ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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オタマジャクシのような
2025/08/03

昨日は、茅ヶ崎花火大会の予定でしたが台風の影響を鑑みて、中止となりました。今年はなしです。

で、花火大会というと必ず思い出すのが、謎の物体を見たということです。10年位前だろうか(何度も聞いているよ、という方はスキップしてください)

その日も茅ヶ崎花火大会の日でした。ちょっと風が強い日でしたが開催することとなっていました。そして、開催の2時間ほど前のこと。

リビング(前のマンション)の窓から目の前に見える「烏帽子岩」の真上に何かが見えました。黒いオタマジャクシのような形をしたものが風にたなびいていました。

まず、思ったのは花火大会に向けて烏帽子岩からポールを伸ばして風の向きや強さを測定しているのかなと思いました(よく考えたらありえないし、今まで見たこともない)。当時、骨董師匠から預かっていた大型の双眼鏡があったので、それで見たところ、ポールらしきものはない。オタマジャクシは何かに支えられているのではなく、空中に浮かんでいることがわかりました。

トミーにも見てもらうと、確かに浮いていて、たなびいているということで、2人が見ているものは同じ。しばらく双眼鏡で見ていると、オタマジャクシが2つにぱかっと割れて、内部(?)の割れた方は白い色をしていました。黒と白のオタマジャクシがたなびいている。

何?何?…そしてまたしばらくすると元の黒いオタマジャクシに戻りました。それから1時間くらいはいたと思います。だんだんあたりが暗くなっていき、見えにくくなったころ、気付いたらいなくなっていました。

そして、次の日、どうしても解せぬ私は市役所に電話をしてしまいました。「昨日の夕方頃から烏帽子岩の上に吹き流しのようなものをたてましたか?」と聞きました。もちろん「そういうことはしていません」という返答。海には人が多くいたであろう開催前の時。目撃した人がいてもおかしくないと思うのですが「他からはそのようなお電話はありません」ということだった。

謎の物体。UFOというより妖怪?と思っています。私ひとりで見たわけではないので、私の錯覚かもというところで迷わなくてよかったことはよかったのですが。わからないものはきっとたくさん存在している。だからなんでも分かった気になっちゃいけないんだと思います。

創造の意味づけ
2025/08/02

人が楽に生きるためには、自分の全てを赦すこと、そして自分の個性に沿って自分の全てを創造することだと今の私は思っています(今の道場はここにいる。ここを担当分野としています)

自分の全てを赦すことは自分の内に存在している全てのパターンを赦すことであるのはわかると思います。どんなパターンも赦す。そこには、長い長い魂の旅路の中で持ち越してきてしまったものもあると思います。そして今世で書き込まれたり、作ったものも。それら全てを赦す(そのままでいい)ということです。もちろん黒パターンのやりたい放題にしておくということではありません。

ここは、皆さんできるようになっています。だから次へ…。で、創造なんです。

自分の全てを創造すること、というのが、最初のうちはわかりにくいと思います。創造なんて大それたことは自分には無理と思うと思います。創造と聞くと、神がこの世を創られたように、無から有を生み出すことが創造だと思うからだと思います。それもあります。

しかし、創造をその意味づけだけにしてしまうと、そのひとつだけになってしまうので、自分には無理と思うのです。どんな事象であってもたくさんの意味づけを生み出すことはできます。

そして、自分も実は毎日を創造して生きているんだということに気づけるといいです。今、何かに怒りを感じ、傷つき、悔しさや絶望感を感じて生きているとします。それは自分が創造しているものなんです。怒り、傷ついて、悔しさや絶望感を感じている…という現実を創造している。ということなんです。自分の意思で。

そんな嫌なこと、自分の意思で選ぶわけないと思うかもしれませんが、心の中でこの現状を選び(ここでも意味づけを1つにしています)それを現状として創造しているということなんです。

確かに怒りを感じるできごとはあったと思います。しかし、それはパターンが感じていることで「私」はそことは別にいます(「私」の領域でのそれについての意味づけがある)。その「私」がこの状況があるものとしてわかっていても、それはその領域に置いといて(あっていいものだから)何を選びたいのか、自分はどうありたいのか、を選択すれば怒りを感じたできごとは映画のスクリーンに映っているもののように感じます。

