ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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軽いタッチで
2025/05/27

昨日の補足です。

自分が自分の変容、成長のために手にした数々の道具。この道具は全て、軽いものです。重厚で取り扱い注意というものはひとつもありません。崇高とか、特別なもの、秘儀でもありません。誰でもが使うことのできる、軽いものです。

だから、たくさん持っていても全く重くありません。

そのひとつひとつの道具は使うたびに磨かれ、質を上げ、意味を含み、味を持ち、その道具の世界を拡げ、その人のための道具になっていきます。そんなふうに道具自体が育っていくのに重くはないんです。

だから、ひとつひとつの道具を深刻にせず、やらなくちゃ、できなかったらどうしよう、やっていかないとまた言われる、という重い動機(黒パターンの動機)で使わず、道具本来の軽いタッチで行ってください。

軽いタッチというのは適当にやるとか、何かをしながらやるということではありません。やりたいときにやればいいというものでもありません。細く、しっかりとした集中力(ブルース・リー先生がビーム光線のようなとおっしゃっていました)は必要です。でも、それは強い念、頑張る、たくさんやるということではありません。力みがないもの、でも、芯があるものです。

これを黒パターンにやらせてしまうと、もっとやれ、もっとたくさん、どんどんこなせ、どんどんかたづけていけばいいとなります。そうすることで黒パターンは満たされる。(自分はやっている感がある。そこには高揚感や充実感さえ感じるのでパターンは満足します。しかし、結果が出てこないという黒パターンの動機の結果)これは間違っていることなのでやらないようにしてください。

2極の世界に生まれ、そこで育ち、その教育を受けて私たちは生きているので「やってください」と言われると今までのやり方で、こなしていこうとします。しかし、その世界にないものを学んでいるので、それは通用しないし、それではより黒パターンを育てていくことになり、十分やってきたはずのその世界に居続けることになります。その世界はもう十分やった。だから、今、あとの半分の目には見えない世界について学んでいます。そこを探検していくための数々の道具ということです。自分の道具は自分だけのもの。だから、丁寧に扱い、上手に使いこなしていかれますように。「私」という王がたくさんの道具の管理もしています。王は道具扱いのプロ。王は忙しい。でも、それを嬉しく思っている。

使いこなす
2025/05/26

昨日で、大相撲5月場所も終わってしまいました。あ〜あ。次の7月が待ち遠しい。自分が好きな物事ってあっという間に終わってしまいます。それがまたいいのかもしれないけれど。

そして、5月もあと少しで終わりです。この分で行くとあっという間に1年も終わっていくのだろう。だから、毎日を大切に。

でーーーー、自分の変容とか成長とか、そこをやっていきたい方は、今まで習ったものをすべて屈指して日々やっていってみてください。

語りかけ、白黒ワーク、インナーチャイルドに会いにいく、意味づけワーク、熟考する、言葉にしてみる、感じてみる、イメージする、「だまりなさい」を使う、半強制的に白パターンを選ぶ/すぐに選ばない、勇気をもって実践、行動、素直さ正直さ、他人を黒パターンを満たすために使わない、そもそもを知る、「私」はそうは思っていないけれどを使う、もしかしたら…のマントラ、自分を客観的に観察してどのあたりにいるのかをゆがみなく確認する、開示をする、何を手放すのか、何を取り入れるのか、ノートやワークペーパーの見直し、根拠はないけれどの瞑想、クラシック音楽を聞く、本物の絵画を見る、本(詩や絵本なども)を読む、自然に触れる、祈り、良い感覚と悪い感覚はそれぞれのサイン、他人のパイプに入らない、入れない、自分はどうありたいのか、などなど(まだあるでしょう)学んだことを今の自分のために自分で考えてうまく使っていってください。

受け取ったものは、自分のものです。私から発信しましたがもうそれは私のものではないんです。それぞれに受けとったものはそれぞれの人のもの。だから、自分が受け取った道具をいかにうまく使いこなすかというところにかかってきます。

使いこなす、というのはその人の息吹がかかったものに変わるということで(だから、私のものではない)それにより、使われた道具は、エネルギーが増していきます。これは、それらを育てて言っているとも言えると思います。あらゆるものを上手く使えば相乗効果もあります。

そして、これらの道具全ては「如実知見」に向かっていくものです。1つのやり方だけではなく、いくつもの道具をどのように組み合わせ、どのようなタイミングで、どのくらいの頻度で使うのか・・・・。もちろん毎日全部を使うのは無理なので(黒パターンはこなすかのようにそうしたがるけれど)「私」の組み合わせになります。それを焦らず、早く変容を起こそうとせず、いい塩梅で続けていってください。

それが正しくできていれば必ず、なにか…なにかが見えてくるはず。それはとっても小さいものです。はっきりと現実が変わるというものではありません。でも、それ自体がきっと今までの目に見える結果を得た時とは違うなにかであることを感じると思います。

