ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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かわいいーーーーー!
2025/09/04

先日、買い物に出たときに、前から小学生の女の子(3,4年生くらい?)が歩いてきました。

髪をきっちりとアップにして、ピンでしっかりとめて、見るからにバレエをやっているんだろうなあとわかるようないでたちでした。彼女の身体からはみ出すように大きなリュックを背負って、歩いてきます。リュックの中には稽古着や、着替えや、シューズやこの暑さなのでタオルや飲み物や、色々と入っているんだろうなあと思いました。お母さんが用意してくれたのかな。

一生懸命に歩いている様子がとても健気で、私は思わず、目の前に彼女が来たときに笑いかけてしまいました。するとその女の子も私の顔を見て笑いかえしてくれました。「かわいいーーーーー!もーー、ホントにかわいい!」通りすぎてから口に出してしまった。

屈託ないその子の笑顔に、暑さもふっとび、清涼感さえ感じました。すごいね、笑顔って。一瞬にして人の気持ちを違うところにもっていくんです(笑顔のレベルはかなり高いと思います)

で、笑顔って何ものにも負けないものであって、誰もがその笑顔を持っているという事実。私は人の魅力の最強、最高なものはこの「笑顔」だろうと思っています。男女問わず。年齢問わず。

毎朝、鏡に映る自分の顔に向かって最高の笑顔を向けてあげてみてください。この笑顔で今日も1日過ごそうと思って。そして、その笑顔を今日、誰かに向けよう。きっとその人も自分の笑顔を思い出すから。こうして笑顔の波が広がっていくといい。

9月になり…
2025/09/03

「ネガティブな感情を、健全に、軽く、カラっと、した心意気で捉える」ということを昨日書きました。

ネガティブな感情をそんなふうに捉えられるわけないでしょ、と一般的には思います。だって実際つらいし、面倒なものだし、嫌なもの、何と言ってもそれに苦しめられているのだから、ということだと思います。

じゃあ、何故、ネガティブな感情に対して健全に、軽く、カラっとした心意気で対峙していくことができるのか、ということですが。それは、自分の内に起きたネガティブな感情が他人や、物事のせいではないことを知っていて、その在り方が身についているからです。

逆を言えば、他人や物事のせいにしているうちは、ネガティブな感情に対して、健全に、軽く、カラっととした心意気にはなれません。そうされてしまっている、という犠牲者として自分を見ています。

私たちはワークや自分を見続けることを通して、自分の内に起きていることは自分の責任(自分が選んだこと)という事を体験しています。そしてそれが身についてきていると思います。そうなって初めて健全に、軽く、カラっと、ネガティブ感情をみるという事の意味を全身で理解します。

このように、新なスキルを身につけていくと(ここでは自分で引き受けること)そこからまた、新な目を持つことができて、新な世界を知るようになります。ここはとても不思議でおもしろいところです。

何かをひとつ身につけると(身につけているということは、何かを捨てています。スペースに限りがあるので)次があらわれます。そしてその次を身につけると、また次が現れる。こうして誘われるようにして、自分の成長が促されていくのです。

これを思い、感じたときに、何かの力が働いているといつも思います。そして、それは私だけに特別に起きていることではなく、皆に起きていることです。そこに気づいているかどうかなんです。私がそういう話をするとそれは先生だから…と思うかもしれませんが、あなたもそうだよね、ということです。それに気付くという事自体が新なことなのかもしれません。

9月になり、これから後半はより早く過ぎていくと思います。振り回されないように、しっかりと自分の足で立っていこう。そして、この波に乗っていこう。

ネガティブな感情
2025/09/02

ネガティブな感情というのは、重く、やっかいで、もやもやし、悩み、苦しむ…と思うと思いますが、これもパターンがそう決めていることなんです。「私」はそうは思っていない。

パターンがネガティブな感情ってそういうものだよ、と決めていてそれがリーダーとなり心を支配している状態です。これは強ければ強いほど結果苦しくなります。

しかし、そもそも(←これが好き)あらゆる事象は意味がない状態で存在しています。だからネガティブな感情に対しても同じはずです。それなのに、どうしてこうも良くないものとしてネガティブが存在してしまっているのか。それは、そう決めているパターンを信じているから。「私」が機能していないから。ポジティブはいいもの、ネガティブは悪いもの、というパターンの判断を自然に当然に信じているからです。

でも、ここに新な意味づけを持ってくることはできるんです。ネガティブな感情への意味づけ。マイナスの意味づけから出て来るものですが、ここにもプラスの意味づけは出せます。それを自分でみつけてみます。けっこうあるのではないでしょうか。意味づけは思考的作業です。

