ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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鍛錬
2022/08/03

・・・・・鍛錬・・・・・

道場ではワークや熟考を通して、それぞれに自分で自分にそれを行っています。

で、この鍛錬というのは何ごとにも耐えられる忍耐力、何ごとにも負けない強さ、と思いやすいかもしれませんが、そうではありません。

では、何を鍛錬していくのか。それは、真理に向かって歩ける自分になることを鍛錬しています。真理に向かってと言うと、また、そこで、イメージとしては聖人君子になることと思うかもしれませんが、そうでもありません。

ひとりひとりが「私」として、その人の本来の生き方ができるようになることが、自然と真理に向かって歩んでいくということです。

これはいろんなお稽古事とか学びとかスポーツもそうだと思うのですが、まずは、指導者や先生から教えてもらい、それを繰り返して自分でやっていくうちに(うまくできたり、できなかったりを繰り返しながら)自然に身について、活用していることに気づきます。このときには、それがその人のものになっている(腑に落ちている)という状態です。

こうして自分自身のエキスパートになっていきます。他の誰でもない、自分だけのです。

そこには自分だけの柔軟な知恵があり、その知恵に基づいて生きればいいんだということも理解できるようになると思います。

人生をスムーズに生きるためにいろんな人がいろんなことを言いますが、それはその人のものであり、大切なのは、自分のそれを作るための自分でできる、安全な方法を伝えることだと私は思っています。と言いながらも、私がやってきてよかったことを伝えているということなんですが。

昨日、本屋さんをぶらぶらしていたら、60歳からの生き方に関する本が何冊もおいてあり、ぺらぺらと見てみました。

その中には「もう不必要なものごとは手放す」とあり、例えば、年賀賞、冠婚葬送、健康診断、義務だけの人間関係、白髪染め、などなど書いてありました。私はほぼほぼそれらから解放されてはいるけれども、時には、そのどれかが必要になるときもあるし、それはそれで選べばいい、この通りでなくていいと思いました。

又「毎日明るく、楽しく暮らす」」とありましたが、人は寂しい日も苦しい日も腹が立つ日もあるのが本来の在り方なので、これはいらないな、とも思いました。

というように、自分自身のそれを作っていけばいいんです。自分の個性に合わせて。となると、いかに自分を知っているかということになります。自分を知るために、あらゆる物事が(この本もそうですね)自分の周りにあるんですよ、だから、そこから自分を知ろう、というところにつながります。

教えてもらっている
2022/08/02

毎日、酷暑です。こういう時は、頑張りすぎず、無理しすぎず、いつもより、身体の声を聴きながら過ごすことがいいと思います。

私もよくやるのですが、ちょっと休みたいなあと思っているのに、これを終えたら休もう、ってやつ。頑張ってやって後からゆっくり休もうとしてしまう。こういうときには休んでからそれをやるというようにするといいのだそうです。こういうときの休むって、3分でも、5分でもいいんだそうです。

このわかっちゃいるけど、できなかったことを今年の夏は後押ししてくれそうです。

こうして自分の意思だけでは動かなかったことを、何かが手を貸してくれるということがけっこうあります。よく考えてみれば、今までもそれの連続であったと思います。

例えば、食べ過ぎて胃が痛くなる、ああ、また食べ過ぎたと思います。あの、大好きなおせんべいを食べ過ぎた。食べている途中で、もう、やめたほうがいいと身体は教えるし、頭でもわかっているし、あとは自分の意思だけ、そしてやめる勇気だけ、ということもわかっているのにだらだらと食べる。で、痛くなる。

しかし、それによりこれからはどうするのかを教えてもらっていると言えます。胃が痛みをともないながら教えてくれているし、大好きなおせんべいもこうして教えてくれる。教えてくれるものたちがいるのだから、学ぼうと思います。

何かに励まされる、癒されるというのも同じです。本来は自分で自分を励ましたり、癒したりができるのが人間です。が、何かがあり、ダメージをうけたときに、何かにより励まされたり、癒されたりするという事ってあると思います。

これもそれらが教えてくれている。こんなふうに癒すことが自分でできるんだよ、どうしていったらいいと思う?と。励まされたり、癒されたりが悪いということではないですが、それらが全くない生活になったときにどうするのか…と教えてもらっていると私は感じます。