この2つ
2025/05/25

結局は…どう在りたいか…だけだと思います。

そのどう在りたいかは、今まで通りのままいくか、それとも、新たな生き方をするか。ちょっと乱暴な分け方ですが、この2つ。そういうことだと思います。

で、多くの方がパターンで生きているのでそれは日々苦しいんです。心身に感じているそれ、人間関係、お金、あらゆることにそれを感じています。しかし、それは自分が選んでいる。今までのやり方を選んでいるんです。

そういう状況にあると、新な生き方というのはとても救われる気持ちがわくかもしれません(スピを隠れ蓑にするとはそういうこと)ましてや、その新しい生き方に、自由、やすらぎ、安定などの言葉がついてくればよけいそちらを選びたいと思うと思います。これは、私もそうでした。当時、あまりにいろんなことがうまくいかず、苦しくて、新しい生き方をして、とにかく、心やすらかになりたいと思っていた。そちらへ逃げれば楽になれると。きっと多くの方がこの動機でそこへ向かいはじめるんだと思います。

それは、それでいい。はじめからもっと領域の高い動機を持つことなんて無理だからです。

しかし、それを選んだものの、ちっともやすらぎが来ないだけじゃなく、新な生き方って、こんなにも手間がかかり、時間がかかり、意志力や集中力や継続力が必要になり、大変なんだと思い知りました。だったら辞めてもよかったのに、辞めなかったのは、辞める機会がなかったからだと思います。

こうして少しずつ、あるときは一気に、気がついたら変わっている自分がいました。そこで起こる変化は段々と固定化されていきます。それが自分になっていく。そして、わかったことは、新な生き方というものがあるのではなく、新になっていく自分がその生き方を創っていく、ということだったということです。だから基盤は同じでもそれぞれの色を持った生き方になるんだと思います。

こうして見えてきた世界は、今まで知らなった、見えなかったものでした。こうなってしまうと、もう元の生き方に戻ることはできません(人は快が好きなんだと思う)そして、これがゴールではなく、きっと私の知らない、見たことのない世界は続いていくのでしょう。そこもまた知って、見ていきたいと、私にしては珍しく、静かな意欲がわいてきている今です。

天を信じる
2025/05/24

天(宇宙のルール)を信じる、という言葉。これもちょっと紛らわしい言葉だった、と反省。

これは、天を信じれば守られるということではないですということ。ここでの守られるというのは、危ない目にあわなくてすむ、怖い思いをしなくてすむ、ラッキーなことばかりが起きる、自分の望みを叶えてくれる、いつも楽しくいられる、苦労しなくていい、というようなことです。こうして自分が嫌な思いや、怖い思いをしなくてすむようにしてもらえるのが守られることだと思っています。そのために、天を信じる。

これは、ある領域においては成立するのだろうと思います。そういう領域も人にとっては必要なんです(私もどっぷりやりました)しかし、自分の精神性が上がってくることで、より現実的になっていくので、なんか、そう単純なことでもなさそうだと気付く人は気づきます。

天のルールって?本人が決めたことが優先される。そして、その結果が与えられる、それに対してまた何かを決めて、その結果を受け取るということがルールです。原因と結果。すごくすごくシンプルに言えばそれだと思う。自分の今までの軌跡を冷静に見てみると、まさにそうだったとわかるのではないでしょうか。

そのルールからはみ出すことが出来る人はひとりもいなくて、はみ出せないことで逆にそのルールが私たちを守ってくれています。自分の意思というものを使わなくてはならなくなる(そのために生まれてきているので)そういう守る。その人の命(魂)を最大限に発揮できるようなシステムの中で生かされていることは守られているということ。

だから、すでに皆が守られて生きているんです。そういう天を、システムを信じるかというところです。

ほっておくの続き
2025/05/23

「ほっておく」という言葉にピンときたり、何か、いいなあと思えたりした方は「私」が欲していることなのかもしれません。

で、もし、そこへ自分がいきたいと思うのなら、まず、その意思を持ち続けることです。それは変容には必須。自分は何処へ向かいたいのか、どうなりたいのか、どうありたいのかを持ち続け、毎日思うことです。

これがなく、仏陀がそう言っているからそうならなくちゃ、とか、仏陀が言うから正しいんだ、とか、そうなれば自由に楽になるんだ、というところには、自分の意思はありません。あらゆることが自分の意思からスタートしているのですからここは土台です。

そして次に今の自分を見て認識していくことがあります。例えば「ほっておく」に対して、すぐにそうなれるところまで「私」を成長・進化させている人たちもいます。あと一歩のところをこの言葉で押してもらうというような。稀だとは思いますが、そういう人たちもいるのです。

