ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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軌道修正してこなかった
2025/09/27

昨日の続き。確かにここのところ、これは違うのではないだろうか、と自分の内にありながらも、軌道修正してこなかったということがありました。私のパターンです。

何か違っているよなと思いつつ、そのまま過ごしていて、なおかつ、体調不良とも戦ってきていたので、それが神さまのエネルギーをシャットアウトしていたのではないだろうかと思いました(こちらが一方的に受け取らないのだろう)

この綺麗な感じはもしかしたら1年ぶりくらいかもしれません。それは、1年位、そのパターンを選んできたと言えます。どこか違うと感じたのであれば、それが何なのか、見極めて、自分はどうありたいのか、というところで軌道修正すべきだったと、反省。これからは自分の何か違っているよな、という感覚を大事にしていこう。

こんなふうに、実は違っていたということをどこかでつきつけられて、はっと目が覚める。そこで反省したことをではどうしたらよいのか考えて、また歩んでいく。そしてまた、実は違っていたことを何かで知ることになる。そしてまた、はっと目が覚める。

この繰り返しでずっと来ていたとあらためて思いました。この繰り返しを嫌だと捉える人もいるかもしれませんが、私は、今はそれはないです。だからいつになったら楽になるのか?ということも思いません。昔は楽になることを目指していたのでとにかく早くそこへ行きたかった。しかし、それは幻であり、それを追っていくと現実的に生きることから離れていってしまいます。ファンタジーの世界で生きているような。

今回は神社への参拝から教えていただいたことでした。それが他人から、何かの出来事から、自分の病気や不調から、と、自分に教えてくれるものは誰にでもあると思います。こういう事からも、自分ひとりで頑張らなくていいと言えます。それがその人にとって必要なことであれば、いいタイミングでやってきます。自分にできることは、肩の力を抜いて、心を開いてそれを受け取ることだと思います。これも、そういうルートを自分が創るということなのだろう。

綺麗な心身に
2025/09/26

先日、近所の神社へ行きました。

いつもぬかづけを買うお店の近くに、厳島神社があります。氏神様です。そちらの方へ…。

この神社では他の人に会うことはほとんどありません。人がたくさんいるのは元旦くらいです。なので今回も他の人に気を使うことなく参拝できました。

いつも通りに日々の生活ができていることに感謝し、今、自分がやるべきことや、なかなかできていないことなどをつらつらとご報告し(報告されなくてもわかってるよ、と言われている気分)でも、自分は…今生、これをやりに来ていることはわかっているから今できていないこともできるまでやり続けます!と宣言し、目を開けました。

すると、とても綺麗な心身になっていました。いわゆる、透き通った感です(何かが落ちた)で、帰り道、同じ道を通っているのに、見えている風景が来るときとは違うように見える(このように、固定されているものはないし、その時のその人の意識により環境は変わる)と思いながら歩きました。

実はこの綺麗な感覚を私はここのところずっーと忘れていたという事に気づきました。毎月、参拝に来ているのに、その感覚を思い出すことはなかったんです。

そして思いました。神さまはその神さまのエネルギーをいつも向けてくださっているのに、私が、パターンでいることで自ら作った心の状態でいたために、それを受け入れなかった、シャットアウトしていたんだ、と。。。続く。

目撃者
2025/09/25

パターンは過敏に反応します。これはこういうこと、これはこうあるべき、とパターンは固く信じているので、そこに引っかかる物事が起きれば、即反応して、感情を生み出し、それ自体も嫌なので、そこを対処するためにすぐに思考します。

あっという間にそれは行われます。パターンにひっかかることって毎日あるので、このパターンの反応は毎日起きているはずです。パターンが反応していることに気づかなければ、それは繰り返されるので、それが普通になります。しかし、それがパターンであることに気づければ、自分が意識的にそこをリードしていかれます。そこまでいこう!そのためには日々練習。

ケン・ウィルバーのこの言葉をどうぞ。真理を教えてくれる力強い言葉。そして、これが「私」です。「私」は自分。自分を見失わないように。


「私には見る身体、感じる身体が有る。疲れたり、興奮したり、病気になったり、元気になったり、重かったり、軽かったり、甘かったり、酸っぱかったり、痛かったり....私には身体がある。私は身体を通して感覚する。でも私は身体では無い。私は身体を通して感覚するもの。

