ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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自他のパイプを尊重する
2025/10/31

昨日書いた「他人への諦め」これについてもう少し書きます。

「他人への諦め」は孤立するということではありません。他人に助けられているのが私たちです。毎日の生活は自分ひとりで成り立っているわけではなく、見知らぬ人々の仕事により、努力により、私たちは生きていかれています。

こんな基本的なところからはじまり、何か困ったことがあったとき、病気になったり、事故にあったり、どうしてよいのかわからない時、そういう時にはその道のプロに相談し、助けてもらいます。

そのほかにも、もっと身近にいる家族や友人に助けられてもいます。辛いことがあっても、親や子供や孫の為と思えば頑張れるということもあります。

そんなふうに私たちはたくさんの人達により生きていかれています。これも現実を知るということのひとつです。

だからこそ、自分の内にあるものには、他人を使わず、自分で引き受けて、できるだけ善い状態で他人、家族と関わりたい。もう、他人から、黒パターンが欲しているものを与えられなくても「私」がパターンに与えていかれれば、そこには、安定と自由があります。それが本来のものだからです。他人に求めている間は他人の都合もあるし、こちらのパターンの都合もあるので暗黙の内に取り決めがあり窮屈なのです。

安定と自由な自分であるからこそ、純粋に他人とも関われる。そして、その関わりから学ぶことは、自分とその人は違う、ということです。話し合えば理解できるのではないです。話し合えばあうほど、自分とその人の違いが理解できるのです。

その時に初めて、自分専用の、その人専用のパイプというものが見えるのかもしれません。各自のパイプに異質なものを入れることができない、ということがより理解できる。それは、自他のパイプを尊重するということ。そういうパイプが「洲」なのだと思います。

諦めていくことで…。
2025/10/30

現実を見る。

現実ならもう嫌と言うほど見てきましたから、という人もたくさんいると思います。

仕事の大変さ、お金を稼ぐことの大変さ、家族の問題、自分自身の健康やこれからの生活、介護、老後のこと、などなど、自分はそれに直面してやってきたから現実はわかっていると思うのだと思います。

しかし、私が感じている現実はそこではなく「他人は自分を助けてはくれない、与えてくれない、満たしてくれない」という現実(事実と言ってもいいか)です。他人は自分を助けてくれない、というのは、他人は、自分のパターンをパターンの思うように助けてはくれない、与えてはくれない、満たしてはくれない、ということです。

認められたい、愛されたい、理解されたい、優しい言葉をかけて欲しい、期待する、などのパターンが他人に求めているものごとを他人は与えてはくれないのです。そして自分も他人に与えることができない。これは他人に優しくするな、とか、他人の優しさを信じるな、ということではもちろんありません。そこは常識で判断するとして。

この現実。どこか抵抗感があるような、厳しい、と感じるようなこの現実。これが痛い諦めとともに本当に自分の内に落ちたときに、「私」が動くのだということです。自分のパターンを助けられるのは「私」だけだと覚醒する。目覚める。

もう、他人に求めることが無理なんだという諦め。だから「私」がパターンを救うのです。「私」は他人とは違い、本当にパターンが欲しいというものごとを的確に判断して与えます。しかし、それはそのパターンを増長させるようなものごとを与えるのではありません。今までパターンが知らなかった、パターンの存在そのものへの安心を与えています。それができるのは「私」だけで他人ではありません。

仏陀の言う「自分を洲とし、拠り所にせよ」という境地にたどりつくには、この、他人への諦めがいいように働いてくれるんじゃないかと私は思います。

ほどほど
2025/10/29

「ほどほど」という言葉。

「ほどほど」って?→度が過ぎないで、ちょうどよい加減であること。 適度。 適当。(コトバンクより)

「ほどほど」は大事です。何事もやりすぎてしまっては愚の骨頂。自分の心身にもダメージを与えていきます。しかし、この「ほどほど」を心身で感じ、自分に合ったそれをみつけるまでには時間がかかります。

人間、どうしても両極にいきやすいです。これではないと言われれば、じゃあ、あっちか、と考えます。それはふり幅が大きい状態なので、エネルギーも使います。では、両極にいかなきゃいいんだ、と考えてもどこが「ほどほど」かよくわからない。心の状態は、思考では見つけられない。

