ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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生きている実感
2025/11/30

いかに、自分自身を含め、物事の、事象の、後にあるものを知っていくか、そのものの奥に在るものを知っていくか…というところだと思う。その視線、在り方があるから自分をはじめ、全てのものは発展していくのだと思います。

これって、こういうことです。これだけでは、そこで止まってしまいます。で、そこに息苦しさを感じるのは、止まっている状態は違いますよ、というサイン。本来は動き続けるものだからです。

それは、こういうことがその後ろにはある、とか、そこにはこういう意味があるのか、とか、今まではこう見ていたけれどそれだけは無かった、とか、今まで気がつかなかったけれどもここにはこんな感情や感覚がある、とか。これらも与えられるものであり探すものではありません。だから、昨日書いたように、与えてもらえる自分の心を創ることになります。

その後ろにあるものに接したときに(少々大げさに言えば)この世界の奇跡を見たような気持ちになります。見たというより、つきつけられた、というほうが強いかもしれません。

こんなにも世界は美しかったのか、こんなにも緻密に全てが計られていたのか、こんなにも守られていたのか、恩恵を受けていたのか、生きることってこんなにも素晴らしいことだったのか、ということに私は感動しました。で、その気づきはその時だけのものではなく、消えることなく自分と共にいてくれます。

これは、特別な力ではなく(スピリチュアルとか、感覚的なことではなく)「生き方」を学ぶということなんだと思います。

「生き方」とはどうやって稼ぐか、どんな仕事をするのか、誰とつきあうか、ではなく(その領域もあるけれど←この領域に対して「人はパンのみで生きるのではない」とイエスはおっしゃいました)自分が肉体を持ってこの世で生きるときに、自分自身との軋轢(ほぼほぼここが原因になっています)なく生きていく生き方のことを言っています。

その生き方を学ぶことが人には必要で、それによりあらゆるものごとが変わっていく様子を見、知っていく体験をし続けることが、どの魂もやりたいのだろうと思います。なぜなら、それにより、生きている実感を感じられるからです。生きている実感は物事の後ろに奥にあるということです。ここをぜひ体験してもらいたい、と願う道場主。

今日も1日1回の語りかけを大切に行ってください。

今年の振り返りから
2025/11/29

11月も、今日、明日で終わり。残すはあと1か月。12月に1年を振り返る、ということが一般的ではありますが、私はどうも毎年11月にこの1年について思うことが多いので、今年を振り返りました。

2025年の大きな出来事は何と言っても今年1月からの「睡眠障害」による心身の変化でした。特に前半は初めてのことだったので、どうにか元に戻そうと必死でそれが原因でかなりまいりましたが、後半になり、それを諦め、なるようになるだろうと適当に応じていくうちに、少しずつ自分なりの睡眠というものを身体が作っていってくれているようになりました。身体としてはこの個体を生かそうとどうにかするんだろうなあと。

で、そこから学んだことは、全て意味があって起きている、という精神性と、加齢により、昔のような睡眠はもうとれなくなっている、という現実(人にもよるのであくまでも私はです)でした。

それらを見たときに、自分の心身とは言え、自分でも認識できていない心身のルール(天のルールを心身は素直に感じ取ってそれで動こうとする)を無視したり、抗ったり、思うようにしようとしたり(全部パターン)してはいけないんだと思いました。

もっと自分の心身を信じていい。なぜならば、私は、私を生かしてくれているものの中で生きていて、そこのルールにのっとって起きていることだからです。

この「私を生かしてくれているものの中で生きていて」ということが深く感じられようになりました。これも睡眠障害のおかげです(でた、塞翁が馬)。睡眠障害が私の目を広げ、すでにあったのに気づかなったものへ視線を向けさせ、今まで知らなかったことを体験をさせてくれました。

こうして人は豊かさを増すのだと感じられました。自分の内が豊かであれば人は十分満足できます。そしてそこにはやすらぎや楽しさが自然とあるのです。

で、そういうことに気づく、そういう体験をするために、何が最も必要なのか、ということです。気づこう、体験をするんだ、ワークを頑張るんだ、と思っていてもそれはやってはこないんです。そうやって自分で勝ち取るものではないからです。とにかく与えてもらうもの(特にとても必要な気づきは)なんです。