素晴らしい自然も、芸術も癒してくれるものなのではなく、そこから感じるエッセンスを自分の中に見つけ、育てて、自分自身が自然になり、美になることを教えてくれていると思います。

そう考えると本当に多くの自分を育ててくれるものに囲まれて生きていることがわかります。後は自分がそういう在り方を選択するかどうかです。ずっと励まされ、癒される立場でいたいのか、自分自身を励まし、癒す立場でいたいのか。

新人類
2022/08/01

それにしても暑い。まだしばらく、この暑さは続きそうなので、どうぞご自愛ください。

さて、いつもクラスでのセミナーは、そのときの話の流れで、もしくは、ふと思い立ったことから話が展開していくことが多いです。今回の茅ヶ崎クラスもそんな流れにのって話が展開しました。

けっこう、ガーーーーンという話だったと思います(笑)

すごくざっくり言ってしまうと、私たちがごくごく普通だと思っていること、当然だと思っていること、信じて疑わないこと、ずっとそうだと思ってきたことを「そうだから、そういうものだから」という、そのパターンの領域にいるのか(それは、それを選んでいる、決めているということなんですが)それとも「そうではない」という領域(これは新な自分の意味づけをもってそれにおよぶ。それを選ぶということ)もある、ということです。

例えば、妻であれば、家のこと全般をやるのは普通。給料をもらっているということは雇ってもらっているということ。仕事場は厳格に上下関係でできているとか。自分は学歴が低いからこのぐらいしかできない。病気の人は可哀そうな人。こういう人が認められ、こういう人が認められない、とか。これらすべてがパターンの領域のひとつの意味づけでしかないということに気づくことです。

そしてほとんどの人がそのひとつの意味づけを信じているんです。だって、そうでしょう?と意味づけしながら。こうして自分で決めている、だから今の自分の現象が起きているということ。

しかし、だったらそう思わないようにしよう、という事ではもちろんありません。又は、だったらそこから離れるか、ということでもありません。その皆がいる領域の中に自分がいながら、いかにそこでの確固たる信念に飲み込まれないで家事をやったり、仕事をしたり出来る自分に変容していくのか、というところをやっていこうという話です。

それは、今いるところで、精神性(霊性)はそこにいないで物体の自分がそこにいるという感じです。難しい…と思わなくていいです。実はシンプルなことで全て、本当に全て自分が何を選ぶのか(自分がどう意味づけをしているか)だけです。

これについては、日記で書いただけではわからないので、また必要なときがやってきたらそれぞれのクラスで話たいと思います。

私の例を一つ話すと、年々老いていく自分を感じています。体力は特に。脳の機能も大丈夫か?と思うこともやらかすし。「加齢」によるもので仕方ない、というのは物理的に在ります…が…加齢=衰えると言う意味づけだけではないわけです。で、ある日思ったんです「私、新人類になっているんだ」と。笑っちゃうような意味づけ。「そうかあ、進む先は新人類なのかあ。誰も見たことのない新人類」その意味づけは私をフレッシュにします・・・・(良い気分のものは自分にとっての真理)という新な意味づけ。

こんなふうに自分だけのものでいいし、なんでもいいんです。そんなふうに、自分で意味づけをしていく。それは自分が選んだこと。そして、その選んだことによってどんな結果が?ということはおまかせであり、自分が選んだことに自分の誇りや喜びがのっていれば。この世を渡っていくためのスキルです。

人は表現したい
2022/07/28

しかし…暑い。

それでも今年は熱中症の症状が出てないので、助かっております。もしかしたら、毎日聞いているクラシック音楽で身体が洗われている感じがするのでそのおかげかもしれません。

ピアノ曲から、ピアノ協奏曲へ、そして、交響曲へ、そしてオペラへ…とどんどん聞くものが広がっていっています。とにかく膨大な数の曲があるので、自分がその日に聞きたいものを聞いています。本当に美しく、魂がゆさぶられるような曲がたくさんあります。

そうして、思い出したこと。ピアノの先生によく言われたことです。「絵を描いて、そこで自分が踊っているように」ということ。そしてバレエの先生に言われたのは「もっと歌って」でした。私は絵は習ったことがないのでわかりませんが、もしかしたら「歌って。もっと踊って」と言われるのかもしれません。