難しい自分の「ほどほど」。人生ってそれをみつけていく(創っていく)ものなのかもしれません。 「ほどほど」=中庸なんだそうです。そこで生きたいものです。この思いも「ほどほど」に。

で、時間をかけないとわからないそれだからこそ、ゆっくりさがしていけばいいし、そうしていくしかありません(パターンはすぐに欲しがるけれど)。

人間って厄介なものです。中庸という「ほどほど」で生きることが本来なことなのに、その力もそもそも与えられているのに、わざわざ、そうではない生き方を自らしています(私も…)そうしないと「ほどほど」に行かれない。人間って…と思います。

でも、それが人間と思えると、自分も他人も「ご苦労さまです」という気持ちになります。その大変な厄介なところを生きているのも、魂は「ほどほど」にいきたいから。ここがあればどうにかやっていかれるのではないかと思います。

意図をもたない
2025/10/28

「意図を持たないように」と量子先生に言われ、そうだ、そうだ、とあらためて思った。ここでの学びこそそうだった。

「〇〇を得るために」「〇〇になれるように」などなど考えがちです。これは、まず、意図があって、それを得るために〇〇をするということになります。

この方法は今まで生きてきた領域での一般的な考え方です。そして、それが間違いということではありません。だからそれが必要なときにはそれを選んで使います(選んで、というところに意味がある。選ぶとは、自分の意思で使うということなのでそれは、いつも通りに、無意識で、とは質が違います)

しかし、自己成長の学びにおいては(厳密には道場では)この、意図ありきではないやり方(というか、在り方)を体験することを練習して自分のものにしていきます。〇〇を得るため、〇〇になるため、でワークをしたり、考えたりしないということなんです。特に使いやすいのが楽になるためにワークしよう…というものです。

何も目標とするものを持たずに行うってことか?そうです。ワークも、意味づけも、熟考も、目標を持たずに行う。そこには「今」しかなくて、きっと未来はこうなるだろう、今まで(過去)はこうだったから、得るためにはきっとこれだろう、はないんです。

そうやって、何かを得ることなく、期待することなく、予想することなく、計画通りではなく、行う。ただ何かをすることって今までなかったかも。これが階段を上がっていくときの在り方となります。

たとえ、上がっても何もなかったとしても(えっ?それじゃあやってもしょうがないと思うかも?)それを心身につけたとき、いや、それを心身につけていくプロセスそのものに、意図を持たないで行う意味があります。その意味がわかるようになっていくことで、目標はいらなくなります。そういうことじゃなかったんだと。

それは思考してもわからないもの。言葉での表現にも限界があるもの。でも、ここで感じるものがなんとなく、宇宙の帯に向かっていると感じられるかも。

ぜひ、やってみてください、意図を持たないワーク、意味づけ、熟考。それを行っているときに流れている何かを心身でうけとってみてください。ここから先はより、ゆっくりと、慌てずに、焦らずに、追い込まずに、リラックスして。大丈夫。

今日も生きている
2025/10/27

今朝の夫婦の会話。

今日は久しぶりに天気がよいので、洗濯物をたくさんベランダに干しました。すると、後でトミーがまた洗濯機を回しています。もう1枚だけズボンを洗いたいのだそう。

「でも、もういっぱいだよ。干すところがないよ」というと「そこは洗う前に干せる所はすでに調べてある」と言いました。「へーーー、そうなの?すごいね」と言うと「ようこはそうしないの?」と聞かれ「私は干せるかどうか調べる前に洗っちゃうから」と言うと、はあ‥‥と気が抜けるように答えていました。

そして「本当に、よく、それで69歳までやってこられたね。もう、ようこはそれでいけばいいよ」と諦めをしみ込ませるようにトミーは言っていましたが。

このトミーの言葉がうれしかった(ここでそれを責められているととるのか、良し!ととるのかと分かれるところかも)その言葉から、そうだよ、私、よく生きてきたな(キランと光る)と思いました。昨日は神経質さゆえに緻密に仕事をしてきた、なんて書いておきながら、このようにものすごく大雑把な面も持ち、親や周りの大人からは、よく考えなさい、段取りよく、と言われてもきた。でも、そうできずに、今もそうして、それでも生きているじゃないですか。

