ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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たくさんひっかかってください
2025/10/23

パターンにひっかかりたくない、ひっかかってはいけないというパターン。又はひっかかるパターンを嫌うパターン、許さないパターンを変えることなく、彼らはそのままにしておく、ということは、ずーーーとネガティブな感情を感じながら、すっきりすることなく、もやもやと悩み問題をもちながら生きなくちゃいけないのか?と思うかもしれません。そういうことから解放されることはないのだろうか?と思うかもしれません。

しかし、その感情を感じているのは誰?といえばそれはパターンです。「私」はそうは感じていない…思っていない…と言っています。だから「何故、パターンにひっかかってはいけないの?ひっかかって、感情が湧き出ているだけなのに。ただ、それが起きているだけなのに」と「私」は言います。

ということは、湧き出る感情に飲み込まれ、それを疎ましく思い、それについて考え続けているのは「私」よりもパターンが上回っているからです。これが今の自分に起きていることなのか、と、客観的に自分を見て、しっかりと受け入れます。そして、この「私」というものをより理解していくこと、その本来の力を育てることが必要になります。

で、それぞれのワークは「私」を使うので「私」を育てることにとても役立っているだけではなく「私」の理解を深めていくことにもなります。「私」は使って育つものなので筋肉と一緒。だから語りかけは、絶対、パターンに語りかけをさせない。「私」が行うことを意識する。丁寧に集中する(でもカラっと)ことを意識してください。

こうして、全てのパターンの存在、彼らの個性を「私」が認め共に生きていくにつれ、並行して心は楽になっていきます。それは安心を伴う楽であり、初めて感じる楽だと思います。今までの楽は、嫌なことや悩みが消えることや思い通りになるときに感じるパターンの楽でした。しかし、それは一時的なものなので、また同じことは繰り返されます。

それを変えていきたいのであれば、根底のところからの変容が必要であり、この変容は一度それを体験してしまうと元に戻ることがありません。元にもどらないこと、それが進化なんです。

そして、とても驚くのは、そのころには何故だか自然に「パターンにひっかかる」ということがなくなっていきます。「ひっかかっていいよ」と言っているのに、ひっかからなくなるのです。ひっかかるパターンがあたかもいなくなってしまったように、ひっかからなくなる。もうそれが楽ということではないこともわかっているし、いつひっかかってもいいとも思っているのに、心は静寂さを土台にして安定しています。

何度も言いますが、ひっかからないことが成長ではありません。ひっかからないことがミームが高い、精神性が高いのではありません。ひっかからないことを目指しているのではありません。ひっかかることにOKを出せるようになっていきたいのです。だから、乱暴な言い方をすれば、毎日、たくさんひっかかってください。ここをスキップして本来のひっかからなくなる心はありません。今の自分の力量もしっかり認め、それにOKを出してください。先を急ごうとはせず(急ぐと必ず転びます)今の自分、今日の自分をどうぞ大事にしてください。パターン共々。…終。

ただ、それが起きているだけなのに。
2025/10/22

昨日までの日記で、パターンに引っかかりたくない、ひっかかってはいけない、だからひっかかるパターンが嫌い、許せない、という黒パターンに従ってしまっていては、(かなり)まずいんだ…と気付かれたのではないかと思います。

このパターンの信じていることは知らず知らずのうちに自分の成長の指針、証になってしまっているということが起こりやすい(一見、いいことだから)

ですから、今一度自分を見てみてください。このパターンに主導権を握らせていないか?そうしてしまうと、そこに留まり続けることになります。ひっかからなくなるまで頑張ろうとするので、どうしてもそこに居続けることになります。そうなれば停滞感やいつまでもそうなれていない自分を責める気持ちを感じると思います。

そして時には、そのパターンを後押しするかのようにプライドのパターンもそこに加勢したりします。そうなってくると、例えば、最初は「自分はダメだ」というパターンだけだったのに「またひっかかっている、まだひっかかっている」というこのパターンがそこに入りこみ、1つだったパターンは2つに増える。そこへまたプライドのパターンも加勢して(自分ならひっかからない人になれる、自分は意識レベルが高いのだから、わかっている人間だから、というようなことを言う)パターンが3つに増える。その後も「自分には無理」などのパターンもそこに入ってくればそれは4つに増える。こうして、からみあってしまい、それによりわけがわからなくなるということにもなるのです。

