ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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めぐりめぐって帰ってくる
2020/10/18

「はじめての日月神示」(中矢伸一 著)という本をお借りして今読んでいます。まだまだ読み始めではありますが、やはりそういう事か…と思うことが書いてありました。

それは「業」(カルマ)のことであり、自分のしたことが巡って自分に帰ってくるということです。

これを、ひきよせともいえるし、自分の意識が現実を創るともいえるし、自分が選んだことの結果が来るともいえるし、誰もが自分の蒔いた種を刈り取らねばならない、とも言えます。全ては同じこと。自分が自他に与えたこと(感情、感覚、思考、行動)が自分に帰ってくるのです。誰もここから逃げられる人はいません。

めぐりめぐって帰ってくる。だから、今つらいところにあるのは、巡ってきたものを受け取っている状態だといいます。それは、今までの業の清算であり、これからの自他へ何を与えるべきかを考えさせるサインでもあります。いずれにしても罰ではありません。

ただ、このことに気づかないと、今までのあり方で違うことをしても結局は同じ結果になります。

このことについて、先日の茅ヶ崎クラスで「黒パターンをどんどん深く掘っていっている状態」という話が出ました。まさにそれです。黒パターンでいくということは、やり方を変えてみたり、考え方を変えてみたりしても、同じ領域の中から出ることがないのでずっと黒パターンを掘り続けることになります。

そうではなくて、省みるという意識とともに、このからくりを熟知していくということだと思います。これからをどうするべきなのかを考え、行動にうつして(ここでは白パターンの選択)いかなくてはなりません。それがまた巡ってきます。きっと良い結果として。

このように全てができているのだから、そこに沿って生きればいいと言えます。

又、おもしろいと思ったのは「神の道を歩む者は、嫌でもお金が貯まるようになっている」「清富」という言葉でした。「人生の目的は物質とマインドのマスターになるため」というダスカロスの言葉がここでかちっとはまったように思いました。

完成
2020/10/17

ドールハウス(一定の縮尺で作られた模型の家のこと。建物の外観よりも部屋の内装、家具、調度品、人形などによって生活空間を主に表現する。Wikipedia)

たまたまネットで目にしたドールハウス。こんな世界があるのかと初めて知りました。私が見たドールハウスの多くは自分で組み立てて完成させるもので見ているうちに私も作ってみたいと思いました。

…こんな部屋に住んでみたい(こんな家は一生買えないだろうから)こんな部屋をもっていたら、こんなカフェに行ってみたい…というものをいくつか選んでみると、ほぼ14歳以上から作れる、脳を鍛える効果が期待できる、と書かれています。脳を鍛える効果が期待できるにつられ(相変わらず信じられないことをしてしまうので)写真のキットを購入しました。

で、購入後にそのキットに関するコメントを読んでみたら(なぜ、この時点で読む…?)なんと「2度とやりたくありません」「老眼なのできつかった」「英語の説明書でわけがわからない」「同じものを45個作ってください、とあって大変でした」などなどネガティブなコメントが。あーーーーあ、初心者にはこれは無理だったのだろうか、と少々落ち込みながらもキットが届くのを待ちました。

そして届いたキット。開けてみると、説明書が日本語でした。よし!どうにかいけそうだ、と、単純にもりかえす私。しかし次々と出てくるキットの小さいこと。そして多いこと。あーーーーだめかもーー。と一喜一憂の波にのまれながら最後は、お金払ったんだから、の動機で作業を開始しました。

そもそも不器用でそそっかしく、思い込みもはげしいので、注意しながら丁寧に確認しながらまず大元のところを組み立てていきました。ところがこの時点ですでに間違えて、トミーに聞きながら次へ・・・。壁の色を塗ったり、家具を組み立てたり、小さな本をたくさん作ったり、時間があるときにその作業を続けていくうちに楽しいと思えるようになりました。

「早くやりたいなあーー、今日もやりたいなあーー」と。

そしてやっと完成しました。と言っても椅子に布を張るやり方がわからずパス。上からぶら下がっている照明も本当は点灯するのですが配線が全くわからずパス。よくみると間違えて作ってしまった棚もあります。でも、できたうれしさと、あの作っている時間の楽しさはよかった。