しかし、多くの場合、そうはいかないと思います。今の自分はどうか?一気にいけるところにいるのか?というところをゆがみなく見て、今の自分の状態を知っていなくてはならないと思います。頭では仏陀のいわんとすることはわかっているけれど、今の自分がそうなろうとしたら、思考でそのようにしていくしかないな(そのやり方しか知らないな)と自分の今の状態をちゃんと知るということです。それはもちろんダメな自分ではありません。その状態は誰もが通る必要な道だからです。

そして、次に「ほっておく」を今の自分にとってわかりやすい言葉にしてみます。例えば、それはあるがまま、ただあるだけ、ただ、起きているだけ、如実知見、など。

それをもっと自分に寄せた言葉にしてみると、相手のパイプに入らない、相手を変えようとしない、天(宇宙のルール)を信用する、すぐに求めない、答えを決めない、自分を待つ、など。そんな感じなんじゃないかと思います。

ここからなら、なんとなくわかる気がするかも。ここがわかれば、そういう在り方をしていくにはそれを邪魔するパターンがあると思うので、そのケアが必要だなということもわかる。わかったら実践。

やることはいつもと同じですが、このように、偉人、賢人の言葉を自分ごとにしていくといいです。そして、ここから見えることは、自分のパターンもほっておくです。それは、好き勝手やらせることではありません。彼らをありのままにいさせてあげよう、その在り方をコントロールしない、という「ほっておく」です。

ほっておく
2025/05/22

仏陀の教えの中に「ほっておく」というものがあるのだそうです。

「ほっておく」と聞くと冷たい、とか、厳しい、とか、と思われるかもしれませんが、その言葉の奥には「執着から離れる」という意味があるのだそうです。

他人に対して、自分自身の心身に対して、あらゆるところで、この「ほっておく」が使われていくことで本当の自由、解放を体験でき、まさに、のびのびと生きていくという現実を創ることになるんだと思います。解脱。

…という精神のお話。私はこの言葉を知ったときに「なぜ、ほっておくのか。それは、全ては流れていくようにできているから」と思いました。それがそもそもにあります。ずっと同じ状態が続くわけではなく(それを望んでいればそうなる)その起きていることをほっておけば、いずれそれは動いていくのだから…と思いました。これも天に養ってもらっていることの証。

それがやってくるまでの間が待てなくて、自分の力でどうにかしようとすることでますます執着、固執は強まります。そもそもに反抗して動こうとするのはパターンなので、結果、苦しむ(それは違うよと言うサイン)。ほっておけないのは、今起きていることについて、余計な心配をしたり、まだ何も起きていないのに、想像したり、深堀しすぎていくことでそれを巨大化させてしまうからです。そうなれば、とても怖い。不安。だからほっておくなんてできない。

ここまでそうだよねと思えます。かと言って、一気に「ほっておく」の境地になれるわけはなく、その難しさがあるのだと思います。「そうすればいいんだ」と思考してそのように振舞うことを多くの人はしますが(外側の人格だけを変えようとする)それで本当に心は晴れているのか、のびのびできているのか、と言ったらそうではないでしょう。

では、それをどうするのか、というところを今の自分に当てはめて考えていかなければいけないのだと思う。ということで、明日はそのことについて考えたことを書こうと思います(多分)。

そのままでいい
2025/05/21

自分に執着しすぎることが、自分を苦しめるということになっていきます。

自分への執着とは、パターンが思っている、自分の姿のことです。それは外見から、内面にいたるまで。そして、そんな自分がおくる生活全般へ、他人へ、社会へ…と執着は広がっていきます。

特に自己探求を続けていくうちに、自分の内面への執着が強くなっていってしまうことがあります。それは一見すると、自分に一生懸命に向き合っている、と思えるかもしれないし、外側から見ても、頑張っている、と見えるのかもしれません‥が‥ここは注意が必要なところです。

内面を整えようとする気持ちは、持っていたほうがもちろんいいのですが、整えるということをもしかしたらパターン的な捉え方をしてしまっているかも。

整える。正しくある、きちんとした、誰からも良い人と思われる、優しさ、ぶれない、などなど、一般的なイメージの整えるになっていないだろうか。

それを自分の心(パターンの住む部屋)にあてはめようとしても無理です。無理なことをやろうとすると苦しくなる(それは違うよと言うサイン)。それをやっていないだろうか、というところを見てみます。

そもそも心はそのように創られていないので、そこにパターン的整えるを持ってくることはできないのです。本来の在り方にあわせていかないと結局は苦しくなるんです。本来の在り方は、パターンたちはそのままでいいという在り方です。そう思える「私」であれば、彼らを抱くことができれば、何も変えることはなくていいのです。

