ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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空き地
2025/08/23

私は、小学5年生の時に東京から茅ヶ崎へ引っ越してきました。そして、家から歩いて20分くらいの所にある学校へ通っていました。

学校から帰るある日の夕方、いつもの道を歩いて家に向かっていました。そこは、こじんまりとした住宅街の中を通っていく道なのですが、見慣れた家々を見ながらいつも通りに歩いていました。

そして、青い色が印象的な(屋根の色だったのか、外壁だったのかは忘れてしまいましたが)素敵な家の前を通りすぎると、左手に空き地があることに気づきました。あれ?こんなところに空き地ってあったっけ?青い色の家と隣の家はくっついてあったはず。今まで1度も空き地を見ることはなかったのに。気がついていなかったのか。

その空き地には大きな木が1本立っていて、その木のまわりには「ツユクサ」の花がびっしりと群生していました。みごとにびっしりと、まさに青色の絨毯をしきつめたようにです。あまりにその「ツユクサ」の花がきれいで、小さな空き地に入り、大きな木の根元に立ち、木に触り、木を見上げ、まわりに群生している「ツユクサ」の花にみとれていました。この神秘的な光景に子供心になんてきれいなんだろうと思いました。こんなにきれいなところがあったなんて。何故今まで気がつかなかったのだろう。しばらくそこにいて「明日も来よう」と思い、家に帰りました。

そして次の日、わくわくしながらその空き地へ行ってみました。青い家とその隣に建つ家との間にある空き地。ところがみつからないのです。青い家の隣に空き地はなく、くっつくように隣の家が建っている。なんで?と思い、またその道を戻りながら確認し、またその道を何度も通ってみましたが、空き地はみあたらない。

家に帰り、当時一緒に住んでいた叔母に空き地があったでしょう?と聞いてみても、あの道に空き地はないでしょう。と言われました。私が道を一本間違えているのだろうか、と思い、違う道を歩いてみましたが、やはりあの空き地をみつけることはできませんでした。

でも、私はあのとき、確かにあの大きな木に触り「ツユクサ」の群生を見て、それにも触り、子供心に感動をした。それは確かにそうだった。あったはずのものなのに。しかし、もう、空き地を見つけることはできませんでした。

大人になるにつれて、このことはだんだんと忘れていきました。「ツユクサ」の花を見かけるとこの時のことを思い出しながらも、そそっかしい、私なので、自分の記憶違いだったのかもしれない、もしかしたら夢だったのかもしれない、と思うようになりました。続く。

夕方の時間帯
2025/08/22

昨日は、18時近くになって、ちょっと散歩に行きました。

今の私の散歩は、気持ちよく歩くことが大事で、歩数や時間を目指して歩くことはしていません。まして…エコバッグを持って、目についた野菜とか、明日のおかずになりそうなものがあったら、買いながらのものではありません。

小銭と、家のカギと、小さな万歩計(時計付きなので便利)だけをパンツのポケットに入れて、手には何も持たずに歩いています。

この時間であっても涼しくはありませんが、歩くことで自分が解放されていくのがわかります。歩くって楽しい〜と心も身体も喜んでいる。それをさせてあげられていることも嬉しい。

夏の夕方って不思議な感じがします。多分、この時間帯の持つ光や、これから日が沈み夜がやってくる前の、人々の…今日も終わった…という空気感によるものだと思いますが、全体に緩くなっている感じがします。見慣れた風景であり、歩き慣れている道なのに、どこか異質な感じがするときがあります。なんだか、異次元に入り込んでしまうような気がするんです。もしかしたら、すでに入っているのかもしれない。

目の前に見ているいつもの風景。でも、それは異次元のそれなのかもしれません。いつものお店、そこで働いている顔見知りの人達。それも異次元に在るものなのかもしれません。そして、私自身も異次元にいる自分で…。というように。

そんな危うく、ちょっとした怖さもある、夕方の散歩ですが、魅力的に感じています。

今年の暑い暑い夏に思ったこと
2025/08/21

今年は、お会いしている皆さん、それぞれがいいところに気づいて、それを深めていっている…と感じています(いいよーーーー)今迄の努力が実ってきていると思います。それも自分で獲得した力のひとつになります。それを言語化して、白黒ワークの白の部屋で言う言葉のひとつにしてみてください。

直接お会いする機会が少ない方も、きっと今までとは違う何かに気づいているんじゃないかと思います。同じことをやっているので、誰かが気づいたという現象は同じところに影響を与えていきます。だから同じ時にそれぞれが何かに気づくということが起きるのだと思います。ご自分のそれをどうぞ大事にしてください。必ず自分を養う大きな力になってくれます。

