめました。とはいっても他人とは関わることになるので、それなりに常識も後から学びました」という方もいらっしゃいました。

私も、初めて働いた放送局は、ジーンズで働ける場所だからそこがいいと思ったというものでした。当時、ジーンズが大好きだったので。というか、いわゆる社会人としての服装が嫌で嫌で仕方なくて、あれだけは着たくないと思っていました(今は服装もそこまで厳しくはないのだろう)

それが我儘で、これじゃ社会で通用しないと言われても、そして、そうだろうなということは頭ではわかっていても、やっぱりそれは無理だった。私の場合は選択の基準になったのは着るものだったんです。

そんな我儘を言えるくらいありがたい状態だったことへは感謝していますが(両親も何も言わず)人ってもしかしたら、自分のどうしても無理(嫌なものは嫌)を貫いてしまうこともあっていいんじゃないかと思います。無理なことを、誰でもそうなんだから、皆がやっていることなんだから、働くとはそういうことなんだから、というところに自分をあてはめなくてもいいんじゃないかと。

そういうものだよ、普通はこういうことなんだから、が出てきたときには、本当にそうしたいのか(本当にそうなのか?ではありません。これもまたどこか枠に入れていくことになるからです。あくまでも自分の気持ち)無理はないのか、と自分に聞いてみるといいかもしれません。それがあるから自分の輪郭が見えてくると思います。自分の気持ち(感情・感覚)を知ることでしか自分は見えてこないんです。

自分の決め事を創る
2025/12/04

自分についても、自分の生活についても、自分で決めて自分で創ればいいだけなんです。

もちろん、人はひとりで生きているわけではないのでどうしても他人とかかわることになります。そのときに、そのかかわりがスムーズにいくように、ということで、取り決め事はあります。一般常識とか、皆が共通でもっている認識とか。それも使いながら、でも、自分自身と自分の人生においては創ればいいということなんです。

で、ここに時間がかかります。試行錯誤して、創っていくものだからです。

ここが短期間に一気にできる人は稀で、マスター級だと思います。そのレベルの魂は、自分の決め事を創るのに、どれが必要でどれが不必要なのかがもうわかっていて、それゆえに迷いもないし、全てを的確に選択していきます。そして、能力や才能を使うのではなく、天のルールの中にある資質を使うことも自然に行います。だから時間も労力も無駄にしません。そういう人はほぼほぼいません。

私たちは、何度も同じところを行ったり来たり、または何度も同じミスをしながら、落ち込んだり、傷ついたりして、やっと少しずつそこへ向かうことができます。この時点で魂のレベルというものがわかります。私もずいぶん長い時間をかけています。今だって、完成されているわけではありません。またやっちゃったよ、と思いながら、それでもどうありたいか、で続いています。

そんなふうではありますが、それでも、声を大にして言いたいことは、生きるということは自分の決め事を自分で創るということです。他人の創った一般常識や皆との共通の認識を自分自身と人生の土台にしてはいけないということです。

そして、それが人間にしか与えられていない「創造」というものです。動物たちにはこれは与えられていないのです。だとしたら、それをどんどん使っていこう。

「はい」と応える
2025/12/03

この時期になると、来年のカレンダーがたくさん並びます。可愛らしい動物ものがとても多いです。

そんな中に、目つきのわるい猫のカレンダーがありました。これは、もしや、去年初めてみた「ワル猫カレンダー」の2026年版?と手にとってみたらそうでした。

ぺらぺらめくってみると、今回もワルまっさかりの猫たちが各月のモデルになっています。見かたによっては可愛いと言えそうな気もしますが、一般的には可愛いとは言えない。でも、どこかかっこいい彼ら。

そしてその猫の横に書かれている言葉がなんかいいんです。その言葉も他人から言われたら「はあ?わかってますけど‥」と思うと思いますが、この、目つきの悪い、太々しい、心に傷持つ(ような)、開き直っているような、諦め、達観しているような猫からのメッセージだと思うとどういうわけか「はい」と素直に受け入れたくなる。ウソのない迫力というものなのでしょうか。

言葉のひとつに「弱い奴を守るから強くなれる」というのがありました。そうだね、そうだね、とうなずく私。で、真っ先に浮かんだのがパターンを守る「私」。パターンたちは子供なので弱い存在です。その弱い子供たちを「私」が守ることで「私」自身が成長し、強くなっていきます。「私」を強くするためにはパターンを「守る」ことをやらなければいけない。それはどんなに狂暴なパターンであっても。弱いから狂暴なんです。狂暴の下には恐怖と不安があります。

守ることって怖いことだったり、手間のかかることだったり、継続しなくてはいけないことだったり、時には嫌になったり、と、色々とあります。それも先が見えない中で守り続けていく。そうやって、育っていない「私」は勇気をもってそこへ飛び込まなくては強くなれないんです。「私」だからすでに強いんじゃないです。これは強さだけではなく、どの資質もそうです。

「私」って神の分霊だから、もっと気高いこと、美しいことをやるというイメージがあるかもしれませんが、どちらかというと逆です。とても現実的で、まっとうなことを「私」はやる。でも、まっとうなことがどんどんできるようになっていくうちに気高い強さや美しさが知らないうちに身についていくという感じです。強いから気高いし美しい。強さってとても奥が深くて、強いから、悲しみや寂しさも自由も楽しさも深く知ることができるのです。

そう考えると強さは最も基本になる資質だと思います。強さがどれだけ自分の世界を広げてくれるものなのか。

そうやって強くなるのは、ワル猫が弱い猫を守るのも一緒。「やっていることは同じだね、お互い頑張ろう」とその猫に言いました。「お前もな」と言われた気がします。「はい」と応える。

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