ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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古い迷信
2020/05/20

自分で決めたことは変えてはいけない、それは無責任ということ。自分で決めたことには責任をもってそれをやりとげなくてはいけない、ということ。

私もそう思っていました。これは母からそう言われたからだと思います。「自分で決めたんでしょ?だったら最後までやらないと」「自分で決めたんでしょ?だったらしかたないわね」と言われたことがありました(もう母も亡くなってずいぶんたつのでこういう話もいいでしょう。誰かのためになるかもと思えば母もOKだと思います)

私がとにかくつらい日々を送っていたとき、できればもうそこから逃げ出したいと思っていたとき、母にこれを言われたことがありました。それはつらさを倍増させましたが、母にそう言われ、そうだよな、自分で決めたんだから、逃げてはいけないんだ、そうやって自分が決めたことには責任をとらなくてはいけないんだ・・・と思いました。このときの体験が強烈に残っています。

今であれば、もし、母にそう言われても自分の選択としてとっとと逃げることをしますが、当時はそういうことを全く知らなかったのでひたすら耐えるという日々でした。それにより体調も悪くなり、覇気もなく、未来への希望もなく、あとどれぐらい生きたら死ねるのだろうと考えていました。そんな状態なのに、それよりも責任をとることのほうを優先していました。責任がとれない人間はダメな人間だとも思っていました。

しかし、人は自分で決めたことでも実際その中に入ったときに違っていた、自分には合わない、時間の経過とともにもう飽きた、もういいや、ということはたびたびあると思います。もちろんそこで自分のパターンの確認やケアや選択は必要ですが、それでも違っていたらやり直せばいいんです。何度でも。いくつであろうと。いくらまわりが無責任だとか、弱いとか、皆我慢しているのにとか、逃げていては成長しないと言おうがまず自分が健全に生きることが最優先です。

今思えば、母自身がそうやって生きてきたんです。自分の決めたことが違っていたと気づいても、自分で決めたのだからその責任をとるべきだ(そこに居続けるという)とそうやって生きてきたんです。ですから子供にもそれを言うしかありません。母はそのやり方しか知らなかった。だからずっと体調が悪かったし寂しそうでした。もっと母を楽にしてあげたかったです。もっと母のもつ自分の個性を謳歌してもらいたかった。

皆さんにもそうあってほしいです。自分で決めたことを変えてはいけない、責任をとらなくてはいけない、は古い迷信です。もう、それに縛られることはありません。本当に責任をとるということは健全な自分を育て、自分の人生を楽しいものに自分で構築していくということです。そしてそれを必要な方に伝えていくということです。

本当に正しきことには、よろこびがあります。安堵があります。明るさや希望があります。強さや勇気を発揮したいと思います。生きている実感があります。怖さや不安や焦りなどを伴うものは古い迷信だくらいに思っていていいと思います。

そんな自分を育てるために私たちは何度も転生しているのです。それを忘れてはいけない。

大好きな先生
2020/05/19

先日、道の反対側から来る男性の方が、私に手を振っているので、見たら、近所のクリニックの先生でした。

私も手を振る。

先生、ノーマスクでさわやかな笑顔。元気にずんずん歩いていらっしゃいました。通りすがりに「大丈夫?」と聞かれ「大丈夫」と言うと、うん、うん、とうなずいて去っていかれました。

私もトミーもほとんど先生のクリニックを訪れることがないのですが(トミーがインフルにかかったときくらい)会うと気さくに声をかけてくれたり、手を振ってくださいます。そしてどこかドクターとしての受け止めのようなものが醸し出されている方です。

私もトミーも大好きな先生です。

私は薬が体に合わず、処方された薬を飲むことはないのですが、それでも体がしんどいときには先生に会って「せんせーーい、だるいーー」と話すだけで安心します。そして先生も「この前ね・・・それで、僕さあ・・」とご自分の話をしてくれます。そんなときには、先生も一人の人なんだなあと親近感をおぼえる。

先生と知り合い、専門的な知識と技術、そしてキャリアというものはもちろん大事ですが、さいごはその人そのものなんだろうなあと思います(先生に知識や技術がないということではないですよ)そこを上回るような人としての在り方がその人そのものなんだろうと思います。

・・・その人そのもの・・・がこれからの時代は大事になってくると思っています。それも今までのような目に見えるところでのその人そのものではなく、本当のところのその人そのもの。隠して繕って今まではこれたことが、これからは、無理になっていくだろうと思います。

なんせ新たな時代へのスタートが人々の黒パターンをあぶりだしてしまうほどパワーのあるものがやってきたぐらいですから。これからは増々そこの力をもつものが登場することでしょう。