その気づきには、痛みもあるかもしれない、悔しさや、怖さや、不安や、不甲斐なさもあるかもしれない。でも、それでいいんです。それはパターンだから。パターンは新しいことを嫌うので、どうしてもそのような感情・感覚が出てきます。そこをそんなふうに感じないようにしよう、とこれもまたパターンで対処しないで、新しいことを嫌がるそのパターンを大事にして、一緒に今日も1日過ごしてください。自分の内に起きることは全部が必要なことなんです。それをパターンで整えようとしたり、変えようとしたり、パターンが描いている理想のものにしようとしないでください。

ここでの一致性がとても必要になっていきます。階段を上がっていくために。自分に対する正直さが必要になるからです。自分がどんなパターンを持っていてもいい。だから赦している。そういう「私」です。だからこそ「私」はどう在りたいのか…。この世界を楽しんでいただけるよう、私も善きナビとして日々自分に向き合い、少しでも自分を高めていきます。こうやって私は皆さんから課題を与えてもらっている。ここも同じことをやっている同士、影響し合うのです…と今年の暑い暑い夏に思ったこと。

パターンを嫌うパターン
2025/08/20

昨日書いたこと、なんとなく伝わっているといいなあと思います。

ここに向かいたい。そのために、自分の内にパターンを嫌うパターンがいるかどうかを観察してください。このパターンを嫌うパターンはほとんどの人の内にいると思っています。このパターンは、他の自分の思い通りに行っていないパターンたちのことが嫌いで、煩わしく、そのせいで自分はうまくいっていないと思っています。

で、無意識であると、それが「私」になって語りかけをしたり、白黒ワークをしたり、マントラもそれが言い続けたりします。ひたすら、早く、他のパターンたちを静かにさせて、ひっかからないようにしたいからです。このパターンにしてみれば、全てのパターンの存在を赦すなんて、あり得ないことだと思っているので昨日書いたことに向かわせないように働きかけてもきます。

それが中心に立つと、焦る気持ちが出たり、もっとやらなくては、もっと頑張らなくては、という気持ちになっていきます。このパターンの力を弱めたい。

このパターンを野放しにしておくと、あらゆるところに出てきますので、このパターンにこそ、語りかけから一連のワークが必要になります。

日々の中で行っているパターンへの語りかけの中にぜひこのパターンへの語りかけも入れて、ここに力を注いで行っていってください。そうやって、昨日書いたところへ向かっていかれるように、土台作りをするといいと思います。

あとは「私」を意識的に使うことに目を向けます。「私」が語る、ワークをする、「私」が考え、選ぶ、「私」の言動。「私」をいつも意識する。

肉体を持って生きているこの現実の世界でこのことを心の中で、もしくは、言動として行っていきます。

整っている心とは
2025/08/19

今の自分じゃだめだ…と決めていないだろうか。それが当然と思っていないだろうか。

今の自分じゃだめだから、こういう自分になろうとしていないだろうか。ならなくちゃ…変えなくちゃ…と思っていないだろうか。そうなることが成長とか、そうなれればこうなるだろうと思っていたり。これ、パターンです。

心を整えるって、このようなパターンの描いている心をつくることではなく、自分の内にいる全てのパターンをそのままの状態で置いておきながら(もちろん、そこにはプライドのパターンも入っています)そことは別に「私」はどう在りたいのか、どうしたいのか、というところに目を向けて、そこに邁進することです。それができる心が整っている心なんです。だめなパターン(と思っているパターンがいる)がおさまることが整った心ではありません。

パターンはずっとそのままです。そのままいさせてあげてください。在るものに抵抗しない、それはそれとして存在していていい。ただ、「私」はどう在りたいのか‥なんです。こうありたい、こうしたい、という「私」の本当の思いがあればいいんです。そして、今日1日をできるだけその意識で生きようとすることです。

そうは言っても、そうできるのか自信がない、とか、そうできなかったらまた凹む、とか、というのもパターンです。それも、以前の価値観です。できないのはだめだというような。ここを選んでしまうと、やってみよう、という意思がなくなります。できることだけでおさめてしまう。狭い世界に自分を閉じ込めておくことで安心するパターンです。だからここを選んでしまうとずっと見慣れた風景を見続けることになります。

