ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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どっぷり極限ではないところのそこ
2020/12/26

「明けない夜はない」・・・・とシェークスピアは言う。「暮れない昼はない」・・・・とPontaは言う。

今、苦しい中にあっても、物事は動き、明けていくし、今、絶好調の中にあっても、物事は動き、暮れていくことを繰り返します。

そもそも、こんなふうにできている。全てが。このことを自分の体験を通して、ああ、そうなのか、と理解し、自分のものにしていくと楽に生きられます。

ずっと昼だけ(明るさだけ)でいたいと思いそれを得ようと執着するところに、苦しさや、もやもやや、焦りなどがやってきます。

単純に、これは宇宙の意思に沿った在り方ではないから苦しい。

そして、とても大事なことは、自分の心の、この昼→夜→昼→夜のくりかえしの幅を小さくしていくことです。自然界のそれは私たちにとって負担なくやってきますよね。急に夜になって急に明るくなってではなく、徐々に、動いています。それを自分の心の動きのお手本にするといいんです。

今は夜のほうに傾いているけれど、どっぷり極限のそれではないところのそこ。今は昼のほうに傾いているけれど、どっぷり極限のそれではないところのそこ。その間を行き来する分には、負担はなく、なおかつ、自然に沿った、生き生きとした動きの心になります。

そこの幅の小ささを自分でどう創るのかというところが心の探求をしていく人達の技のみせどころであり、面白さです。2極のどっぷり極限ではないところのそこって自分にとってどこ?それを探していってください。

正しく生きる
2020/12/25

正しく生きるということがとてもとても大事なことだと痛感した今年。

去年の今ごろは、まだコロナ騒動はなく、マスクをしている人もいなくて、今まで通りの年末を過ごしていた私たちだったのに。今年は思いもよらず、大変な1年となりました。

しかし逆に、今までの生き方を省みたり、もう、今まで通りに生きなくてもいいのかもしれないと、新な目を持ったり、どこかで腹をすえたり、何が自分にとって一番大事なことなのかがクリアになったり、自分専用の意味づけを屈指して、これからの生活を考えたりと、人によっては、良い1年になったという方も多いと思います。

そして、やはり大事なことは正しく生きるということなんだと私は思いました。正しくというのは、この宇宙の意思に沿って存在するということです。でも、それは決して聖人君子になるとか、光だけの私になるということではありません。光と闇とでひとつなので。

では、宇宙の意思に沿うとはどういうことなんでしょう。それは、私たちの中に存在する永遠の命である「私」を使って生きるということです。それをこの地上で、毎日の生活で、自他に使いながら幸せに生きてほしい(幸せになってほしいではなく、幸せに生きてほしいなんです)ということです。

これだけ。それが私にとっての正しく生きるです。

「私」は今の自分をそのまま受け入れることで自分で自分を育て、それを誰かのために使うことを望んでいます。誰かのためは一人の人でもいいんです。人数には関係ありません。もしかしたらそれは人に向けられるのではなく、他の生き物や自然に対して向けられるものかもしれません。それでいいんです。それも大げさなことではなく、小さな花を見て美しいと思うことや、青い空を見上げて心が落ち着くことや、雨のにおいをかいでほっとすることなど、そういうことでいいんです。

これから先の見えない今には、不安と恐怖が蔓延しているため、とにかく、今まで通りに、今までのやり方で、自分と自分の家族が損をしないように、守られるようにという人が増えています。確かに食べていかなくてはならないので、そちらへ傾きやすいと思います。しかし、起きていることへの自分の意味づけを考え、そこに、何かほっとできるものがあれば、それを選択していくことで、今までは考えられなかった生き方が出現するともいえます。そんな正しく生きる。これからはますます正しく生きることを私はお勧めします。

やりたいこと
2020/12/24

先日のAさんとの対話で、Aさんから「洋子さんは一番やりたいことは何ですか?」と聞かれました。

それに対して速攻で答えたのは「動物と暮らしたい」でした。「やりたいこと」はこれです。

魂の成長は?これは生きていくことがそれなので、やりたいこととは、離れています。

動物と暮らしたい…そして「人間に虐待された動物の世話をしたい」と言いました。たくさんは世話できないだろうから1匹、2匹くらいで。

知り合いの方が虐待されていた犬をひきとり世話をしていたのですが、その犬は人をとても怖がり、ひきとられてきたときから、死ぬときまでずっと家の軒下に入りっぱなしだったそうです。家族の誰も彼にさわることはできなかったと言っていました。でも、家族が誰もいないときにはそっと軒下から出て太陽の陽をあびていたのかもしれません。庭に咲く花をみたり、鳥の声も聞いていたのかもしれません。そうであったらよかった。

