ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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整っている心とは
2025/08/19

今の自分じゃだめだ…と決めていないだろうか。それが当然と思っていないだろうか。

今の自分じゃだめだから、こういう自分になろうとしていないだろうか。ならなくちゃ…変えなくちゃ…と思っていないだろうか。そうなることが成長とか、そうなれればこうなるだろうと思っていたり。これ、パターンです。

心を整えるって、このようなパターンの描いている心をつくることではなく、自分の内にいる全てのパターンをそのままの状態で置いておきながら(もちろん、そこにはプライドのパターンも入っています)そことは別に「私」はどう在りたいのか、どうしたいのか、というところに目を向けて、そこに邁進することです。それができる心が整っている心なんです。だめなパターン(と思っているパターンがいる)がおさまることが整った心ではありません。

パターンはずっとそのままです。そのままいさせてあげてください。在るものに抵抗しない、それはそれとして存在していていい。ただ、「私」はどう在りたいのか‥なんです。こうありたい、こうしたい、という「私」の本当の思いがあればいいんです。そして、今日1日をできるだけその意識で生きようとすることです。

そうは言っても、そうできるのか自信がない、とか、そうできなかったらまた凹む、とか、というのもパターンです。それも、以前の価値観です。できないのはだめだというような。ここを選んでしまうと、やってみよう、という意思がなくなります。できることだけでおさめてしまう。狭い世界に自分を閉じ込めておくことで安心するパターンです。だからここを選んでしまうとずっと見慣れた風景を見続けることになります。

できるとかできないとかという結果に目を向けるのではなく(このパターンを選ぶのではなく)。そして、そこへの自信がないからこそやるということなんです(これが新しい領域のひとつの価値観です)今まで自分にないものだからこそやって作っていくということなんです。これがひとつの無から有を創るということ。これが創造です。

「私」は自信がないとも言わないし、そうなれなかったら、とも言わないです。ただ、目指していきたいところに目を向けて居続ける存在です。

100%の精神を
2025/08/18

先日のお墓参りの帰りにお蕎麦を食べました。いつ食べても美味しいと思うお蕎麦。お蕎麦は毎日でもいい。大好きです。おろしそばに海老の天ぷら一尾をつけてもらいました。一口食べただけで「おいしい〜」と言ってしまいます。

で、食べているうちに気づいた。昔のように勢いよくお蕎麦をすすることができなくなっていることに。一体いつからそうだったのか、わかりませんが、すすらないで食べている自分に気づいたんです。

試しに、勢いよく(多分以前はこんな感じだろうという感じで)すすってみたのですが、すすり方が分からないような…(これ以上やったら咳込む)ほんとうに昔できていたことができなくなっていくんですねえ。おまけに自分でも気付かぬうちに、身体のほうがいいように変えていっているんですねえ。今の私のお蕎麦の食べ方を身体がちゃんと決めてくれて、そのように動いてくれていたんですねえ。身体の確かな判断に驚くと同時にちょっとした寂しさもありました。まあ、でも、こうして食べられるのだからよしとしよう、と思います。

年に1回ですが、歯の検診に行っています。そこで「いかがでしたか?お元気でした?」と毎回、先生から聞かれます。そのときに「はい、順調に年とってます」と前回言ったら「それは、よかったです。順調に年をとるというのはとてもいいことですよ。このまま順調にいきましょう」と言っていただきました。先生は私よりも年上なので、身体に起こる変化をきっと感じていらっしゃることと思いますが、優しい言葉です。

同年代でも、ものすごく元気な方もいらっしゃいます。仕事をばりばりこなし、家庭のこともこなし(こういう方って料理が上手なんです。センスもいい)、趣味を持ち、旅行に行き、交友関係も華やかで…。本当に体力があると思います。

又、そうではない方もいます。これは意味あってそれぞれに生まれつき与えられたものであったり、よりよい未来を生きるために、今はその体験中ということもあります。いずれにしても罰ではないのですが、パターンとしては元気な人をうらやましく思います。

で、いくつになっても華々しく生きている方のほうが目につくし、世間でも求められるし、よいことのように思われているので、そうではない自分を見下げてしまうかもしれません。

しかし、この言葉です「100%の健康(活躍)より100%の精神を」今の自分の状態を100%の精神で見て、支えて、ひっぱっていく。100%の健康(活躍)よりもこちらのほうが目が広がるんです。目が広がると、今まで見えてなかったものが見えるし、新に知ることもあるし、より己を知ることにもなるし、そこには幅があります。そして、これはいくつになってもできることです。だから100%の精神を…です。