しかしそれは怖いことではなくて、もう隠さなくていいし、繕わなくていいのですから、お互いに楽なことです。また、相手をそのように見る人達も増えてくるだろうと思います。もう、今までのように目に見えるもので相手を判断したり、その部分だけを見て相手を決め、そのつきあいをするというのではなく、目には見えていないその人そのものを見るという人たちが増えるだろうと。より正直な方へ動いていく新な時代。地球規模で、大きく、一気にきたものなので、私たちもそれに乗っていかれるように、より自己観察、探求をしていきましょう。それもライトに行いたいので楽しみながら。

ゼロリスク
2020/05/18

少し前から「ゼロリスク」という言葉をよく聞くことがありました。こういうときは、それについて調べたり、考えたりしなさいということなので、ゼロリスクについての本を読みました。

・・「ゼロリスク社会」の罠 「怖い」が判断を狂わせる(佐藤健太郎・著)・・

その中のひとつに「食べるもの(食べるという行為)には必ずリスクがある」というのがありました。

それは「食べたものが消化されていく過程で必ず活性酸素が発生し、それによりDNAや重要分子が傷つけられてしまうから」だそうです。生きるための食事は少しずつ命を削っていってもいるんだということだそうです。もちろん食べなければ食べないで体は消耗していき命を削っていきます。

これを読んだときに、私はどこかほっとしました。食事=栄養をとっていくということがとても重要視されていて、それは正しいことであって、それにより健康を維持できるということで(それはそうなんですが)昨今の「これを食べたら体にいい」「これは食べてはいけない」などなどその在り方がどこかおかしいように感じていたからです。バランスを欠いたその在り方が、実は食べることでも命を削っていっているというところで食事についての重さが抜け、食べることの中心を取り戻せると思いました。

これは、もちろん食事のたびに命が削られると怖がって食べるということではないですよ。ものごとのありようとしてです。

又、なぜ自分がゼロリスクを求めるのかをみる必要があります。それはたぶん、多くの人がリスクに対しての不安と恐怖が強いのだと思います。それに対してどう対処したらいいのかわからない、自分には対処できない、だから、リスクなくいられることを考える。又は、リスクのないことが正しいと思っている。リスクがない自分は正しい判断をしてきているというような。いずれにしてもパターンです。

リスクとともに生きるのが人間で、リスクが目の前にくることで成長できるのも人間です。リスクに勇気をもって向き合い、そこを乗り越えていくことではじめて、のびのびと楽しく生きることを実感します。一切リスクのない生き方の中に、それらはやってきません。

この、のびのびさや楽しく生きることが大人にはなくなっています。大人がもっとも持たなくてはならないものなのに。子供たちのためにも。これも著者が言ったように「日本人はリスク過敏症」だからだと思いました。

木々はどこへ?
2020/05/17

新緑の今。1年で一番好きなとき。

ちょっと外に出るだけで、きれいな緑色の葉があちこちに見られてうれしいです。緑色は目にも心にも体にも優しい。

ベランダから見えるところに、緑色の屋根の個人宅があります。庭にはたくさんの木が植わっていて、家を囲むように緑につつまれている家です。きっとずっとこの地にあった家だと思います。家自体は古いものです。いつも洗濯ものを干しながらその家と庭を眺めるのが好きでした。まわりには新しい建物がたっていくのに、その家はたくさんの緑とともにずっとありました。

しかし、数日前、その家がとり壊されました。庭にあった多くの木々は1本も残っていませんでした。あの木々はどうしたのだろう。どこへいってしまったのだろう。

以前、祖母の家をとり壊したときに、庭にあった大きな木を廃棄してしまうのはかわいそうだからと市に問い合わせて、もし寄付できるところがあればと聞いてみたのですが、ありあまっていると言われたことを思いだしました。結局、廃棄でした。

あの家にあった木々もそうだったのだろうか。引っ越し先へ一緒に移ったという感じもせず、どんどん更地になっていく様子をみながら、長い時間をかけて育った木々だったのに・・・と悲しい気持ちになりました(植物を大事に扱わない私が言うのもなんですが)

周りの新緑がまぶしいだけに、いなくなってしまったことが悲しい。こうして茅ヶ崎の街からまたひとつ緑が姿を消していきました。

創造主の子供だから
2020/05/16

自分の内に感覚を生み出す。自分ひとりでどこでも必要なときに、生み出します。

生み出す部位はハートです。そこに「幸せ」の感覚を創ってください。「わくわく」の感覚を創ってください。「愛おしさ」の感覚を創ってください。「勇気」の感覚、「軽さ」の感覚、「叡智」の感覚などなど。微妙に違いがあるのがわかりますか?