そうやっても生きてこれた。今日もこうして生きている。それでいい。それを後押ししてくれたように(トミーはそんなつもりなく言ったのかもしれないけれど)あくまでも自分に都合よく、トミーの言葉を受け取った朝でした。

誰にとっても「自分は今日も生きている」それが何よりのことだと思う。生きているということが最も大切なことだと思います。だから、今日も生きている自分を尊く思おう。「偉いぞ自分」と言ってあげよう。誰もが大変な思いを生き抜いてきて迎えた今日なのだから。

…とここまで書いたら、曇っていた空に光が射し、一気に明るくなりました。「そーーーですよね、神さまーー」とまたまた自分に都合よく捉えました。洗濯物、よく乾きそうです。

こだわりと神経質
2025/10/26

先日の量子先生との会話のひとつ。

帰りがけに先生が「伊藤さんのおうちはいつもきれいですね」と言われました。「物が圧倒的に少ないだけなんです」と言う私。

「それって素晴らしいことじゃないですか。皆、物への執着があって、それで物が増えてしまうんですから。伊藤さんは執着がないということですよ」とおっしゃいました。

しかし…私はそうは思っていなくて。「物へのこだわりが強すぎるので結果、物が少ないんです」と話しました。「そうなんですか、そういうこともあるんですね」という話をしました。

そうなんです。私はこだわりが強すぎるから、本当に「いい」と思うものしか持たないから物が少ないだけなんです。一般的に言う執着とはちょっと違っていても、こだわるという執着です。それは、身に着けるものから小物、雑貨、全て。「いい」と思うものなら高くても購入したい。しかし「いい」と心が動くものがとても少ないんです。

ここは自分のものすごくアンバランスなところだと思っていてここはもう少し緩めたいところです。両先生ともに「伊藤さんは神経質」とおっしゃっていたのは、自分でもよくわかります。神経質だからこだわるのでしょう。

で、自分のこれをマイナスととらえたときに、マイナスのところに(も)能力があるということを以前もう一人のCS先生から教えてもらったことにあてはめれば、このこだわりと、神経質ゆえ、過敏に反応してしまう心身なのですが、そうであることで、カウンセリングはやってこられたと思います。こだわりと神経質さがあって、緻密にやってきたと思います。まさに陰と陽。

これもまた新な視点です。誰でもが個性、性格の中に一般的に言うとマイナスに捉えられる部分にも、その人を生かすものが隠れていて、それがその人生を支えてくれることもあるのだということです。ですから自分のここはダメな部分(‥とパターンが思っているだけで、ただ個性、性格だけなんですが)にも目を向けてみるといいと思います。

質を上げた人
2025/10/25

朝、掃除機をかけているときに「大谷翔平さんは野球(界)の質を上げた人」と気付きました。いや、厳密に言えば、教えられました。誰から?…はわからない。昔はその発信元を色々と探りましたが、今は、それはやめました。今の自分にはわからないことだから。

で「大谷翔平さんは野球(界)の質を上げた人」それってどういうこと?と考えることなく、本当にそうだと思いました。「そうですねーー」と言う。

こう言っては野球に失礼かもしれませんが、ただのスポーツであった野球に品位を持たせたのが大谷選手だと思いました。

彼の昔からのプレイ中、プレイ後の行為は皆見たことがあると思います。ゴミを拾ったり、片づけたり、選手がしなくていいこと(…と今までは皆が思っていた)を自ら行う。以前ではありえない二刀流の実現、前向きな言葉、野球に対する真摯な姿、奥ゆかしさと、柔らかな強さ、綺麗なカリスマ性、明るさ、楽しさ、などなど。あらゆる場面での大谷選手の在り方がチームの人々に影響を与え、それは、きっと他チームにも、野球ファンにも善き影響を与えていると思います。

それは、大谷選手の在り方が、野球というものの質を上げたから。それは、もう、ただのスポーツではないです。スポーツという枠を超えてきていると思います。野球の進化、そして、進化は本質に向かう。