心にその情景を思い浮かべて描いてみること、歌うこと、踊ることは一緒なんだろうなあと、これも今になって思いました。

いずれにしても、それらは想像することのおもしろさとか、表現することの楽しさであり、人は自分の感じたことを、心が欲すことを、表現したいものなんだと思います。

表現というのは、こういう(いわゆる芸術に関する)ことだけではなく、自分がどんな生活をしたいのか、とか、どんな仕事をしたいのか、とか、どんな部屋に住みたいのか、とか、どんなふうに時間やお金を使いたいのか、とか、どんなふうにありたいのか、とか、とか、も自分を表現する(心が求めているもの)ものになります。

誰でもが自分を表現して生きていいんです。本来、だれでもがアーチストなんです。そして、その作品を愛でるのも自分です。

しかし、自分はそうできないと決めてしまっている人たちのほうが多いです(パターンです)そのパターンで生きていくと、どうしても、自分という作品をつくることよりも、誰かの作品に自分をあてはめて、そこに、自分を組み込ませて生きるということになります。もしかしたら誰かの作品は四角なのに、そこに三角の自分を組みこむことをしているのかもしれません。

この常識はとても強く、あたりまえのことになっています。ここをどう考え、どうしていきたいのか、というところです。今日は茅ヶ崎クラスです。今回も、がっちりと、楽しくやってきます。

自分の価値
2022/07/27

自己探求を勧めている「魂の道場」ですが、自己探求って、深刻になって行うことではないです、と言って、適当にやればいいってものでもないですが。

探求する(それも自分を)となると深刻になってしまって、自分が苦しくなってしまう方がいます。そこには、こうなるべき、こうあるべき、きっとこうなる、それを目指すということが働いているのだと思います(私たちが受けてきた教育がそうだったので、どうしてもそれで行おうとしてしまいます)そうなると自己探求はひたすら苦しく、面倒くさく、嫌でもやらなくてはいけないことになります。

その先にきっとこうなっている自分が待っているのだから、それを手にするまで頑張らなくてはいけないと思います。

自己探求って、特別な世界にいくことではなく、特別な力を得ることでもなく、特別な自分になることでもありません。もちろん他人から賞賛されたり、他人に慕われることでもありません。自己探求は、他人に見えるものではないので、本当に個人的な内的作業になります。

スポーツをしている、仕事で活躍している、などは他人から見えるものなので皆にわかりやすいですが、そういうものごととは違うところにあるのが自己探求です。

自己探求は、この地上に生きている間、いかにして、自分と自分の人生に軋轢なく生きるかを見つけ、身につけていく生きる知恵の道だと思います。自分に軋轢なく、は、いかに自分を好きになって生きていくかということでもあると思います。自分に対してぎくしゃくしない、そんな知恵を体験を通して身につけ、それを使って生きる。そのほうが楽だからです。そして、自分に向けられていたそれは自然と他人にも向けられます。

自分を好きになるってどういうことでしょう。それは自分の価値を知るということです。しかし、その価値は、他人よりもこれができる、とか、これだけ認められている、とか、これだけ稼げる、とか、こんなにうまくいっている、というような、何かによって消えてしまうものではありません(そういう領域もある)価値は比較で成り立つものではないです(こういう領域もある)

自分の価値って?と考えてみてください。

勇気とも親しくなる
2022/07/26

合同セミナーで、ニーバーの祈りを紹介しました。

・・・「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気(と強さ)をわれら(私)に与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さ(勇気と強さ)を与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」ラインホールド・ニーバー(大木英夫 訳)()内は私が入れた言葉です)・・・

祈りは感謝と宣言(と私は思う)今までの感謝の祈りに、この宣言の祈りをプラスすることで、ひとつになるような気がします。

そして「こういう自分になります」という宣言の中に、与えてもらいたいものが入っています。与えてもらいたいものは、物質ではなく、精神性に関わるもので、この祈りが気持ち良いのは、精神性に関わることを自分が望み、それを与えてもらいたいと思える自分になっている(なりつつある)ことが気持ち良いのだと思います。