草ぼーぼー
2025/08/17

昨日は、お墓参りに行ってきました。朝、9時半にお寺に着き、まだ、それほど暑くないので、ちゃっちゃと掃除して、お参りして、早く帰ろうと思いながら墓石の前に立ってみたら…す・すごい、草ぼーぼー。

前回来たのは4月後半。その時はそれなりにきれいにして帰ったのですが、わずか数か月でこんなにも草が伸びて、増えているとは・・・・・。「はぁ〜」とため息が出ました。

こういうときは、気持ちを新にし、より集中してやっていこう、と気持ちを切替え、まず、草抜きと枝切と蔦をとることに取りかかる。暑い、でも、集中。よし草終了。次は水を汲んできて、墓石を洗う。自分にも同じように水をかけたい。でも、集中。よし墓石終了。次は花立を洗い、持ってきたお花を供える。よし、終了。次は古いお塔婆と新しいお塔婆の交換。よし、終了。次はお寺さんにご挨拶をして、お線香をいただき、供え、お参りをしました。

帰りの電車を駅のホームで待っているとき、さきほどの集中を思い出していました。この集中度は以前よりも今ここにいることが普通になってきていると気づきました。そして、実は、今しかない、ということが少しずつ心身で感じられるようになってきていることも(今しかないから今何を選ぶのかが重要になる)過去も未来もなく(意識的にそこにフォーカスすることはもちろんできるのですが)この今だけだ…と。その今もすぐに過去になる。そして、過去のことはどんどん流れていく。ただ、在るのは、今、ここだけ。これでいると、以前よりもっと生きることに軽さを感じます。

あんなに苦手であった瞑想を始めて3ヶ月くらいになります。今回の気付きは、それによる効果ではないかと思います。瞑想といっても難しいものではなく、マインドフルネス。それも10分くらい。寝る前にやっています。時々日中も。そして、今はそれが楽しみでもあります。

以前は苦手だった瞑想は楽しくはなかったんだと今わかります。それは、何かを得るために行っていた瞑想だったので、楽しくはないはずです。修行っぽい。こなしていく感じでした。楽しくないから何も変わらず、増々嫌になっていっていました。

こうしてみると、自分が楽しいと思うことをやっていくことが一番なんだと思います。瞑想はお勧めしたいですが、誰にもタイミングがあるので、無理してやることはないです。しかし、瞑想の最中をいい気分でいられたり、行うことが楽しいと感じる方には何か自分の心身によきものを与えてくれるものだと思います。

そして、常に瞑想の感覚でいるということが、なんか、わかりかけています。それは「私」の納得感に基づいているものだと思った。「私」の納得感、それはゆらがないもの。実は昔からわかっているもの。

「私」とは…
2025/08/15

「私」って…崇高で、人離れしている感じがするかもしれません。愛が深く、やさしさとおだやかさでパターンたちを包み込んでくれるような存在。いつでも「そうか、そうか、つらかったね、よく頑張ったね」と言ってくれる存在。ひたすらパターンに優しい。そんなイメージがあるかもしれません(この感覚が強い場合はまだパターン寄りです)

しかし「私」をよく見てみると、半分は男性性の資質、半分は女性性の資質でできています。これは、はっきりと男女分けられるものではありませんが、わかりやすく言うと、です。

男性性資質は動的であり女性性資質は静的とも言えます。「私」は重厚であり、軽い。優しく厳しい。というように相反する資質を持っています。それらをその時その時で屈指していくことで、この世をいいあんばいでわたるために。

そう考えると「私」というのは、天に近いものではなく、神の子ではありながら人間界用に創られたものです。この地上での日々の生活をできるだけスムーズに行うために与えられている道具の数々を持っているものとも言えます。「私」はこの地上での日々の生活というところに重きをおいているので、とっても人っぽいんです。天上界にいるわけではありません。

で、人間がスムーズに生きるためには、知恵が必要になります。こういう場合、どうするのが自他ともによいのか、この場合、何をするのか/しないのかがよいのか、これは自分にとってどういうものなのか、それを実行するために自分の中のどんな資質を使うのか、何をするのか、それは「私」が納得するものなのか、などです。

何が起こるかわからないこの地上界では、できるだけたくさんの選択肢があったほうがいいわけで、そのためには自分がたくさんの道具を持っていることを知っていくことは役に立ちます。道具はすでに与えられています。後はそれを使うだけです。

「私」の持つ資質には、我慢、努力、忍耐、破壊、闘う、逃げる、嘘も方便、など、一見「え?」というものもあります(これについては初めはこのことは言いませんでした。わからなくなると思ったので)それらは、一般的に言われているよりも、もちろん質の高いものとしてです。「私」として生きるとはこういう類のものも使えるようになるということです。