ということは…「与えてもらえる自分になる」こと、これが最も必要なことなんです。あちらはとても与えたがっています(もう少し科学的に言えば、似た、エネルギーのところにそれは入ってくるということ)。このことも頭ではわかっていると思います。しかし、頭でわかっているのではなく「そういう自分になる」ということが求められるのです。

では「与えてもらえる自分」になるって?それは、今までワークを通して自分が感じてきたことから少しずつわかってきていると思います。少なくとも黒パターンに突き動かされ、なんとなくそれを選び、それにしがみつきながら生きることではないということはわかっていると思います。では、どうすればいいですか?残り1か月、このことに真摯に向き合ってみるのもいいと思います。

今迄もこの哲学にのっとってやってきましたが、より、その確信が持てたことと、まだまだ、知らない世界が待っているんだということへの楽しみも感じられる1年でした。

新店舗オープン
2025/11/28

昨日は、いよいよ、駅近のショッピングセンターがオープンしました。

「初日はきっとすごい人だろうから、私は少し落ち着いてから行くんだーー」なんて言っていたのに…行った(だと思った)

以前の建物をリニューアルしてのオープンでしたが、こんなにも変わるものなんだというほど、変わっていました。しかし、人、人、人、すごい人でした「なんでこんなに来てんだ?平日なのにーー」と思いながらも(あなたの様な人が多いから)各階を見て回りました。

これから便利になるなあという店舗も入っていてよかったです。そして、食品売り場は広く、置いてある商品の数も増えました。と言っても私は買うものはほぼほぼ決まっているので、そこまでの利用は無いだろうとも思います。

旧店舗が閉店してから10か月。当時は困ると思っていたのに、離れた店舗まで歩いていくしかなく(うちには車もないので)それがよい散歩になりました。その時に中央公園の前を通るので、公園内も歩き、四季の樹々の様子を見ることができたし、カラスの攻撃を受けてカラスの子育ての時には近づいてはいけないことも知ったし、トミーが茶毒蛾に刺されてえらいことになり夏場はやたら茂みに入ってはいけないことも知ったし、公園の先にある店舗にしか置いていない、美味しいおせんべい(お醤油だけで味付けしました。というもの)と出合うことにもなりました…とおかげさまで知ったことは数々あった。

だから、何ごとも「「塞翁が馬」一見嫌だなと思っても、それに抗わず、じゃあどうするかを考えて、こうしたらいいだろうな、とか、こうするしかないか、で行動します。そこには面倒くさいなあとか、それでいいのだろうか?とかもあるかもしれませんが、それでもやってみる。まずは。きっとそこには新しい世界が広がると思います。

だから、大事なことはすぐに答えを出さないこと、今起きていることを決めないこと、です。これをするとそこで決定されるのでそのままです。ぜひ、塞翁が馬を毎日のお供に。

今世の残りの日々は…
2025/11/27

若い頃の自分を思い出す。若い頃って20代〜30代の頃。それは、お会いした方との話からだったのですが…。

まあーーーーーーー、ほんとにーーーーーー、恥ずかしいくらい何もわかっていなかった私。そのくせ、負けず嫌いで、自分はそれなりだとも思っていました。若いから、というだけのことで、何もわかっていなくても受け入れられ、周りからチヤホヤされ、それをマに受けて、自分って特別位に思っていたのです。

今の私がその頃の私に会うことができたら「何さまのつもり?あなたは凡人、普通の人、己を知れ」と言うだろう。それで傷ついてもいい、怒ってもいい、ショックを受けてもいい、それでもいいたいと思うくらいです。「大丈夫、あなたもきっとうまくいくからね」なんて口が裂けても言わない。真実のど直球でしかわからないタイプだから。

そして、思い出したこと。そんな自分の鼻をへし折った人々がいました。まずは、当時アルバイトで働いていた放送局に集まる歌手やタレントさんたち。そしてスタッフの人達。同年の彼女たちの可愛らしさや、美しさ、聡明さはもう、レベル違いでした。先輩が教えてくれたのですが、一人の人をデビューさせるのにあらゆる分野のプロがついて、あらゆることを学ぶから…ただ綺麗、可愛い、スタイルがいい、歌がうまい、ということでここに来ているんじゃないから(どれだけ努力しているかということだったのだと思う。そして、そうやってきた人たちと仕事をするのだからしっかりやれということだったのだと思う)ということでした。