このように、今まで「こういうもの」と一般的に決められ、自分でもそう決めていた物事も全て、その質を上げることでそれはより洗練され、そのものの力を発揮し、その後ろにあるものが多くの人へ善き影響を与えていきます。そして、そのずっとずっと先には、全てはひとつのルールのもとに用意されていたものだったと気づくのだと思います。全ての物事を通して、そこへたどり着くためには質を上げていくということになります。

2025年「ワールド・シリーズ」開幕だそう。ちらちらと見ていきたいです。

たくさんひっかかってください
2025/10/23

パターンにひっかかりたくない、ひっかかってはいけないというパターン。又はひっかかるパターンを嫌うパターン、許さないパターンを変えることなく、彼らはそのままにしておく、ということは、ずーーーとネガティブな感情を感じながら、すっきりすることなく、もやもやと悩み問題をもちながら生きなくちゃいけないのか?と思うかもしれません。そういうことから解放されることはないのだろうか?と思うかもしれません。

しかし、その感情を感じているのは誰?といえばそれはパターンです。「私」はそうは感じていない…思っていない…と言っています。だから「何故、パターンにひっかかってはいけないの?ひっかかって、感情が湧き出ているだけなのに。ただ、それが起きているだけなのに」と「私」は言います。

ということは、湧き出る感情に飲み込まれ、それを疎ましく思い、それについて考え続けているのは「私」よりもパターンが上回っているからです。これが今の自分に起きていることなのか、と、客観的に自分を見て、しっかりと受け入れます。そして、この「私」というものをより理解していくこと、その本来の力を育てることが必要になります。

で、それぞれのワークは「私」を使うので「私」を育てることにとても役立っているだけではなく「私」の理解を深めていくことにもなります。「私」は使って育つものなので筋肉と一緒。だから語りかけは、絶対、パターンに語りかけをさせない。「私」が行うことを意識する。丁寧に集中する(でもカラっと)ことを意識してください。

こうして、全てのパターンの存在、彼らの個性を「私」が認め共に生きていくにつれ、並行して心は楽になっていきます。それは安心を伴う楽であり、初めて感じる楽だと思います。今までの楽は、嫌なことや悩みが消えることや思い通りになるときに感じるパターンの楽でした。しかし、それは一時的なものなので、また同じことは繰り返されます。

それを変えていきたいのであれば、根底のところからの変容が必要であり、この変容は一度それを体験してしまうと元に戻ることがありません。元にもどらないこと、それが進化なんです。

そして、とても驚くのは、そのころには何故だか自然に「パターンにひっかかる」ということがなくなっていきます。「ひっかかっていいよ」と言っているのに、ひっかからなくなるのです。ひっかかるパターンがあたかもいなくなってしまったように、ひっかからなくなる。もうそれが楽ということではないこともわかっているし、いつひっかかってもいいとも思っているのに、心は静寂さを土台にして安定しています。

何度も言いますが、ひっかからないことが成長ではありません。ひっかからないことがミームが高い、精神性が高いのではありません。ひっかからないことを目指しているのではありません。ひっかかることにOKを出せるようになっていきたいのです。だから、乱暴な言い方をすれば、毎日、たくさんひっかかってください。ここをスキップして本来のひっかからなくなる心はありません。今の自分の力量もしっかり認め、それにOKを出してください。先を急ごうとはせず(急ぐと必ず転びます)今の自分、今日の自分をどうぞ大事にしてください。パターン共々。…終。

ただ、それが起きているだけなのに。
2025/10/22

昨日までの日記で、パターンに引っかかりたくない、ひっかかってはいけない、だからひっかかるパターンが嫌い、許せない、という黒パターンに従ってしまっていては、(かなり)まずいんだ…と気付かれたのではないかと思います。

このパターンの信じていることは知らず知らずのうちに自分の成長の指針、証になってしまっているということが起こりやすい(一見、いいことだから)

ですから、今一度自分を見てみてください。このパターンに主導権を握らせていないか?そうしてしまうと、そこに留まり続けることになります。ひっかからなくなるまで頑張ろうとするので、どうしてもそこに居続けることになります。そうなれば停滞感やいつまでもそうなれていない自分を責める気持ちを感じると思います。

