ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ

望みを叶える
2021/03/21

私もかつては、ひきよせもやりましたし、これをやると望みが叶うよ、良いことが起きるよ、心が静かになるよ、特別な力を与えられるよ、仕事がうまくいくよ、お金が入るよ、守られるよ、ということを色々とやりました。

それは、自分自身にも自分の人生にも満足していなかったからです。そして、それはまだまだ人が持つ本質的な幸せというものを全く知らなかったからです。だから、わかりやすい望みが叶うという事へ向かったのだと思います。

しかし、いつのころからか、そこへの興味がうせていきました。そこには、いくつか理由がありますが、一言で言ってしまえば、そこはもう、いい、ということでした。何かそこにいることへの違和感がありました。

そうして、次へ目が向いていきます。それは、自分にとって望んでいないものごとが人生の中にやってきても、自分自身にそれが起きても、それに向き合える自分になることでした。そういうことにも向き合える強さや柔軟さや賢さや理解やあきらめや、もともとあるネガティブなものを受容する、心を育てることでした。

そこを欲していくと、まだまだ脆弱であった自分でも、そこにある潔さと、すっきり感と、うれしさを感じました。そのときに感じた自由さは望みを叶えるということからの解放でした。そこでの開放感を感じて、初めて望みを叶えたいという一見無限の世界のように見えていた世界が実は狭く、窮屈な世界であったことにも気づきました。

そうしてカウンセリングやワークなどをやっていくことになるのですが。これは今でももちろん土台としてあります。道場は望みが叶うためにあるのではなく、人生に大変なことがおころうとも、それに向き合うことができる自分になり、そういう自分自身から幸せを感じるためにあります。望んだ物事からでなく、自分自身からなんです。幸せはそんなふうに中身が満ちている自分自身だったんだと体験を通して気づいていってもらいたいです。個性はそれぞれ違いますが、魂としては(望みを叶えるというところを超えていきたい魂にとっては)ここは共通にあるものだと思います。そういう方達のナビとして、共に歩くことをこれからもしていきたいです。

菊一輪
2021/03/20

昨日は、お墓参りに行ってまいりました。

境内の桜はまだまだでしたが、春らしい1日でした。お墓をきれいに掃除し、お花とお線香を供え、手を合わせました。家族の近況報告と感謝。ポロンのお骨も一緒にあるので、ポロンにも声をかけ。

まわりのお墓にはすでにお花が入っていて、境内はとても明るい雰囲気でした。近頃では、お墓=菊という感じではなくて、洋花が増えています。そのためか華やかさがあります。きっと、それぞれのご家族で故人の方がお好きだったお花を供えているのだろうと思います。

かわいらしいブーケが入っていたり、アレンジメントされたものもあり、それらを見るのも楽しいでした。

さて、帰ろうと思って歩き出し、ふと、横を見ると、境内の一角にとても古い小さなお墓が向き合うようにして並んでいる所がありました。もう、誰も訪ねてこない、無縁仏のお墓です。コケが生えているものや、かけてしまっている墓石もあります。まわりのはなやかなお墓に比べるとその古さがわかります。

しんと静まりかえっているその一角なのに、そこは、まわりとは違う明るさを放っていました。ひとつひとつのお墓には黄色い菊の花が一輪ずつ供えられていたからです。古い石の色と、土の色と、苔の色で、暗くなりがちなそこには、高さの違う、黄色い菊の花が並び、それはそれはきれいでした。きっとお寺さんで入れられたものだと思います。

華やかな洋花とは違い、自己主張することなく、無縁仏に寄り添うようにある菊の花一輪。菊自身が自分の役割を知っているような和みを感じる景色でした(私はこの景色を忘れないと思います)お墓参りに行くと、後、とても良い気持ちになりますが、今回は、それプラス、あたたかな気持ちになりました。

こうしてみると、お墓にはやっぱり菊が合いますね。それも黄色い菊。そして、もしかしたら一輪というところがまたいいのかもしれないと思いました。

ママも頑張ります!
2021/03/19

先日、宅配の荷物を届けてくれたおじさんとの話。

そのおじさん、以前はよくお会いしていたのですが、配達地域が変わったらしく、暫く会うことがなく久々におあいしました。前に年齢をお聞きしたことがあり(私も聞かれた)70代の方です。

