ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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先生に囲まれている
2021/12/16

先日、お昼を食べに、近所の店に行ったとき、隣の席に親子連れがやってきました(よくある)

若いご夫婦と5歳くらいの男の子。お父さんはちょっと強面の大きな人で、スキンヘッド、サングラス、迷彩柄のパンツ、といういでたち。お母さんは小柄で可愛らしい方でした。

そして男の子は、ツーブロックヘアで(私とおそろいね)可愛いです。お父さんが「子供用の椅子を持ってくるから」と言うと「僕が持ってくる、僕が持ってくる」といい、お母さんと2人で子供用椅子を取りに行きました。

「よいしょ、よいしょ」という男の子の掛け声とともに子供用椅子が運ばれてきました。見てみると、結局はお母さんが運んできて、男の子はただ手をのせているだけでしたが「着いたあーーー」と大満足の様子に、ご両親とともに隣の私まで笑ってしまいました。

となりの人、何笑っているんだろう、と不思議そうに私を見ていましたが「さあ、食べよう」というお父さんの掛け声で、男の子も席につきました。

すると、お父さんが「いただきます、を、ちゃんと言おう」と言います。すると男の子とお母さんは大きな声で「いただきます」と言って食べ始めました。食べている途中で遊びそうになると、お父さんが「ご飯に集中〜」と声をかけます。すると男の子も「集中〜」と言い、ご飯に向かいます。

このご家庭では、お父さんが率先して男の子に色々と教えているのだろうなあと思いました。それも独特なお父さんのオリジナルな掛け声で教えています。これはこのお父さんにしかできない。

これを見て、聞いていて、そうか…と思ったことがありました。それは、こうして、いろんな人がいて、同じ人はひとりもいなくて、そうやって世界は出来上がっているんだということです。いろんな人がいるから成立している世界。こういう人は良くて、こういう人はだめで、ということではなく、全ての人の個性が世界には必要であるということ。それゆえ問題も課題も個人レベルから世界レベルにまでおよび、この世界になっていく。

それをこのご家族の隣にいて(ほんの30分くらいでしたが)感じたことでした。そして、私はこうして市井の人から教えてもらう、学ぶということをやってきているという事にも気づきました。特別な先生とか、より高いミームの人とか、そういう人達から学ぶのではなく、私と同じように、普通に生活をしている人達から学ぶことがほとんどです。それがありがたいことだと感じました。

こうして考えてみると私はものすごい数の先生に囲まれているということになります。これはすごいことです。

命が2つ
2021/12/13

沖縄行きの飛行機の中で「ペコロスの母に会いに行く」岡野雄一 著を読みました。

漫画家であり、シンガーソングライターでもある著者の80歳の母との日常が、おもしろくもあり、せつなくもあり。認知症になり施設にいる母に会いにいく著者の複雑な気持ちが漫画とエッセイで描かれています(映画化もされたようで)

その本の中に著者がお母さんを車いすに乗せて散歩をしているときに、前から乳母車に乗った赤ちゃんがやってきて2人がすれ違うという場面があります。

お母さんは赤ちゃんに、赤ちゃんはお母さんに笑顔をむけて命が2つならび、すれ違う。そのときに著者はこう思うのです・・・・「人生の重荷を降ろした笑顔(母のこと)」と「人生の重荷をまだ知らない笑顔(赤ちゃんのこと)」のなんとよく似たものか・・・・このシーンとこの言葉は強烈に私の中に入ってきて。

人は生まれて、人生の重荷を知らないときがあり、それと同じように、高齢になったときに人生の重荷を降ろすときが来る。

高齢になり子供のようになっていく、ということは、重荷をおろして、最も重荷を知らなった頃にふたたびなることなのかもしれません。

そして、あの沖縄での出来事。私をじっとみつめる赤ちゃんと、「人生には感謝しかない」と言ったあの女性と。その2つの命をならべてみると、それはとても似ているものだったのかもしれません。2人には重荷は感じられなかった。最たる重荷というのは自分自身への執着。それをもたない2人だったと思います。