以前から、「私」として生きるとはとても現実的になること、と言っていたと思います。今、こういうことか、とわかるようにきっとなってきていると思います。だからもうファンタジーの「私」を追い続けるのではなく「私」の本来の姿のこともそこへの理解を深めることで、現実的に認識していかれると思います。

2極のルールから抜けていく
2025/08/14

そもそも思い通りにいかないのが人生。だから起きることに抵抗することなく、それを受け入れて、そこでのやれることをやっていく。

というのと、

人生は自分が創造していくもの。自分の選択し、決めた意思に沿う言動をし続けることでそれは現実化していく。自分の人生を自分で創る、というもの。

これって言っていることが相反しています。じゃあ、どっちが正しいのか?と思うかも。この相反している2つは、両方とも必要なものなんです。

まず、人にはいろんな事が起こります。そのときにすぐにそれが辛くてどうにかしようと抵抗するのではなくそれを受け入れます。受け入れるというのは今をそのまま認めるということです。だって起きちゃっているんだから、逃れられない。

そこで「それは(ただ)今までの自分の結果である、その出来事が自分に何かを教えようとしている、全てよきほうへ動いている、宇宙がやってごらんと言っている」などのマインドを持ちます。どうしよう、いやだな、またか、もうだめかも、ではこのマインドは消えてしまいますが、違うマインドを持つことで、起きていることを受け入れることになります(パターンは嫌がるのでそれはワーク。でも「私」は受け入れることが自然と思っている)

そして、ここで受け入れっぱなしにしておいてどうにかなるまで待つではなく(時にはそれも意識的にありだけど)それに対して自分がやるべきこと、これを機に自分が進んでいきたい方向性などへ目を向け、強く自分の意思に沿う言動をする(し続ける)ことがその次にくるものです。この2つで1セットと言えます。

で、この2つのように、相反する事象は2つで1セットになっています。このようなことについて「これは理解しにくい1つである」と中村天風さんは言っています。なぜならば「そこにはこの2つのバランスを要求されるからだ…」と。要求されているバランスをとったときに2つで1セットということが理解できるのだと思う。

先ほどの件も、その他の相反する事象も、2つのバランスをとる(両方使う)ことでそれは新なものが出来上がるのです。この2つのバランスをとる力をつけていくことが精神性の成長と言うのだと思います。このバランスをとる力はそれを求め続け、やるべきことを日々やっていくことで、きっと気づいていかれるものだと思います(という法則も自分で創ればいいわけで)この相反する(と思われている)事象をいかに自分でうまく使い分けていくか、どんな匙加減でいくか、というところです。

陽だからプラスだからいいではなく、陰だからマイナスだからだめではなく、在るものをすべて上手く使っていくということです。

この2極の世界に生まれてきて、そこでのルールに従ってきた私たちですが、少しずつ少しずつ少しずつ(…くどい。そのくらいここを歩むのはゆっくりがいいと思うから)2極のルールから抜けていくことを学んでいきます。

気分はイタリア、ナポリ。
2025/08/12

8月の岩手クラスも無事に終了。

今回は1日だけのセミナーでした。そして2日目は個人カウンセリングだったので、集まれる人たちでランチに行きました(いや、連れていっていただきました。ありがとうございました)大好きなお蕎麦、そして素敵なカフェでのお茶&ケーキ。盛岡は本当に美味しいお店や雰囲気のあるお店がたくさんあって羨ましいです。

今回のクラスで話したこと。

語りかけは、カラッとおこなってくださいということ。語りかけはパターンへの共感、パターンの言いたいことを代弁している、というところから、ちょっとウェットになりやすいです。そちら気味になる場合は「私」よりもパターンのほうがまだ勝っているという目安になります。共感は大事ですが、共感ってパターンと同じ気持ちになることではないし、ずっとそれを考えることでもないです(これはカウンセリングにおいての共感もそうです)

あくまでも「あなたはそう思うんだね、「私」は思ってないけど」のスタンスです(カウンセリングにおいても同じ。あなたはそう思うんだね、私とは違うけれど)

王である「私」は知恵があるのでパターンの思いを理解していますが、一緒になって悲しんだり、悔しがったり、そこへひたったりはしません。じゃあ、どんな感じ?というとカラッとした感じです。最後まで語り終えたら、もうそのパターンについてあれこれ考えたり、そのパターンに心を寄せたり、ひたったりとかはしないんです。終わったら、そこでハイ終わり。日常の業務に戻ります。

「語りかけは、イタリアの太陽のように(実際にイタリアに行ったことはありませんが)明るく、強く、カラッとした語りかけをしてください。オー・ソレ・ミオの感じ!」とまたわからないことを言いましたが、そうなんです。「王」ってウェットな「王」よりもカラッとしていて、そこで終わらせることのできる、明るい「王」のほうがよくないですか?

