ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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若い頃には見えなかったそういうこと…
2025/01/21

「魂の道場」で学ばれている方々は、お一人の方を除いて皆さん10年以上の方々です。

で、そういう話を他の方にすると「え?そんなに悩みって解決されないんですかぁ…」と言います。その言葉からは10年以上もかけているのに解決できない力のないカウンセラーととらえられていることを感じます…が…説明してもわからないので、何も言わず。

そもそも私自身が時間をかけて何かをすることにそれ程の抵抗がなく、それを面倒、嫌だ、と思わないんです。本来、なんでも時間をかければかけるほど、新な何かがそこに在ることを体験しているので、そこで見つけるそれが楽しいんです。

ただ、私の場合、ご飯作りは面倒と思うのでこれはその対象ではありませんが、それが好きな人にとっては、ご飯作りも時間をかけるほど新なそれを(ご飯作りを通しての何かを、その後ろにあるものを)知ることになると思います。このように、自分にとって時間をかけられるものとそうではないものがあります。

一つの習い事を、仕事を、20年、30年、40年と続けている方はたくさんいらっしゃるし、何かを研究していたり、発見、発明されている方も長年にわたります。

そして、最も時間をかけてあげたいのは自分自身だと思います。生まれて、成長して、だんだんと大人になり、今度はだんだんと老いていき、またあちらへ帰る。この人の一生って、最も時間をかけていくものです。そして、時間をかけて今まで見えなかったものが見えてくる。自分自身について。他人について。生きるということについて。死について。若い頃には見えなかったそういうことが、時間をかけて生きてきたから見えるようになっているのだと思うと、そういう自分であることだけで十分だと思えます。

人生をどのような視点で捉えているか、で、日々の言動は変わり、それにより、見えてくる世界も変わるのだと思います。

小さな努力の積み重ね
2025/01/20

で・・・・・プライド。

誰もが持っているもの。なぜならば、あらゆる自分の内にあるネガティブなもの(黒パターン)に負けないように、それらを抑えていくのがプライドだからです。

あらゆる自分の内にあるネガティブなもの(黒パターン)を認めてしまうと自分の全てが成り立たなくなるとプライドは思っているから。その状況はつらくてつらくて仕方がなく、そんなんじゃ、自分に自信が持てない、自分を肯定できない、とプライドは思っているから。そうなると、他人に受け入れられることもないとプライドは思っているから。そうやってはじかれてしまうと、生きていかれなくなってしまうとプライドは思っている。それを回避するためにプライドが活躍します。

プライドはパワフルで、負けん気が強く、強引です。その力で弱弱しいパターンたちを抑え込み、時にはそれも武器にして大きく育ち、それが自分だと思いこませていきます。そうやって、ほとんどの人が自分のプライドに支えられて生きているのです。

周りを見ても、争いはプライド同士の小競り合いであり、それが大事になることももちろんあります。日々の他人との比較での勝った負けたも、どっちが正しいのか、上なのかも。戦争もそうでしょう?

それがおかしいと思う人はほぼいなくて、それがあるから自分は生きていかれる、時には人から強い人ですね、勇気がありますね、と賞賛されることもある。そんな歪んだ認識をお互いに持ちそれに慣れて、ますますプライドで生きることになります。

それが心底、自分を解放し、穏やかにいられているのならそれはそれでいいんだと思いますが、ほとんどそんなことはなく(パターンだから)日々闘いが続きます。

そこから抜けるためには、自分のどうありたいかという想いがプライドより勝った瞬間を持つ自分で居続ける努力を続けるしかありません。小さな努力の積み重ね。そして、そのうち、プライドを上回っている自分を感じるときが来ます。そこまでの忍耐力も必要になります。これがいい感じ、いい気分でいるということ、と、クラスで話しました。ここはわかりにくいところなので、また話していきます。

大きな課題
2025/01/19

今年初の茅ヶ崎クラス。幸先の良いスタートだったと思います。

1日目に「プライド」についての話が出て、今回特にそれについてやろうと思ってはいなかったのですが、この流れに反してはいけない。家に帰ってから、プライドについてわかりやすい資料を出してきて、それを2日目に使いました(以前やったやつだけど)。