人が生まれて、重荷をもちながら生きて、いつか、それを降ろす。そうして、生まれてきたときと同じ自分としてかえってゆく。

それを思うと、だれの人生も意味があり、大切なもので、オリジナルで。自分は生きた、それだけで十分だろうと思います。

重荷を降ろす、ある年齢からはそこを見つめて生きていくことが自然じゃないかと思いました。自分自身への執着から自由になること。

いよいよか・・・
2021/12/12

自分の言動に対してかえってくるものごとが早い。すぐにかえってくる。だから、自分が選んだものがどういうものであったのかもすぐにわかる。

・・・・ということを感じています。自分が選んだものは外に対してのものもあるし、自分自身に対してのものもあります。どちらにしても、この、すぐにかえってくるが働くので、意識して、黒パターンは選ばないようにしていくといいと思います。

以前から、自分の与えたもの、自分が決めたものごとに対して、同じものがかえってくるというのは、よく言われていました。でも、今ほどそれは早くはなかったと思います。だから、遅れてやってくる結果を受け取るときには、自分が何を選んでいたのか、決めていたのかがよくわからなかったと思います。
しかし、ここにきて、それが早まっている、と感じます。より、自分が選択すること、決めることに意識的にあることを促されているように思います。それは、人が本来の姿になっていくことでもあります。

今迄も、大きな何かが、人々にそれを促し続けてきたけれども、なかなか人が、生き方を変えなかったので、今回のような流れを新につくったのかも。・・・・と勝手に思いたくなるほど、早く動いている気がします。

それが正しいのかどうかはわからないですが、もう、黒パターンで言動することからは気づいた人から離れていく努力をしていくといいのは確か。そして、そのときには、自分の心の中に起きる、黒パターンを選んだときの不快感、白パターンを選んだときの快感にそっていけばいいということです。思考ではなく、ハートの感覚です。よく考えろと言われますが、よく考えていると黒パターンにのまれやすいです。結果、よく考えてもいなかった。ハートの感覚を使います。それは一瞬でわかるから。

いよいよ、この時代が主流になるときがきているんじゃないか、と思います。

なごやかなランチ
2021/12/11

昨日日記に書いた出来事のあった日のランチのときのこと。

パスタが食べたくてカフェへ行きました。そこで出てきたパスタを食べているところに、親子連れの一家が入ってきて、私のとなりのテーブルにつきました。若いご夫婦に、男の子の赤ちゃんも一緒です。

もくもくとパスタを食べていたら、やはり視線を感じたので、隣を見てみると、男の子の赤ちゃんがお母さんの膝の上に座って私をじーーっと見ています。するとお母さんが「すみません、この子、女性が好きで、女性の方がそばにいるとじっと見てしまうんです」と言いました。男の子は1歳だそうで、目がくりっとしてとてもかわいいです。

「気が付かなくてごめんなさいね」とその子に言うと、ますますじーーーっと見ています。

「私、まだ、女性に見えているのでしょうか?」とお母さんに聞くと「とーーーーーぜんです!」と大きな声ではっきりと返事をしてくれました。「よかった」と言うとお母さんが笑いました。その子はちょっとお母さんを見上げたのですが、また、じっと私を見ます。

「こんなに男性からみつめられたことがないので、どきどきします」と言うと、それまで黙っていたお父さんが大きな声で笑いました。(いや…そこまで笑わなくても…)そんなでなんともなごやかなランチとなりました。

沖縄ではこういう事が時々あります。一人で食べていても、となりの人と話してなんとなくその人と一緒に食べているような気分になるということが。この日はランチと夜ご飯と2回もそういうことがあり、面白い日でした。

袖触れあうも他生の縁。この時だけの関係ではありますが、これもひとつの「縁」です。

やられたな
2021/12/10

今年最後の沖縄クラスも無事に終わりました。皆さま、1年間ありがとうございました。

今回のクラスには茅ヶ崎クラスからのゲストも加わり、濃いクラスとなりました。それぞれに感じ得たもの、考えたことが多かったと思います。来年は、今回のクラスでのことを土台にして、沖縄クラスを増々大事に育てていっていただきたいと願っています。