できるとかできないとかという結果に目を向けるのではなく(このパターンを選ぶのではなく)。そして、そこへの自信がないからこそやるということなんです(これが新しい領域のひとつの価値観です)今まで自分にないものだからこそやって作っていくということなんです。これがひとつの無から有を創るということ。これが創造です。

「私」は自信がないとも言わないし、そうなれなかったら、とも言わないです。ただ、目指していきたいところに目を向けて居続ける存在です。

100%の精神を
2025/08/18

先日のお墓参りの帰りにお蕎麦を食べました。いつ食べても美味しいと思うお蕎麦。お蕎麦は毎日でもいい。大好きです。おろしそばに海老の天ぷら一尾をつけてもらいました。一口食べただけで「おいしい〜」と言ってしまいます。

で、食べているうちに気づいた。昔のように勢いよくお蕎麦をすすることができなくなっていることに。一体いつからそうだったのか、わかりませんが、すすらないで食べている自分に気づいたんです。

試しに、勢いよく(多分以前はこんな感じだろうという感じで)すすってみたのですが、すすり方が分からないような…(これ以上やったら咳込む)ほんとうに昔できていたことができなくなっていくんですねえ。おまけに自分でも気付かぬうちに、身体のほうがいいように変えていっているんですねえ。今の私のお蕎麦の食べ方を身体がちゃんと決めてくれて、そのように動いてくれていたんですねえ。身体の確かな判断に驚くと同時にちょっとした寂しさもありました。まあ、でも、こうして食べられるのだからよしとしよう、と思います。

年に1回ですが、歯の検診に行っています。そこで「いかがでしたか?お元気でした?」と毎回、先生から聞かれます。そのときに「はい、順調に年とってます」と前回言ったら「それは、よかったです。順調に年をとるというのはとてもいいことですよ。このまま順調にいきましょう」と言っていただきました。先生は私よりも年上なので、身体に起こる変化をきっと感じていらっしゃることと思いますが、優しい言葉です。

同年代でも、ものすごく元気な方もいらっしゃいます。仕事をばりばりこなし、家庭のこともこなし(こういう方って料理が上手なんです。センスもいい)、趣味を持ち、旅行に行き、交友関係も華やかで…。本当に体力があると思います。

又、そうではない方もいます。これは意味あってそれぞれに生まれつき与えられたものであったり、よりよい未来を生きるために、今はその体験中ということもあります。いずれにしても罰ではないのですが、パターンとしては元気な人をうらやましく思います。

で、いくつになっても華々しく生きている方のほうが目につくし、世間でも求められるし、よいことのように思われているので、そうではない自分を見下げてしまうかもしれません。

しかし、この言葉です「100%の健康(活躍)より100%の精神を」今の自分の状態を100%の精神で見て、支えて、ひっぱっていく。100%の健康(活躍)よりもこちらのほうが目が広がるんです。目が広がると、今まで見えてなかったものが見えるし、新に知ることもあるし、より己を知ることにもなるし、そこには幅があります。そして、これはいくつになってもできることです。だから100%の精神を…です。

草ぼーぼー
2025/08/17

昨日は、お墓参りに行ってきました。朝、9時半にお寺に着き、まだ、それほど暑くないので、ちゃっちゃと掃除して、お参りして、早く帰ろうと思いながら墓石の前に立ってみたら…す・すごい、草ぼーぼー。

前回来たのは4月後半。その時はそれなりにきれいにして帰ったのですが、わずか数か月でこんなにも草が伸びて、増えているとは・・・・・。「はぁ〜」とため息が出ました。

こういうときは、気持ちを新にし、より集中してやっていこう、と気持ちを切替え、まず、草抜きと枝切と蔦をとることに取りかかる。暑い、でも、集中。よし草終了。次は水を汲んできて、墓石を洗う。自分にも同じように水をかけたい。でも、集中。よし墓石終了。次は花立を洗い、持ってきたお花を供える。よし、終了。次は古いお塔婆と新しいお塔婆の交換。よし、終了。次はお寺さんにご挨拶をして、お線香をいただき、供え、お参りをしました。

帰りの電車を駅のホームで待っているとき、さきほどの集中を思い出していました。この集中度は以前よりも今ここにいることが普通になってきていると気づきました。そして、実は、今しかない、ということが少しずつ心身で感じられるようになってきていることも(今しかないから今何を選ぶのかが重要になる)過去も未来もなく(意識的にそこにフォーカスすることはもちろんできるのですが)この今だけだ…と。その今もすぐに過去になる。そして、過去のことはどんどん流れていく。ただ、在るのは、今、ここだけ。これでいると、以前よりもっと生きることに軽さを感じます。