まず、この流れの感じが私は好き。やっぱりね…自分ひとりでセミナーを行っているわけじゃないんだよなあとすごく思うんです。クラス全体を、参加している方達を、善きほうへ動かそうとしてくれる何か。それが作る流れです。だからそれに従っていく。初回のクラスからこの感じだったので、今年はますますそちらにゆだね、柔軟にやっていこうと思いました。

そして「プライド」。もうねーーー、これ、手ごわいんだわ。そして、自分が本来の在り方をしていくためには、絶対に超えていかなくてはならないものなんです(動物として生きるのか、人間として生きるのかというところのもの)

今回は多くの時間を使ってプライドの話をしました(岩手クラスも来月やります)そして、それぞれがそれを自分の内に確認できて本当によかったと思います。

プライドというと自分に自信がある、とか、自分はこんなことができる、とか、いいイメージがありますが、それは黒パターンの領域。こうして他人より上に立ち、自分を保っているだけのものです。また、自分は自信がないし、特にできることもないからプライドはない、と思う人もいると思いますが、よくよく自分を見てみれば、無いことに対する、自己否定や、悔しさや、不安や、焦りや、怒りがあったりもする。それもプライドが生み出しているものなんです。プライドがあるから、自分を否定するし、悔しいし、不安だし、焦るし、怒るんです。

本来は他人に対抗できるものを持っていれば自他にわかりやすくプライドの武器にできるのですが、それが無い場合も、プライドは自分には無いことは認めず、自分だって何かあるはず、自分だって持てるはずだ、それに値する人間なんだ、だって人間は皆平等なんだから…とスピリチュアルの世界では言っているじゃないか、と、納得しようとする。そうやって自分を保とうとする。この在り方自体がプライドなんです。

ここで生きるってすごくしんどいはず。なんせパターンなんで、そこで生きてしまうとずっとその重苦しさは続きます。

・・・・という大きな課題で、スタートした今年。きっと善いほうへ皆が動くだろう。

あらゆることを…
2025/01/16

今日は、今年初の茅ヶ崎クラスです。今年の茅ヶ崎クラスには、毎回、岩手クラスからおひとりずつ参加される方がいらっしゃいます(岩手クラスの皆さま、遠いところありがとうございます)今年からは、茅ヶ崎クラス、岩手クラス、そして個人の方も、お一人お一人の課題や方向性を重視して、行っていこうと思います。今まで以上にお一人お一人へ言うことが違ってくるだろうと思いますが、また1年、よろしくお願いいたします。

さて、先日の先生のカウンセリング。数日たって、じんわりと気付いたり、再度考えたり、先生の言葉を反芻したり、とあります。これがカウンセリングの醍醐味だ。

で、そうすることでまた先生に聞いてみたいこと、疑問などが生まれてくる。「…っていうことって?こういうことですかあ?先生」と。私はこういうことがおもしろいと思い、好きなんだとあらためて思う。こうして自分が疑問をもったり、質問をしたり、そうしながら物事の深みを知り、感じ、間違えて捉えていたところを見直し、正し、今の自分を知り、自分を組み立てていくみたいな作業。こういうことが根っから好きなんです。

そして、これからの自分が目指す所へ行くために…というよりは、その時その時にわいてくる自分の知りたい事、それを理解したり、納得したりすることがおもしろいと感じています。

そして、この頃理解したのは、こうしていることが、目指す所へ行く努力をすることよりも、結果、そこへ向かっていた、そこへ入っていた、ということです。こうして考えてみると、いわゆる一般の「学ぶ」とは違うんだね、心の世界、本質を学ぶって。

そして、その在り方が二極の片方なんだと思う。誰もがもう片方は今まで十分にやってきた。だからあとの片方を学んできれいなまあるい自分になればいいんだと思います。そのためには、目指さないということだと思います。何より楽しむこと、好きであること。と言っても頭でそうしようとするのは違うので、自分はどうなんだろう?好きか?楽しいか?おもしろいか?と感じてみるといいと思います。

あらゆることをそんなふうに感じてみるといいと思います。

行動あるのみ
2025/01/15

今年は、なんか、善い動きになると感じている。お会いしている皆さんが…です。

皆さんのブログを朝読んでいるんですが「そう、そう、それでいいね。その心持ちでいこう」と思います。この「そう、そう、それでいいね」が増えてきていて、これはやはり去年からの努力の成果なのでしょう(…という年だそう。詳しくはまたクラスで)