「早くやりたいなーー、今日もやりたいなーー」の体験がとてもよかったです。また何か作ってみたいです。

くりかえす
2020/10/16

茅ヶ崎グループ、無事に終わりました。セミナー後は、皆で昭和っぽい「定食屋さん」で食事をしました。昭和生まれの私としては、昭和っぽい味には親しみと安心をおぼえます。

さて、グループですが。今回は、想像力をふるに使い、整理して考える、再確認、新な意味づけ、発見、などなどなどなど、色々やりました(いつもそうなんだけど)

で、これもいつも言っていますが、セミナー後が大事なんですよ、ということ。皆で集まり学び、それを今度はひとりの毎日の生活の中でどのようにいかしていくのか、使っていくのか、というまさに実践の日々に価値があります。とにかく自分でやらないと、たとえ私と毎日会っていても何も変わりません。

そして、そのひとりでやるというところで手ごたえを感じていかれるようになります(私と会っているときには手ごたえってないんです。気づきはあっても)そしてまた皆で集まり、修正したり、新なものを手にしたりしながらまたひとりで行う毎日を送る、これのくりかえしです。

くりかえすには「楽しい」が必要です。楽しいからくりかえしていかれるということ。もちろん、頑張らなくてはいけなかったり、うまくいかなかったり、わからなくなったり、もやもやしたりはあります。それでも、心のどこかでそれらもすべて含めてやっぱり「楽しい」があること、それがくりかえしていくことを助けます。

楽しくないのに、これをある程度やればいつか楽しくなるだろう、いつか幸せになれるだろう、いつか理想の自分になれるだろうはないです。人は楽しいと思えることじゃないとやり続けられないようにできているのだと思います。そして、くりかえすことでしか創りあげていくことのできないのが心の世界です。

だから、楽しんでもらいたい、皆が楽しいと思って学んでいてくれたらいいなあと思っています。

フットワークを軽く
2020/10/15

フットワークが軽い=楽で自由。

楽で自由って嫌なことがない、やらなくてはいけないことがない、いつも楽しい、何の不安もない、ということではないんです。ずばり、フットワークが軽いかどうかということです(…という私の意味づけ)

(以前の)自分も含め、多くの方達の生き方と言うのを客観的に見てみると、フットワークが重いです。そして、この重さが慎重であること、適当ではないこと、ちゃんと考えていること、ちゃんとした人、などなど、重厚さがあるように思われている気がします・・・が・・・これが自分を縛るということにもなっています。楽で自由にさせない。

この世の中、何が起こるかわからないのが実は常識で、それは予想外のものとして理不尽にも、急にあらわれてきます。

そのときに、さて、どうしようか…、この状態であるのなら今は何を優先するべきなんだろうか…、と自分で考え、自分でそこに見合った行動をとること、その判断と行動の早さがフットワークの軽さです。そして、そうやって決めて動けることが「楽で自由」なんです。

この状況だったら、本当はこうしたほうがいいよなあ…でも、これがあるし、これもこうだし、今までもやってきたことだし、築きあげたものだし、そこには自分の大事なものもあるし、新しいところへ動くのは不安だし、今のところにいるほうが怖くない・・・と思い煩うことで楽で自由はなくなり、そこに自分を置き続けることになります。

フットワークの軽さには、今まで手にしていたものを捨てる必要も出てくるし、がらりと変わる自分の生活というものも受け入れなくてはならないかもしれません。そういうことを自分の中で許せる部分(執着からはなれる)がフットワークの軽さの特徴です。そして、新に選んだものをできるだけ自分にとってよいものとなるようにすることも求められると思います。

こうみていくと、あらゆるものへの執着と新なものへの恐怖というものが自分のフットワークの軽さをうばい、楽で自由に生きられる自分というものをうばっているのだと思います。「ゆだねてしまう」この言葉がフットワークの軽さにくっついている気がします。

今日はこれから、茅ヶ崎グループです。こうして集まれることに感謝して、善きクラスを行ってきます。

今の私のマントラ
2020/10/14

・・・・「美しい地球」・・・・

今、私の心が最も澄んでいく言葉。今の私のマントラ。

疲れたーーというときに言ってみる「美しい地球」と。ご飯、めんどーーくさい、と思うときに言ってみる「美しい地球」と。そして、空をみあげながら、海をながめながら言ってみる「美しい地球」と。道を歩きながら、行き交う人々を見ながら言ってみる「美しい地球」と。

