ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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花火大会中止
2019/08/11

きのうは、茅ヶ崎花火大会のはずでした・・が・・高波のために中止となり、夕方から駅構内は、中止を知らずに来た人人人であふれかえっていました(せっかく浴衣を着て、きたのにねー)

それでもビーチへ行く人々。花火は見られなくても、夜の海を見て、夏を感じたかったのでしょうか。しかし、早めに通知をする方法はなかったものか。クレームもきたと思います。

今年は花火を見ることができないのかぁ、とちょっと寂しい気持ちになりました。いままではあたりまえのように毎年見ていたので、あってあたりまえになっていました。あってあたりまえのものがなくなることで、あたりまえはないんだなと初めてわかります。

こうして見て見るとあたりまえに思っている毎日の生活も、実はあたりまえではなくて、ある日急に消えてしまうこともある(いつまでもあると思うなあたりまえになっている日々)そう思うと、だらだらと不平、不満を言いながら、びくびくと固まって生きている場合じゃないと思えます。あたりまえと感じるくらい平穏な毎日なのだから、それを与えられていることで、自分がやるべきこと、できること、挑戦する場があります。

あたりまえが消えてしまった生活を送っている人達が世界中にはたくさんいます。私たちはとても恵まれています。そういうことを思い出させてくれた今回の中止になった花火大会。

秘められた可能性
2019/08/10

自分でできることは色々とやってみたものの、つらくって、苦しくって、カウンセリングを受けることを決めて、ほとんどの方がいらっしゃいます。

悩み、問題がそこにはあり(その後ろには希望がある)それをどうにかしたいと願っていらっしゃいます。それは人間関係であったり、自分の心身の不調であったり、仕事に関すること、お金のこと、家族のこと、自分自身についてのことなど色々です。お話しを伺い、私はそこについていくことをしていくわけですが、その途中において、お互いにまだ気づいていないことに気づいたり、何かちょっと息抜きができたり、発見があったり、感情の揺れがおこります。

もちろん、その人の悩み、問題がクリアできるように、ということに向かっているわけですが、そこにワークや、熟考や、非日常的な対話や、美しいものに触れることを通して(それはきっと自分でも気づかないうちに)だんだんとその方は悩み、問題というところから離れていくようになります。もちろん、何がつらいの?と聞けば、その話にはなるわけですが、それでも、その悩み、問題が以前ほどの威力をもたないようになっているように私には見えます。かと言って、すっきり楽になっているというのではないです。それでも、何かが変わってきているのを感じます。

そして、その先に現れるものとして、悩み、問題を、悩み、問題としなくなっていくことが起きてきます。それをどうにかしたいと最初は願って始めたカウンセリングでしたが、いつの間にかそれはそれとして持ちながら(持ちながらいられるくらい力がついたということです)それよりも、もっとおもしろいと思える自分への興味、探求のほうへ動き出していきます(必ず全員とは言えませんが)そうなってくると、カウンセリングはつらいものではなく、おもしろいもの、楽しいものへと変化していきます。その頃にはきっとすっきりしていなくてもいい、今のままでいい、という新しい自分に成っていることに気づくと思います。そういう意味で、カウンセリングとは今のままの自分を全肯定していく作業とも言えます。

ここに立つこと、これがまたその次への1歩になります。いきつくところがないものだから・・・・。だからこそおもしろいし、そこにある秘められた可能性は大きいと思います。

目指す軌道修正先は・・・
2019/08/09

・・・「あちらは、触れあいたい、サポートしたいと望んでいる」・・・という昨日の日記。

だから、そうできるように自分の中にいる「私」があらゆることをセッティングして、軌道修正しようとします。良いことも悪いことも。どうしたらわかってくれるかなあーーーと、あの手この手でセッティング。

そして、それを軌道修正したとたんに「こんな展開になりました、驚き」「こんなことが起こりました、信じられない」「こんなふうに変わりました、なんで?」と体験をした方はおっしゃいます。

私はこれを予告編と呼んでいて、それは「ほらね、自分の軌道修正をしたことで、こんなふうに物事は流れるし、変わるんだよ。それを体験したでしょう?わかった?だから、もう、以前の選択はやめようね。引き続き、この感じでやっていってくださいよ。続く」ということだと思っています。この予告編を一時のものにしないよう、本編になっていくよう、あとは自分しだいということです。

その予告編自体もサポートです。あちらは教えたがっている。そうか、こんなふうにして生きていけばいいんだな、こんなふうにこの世って、自分って、できてるんだな、という実感。