いつも元気で、明るく、70代でこうして働いているっていいですね。

おじさん「久しぶりだねえーー」

私「ほんとうですね、久しぶり。お元気そうですね」

おじさん「元気だよ。今日はさ、こっち方面の仕事が入って、荷物をみたらイトウさんちの荷物があってさーー」

私「そうだったの、ありがとうございました」

おじさん「こっち方面に来ると、知り合いが多いから楽しいんだわ。こうやってママにも会えたし」

私「うん、うん」・・・と言ったのですが≪ママ?ママって…?あーー私のことか。ママって、お店のママ的な感じか…≫と頭の中で理解しました。おじさんは「お互いに働けるうちは楽しく働こう。ママも元気で頑張ってよ」と言って帰っていきました。

で、思ったんです。この会話、人によっては、ママだなんて失礼だ、と言う人もいるでしょうし、ママだなんてなんだかいやらしいと感じる人もいるかもしれません。お客さんにそんなこと言うべきではない、とか。もしかしたらこういうこともセクハラと捉える人もいるかもしない。

で、私は、全くそれはなく。ママでもパパでもばあばでもじいじでもそこはどうでもよくて、久しぶりに会ったおじさんが元気に働いている姿を見てよかったと思いました。

元気であれば70代でも80代でも働ける時代(これからはますますきっと)「ママ」が昭和育ちのおじさんのちょっと独特な元気になる言葉で(相手を選んで使ったほうがいいとは思うけど)その言葉で、お互い笑って、元気にこれからも働けるのならそれでいいと思いました。

ママも頑張ります!

悟りって?
2021/03/18

私は悟った人に見えるようですが・・・・そうじゃぁないですよーーー。そして、悟りたいという願望もないので、ますますそこからは離れている人間だと思います。

多くの人が悟りたいと言います。悟りの世界に入ればいつでも幸せとか、心が静かとか、健康とか、安全とか、と思っているのかもしれません(マスターはそう見えるのかもしれません)悟りには光しかないと思うのでしょうか。何故?闇はいけないものだから?でも、自分自身も光と闇でできています。そして光と闇の世界に生きています。いろんなことがあってもその世界で今まで生き抜いてきたでしょう?だから大丈夫なのに・・・。

そこにこそ自分の幸せも、健康も、心の静けさも、安全もあると思いませんか?

そもそも、悟りというものもひとりひとり意味づけが違うだろうし、求める動機も違うし、皆があの人は悟っていると認めていても、それを認める人たちの領域というものが関係しているし、悟りは絶対的な何か、特別な世界ではありません。そして何故、悟ったと思っている人は「自分は悟った」と他人に言うのだろうか?とも思います。この言葉に多くの人は弱いです。そして惑わされます。

以前にイギリスのマスターの方だったと思うのですが「この地上に悟った人は一人もいないです。ただ自分で悟ったと言う人がいるだけ」と言っていたのがずっと残っていて、なんか、そこに妙に納得した感と自分との気持ちいいくらいのフィット感がそれにはありました。だから私にとってはこれだと思いました。

イエスと仏陀くらいでしょう。悟った人って。と思っています。偉大な大先輩のお二人。そのお二人と同じエッセンスを私たちも持っているということはわかると思います。それは誰の中にも存在しています。それを使うのかどうか、それを活かすのかどうか、なのだと思います。

イエスや仏陀が守ってくれるのではないんです。お手本を見せてくれた人がいて、それがあなたの中にもあるよと教えてくれて、それを自分で導き出し、使っていきなさいと残してくれたのだと思います。この光と闇の世界でです。毎日の生活でです。今いるところで、今置かれているところで、今の自分で、自分の幸せを創っていく。そんなシンプルな在り方。惑わされることがないほどのシンプルさ。

思考の世界を抜ける
2021/03/17

魂の道場で行っているワーク。語りかけワーク、白黒ワーク、中立(意味づけ)ワーク。これらをうまく使えるように、自分のものにしていくことで「私」のリーダーシップ力がついていきます。

