ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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わからない所にいる人
2021/09/18

「コロナ、今、どうなんですか?ワクチンは、どうなんですか?」とお会いした方に聞かれ、私がウーーーーンと考えていると「あれーーー、一番そこから離れていて、わからない所にいる人に聞いちゃったぁ」とその方が言って大笑いになりました。ほんと、その通りです(よく見ているなあと感心)

で、わからない所にいる私としても、一応、(今のざっくりと両極の情報)を見聞きしましたが。

両極情報には、コロナの脅威、変異株が次々と出てきて、すでに医療崩壊、経済崩壊…の危機。だからワクチンを打とう。そうやって集団免疫をつくりましょう。あなたの大事な人のために、皆のために打ちましょう。

も、あれば(陰謀論的ですが)コロナは嘘、ワクチンは危険。ワクチンにはマイクロチップが入っており、自分の本来の免疫は破壊され、結局は人口削減が目的という人間たちの計画、だから騙されないように。というものもあります。

しかし、私には、どちらも同じようにしか感じられず、わからないのです。

なぜ同じようにしか感じられないのかというと、その2つが同じ領域にあるものだからです。だから主張は真反対であっても、同じにしか感じられないんです。

その領域は「これか/あれか」「私は正しい、あなたは違う」「恐怖」「不安」が特徴です。これらがあると、どうしても体現されていくものはお互いの「争い」です。それは「差別」や「分断」にもつながります。こんな根拠もある、こんな証拠もある、こんな現象も起きている、これだけの数字が示している、この権威ある人が告白している、だからこれが正しいのです、だから、惑わされないで…とお互いに言い続けている。

しかし、ありあまるほどの、情報があるのに、その領域に「真実」がないということを感じます。「真実」「真理」「本質」…それらを感じられるところを自分は選んだ。なんせ、そこに向けて学んできたのですから。そして、お会いしている方達、日記を読んでくださっている方達にも、圧倒的な人数で構成されているこの領域を抜けていってもらいたいと思います。

違う領域にいけばコロナに感染しないのか、というと、感染するかもしれません。苦しむことにもなるかもしれないし、もしかしたら命が終わるかもしれません。しかし、この時代に、この世の中に、その寿命でOKです、と、自分から手をあげてやってきたのは自分です。だとしたら、そうなったときの自分にも真実と真理と本質を見いだせるようで、ありたいと思います。

なーーーんて、マスター級なことを言ってますが、そのときになってじたばたするかもしれないな、私、もあります。でも、じたばたが過ぎたときに、きっと私はそこを見据えるだろうと思います。

そして、これだけは言えることは、もし、そこで命尽きたとしても、私は自分の人生に満足してあちらへいくだろうということです。やりたかったことはやりきった、いろんな人たちとすごしたこの人生は楽しかった、と思えます。

それぞれの「私」は「私」という魂でこの人生を生きることだけを求めています。そして、そこに向かおうとしている人たちにはきっとそれが与えられていきます。今、世の中のほとんどの人達が誰かの言っているその人にとっての正しいことを信じて、そこに従っていきます。それをやめよう、自分で考えようとはその領域でも言われていますが、その領域で考えるということは、そこの中で答えをみつけるということになります。

小さな自分という「神」
2021/09/17

年を取ると丸くなると聞いていましたが、ほんとか?と思います。自分をみていて。

若い頃よりも嫌なものごとはよりはっきり嫌になっているじゃないか…と思います。どこが「丸」いのでしょう。

かと言って、サッポロビールのキャッチコピーのように「丸くなるな、星になれ」というほどの「星」にもなれていない。年をとって「星」になる人もいます。さん然と輝く「星」に。希少だとは思いますが、そういう方は同年代の人たちにも、若い人達にも希望と夢を与えることのできるまさに「星」です。

私、丸でもなく星でもないのならなんなんだと考えました。そこから気づいたのは、近頃「諦める」という力を獲得したということです(それが丸でも星でもない何の形かはわかりません)これはきっとこれからもより育つだろうと思います。

諦めるというのは、ゆだねる、身をまかせる、流れと共に、おまかせする、腹を決める、覚悟する、というものです。最後の腹を決める、覚悟するというところに自分への執着が減ってきていることが感じられます。