虐待されていた動物は、いわゆるペットのイメージ通りではないこともあると聞いたのですが、私はそれでもいいと思います。その子に触ることができるのは死後になってしまっても、その子を守りたい。

以前、ポロン(オカメインコ)がお世話になった鳥の先生がポロンの死後「もし、また鳥を飼うのであれば、里親になるというのもあるんですよ。高齢の方が飼っていた小鳥でその方が施設に入るから、病気になったからと飼えなくなってしまって、保護されている子たちがたくさんいます。ただ、以前飼っていた人に慣れているので、新しい飼い主さんにはあまりなれないかもしれませんが」と話してくれました。そのときにも、自分になれなくてもいいなと思いました。

Aさんから「これから、そういうことがやってくるかもしれませんね」と言われ「そうなるといいなあ」と思いました。

そういえば、子供の頃から動物が好きで、動物と一緒にいるときが最も自分らしくいられた気がしていたのだと思います。だとしたら、動物に関わる仕事についてもよかったはずなのに。まあ、ここが人生の不思議なところですね。ここには魂の色々な計画があるのでしょう。来世こそは動物に関わる仕事がしたいです。これも、来世は来世の計画があるから何とも言えないけれど。

言葉
2020/12/23

「ありがとう」「楽しい」「うれしい」「元気」「健康」「幸せ」などの言葉。

「ただ、これらの言葉を心でつぶやくだけで、良いほうへ動いていくよ」ということを昔言われたことがありました。当時は、ふーーーーーん、くらいで聞いていて、やってみたものの、なんだかなあ…という感じでしかありませんでした。

それは、そんなことだけでよいほうへ動いていかれるのなら世界中の人がみんなよいほうへ動いていっているだろうと思ったのと、心に関することに、これをやればこれが得られるということが嫌だったというのがあったからだと思います。

なんだかなあ…と思いながらも、続けていれば、何かがあったのかもしれませんが、心に響かないことをやり続けることがだいたい出来ないたちなので、いつのまにかそのことは忘れていきました。

ところが3週間ほど前に、急にこのことを思い出し、試しにこれらの言葉を心の中でつぶやいてみました。すると、あら、不思議。これらの言葉が心をその言葉と同じ状態にするんです。「ありがとう」と言えば、心が「ありがとう」になっている。「楽しい」「うれしい」と言えば、心が弾むように喜んでいる。「元気」「健康」と言えば心の中に活力が満ちてくる。「幸せ」と言えば、心は深くその幸せを感じ感謝している。というように。

それも一瞬でなる。こんなに言葉と心が一体感を持てるなんて…。これは楽しいと思いました。それもこんな簡単な言葉でどこでもできるもので。言霊ってこのことなのか、と。

言葉にはその言葉特有の力が宿っている、ということを体感しました。これはもちろんネガティブな言葉でも同じことがおきます。自分にどんな言葉をかけてあげるのか。それにみあった心になっていくのだと思います。

許していないから暴れる
2020/12/22

お会いしている方に時々話すのが「私とあなたの違いは、私は自分の全てを許しているというところだけだよ。」・・・ということです。

本当にここだけなんです。ここだけ。

私は人格者とは言い難いし、偉業を成した高名な人でもありません。ただ、私は自分の全てを許している。許しているなんていうと崇高なことのように思うかもしれませんが、心境的には、いいじゃん、いいじゃん、これで。という感じです。

それは、自分の身体的なこと、性格も、個性も、過去に行ってきた全てのこと、パターンたちも、自分のインナーチャイルドも、広い目で見ると過去世の自分も。そのままでいいんです。

自由に楽になるのには、ずばり、これだけです。

よく日記に書いていますが、私はストレスにものすごく弱くて、嫌なことや、我慢や、無理をすると、腰が痛くなったり、微熱が出たり、皮膚が痒くなったりします。そういうときに「なんて、自分ってだめなんだ、なんでこんなに弱いんだ、なんで皆のようじゃないんだ」ではなく、そういうときは、ひたすら寝る、嫌いなごはん作りはやらない、好きなようにさせてあげる、などで、体が治ろうとする手助けだけをするようにしています。手助けだけというのは、体には体の都合があるので、待ってあげることも必要だからです。過剰に手助けという名前の強制を体に与えないようにしています。時間がかかることも許してあげればいい。