私はそういう人ではない、という現実。求められることもない、という現実。大して仕事もできないのに、先輩たちに守られながら置いてもらっているという現実。そして、ガツンとストレートに注意をしてくれる先輩たちのおかげでそういうことに初めて気づく。

そして、その後も、私の鼻をへし折る人々は次々とあらわれ(そのセッティングはみごと)その都度、自分が何もわかっていないことや、現実を知らないこと、己を全く知らないことなどを次々とつきつけられていきました。そのときにはショックや怒りや悲しみを受けながらも、こうして他人により私は育てていってもらったのです。

人には言えないような、やらかしてしまったこと。あやまちの数々。それでも、ここまで生かしていただきました。そのおひとりおひとりが神さまのお使いだったのだと今は思うくらい、危ういときに現れて、ガツンと言ってくれました。私は多くの人達に育てていただいた。そして、大きなものに守られて生かしていただいた。

だから、今世の残りの日々は、より正しく生きる。それで昔がチャラになるという事はありませんが(1回でもウソをついたら死後は地獄行です、とある先生に言われたので、地獄確定ではありますが)それでも、そうして生きよう。「私」の望む日々を作ろう。

誰もがすでに神さまに愛され、見守られています。そして、あたかも神さまのお使いの様な人達が必要なときには現れます。だから、素直に、正直に、心を開いて、その機会をいかしてください。その機会をいかすという事自体がとても恵まれていることだと思います。

付録だから…
2025/11/26

成長したい、と、願う。これはきっと皆にあると思います。

しかし、ここで言っている成長とは、パターンにひっかからなくなる、とか、ブレないでいられる、とか、冷静である、とか、いつもおだやかである、とか、安らかに生きる、とか、ストレスがない、傷つかない、毎日が楽しい、ということではありません(これが領域が違う、ミームが高いということではないからね)

確かにそういうものも、ついてくる。付録のように。でも、ここを目指しているのではないのです。

じゃあ、どこを目指しているのか?というと、どんなに厄介なパターンが騒ごうとも、それは、パターンであって自分ではない、ということが当たり前のようになって、そういうときにどうしたらいいのかもわかっている状態まで自分を育てるということが成長であり、目指しているところなんです。

で、さっきの付録のようについてくる、というのは、この本来の成長が主体であり、そこに付録のようにさきほどのようなことが(少しずつ、ちょっとだけ)ついてきますよ、ということなんです。あくまでも付録なんです。

きっと多くの人はこの付録が目指すところであり、そうなることが成長だと思っているのだと思います。それがあれば自分が嫌な思いをしなくてすむと信じているので、成長ってそういうことだと思っています。これ、パターンです(早く楽になりたいというような)そして、今までの意味づけです(それが違うのではなく、それだけじゃないということ)

ここで、そのパターンに動かされていくと、それを求めることになります。しかし、それって自分に起きてこないんです。パターンが求めている結果なので。

それよりも、付録を上回って、騒ぐパターンを、あたかも、泣いて怖がっているわが子を抱きあげたいと思うごとくの心で、王がそのパターンに向かっていく(ここで「私」の女性性と男性性の両方を使っています)ということが出来る自分になっていることのほうが、より喜びが大きいし、生きている実感があります。

そこには自分で「できる」という思いがあり、それも自分で創ったという喜びがあります。そして、これから先の人生においても、これを持っていれば大丈夫だという確信も持てます。その創ってきた確信があるから、安定した、安らぎの心でいられるのです。そして、そこがなくなることはありません。

付録ではなく主体に目を向けてください。そちらのほうがダイナミックでより自分のものでリアルです。目指すところの意味づけの更新とも言えます。この、成長の新な意味づけは少々、高い位置の意味づけですが、これは真理だと言えます。もし、自分がそうなったら…とイメージしたときに、爽快感を感じると思います(そう、そう、それそれと言われている)そのイメージを繰り返すことも役に立つと思います。