私には起こっては消えていく望みが有る。でも私は望みでは無い。私は起こっては消えていく望みを見つめるもの。

私には漂う感情が有る。でも私は感情では無い。私は漂う感情に気付くもの。

私には取り留めのない思考がある。でも私は思考では無い。私は取り留めのない思考を知るもの。

私は以上のどれでも無く、それらの全てが無くなっても残るもの。私とは、意識の中心。意識の源泉。静かな明晰性。目撃する意識。私とは、全ての感覚、望み、感情、思考を見守る不動の目撃者。」

私はできる
2025/09/24

「最後は何を信じているか」なんだね…という話をしました。うん、そうだと思う。何を信じているかというのは、自分の内で自分は何を信じているか、という身近かなものごとのことです。

で、最強のそれは「私はできる」というものです。「私はいつかできるだろう」「これはできるはず」「続けていれば私はできる」「私、やれるな」「私、いける」…というようなものです。しかし、ここでのそれはパターンのそれではないです。パターンの場合は「私はできている、わかっている、できる人間だ」という感じなので、それとは言葉は似ていても反対にあるものです。

「私はできる」の根拠は一切ありません。それで全くいいのです。なぜかというと、それは自分が内側で決めていることだから。もう少し深く言うと、どこかでわかっていることだからです(わかっていれば根拠はいらない)それがひっそりといつもずっと自分の内に在る。それもごく当然に、自然に、という人は強いです。

そういう人はなんだかいい塩梅でいきます。もちろん魂は成長したがっているので、色々とセッティングしてそれにより悩んだり、苦労したりもあります。でも、そういう時にも「最後に信じているもの」があるということは強いです。

人によっては「自分はどんどんよくなることがわかっている」と言う方もいるし「自分には必要な物事はその時に与えられるから」と言う方もいました。これも根拠なし。でも、その方は見ているとそうなっていっているのです。で、その体験からまた自分の決めているものをより決めるようになり、それは大きくなるのだと思います。

これ、天のルールのひとつです。これは特別な人だけに与えられているものではなく皆が持っているものなんです。全員、天の内に住んでいるから。心が綺麗だから与えられる、とか、正直だから与えられるのではなく、自分の内のそれを認識する。

自分の今までの生活の中で、この体験も誰もがしているのではないかと思います。自分の中ではこれはこうなる、とわかっていることです。それを具体的に思い出してその感じを感じてみる。それと同じなんです。

それを自分のうちの「私はできる」にあてはめて、その感覚を感じてみるといいと思います。最後はそこ。

以前やった「根拠はないけれど…」の瞑想。これをやってみるといいかも。あの言葉の中にそこへの気付きや誘いがあります。

川の流れに逆らって歩くようなもの
2025/09/23

私の足は外反母趾です。ありがたいことに、痛みはないのですが、今年はいつもよりサンダルを履いている期間が長かったせいか、足裏が疲れた感じがしていました。

そこで、「外反母趾の人のための歩き方」という動画を見ました。外反母趾の人が足に負担をかけない歩き方を習得しよう、というものです。

で、そこで言われていたことなんですが。まず「今の自分の歩き方を知る」→今の自分の歩き方が間違っているから足に不都合があることを知る。そして、今の自分の歩き方を知るからこそ違う歩き方を習得することができる。

次に「常に戻ってしまうことを意識する」→人は慣れ親しんだところへ簡単に戻る。以前の歩き方に簡単に戻ってしまう。

それから「いつも意識を持つ」→新な歩きかたを得るために毎日練習をするのだが、新しい歩き方を(+)と捉えると今までの歩き方は(−)と捉えられる。練習は(+)だけではなく(−)を減らしていくことが大事。そして厳しいかもしれないが当初は24時間自分の歩き方に気を付ける。これらがないと習得はできない。ということを話されていました。

これって…心の成長も全く同じだ。自分の心の成長(成長というのは、本来の姿に戻るという)のためには、まず、今の自分を知ることです。自分の内にどんなパターンがあるのか、そこから出てくる感情も知っているのか。その結果も知っている。