では、感覚的(心身として。思考的より実は大事)にはどう捉えるのか、というと、ネガティブな感情をライトに、カラっと、捉えることをやってみます。嫌い、苦しい、つらい、大変、くやしい、さびしい…などなどのネガティブ感情はあってあたりまえです。それを大袈裟に重く、深く、固定化しているのがパターンなので、本来の在り方に近い捉え方をします。

具体的には、健全に人を嫌いと思う、軽く堂々とつらいと思う、オーソレ・ミオでくやしいを感じる、気楽に苦しいと思う、カラっとさびしいと思う。などなどです。これも練習です(頭で理解してもできないから)この心意気を自分の内に持つということです。そしてそれを繰り返すことです。だんだん、これに慣れていかれるように。この感覚があれば、もっと自然にネガティブな感情について自分自身でも受け入れられるし、開示することもできます。そうであれば、ネガティブな感情はその個性が違うだけで、ポジティブな感情と同じとも言えます。ここへの差別もなくなる。これってよくないですか?

健全にネガティブな感情を感じよう。それは自分を必要以上に傷つけたり、自分をそこで停滞させたりするパターンが入り込めないところのものです。「私」の領域のものだからです。この感覚が少しずつわかっていくといいです。

何を信じている人間なのか
2025/09/01

結局、何を信じている人間なのか…というところに集約されるのだろうと思っています(今は)。

そこにも、今に辿り着くまでの、数々の信じてきた物事の軌跡があり、それらを体験し、卒業しながら今のそれに辿り着いたのだと思います。

で、そこには正解はなく、その人にとってのそれなので、誰もが何を選んでもいい。

私は、ここのところお世話になっているお二人の整体の先生との対話(これが大きい)マンション内でたまに話をする方や、TVで見るプログラムや、SNSで見聞きすることや…全て、そこにはその人が信じている物事というものが基盤にあってのそれなんだとわかるようになりました。

それが良いこととか良くないことということではなく、そうなんだ…という理解です。

で、私は何を信じているのか(これは道場の在り方とか道場でのセミナーとかカウンセリングにおいても自然とそれが主になっているのですが)というと、この宇宙にはそもそものルールがあり、それに沿って生きることで、必要なものごとは与えられるということを…です。

だから自分を成長させるとは、進化していくとは、このルールに沿って生きる自分に戻る(再構築)ことだと思います。そもそもの人に戻る。そこに、いいあんばいに物事がまわることが与えられ、より戻るための気付きが与えられます。で、気付けば、すっきりと、軽く、心配や不安や恐怖から離れた生き方が自然とできていた。結果、生きること自体が楽になる。

そうは言っても、私も100%そうなっているわけではありませんが、そこへの視点はかっちりと自分で決めていて、そこへの挑戦を継続しています。過去世でやってこなかったこれをやりたいんです。今世で。従って、道場もそこに基づく学びを、これからも続けていくことになります。そうやって、そもそもの人として、生きて、その人にふさわしい与えられるものを受け取りながら生きることを伝えていきたいと思っています。得るために、変容のために、と、頑張る今までのやり方ではなく。

だから、ひとりで頑張らなくていい。

アンテナ
2025/08/30

アンテナを張る…ということ。特にビジネスにおいては必要不可欠なこと。だからアンテナを張っておきなさい、とよく言われます。アンテナを張ることの意義は、それによりあらゆる分野の情報を取集できる、ひいてはそれは自分の仕事や、成長に役だつということなんだと思います。

新しいものにも敏感でいられる。その時の主流になっているものにも反応できる、より積極的に手にしていくという感じがする。

しかし、これは私にはなかったと気づきました。私はアンテナを張るよりは、心を開く、だったのだと思います(今も変わりなく)そしてアンテナを張ることで得ていくよりは、与えられるのを待つ、だったのだと思います(こちらも今も変わりなく)。

このほうがこの個体には合っていて、それで必要な物事は与えられてきたので、だからこれからも必要なときには与えられるだろうと思っています。必要ではないときには与えられませんが。それを創造してきたとも言えます。そして、それでよかった。だから、これから先も私はそれでいくのだろう。

与える存在は、多分、私の心身のスペースもわかっていて、または、管理能力とか、個性とか、魂の今世の課題とか、今までの魂の歴史とかもわかっていて、それ相応のものごとを必要なときに与えてくれているんじゃないかと思うんです。

自分で頑張っていくというよりも、そちらにおまかせして、私はそこで使うエネルギーをもっと違うところに使いたいと思います。逆行しているような在り方ですが、これもひとつだと思います。ただ、これが正しいのではないです。