この時点ではこれを創造している。創造って一瞬一瞬に行われています。このように私たちはすでに自分自身と自分の日々の生活、しいては人生を創造し続けています。

で、自分の個性に沿って自分の全てを創造するということは、どんなものごとを創造すれば自分の個性は喜ぶのだろうか、自分らしくいられるのだろうか、ということです。ここには決して、何を創造すれば他人から認められるのか、とか、賞賛されるのか、とかは出てきません。それはすでに多くの人達がやっていること。ということは、それはわりと簡単にできるというものでもあるんです。他人優先でいけば、パターンの力強さを使えば、そこそこそれはできると思います。まずは、創造の意味づけをやってみるといいと思います。

それは、まるで…
2025/08/01

近頃は、海まで散歩をしています。この暑いのに…。熱中症になりやすい自分なのに…。そこへの対策グッズも持ちながら。そして、もし倒れたら誰かが助けてくれるだろうと思って(これが一番のお守り)

海へ向かう道は、海風のおかげで陽は強いものの、すがすがしさがあります。それが気持ちよくて歩くこと自体が楽しいと感じます。「歩くってたのしいーー」と身体が喜んでいる。だからそんな時にはそのたのしいーーを身体に味あわせてあげようと(この頃)思うようになりました。運動しなくちゃ、歩かなくちゃではないということを学びました。

これは食事も同じです。ご飯を食べて「おいしいーー」と身体が感じる。そういう時にはそれを十分に感じさせてあげようと思います。食べなくちゃ、これは栄養があるから、ではないということです。

ただ、ここでパターンが「もっともっと」となるとその繊細でストレートな感覚は消えてしまうんだという事もこの頃、わかるようになりました。

そして、海に到着。夕方の海。暑い砂浜を下りていくと、目の前に女性2人が見えました。2人とも黒の上下の服を着て、黒い日傘をさして、2人で海をみながら話をしています。海風が2人の服をたなびかせている。後ろ姿だけですが、中年の方達だと思います。きっと楽しい話ではない、何か真剣に話しているように見える2人。

夕方の海には人も少なく、空は雲におおわれ、どんよりとしたその風景はまるでフランス映画のワンシーンの様でした。存在感のある2人。ここだけを切り取れば、それはまさに絵になる、です。ここが茅ヶ崎の海岸であることを忘れるくらいな雰囲気を2人が創っているんだと思いました。人ってすごいです。この雰囲気を創っているのは人間であり、そこに海を入れて1つの絵を創ってしまうのだから。

近くに寄らず(近くにいけば話す様子なども目に入るでしょう。そうなればフランス映画のワンシーンではもうなくなります。それはもったいない)座って、しばし、その絵を見ました。茅ヶ崎の海岸でこんなに雰囲気のある風景(絵)を見ることがあるなんて…。

毎日、海に散歩に行っているわけではありませんが、こうして散歩をしながら、目につくものごとは多いです。海に向かう道は茅ヶ崎駅からまっすぐに伸びていて、海に近づいていくと、昔の茅ヶ崎の面影を感じられるような家々が並んでいます。そういう家を見るのもとても好きで、立ち止まって見てしまうこともあります。それぞれに住人の方の好みが現れている家。これはとてもおもしろいと思うんです(そういう意味ではマンションは、便利ですが味気ないです)

家の形や、庭に植えてある樹々や、そこにある道具や、全体に使われている色などを見て、こういう人が住んでいるのかな、と想像するのも楽しいです。これも私にとっては人生を楽しむ、お金のかからない趣味のようなもの。

今日も、どこかへ散歩に行くつもりです。しかし、歩いている途中で「歩くってたのしいーー」が湧き上がってこなければ、図書館で休むか、早々に帰ってこようと思っています。

忙しい7月だった
2025/07/30

脳の検査結果。「脳は大丈夫です。異常はありません」と言われました。よかった。

「初めてですか?自分の脳を見るのは」と聞かれ「はい」と答えると、ここが大脳で、小脳で、脳幹で、とひとつひとつ説明してくれました。その画像には首の部分もうつっているので、私の横顔と首のアウトラインに私の特徴が出ていると思いました。特に首。首には私が出ていると思った。

脳の輪切りの画像も見せてもらい、それを見ながら脳ってこんなに美しいんだと思いました(私の脳がということではなく)みっちりと頭蓋骨の中におさまっています。そのみっちりした存在が綺麗だと思ったのと同時にもっと脳を大切にしてあげようと思いました。

しかし、大切にというのは守りにまわることではなく、脳本来の在り方ができるようにしてあげることです。そのひとつとして、めまいが起きないように守ことではないと思った、めまい予防の体操がある。だから続けています。