なぜだかそれだけで、深く心が澄んでいき、その澄んだ心である「家」に一瞬にして帰ります。

「美しい地球」は瑠璃色の小さな玉で、それは私の手の中にあって私はそれを大事に手の平でつつみこんでいる。それをながめ、私はこの地球に生きていながら、この地球を手におさめてもいる、と思うんです。手の中の地球のゴミをはらい、ありがとうと言う。なぜだかやりたくなったのでやってみています。

・・・・と前説が長くなりましたが、このように、なぜだかやってみたくなったこととか、なぜだかふと思いついたこととか、会いたくなった人とか、それは実際行動にうつしてみるといいです。そんなこと無駄、意味ない、時間がない、気のせいと思わずに、小さなことでも行動にうつしてみます。そして、飽きたらやめればいい。

子供のときってそうやって毎日を過ごしていました。自分のやりたいことを次から次へとやるという過ごし方をしていました。そのエッセンスを大人になった今でも使ってみるといいと思います。子どもの頃の自分って実はすごく大事で、それは今の自分の先生でもあります。自分のことがわからなくなったら子供の頃の自分を思い出すといいと言われているくらいです。

その子供のエッセンスを使うことで大人になり捨ててしまったものを思い出せるかもしれません。そして、何より、やってみたいと思ったことをなんの躊躇もなしに、やれることへの自由さ、おもしろさを味わうことがすごくいいです。これが楽で自由ということ。フットワークが軽い=楽で自由。

そして、何ごとも偶然はないということであれば、それは自分にとっての必然です。これも自分自身と自分の人生を創造していくことのひとつです。

ひとりでいること
2020/10/13

コロナにより、ソーシャルディスタンスが普通のことになり、施設や病院にいる家族と会うこともままならなくなり、葬儀への参列もひかえ 外食はほとんどせず、人が集まるところへも簡単に行くことができない、という昨今です。

それにより、実はいかに他人と自由に接触できていたことが大事なことだったのか、人はひとりでは生きられないということが身にしみてわかった、と思っている人は多いかもしれません。

そして、そこをカバーしてくれるのがオンラインであり、これからは、このツールを使って、他人との接触の仕方を学び、そこでの今までとは違うあらたな他人との在り方を構築していきましょうという意見は多いようです。確かに、そうだと思う。オンラインで救われている人たちが多いと思う。

しかし、コロナが現れてくる前の私たちって、はたして他人とちゃんと接触していたのだろうかと思います。自由に会いたいときに会える、好きなときに好きな人と好きなところへ行かれる、ということではなくて、自分が会っている人との関係性ってどうだったんだろうと思う。それはオンライン上での新な関係性といっても、変わることはないんじゃないかと思います。接触していない分、もしかしたらもっと心は離れてしまうのかも。

人と親しくしていてもどこか寂しい、何か違う、そんなあわい気持ちを感じながらも、そこに普通に流れている習慣とか損得とか義理とか責任とか常識で他人と接触してきたということもたくさんあったのではないかと思います(実際、人の悩みのほとんどは自他人間関係です)他人と接する自分は他人に対して(これは自分に対しても同じ)どんな在り方をしてきたのか、ひとりになる機会が増え人からはなれている今だからこそ、そこに立ち返ってみるというよい機会でもあります。以前のような関係性で良いのだろうか…と。

人はひとりでは生きられない、というのも確かにその通りです。私の日々の生活は多くの方達のおかげで成り立っています。そこへの感謝はあります。しかし、精神的にひとりでいられることも必要です。ひとりでいられることは自分のおもりができることです。誰かに楽しくさせてもらう、安心させてもらう、励まし続けてもらう、又逆に誰かを楽しくさせる、安心させる、励まし続けることで成り立つ人間関係から降りるということです。

いい意味で人はひとり。

だからこそ、他人と接するときに(その大変さがわかるからこそ)大事に接したいと思います。ひとりでいること。ひとりで自分のおもりができること。これから続く未来に向かい、この能力は必ず自他を助けると私は思っています。