潤滑油
2025/11/24

「人間がそちらに出向いて見せてもらう、というものができるかもしれません。」と昨日書いたその夜に、TVで「玄海海中展望塔 」が紹介されていました。こういうものがすでにあったのか。こちらは人が海中まで降りていってそこに生きるものたちを見ることができるので、より、自然です。近い所では千葉県勝浦にあるようなのでいつか行ってみたいです。

さて、今年最後の大相撲も終わり、次は来年1月かあ。大相撲が終わった直後がなんとも寂しいのです。大相撲が行われている2週間は毎日正座してTVを見ているわけではありませんが、あの「音」が聞こえているだけで、なんか、いいんです。

こうしていい感じでいられるものがあることはありがたいことです。

こんなふうに、きっと皆誰でもそういうものがあると思います。小さなものごとかもしれないし、誰からも「えーーっ、なぜ?」と思われるものなのかもしれませんが、それぞれの、それを、大事にするといいです。

そして、それらは、全て、自分が善き生き方をしていくことへの潤滑油のようになってくれる物事だと私は思います。そういう物事の力もかりながら「私」が納得する毎日を送れるように…。やるべきはここだけだから。

色々な物事が私たちのまわりにはあります。その中から自分にとってのなんか、いい、をいくつか持っていると助けてもらえます。

水族館
2025/11/23

先日、10数年ぶりに「新江ノ島水族館」へ行きました(「新」とついていますがもうすでに20年たっています)

オーシャンデッキからは(天候にもよりますが)富士山と江ノ島が一望できます。その手前に広がる海。そして浜辺も綺麗に整えられていて、THE 湘南の風景を見ることができます。これを見るだけでもよかった(茅ヶ崎の海岸とは違います)

水族館は、地元、相模湾を中心に構成されています。浅瀬にすむものたち、深海にすむものたち、と、初めて見るものも多くいました。

海に生きるものたちを見るところなので、館内は全体に暗く、そこに展開される大きな水槽の中を泳ぐ魚たちを見ていると、ちょっと怖さもあり、ここは、ただ楽しいだけのところじゃないとも思いました。水の怖さなのか(多分そう)ちょっと息がつまりそうでした。

人は海の中では生きることができない。そこに畏敬の念もあり、そこでは生きられないんだという怖さが厚いガラスで守られていても圧迫感としてあります。人間が生きられない水中で生きているものたちに囲まれる、そんな怖さもあります。

そしてスペースの問題もありますが、大きなタコやウミガメは狭い中を動くしかなく、もっと手足を広げて動ける広いところへ出してあげたいと思いました。そこでは、どんなに力強く、動くのだろうと想像してしまいます。そういう姿を見たい。

いつか、遠いいつか、今のような形ではなくそのままの彼らを見られるようなものが作られていくといいなあと思いました。今はまだ、人間よりに作られている水族館(動物園も)ですが、人間がそちらに出向いて見せてもらう、というものができるかもしれません。

身体のこと
2025/11/22

この頃、身体の変化というものを感じています。私は神経質で、過敏に反応する心身を持ちながら、いまいち、身体のことがよくわからないという状態でずっと来ていました。

よくわからない、というのは、何か不具合があってもいけてしまう、ということだったのだろうと思います。一言で言ったら若かったから、やれてしまっていた。しかし、さすがに今年はそういう身体も「もう、そうはさせません!」と言っている気がします。

で、身体の変化というのは、具体的に、体力が落ちた、とか、集中力が落ちたとか、たくさん食べられないとかということより、なんか…別人になったような気さえするように身体の感じが今までとは違うんです。

なんていうか、脱皮したのか?と思うように、今までとは違う身体感です。

本人の知らぬうちに身体は身体のシステムにのっとって変化することを、この数年をかけて、こっそりと行っていたんじゃないかと思います。あなどれないな身体と思う。

新な身体は、これからも暫く続く「生」を継続するための身体として、まあまあやれるだろうというところを作っていた。その指令はどこからきているのでしょうか。

加齢にともなって身体は変化するものだとは思ってきましたが、変化、というよりも、作り替えのようなことが体内では行われるのかも。

人って、ずっと同じままいくのではない。心も身体も、そのときにふさわしいものを作ろうとするんじゃないかと思いました。向かうところは、そのときに、それぞれに、ふさわしいところなんだろう。働いてくれている身体に感謝しながら、どのようになっていくのかをみていこうと思います。