自分にとって何が大切なのか、何が自分に合っているのか。それは一般的に言われている(その領域で言われている)ところにはないです。もちろん、その領域で成功しようと思ったら、そこのやり方や概念で挑んでいくしかないので、それを屈指できればいいと言えます。それが自分にとって大切なことだと思えたらそこで頑張ればいいんです。

大事なことは、それが自分にとって守り抜きたい大事なことなのか、自分に本当に合っているものなのか、です。盲目的にそれを信じてほとんどの人は生きているので、その中にありながらも、ここで疑問を自分にぶつけるということだけでも、階段をのぼっていることになります。そして、その疑問に対して正直であることです。正直であるから、与えようとしている存在が、次につながる必要なものごとを与えてくれるんじゃないかと私は思います。実際、与えられたものごとは、次への指針となり、歩むべき道が見えてきます。これって人にはできないことだと思います。

いかに自分に使うか
2025/08/29

今年からの体調不良にともない、今、私はお二人の整体の先生のお世話になっています。

お二人とも若い。多分40代前半。もっと施術してほしいと思うのですがお二人とも「そんなにやらなくていいです」とおっしゃいます。

そしてお二人がみたてている私の心身への見解も同じです(それは自分では気づいていないところ)お二人から感じる印象も似ています。お二人ともAIを屈指し、なおかつ、目に見えない世界のことも学んでいて、そこへのご自分のセンサーを大事にしています。そしてお二人とも謙虚です。それはうわべのことではなく、今まで、嫌な思いや、辛い思いをたくさんして、鍛えられてきた賜物だと感じます。

でーーーーー、気付いたのですが、私にとって施術は、自分自身への気付きであったり、先生から課題をもらってそれを行うことであったり、新に疑問を持つことであったり、先生のおっしゃっていることへの質問とか自分の考えとかを伝えたりと、施術を超えて、自分の知的好奇心を満たすひとときになっていると思いました。そちらの方へ私が傾きすぎると先生は今の身体についてのところに話を戻す。そのあたりの暴走しやすい私の偏りもわかっているのだと思います。

で、ここからが本題で。良い先生に巡り合ったことへの感謝はあります。しかし、それが絶対ではないということです。それはその先生たちが伝えていることを鵜呑みにしてはいけないということではなく(その担当分野にいるということですからそこは素直に受け取ります)この世に(人が作ったものに)絶対はないということを知らなくてはいけないということです。そういう意味では「魂の道場」も絶対ではありません。そう認識できると、この世に依存できるものごとがないこともわかると思います。

大事なことは、出会いや、機会や、体験したことや、それら全てをいかに自分に使うかということなんです(創造です。そして、創造が自立です)ここはたくさん持っているといいです。もちろん、何を持つのかを吟味することは大事だし(スペースは決まっているから)持つことは、もちろん、そこへ依存するということではありません。あくまでも、自分にとってのそれをどう使うのかです。これが自分はどう在りたいか、というところです。何があっても自分はどう在りたいか…。こうして創造し続けていく…という道を歩み出しているんだ、自分、と思っていてください。

必要なのは柔軟性
2025/08/28

お世話になっている整体の先生は、身体にビタミンが足りていない、とか、塩分を入れてバランスをとろう、ということがわかるのだそうです。

その話を聞いたときに思わず「いいなあ――先生の半分でもいいからそうなりたい」と言ってしまいました(先生、爆笑)これこそ身体の声を聴く、ということで、先生のようにわかれば、必要なものを身体に入れてあげることができるし、不必要なものは省くことができます。

先生も、そこに辿り着くまでには、色々とご自分の身体を使って、試してみたり、やめてみたりしながら、自分のそのセンサーを創られたのだと思います。

で、私は、これが全くといっていいくらいわからないんです。たまに、無性にレタスが食べたくなり数日間ばりばり食べた、とか、風邪で調子が悪いときに、とってもぬかづけが食べたくなる、とかはありましたが、そんなもんです。先生から「伊藤さん、身体が欲しているものを食べてくださいね」と言われますが、先生のようにはわからない。

「ご飯を食べた後に、ああ、美味しかった、と思うのですが、これも身体の声を聴くということなんでしょうか?」と聞いてみました。すると、それでいいんだそうです。今、何が必要かが食べる前にわからなくても、実際食べたものに対して美味しいと思ったということは、身体は今食べたそれが欲しかったということなので、そうやって身体と食べ物を見ていけばいいのだそうです。