こういうときこそ・・・
2020/10/12

ここのところ、決めかねていることがあり、きのう、それについて無意識にあれこれ考えている自分(パターン)に気づきました。ああ、これこれ…と。

今は、ほぼほぼ、こういうことがなくなっているので、久しぶりでしたが、そうそう、こうやってずっと思考し続けていたなあ、と昔の自分を思いだしました。

そのころは、無意識にずっと考え続ける(パターンが脳を動かしている)ことが、ちゃんと考える、しっかり考える、集中して考える、ということだと思っていました。しかし、それは「私」の行為ではなかった。パターンの行為です。パターンはあれこれずっと考えるのが大好きです。でも、パターンは子供なので、なかなか答えを見いだせず。

で、こういうときこそ、あれでしょ、と思い、どちらを選ぶのか2つの部屋をつくりそこに「私」が入り決めるをやりました。そこで一瞬に出た答え。それに決定。そしてすっきり。あとは決めたことに対して、具体的にどうするのか、とか、それが可能になるために何が必要かなど、肉付けをして、行動にうつせばいいということになります。こんなに一瞬で決められるのに、あのもんもんと考え続けていた時間やエネルギーの駄々洩れ状態って?うーーーん、もったいなかった。

このように、どちらかの選択のときではなく、具体的に何かについて考えるというときも「私」が脳を動かす、と意識をするといいです。でも「私」は何時間もだらだらとそれを考え続けるようには脳を使いません。「私」は知っています。ある程度考えてもわからないときには、自分だけで考えなくていいことを。「私」のうしろにいる方々の知恵や、血の中に流れているご先祖さまの知恵などにも助けてもらえるということを。

今考えていることへ今の自分より知恵や経験のある方々がいらっしゃれば、そちらからのサポートを自分の思考にプラスしたり、気付きにしたり、よりよいものにしていっていいわけです。それがやってくるまで待つというのが「私」のひとつの能力です。

「私」には強引さがない。これがすごくいいと思います。

2極間の動きが変わる
2020/10/11

今朝の日記はちょっとわかりずらいかもしれませんが、書いてみよう。

人は神の子として(大元の子として)この2極の世界に生まれてきます。2極の世界(陰と陽、私とあなた)に生まれることで、本来の自分を忘れ、だからこそパターンを刷り込みやすい状況の中で生きることができて、それによってあらゆる体験をし、苦しみ、悩み(楽しいことも、うれしいことも)それがパターンによるもの(自分じゃない)に気づき、そこから自力で軌道修正(本来の在り方)へ向かい、本来の在り方をすることでこの世で楽に生きる体験をします。それを創造した自分を確認し、人によっては2極を超えていきます。

ざっと言ってしまえば、こうして「私」をとりもどし、生まれてきた課題をクリアします。

で、その「私」の立ち位置というのがフラットなものであるということです。「私」にはジャッジがない。常に中道にあり「私」よりも領域の低いところに存在しているパターンの生み出す感情と感覚を常に俯瞰して観察していて、だからこそ何を選べば、今世をよりよく生きられるかを察知できる存在です。

観察者であり指示を出すものです。

そんな「私」が大きくなることで感情・感覚の大きな揺れというものがだんだんと小さくなっていきます。(激しく)怒る、(どんと)落ち込む、(くすぶるように)いらいらする、(自分を痛めつけるように)自分を責める、(息がつまるように)悲しむ、などなど大きく動いていた感情がそれぞれのカッコの部分がなくなっていくような感じです。

そして、それはポジティブな感情、感覚も同じです。ポジティブだからいいのではなく(誰が喜んでいるのか)それが(舞い上がるように)うれしい、(ハイテンションで)喜びを表現する、(永遠に望む)楽しさ、(いつも)わくわく、などなど。このポジティブなものも感情であり感覚なので何かしらのパターンが生み出しているものであるといえます。これらもカッコ部分がなくなっていきます。

そして、それは2極間の動きを小さくし、少なくなっていく。激しく2極間を動かなくなる。

こうなると、今までは目が向いていたパターン(感情・感覚)というものへ目がいくよりも「私」そのものを「私」が見つめていくようになります。目につくのは悲しんでいるパターンではなく、悲しんでいるパターンを愛おしむ「私」、喜んでいるパターンではなく、喜んでいるパターンを愛おしむ「私」と目は「私」にあり、それが中心に立ち、小さな2極の体験をすべく小さな陰陽が「私」の周りをまわり続けている。「私」のじゃまをしない(「私」に協力的)小さなパターンたちと小さな動き。この状態が平常心ということなんだと思います。