そして、意識的でいなければすぐに元に戻ります。まあ、いいか、こう考えればいいか、面倒くさい、またか、もう嫌だ…という以前の自分にすぐ戻る。黒パターンで言動する自分にすぐ戻る。

又白パターンを(+)とすると黒パターンは(−)であり、ただ、白を選び続けるだけではなく、黒を選ばないことをしていかなくてはならない、だからそういう意味でもいつも意識的でなければならない。それらがないと心の成長は習得することはできない。

人が今まで生きてきて心身につけてしまったクセを変えるには、並々ならぬ努力が必要だということです。それについて、動画では「川の流れに逆らって上流へ歩いていくようなものなので最初はとにかくつらいと思います。気を抜いてしまえばすぐに川の下流に押し流されて行きます」とおっしゃっていました。

本当にねえーー、そうだよねえーー、と共感です。何事も、すぐにできるものごとなどないということです。でも、だからこそ出来てくることが嬉しい。こういうことを通して、人間、本当の意味で謙虚になれるとも思います。

パターンも感情もシンプル
2025/09/22

自分の内で起きていることは本来とてもシンプルなことなんです。

パターンはとてもシンプル。そして、感情もとてもシンプル。

それなのに、それに目を向けていなかったり、わかっていても無視したり、拾い上げることをしなかったり、知りたくなくてそのままにしていたり、とにかく思考で処理してしまったり。そういうことで、シンプルなものだったのに、それを重ねて、こねくり回して自分の内を複雑にしてしまうのです。毛糸がからみあって、ぎゅっと収縮されて玉になり、固くなり、どこがどの毛糸なのかがわからなくなる。何のパターンなのかわからない、どんな感情なのかわからない。これらはパターンや感情をほっておいてしまった結果です。そして現実は苦しい。

厳しく言えばほっておくことを選んできたということ。このことを正直に、素直に、受け取ってください。そうか、ほっておいたのは自分の選択だったんだと。ここで、まだ、パターンとかケアとかを知らなかったんだから仕方ないよね、ではないということです。それって自分のせいではありませんということです。今までのことは自分のせいじゃない。そういう人をパターンは信用するか。しないでしょう?自分のせいなんです。おまけに過去は今も同時にあるし。

これは誰でもそう。私もです。しかし、それを知ったときに、今までの事(過去)も自分が蒔いた種の結果かと正直に受け取り、自分の心の内で起きることは全て引き受けようを選ぶかどうか、でこれからは変わっていきます。ここに「自分はどうありたいのか」がいかされる。この心を自分が背負い、自分が助けるんだ、そういう自分でありたいと思ってもらいたいです。

物事は全て原因と結果があるのでそれを選んだのであればその結果になります。その絡んだ毛糸をひとつひとつ引っ張り上げてほどいていくしかありません。その具体的な行為はどんなに小さな感情も無視せず、それがどのパターンから生まれたものなのかをみつけます。みつけたら語りかけ。すぐに白黒ワークをせずに(何故、すぐにやろうとするのか?誰がそうしたがっている?)その語りかけに心身を使ってください。

そうして絡まっていた毛糸がほどけていけばこんなにも心はシンプルなのかとわかると思います。この状態までもってくれば、どんな感情が湧こうとも、それにシンプルに向き合えるようになります。だから結果、気付いたら楽なんです。心が楽だから、軽く、すっきりと生きることができるのです。

2025/09/21

整体の先生(←こちらの先生は量子先生と私の中では呼んでいます。最初の施術から量子の話だったので)が「自立とはたくさんの根を持つことなんです」とおっしゃいました。

なるほどーーーと思う。「その根があるから自分が立てるということなんですね」と私が言うと「そうです、何から何まで一人でできることが自立ではないですね。伊藤さんはどうですか?根は持っていますか?」と聞かれました(このあたりカウンセリング的)

「持ってます」と答えた。そこでまず浮かんだものが私の言い方で少々おおげさですが「これがあれば私は生きられる」というもので、それは音楽であり、文章であり、絵であり、色であり、バレエの小さな動きであり、などなど。これはまさに私の根になってくれていて、生命力を生み出してくれています。