決める
2025/11/20

「決めればいいんですよ」と整体の先生の言葉。そうだね、うん、そうだった、と思う。量子力学的にも、まず意識ありきを考えても「決めればいい」。

で、自分のことに戻してこれを見てみると、昨日私が書いたこと「天を信じる、そして天と生きている自分を信じる。二人三脚でいく」これはすでに自分が決めていることだ…と気付きます。これ、今までの自己探求を続けていくうちに、自然と自分が決めていったことであり、そこには絶対なる根拠があったのではなく「そうでしかない」と思うようになっていきました。今はこれはゆるぎなくそうであると思っている。

こうして決めて、ゆるぎなくそうである、というものについては疑うこともなく、迷うこともないので、その決めたものごとはより確固たるものごとになる。そして、それが現実に反映されていく。決めるとはこういうことなんじゃないかと思います。

例えば、小さな決め事ってそれぞれにあると思うんです。「自分は料理は失敗しない」とか「自分はいつかできるようになるとわかっている」とか「自分はセンスいい」とか「自分は教えることが上手」とか。なんか、それについてはわかっているからそこへの心配や迷いがないというような。これが決めているということなんです。

その人にとっては当たり前のこと、すごく普通になっていること、それが決めていること。そこには迷いがないでしょう?ただ、自分の心からの納得がないことを決めるのは難しいです。

今、自分にわかりやすく自分で決めていることを思い出し、その感覚を探ってみてください。この感じで次なる決めることにあたっていかれればいいんだなということがわかると思います。

これは逆もあります。「私には無理」「私にはできない」「私はやれない」などなども普通になってしまっていればそれは決めていることになります。ただ、それらがパターンであると思えれば、決め事にはしないですみます。決めるということはすごく大事なことです。

そういうことか。
2025/11/19

自分の成長を早くせねば、と、焦らなくていい。なぜならば、あちらの世界が本質、本番だから…私はこちらの世界から去る時までに今世の課題をいい感じで終えられていればいいだろうと思っています。

それと、いつも言っているように成長って自分一人の力でできることではなくて、あちらとの共同作業なので、あちらの都合もふまえると、早々自分の思い通りに成長は成されないだろうとも思います。だから焦らなくていい。

そもそも、今の自分でいいんだよ、という「私」であり、これが土台です。しかし、それは何もしなくていいということではもちろんありません。やるべきことを継続する。後は待つ。この在り方、この視点です。

ここはほとんどの人が苦手で、待ちきれなくなってしまう(これについては先生がおっしゃっていた通り「多くの人はできる前にあきらめちゃうから」)のだと思います。

こうして、時間をかけることを通して、待つ力は鍛えられ、大きくなっていくのです。思い通りに行かないことにもだんだんと慣れ、それでも大丈夫な力を養っているんです。だから、焦りそうになったときには、こうしていろんな力を鍛えているんだと思えばいいと思います(これを白にしてもいいかも)

ここのところ、自分の身に起きた不調であったり、変化を見ていて、だいたい年単位での移行だと思いました。これは私のことだけではなく、周りの人達を見ていても、1年、2年と時間がかかるのです。そこをどうにか早く自分の思う通りに解決しようとしても、それは空回りしているようになり、どこかでそれをあきらめて、1年、2年たったときに、そこが修復、変容していたりします。

時間をかけると自然とこうなるんだよなあ、と思います。これがあちらの仕事なのかもしれません。だとすると、私たちに求められているのは、やるべきことと待つことです。で、待つためには、それを忘れるということです。常にそれ(成長の証、結果)を見つめてしまうのは、そこには疑いがあります。いずれ…を信じられていれば、疑わなくてもいいんです。だから、早く早くと焦ることもないです。だって、いずれそれはやってくるからです。

天を信じる、そして天と生きている自分を信じる。二人三脚でいく。そういうことかと思うのです。

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