イメージとして、感覚として、オー・ソレ・ミオ(私の太陽)そう、「私」はまさに太陽だから。

素敵なカフェからの帰り道。ホテルまで車で送っていただきました。車内にはカーオーディオから男性テノールの「誰も寝てはならぬ」が聞こえていました。その時に見た広く青い空はとてもきれいでした。サングラス越しに見た空でしたが、レンズの色と空の色が混じっていたせいか、どこか外国の海辺の街にいるような気分になりました。

そして、もう少しでホテル、というときに聞こえてきたのは「オー・ソレ・ミオ」。イタリア、ナポリ民謡です。この曲は男性テノールが最もいいと思う。音楽は一瞬にして人の意識を動かす(上げる)ということがよくわかりました。この、静かな静かな、安堵感につつまれた高揚感が全く違うところへ私を連れていく。語りかけはカラッと。イタリアの太陽のように。

暑い
2025/08/07

茅ケ崎もここのところ35度、36度の日が続いています。

温度だけではなく、湿度も高い暑さは身にこたえます。

去年までは、この時季も、ほぼエアコンを使わずに過ごしていました。窓をあけておけば風が通っていたので、お会いしている方がいらっしゃる時だけエアコンを使っていました。夜眠るときも、部屋のドアを開け、リビングの小窓を開けておけば風が通るのでエアコンを使うことはありませんでした。

しかし、今年は、も―――暑くて暑くて、1日中エアコンをつけている状態です。眠るときにも、ほぼ一晩中つけています。

昭和生まれの私は「エアコンは身体に悪い。身体がだるくなる、浮腫む、冷える。だから夜眠る時には、エアコンは消して。もしくはタイマーで1時間くらい。」ということをずっと信じてきていました。それがエアコンの常識と思っていたんです。

しかし、よく考えてみれば、昔の夏とは違う今の夏。昔は30度になるとものすごく暑いと思っていましたが、今や、30度だと少し楽だね、という感じです。だから昔聞いた常識をそのまま信じていくのではなく、今がどんな時なのかを見て、それに合わせていかないとこれからはまずいと思いました。

これからを生き抜くためには、刻々と変わる現実をしっかり見て、柔軟に自分の信じてきていたものを変えていくということなんでしょう。柔軟さは大事です。

今日はこれから盛岡へ行ってきます。あちらはどうでしょうか。やはり暑いと思いますが、茅ヶ崎の暑さよりはスッキリしている気がします。皆さま、くれぐれも暑さにやられないようにお過ごしください。では、行ってまいります。

・昨日の広島平和記念式典で語られた、広島県 湯崎英彦知事のスピーチです。このように考えている方々がきっと世界中にいるはずです。よろしければご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=6UIi-DYLvlY

広島の日に思う
2025/08/06

今日は、原爆投下から80回目の広島「原爆の日」。その式典を見ました。犠牲になられた方々の御霊が安らぎの中にいられることを深く願います。

核なき世界を…戦争のない世界を…とほとんどの人は望んでいます。そのためには、お互いを理解し合う対話が必要だと言われています。

で、私は、そういう対話をするためには、まず、各自が自分の内の闘いをやめるべきだと思っています。自分の内を平和にする努力をしていく必要がある。それがあって初めて、他人を、他国を、それぞれに理解するということができるんじゃないかと思うからです。

ここがなくて、お互いを理解する対話はできないと思っています。そこでの対話では、いかに相手を納得させられるか、というところになるだろうと思っています。これでは結局はお互いに自分の言い分を押し通すことになり、今までと、変わりがないです。

だから、まずは自分の心に平和を自分で創るということです。時間はかかるし、大変な作業だとも思いますが、こういうことを、もうやっていく時に来ているのではないかとも思います(地球規模で)まずは自分が平和を感じられるように生きることが大事です。それは、どうしてかというと、人の感じていることはそのまま外に出ていくからです。それが善きものであっても、悪しきものであっても、他人に影響を与えるからです。

自分と他人を比べたり(これも他人を使っていることです)自他を評価したり、憎んだり、羨ましがったり、卑下したり、優越感にひたったり、恐怖と不安に突き動かされたり…。このような類のものは自分の内での闘いです。そのようなパターンを「私」は選ばない。野放しにしない。白パターンを選ぶ。そして毎日行動する。そしてそれを継続。こうして自分の心を平和な心に創りかえていかなくてはなりません。自他のために。