「先生はどうですか?」と聞いてみた(ここもカウンセリング的)すると「僕は、数人、信頼できる人がいるので、その専門の方々に相談にのってもらったり、お願いしたりしています。」ということでした。そうか、人も根になってもらえるのか…と思い、私は?と考えてみた。「私も信頼できる専門の方達は数人います。」と答えました。「だけど、根に依存は違うと思いますがどうですか?」と伺うと「それはその通りです。あくまでも自立のための根なので、そこへ依存があれば違いますね」ということでした。ここが難しいところだろう。何をもって自立というかにもよりますが、一般的には、自立に向かうためにひとりでは無理だからまずは根を持ち、そこの力をかりながら、いつか自分で立つということなのだろう。

で、私は、やはりまずは自分で立つということが前提だろうと思いました。誰の内にもある「私」という芽。その小さかったものを大きくしていき、パターンたちの面倒もみれるようになって(ここがひとりでできるようになれば、それが自立、と、私は思う)そこからの根はより自立力を強めるためのものではなく、自分の人生を豊かに生きるための根という意味付けを持ちます。そこでの根は自分に合う、自分にとっての善き根です。それがひとつでも、ふたつでもいい(たくさんじゃなくていい)そして、そこでは相互サポートがなされていて、自分がその人の善い根にもなっている。そんな共存していく根。それを思ったらとてもいい感じです。そうね、これが自分には合っているんだと思いました。

正直さ
2025/09/20

今日も引き続きお二人の対談の話。

矢沢氏とイチロー氏、お二人に共通してあるものは「正直さ」です。この正直さというのは、隠すこともできず、かといって全面に押し出してアピールすることもできないものです。これが「正直さ」の持つエネルギーなんだと思っています。

人って、どんなに繕っていても、その人が外に出ているんです。どんなに素晴らしいことを語っていても、その言葉や態度の後ろにあるその人自身、その人の選んでいるもの、その在り方って、ちゃんと外に出ている。それが「正直さ」のなすわざだと思います。

昔、カウンセリングの先生から「最初に、自分の手の内を全てみせてしまったほうが楽だわよね」と言われたことがずっと残っています。これは誰に対してか、とか、どんな状況の時になのか、とか、あるのですが、人って本来そうやって生きたほうが楽だろうなあとは思っていました。で、ここまでやってきてやっぱりそうだと思う。ということは、自分の手の内をどれだけ自分が把握しているか、ということになります。どれだけ己を知っているか。

全てを把握しているというのは難しいとしても、その時その時の自分を把握できているのと、できていないのとでは、いろんなことが変わってきます。

で、あのお二人。もちろんTVでは話せないことはたくさんあるだろうけれども、それでも、ものすごく正直さを感じました。イチロー氏が言っていたことに、自分に対して賛否両論あるのはわかっているし「否」のほうが多いだろうともわかっているということでした。正直に生きるとはそういうことでもある。そのマイナスは他人からやってくる。しかし、それでも自分を貫いていくのは、意地ではなく、それが自分の正しさだからです。他人にそんな自分を見せているのではなく、自分に対して正直でありたいという思いがあるからです。ただ、ここだけ。

ここで、自分の哲学というものがいきてくることになります。で、カウンセリングの先生のお言葉「自分の哲学を持て」。それはカウンセラーには必須ですが、自分を生きる、自分らしく生きるとはそういうことだからです。毎日の生活を通して、自分のための哲学を自分で作っていくのです。

自分を生きているお二人から学んだ今回。自分の事も振り返り、新な気づきもありました。私は、こうして学ぶことがすごく好きなんだということもよくわかった。ありがたいです。

甘い優しさ
2025/09/19

昨日書いた、お二人の対談。

イチロー氏は、現在はマリナーズでインストラクターとして仕事をされているそうです。又、シーズンオフの時は、日本全国の高校球児たちのところに出向き、その育成をしているのだそうです。

そこでの伝えることの難しさを痛感していると話していました。しかし、矢沢氏の在り方から伝え方ということではなく、大切なことは、自分のパフォーマンスを見せることなんだろうというところに話がいきます。伝えたい自分というところにフォーカスするのではなく、その在り方を見せるということでそこで伝わっていくものがある、ということです。