あんなに苦手であった瞑想を始めて3ヶ月くらいになります。今回の気付きは、それによる効果ではないかと思います。瞑想といっても難しいものではなく、マインドフルネス。それも10分くらい。寝る前にやっています。時々日中も。そして、今はそれが楽しみでもあります。

以前は苦手だった瞑想は楽しくはなかったんだと今わかります。それは、何かを得るために行っていた瞑想だったので、楽しくはないはずです。修行っぽい。こなしていく感じでした。楽しくないから何も変わらず、増々嫌になっていっていました。

こうしてみると、自分が楽しいと思うことをやっていくことが一番なんだと思います。瞑想はお勧めしたいですが、誰にもタイミングがあるので、無理してやることはないです。しかし、瞑想の最中をいい気分でいられたり、行うことが楽しいと感じる方には何か自分の心身によきものを与えてくれるものだと思います。

そして、常に瞑想の感覚でいるということが、なんか、わかりかけています。それは「私」の納得感に基づいているものだと思った。「私」の納得感、それはゆらがないもの。実は昔からわかっているもの。

「私」とは…
2025/08/15

「私」って…崇高で、人離れしている感じがするかもしれません。愛が深く、やさしさとおだやかさでパターンたちを包み込んでくれるような存在。いつでも「そうか、そうか、つらかったね、よく頑張ったね」と言ってくれる存在。ひたすらパターンに優しい。そんなイメージがあるかもしれません(この感覚が強い場合はまだパターン寄りです)

しかし「私」をよく見てみると、半分は男性性の資質、半分は女性性の資質でできています。これは、はっきりと男女分けられるものではありませんが、わかりやすく言うと、です。

男性性資質は動的であり女性性資質は静的とも言えます。「私」は重厚であり、軽い。優しく厳しい。というように相反する資質を持っています。それらをその時その時で屈指していくことで、この世をいいあんばいでわたるために。

そう考えると「私」というのは、天に近いものではなく、神の子ではありながら人間界用に創られたものです。この地上での日々の生活をできるだけスムーズに行うために与えられている道具の数々を持っているものとも言えます。「私」はこの地上での日々の生活というところに重きをおいているので、とっても人っぽいんです。天上界にいるわけではありません。

で、人間がスムーズに生きるためには、知恵が必要になります。こういう場合、どうするのが自他ともによいのか、この場合、何をするのか/しないのかがよいのか、これは自分にとってどういうものなのか、それを実行するために自分の中のどんな資質を使うのか、何をするのか、それは「私」が納得するものなのか、などです。

何が起こるかわからないこの地上界では、できるだけたくさんの選択肢があったほうがいいわけで、そのためには自分がたくさんの道具を持っていることを知っていくことは役に立ちます。道具はすでに与えられています。後はそれを使うだけです。

「私」の持つ資質には、我慢、努力、忍耐、破壊、闘う、逃げる、嘘も方便、など、一見「え?」というものもあります(これについては初めはこのことは言いませんでした。わからなくなると思ったので)それらは、一般的に言われているよりも、もちろん質の高いものとしてです。「私」として生きるとはこういう類のものも使えるようになるということです。

以前から、「私」として生きるとはとても現実的になること、と言っていたと思います。今、こういうことか、とわかるようにきっとなってきていると思います。だからもうファンタジーの「私」を追い続けるのではなく「私」の本来の姿のこともそこへの理解を深めることで、現実的に認識していかれると思います。

2極のルールから抜けていく
2025/08/14

そもそも思い通りにいかないのが人生。だから起きることに抵抗することなく、それを受け入れて、そこでのやれることをやっていく。

というのと、

人生は自分が創造していくもの。自分の選択し、決めた意思に沿う言動をし続けることでそれは現実化していく。自分の人生を自分で創る、というもの。

これって言っていることが相反しています。じゃあ、どっちが正しいのか?と思うかも。この相反している2つは、両方とも必要なものなんです。

まず、人にはいろんな事が起こります。そのときにすぐにそれが辛くてどうにかしようと抵抗するのではなくそれを受け入れます。受け入れるというのは今をそのまま認めるということです。だって起きちゃっているんだから、逃れられない。