で、成果というと、よいこと、うまくいっていること、できたこと、成功したことと捉えがちですが、そうでもないんです。一見、よくないこと、うまくいっていないこと、できないこと、失敗だったこと、など、パターンがネガティブさを生み出している物事を持つのも善い動きであることもあります、というか、善い動きに自分がしていかなくてはいけないんです。ここがすごく大事。

で、人の意志力とか知恵とか行動力って、ここでこそ使わなくてはいけないと思います。いわゆるいい感じでスムーズに生きている人ってここが上手なんだろうと思います。

一見、よくないことが起きたときには、何を選んでの今なのか?をクールに検証し、では、それではない「私」が納得することを考え、感じ、選んで、それに沿った行動をする(ここでの一致性がまたまた大事。気づいていても行動に移していなければ結果は同じ)。このように自分でよくないことを善い動きに自分でしていくということです。

これをどこかで勇気を持ってやってみてください。1回できると、また次もできるようになります。そうしていくうちにそれが自然と普通になっていく。やはり行動あるのみです。

成人式
2025/01/14

昨日は「成人式」だったんですね。いつも行く中央公園に着くと、向かいにある文化会館からどーーーーーっと晴れ着姿の女子、和装、洋装の男子が大勢出てきました(式典が終わったのでしょう)そのご家族も一緒なので、とにかく人数がすごい。

そして皆が向かいの公園に、道を横断して移動するので、信号前で細い歩道は一般の人も混じり、動けない状態になっていました。私もちょうどそこにいたので、しばし、華やかな女子にまじり、待機。じろじろ見るのは失礼なので、でも、着物や髪型やメイクをちらちらと見てしまいました。

皆さん、豪華です。流行りなのか、着物にブーツやピンヒールの靴をはいている人もいるし、髪には、金銀のモールのようなものが巻き付いていたり、水引で飾られていたり、全体にラメが散っていたり、小さな扇子や小花が飾ってあったり、と、色々です。レトロ風な着物の人もいれば、華やかで、凝った模様の着物の人もいます。変形型着物(?)の人もいます。帯もそれぞれ素敵でした。そういう女子に囲まれ、ネギが見えているエコバッグの私はどう見ても場違いでしたがこういう状況にならないかぎり、ここまで細かく見ることはなかっただろうと思いました。

で、自分の成人式の時は?と思い出す。私、当時はとんがっていたので「成人式?出なくていい、着物も着ない」と式典に出ることなく、着物を着て写真をとることもなく、そのころバイトしていたところで働いていました。そういう私に、両親は何も言わなかったというのも不思議です。でも、このことは後悔はしていないので、私はそうだったんだというところで終わっています。

成人になられた皆さま、これからの人生、山あり谷ありだと思いますが、たくましく生き抜いていってください…とまるで孫を見る様な私。

自分の好きなものごと
2025/01/13

ワークとはやらなくちゃいけないものではないし、やったら、こんなふうに変わるんだ、だからやろうというものでもないです。まして、私に「やれやれ」と言われるからやるというものでもありません。

ワークを善きものとして、続け、それを自分のものにして、自分の成長に使うためには「やりたいからやる」というものがないと、やらされている感が起こると思います。そうなるとただ、やっているというワークになり(パターンがやっている)そこで変化なく停滞します。

この「やりたいからやる」という動機で、その心持で、「私」が続けるワークには必ず、結果が出てきます。それは、楽になる、問題が消える、というパターン的な結果ではなく(そうなる場合もあるが)「なるほどねーーー」というような結果です。

今まで漠然としていたものの形がはっきりしてくる、私がやれやれと言っている意味がわかる、なんか整理されていく、芋づる式に次々と分ると言った方もいらっしゃいます。それは、楽になった、問題が消えた、もう、ひっかからない、というような単純なものではなく、どちらかというと「これ、おもしろい」というものです。この体験ができるといいなあと思うのです。

で、何事も、実は「やりたいからやる」という心でとりくむから、向上したり、理解が深まったり、結果に結びつくということ。やりたいからやるというところには、なんか興味がある、とか、なんとなく楽しい、とか、わからないからもっと知りたい、とか。知的好奇心がくすぐられるものがあります。で、楽しんで行うことは進んでいきます。ワークが皆さんにとってそういうものであるといいです。今年はここへの挑戦もいいかも。