今年に入り不調続きであったことで、初めてお会いした先生方、整体の先生方に私は助けていただいたと思いました。で、それぞれがご自分の専門の分野を担当し、その先生ひとりひとりの体験に基づいての考え方や信条を持って患者さんに向き合っているんだなということも感じました。患者の顔も見ずにPCに向かっているような人や、事務的な診察をしている人はひとりもいませんでした。それぞれの温かさを持って接していることがよくわかりました。

そして、診療中、施術中に発する先生の言葉の中にこれからの私が獲得していきたいものへのヒントがありました。全て「陰」と「陽」。これはもう一段階上から見ると何事も「陰」であり「陽」という事か…と新な意味づけを思いつく。

私としては、めまいは、今年1月からはじまった不眠によるものではないかと思っています。で、半年がたち、この頃は不眠を徐々に受け入れていっています。ここにくるまでの半年間は思い通りの睡眠をとるために闘っていました。どうすれば眠れるか、と。

不眠は確かに煩わしく、つらく、不安で、先も見えないものではあるのですが、これがあって、新な出会いがあり、今まで知らなかったことを知り、まだまだ自分自身に対しての、考え方への執着があるんだなということもわかりました。

そして何よりきっと初めてだと思う、自分の身体について心から目を向けたのは。「身体に向き合うときがやってきたんです」とは整体の先生のお言葉。心についてはずっとずっと向き合ってきたけれど、それと同じくらい身体に向き合ってきたかというとそこはやってこなかった、という事にも気づきました。向き合わなくてもすんでしまっていた、やれてこれてしまった、やれるように身体が頑張ってくれていたのだと思いました。

身体は物体です。元々は量子の集まりだけど。頭ではそうわかっているけれど、その体験が少ない私としてはそれ用の接し方が今は必要です。もっと精神性が上がっていけば身体も物体であることを超えて量子の集まりであることが自分のものになり、それをコントロールできるようになることはわかっていますが、私にはまだ無理です。だから今できることを、守りに入らず、やっていこうと思いやっています。

とっても忙しい7月でした。でも、新しい所へ歩き出した感もあり嬉しい月でもありました。

ふへぇぇぇーーー
2025/07/29

耳の検査結果。先生が色々とデータを見て「うーーーーーん」というのを見聞きして「何?なに?」とビビる私。

「異常はないですね」という先生の言葉にほっとしました。「では、めまいはどこからきているのでしょうか?」と聞いてみると「あと考えられるとしたら、脳かな。脳は調べた?」と聞かれ「調べていません」というと「年齢的にも、調べてみたら?」と言われました。

帰りぎわにめまい予防のための体操のプリントをいただきました。「この体操、やるといいよ。薬より効くということなので」と。見てみると「良性発作性頭位めまい症の頭位運動療法」でした。そこには「めまいを起こしても怖がらずに行ってください。気分が悪くなったら休んで、落ち着いたらまた始めてください」とあります。これは、勇気いるなーーと思ったのですが、云わんとしていることが‥わかる気がしました。

そして、2日後に、近所の脳神経外科を受診しました。私にとっては初めての領域なのでどきどきでした(ほんと、ビビりなんです)呼ばれて診察室に入ると、やはりこちらも男性の先生でした。多分年代的には私と同じくらいだと思います。「どうしましたか?」という先生の言い方にも安心感を感じました。

今までのめまいに関するながーーーい話をし(時間外外来で診てもらった先生が産婦人科の先生で…というくだりで先生、大笑い)耳鼻咽喉科では異常がなく、今まで一度も脳を調べたことがないので調べてほしい旨を伝えました。「わかりました。では調べましょう」と先生。そして私はMRI室へ。本当は…MRI苦手なんです(昔、腰のMRIを撮った)

しかし、こちらのクリニックの機械は、以前のものよりも開口部分が広く、圧迫感が少ないとHPにあったのでそれに救われました。

看護師さんに「では、始めますね」と言われ、横になった私の頭がすっと機械の中に入りました。「これなのか、開口部分が広いって。よかった、圧迫感なしだ。これなら楽勝」と思ったらそこからより深く奥にベッドが移動しました。開口部分が広くても奥はやっぱり深くて狭かった。圧迫感に息苦しさを感じます。しかし我慢するしかない。