これは、私は、若い頃にはまったくなかったものなのでこの獲得には年月が必要だったのだろうと思います。私にとっては、これは魂の課題でもあると思います。昔は、全てにおいて今すぐに思い通りじゃないと嫌だったので、これのバランスをとるためには「諦める」は必要だと思うのです。

そして、やはり近頃感じていることですが、感性は若い頃よりずっといいと思います。若い頃は感性さえも思考していたので、わかりやすいものにしか感性が動かず、今思えばあまりに表層的なものしか見えていなかったと思います。

しかし、これも年をとるにつれて、深まっていったと思うのです。いわゆる…酸いも甘いも…という体験を通して、感性は開かれていったのではないかと思います。そういう意味では年月が必要です。そして、これもきっとこれからもっと育っていくだろうとも思います。

これらは「私」を構成している普遍的資質にあるものですね。気がつけば、獲得したいものが物質や、目に見えて他人にわかりやすいものから、自分に内在している「私」を構成している普遍的資質に変わっていったことが最もうれしいことです。自然とそうなっていったというところには無理がなかったので、そう自分にしてあげられてきたことがうれしいです。

大元から生まれた私たちは、この、普遍的資質を体現して生きるということを目指しています。たくさんある普遍的資質を自分の個性や課題とあわせて体現して生きることを「私」は望んでいます。体現するとは、自分の在り方を表現する、表明するということです。そして、その体現は他人の目にうつるものでもなく、評価されたり、賞賛されたりするものでもないんです(より、体現が純粋化したときには、自然と他人に善き影響を与えています)

それは大きく大きく言ってしまうと小さな自分という「神」がこの地上で生きているということになります。

バランスをとる
2021/09/16

バランスが大事ということはきっと皆がなんとなく、または、はっきりとわかっていることだと思います。

誰でもが「私」が決めるという生き方をする前は、あらゆることのバランスが悪い状態にいます。これはごくごく普通なことです。アンバランスは黒パターンによってつくられるので、まずは、本当の自分「私」ではない生き方をするという事からすれば、必要なことでもあります。

アンバランスゆえのネガティブな感情や感覚、それがあるからこそ、人は、そこではない選択をし、新な生き方をしていけます。そうやって本当の自分「私」として生きることを覚えていくんですね。・・・というか、思い出すんですね。

そこにはバランスをもって(整って)生きる生き方が体現されていくわけですが、この先に何があるのでしょうか?何に向かっているのでしょうか?

バランスをとるということは陰陽を同じくらいの分量で持つということでもあります。ほとんどの人がはじめのうちは陰の分量のほうが多く(時には陽のほうが多いこともありますが)います。

そこを陽の部分を大きくしていくことで、だんだんと分量的に同じくらいになります。そしてそのころになるとこの陰陽が流れ続けていることも感じられると思います。固定しているのではなく、流動しつづけている陰陽。そうやってバランスってとっているんだなという感じです。

で、そこから見えてくることは、陰陽どちらにも属さないところというところです。それは、陰陽どちらへの執着も薄まるということです。陰だけ薄まって、陽は濃くではないんです。この2極にあるもの(特に極端にあるもの)がどちらも薄まる状態。どちらへも執着が薄い状態です。

これは両極から中央へ集まってきているイメージでもあります。中央というのは力が最も強く、しっかりしているところなので、そこに力を集中させたいのだと思う。

バランスをとりましょう、とよく言われていますね。でも、何故?というところも感じられていくといいと思います。

自己主張ではない
2021/09/15

自分の意見を言う、とか、自分の思いを伝える、とか、言うべきことは言う、とか。ほとんどの人が苦手だと思います(多分日本人は苦手かも)

そして、自分の思いを言おう、と言うと、そのモチベーションがないと言えないと思っている人も多いということに気づきました。そのモチベーションとは、相手に言いたくなるような衝動(怒りとか、打ち負かしたいとか、清水の舞台から飛び降りるくらいの勇気や覚悟とか、勢いとか)のことをどうも言っているようだということにも気づきました。