目指す軌道修正先は、正しく生きるということです。自他を貶めない、自他を裁かない、自他を比較しない、自他を闘わせない、自他を奪い合わせない、自他を決めつけない、自他を特別にしない、などなどです。これを思考でそうしようとするのではなく、そういう自分に成るということです。

こうして正しく生きる。お盆も近い。あちらのことを考えてみるのもよいのではないか・・・と思います。

サポーターとともに
2019/08/08

きのうふっと思ったのは、ご先祖様方はサポートしたがっているということです。

これは肉体のご先祖様だけではなく、魂のサポーターの方々もです。ところが私たちのほうでそれをブロックしています。あちらは働きかけようとしてくれているのに、自分の黒パターンがそれをブロックしてしまいます。チャンスを逃している、成長を逃している、幸せを逃している、と言えます。すごくもったいないです。

どんな黒パターンがブロックになっているのか?例えば、自分なんかどうせだめ、自分は出来が悪い、自分は価値がない、自分は不運、自分は愛されない、自分は一生苦労する、自分は素敵ではない、自分はもう年、自分は頭が悪い、自分は身体が弱い、あれもこれも、もっともっと欲しいなどなど。

又、他人に対して、自分より劣っている、大した人じゃない、あの人ばかりずるい、思い知らせてやりたい、愛されたい、大事に扱われたい、自分を認めてほしい、自分を傷つけないでほしい、自分を捨てないでほしい、あの人は使える、使えない、などなどです。

それらが自分の心を閉鎖的にし、重くし、暗くし、さきほどのサポートを受け取れなくしています。人はたった一人で生きているのではなく、本来、サポーターの方々のサポートを受け取り、ともにあり、生きられていると私は思っています。

そのサポートは自分にしかわからない小さなことであったり、ずっと疑問に思っていたことの答えであったり、健康に関することであったり、ひらめきやアイデアであったり、次へ進むための課題であったりします。それらを感じられたとき、何よりもうれしいのは、ひとりではない、という思いから、ひとりで頑張らなくていいんだという生きることへの気楽さです。

ひとりひとりにそういうサポーターがついていてくれています。あちらは、触れあいたい、サポートしたいと望んでいると私は思います。

強い決意と継続力と意志力
2019/08/07

・・・・・強い決意と継続力と意志力・・・・・きのうこの言葉が出てきましたが、ほとんどの方がこれを聞いた段階で「自分にはムリ」と思うと思います。この3つは苦手な方がほとんどです。

しかし、何かを成す、何かを自分のものにするためにはこの3つは必須です。

私も・・・・・そのときそのときの軽い決意、と、自分のペースで好きなように休みながら、と、できる気分のときだけやればいい・・・・・というもので自分の人生を創っていかれたらそれはもう〜〜楽だろう、と思います。しかし、これでは創れない。

で、強い決意、継続力、意思力が自分にはないと言う方もよくよくお話しを聞いてみると、今まで生きていた中でそれらを、もしくは、単独で、使った経験があるのに気づくと思います。ずっと日記は続けている、小学校の夏休みに水泳教室には毎日通った、ボランティアを続けている、趣味のピアノはずっとやっている、今までは何をやっても三日坊主だったのが「魂の道場」へはもう10年以上通っている、色々あったけど夫婦、続いている、仕事もなんだかんだ言いながらももう20年かあ・・とかとか。ちゃんと使っています。だから決してムリなことではないということに気づいてください。それを自分自身の変容のためにも使うということです。

この3つをキープするために「肩の力を抜いて」とか、「深刻にならずに」とか「ユーモアをもって」とか「長い目で見てね」とか「自分を責めない」とか「あきらめない」とか「あなただけじゃないよ、みんなそうなんだよ」とか「自分を待ってあげてね」と私は言います。

この3つを持ち続けてもらえるように。この3つに挫折しないように。それらの潤滑油になるような言葉たちも、この3つの大切さを知っていて、そこに向かわせようとしてくれているのを発するたびに思います。

思いはひとつ。幸福を感じられる「自分のための人生」を創りたい。そしてそこで生きたい。ここに向かって全身全霊で動こうとしているのが私たちです。

幸福になりたいから
2019/08/06

きのうの「自分のための人生」ウエイン・W・ダイア―著よりの一説について今日はこれを見ていこうと思います。

「今までずっと身についていた主観的な考え」これは今まで自分自身だと思い、自分を動かしていたパターンのことです。「この習慣的な考えをすべて捨て去るには、相当の努力が要求される」と著者は言っています。それぐらいパターンは普通であり、自分自身であり、長い間それに主導権をわたして生きてきているからです。パターンが感じる感情、パターンが思考すること、それが自分自身だと一切疑うことなく皆が生きています。