あの独特な音がじゃんじゃん聞こえる中、目を閉じて「ここは、草原、ここは広い草原、ほうら、青空が広がっているよ」と自分に言いきかせながら25分頑張りました。「おつかれさまでした」という声がけとともにベッドが元の位置に戻り、看護師さんから「どうでした?大丈夫でしたか?」と聞かれ、気が抜けたのか、ふへぇぇぇーーーと言いながら、変な顔をしてしまった私を見て看護師さんが笑いました。「検査結果はすぐに出るので、又お呼びするまでお待ちくださいねーー」と言われ、めまいはおさまっているのにふらふらしながら待合室へと戻りました。続く。

大切なものは真ん中にある
2025/07/28

久しぶりの日記更新です…お察しの通り…体調不良でした。今は、そろそろと良くなっています。

再びの「めまい」勃発。前回に比べれば軽いほうでしたが、我慢することがとても苦手な私は、迷ったあげく、時間外外来に行きました。担当の先生(男性の方)はとても優しい方でした。点滴をしている私の側で「大丈夫よ〜〜、大丈夫よ〜〜」と声をかけてくださいました。人って弱っているときにはこの「大丈夫」がどれだけ安心感を与えてくれるのかということを実感しました。点滴を受けながら、私はどうだろう?そういう言葉をかけているだろうか?と考えました。かけてない、反省。

で、今回、このめまいをきっかけに、病院へ行くことが続きました。病院シリーズっぽくなりますが、よろしければお付き合いください。

「大丈夫よ〜〜」の先生から「めまいは、ほぼ耳から来ているので、耳鼻科で詳しく検査をしてもらってください」と言われました。そこで、2日後、初めていく近所の耳鼻咽喉科クリニックを受診しました。先生はやはり男性の方です。声がとっても大きく、すごく活力にあふれている方でした。

こじんまりとした診察室には数々の機器が置かれ、その中心に先生はいました。「どーーーーしたの?」と聞かれ、今までのことを話すと「そうかあ。じゃあ、全部検査して、どうなっているのか調べましょうよ」と言われ「お願いします」ということで検査に。

まずは難聴の検査。電話ボックス様な小部屋に入り、ヘッドフォンで「ピー」とか「プー」とか聞こえたらブザーを押すってやつ。担当の看護師さんから説明を受け、それははじまったのですが…。とにかく先生の声が大きくて、一生懸命に聞いていても、先生の話のほうが良く聞こえる。ガラス越しに担当してくれた看護師さんを見ると、きっ!という目で先生を見ること2回。(先生、声が大きいから、検査の邪魔なんですけど)と思っているだろう‥きっと。

それでも無事に終わり、次はゴーグルの大きいようなものをつけて、ぐるぐる頭を回し、目の状態を先生が見る。そして、次は…と続きました。最後は血圧を測りました。まずは普通に座って。次は10分間立ち続けて、その後、立って血圧を測る。でーーーその10分の間に、次の患者さんが呼ばれ、先生の診察がすぐ横ではじまりました。すぐ横なので、患者さんと先生とのやりとりが全て聞こえるし見える。先生が説明するために出した鼻の中の図も一緒に見て、そうなのかあと思わずうなずくと、看護師さんから「動かないでくださいね」とご注意あり。

「鼻はね、顔の真ん中にあって、東京駅みたいなものなんだよ。そこからいろんな鉄道が走っているでしょ。鼻ってそれと同じ。いろんなところに通じている、大切なところなんだよ」ということで、そうか、大事なところって真ん中に在るのかと思いました。魂も、尊き真ん中の意思です。

その後ももう一人患者さんが入り、ずっと耳に痛みがあったのを長い間ほっておいてもっと痛くなったということに、先生、より声を大きくして「だめだよ、ほっといちゃーー!耳は大事なんだよ!」と一喝。ますます先生のパワーがみなぎる。診察って活力がないとできないものだ、とつくづく思いました。続く。

パターンと「私」の大きな違い
2025/07/20

パターンと「私」の大きな違い。

パターンには1つの考え方(選択肢)しかないが「私」にはたくさんの考え方(選択肢)があるということです。

だからパターンはどうしてもずっとその1つを通そうとします。相手が違っても、状況が違っても、何年たっても、何十年たっても、その1つを押し通し、それを成就させることに時間とエネルギーを注ぎます。で、成就すればそれで満足し、それを継続しようとします。

例えば「自分は正しい」というパターンにはこの1つの考え方(選択肢)しかないということです。そうであるから、誰といても、どういう状況でも「自分は正しい」を基盤にしています。表面的には、皆違っていい、と言うし、一人として同じ人はいない、人数分だけの正しさがあると言っていても、心はそうは思っていないんです。