そして、自分の身体は、こういうものが美味しいと感じるのか、とか、今日は少し疲れたけれど、そういう時は、これを美味しいって感じたんだ、とか、少しずつ今の自分の身体を知ることになるのだそうです。なるほどなあと思いました。

運動についてもそうなんだそうです。ウォーキングが身体にいいから、足腰を鍛えるために、というところで歩くのではなく、歩いていて、楽しい、と感じたり、歩調のリズムを心地よく感じられたりするのであれば、今、身体はこの動きが欲しかったんだということになります。

ただ、今の自分にとって、を忘れてはいけない。なぜならば身体は毎日変わるからです。絶対これ、が、ないんです。となると、必要なのは柔軟性だと思う。そして、完全なるものを求めないということだと思います(そもそもそれはない)決めてはいけない、というところでしょうか。心についてはそれを体験してきているので、それが普通になっていますが、身体についてのそれはまだよくわからない。先生に言われた通り、今がそれを学んでいくときなんだと思います。

自分にとっての身体、というところで模索し続けていこうと思います。

私は、私が、がないから
2025/08/26

先日、TVで「93歳の新聞記者」という番組を見ました。以下その紹介文です。「涌井友子さんは93歳。中野区のローカル新聞「週刊とうきょう」の現役記者だ。バスと電車を乗り継いで自分の足で区内を回る毎日。取材・執筆・校正、時には配達まで手がけ、地元の出来事を中心に月2回発行する。戦時中、報じられる情報から勝利を信じていた少女は、戦後、4人の子どもを育てながらペンを握った。新聞、雑誌、ラジオ、テレビ、ネット…めまぐるしくメディアが変わり続けた93年を彼女の言葉でたどる。(ドキュメント 20min.より)

画面には93歳の現役新聞記者の姿が映っていました。杖をつきながら取材先まで40分かけて歩き、取材先の関係者の方に「週刊とうきょうの涌井です」と挨拶をし、その後は取材用のノートとペン、ボイスレコーダー、カメラを用意して現場を取材します。帰ってきてからは取材の内容を執筆し、長女の方に原稿起こしをしてもらい、その後、何度も校正、そして印刷に出します。

私はただただ、目が点になってしまった…。93歳ですよ。すごい…では終われないぐらいのまっすぐな気迫を感じました。押しつけがましくなく、私、現役なんです、頑張っているんです、と自己主張することも全くなく「公平に誰にも肩入れせず、事実をたんたんと書くようにしている」と、おっしゃている姿には50年間続けてきたプロの記者としての在り方がにじみ出ていました。

93歳でどうして、ここまでの仕事ができるのだろうか。いや、できるとか、できないとかということではないのかもしれません。月2回発行するのだから、それを途絶えさせないように、そして中野区の催し物や、出来事をこの地区に住む人々に伝えるために、そのためだけに日々、続けていく、というとてもシンプルで純粋なことなのかもしれません。

ご高齢でいらっしゃるから、痛いところや、不都合なところはおありだと思います。しかし、それよりも月2回の発行のほうが上回っているのかもしれない。その心が、何かを動かし、仕事として続けさせているのかもしれません。

今、SNS上ではおしゃれな高齢者や、カリスマ高齢者や、美魔女高齢者などが次々と登場しています。それはそれでご本人がよければいいわけです。そして、世間的にも、そういう高齢者に憧れ、自分もそのようになっていきたい、という人が多いのだと思います。そうであればより、そこは増えていく。しかし、そこで感じるものは「私を見て!」というものです。

涌井さんは、そういう高齢者の方達とは、異質な「意思」を感じる方でした。私個人としては、とてもかっこよさを感じ、惹かれました。自分の「意志」自分の「哲学」そういうものが無意識のうちにもあふれ出しているのも、そこに「私は、私が」がないからだろうと思いました。中野区に住む人々のために…というところが涌井さんの基本になっていらっしゃるのだろうと思います。こんなに素敵な先輩がいらっしゃる。それもとてもうれしかった。

魯山人の器
2025/08/25

散歩のときに、茅ヶ崎美術館前を通る…というコースがあります。一昨日、このコースで歩いているとき、美術館の展示案内を見ました。

「うつわの彩り−吉田耕三と北大路魯山人 」8月24日まで。見に行きたいと思ってはいましたがまだまだ展示期間中だから大丈夫…と思っていたら、24日が最終日であることに気づく。

そこで昨日、朝一で茅ヶ崎美術館へ行きました。見てみたかったのは北大路魯山人の器でした。実物を見るのは初めてなんです。北大路魯山人は、陶芸だけではなく、篆刻、絵画、書道、漆工、料理などで活躍された方です。ひとつのことだけに才能を発揮する方は多いと思いますが、これだけのことを行うことのできる才能の持ち主。天才なんだろうと思います。