心理的にも、落ち込んだり、焦ったり、腹が立ったりということがあれば(今はほとんどないけれど)まず、そうなっている自分でいいし、それはパターンなので、必ず向き合うようにします。私の感覚では向き合う=許している状態という感じがするので、それがどんなパターンであってもいいわけです。

パターンはこうして許してもらえることがわかると、そもそも暴れない存在です。許していないから暴れるんです。

こうして日々、許しを基盤にしていくと、抵抗がない状態なので、ものごとはスムーズに流れます(これは当然ですね)そんなときに、あらゆることに抵抗をするな、と言っているマスターの言葉がこういうことだったのかということも理解できます。許すこと、そのままの自分を。あらゆるものを持っている自分を。

奥さん
2020/12/21

先日、父のおともで、病院へ行きました。

この時期だからか、それほど混んではいなくて、よかった。診察室の前で、父と2人で名前を呼ばれるのを待っていました。

そこに看護師さんから「先に採血をしましょう。こちらへいらしてください」と案内がありました。父と一緒に私も行くつもりで立ち上がったところ「奥さんはここで待っていてください」と言われました。

そして、父は看護師さんとともにその場を離れていきました。

・・・・・おくさん・・・・・おくさん・・・・・って、父の妻ということ?それって私のこと?・・・・・トミーのお母さんと間違えられたときもかなりのショックだったけれど、20歳以上も上の父の奥さんと思われたのは、もーーー再起不能というくらいのショックでした。

こうなると、頭の中はぐるぐるします。やっぱり髪を染めるべきか、マスクで顔のほとんどが隠れているのにそんな年上に見えるということは、目元がたるんでいるからか、全体から老人ぽさがにじみ出ているのだろうか、80代の父の妻ということは、私も80代に見えるのか?・・・などなど。

なんだかぼーっとしてしまい、父が戻ってくるまで目の前の窓から見える富士山をながめていました。富士山はいつまでたってもきれいでいいなあ。なんて思いながら。

そこに父が戻ってきました。その直後、以前、父がこの病院に入院したときの担当の先生があらわれ、父に「伊藤さん、覚えてる?以前担当した〇〇です」と声をかけられました。父は覚えていて「ああ、先生…あのときは…」と話しています。すると、先生が「今から、お嬢さん?お嫁さん?と話しをするから待っていてね。では、こちらへ来てください」と言われました。

ああーーーよかった。ここでまた奥さんと言われていたら、泣いてしまうかも(…は、ないか)先生の後ろを歩きながら<若い先生から見れば、奥さんには見えないんだ。さっきの看護師さんは年配の人だったから、目が悪かったんだ>といかにもパターンが考えそうなことを思いながら先生についていきました。

パターンと言えばパターンです。でも、でも、ヤッパリいや。この微妙な年代の女性に対しての言葉で、奥さんとか、お嬢さんとかではない何かいい言葉ってないものでしょうか。名前を呼んでもらえると一番いいんだけどなあと思ったできごとでした。

生存と存在
2020/12/20

昨日の、ミームの資料にとても興味深いことが書いてあります。それはミームの6つの第一層は「生存」の価値ミーム、第二層は「存在」の価値ミームというものです。

第一層にあるそれぞれのミームは、生存するためのミームで、ベージュのミームの「ただ生きるためだけ」から出発し、そのほかのミームも生存するために(生き延びるために)あるのがわかります。

生存するために精霊や神秘的なものの力を借り→他を支配し→権威的正しさで自分を守り他を抑制し→戦略と競争で他に勝つ→他への気遣い、平等にて平和を求める。生存するための道具を次々と用意して試していきます(これで生きられなかったらこれというように)

もちろんそのどれもが大事です。下のミームだからレベルが低い上だからレベルが高いのではありません。どのミームにも否定的な面と肯定的な面があるとも言っています。

この生存のミームの次に第二層「存在」のミームがきます。存在のミームに入ると、どうやって生存していくか、というところから、すでに今生きている自分というものが出発点となり、そこから見えるものを追っていくように思えます。現実をしっかり生きながらも、自分の個性を使い、なおかつ、普遍的なものへ視点が移ります。