パターンは自分自身から湧き出す感情は、原因が自分の外にあると思っています。ですからここにもあるように「彼のせいで傷ついた」という捉え方をします。これは他によって自分の在り方が変わってしまう、という他による生き方を創ることになります。

そこで、そうではない自主的な自分を創るために「まず、自分の中にある古い考え方(パターン)を認識することがどうしても必要なのである」と言っています。今自分がどういう状態なのかをしっかりと認識しないと、何をどう変えていくのかはわかりません。自分というものをよくよく観察すると、ほとんどパターンで言動し、パターンを中心にして生きていることがよくわかります。このことに気づく、これを客観的に見ることができるようになるだけでも、かなりの変容です。

古いあり方を全て捨てて新な在り方を創るのですから、確かに、大変な道のりであり、困難なことです。何度も挑戦したり、実践したり、考えたり、毎日自分を観察したりしても、その途中においてはうまくできないことのほうが多いと思います。又、今日はうまくいったと思っても次の日にはまたできなかったということの繰り返しです。それでもやりたいのは何故か?それは、幸福になりたいからです。幸福を感じる心を持ち、その心で生きていきたいからです。そこには自分が創った「自分のための人生」があるからです。

多くの方がそんな人生を生きたいと願っていると思います。その願いがあるのに現実とのギャップがある。それが問題であり悩みです。

だったら「幸福になろうと心に決め、自分の内部に不幸を作り出してしまうような考え(パターンで生きること)にはことごとく立ち向かい(道場的には向き合い)それを打ち砕こうという(道場的にはケアし、選択する)決意がどうしても必要になる」のです。

誰のものでもない「自分のための人生」です。どう生きたいのか、どうありたいのか、自分で選んでいいんです。そしてそれを成すためには強い決意と継続力と意志力が必要になります。

生きる知恵
2019/08/05

今「自分のための人生」ウエイン・W・ダイア―著を読んでいます。(1940年生まれ。心理学博士。マズローの「自己実現」の心理学をさらに発展させた、「個人」の生き方重視の意識革命を提唱。新個人主義の旗手として世界的に評価される・・・と記されています)

この中の、自主的に生きることについての一説を今朝はお届けしたいと思います(以下、「自分のための人生」より抜粋)

『今までずっと身についていた習慣的な考えをすべて捨て去るには、相当の努力が要求される。自主的に生きるには、まず自分自身を認識することが必要である。

「彼のせいで傷ついた」というような表現をするときに、それを言っている自分に気づくことだ。何かをしているときに、自分が今何をしているかを心に留めることだ。新しい考え方を取り入れるには、まず、自分の中にある古い考え方を認識することがどうしても必要なのである。

多くの人は、自分の感情を起こすもとは外界にあるという思考パターンに慣れてしまっている。これまで何千時間もかけてこういう考え方を強固にしてきたわけだ。したがって、自分の感情の責任は自分が取るという新しい考え方になじむには、やはりこれから何千時間もかけなければならないかもしれない。それは大変な道のりだが、困難だからといってそれをしないですます理由には決してならない。

たった1回やってみただけで、そのときできなかったことを理由にしてあきらめるようではダメなのである。自主的に生きるには、まるで洋服を選ぶかのように、新しい考えを試着してみるだけでは十分ではない。それには、幸福になろうと心に決め、自分の内部に不幸を作り出してしまうような考えにはことごとく立ち向かい、それを打ち砕こうという決意がどうしても必要になる。』・・・・・・・・・・・大変共感です。

私は個人的に(いろんなカウンセリングやセラピーや癒しがありますが)このようにとても現実的で、誰もの中に存在している生きる知恵を使うものが自分の個性に合っているのを感じています。そういう意味では仏陀の教えもいかに、この思い通りにいかない人生を自分を変容させることで平穏に生きるかという知恵であり、やはり共感できます。
 
明日は今日の一説について書いてみます。

日傘
2019/08/04

63歳にして日傘デビュー。

去年、同じマンションに住む30代の方から「今年はいよいよ日傘を買った」という話を聞き「その効果は大きい」という感想を聞き、今年、初めて日傘を買いました。

今までは、常に傘をさすということが面倒だったのですが、使ってみると、確かにその違いを感じます。しかし、それよりも「自分のために日陰を用意してあげている」というのが、ちょっとした贅沢にも思えて、これは面倒よりも勝ると思いました。

この日陰は傘をさしているかぎりなくならないです(あたりまえすぎ)しかし、それっていいじゃないですか。自分のために用意してあげている、自分のために日陰をつくってあげている、このように、自分のためにしてあげている、という捉え方もあります。これ、よくないですか?