そして時には、そのパターンを後押しするかのようにプライドのパターンもそこに加勢したりします。そうなってくると、例えば、最初は「自分はダメだ」というパターンだけだったのに「またひっかかっている、まだひっかかっている」というこのパターンがそこに入りこみ、1つだったパターンは2つに増える。そこへまたプライドのパターンも加勢して(自分ならひっかからない人になれる、自分は意識レベルが高いのだから、わかっている人間だから、というようなことを言う)パターンが3つに増える。その後も「自分には無理」などのパターンもそこに入ってくればそれは4つに増える。こうして、からみあってしまい、それによりわけがわからなくなるということにもなるのです。

最初の「自分はダメだ」をみつけたのならそれだけに向かってそれのために語りかけをする。そこに2つ目パターンを入れない(後から語りかけ)おまけに3つ目パターンも出さない(後から謁見の間で個別に面談)4つ目パターンにも同じように接して、ずるずるにしないということです。

この体験から知ることは、パターンに主導権を握らせてしまうと他のパターンもそこに加わるということです。パターンにはそれを遮る力がないので。又、パターンとの関わりにおいて思考し続けるということもパターンが行っていることなんです。とてもざっくり言ってしまうと「私」はそれについて考えない。そう、考えないんです。これはまたいつか話せたらいいなあと思う。

語りかけに「私」の思惑はありません。ただただ、救済したいのです。困っているパターンを。そうすれば・・・ひっかからなくなる、嫌な感情に悩まされない、楽になるだろう、成長するだろう・・・というものがないのです。「私」は思っています「何故、パターンにひっかかってはいけないの?ひっかかって、感情が湧き出ているだけなのに。ただ、それが起きているだけなのに」と。「私」とはそういう存在です。でね、それが本当の自分。続く。

ありのままの人間の姿
2025/10/21

そもそも、人の心の中には、陰と陽があります。黒パターンと白パターンがある。愛に属するものと、無知に属するものとがあります。

それが自然なことであり、現実であり、それがありのままの人間の姿なんです(これはマスターも同じです。人間だから)ここのバランスをとって、必要な時に必要なものを選び、陰も陽もそれぞれの特徴を持ってそのまま生きられるようにと願い、その仕事に、日夜、従事していきたいのが「私」です。それが本当の自分。

そして「私」は天の子です。天の子なので、天のルールを知っています。どうすれば天の川、帯に乗れるかという事もすでに知っています(ただ、パターンがそれを覆い隠しています…というよりも「私」がパターンに従っています)そういう「私」とパターンの状態を自分の内に創る(思い出す)という事をここではやっているわけです(だから、当然大変なの)

皆、誰でも、楽になりたい、ストレスを感じないで生きたいと思います。私ももちろんそうです。そういう場合、楽になれていない原因、ストレスの原因をつきとめ、それを排除しようとします。このやり方は今までもずっと使ってきたもので慣れている分、すぐにそこに自然といきます。もちろん、このやり方が必要な時もあります。現実的に必要なこととしてあります。その時にはこのやり方が役に立ちます。

そして、他のパターンを嫌い、許さないパターン(黒の名前としては、パターンにひっかかりたくない、とか、ひっかかってはいけない、などなど・・考えてみてください)もこれを使おうとします。とにかくパターンにひっかかることが、いけないことと思っているので、他のパターンがそれぞれにひっかかり、感情を生み出し、それについて思考することが嫌でしかたないんです。まだ、自分はそんなところにいるのか、また、同じところでひっかかっているじゃないか、ちっとも成長していないじゃないか…と思うことがつらいのです。

だから、どのパターンについても、ひっかからないでいられるようにしよう、そうなろう、それが成長した姿なんだ、正しいことなんだ、と思います。そして、抑制していったり、ひっかからないためのものごとをみつけようとします。こうして心の内をそのパターンの理想にしていこうとします。そうすれば、ストレスがない、ネガティブな感情に惑わされない、何より、自分は正しくあれている、ミームも高い、と満足できるから。

しかし、昨日書いたようにそれは無理です。なぜならその理想は幻だからです。無理をやっていると、人間、疲れます。そして、健全な心を創れるのは「私」だけなんです。続く…

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