又、相手が自分を軽くあしらったり、相手が自分の間違いを指摘したりしたときにはいつも以上にパターンは騒ぐと思います。1つだけのそれをないがしろにされたと思うので、そこは強固に守ろうとするからです。

これに対し「私」にはたくさんの考え方(選択肢)があります。ですから、それを柔軟に使い分けて、自他にとってよきものを、その場にとってよきものを、長い目でみたときによきものを選ぶことができます。

時には自分を表明し、時には相手に譲り、時には関わらないことを選び、時にはあえて関わることを選び、時にはその場を離れることを選び、時にははっきりと相手に言うことを選び、時には自分から相手を切ることを選び、又、他人から切られることを選びます。まだまだ「私」の持つ選択肢は多方面にわたりたくさんあります。

たった1つの選択肢しかないのと多くの選択肢があるのとでは、その後の展開が違ってくることはわかると思います。だからパターンで生きてはいけないんです。なんせ1つしかないからです。柔軟に、軽く、臨機応変にたくさんの考え方(選択肢)を屈指していくには「私」を使わなくてはいけません。

そういう「私」を育てる。今の自分がそういう「私」を育ててくために何をしたらいいのか(ワークだけではないです)何をやめたらいいのか(自分の普通にしていることをが何なのかを見ることでやめることは見えると思う)を自分に与えてあげてください。

創造のまとめ
2025/07/19

ここの所「創造」について書いてきました。

で、「創造」していくとは?ということを一言で言ってしまうと…「すでに決められている領域の価値、概念、意味づけを信じて、そこに自分を合わせて生きるのではなく(そうしなくては…というパターンを選ぶのではなく)自分の価値を自分で生み出す」…ということです。

例えば、これを食べたら体にいい、という情報があふれています。それを信じてその通りにやっていたのに、病気になった、かえって体調が悪くなったという事もあります。そういうことから、全員にそれがあてはまらなんだということに皆が気付きはじめています。だから自分の身体に入れるものの情報は鵜呑みにせず、自分で考えて(もしくは感じて)自分で自分の身体用に選ぶということをする人が増えてきています。

これは薬やサプリ、運動についても同じです。これが良い(運動は良い)これは悪い(薬やサプリはよくない)という情報だけを鵜呑みにしていると、自分に合わないものを取り入れてしまうこともあるし、極端にそれは悪いと決めつけてしまうと、治るものも治らないという事も起きます。その時の自分にとってどうなのかを見極めていくことが大事です。

で、これは人間関係においても、少しずつだと思いますが、自分と合わない人、苦手な人、中毒的な共依存や支配と支配される関係などをもう自分に与えないことを選んでいる人たちが増えていると思います。これは私はとても大きな動きだと思っています。特に日本人の場合。

というように以上のことは浸透してきていて、それぞれ選びやすい物事だと思います。これらすべても自分=「私」のオーダーメイドにしていくということです。

しかし、心の中は、未開発な状態の人がほとんどです。自分用にしていっていいのに、そこには着手することなく、多くの人がパターンを選んでいます。これはこうあるべき、これはこういうものだ、他人にこう思われないように、嫌われないように…。本当は真っ先に目を向けて、開発していかなくてはいけないところなのに。それが成されないのは難しいからだと思います。やり方がわからないからだと思う。

こうして人は自分で自分の心身専用のものを創造していくのだと思います。そして、そうであれば自分の心身でいることができるので、結果、生きることが「楽」なのです。

子供の頃を思い出す
2025/07/17

全てにおいて自分の価値を創る。しかし、いまいちわからないという場合、ひとつの手がかりになるのが「自分が子供の頃に好きだったものごと」「自分が子供の頃に没頭して遊んでいたものごと」です。

子供の頃は、自分でお金を稼ぐ必要はなく、食事の用意をする必要もなく、洗濯も掃除もなく、介護も、老後の心配もなく、空気を読むなんてもちろんない。そういう立場でいられた時に好きだった物事です。

大人になると、その立場ではいられなくなり、やるべきことが生活の主を占めるので、それを持ちながら自分で好きなように創ると言われても‥‥じゃあ、生活どうすんの、と、直結しやすい(これ自体がパターンなんですが)。で、だから、子供の頃のことを思い出してみようということなんです。純粋に遊んでいたころの自分を。それは人それぞれです。

土で遊ぶことが好きだった。穴を掘ったり、山を作ったり、恐竜を作ったり。動物が大好きだった。犬も猫も鳥も虫も爬虫類も、生きているものが好きで触ったり、眺めたりすることが1日中でもあきないくらい好きだった。犬や猫ともすぐに仲良くなれた。