そこで「それは(ただ)今までの自分の結果である、その出来事が自分に何かを教えようとしている、全てよきほうへ動いている、宇宙がやってごらんと言っている」などのマインドを持ちます。どうしよう、いやだな、またか、もうだめかも、ではこのマインドは消えてしまいますが、違うマインドを持つことで、起きていることを受け入れることになります(パターンは嫌がるのでそれはワーク。でも「私」は受け入れることが自然と思っている)

そして、ここで受け入れっぱなしにしておいてどうにかなるまで待つではなく(時にはそれも意識的にありだけど)それに対して自分がやるべきこと、これを機に自分が進んでいきたい方向性などへ目を向け、強く自分の意思に沿う言動をする(し続ける)ことがその次にくるものです。この2つで1セットと言えます。

で、この2つのように、相反する事象は2つで1セットになっています。このようなことについて「これは理解しにくい1つである」と中村天風さんは言っています。なぜならば「そこにはこの2つのバランスを要求されるからだ…」と。要求されているバランスをとったときに2つで1セットということが理解できるのだと思う。

先ほどの件も、その他の相反する事象も、2つのバランスをとる(両方使う)ことでそれは新なものが出来上がるのです。この2つのバランスをとる力をつけていくことが精神性の成長と言うのだと思います。このバランスをとる力はそれを求め続け、やるべきことを日々やっていくことで、きっと気づいていかれるものだと思います(という法則も自分で創ればいいわけで)この相反する(と思われている)事象をいかに自分でうまく使い分けていくか、どんな匙加減でいくか、というところです。

陽だからプラスだからいいではなく、陰だからマイナスだからだめではなく、在るものをすべて上手く使っていくということです。

この2極の世界に生まれてきて、そこでのルールに従ってきた私たちですが、少しずつ少しずつ少しずつ(…くどい。そのくらいここを歩むのはゆっくりがいいと思うから)2極のルールから抜けていくことを学んでいきます。

気分はイタリア、ナポリ。
2025/08/12

8月の岩手クラスも無事に終了。

今回は1日だけのセミナーでした。そして2日目は個人カウンセリングだったので、集まれる人たちでランチに行きました(いや、連れていっていただきました。ありがとうございました)大好きなお蕎麦、そして素敵なカフェでのお茶&ケーキ。盛岡は本当に美味しいお店や雰囲気のあるお店がたくさんあって羨ましいです。

今回のクラスで話したこと。

語りかけは、カラッとおこなってくださいということ。語りかけはパターンへの共感、パターンの言いたいことを代弁している、というところから、ちょっとウェットになりやすいです。そちら気味になる場合は「私」よりもパターンのほうがまだ勝っているという目安になります。共感は大事ですが、共感ってパターンと同じ気持ちになることではないし、ずっとそれを考えることでもないです(これはカウンセリングにおいての共感もそうです)

あくまでも「あなたはそう思うんだね、「私」は思ってないけど」のスタンスです(カウンセリングにおいても同じ。あなたはそう思うんだね、私とは違うけれど)

王である「私」は知恵があるのでパターンの思いを理解していますが、一緒になって悲しんだり、悔しがったり、そこへひたったりはしません。じゃあ、どんな感じ?というとカラッとした感じです。最後まで語り終えたら、もうそのパターンについてあれこれ考えたり、そのパターンに心を寄せたり、ひたったりとかはしないんです。終わったら、そこでハイ終わり。日常の業務に戻ります。

「語りかけは、イタリアの太陽のように(実際にイタリアに行ったことはありませんが)明るく、強く、カラッとした語りかけをしてください。オー・ソレ・ミオの感じ!」とまたわからないことを言いましたが、そうなんです。「王」ってウェットな「王」よりもカラッとしていて、そこで終わらせることのできる、明るい「王」のほうがよくないですか?

イメージとして、感覚として、オー・ソレ・ミオ(私の太陽)そう、「私」はまさに太陽だから。

素敵なカフェからの帰り道。ホテルまで車で送っていただきました。車内にはカーオーディオから男性テノールの「誰も寝てはならぬ」が聞こえていました。その時に見た広く青い空はとてもきれいでした。サングラス越しに見た空でしたが、レンズの色と空の色が混じっていたせいか、どこか外国の海辺の街にいるような気分になりました。

そして、もう少しでホテル、というときに聞こえてきたのは「オー・ソレ・ミオ」。イタリア、ナポリ民謡です。この曲は男性テノールが最もいいと思う。音楽は一瞬にして人の意識を動かす(上げる)ということがよくわかりました。この、静かな静かな、安堵感につつまれた高揚感が全く違うところへ私を連れていく。語りかけはカラッと。イタリアの太陽のように。

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