これは最初のうちわけがわからないと思います。そこで、自分の外にあるものの力を借りて、まずその感覚を体験し、覚えます。

例えば、美しい森の中を歩いたときに「ああ、気持ちいい、こんなところを歩けて幸せだなあ」と思うとします。この幸せだなあと感じたときの感覚を覚える(覚えるというと頭にいきやすいですが、ハートで覚えます)または、大好きな水族館へ行って大きなくじらを見たときに「すごい、わくわくする」というわくわく感を覚える。ペットの猫が寝ている姿をみて「なんてかわいいやつなんだ」という愛おしさを覚える。まずはこれらの体験から得た感覚(その感情を味わったときのハートの感覚)を覚えます。

そして、この覚えた感覚を自分の内に再現します。難しいようだったら、あの森、あのくじら、あの猫とイメージをひっぱってきて再現します。これができるようになると、雑踏の中を一人歩いているときも、体が疲れているときも、色々考えてこんがらがってしまったときも、幸せやわくわくや愛おしさを感じたときの感覚を持っていることができます。

それがどうした?と言われてしまえばそれまでですが、大事なことは「自分の意思で創りだせる、再現できる」ということです。感覚って外側の何かによって与えられるだけではなく自分の内で作り出せるものだということです。この発見と確認って自分というものへの認識をまたひとつ変えていくと思います。

次に、ハートで創ったそれを広げます。体中に。手足の先までそれが行き届くのがわかると思います。そのとき、前に日記に書いたエネルギーが満ちている状態となります。

これはネガティブなものも生み出すことができますが、重くのしかかるようになり、体に緊張が走り、体が冷たくなってくるのでやらないほうがいいです(ちょっとやってみて、こんな感じかあと確認する程度ならいいと思います)

人って創れるんです。創造主の子供だから。

これも楽しみながら練習してみるといいかもしれません。

最後は・・・
2020/05/15

きのうの洗脳からの覚醒ですが。

多くの人がそれは「自分には無理」と決めています。目覚めて生きられたらいいけれど、自分には無理とパターンがさわぎ、それを選んでいます。

「なぜならば、そんなに頭がよくないし、学歴も低いし、もう年だし、今までだってできなかったし、何をどうしていいかもわからないし、どうせやってもできないだろうし、ひどくなったら困るし、じゃあ、今までの頑張りは何だったの?・・」とこのあたりのことをパターンはつぶやく。

だから、いかにしてこのままいかれるかを考えたほうがいい、とパターンは言います。これが洗脳により作られたパターンです。

で、目覚めて生きるというと、転職とか、引っ越しとか、資格を取るとか、時には離婚とか、そちらへ動くことだと思う方がいるのですが、そうじゃないです。これらは外側の動きです。人って意識でできている。そして意識(内側)が最初にあってだから外側が決まっていく。ということは、まず自分の意識(心)を変化させようということになります。

何から何へ変化をさせるのですか?誰かの作った今迄の常識やらこうあるべきという一般的な考え方(黒パターン)から「私」の選ぶ「私」独自の白パターンへです。心が決まったからそれに沿っての行動(実践)ができます。不安と恐怖の心で転職しても、資格を取っても、それに対する結果がくるので、まあ、それにみあうものです。

心を目覚めさせるんですね。今までの間違いに気づくというか。

例えば転職。その白パターンでこれからの仕事を考えてみます。今のままでも白パターンを選んだことで、以前よりいい感じで働けそうかもと思えればそのままでいいし、白パターンを選んだことで、何かもう違う、もういいかを感じることもあるし、ここから離れる、ここを辞めると考えたときに不安感はありながらもどこかわくわく感、心が開けていく感じもあるなどの場合は、他へ移ることも視野にはいってきます。

そのときには、このわくわくする感じをもちながら行動してください。+不安感を生み出しているパターンのケアです。ケアと選択によりわくわくのほうが不安感より勝ってくると意外と軽快に行動できたりします。そして何よりそのときに得ている力は「だめならだめでまたどうにかするさ」といういい意味での開き直り、腹を決めることです。

ここが少しずつ身についてくると人間強いです。最後は、頭じゃない、腹です。

洗脳から覚醒へ
2020/05/14

私は今回の新型コロナウィルスにより、多くの人たちに覚醒がおこるのではないかと思っています。

覚醒というと、特別な悟りというイメージがありますがそうではなく、今回の一気に今までのものごとが崩れていく体験をして(逃げ場がないような体験)今まで普通と思っていたこと、今まであたりまえだと思っていたこと、今までの自分の信念が実はそうではなかったのかもしれない、と、目が覚めるという意味での覚醒です。