私が感じたことは、捉え方のこだわりが薄れる、混沌としていくように思います。そして、第一層でのミームの自分たちが正しく、他は間違っているというこだわりを超えていきます。そこから見えてくるものは、全てのミームを持っているからこそ人は豊かであるということ。そしてそうだからこそ、自分に起こることへ向き合うことができ、その都度、体験してきたあらゆるミームから必要なものを選ぶことができるのだということです。

第一層ミームは、とにかく生き延びようとする黒パターンの姿と似ています。黒パターンはそのものへの偏った執着が強いです。そして、第二層ミームはそこへのこだわりから離れた白パターンの姿と似ています。

自分らしく生きる体験は、この第二層に入って初めて体験するものなのだと思います。これはまさしく、白パターンを選ぶことで自分らしく生きることとも似ていると思いました。

ミーム
2020/12/19

Aさんとの対話を進めていくうちに、多分、Aさんはミームについて思ったかもしれません(ここは確認していないのでなんとも言えない部分ではあるのですが、おそらく)結局ミームです。

ミームについては「自生塾」の岩崎 マーガレット 葉子さんが12月15日の日記にミームについての資料を貼ってくれているので、ぜひそちらを読んでみてください。ミームへの理解が深まると思います。

「スパイラルダイナミクス 限りなく上昇する探求」
http://integraljapan.net/articles/sd_1.htm

その文章の中にもあったように、私たちは新しい概念世界を構築していく能力を備えている、ということです。これは精神性の成長に伴う新なその人の意味づけであり、その意味づけは今までとは違うところに足を踏み入れたことにより気づいたり、見えたり、感じたり、熟考したりして生まれるものです。

「成しえていない」をある領域(圧倒的に人数が多い)から見れば、だめなこと、なさけないこと、能力がないこと、自信の喪失、他から認められない、こんなはずじゃなかった、などの意味づけができます。

しかし、今回のように何に対して成しえたいのか、という新な視点をもったとき、自分に起きているこの状況が全く反対のものになったりもします。それはプラス思考にむすびつけようとひねりだした苦肉の策ではなく、明るい未来と普遍的なものを感じられる軽さを伴うものです。こうして人間は新しい概念世界を創っていくのだと思います。

そして、それを自分の哲学(ルール)にして、それを自分のために使って生きればいいと思います。そしてまた「私」が育っていくうちに、きっとまた次の領域へと進み、また新たな意味づけをします。そこでの「成しえてる」とは一体どんなものなのか。楽しみです。

「私はカウンセリングの仕事をしている。これは誰にでもわかりやすい成しえたものと意味づけすることができるけれど、その領域においては、この形になってしまったものが自分を縛るということも感じている」と話しました。これは決して自分を縛るカウンセリングという仕事を嫌々やっているということではありません。この仕事は好きだし、自力で成長していく方々を間近で見られることは何よりの喜びです。そして努力し続けてきた自分のことも自分で認めています。しかし、形あるものを成しえるという領域においては、その形を崩せないものもついてまわると思っています。

ところが次の領域においての「私」を成しえるというところには縛るものはないんです。「私」は目に見える、誰にでもわかりやすい「形」ではないからだと思います。その領域の選択もあります。

選んで、決める
2020/12/18

自分のセンサーを使うということはとても大事なことです。

それが「私」にとっての「快」なのか「不快」なのか。そこでの「快」の選択だけを積み重ねていけばいいんです。「快」を追っていけばいい。

それは「私」にとって解放感があり、安心があり、広がりがあるものなのか。それとも、焦りや、不安や、重さがあるものなのか。「私」はこの個体がよりよく健全に本質的に今世の課題をクリアするために生きていくには「快」が必要であることを知っています(魂歴が長いので)例え、隣にいる偉い人が「それは違うよ」と言っても自分のセンサーのほうが正しいのです。

このときに黒パターンを熟知していない場合は「快」と感じているのが黒パターンであることが多いです。しかし、ある程度自分に向き合ってきた人たちにとって、黒パターンの「快」と「私」の「快」の違いは肌感覚でわかるはずです。