その話の中に今の子どもたちは、周りが皆優しくて、厳しくできないという話がありました。「今は、先生も指導者も親も含めて周りにいる人達が優しいのだそうです。しかし、社会に出て競争しなくてはいけない時に競争能力がすごく低くなってしまうんらしいです」と。これはそうだろうと思いました。

世の中の在り方が全体的に優しい。優しさというのもミーム(質)があるので、それはひとつではないのですが、押しなべて同じような在り方、物事に対して「優しい」と言います。それは傷つけないこと、嫌な思いをさせないこと、不快感を与えないこと、又、自分にもそうしない、させないことです。それが球児たちを見ていても感じられるのだろうと思いました。

競争能力は必要です。特に若いときにはその体験自体が必要だと思います。ここを、変にスピリチュアルになっていくと、競争はしなくていい、競争なんてレベルが低い、皆誰もが素晴らしい、という認識を持って自分の可能性にフタをしてしまうような捉え方もあります。

しかし、競争能力とは、自分自身と競争する能力とも言えるし、常識や決められてしまっている物事と競争することでもあります(そのために他とのそれが必要になる時期ももちろんあります)イチロー氏が言っていた「はがゆいところ」とはそんなところであり、それを伝えることが難しいのかもしれません(周りが優しいがゆえに)

パターン的な優しさを自他に向け続けてしまうと、本当にもったいないです。怖いところへ飛び込むことや挑戦することで人は初めて自分の可能性を感じたり、何か、根拠なく自分は出来る…と本気で思えるようになります。甘い優しさという温室から出ることなく一生を過ごすこともできるし、勇気をもって自由に羽ばたくこともできる。やっぱり自分で決めていくしかないんだと思いました。

成熟した人たち
2025/09/18

先日TV番組でMUSIC SPECIAL 矢沢永吉「ヤザワ×イチロー 〜俺たちの失敗〜」という対談をみました。

矢沢氏76歳、イチロー氏51歳。20年ぶりの再会だそうです。

20年前に初めて顔を合わせたときの話から、この20年間のこと、そして、自分たちの失敗について話は広がっていきました。ビッグなお二人なので、私が想像できないような体験をたくさんされてきたからか、話の内容が濃く、おもしろかった。

そして、今も、安泰ということではない。いや、お二人とも安泰は選んでいないんです。最後に、今回の対談はどうでしたか?という質問に対して、イチロー氏は「苦しい時には矢沢さんを思い出そうと思いました。それぐらい、これからのモチベーションになる再会でした」と話していた。もっと大変な思いをしてきた矢沢さんが自分の前にいてくれることで自分も頑張れると思ったのでしょう。

矢沢氏は「そうね、迷うよね人生。皆迷っているんじゃないの?迷って迷って、腐って腐って。そこに一瞬のキラッと光りがあったら、俺、まだ大丈夫かもしれないと思う」と。酸いも甘いも知っている人の言葉です。そして、それは他を思いとても優しい。

こうやって人ってそれぞれの成熟を迎え、それでもそれを終えることなく進み続けていかれる存在なのだと思いました。人っていい…人が好きだ…私、と思いました。

成熟していったのは、お二人が特別な才能があって、特別な存在だからなのではなく、そういう生き方を選んできたから、努力し続けたから、結果そういう成熟を体験し、そういう自分に今成っているということです。

このように、精神的修行とか、自己探求とかをしなくても、自分のやるべきことを真摯にやり続けることで、その人が自分のミームを上げていくことがあります。人ってそもそもそういうふうに創られているから。

イチロー氏は議論好きで、とても正直で、日々の地味なルーティンの大切さを知っていて、追い続けていく人。矢沢氏はシンプルで、子供っぽさを持ち続け、それゆえ、自分の気持ちに正直に突っ走れる人。と思いました。タイプは違いますが、お二人ともとても魅かれるものがありました。

この頃、その人の持ち味とか、その人の前面に出ているものとか、それを感じることが多くなり、感じるたびに、この人はこうして生きてきて、今、ここにいると思うようになりました。私とは全く違う個性で、私とは全く違う人生を歩んで。そして、それはまだまだ続き変化していく。だから、やはり、それぞれが自分で創っていくしかないんだとも思います。

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