そういう人が増えていくことで世界は変わるだろうと思います。世界が変わる、というところまではかなりの時間がかかると思いますが、今、私たちが、世界に対してできることはこれだと思っています。自分の内を平和にする。

そして、これはこれからの時代を生きていく上で大切にされるべきものになっていくのではないかとも思っています。

厳しさ
2025/08/05

昨日の日記もそうですが、ひとつのことをやり続けるって大変なことだと思います。毎日、行うことって大変です。

しかし、それを勧めるのはそれにより、気付ける、体験できる、獲得できる、ものごとが必ずあり、結果、自分の成長になっているということだからです。私はそれを知っています。だから、今でも自分でもやるし、皆さんにもお勧めしています。

で、皆さんはすでにそれはやっているんです。年月かけて自分と向きあうことをやってきているうちに、きっと今は毎日、自分の感情や感覚に気づいていると思います。そしてワークをする。これ、もう、毎日やっているのではないでしょうか。初めのうちは面倒くさいとか、できないとか、思うような結果がでないとか、が、あったことと思いますが、それでもやめないでやり続けた結果、毎日行うことが出来る自分になったという結果を手にしました。

先日、私とトミーを知っている方に、トミーが毎朝、公園で立禅をしているという話をしました。雨の日も、暑い日も、朝早くに公園に出かけて行っています。出社する日は会社の近くで行っている。そんな話をしたんです。

するとその方から「トミーさんって自分に厳しい人なんですか?」と聞かれました。「そんなふうに自分に厳しいことは、私には無理です」とおっしゃる。そうか、こうして毎日続けていることって厳しいことだと思っているのかと思いました。

これを説明しても無理そうだったので「そうですねーーー」と言ってその話は終わりました。

毎日行うことは厳しいこと。という意味づけもあります。でも、それだけではそこには、苦痛しかありません。

毎日行うことが苦痛だけであったら、それはとてもつらい。そこに何か少しずつ手応えを感じたり、気付いてみたら、以前より何かが改善されていたり、自分の可能性を発見したりすることを繰り返していくうちに、それを行うことへの信頼とそれへの意味づけが広がります。

いずれにしても、楽しく、手軽に、やりたいときだけやって(それを自由、リラックス、自分らしく、と意味づけている人が多いです)何の努力もせず、思うように自分を成長させたいというのはどの分野においても無理なことだということです。

日記
2025/08/04

ここのところ、道場で学ばれている方達が、日記更新を続けてくれていることが嬉しいです。

「まずは1か月書く。体調が悪くても(よっぽどの時はもちろん休んでください)忙しくても、短くでもいいから、写真張り付けでもいいから、ネタがなくても、楽しくなくても、大変でもとにかく書く」ということを岩手のクラスで話しました。

このように自分を追い込んでひとつのことをやってみるという体験をしてほしかった。1か月続けられたら、自分の中に変化が起こるから…と。そしてきっと続けられた自分に「自分もやればできる」とひとつの自信になるから…と。そして、自分を知ることにもなるし、自分という人間を表明する場にもなります。

毎朝、拝見させていただいて、確実に文章力が上がっていることを実感しています。その人自身が伝わってくる、ということはとても楽しいです。

でーーー私は今年の自分の誕生日から1年計画で、続けていることがあります。それは、もともとは「人生、上手くいっている人がやっていること」的な情報を見て、それを自分用にしてみたものです。これを見たときに、1年かけて行う、1年継続する(毎日行う)というところにわくわく感を感じたのでやってみようと思いました。時間をかけることが好きなんだと思います。提示されていることは、実際は、ほぼ、今までやってきたことでしたので、それを「意識的」に毎日行うことを続けています。

それは10項目以上あるのですが、その中のひとつに「アウトプットする習慣」というのがあります。本当の成長はアウトプットからはじまる、アウトプットの質は量から生まれる、とあります。「アウトプット」についてはその必要性を多くの方が言っていますが、これって、毎日、日記を書くということもそれにあたります。

アウトプット。これは広い世界に向かって(宇宙にも届いている)自分を表明していく、表現していく作業です。そこでの表明や表現は道場以外の人たちに何か影響を静かに与えていたり、気付きを与えていたりすることもあります。…と言われてしまうと「書かなくちゃ」とプレッシャーを感じる方もいるかもしれませんがそれはパターン。その時には白パターンに選び変えて、自分の質を上げていくためのひとつの道具として、日記を書こうと思っていってください。1か月続いたら、また1か月。3ヶ月やってみよう、半年、1年…と自分で考えて自分をリードしていってください。これにより、リーダーシップ力も鍛えられますね。

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