最初の「自分はダメだ」をみつけたのならそれだけに向かってそれのために語りかけをする。そこに2つ目パターンを入れない(後から語りかけ)おまけに3つ目パターンも出さない(後から謁見の間で個別に面談)4つ目パターンにも同じように接して、ずるずるにしないということです。

この体験から知ることは、パターンに主導権を握らせてしまうと他のパターンもそこに加わるということです。パターンにはそれを遮る力がないので。又、パターンとの関わりにおいて思考し続けるということもパターンが行っていることなんです。とてもざっくり言ってしまうと「私」はそれについて考えない。そう、考えないんです。これはまたいつか話せたらいいなあと思う。

語りかけに「私」の思惑はありません。ただただ、救済したいのです。困っているパターンを。そうすれば・・・ひっかからなくなる、嫌な感情に悩まされない、楽になるだろう、成長するだろう・・・というものがないのです。「私」は思っています「何故、パターンにひっかかってはいけないの?ひっかかって、感情が湧き出ているだけなのに。ただ、それが起きているだけなのに」と。「私」とはそういう存在です。でね、それが本当の自分。続く。

ありのままの人間の姿
2025/10/21

そもそも、人の心の中には、陰と陽があります。黒パターンと白パターンがある。愛に属するものと、無知に属するものとがあります。

それが自然なことであり、現実であり、それがありのままの人間の姿なんです(これはマスターも同じです。人間だから)ここのバランスをとって、必要な時に必要なものを選び、陰も陽もそれぞれの特徴を持ってそのまま生きられるようにと願い、その仕事に、日夜、従事していきたいのが「私」です。それが本当の自分。

そして「私」は天の子です。天の子なので、天のルールを知っています。どうすれば天の川、帯に乗れるかという事もすでに知っています(ただ、パターンがそれを覆い隠しています…というよりも「私」がパターンに従っています)そういう「私」とパターンの状態を自分の内に創る(思い出す)という事をここではやっているわけです(だから、当然大変なの)

皆、誰でも、楽になりたい、ストレスを感じないで生きたいと思います。私ももちろんそうです。そういう場合、楽になれていない原因、ストレスの原因をつきとめ、それを排除しようとします。このやり方は今までもずっと使ってきたもので慣れている分、すぐにそこに自然といきます。もちろん、このやり方が必要な時もあります。現実的に必要なこととしてあります。その時にはこのやり方が役に立ちます。

そして、他のパターンを嫌い、許さないパターン(黒の名前としては、パターンにひっかかりたくない、とか、ひっかかってはいけない、などなど・・考えてみてください)もこれを使おうとします。とにかくパターンにひっかかることが、いけないことと思っているので、他のパターンがそれぞれにひっかかり、感情を生み出し、それについて思考することが嫌でしかたないんです。まだ、自分はそんなところにいるのか、また、同じところでひっかかっているじゃないか、ちっとも成長していないじゃないか…と思うことがつらいのです。

だから、どのパターンについても、ひっかからないでいられるようにしよう、そうなろう、それが成長した姿なんだ、正しいことなんだ、と思います。そして、抑制していったり、ひっかからないためのものごとをみつけようとします。こうして心の内をそのパターンの理想にしていこうとします。そうすれば、ストレスがない、ネガティブな感情に惑わされない、何より、自分は正しくあれている、ミームも高い、と満足できるから。

しかし、昨日書いたようにそれは無理です。なぜならその理想は幻だからです。無理をやっていると、人間、疲れます。そして、健全な心を創れるのは「私」だけなんです。続く…

パターンを嫌うパターン
2025/10/20

パターンを嫌うパターン、パターンを許さないパターンを多分、ほとんどの方は持っていると思います。そのパターンがあるのであれば、そのパターンに目を向けて、それの生み出す感情を拾って、語りかけは最優先で丁寧にやってください。