そのためにも、まずは、よくわからなくても、ちゃんとやる(ちゃんとやるというのは言われた通りにやることをベースにして、自分でもそれについて考えるということです)、そして「なるほどねーー」を知る体験をする(それは善くできているということ)ことです。そうすれば、もっとやってみたい、もっと知りたいとなります。この、状態になれるものが自分の好きなことなんじゃないかと思います。

先生のカウンセリングを受ける
2025/01/11

昨日は、カウンセリングの先生の所へ行ってきました。

前回、聞くことを忘れていた「今の私への注意点をお願いします。厳しく、ダメ出しお願いします」を今回は絶対に忘れない…と思いつつ、色々と話しをしました。

所々で、先生から「それはどうして?」「どうしてそう考えるの?」「これはこうだからではない?」と聞かれ、そういう時は自分で再度考えるので、質問はカウンセリングにおいてものすごく大事と再確認しました。質問には、その人を知るため、その人が自分自身をどのくらい認識しているのか、を知ることになる、と後から気付きました。

こうして、私の内部に入り込んできてくれて、それにより、今の自分がよりよくわかりました。「あーーーーー、そうか、そういうことか」と。

そして、今回は忘れずに聞きました。「先生、今の私を見ていて、注意点をお願いします。どんどんダメ出しお願いします」と。

すると「自己観察は正しくできています。だから、あとは、イトーヨーコブランドとして伝えたいこと、提供したいことを貫いていくこと」と言われました。ここまでくるのにかなり話をしていたので、わかりにくいかもしれませんが、自分のやり方への「哲学」を持ち、それを自分の指針にして、ぶれずに行け、それを崩してはいけない、ということです。

でーーーー、これって、道場でやっている「自分はどうありたいのか?」というところと同じだと気付きました。先生はカウンセラーとしての私への注意点としてそれをおっしゃってくださったのですが、カウンセラーではなくても、個人として、自分の指針になる自分の哲学は自分の人生にはあったほうがいいです。それがないとあっちにふらふら、こっちにふらふらと、なってしまいます。その哲学は一人一人違います。これが正しい哲学です、はないです。だからこそ、パターンが考える哲学ではなく「私」が思う「自分はどうありたいのか」を自分の哲学にしていきたい。

そして、カウンセリングとは(カウンセリングで目指すこととは)そういう人を育てることだと先生がおっしゃいました。本当にそうだ、と思う。ただ、共感して、そうですよね―――では人は育たず、ということです。育てるというのは、その人もまだ気づいていないその人の可能性を引き出すことであり、道場的には新な視野を自ら持つ(ミームをあげていく)ようになることだと思います。そして、自分がその体験をしているからそれは伝えられるわけです。

先生のカウンセリングと私のカウンセリングは違うので、全てが同じということではありませんが、最も大事な部分は同じであったのがよかったでした。

そして、帰りは「関内」駅の近くにある「利久庵」というお蕎麦屋さんに行きました。横浜に住んでいたころはよく行っていましたがずっとご無沙汰でした。とても美味しかった。茅ヶ崎から通うか?と考えてしまうほど。蕎麦好きな方で「関内」に行かれるときにはお勧めです。https://osoba-n.com/

祖母のこと
2025/01/09

昨日、ふと、祖母のことを思い出した(母の母)。

祖母は若くして結婚し(明治の女性はそれが普通だったのだろう)3人の子を産み、育て、関東大震災と東京大空襲を体験し、生きていくために商人の人達が泊まる小さな旅館をはじめ、家族を養った。祖父は、お金にならない「発明」に明け暮れていたらしい(祖母曰くなので祖父には祖父の言い分があったと思う)

祖父が亡くなってからは、茅ヶ崎へ越し、今度は、両親と一緒に生活できない状況にあった私と妹の面倒を叔父夫婦とともにみてくれた。

で、祖母のことを思い出した、というのは、祖母の人生は、ずっと家族のために働き続けた人生だったなあ、という事と、そんな人生であったのに、なぜ、あんなに明るく、おもしろく、遊ぶように生きていたのだろう?という事である。