で、魯山人の器です。日常使いのものがほとんどです。料理家なので、その料理がよりおいしく見えるような器、というところで創作しているものなので、いわゆる「作品」ではない器が並んでいました。

おおげさではなく、きっと使いやすいだろう、厚みがあり扱いやすく、手にもおさまりやすいのかもしれません。料理が好きな人ならきっとこのお皿にはこんな料理をこのように盛ってとイメージもわくのだと思いますが私にはそれはないので、器を器として見て回りました。

魯山人の器には、日常使いのものとはいいがたい何かがありました。こちらの心に伝わる何かが。自分の内に小さな感動が生まれているのを感じました。それは器を見ればみるほど、大きく力強くなり、器を見て感動するという初めてのことにまた感動。

大袈裟に言えば、器なんですが生きていると思えるのです。息をして、そこに存在している。だからその前にいると、対話もできるんじゃないかと思える(しなかったけれど)。その息(命)をいただいて帰ってきました。

で、後から思った。クラスを行っていて時々感じるそれ、カウンセリングをしていて時々感じるそれ、ピアノを弾いていて時々感じるそれ、絵画を見ていて時々感じるそれ、本を読んでいて時々感じるそれ、おうちでバレエ程度のものからも時々感じるそれ。それと同じだ…と。それを一言で言うと、それは私の内におこる小さな感動で「これがあれば生きられる」というものです。これがあちこちに広がっていっている、それは一瞬でやってくる、飛び込んでくる、心が一瞬でキャッチするということを認識しました。

そして、多分、マスターたちは、それを自分の内で創りだし感動とともにある生活をしているのだろうと思いました。感動とは心の中の神が動くことだと以前教えていただきました。もしかしたら最も神を感じやすいことなのかもしれません。これは五感とは別のところにあるものです。

自分の感動を大切にしよう。そして感動したときには自分の内にいる神が動いたんだと思うといいと思います。

人生ってダイナミック
2025/08/24

あの空き地の件は、大人になるにつれて忘れていきました。

そして、多分50代の頃だったと思います。さくらももこさんが描く、自身の少女時代をモデルとしたコミック「ちびまるこちゃん」の漫画を読みました。自分では購入はしていないので、どこかで読んだのだと思う。現在、1巻から18巻まであるようです。

終巻まで読んだ記憶はないのですが、その中の何巻かに、あの体験と同じことが描かれているのをみました。

それは主人公のまるちゃんが友達数人と下校途中に、今まで気が付かなかった空き地(公園っぽい)を見つけます。とてもきれいで気持ちのいい空き地だったので、皆でそこで、しばらく、楽しく遊びました。明日も学校の帰りに皆でまたここで遊ぼうと言ってそれぞれが家に帰ります。そして次の日、皆でその空き地に行こうとしたのですが、その空き地が見つからない。あちこち探してみたけれど、見つけられなかった‥‥と言うお話でした。

これはフィクションなのかもしれません。またはさくらももこさんが子供の頃に体験したものなのかもしれません。または、そんな体験をした誰かから聞いた話だったのかもしれません。いずれにしても、これを読んだときに、あれは、実際あったことだったんだ、と思いました。大人になって、かえって素直にそう思えました。

自分が学んできたことや、教えてくれた先生方の言葉や、そのころに読んだ本や、実際自分の身におきた数々の不思議を総合して物事を捉えるようにだんだんなっていっていたからだと思います。

起きていることは単独で起きているのではなく、何かと何かが繋がれているように、何かを教えるように、起きていると思うようになっています。人にはまだまだわからないことはたくさんあって、だからこそ、生きることの意味がある(時には怖い思いもするけれど)。

先日の、どこか異次元に入り込んでしまうような、という、夕方の散歩も、この「ツユクサ」のことを再び浮上させてくれました。今、それが出ている。夕方の散歩によって。これも、偶然ではないという捉え方ができます。ここから何を私は学ぶのか。そして、それはどこに繋げようとしているのか。それを実は皆心の奥ではわかっているんです。それを顕在意識に上げてくるためにいろんな出来事があるんだろう、と思います。

ここまでくるのに「ツユクサ」が一役かって出てくれていたんだと思うと、あらためて人智を超えた何かの意図を感じます。自分の今までを時々振り返り、点と点が結ばれていくような軌跡をみつけていくのもおもしろいと思います。人生ってダイナミック。

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