Aさんとの対話の中に「私たちは神と離れてしまっていてそれによってこの幻想の世界がつくられていて、それがあたりまえになっていて、それは人々の目を覆っている。そんな全てが幻想の世界なんだけれども、どう思いますか?」という話がありました。それについて「私にはこの世は幻想の世界には見えていない。私は神と離れてしまっているとは思っていなくて、私は神とともにいることを決めている(神のお腹の中にいる)神と離れていると決めているのか、神とともにいると決めているのかによって見えている世界はおのずと変わるよね」と言いました。

何を決めるのか、なんです。自分が何を決めているのか。まず、決めるが先にある。決めるためにはその前に選択がある。でも、黒パターンが言うんです「自分が決めたものが正しいのかどうかわからない。間違っているのかもしれない。自信がない。だったら偉い人のいうことに従っておこう」と。

これは黒パターンの言い分でしょう?なぜそれを聞いてしまうの?

大切なのは「私」のセンサー。「私は神と離れてしまっている」という言葉と「私は神とともにいる」という言葉を心に響かせたとき、どちらのほうが、ほっとしたり、肩の力が抜けたり、落ち着く感じがしますか?ということです。きっと神とともにいるのほうだと思います。この「私」の「快」は<それは自分にとっての真実なんだ>というサインです。だからこれを選び、決めればいいんです。黒パターンが騒いだらケア。そして「私」の「快」を選び、決めることです。

神とともにいるという根拠はあるのか?…ないです。でも、根拠をもう、必用としないという領域がある。そして決めている人の脳はそこに関する情報を集めようとするし、自然と神とともにいることを感じられるようにもなる。ある意味、これが新な根拠になるのか。

あまりにたくさんある情報の数々の中から、自分にとっての真実を見つければいいということになります。それはその言葉を聞いたり、見たり、読んだり、誰かと会ったときに「私」が感じる「快」によって判断することができます。あとは練習。続く。

成しえていない
2020/12/17

今年最後の沖縄クラスも無事に終わりました。皆さん、今年1年ありがとうございました。

今年最後のクラスにふさわしく、今回はそれぞれが気づいたこと、何かを機にしてあらわになったことなどあったと思います。全て偶然はなく、ちゃんと歩んでいれば必要なときに必要なことが自然と起こるのだとあらためて思いました。これからもこのまま正しく歩んで行こう。

そして、今回、個人セッションでお会いしたAさんとの対話が印象的であり、この道を歩んでいる人達の気づきや理解につながるのではないかと思い、そのセッション内容について書かせていただこうと思いました(ご本人に承諾いただきました)

Aさんが話されたこと、それは「自分は何も成しえていない。それに対するむなしさや罪悪感がある」ということでした。50代のその方の中では自分が成しえたものは何もないと思っています(これももちろんネガティブな感情がともなうので黒パターンです)そして、何も成しえたものがない自分はだめでそれゆえ自分に自信がないと。(これも黒パターン)

ここでの成しえたものとは、何か形になっているもの、誰にもわかる目に見えてわかるもの、自分が本当に好きなことを仕事にできることなんだと思います。

それを聞いて、私は(Aさんとは長いおつきあいであり、Aさんの成長や個性を今までそばで見てきて)「?」と思いました。

「なんで?Aさん、もうすでに成しえているじゃない。だって、自分に向き合い「私」を使い、それを育て大きくして、それを日々生活の中で鍛錬し、より「私」を成長させようとしているでしょう?こうして人が最もやるべきことを成しえているでしょう?最もやるべきことでありながらも、難しいそれを成しえていて、そのほかに何を成しえる必要があるの?誰にでもわかりやすい形あるもの(もちろんそれも成しえたものと捉える領域はある)はいずれ消えていく。けれども「私」は消えることはない。永遠に。それを行っているということは、自分、すごいな、成しえているんだ、では?」と言いました。

それに対して「ああ、そうか」と言ったAさん。この会話だけで理解できたということはすでにそこの領域に100%ではないにしてもいるということです。

それでも黒パターンは形ある成しえたものを欲しがるかも(だからケア)しかし、どの領域の成しえたを選びたいのか決めるのは「私」です。一般的な(多くの人が存在している)領域の成しえたを選びたいのか、次の領域のそれを選びたいのか。それは頭で考えることではなくて、前者の成しえたから感じ取れる感覚と、後者の成しえたから感じ取れる感覚と、どちらが「私」にとって「快」なのか…という自分のセンサーを使うことでわかることです。続く。

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