| 生きている実感 | - 2025/11/30
- いかに、自分自身を含め、物事の、事象の、後にあるものを知っていくか、そのものの奥に在るものを知っていくか…というところだと思う。その視線、在り方があるから自分をはじめ、全てのものは発展していくのだと思います。
これって、こういうことです。これだけでは、そこで止まってしまいます。で、そこに息苦しさを感じるのは、止まっている状態は違いますよ、というサイン。本来は動き続けるものだからです。
それは、こういうことがその後ろにはある、とか、そこにはこういう意味があるのか、とか、今まではこう見ていたけれどそれだけは無かった、とか、今まで気がつかなかったけれどもここにはこんな感情や感覚がある、とか。これらも与えられるものであり探すものではありません。だから、昨日書いたように、与えてもらえる自分の心を創ることになります。
その後ろにあるものに接したときに(少々大げさに言えば)この世界の奇跡を見たような気持ちになります。見たというより、つきつけられた、というほうが強いかもしれません。
こんなにも世界は美しかったのか、こんなにも緻密に全てが計られていたのか、こんなにも守られていたのか、恩恵を受けていたのか、生きることってこんなにも素晴らしいことだったのか、ということに私は感動しました。で、その気づきはその時だけのものではなく、消えることなく自分と共にいてくれます。
これは、特別な力ではなく(スピリチュアルとか、感覚的なことではなく)「生き方」を学ぶということなんだと思います。
「生き方」とはどうやって稼ぐか、どんな仕事をするのか、誰とつきあうか、ではなく(その領域もあるけれど←この領域に対して「人はパンのみで生きるのではない」とイエスはおっしゃいました)自分が肉体を持ってこの世で生きるときに、自分自身との軋轢(ほぼほぼここが原因になっています)なく生きていく生き方のことを言っています。
その生き方を学ぶことが人には必要で、それによりあらゆるものごとが変わっていく様子を見、知っていく体験をし続けることが、どの魂もやりたいのだろうと思います。なぜなら、それにより、生きている実感を感じられるからです。生きている実感は物事の後ろに奥にあるということです。ここをぜひ体験してもらいたい、と願う道場主。
今日も1日1回の語りかけを大切に行ってください。
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