私では祖母の様な人生を送るのは到底無理だろうと思う。これだけ便利な自由な世の中にいるのに、毎日のご飯が面倒くさいと言うくらいだから。自分の好きなことをやりたい、自分のペースでやりたい、という思いはある。

祖母は、毎日、毎日、朝から夜寝るまで、同じことを繰り返し、限られた人生の時間のほとんどはそこへ費やされていたと思う。そして、晩年は認知症が進み、施設に入居して人生を終わらせた。

自分の人生なのだから、もっと自分を優先したかったとか、自分が生まれてきた意味とか、意義とか、持たなかったのだろうか。そうできない自分の身の上を嘆いたりしなかったのだろうか。祖母から、不服感や憂鬱さやあわれさを感じたことがなかった(孫にはそれは見せなかったのかもしれないし、子供だったのでそのへんはわからなかったのかもしれないけれど)逆に、祖母からは、明るく、おもしろく、日々の中にある小さな楽しみを教えてもらった。それらを総称してみると、遊ぶような生き方だった。

私を含め、今の人達はどうだろうか。自分の人生は自分のために生きることが普通になっていて、そうなると、何かしらの自分にならなくてはいけないようなものも生まれてくる。自分はこれをやっている、これを持っている、それがある人生が成功している人生というような。そうやってはじめて安心できるというような。

今は、自分が好きなように生きていいという時代ではあるけれど、そうなのに、不満や不服が多いのはどうしてだろう。楽しく遊べないのはどうしてだろう。未来に不安を持つのはどうしてだろう。祖母の生き方は決められたところで、決められた生き方しかできていなかったのに、どうしてあんなに自由だったんだろう、祖母のまわりにある時間がなぜあんなにゆったりとしていたんだろうと思う。

祖母ももちろん人間なので、その心には悲しみも怒りも後悔もうつうつとしたものも宿っていたはずだ。でも、これは推測だけど、当時の、ほとんどの女性たちが生きる枠というものは決まってしまっていて、災害と戦争で、よりそこは狭められ、その中で生きていくことを強いられ、そこへの覚悟やあきらめをどこかで持ったのかもしれない。覚悟やあきらめを持つ人の明るさやおもしろさや自由さが出ていたのかも。自由であることの弱さや不安定感もある。そして、強いられるものにより人は強くなり、自由になるのかもしれない。私も祖母のように生きたいと思う。

いい気分、いい感じ
2025/01/08

で、「今」しかない、ということについてです。

その「今」をどういう状態でいるのか、というと、「今」いい気分でいる、いい感じでいる、という言い方になりますが、それは、楽でいる、とか、好きなように、全て思いどおりでいる、とか、嫌なものが一切ないように、ということではありません。状況によって成り立っている状態ではないということです。それらはパターンが、こうであったら、いい気分、いい感じでいられるのに、と、望んでいることです。

時にはパターンにひっかかることが全くない状態のときには、五感で感じ取るいい気分、いい感じでいる状態はあります。そして、そのときには心もおだやかでしょう。しかし、それは一時のことであったり、あったと思うとなくなったり、変化するものでもあります。絶対的にあるものではありません。

では、そういう不安定な状態でありながらも「今」いい気分でいる、いい感じでいるって何?ここにいつも言っている「自分はどうありたいのか?」が出てきます。

いつでも、自分の(パターンの)好きなように、何でも思い通りにしようと、誰かを使って、嫌なことが無い状態にしたい自分でありたいのか?それとも、そうではない自分になりたいのか?ということを自分に問う。「それでいいのか?自分」と。

パターンの言うとおりにいきたいと思う自分なのか、それとも、怖いけど、自信ないけど、でも、少しでもそこではない自分に向かっていきたいと願う自分なのか。「今」の自分はどちらなのでしょう。ここは本人の意思にまかされます。

魂を少しでも成長させたい、そうやって幸せに生きて欲しいという天の意思のもと「私」はその意図を受け取り、色々とセッティングして、少しでも進ませようとする。いろんなことが起きていて、心中、おだやかではない、苦しい、不安とパターンは騒いでも、それを持ちつつ、自分はどうありたいのか、です。

そして、そこで選びたいものを、決めたときに、感じるものが、いい気分でいる、いい感じでいる、ということです。そうそう、これを一番求めていたんだよね、と思えると思います(パターンは嫌がるので、そのときにはケアと選択)そういういい気分、いい感じです。

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