今の状況に感謝することと、これからの自分に向かっていくことを宣言すること、そこに明るさ、健全さ、希望などが感じられる祈りです。

で、与えてもらいたい勇気というもの。あらゆる領域において、勇気はずっと使い続けるものです。誰でもが自分の人生において、勇気を使わざるを得ない場面が出てくるようになっています。それは、人のそもそもの望みなのだと思います。

「どうありたいか?」という問いに「人に優しくありたい」「人を許せる自分でありたい」「保身で生きることをしない自分でありたい」「柔軟に強くありたい」「自分に正直でありたい」などなどあると思います。それには全て「勇気」が必要になります。

望みは、今まで体験したことのないことなので、そこへ向かうためにはどうしても勇気がいります。勇気を出さずにそれだけ欲しいというのは無理です。何ごとも勇気とセットになります。

で、そんな勇気に向き合えない、使えない、逃げたいと言う人がほとんどです。これを聞くと、勇気を使うということがものすごく重大なことの様に捉えているのかもしれないと思うんです。生きるか死ぬかくらいの重大さ。もしかしたらそんな場面も人生の中にはあるかもしれませんが、勇気をもっとカジュアルに捉え、普段から意識的に勇気を使うことをやってみることで、重大な場面でも普通に使えるようになるんじゃないだろうかと思います。

例えば、ずるずるとTVを見てしまう人が「勇気をもってTVをつけないようにしてみました」と話してくれたことがありました。これ、勇気です。「勇気を出して、自分の意見を言ってみました」「NOとはっきり言ってみました」「ごめんなさいと素直に謝りました」「お菓子を食べるのをやめました」「衝動買いをしていません」などなど、日常の小さなことですが、その人にとっては勇気を使ってやったことです。こういうものを増やしていきます。

その先にはいつも「どうありたいか?」があってそこに向かっています。これらすべてが意識的にあるということでもあります。小さな勇気を使って1歩踏み出す。この練習を日常的に繰り返して、勇気とも親しくなっていくといいと思います。

慣れるという能力
2022/07/24

昨日書いた、黒パターンはなくてはならないもの、ということ。

ミームの各領域の特徴、それを含んで人は成長する=必要ならばそれを使うことも可能。使う技量が身についてれば意識的にうまく使えるでしょう。

で、カウンセリングにおいてそれを使うときは、相手のところに降りていくというときに使われています。自分の中にもそれがあるから、だから共感できる=降りていかれる。もしくはそれについては薄らいでいて感覚としてわからなくなっているけれど、記憶として残っているのでそれを使う。わからなくなっているというのは、小さくなったから、つかわなくなったからということだろうと思います。

この、それを含んで、それを持ちながら、というところなんですが、この在り方が実はすごく重要なんじゃないかと思っているんです。私は、そういう在り方が好きです。

あるミームにおける特徴的なそれ、とか、黒パターンは、ある意味不調和な、不都合な、煩わしいもの、嫌なものと言えます。でも、人生ってそれの連続です。となると、どんな能力が自分に必要かを思うとき、不調和や不都合や煩わしいものや嫌なものに慣れる能力が必要になると思うんです(超えるとか、それに負けないとかではなくて)それを練習するために、各ミームの特徴、黒パターンとともにある心を持つようにもともとできているんだろうなあと思うのです。

心にそれを持ち続けることで、いやでも練習させられているようなものなので、人はそれにだんだん慣れていくわけです(その存在にOKが出ていればですが)

これは身体もそうなのでは?とこの頃思います。不都合な部分が年を取ればいろいろ出てくる。最初はそれを嫌がり、どうにか元のように都合よい身体にしようと思いますが、だんだんと身体自体もそれに慣れ(それをうまく含みながら)気持ち的にもそれを受け入れていくと、身体もそれなりにおさまり、心もそれでよしとなり、それを持ちながらも自分の落としどころをみつけていきます。

本を書いたときに出版社の方から「白黒ワークで白を選ぶ、ということは黒を捨てているということになるので、そこをはっきり書いた方がいい」と言われたのですが「黒は捨てていないんです。それをもちながら白を選んでいるんです」と説明をしたのですが、ここの理解はされませんでした。こっちを選ぶということはこっちを捨てるというのが一般的なのだと思います。でも、ここはゆずれないところ。