きれいな色の布や、紙やアクセサリーが大好きだった。お人形の服を自分で作って着せていたこともあった。お祭りが大好きだった。あのお囃子の音や皆の楽しそうな中にいることが嬉しかった。本を見ること、読むこと、マンガが好きだった。そしてそこから何かを想像することが楽しかった。絵を描くことが何より楽しかった。1日中、没頭して何枚も描いていた。

友達と野球をしたりサッカーをしたり、鉄棒やうんていで遊ぶことが好きだった。日が暮れるまで遊んでいた。映画を見ることが好きだった。特にディズニーの映画はまるで夢のようでずっとここにいたいと思っていた。歌ったり、踊ったりすることが大好きだった。だから、お遊戯会が大好きだった。どうして?と考えることが好きだった。どうして月は形が変わるの?どうして?と。

好きなお友達と自分たちだけの秘密の基地を作り、そこで遊ぶことが好きだった。花を摘んだり、大きな木に抱きついたり、海に入ること、川で遊ぶこと…などなど。

それぞれ、きっと、あったと思う。3つ、4つあったかも。それを思い出してみます。それを今からやりましょうということではなく(もちろん、やってみたいという衝動のある方はやったほうがいいです)そこでのエッセンスというものを拾い上げてみます。いくつもある人もいるだろうし、1つだけの人もいるかもしれません。

自分の傾向が、または自分の特出している個性というものがみえてくると思います。それらがこれから全てにおいて自分の価値(大事にしているもの)を創っていくときに反映されていきます。そして何より、全く経済とはむすびつかないそれを思い出す(その時の感覚まで)ことに時間を使う豊かさを私は尊いと思います。無駄だと思えることを大事にすることが、自分の創造性をよりよいものにしていくと思っているからです。

創造の続き
2025/07/16

すでに決められている領域の価値を信じて、そこに自分を合わせて生きるのではなく(そういうパターンを使うではなく)自分の価値を自分で創造する。

それは今までの価値とは違うものだと思いますが、それが自分にとっての豊かさを感じられるものであったり、自分にとっての幸せな在り方であったりします。既製品ではなくオーダーメイドですから。

自分にとって仕事とは、お金とは、健康とは、家族とは、生きるとは、死ぬとは…あらゆること全てに自分の価値を創る。こうして自分で創っていいんです…が…ここでパターンが騒ぎます。それは「創り方がわからない、そうは言っても自分には無理、やったことがないことはできない、創れる自信がない」などなど。

で、そのパターンは言います「自分には才能がないから、自分は頭がよくないから、自分は身体が弱いから、今までやってこなかったから、誰も教えてくれなかったから、親も創造できる人たちではなかったから、自分は年だから」と。しかし、それらのどの黒パターンにもその横には白パターンがあります。ただ「私」がそれを選らばないのでずっと使ってきた黒パターンがそのまま継続しているだけです。

創造するためには黒パターンにまかせることなく、新に白パターンを選んでいかなくてはなりません。それは今までと同じです。

又「創造」と聞くと、大きな何かを創っていかなくてはいけないんだろうか、と思うかもしれませんが、そうではありません。「創造」という言葉のイメージからそう思うのかも。それもパターンであり決められた価値なんです。

「創造」はそれだけではないんです。もっと身近な自分の生活の中で小さな「創造」だってできるのではないだろうか…という視点を持ちます。

例えばですが、花瓶がないときにお花をいただいて、お花を入れるのは花瓶と決めてしまうことはないということです。いただいたブーケをばらして少しずつ手元にある食器や、空き瓶や空き缶に入れてみたらどうだろう(…と思ったらすぐやる)すると、けっこういいじゃないですか。ということがあります。ちょっと深さのあるお皿にお花を寝かせるようにして入れるのも素敵。これ、ひとつの創造です。

これにより、花瓶に入れる、という事も知っているし、花瓶以外に入れることも知っているということになります。今までの決まり(価値)を切り捨てるわけではなく、それが一般的に在るという事を知りつつ(ほぼ使わないけれど)自分の新なそれについての創造をしています。

そうして気付けば、自分に合う、新な価値をそこに見出している自分になっています。こうなってくると毎日が楽しいです。それこそ、自分の好き(決して物事だけではなく、精神性に対しても←そしてこちらのほうが大事)な物事に囲まれ、自分の以前よりも健全で、美しく解放された精神性を持って、生きているのですから。その種をまいた結果です。続く。

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