「私」は王なので、ワークは王として存在できるように自分を鍛えるものでもあり、自分の王国を創っていくことになります。

これらのワークの中の中立(意味づけ)ワークは思考を使って(熟考して)やっていくものなのですが、語りかけワークと白黒ワークは、思考でやっているとその効果は感じにくいと思います。確かに、言葉を使って、組み合わせていくものなのでそのときには頭を使っていますが、その語りかけをしようとする動機や、語っているとき自体の感じや、イメージや、パターンが言いたい言葉のもつニュアンスなど、そこには思考が入りこむすきがないような感覚世界が展開されています。これがワークです。これは白黒ワークも同じです。

このことをワークを続けているうちにきっと感じられるようになります。思考でワークをしていると思考の世界に居続けることになります。

最初は今の自分を楽にしたい、幸せになりたい、自信をもちたい、成長したい、進化したいというところでワークを始めると思いますが、ワークを進めていくうちに、当初の目的、目指したいところというものが果たしてほんとうにそこなのだろうか?というところにぶち当たっていきます。私はここが領域を超えていくポイントだと思っています。楽になるって?幸せって?成長って?進化って?自信って?・・そして自分って?と今まではごくごくあたりまえに意味づけていたものが崩れていきはじめるときがきます。崩れるからこそ次がきます。

こうして「私」が育つことで人の意識はごくごく普通に自然に次の世界に入っていくのです。自分がそれを望んでいなくても。その体験をするワークです。

ですからどうぞ自分のものにしていってください。どこででも、ひとりで、いつでもできるものです。そして、中立(意味づけ)ワークも思考して出してきている新な意味づけに感動や驚きや美しさを感じられ、そこに向かっていかれる自分を感じられますように。そこにはやはり思考が入りこむすきはありません。こうして全てのワークを通して思考の世界を抜けていきます。

新な世界でたくさん遊んでください。

予想外のこと
2021/03/16

おうちでバレエ。最新版(ロイヤルバレエ団2020年版)のバーレッスンも覚え、今は各年の動画のセンター(バーレッスン後にバーを使わずに動く)の頭から3つ目まではできるようになろうと練習しています。

もちろん技術的に無理なものもありますが、とにかく3つまでは全部覚えて、自分なりにできるようになりたい、ということが目標です。で、できるまでやるということがやりたいことなので、楽しくやっています。何度も何度も動画を見返したり、メモをとったり、時には絵を描いてみたりしてとにかく覚える。

そんな自分を客観的に見て(やりたいことだったら)できるようになるまでやるんだな、私…と思いました。これってきっと私だけじゃないと思います。やりたいことはできるようになるまでやりたいと思うのでは?これは意志力が強いということではないです。やりたいからやるというだけのことです。

そして、そのときに必ずついてくるものは、時間をかけてそれを得ていくということです。

安易に得られるものを多くの人は求めます。すぐに楽になる、一瞬で変われる、簡単にできる、すぐに(思い通りの)効果や結果を得られる。思考の領域ではこれはわりと簡単にできるものが多い。

しかし、自分の心身や魂の成長に関わるものはそうはいかないものです。でも、それがやりたいことであればそれは耐えて、我慢してやることはないと思います。

安易に得られるものは想像がついているものです。これをやれば楽になる、良くなる、など、今までの体験に基づいて想像できる範囲のものごとです。

それに対して時間をかけて得ていくものは、自分の思い通りになかなかいかず…。でも、想像もしていなかったこととであっていくことがあります(かなり)。私の場合は、おうちでバレエを続けてきたことで、自分が表現をすることで心身が解放され、それはカウンセリングにも使えるものなので、あらゆることからの解放を体験することへ表現することを使っていくことを得ました。

ただ、動けるようになりたい、というところでやってきたのに、予想外のものを得ている。時間をかけることの楽しみはそこだと思います。予想外のことっていいです。自分の想像を超えているから。

春近し
2021/03/15

岩手クラスは3月11日、震災の日でした。

皆で黙祷をしてクラスを始めました。ひとりひとりの心のうちにある思いが…あまりに複雑なその思いが、黙祷の中に凝縮されてあったのではないかと思いました。

その祈りは亡くなられた方々に、被災された全ての方々に、東北の大地に届いていると思います。祈りの力は大きい。そして、それは、阪神淡路大震災で亡くなられた方々、関東大震災で亡くなられた方々、戦争で亡くなられた方々へも向けられていくと思います。