私たちは皆、ある意味、洗脳されて今まできています。生まれ、両親に育てられ、学校教育を受け、社会に出て、結婚して・・・・とごくごく普通に生活をしてきましたが、そこには、常識というものがあり、そこからはずれないレールの上を歩いてきました。

誰かが作った価値観、幸せ、評価、成功など、それを目指す。今、自分をふりかえったとき、果たしてそこに自分の意思や個性というものが反映していたのだろうかと思うんです。私は今でこそ自分のやり方で自分の感性でわがままに生きていますけれども、かつては、皆と同じであることがあたりまえでした。全くそこに対して疑問を持つことはありませんでした。我慢をする居心地の悪さをもちながらも、それがあまりに普通だったので、人生とはそういうものだと思っていました。すべてにおいて一般的な路線からはずれないことが大事でした。

それは三角の私を四角い枠の中にぎゅうぎゅう押し込んでとりあえず四角にするということであったと思います。その四角だけが正しい、だからそこへ合わせなくてはとぎゅうぎゅう押し込んでいたところが洗脳です。

「人の生き方は四角だけです!」と誰かが作ったその領域にいる人が圧倒的に多かったので、それが正しいことと思い四角になろうとしていたと言えます。

元々三角なので、四角の人にできることが私にはできない、ということも自然なことなのに、それができない自分はだめだ、とそこでまた自分を責めます。そこを乗り越えないと皆のようになれないから努力する、頑張るとやってきた。つらいのはあたりまえで、恐怖と不安が全ての動機でした。

こうしてどんどん自分のことがわからなくなる。他人からの評価だけをたよりにして生きていればそうなります。まさに洗脳状態でした。

洗脳って、決してカルト教団だけで行われているものじゃないです。ごくごく普通の生活の中にごくごく普通のこととして浸透しています。それに気づく人が今回のことで増えるのではないだろうかと思っているんです。今までしっかりと握りしめてきた信念をここで見直してみるチャンスだと思います。ありがたいことに、今回の新型コロナウィルスは自分の持っているパターンをみごとにあぶりだしてくれます。

このチャンスをいかし、これからの人生を、もう、誰かの洗脳から抜けて、生きていくことを選択してもいいのではないかと思います。

本来の姿であれ
2020/05/13

疲れる、疲れやすい、疲れが抜けない・・などなど体の疲れを感じている方は多いと思います。

その原因が、食べすぎとか寝不足とか運動のしすぎ(しなさすぎ)とか、あきらかに自分でわかるものであればそれは改善していけばいいのですが、それらではない疲れ、というのがあります。

それはエネルギーが減ってしまっている(だだ洩れ)ことがほとんどです。エネルギーが体に満ちているとき人は元気です。そして本来は満ちた状態で生きるようにできています。その満ちていたエネルギーが減ってしまうと人は疲れを感じるようになります。

どういうときにエネルギーが減ってしまうのかというと、いくつかありますが、最たるものは「考えすぎ」です。その中でも強力な考えすぎはまだおきていない未来について「どうしよう、どうしよう」と考えることです。「どうしよう」は、こうなったら、こうならなかったら、こんなふうに思われたら、こんなふうに扱われたら、こんなことが起きたら、などなどたくさんありますが、とにかくまだ起きていないことです。

これ、エネルギーを大量消費(だだ洩れ)してしまい本当にもったいないです。「どうしよう、どうしよう」と考えて答えが出ればいいのですが、ほとんど答えが出ません。しかし、答えを出すまで考え続けなくてはいけないと思うのか、考え続けたら答えが出ると思うのか、それを長時間、来る日も来る日も行ってしまいます。

せっかく夜の睡眠中に(ちゃんと眠ればですが)チャージされたエネルギーなのに、朝、目が覚めたとたんにまた「どうしよう、どうしよう」になってしまえばそれは朝から疲れてしまいます。そこで、元気になる食べ物を食べてみたり、食べてはいけないものを決めてみたり、と入れるもので調整したりというのも全く無駄ではないと思いますが、私はこの「どうしよう、どうしよう」という思考により、エネルギーが大量消費(だだ洩れ)してしまうことが原因だと思っています。

普通に食事をして、仕事をして(体を動かし)、お風呂に入り、睡眠をとっているのに疲れる場合はちょっとこのあたりを観察してみてください。そして「どうしよう、どうしよう」と考えているのもパターンなのでケアと白の選択は必要です。