このパターンがそのままだと、どうしても他のパターンが何かにひっかかることを抑えつけようとしてしまいます。「また、ひっかかっている。まだ、ひっかかっている」というように、ひっかかることに過敏に反応します。

「また、ひっかかっている。まだ、ひっかかっている」という言葉や気持ちが湧いたら、それはそのパターンなので、そちらへひっぱられないようにしてください。そのためにもそのパターンへの日ごろからのワークが必要になります(ひっかかった時だけやろうはだめです)

そのパターンが思い描いている姿は、とにかく、ひっかからなくなることです。そうであれば楽だし、ストレスにならないと思っているし、そういう自分になることが成長だ、ミームを上げることだ、領域が変わった証だ、と思っています。そういう自分であれば自分で自分のことを認められるし、他人にも認められるとも思っています。自分の心は光で満ちている、自分の心に邪はない、という事が愛の心だとも思っているのでそれはいいことだと思っています。そしてそういう愛の人だから今より全てが良くなると思っています(小学生にしてはなかなか)

このようにパターンの視点で見た時のひっかからないって一見よいことのように思えるので「私」が弱いと「私」よりも威力を持ちやすいです。そうなると、ひっかからない自分になる、という誤った目標を知らず知らずのうちに持ってしまいます。

これは、違うよーーーーー。これは違うからねーーーーー。ここを目指してしまうと疲労感に見舞われます。それは幻を追っていることだからです。…と教えてくれているんだね。

「私」はどんなパターンがどんなふうに騒いだとしてもそのままでいいよ、と言います。そのままでいいよ、ですからね、どのパターンも、何も変わらなくていいということです。だから好きなようにひっかかり、そのたびにネガティブな感情が湧き出す、そのままでいいということです。

闘うな、抵抗するな、ほっておく、何もするな…とマスターが言うのはそういうことです。なぜならば、そうであっても「私」が巻き込まれることは本来ないからです。続く…

素敵なワンダーランド
2025/10/19

今日の日記は、あくまでも私が考えたことなので、ファンタジーだと思ってお読みください。

昨日の蜘蛛の話を量子先生と話しました。先生は、数分で蜘蛛も巣も消えたというところに視点を向けていらっしゃいました。私は、このタイミングでの蜘蛛出現、というところに視点を向けていました。

それについて、瞬間的に思ったことがありました。それは蜘蛛も巣も消えたのではなくて、まず、私が蜘蛛も巣もないところから、蜘蛛と巣のあるところへ動き、再び蜘蛛も巣もないところへ動いたのではないだろうか、というものでした。数分で消えたというのは、蜘蛛も巣もないところへ移ったから。パラレルワールド…そこを行き来していたのかも、と思いました。

蜘蛛を見る前に私がいた所には、蜘蛛も巣もなかった。ところが何かの「揺らぎ」で、〇月〇日の朝〇時〇分に同時にあるパラレルワールドのひとつの「蜘蛛のいるところ」へ行ったのではないだろうか、と思ったんです。そして、また蜘蛛も巣もない所へ動いたから、蜘蛛も巣も数分で消えたと思った。

これは、以前、日記に書いた夕方の散歩(特に夏の夕方)をしていたときに思い浮んだことです。散歩の道はいつも見慣れている場所だし、昨日と同じである、と思っているのですが、何か違和感があったり、どこかスクリーン越しに見ているようなとろっとした感じがある時があります。昨日と同じ道を歩いていると自分では思っているけれど、なんとなく感じるそれらはもしかしたら、一見同じだけど違うところにいるのかもしれません。絶対にそうだとは言えないけれど、絶対そうではないとも言えない。

そして、今回の蜘蛛との遭遇も、それじゃないかと。では、自分が動くきっかけは?考えられるのは、前日皆と蜘蛛の話をしたことなのかも。その場でその話は終わっているし、強烈に残る話でもありません。しかし、きっかけとなったのはそれなのかも。蜘蛛という、自分でもちょっと親しみがあり、でも、ちょっとインパクトのあるもの。それがいる所へ行く。私の意識がそこがこの一瞬には必要だからか。それもいいタイミングでです。蜘蛛はわざわざテレビを見ている目の前にいた。それが私の背後であれば気づかないです。そこのタイミングのよさは何なんだと思います。

ただ、蜘蛛の持つ意味合いとか、蜘蛛からのメッセージというのではないというのはすぐに思いました。何か、システムのようなもの?そして、タイミングよく私を動かすのは何故?