帰る日の前日の夜ご飯に、ひとりであるカフェレストランへ入りました。ゆっくりしたくて店内奥の席に座りました。右横には高齢の女性がお茶を飲みながら本を読んで座っていました。

ふと見ると、白髪の長い髪を三つ編みにしています。頭にはピンク色の帽子をかぶり、ピンク色と白髪がよくあっていて素敵でした。

注文した品が来て食べ始めていると、何か右から視線を感じ、見ると、その方と目があいました。お互いに微笑んで、女性の場合、これがあればあとは自然と話しにつながります。

「美味しい?」と聞かれ「美味しいです」と答え、そこから「三つ編みが素敵」とか「髪染めはできればしないほうがいいのよ」とか「私は78歳、〇〇です」「私は65歳、伊藤洋子です」という話に。

その後、仕事は何をしているのか、どこに住んでいるのか、と聞かれていくうちに、その方もご自分の話をしてくださいました。工芸品を作って販売していること、個展を開いたり、デモンストレーションをして作品を紹介したりしていて、まさか、この年までやると思わなかったと話されました。

若い頃は体がとても弱くて体調がいつも悪く、気晴らしのために始めた趣味が高じて、気が付いたら作家の道を歩んでいたのだそうです(帰ってきてから、日本で初めてハイビスカスの押し花絵を考案し、成功させたということで科学技術庁長官賞を受賞されていることも知りました。お会いしているときにはまったくそういう話をされない方でした)

「この年になるとね、自分の人生の意味がわかるようになるのよ」という言葉がたくさんの会話の中でとても印象に残りました。人生には無駄はなかったとおっしゃいます。そこには意味があるのだと。「だからね、そんな人生に感謝しかないのよ」と。

そして「この年でもアイデアが湧いてくるのよ、今度はこういうのを作ってみたいと思うのよ」と話してくれました。きっとこの年でも、ではなく、この年だからこそなんだろうと思いました。人生の先輩の言葉は重みがあります。

「また、きっと会えるわね」と言って手を振って別れました。笑顔が素敵でした。

食後、気に入っているアクセサリー店で、これ、いいなというものを手に取ってみていると、スタッフの方が「それは80歳のデザイナーの方の作品なんです。感性がいいですよね」といわれました。先ほどの方といい、このデザイナーの方といい、やられたな、と思いました。年配の方はあなどれない。私が見えていないものを見て、感じて、生きている。しかしそれを微塵もちらつかせない。もう、本当に…やられたな…でした。

ブッダボウル
2021/12/03

昨日、駅ビル内で、いつか食べてみたい…と思っていた「ブッダボウル」を食べました。念願の「ブッダボウル」。ブッダというだけあって、納豆、のり、アボカト、蓮根、麩、などなどが雑穀米の上にのっていて、精進料理に近い・・・が・・・真ん中に、どん、と、生卵がのっていて、一気に現世に呼び戻されます。

これらをまぜて食べます。「これを食べれば「ブッダ」になれるのかな?」と茅ヶ崎クラスの皆さんと以前から話していました。しかし、食べ終わっても…ブッダにはなっていませんでした。

何かに成るということが違います。今の自分を認めて、今の自分にOKを出すことで、ちょっとブッダに近づくという事だと思います。

今の自分にはいろんなものが含まれています。黒パターンも白パターンも今の肉体も脳も個性も性格も記憶も今までの過去もこれからの未来も前世の体験も。そんないろんなものがつまっている自分にOKを出すということです。

何かに成るというと、今の自分を捨てて、それになる、という印象がありますが、今の自分にOKを出せる自分に成るということですね。今の自分に捨てるべきものはないです。

ということで、今の自分のまま、沖縄へ行ってきます。今年最後の沖縄クラスです。1年を振り返りながら、皆さんにとって良いセミナーになりますよう、頑張ってきます。皆さまもどうぞお元気でお過ごしください。