また、できそうであれば、自分で楽しい、わくわく、明るい、幸せ、という意識をハートで作り、それを体内でふくらませてください。これらは失われたエネルギーを一瞬にしてまた満たしてくれますし、今満ちているエネルギーをリフレッシュしてくれます。これはとてもいいですよ。あとは実際体を動かすのもすごくいいです。

満ちたエネルギーがあることで得られることは元気になることだけではありません。アイデアがわいたり、何かに気づく頻度が上がりますし、ひらめき、直感もさえます。それもまた楽しいです。

結局、本来の姿であれということですね。

それはーーー無理でしょう?
2020/05/11

・・・・成長と進化・・・・

パターンはこれについて「成長しなくちゃ、進化しなくちゃ」と思っています。ですから他の人と自分を比べ、もっと頑張って成長しよう、進化しよう、自分は遅れている、できていない、と言います。

しかし、頑張っているわりには不快感が続き、もんもんしていて、何より疲れる。なぜならば、パターンが望んでいるそれなので、まず手に入れることは無理だからです。

それは先へ進んで理想の自分になること、高みを目指すこと、一切ぶれないようになること、ネガティブな感情がわかないこと、または、それに惑わされないこと、などだと思いますが。それはーーー無理でしょう?人間はそう創られていないから。

「私」は成長・進化を違うようにとらえています。

もともと神の子として生まれてきた人間が、自分の力で成長・進化していくために、生まれたと同時に「私」を忘れ、両親や周りの人たちからパターンを刷り込まれ(過去世から受け継ぎ←けっこうこれがある)自分でも作り、その作業のおかげでまずパターンで生きることを全員がします。

しかしパターンで生きているのでその結果を受け取ることになり、それは苦しい、つらい、悲しい、怖い、うまくいかない。ああーーもう嫌だ、もう、こんなに苦しむのは嫌だ、と感じてそして、そこからパターンで生きることを辞めるという作業を「私」が行うことで本来の自分を思い出し「私」の望む生き方(白パターンの選択)をしていく・・・という「元に戻る」ことが「私」の成長と進化なのです。

ここには先に進むはないでしょう?理想の形も、高みを目指すも、一切ぶれないも、ネガティブな感情がわかないこと、惑わされないこともないでしょう?「私」はいつもここにいて、そこで成長と進化という本当の自分を思い出す作業をしたいんです。それが神との約束だったからです。

どこにも行く必要がない、そして、自分にしかできない、時間もかかる、こつこつやるということももちろんわかっています。成長・進化と聞くとどきどきしてしまう、焦ってしまう、重く感じる・・というときにはパターンがそうしようとしている・・ということなんだな、と思ってください。

許しは人を生かす
2020/05/10

語りかけをやっているうちに、どんどんパターンをこなしていくみたいな感じになり、知らず知らずのうちに、そのパターンをどうにかしようとしてしまっていて、気付けば違うところにいたということがあります。

どんどん、知らず知らず、というのはパターンの特徴なので、語りかけをパターンがやってしまっていることもあります。そうなると、パターンが膨大にふくれあがるような感じを受けたり、あーーーいつまでやるんだ、とか、パターンと向き合うのも嫌で嫌でとなってしまいます。それは語りかけをしているパターンの考えているこんな楽な状態を手にするために行われています。

「私」は今のままでいいと言っています。どんなパターンの存在も許しているし、そのままいていい、と言っています。パターンが「私」によってケアされるというのは、存在を許してもらうということです。その信頼と安心からパターンは落ち着きます。それはパターンが思っている楽な状態とは違うんです。

例えば、先日の私のように怒り大爆発も「私」はOKなんです。だってパターンにひっかかってそうなのですから。そこに「そんな自分じゃだめ」とか「カウンセラーとしてのレベルが低い」というパターンが登場すると、そのパターンが怒っているパターンを嫌い、早く静まらせようと「私」になりすまして語りかけをします。語りかけは「私」にしかできないことなので、誰が語りかけをしているのか注視することが大事です。

「私」には一切ジャッジがないんです「そうか、あなたはそうなのね」という感じです。ここで「そんな自分じゃだめ」「カウンセラーとしてのレベルが低い」などのパターンを見つければ、またそれを「私」が認めてあげます。「私」はいつも達観しながら自分の中に起きていることをそのまま見ています。ただ、起きていることとして。

そして、それを全部許している。許しは人を生かします。許されることでまた明るく生きようと思う。それを自分の全てに向けて「私」が行っています。だから誰でも大丈夫なんです。本当の自分「私」が自分の全てを許しているからです。

すぐにわからなくても大丈夫です(すぐにわかりたいもパターン)マスターへの道を歩いているようなものなので、どっしりとかまえて自分の成長を待ってあげてください。

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