パラレルワールドについては以前バシャールが今の自分がいる地球とは、ちょっとどこかが違う自分のいる地球がたくさんあって、その時の自分の意識であちこちの地球に行っているという事を聞いたことがありました。1日に何度もそれが行われているのだそう。これについては、あり得るかもと思いました。

そして、今まで自分に起こった理解しがたいことも、この、パラレルワールドとして考えると私としては整理されます。霊的な何か、又は、先生から教えていただいた未来の自分、又はそれに付随する何者かからの関与というものもあるとは思います。でも、今の私に、パラレルワールドというのは、新な切り口となってくれる気がしました。パラレルワールドはまだはっきりとした科学的根拠はないのですが。

そんなことを考えながら施術を受けていたら、先生が「伊藤さん、蜘蛛、出てきましたよ。今、テレビの所にいます」とおっしゃいました(先生の施術は自宅で行われています)私はテレビに頭を向けているので実際蜘蛛を見れませんでしたが、このタイミングで…とまた思いました。なんか、わからないけれど、なにか、あるんだろうと思う。人間が知らないことだらけなんだろう。この世界は本当に素敵なワンダーランド。

蜘蛛
2025/10/18

先日、盛岡クラスの後の食事会で、今うちにいる蜘蛛の話をしました。5月頃に初めて見たと思うのですが、そのときよりはちょっと大きくなっていて2センチくらい。黒くてぴょんぴょんはねます。色々な場所で見かけますがここのところ見ていないです。

部屋にいて食べるものはあるのだろうか…と思い、外に出してもまた部屋にいるので今はそのままにしています。なんだか可愛いので、出てくると声をかけています。

ただ、いらした方が床においたバッグの中に入ろうとしたことがあったので注意なんだぁ…と言う話をしました。

で、次の日の朝、ホテルの部屋でTVを見ていたら、画面の前に大きなほこりのようなものが落ちてきたのでよく見てみたら、3センチくらいの蜘蛛が糸をつたって降りてきていました。天井からTV台まで、蜘蛛にしては長い距離だと思いますが、つーーーーっと降りてきました。うちにいる蜘蛛とは種類が違い、前足が高く、細身で、薄いグレーでスタイリッシュな感じです。

TV台に着地してしばらくそこにいて、再び、糸を登り、天井へ戻っていきました。その姿を目で追ってみると、天井のコーナーにはすでに蜘蛛の巣がはられていて、それが揺れて見えます。もうすでに巣を張っていたのか‥。ホテルの部屋で蜘蛛の巣って、嫌いな人にとってはとても嫌かもしれません。

これは、クリーニングに入った人に見つかって取られてしまうか、もしかしたらこの高さなので見つからないか、だろうと思い、再びTVに目をやり数分後、また天井をみたら蜘蛛も巣もありませんでした。蜘蛛って巣ごと撤退するのだろうか?と思いましたが、なんか…。そうではないような…続く。

意思は持たない
2025/10/17

整体の量子先生との話です。「意識はしても意思は持たない」

これは、整体は受けるだけではなくセルフケアが大事というところから、そのやり方を教わったときに、私が「頑張ろう」と言ったことに対しての先生からの返答でした。

「身体のここは意識するけれど、こうなるために頑張ろう、という意思をそこに持たせないで。頑張らないで」と。「意識はする。そして動く。だけどあとは身体に任せる、委ねるでいいんです。そこにそうなるように頑張ろうとすると、力みが出てしまいますし、小手先でやってしまいます」ということでした。

そうかぁーーーーー、ワークもしっかり意識をして行うけれど、そこに楽になるためにという意思はのせてはいないかぁーーーー、と思いました。意思を持つ、持ち続けることは自分の変容には必須なんですが、どんな意思を持つのかというところです。ここは身体も同じということか。