「私」が求めているもの
2021/12/02

「自分の中の誰が話しているんですか?」「自分の中の誰が考えているんですか?」「自分の中の誰が今それをしようとしているんですか?」と、いつも自分を観察。

「私」は観察者、目撃者、そして本当の自分です。

今、話しているそれでいいの?今考えていることを「私」は欲しているの?それをしようと「私」が望んでいるの?・・・といつもいつも自分をみていくことが大事です。

長い間、黒パターンで皆生きてきたので、それに慣れてしまっています。黒パターンはただ反応しているだけなのでそれはすぐに表出しますが、それは「私」ではない。この「反応」から離れていくように意識して(努力して)いくことが大事です。練習しかないです。

反応は即座にやってくるもので、即座にきていることは反応だと思ってみてください。待て待て、これは反応だ、と。

そして「私」が本当に欲していること、望んでいることは(この場において、この人に対して、自分に対して)なんなんだろうと落ち着いて自分の内を見て見ます。その声を聴いてみます。すると「私」はそれは必要なのではない、それは欲してはいないし、それとは逆のことを望んでいる、など、わかると思います。

それこそが今話さなくてはいけないこと(もしくは話してはいけないこと)今考えなくてはいけないこと(もしくは考えてはいけないこと)今、しなくてはいけないこと(もしくはしてはいけないこと)です。この間、ちょっと時間がかかるかもしれませんが、この感じを身につけていかれるように練習していってください。だんだんと慣れていきます。一気にできなくてもやり続けていくうちにそっちが普通になっていきます。

そして、それを続けることで「私」が求めているものごとが以前のそれとまた質を変えて、より、統合的に、普遍的に、天意に沿った、広い視野で求めていることにも気づいていきます。

・・・・・・で、そこに現れてくるそれは「執着を捨てろ」ということなんだろう、と思います。あらゆることに対して。そうして初めて「私」は自由になれるのだろうと思います。

関わらなくていい
2021/11/30

草薙龍瞬さんという僧侶の方の言葉です。

「自分から伝えた結果、もし、相手が理解しようとしない、聞こうとしないのならそれはもはや関わる意味のない相手なのかもしれない。どのような関係であれ、一方的に苦痛に耐えなければいけない関係は存在しないはずだから。」

その通りだ、と思いました。

ここでは「もはや関わる意味のない相手なのかもしれない」とありますが「かもしれない」ではなく「(今は)関わる意味のない相手である」でいいくらいだと思います。

どーーーーしても、全ての人に対して優しさを持ち、寛容に関わること、誠実であることが良いことと思われがちですが、そのようなマスター級の白パターンをマスターでもない私たちが自分に強いる必要はありません。今の自分にみあう白パターンを作ることが何より大事です。その白パターンのひとつとして、もう、その人と関わらなくていい、があります。それが自他への優しさだと思うんです。

理解しあうことができない人は普通にたくさんいます。自分が理解しあうことを望んでも、相手が受け付けなかったり、何を言われているかわからなかったり。

しかし、それはその人が悪いのではなく、それはそれで仕方ない。だから理解してもらおうとしなくていいし、理解させようとしなくていい。その人をそのまま「そうなんだ」と受け止める(だからその人はそのままでいい、そして自分もそのままでいい)ことだけでいいと思います。

関わるというのもその質が上がっていけば、この方がおっしゃるように「理解をするために関わる、理解の共有をする」ということになります(しかし、その時点での理解というものも質が変わります)。

で、理解に自分を含める、優先するということです(時々私もこれを忘れるときがあります)。自分が苦しんでいないか、無理していないか、犠牲になっていないか、と自分への理解を深めることが大切です。自分を置き去りにして他人への理解を深めるというのは違います。自他同時にみていかなくてはなりません。

で、この関わらなくてもいい、ということ、これが腑に落ちて思えたとき、その相手への執着(期待とか予想とかコントロールとか)が消え失せ、それこそ自由になります。関わることでの不自由さや義務感のようなものが自分を苦しめていたことにも気づきます。