だんだんと時間が過ぎていくうちになんとなく記憶の中から抜けてしまうこれらのこと。しかし、自分たちと同じように生活をしていた人達がある日、突然、生きることを中断され、愛する人たちを、全てを、失ってしまう。そういう方達がいるということを忘れずにいたいです。そのあまりに深い悲しみと傷跡を忘れずにそれぞれへの祈りを続けていこうとあらためて思いました。

生きている私たちがやるべきことは、自分が自分に恥じないように生きて、そのエネルギーを天にかえしていくこと。その光のエネルギーが他の人々やこれから起きるであろう色々な事柄に使われていることを知ること。それは、私たちひとりひとりが良い未来も、悪い未来も創造していくことに関わっているということです。

今回はそんな話を「悪魔とイエス」(悪魔対イエスではなくて)の絵をみながら伝えました。今回は大きな視点からクラスがスタートしました。

そして、今回、岩手クラスからカウンセラー試験に合格された方がいらっしゃいます。小田島 梢さんです(おめでとうございます!)梢さんも他の方同様に私のわかりにくく、しつこい試験に立ち向かい、回を重ねるごとに、強く、たくましくなっていくのが感じられました。初めてお会いしたころの梢さんは消極的という印象がありましたが、今はその印象も変わっています。自分で考えようとする前向きな姿勢と感受性が豊かな方であることも今までのクラスを通して感じてきました。それを大事にして、これからの梢さんの独自の生き方を創っていっていただけたらと思います。こうしてカウンセラーの方が増えていくことはとてもうれしいです。

まだ盛岡は寒かったけれど、確実に春がやってきている。明るい光が東北の地を照らしていきますように。

神社にて思う
2021/03/10

昨日は、いつもお参りしている近所の氏神様のところへ行きました。梅の花が咲き始めていました。

感謝と宣言のお参りをして、後を振り向くと、私から少し離れたたところで女性の方が順番をまっていました。その方と通り過ぎるときにお互いに軽く会釈をしました。神社の中ではこれが普通に行われます。男性の方でも会釈されます。そして、ゴミ一つ落ちていなくてきれいに掃き清められています。ここにゴミを捨てる人はいないでしょう。

ここには、知らない人同士でも会釈を自然にする、そして汚すことをしない、聖域特有のもののはたらきがあるのだと思います。

しかし、神社を1歩出れば、そこは俗世界であり、車が行き交い、人々がいます。そこにはゴミがすてられていたり、たばこが捨てられていたり、いらいらして歩いている人やせかせかと人を追い越して歩いていく人も普通にいます。スマホを見ながら自転車に乗っている人も今は増え、危ないです。ここでは、他人とすれ違うときに会釈をするなんてことはないし、吸っていたたばこをポイ捨てする人もいます。多くの人たちのパターンがあふれている俗世界です。そこに蔓延している空気感は先ほどの神社の聖域特有のものとは全く違います。

で、思ったのです。神社を出ても、茅ヶ崎市内全部が実は神社内だと思えたら、他人に対しての気遣いがそこには自然にあらわれるかもしれないし、ゴミを捨てる人もいなくなるかもしれないと。ひいては、誰かをいじめたり、人をだましたり、盗んだりすることもなくなるかもしれない。そして、ひとりひとりの心の中には感謝と宣言があり、それが茅ヶ崎市の集合意識になっていく。

神社の聖域は俗世界にももってくることができます。それはひとりひとりが自分の心の中にそれを入れて持ち運べばいいのです。自分はいつも神社の聖域の中にいると。(実際は私たちは神さまのおなかの中にいるのでそうなんですが。神社はそれを思い出すところとも言えます)そう思いながら帰ってきた道はちょっと今までとは違うものでした。

さて、今日はこれから盛岡へ行ってきます。まだ朝晩寒いそうなので、暖かくして行きますが、こちらは19度くらいらしい。必需品ダウンは手にもって行こう。皆さまもどうぞ良い毎日をお過ごしください。