成長してミームが上がった自分、領域が上がった自分、白を選べるようになった自分にはもう黒パターンはない、ではないんです。あらゆるものに慣れることのできた自分として(小さく落ち着いた)黒パターンと一緒に生きていかれたら、私は十分だと思います。

自分の中に無駄なものはひとつもなく、全て天から与えられているものです。そして与えられたものには全て意味があります。慣れるという能力を身につけよう。

黒パターンはなくしてはいけないもの
2022/07/23

黒パターンがあるから自分は苦しむんだ、他人の言動がいちいちひっかからなければ、こんなにストレスを感じたり、不快になったり、怖がったり、びくびくしないですむのに。そうであれば、もっと自分がやりたいようにできて自分の夢も叶うのに。と思うかもしれません。

しかし、なくしてはいけないものが黒パターンなんです(黒パターンはなくしたくてもなくならないもの、と捉えているかもしれませんが、それは黒パターンに対して否定的です)なくしてはいけないもの、消えてしまってはこまるものが黒パターンです。

色々な黒パターンが持つその特徴は、自分がこの世を安全に生きる上で必要になるときがあります。じゃあ、何故、黒パターンを選ばないで白パターンを選ぶことを勧めているのかというと、今まではほとんどの物事を黒パターンで捉え、考え、それが自分だと思いこみ言動してきたので(その結果が問題になっています)その捉え方自体が違うことや、それに対する偏りを、整えていくために、今は、何ごとも白パターンを選んで…と言っています。

黒パターンを無意識に選ばなくなること、そして反対にある白パターンを意識的に選ぶことで、小さかった白パターンは育ち、逆に使い過ぎてしまっていた黒パターンは小さくなります。そうやって2つのバランスがとれることで、黒パターンの特徴が見えてくると思います。

この世の中には、色々な人がいます(色々な領域の人が)その人たちとも共に生きているのがこの世です。そういう人たちと接するときに、いわゆる白パターン的思考と態度だけでは、やりきれなくなる(具体的に危ない目にあう、とか、騙される、とか、いいように使われる、とか、不当な態度をとられる、など)ことがあります。そんなときには黒パターンの持つ特徴的言動が自分を守ることもあります。

以前、ミームの話を聞いたときに「どの領域も大事で、その特徴は自分の中に在り続ける。どれもなくさないで自分の成長に含まれていくもの」と教わりました。ひとつのミームの領域にある、人をだますことも、お金が全てであると思うことも、権力を欲しがることも、闘いモードでいることも、全てが人にはあるということです。そして、それが自分とともに生きているということ。

黒パターンも同じです。どの黒パターンも全ては必要であり、なくしてはいけないものです。いつか、自分のピンチのときにかつて使ってきたそれ(黒パターン)を使うこともあります。全ての人に愛で接すれば…というところは理想ですが、それが行えるのはイエス、ブッダ級なのでほぼそういう人はいないだろうと思います。

ただただシンプルなルール
2022/07/22

今の自分の身体は、自分が半年前に食べていたものでできているんだって・・・。そうなのか、半年前、私は何を食べていただろうか、と考えてみたが、今と同じようなものを食べていたな。

そして、今の自分の心は、半年前とは言えないけれど、以前から自分が選んできたものでできているし、その心が現実を創っている。これは罰ではなく、ただただシンプルなルールなのです。

だから良い体のためにはバランスよく(そのときに身体が食べたいものを食べることも、楽しく美味しく食べることも)食べることだと思うし、良い心のためには自分が何を選んでいるのかに常に気づき、よいものごとを選ぶということにつきると思います。

ここで問題となるのが「自分が何を選んでいるのかに気づき」というところです。これは何かとても大層なことのように思われるかもしれませんが、そうではないんです。何か大きな決定をするときだけよいものごとを選ぶというのではなく、小さなものごとにこそ行うことなんです。

例えば、そのひとつとして、口癖のようになってしまっていて、自分で気づくこともないネガティブな自分への言葉。「どうせ私は…」「私はついてない」「きっとできない」「幸せになれない」「お金には恵まれない」「価値がない」「まだまだだめ」「私は劣っている」などなど(人によっては褒められたときに謙虚な意味でこのような言葉を口にすることもあるし、周りをなごませるために口にすることもありますがこれも同じです)