そして、身体には恒常性があるのだけれど、長年にわたって身体につけてしまったクセや記憶されてしまった身体の使い方などが誰でもあるという話にもなりました。それを整体やセルフケアを行うことで、クセのついた身体でいるよりも「こっちのほうが楽だ、こっちのほうがいい」と身体自身が気付くとそちらへいこうと身体はするのだそうです。

これも同じです。黒パターンでの言動、思考は長年にわたってつけてきてしまった心のクセです。しかし、それがこれからの自分に必要なのかと感じてみると、そうではない事にも気づきます(又は自己探求をしていくうちに、これってパターンだったんだと気づく)

そこで新なものを選ぶわけですが、その選んだ時の感覚がよいとき、人の心はそちらへいきたがります。それが本来の自分であり、それが楽であることがわかるからです。心も身体も快に向かいたいんです。

このように、人はそれが快なのかどうか、というところでちゃんと感じられているし、それを具現化しています。なかなかのものです。その具現化しているものが今の自分にふさわしくないのなら変えていくということです。

そして最後に先生がいつもおっしゃるのは「全て、量子ですから。身体を構成している細胞も、全て量子です」。…ということは…自分の意識の在り方があらゆるところに影響を与えていきますよ、ということです。だから、どうありたいのか「私」という意識は。やはりここに戻ってくる。ここからの出発なんだと思う。

流れに乗る感覚
2025/10/16

「川」「帯」の流れに乗って生きる。そこにこそ安心があります。

しかし、私たちが目を向けているところは貯蓄額を増やす、家を持つ、ずっと続けられる仕事を持つ、健康でい続ける、家族がいる、他人から認められている、才能がある、など。それらがあるから安心できると思っています。だからそれを得るために頑張る。しかしそれらは無くなったり、変化する可能性も十分にある。

でも、流れに乗って生きる事での安心には、自らそこを出ようとしないかぎりそこは普遍的な状態で在り続けるものなので、結果、安心とともに生きていくことになります(この流れ(ルール)と共にいることが神と共にいるということだと気づきました)

で、昨日書いたように流れに乗るには黒パターンで生きない、ということなんですが。ここで、誤解しやすいのが、黒パターンで生きない=黒パターンはよくないもの、だから抑え込む、というものです。パターンに引っかからない状態ではなくて、パターンが引っかかれない状態にもっていってしまうというものです(これもパターンがやっています←だから自分を深く見ることが大事です)これは気を付けてください。

勝手に引っかかるパターンが悪いのではありません。それを管理するべき「私」が育っていないことがまずいのです。パターンは今のままずっと一緒にいて引っかかるときには自由に引っかかるものです。それをそのまま赦している「私」なんです。

そして、たとえ、抑え込んだことで引っかからなくなっても、流れには乗れないです。そういう外側の変容のことを言っているのではないからです。心底の変容の事を言っています。

それは、どんな感覚のものなのか。「もしかしたら…〇〇と、もう、決めつけなくてもいいのかもしれない………」この言葉を言っているその瞬間の自分の感覚です。その瞬間に心身に感じているその感覚、それを自分の身につけていき、少しずつ時間をかけながらそれが普通になるようにしていきます(これを一気にすぐにやろうとしない←これもパターンがやりたがる)そこには一瞬感じる安心感があると思います。それでい続けること(そう振舞うのではなく)を自分で練習し、心身につけていきます。

それから昨日書いたように、今、どんな感情が湧いているのか、に、敏感になってそれを必ずすくい上げること。それも、続けることで今、この一瞬にあるということがどんな感じなのか、感覚としてわかってくると思います。今に在ることの心の在り方も流れに乗るのには必要だからです。又、このようにしてあらゆる感情に対しての軽さや無差別を心身で覚えていきます。