あいまい
2021/03/09

「私」を探そうとしなくていい、ということについて。

胸よりも少し上のあたりに「私」がいて、その「私」がパターンを見つけたり、パターンが生み出す感情・感覚を察知したり、そのパターンへ語りかけたり、白黒の部屋に入ったり、と「私」を使っていくことをやっていっていますが、その際に「私」ってどこ?どれ?この感覚?…と「私」を探さなくてもいいんだよ、ということです。

今までその存在を教わることなく全員がきているので「私」自体が種ほどの小ささです。それを見つける、感じるということは無理で、それを探そうとしてしまうと、みつけることに意識がむいてしまい、思考がフル回転します。いいんです「私」の実感がなくても。まずは、このあたりに「私」がいると思えばいいです。そしてそれが語るんだ、と(ここはしっかり)思えばいいです。それを繰り返しながら「私」を少しずつ育てていきます。そして、いつか、自然と、なんかわかるようになります。

それぐらいあいまいで十分なんです。

「私」は「ここにいます!!」と言う存在ではないので(育ってくれば感覚としてわかりますが)大事なことは、このあたりにいるんだ「私」と決めればいいです。

今までの生き方として、確実にわかるものごとということがあるのがあたりまえだったと思います。それに対してワークは初めてのもので、おまけに、目に見えず、確実にわかるくらい大きな存在の「私」が用意されているのでもなく、自分で決めて、自分で育てるという初めてづくしのものです。今までのやり方が通用しないという、じれんまがあるかもしれませんが、初めてのものごとってそういうものです。

ですから、あまり神経質にならずに、いいあんばいでやってみてください。

今まではどちらかというと、不必要、不使用であった「あいまい」ということを体験することにもなり、それはすごくいいと思います。あいまいなものごとって、魅力的じゃないですか?まわりととけていて、どこからがこれでどこからがあれなのかもよくわからず。見えたと思ったら消えてしまい、これはこうです、という答えもなく。ちょっと大げさですが、私はこの感じに宇宙の全てがあるような気がしています。そんな新しいエッセンスを得ていくことになるんだなあと思っていただけたら…と思います。

欲張らない
2021/03/08

「これからの世の中どうなるんだろうねえーーーー」とトミーと話しました。

もう、今までのやり方とか、価値観とかで頑張ればどうにかなるということが無理になってきている今、そしてこれから。災害も起きるだろう、新なウィルスの出現もあるかも、今はまだ銀行は存在しているけれど、破錠するときは、急にそうなるらしい、皆が全てを失うということもあるかもしれない。

では、どうするか?と言う話になり、ああでもない、こうでもない、と話した結果、そのときに考えて決めるしかない、なぜなら、何がいつ起こるのか、わからないわけだから…ということになりました。

そうなると、何が大事かというと、体力、気力、そして、どんなようになっても知恵を使って生きていく覚悟ということになりました。もしかしたら災害や病気で死んでしまうことも起きるかもしれませんが、それも覚悟していこうという話になりました。

・・・・・生きる覚悟と死ぬ覚悟・・・・・この2つが必要なんだと思います。

私は今年65歳になりますが、今まではこんなことを話し合ったり、考えたりすることはなかったでした。今まではそういうことを考える必要なくこれたのだと思います。しかし、今は違う。それだけ何か自分の中にもトミーの中にも感じ得ているものがあるのだと思います。

私たち大人はいいとしても、子供たちには、健全な生活をしてほしいです。これからの子供たちのために何ができるのか。そのためには大人たちがもう欲張らずに生きることだと思います。これはとても抽象的なことですが、人類の歴史って人の持つ貪欲さが根源にあることを感じざるを得ないです。それを原因にして動機にして人類が暴走してきたことの結果があり、ずっとそれを繰り返してきました。

そこが変わっていかないかぎり、また違う形で、その結果を人類は受けとり続けていくことになると思います。微々たることかもしれない。わかりにくいことかもしれない。でも、大人自身が変わっていかなくてはいけない。

そして、思うんです。きっと覚悟があれば欲張らずにいられるのではないか…と。

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ

- Topics Board -