絶対に自分を貶める言葉を口にしてはいけないんです(これって実は自分だけの問題ではなく、外に出ていくので、同じような傾向のある人のそれを大きくしてしまうんです)こういうことが「自分が何を選んでいるかに気づき」ということです。

そして、これは口にする言葉だけではなく、頭の中で考えることも、心で感じることも、同じです。自分って、いつも何を考え、何を思っているのだろう、ということに気づき、よいものごとを選ぶことです。

じゃあ、全てをポジティブにすればいいのか、ということを思うかもしれません。確かに、ネガティブよりはポジティブなもので自分を満たしたほうがいいのはその通りです。よく言われている天国言葉を連発するとか。これもひとつの領域の在り方としてはあります。

しかし、全部をポジティブに捉え、ポジティブに考え、ポジティブな感情をもち、それを言葉にしていれば、その人は幸せなのかというとそうでもないんです。それはそれで疲れてしまったり、どこかわざとらしさを感じていたり、心の奥底にはやっぱりネガティブが渦巻いていることもわかっています。それが感じられている方は、天国言葉の領域を出るときなのだと思います。

自分を貶める言葉を吐くのはパターンなので、まずはそこに目を向け、そこの存在も認めながら、自分のために自分が何を選んで行動するのか、というところでバランス(ネガティブという黒とポジティブという白の)がとれます。心には両方が必要です。そこには抑圧しているものがない、だから無理がないのです。

…「自分が何を選んでいるのかに気づき」…大事にしてください。

ト音記号
2022/07/21

私のクラシックライフは現在も継続中です。

毎日、クラシック音楽を聞き、それに関する動画を見、次々と湧き出す疑問を調べては、そうだったのか、と学んでいます。

で、本当にびっくりしたのが「五線譜にト音記号を書いてみよう!」という小学生向きの動画を見ていたら、ト音記号の書きはじめの位置が間違っていました。ぞーーーーっとしました。私、ずっと間違えて書いていたんです。音大時代も??・・・・。これはかなりまずいです。本当に何やっていたんだろうと思いました。とにかく、いやいや過ごしていたことがいまさらながらよくよくわかりました。一生懸命に教えてくださった先生方に謝ります。

そんなこともありながらも、今回、このようにクラシック音楽に触れるようになったことで、気づいたことがありました。

それは、もちろんクラシック音楽の普遍的な壮大さ、美の極みの世界にあるものに触れるという素晴らしさはありますが、私はやはり、その「人」というところへ心が動くんだと思いました(このあたり、カウンセラーっぽいです)

たくさんの大作曲家がいます。そして有名な指揮者や、世界的奏者がいます。その偉大な作品を演奏する人がいてくれて、私はその世界につながることができるわけです。が、私はその作品、演奏をおいといてその「人」に興味があると思ったんです。

そしてその「人」の部分は作品や演奏に現れるので、とても個人的に、自分の思いこみではありますが、その人を思う。それが自分の興味や、共感というところで動いたときに、その人の作品を好きだと思い、その演奏者を好きだと思う。そして、それが自分の内に流れてくるのだろうと思いました。

結局、こうして、普遍的な美をもって己を知るということなんだと。これは、また、この世に存在している全てのものの意味と、出合いの不思議を思います。

もちろん、ベートーベンがどんな人だったか会ったことがないのでわかりませんが、人である以上パターンでの苦しみはあったと思います。とくに後半耳が聞こえなくなったときのショックはとてつもないものだったと思います。それは、私が耳が聞こえなくなるのとはわけが違います。

そこをどのように超えて作品を創り続けていったのだろうと考えたときに、これも音楽というものが助け続けたんだろうなあとも思いました。それは音楽の根っこが繋がっている「天」が助けていたとも言えます。

一流になればなるほど真・善・美として生きるからです。そして、そういう人の作品であり、一流の奏者が演奏するものであるから人の持つ真・善・美の部分に感動を与えるのだろうと思いました。

こうしてみると、真の芸術は人の意識を上げるというホーキンズ博士の言葉が納得できます。天と繋がっているものに接するわけですから。

そして、その人の学びや成長に必要なときには、必要なものごとが現れるというのは本当にそうだな、と思っています。

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