思考ではできないこれら。心身で感じ、自分のものにしていく。というようにいろんなことを行いながら、流れに乗る自分を創っていきます。修行にしないで。

川、帯に乗る
2025/10/15

10月の盛岡クラスも無事に終了いたしました。今回は茅ヶ崎クラスからもお一人ご参加いただき、皆で善い時間を創ることができたと思います。

で、帰りの新幹線の中で、人が肉体を持ってこの世界で生きるときに、いい塩梅で生きることができるようにと、宗教も哲学も作られていると思いました。

それらは、この宇宙にある「川」「帯」へ私たちを誘っているからです(川とか帯とか言っていますが、この宇宙の中で生きる全ての命をよりよく生かすためのエネルギーシステムと言えばいいのか)それに乗る、そこに入る、そこと調和するなど、言葉は色々ですが、それによって人はいい塩梅で生きることができる…というものです。

仏陀やイエスの言葉。古代ローマの哲学者たち、宗教家。マスターたち。芸術家たち、それぞれの言葉。それは言葉は違えど、またはアプローチの仕方は違えど、この宇宙のルールである(川、帯)に乗ることを勧め、そこが本来私たちが生きる場所なんだよ、と思い出させ、そうなるために必要なことを語っています。

「そのためにはこのように生きよ」とそれぞれの立場で、人の元々の生き方を伝えようとしてくれています。「宇宙には、そうやって、人を生かそうとするシステムがそもそもあるんだよ。だからその流れに乗ればいいんだよ。後はこちらに任せて」と言うことなんだろうと思いました(聖書にある父に養っていただくというのは、この、後はこちらに任せてということ)。

そのためには…黒パターンで生きないということです。その川、帯と同じような波動で生きるということです。黒パターンの持つ波動はその川、帯とは反対にあるものです。ですから、黒パターンで生きれば生きるほどその川、帯からは自ら離れていくことになります。そして離れてしまうほどに人は苦しくなるのです。

きっと誰もがその流れに乗っていきたい、と思うと思いますが、そういう思い(思考)だけではそこには乗れず。自分という意識の変容が必要になります。変容のためには自分の内側を見ていかなくてはいけないのです。それを継続していくことが必要になります。そのためには、修行のようにしないことです。又は、早くそこに乗りたいから自分を見ようとしないことです。自分を見るということは、今の苦しさから逃れるためではなく、未来のためでもなく、ひたすら今、だけです。今、自分は何を感じているのか、どんな感情が湧いているのか、そこを見ていきます。それだけ。ものすごくシンプル。

外側が変わっても…
2025/10/09

今朝は台風の影響か、涼しく感じますが。きのうまでの茅ヶ崎は暑かった。

日中の部屋の温度が29度。外に出れば、風が吹いてはいるけれど、陽射しは強いです。街を歩く人々も半袖が多いし、若い人はタンクトップに短パン姿の人もいます。

本当に、季節がのびのびになっているというのか、あいまいになっているというのか、四季のある日本だったけど、これからはニ季だね、となりかねないような、昨今。こんなふうに自分の外側はいろんな物事が変わっていきます。

物事の変化により影響を受けることがこれから増えていくのだと思います。そんな中にありながら、自分が決して手放すことのない、自分にとっての大切なもの、それを忘れずに、その在り方を大事にしていこう。それがあれば、揺さぶられても、そこに戻ることができます。揺れても、ブレても、人間戻るところを持っているのは強いです。

そして、人間、最後に残るのは「魂」これのみ。そしてそれが本当の自分。これはあちらの世界へ行ってからも生き続けます(と私は信じています)その「魂」には今世どんな体験をして、どんなことをそこから学んだかが記録され、また次へとつなげていきます。

その魂の核となる部分にあるのは「私」はどう在りたいか、です。その思いを体現するために肉体を持って生きるということをここでやっている。「魂」である「私」が目指している最終的などうありたいか、は、「神との合一」。神の子である「私」は神とひとつになりたいんです。そんな壮大な意志を持ち、そのために何度も転生しているそれぞれの「私」です(だから皆チャレンジャー)

そのことも思い出しながら「私」はどうありたいのか。肉体を持っているのでそこを具体的に考えて行動していきます。行動せずに精神論だけではここは突破できないです。それが肉体があるがゆえのわずらわしさであり、ありがたさであり、おもしろさです。

さて、今日から盛岡へGO!台風も大丈夫そうでよかったです。皆で集まり、善いクラスになりますように…。

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