日傘をさすことで、UVカット、体感温度をちょっと下げる、多少涼しい気分になれる、といういわゆる日傘への一般的捉え方とは違うそれ。

「自分のために日陰を用意してあげている」ことから感じる満足感で毎日使っています。この日陰をつくる傘にも、ちょっとリクエストがあって、傘を広げるときに、少し手ごたえのある感じのほうが、いい、というのがあります。その手ごたえが日陰をつくる。それも、うまいぐあいに、ちょうどそういう傘を選んでいたので、そこもよかったです。

ただし、置き忘れに注意です。買い物をしていてお金を出すときにひょっと置いてそのまま忘れていて「お客さまーーー傘忘れてますよ」と言われたことがすでに数度あります。これはこれからも頻繁にありそうです。

人生ってこうやって創っていくのか
2019/08/03

「人生ってこうやって創っていくのか」という言葉をお会いしている方から聞いたとき、そのときのその言葉は、まだ確固たるというものではないものの、そこには、気づきはじめ特有のものが漂っています。(私的には、あーーー、何かがわかりそうーーーというもの)

人生は自分の意識が創ると言われていても、なんかそれって漠然としていて、それを知識として捉えると、良い意識で毎日いれば良い人生がやってくると思うと思います。私もそうでしたし、そのころはそうであろうと頭でしていたと思います。その頃から時間がたち、今わかるのは、それはまだ理解が浅かったんだなあということです。もちろん、良い意識(「私」の選ぶ)は基盤にもちつつですが。

じゃあ、具体的にどうやって人生って創っていくのですか?と聞かれると、なかなか言葉にするのが難しい。ただ、創っていく場所の特徴としては、過去には生きていない(過去に関する全ての後悔、悲しみ、恨み、執着など)しかし、やみくもに未来に生きてもいない(漠然とこうなりたい、こうだったらいいなあ、きっとこうなるなどではない)というところに立っているというのがあります(もしかしたら、人により違うかもしれませんが、私は)ここに立つためには過去に関するケアと選択が必要であり、未来に対する漠然さを現実に持ってくるという事が必要になると思う。

時々見る未来の姿(その心)はとってもかるーーーく、その姿(その心)にYESと言う気持ちが湧いてもくるもので、でも、確固たるという強いものではなく、遠くにふっと時々見えているものです。これを現実に持ってくるというのは、そこにいくために今何をやるべきなのか、何が必要なのかを考えて行動するということになります。

未来のそれについていく、道しるべのように立っているそれを時々見ながら、そこに向かう。こうして・・・人生ってこうやって創っていくのか・・・という実感がわいてくる。と、書いてみたもののわかりにくいですね。

もっと私がそこへの理解を深めれば(それはもっと高いところから見ることができるようになれば)わかりやすく言えるのだと思います。そのもっと高いところにいくためにはひたすら自分の「愛」を育てることしかないことは承知しています。結局は、ここなんだと。

昼寝
2019/08/02

梅雨明けと同時に激暑の毎日。

夜、寝不足のせいか、昼間に眠くなったりします。きのうは仕事がなかったので、昼間の眠気に誘われて、横になりました。そのとき、幼稚園のときのことを思い出しました。

幼稚園では夏の間だけだったと思うのですが、昼寝の時間があり、目が覚めた子から家へ帰っていいようになっていたようでした。昼寝に入るときには皆で並んで寝ていたのに、目を覚ますと誰もまわりにいなくて、いつも私が最後か最後から2番目でした。当時はおこして帰させるということはなかったのでしょう。目を覚ますと必ず先生が側にいてくれて、帰る用意を一緒にしてくれたところまでを覚えています。小さな幼稚園だったし、時代もあったのだと思いますが、のんびりとしていたのだと思います。

そんなことを思い出しながらきのうは2時間も昼寝をしてしまいました。

近頃、4歳〜6歳くらいの頃のことをよく思い出します。楽しかったこと、安心に満たされていたこと、やってはいけなかったこと、悲しかったこと、嫌だったこと、怖かったこと、そのころのことは小さかった自分なので、間違えて覚えていたり、ちゃんと記憶していなかったりではないかと思っていたのですが、そうではなく、そのときの私の頭と心でちゃんと記憶をしていたこともわかります。こんなに小さなときから、いろんな思いを持って生きていたんだなぁと思います。

自分の心の底にずっと埋もれていたものが出てくるという体験は自分を探求していくうちに自然に起きてきます。それらは痛みを伴うものかもしれません。又その逆のものもあります。どちらにしてももう「私」がそれらを受け取り、ケアできるように育ったからこそ出てくるものです。ですので、それらをただの思い出にしてしまわないで生きているものとして受け取って、見つめてあげてください。

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