となると、やはり「私」の技量の問題となります。その最たるものは「そのままでいい」というものです。この「そのままでいい」を感じられていかれるように、語りかけではその言葉をパターンに伝え、それが体験できるようにパターンたちに手伝ってもらいながら練習させてもらっているのです。だからありがとう、パターンです。

輝かせて…
2025/05/20

私は自分の命を輝かせて生きたいと思っています。

輝かせてって、目立たせる、とか、きらきら、とか、どうよ、私…ということではなくて、この命が本来持っているものを十分に使って、命が喜ぶようにしてあげたいということです。それに伴い、身体も。

命は魂であり、魂は尊き真ん中に在るもの、という意味なんだそうです。これは昔、先生から教わったことです。自分の真ん中に在る尊きもの、それはまさに「私」。それを輝かせてあげたい。

そのために(そこへ向かうには)今、自分に何が必要で、何を手放すべきか、何に挑戦しなくてはいけないのか、課題は何か、が具体的にわかっていないと動けない。それがわかれば、それに従っていけばいいだけだということになります。やってみて「あっ、違うか」ということもあるのでその時はまた考えてみます。

そしてそれを継続すること。継続は力なりと言いますが、本当にそうだと思います。継続し続けて得ていく自分の新な力、能力、結果、現実の変化などなどを通して、自分の成長というものが感じられるのだと思います。で、私はそれがとても嬉しい。きっとそれは、この体験が最もやりたいことであるからだと思う。

魂を成長させたい、ではなく、輝かせてあげたい、と思う近頃。これ自体も自分の変化であり、やり続けてきたことから得られたものであることがわかります。

いや、得られたのではないな、与えてもらったですね。今日もひとつひとつの選択を積み重ねて過ごしていきたいと思います。

適応力
2025/05/19

自分の寿命を終える日までの間、人は刻々と変化していく自分の身体、心、環境、人間関係、仕事、お金などなどに適応して生きていかなければなりません。

この「適応」するということがたくましさであり、柔軟さであり、知恵を個性を発揮する時なんだと思います。

メンタルが強い、頑強な体を持っている、やる気がある、前向きである、めげない、ことが生き抜く力と思われると思いますが、ここだけにたよってしまうと、それが出来る人は選ばれた人のみ。もともと持って生まれた性格とか個性とか育った環境で成されていくものだからです。

しかし、適応力、と考えてみると、これは大人になってからでも作っていかれるものなのではないだろうかと思うんです。いや…大人になってからのほうがいい。なんせ何十年も生きてきているし、それなりに皆、苦労もしたり、病気をしたり、人間関係のわずらわしさも体験しているし、逆に感動や感謝や喜びなど、たくさんのことを体験してきているからです。こうして生きてきたという現実。

そして、何より、他人を変えることはできないことや、自分に起きることを避けることだけをし続けることへの疲弊や無力感なども知っていて、だとしたら、そこと闘うのではなく、それを自分の手中におさめてしまうほうへ動いてみようという気がわいてきます。

しかしそれは自分が耐える、ということではなく。だいたいうまい具合に、年を重ねるごとに耐えることができなくなっていくので、だとしたら、知恵を使い、柔軟さを使い、いいあんばいに適応していくという新しい選択をするのはいいと思います。

自分の人生をそれなりに生き抜くには「適応力」が必要なのだと思います。それも自分の適応力。そして、それ自体も変化していきます。それが、どなたかが言っていた「生き方を学び続ける」ということなんだと思います。

新な自分の普通
2025/05/17

語りかけワーク…「そうだよね…」から始まるとてもシンプルなワーク。道場では、最初に行うワークであり、きっと初めて自分の内にあるものに目を向け、そこに声をかけることを知るものだと思います。

簡単(そう)なワークなので、ついつい慣れてしまったり、やればいい、という気持ちになったり、やらなきゃ、やれば楽になる、などなどやっていくうちに自分の判断や理解でワークをしてしまいがちですが、このワークはとても奥が深いものです。

そこに気づいていき、そこでの気付きから何を学んだのか、というところが問われるものでもあります。それは感覚だけではなく、どんな言葉を使うのか、と、言葉についての感度を上げていくことになります。それが、カウンセリングにいかされていきます。美しく、クライアントさんに合った言葉を…。そういう練習にもなります。

そして、このワークが「如実知見」(ありのままに見て知る)に自然と向かっているということ。ここが最大の良さだと思います。ワークを通して、この在り方を練習していっていることに気づいているでしょうか。この在り方がワークで培われていっていることを感じているでしょうか。「如実知見」は智慧の力で見て知ることなのだそうです(肉体で見て知るのではなく)智慧の力=「私」。語りかけは「私」そのものも育てているわけです。

難しいことではないんです。やり続けることでそれは心身に定着していきます。それが普通になります。新な自分の普通です。新な普通が認識できて(顕在意識に上がってきて)はじめてそういう自分になっていきます。

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