マスターたちが大きく感情が動かないのはこのためだと思っています。マスターたちも人なので、その心で陰陽がとまることはないです。しかし、その動きが小さなものになる、だから、心はやすらかであるということです。

整理整頓
2020/10/10

自分の中を見ていくと、自分の嫌な部分、隠しておきたい部分、だめな部分(・・・を嫌うパターンが思っていることなんだけど)などなどとであってしまうということがあります。

それが嫌だから自分を見たくないという方はすごく多いです。

これは「自分の嫌な部分をみたくない」「自分をだめと思いたくない」「私はできている」「私はいけている」などのパターンが考えていることです。

で、これらのパターンが「私」になりすまして語りかけをするということもよくおきます。これらのパターンにとっては、自分のだめさを感じるようなパターンには存在してほしくないので、とにかく、早くどうにかしようとします。

なりすましの語りかけは、苦しく、やっかいで、形だけで行われ、語るのも大変になり、語りかけが自分を悩ますようになり、結果、よりパターンがごちゃっとしてきます。

ここにまた他のパターンも出てきて「やらなくちゃだめ」と焦り「やらないとおいていかれる」と脅し「いいんじゃないの?やらなくても」というものも出てきて「だって、毎日やっているんだから今日はお休み。自分へのご褒美でお休みしよう」などと言います。中には「むだむだ、こんなのやったって変わらないから」「自分にはできない」と言うパターンもいます。

というように、なりすましパターンに語りかけをさせてしまうことで、語りかけが負担になり、自分を悩ませ、おまけにいろんなパターンが現れるという、それこそ面倒な状態になります。

ですから語りかけはしっかりと「私」が語ると決めて、集中して、丁寧に、最後までやりきるということを徹底的に行い、その感じを自分のものにしていく必要があります。

そうしていくことで、パターンたちも、パターンに語れるのは「私」だけであるということを学習していきます。こうなったときに、心の中が整理整頓されて、すっきり、という気分を味わうことを体験します。

何が自分の中に存在していてもいい。これは存在してほしくない、これはだめなものはひとつもないんです。ただ、それが混然とあるのではなく「私」によって整理整頓されてあるということです。

そして、その整理整頓されてすっきりしている心であると、サポートをそのまま受け取ることが自然とおこってきます。これは本当にそうです。その体験をぜひ。

達人になる
2020/10/09

沖縄は、暑さの中にも秋を感じる、気持ちの良い毎日でした。

8月のクラスはお休みでしたが、今回は全員で集まってクラスが開催できてよかった。

さて、今回、ある方が「今の自分は、今までの自分の結果なんだから、そこに違和感があるのであれば、自分に向き合ってワークして変えればいいだけで…ここでやっていかないと、来世もまた同じことを繰り返すから」というような話をしていました。

そう、ここは基盤です。

あなたの食べたものであなたの体はできているといいますね。これと同じです。今までの自分の思考、選択、行動で今の自分の心身や自分をとりまく環境、自分の人生はできています。ですから、もし、この自分の心身や環境、今の人生を変えたいと思ったら、今までの自分の思考、選択、行動で、これは違っていた、これはもういい黒パターンだから、というものを新に選びなおして行動していけばいいんだということになります。

たったこれだけなんです。すごくシンプルです。

このこと(自分が創っているということ)を本当に本当に理解すると、やるべきことは、色々考えたり、情報を増やしたり、知識を集めたり、外側にはたらきかけて、周りを変えようとしたり、誰かの力にすがることではないということがわかると思います。向かうべきは自分自身であって自分は何を選ぶのかということに邁進すればいいとわかると思います。

今、この一瞬から自分が何を選ぶのか。それは「私」が喜ぶことであり「私」が納得することです。それを意識的に継続していくことです。そうしていくうちに、その結果の自分、結果の自分の環境、結果の自分の人生というものが、今までとは違ったものとしてあらわれてきます。それは少しずつやってきます。

でも、その少しずつを感じられると、きっとこうして創っていけばいいということがよりわかると思います。そこでまた「私」の喜ぶ、納得するものを選びたい、となっていきます。そしてまたその結果を受け取るということでそのときには、その流れ(帯)に入っているといえます。そうやってその流れ(帯)の中で生きること、そこの住人として生きること、それをやるためにきている。だから、良い結果を受け取る達人になることを目指しましょう。

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