いつもいい気分でいることが最も大事なことなのですから、無理に関わることでそれを台無しにしなくていいです。

自己探求をしていくと、どうしてもマスター級白がちらつきます。でも、大事なことは今の自分がいい気分で(あくまでも「私」がです。黒パターンがではないですよ)いられる白パターンを作るということです。

お姫様
2021/11/29

きのうで、今年最後の大相撲が終わりました。

横綱・照ノ富士が2場所連続の優勝。おめでとうございます。今回の大相撲も、私の憩いのひとときとなりました。

でーーーーー、大相撲ファンの方達は、もう1年ほど前から気づいていたと思うのですが「お姫様」。(…とうちでは呼んでいる)土俵のすぐそばの溜席に連日座っている美しい女性の方。今回の九州場所にもいらしていました。

ネットでは溜席の妖精と言われています。きちんと正座し、背筋をのばし、その姿勢を崩すことがありません。拍手の仕方もちょっと違う。気品があります。

そして、びっくりするのは、毎日服が違う。服にあわせてヴィトンのバッグも変わる。取り組みをみながらもついついそちらへも視線がいってしまいます。

服は質のよさそうなワンピースです。パンツ姿は見たことありません。今回は白っぽいワンピースが多かったですが、とにかく着ているものが違うんです。育ちの良さを感じます。

この1年の間に、その女性を真似た方も出没しましたが、かないませんでしたねえ。真似る、模倣するって、どこか無理があるのでしょう。その無理の部分がかなわないにつながるのでしょうね。

このお姫様はその状態が自然であり、そのままでいるから、その存在が目にうつるのだと思います。自分は育ちがいい、他の人より良いものを着ている、持っている、だから目立つというのではないです。目立つのではなく目にうつる。ここに育ちの良さがあらわれるのだと思います。

そして、それぞれにその人の個性があります。それをそのままに表していけばいいだけなんだと思うんです。そこにあらわれるその人らしさ。その在り方に品というものもそなわるのだと思います。

また、1月場所でのお姫様を楽しみにしています。しかし・・・・長時間正座していて足がしびれないのだろうか、と、ちょっと正座しただけで、立つときにこけそうになる私は思うのです。

諦める白
2021/11/28

白パターンを選ぶときに使われる、大きな普遍的資質として「勇気」があります。

というのも、黒パターンとしてずっと使ってきたものを新な白パターンに選びかえるには、どうしても勇気が必要になるからです。それは、今までやったことのないこと、今まで考えもおよばなかったこと、である場合がほとんどなので、どうしてもそれを行うためには勇気が必要になります。

そして、勇気というと、強く、前進、というイメージがあります。しかし、勇気には強く、前進だけではなく、諦めること、手放すこと、縮小すること、離れること、降参すること、など、弱く、後退するイメージのものもあります。しかし、それらも、新な白パターンなので、これも、結局は強く、前進、であると言えます。

「諦める白」というのは実はとても大事なものです。今あるものを諦めていくことは、たぶん、いわゆる強く、前進のイメージのある白パターンよりも「私」を大きく育ててくれるように私には思えます。

諦めることは変化し続けていく自然の理にかなっているし、人間、諦めることをしないことは年をとるたびに苦しみが増していくことになるからです。

又、何かを諦めるから新しいものが入ってくるというのもあります。今のままでいながら新しいものも欲しいというのは無理です。自分のスペースは決まっているからです。そして今もっているものは、もう、自分には合わない、ふさわしくない、ということも大いにあるからです。

よく、流れに乗っていけと言います。それは、こういうことなんだろうと思います。そのためには、諦めるときは、諦めようと腹をくくっておけばいいのです。今から。そのときがきて初めてそうしようとしても、それは、きついと思うので。

風のごとく、水のごとく生きるというのは、こうして前進したり(一見)後進したりしながら、そのときそのときに合わせて動けるということです。そのフットワークの軽さは絶妙であり、バランス感覚にもたけています。

そして、それは「私」がセッティングした流れなので、そこに乗っているときは「いい気分」でいられるはずです。成長することにはこんな面もあります。

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