ある意味、けんかごしじゃないと自分の気持ちを言えない、という感じなのだろうか。そうやって負けない対話をしないといけないと思っているのだろうか。

そうじゃあなくって。自分の意見も自分の思いも、言うべきことも、自己主張ではなく自分を表現するということなんです。自分はこういうふうに感じていて、こういうように考えていて、こういう人間です…と表現すること、表明すること。これが自分の意見を言う、思いを伝える、言うべきことを言う、というときのベースに必要なものなんです。

これを持って言ったことは、相手にとっても、あくまでもその人の表現であり、表明であり、おまけに自分との関係を築きたいと思っているから行われていることなんだということまでも感じられます。これをただ自己主張(自分の正しさ)だけでがんがんいくから、うまくコミュニケーションがとれないんです。

こういうことって中学生くらいから教えていくといいのに、と思います。そういうことを習ったことがないまま大人になってしまうので、コミュニケーションがわからず、自分も傷つきたくないし、自分が相手を傷つけてしまって自分が悪者になるのもいやなので、まあまあ、あたりさわりのないところでの話をしていくことになります。これが大人だと思っている。社会ってそんなもんでしょ、と思っている…という領域です。

そこでは、自分の意見や思いを相手がわかるといいなあくらいのオブラートをかけて話す、ということになるので、なあんだか、ぼわっとした話になるし、ぼわっとした人になる。そこには感動がないわけです。心に、魂につきささるような、時には雷鳴にうたれるようなショックはないわけです。

道場では、このあたりも練習したいのです。知識でこういうことを知ってもできないんです。実践して練習して獲得していくものなので。体で覚えろ。こうして大人のコミュニケーションをとれるようになっていきたい。

この数々の道場の練習に疲れたときには「自生塾」の岩崎 マーガレット 葉子さんが作成された「根拠はないのだけれど、、、瞑想」でリフレッシュしてください。私も誘導してもらってゆったり、リラックスしております。誘導されるっていい。

舌ぴりぴり
2021/09/14

今回の盛岡は、清々しい気持ちのよいお天気に恵まれました。お昼にはじゃじゃ麺、夜には焼肉と冷麺と(あと残すところはわんこそば)これもまた充実でした。

いつも宿泊しているホテルにセミナー前日に入ったとき「あーーーそーーーだった」と思いだしたことがありました。それは、部屋に備え付けられていて、お掃除のあとに使われているであろう消臭剤のことでした。

私は近頃、においにとてもとても弱くなってしまっていて、この部屋中にたちこめる(…と感じているのは私で、一般的にはうっすらと匂うレベルだと思う)人工的な香りに舌がぴりぴりしてしまいます。

前回は掛布団に多めに消臭剤がかかっていたらしく、ベッドに入ってからだんだんと舌のぴりぴりが強くなり、眠れず、真夜中に、掛布団を上下反対にセットしなおして、においのついてない側のシーツでそれをくるみ眠りました。あのとき、もう、このホテルはだめかもと思っていたのに、今回ホテルについて、チェックインしたときにそのことを思い出したのです(あいかわらず学習していないんです)

そして部屋に入ってみると…やはりにおう。窓をあけることはできず、しばらくドアをあけて換気をしましたが、さっそく舌ぴりぴりです。そこで布団の上下移動とシーツでくるむ、を、早々と行いました。次の日はお掃除の方に消臭剤をまかないようお願いしました。

このホテルは慣れているし、朝ごはんがおいしいのでこれからも宿泊したいのですが、この舌ぴりぴりが・・・・不快です(ここまで書いてきたら舌がぴりぴりしてきました)

そこで、帰りがけにフロントスタッフの方に「ご相談があるのですが…」ということで次回から消臭剤を使わないで、部屋の用意をしていただくことが可能かどうかうかがいました。すると「もちろんです。次回からはそのようにしてお待ちしています。気づかず申し訳ありませんでした」とご丁寧な返答をいただきました。ああ、よかった。もっと早くに申し出ていればよかったでした。次回からは舌ぴりぴりもないでしょう。



さて、今日はひとつご報告があります。岩手クラスの「魂の道場認定カウンセラー」である中條洋子さんがホームページを開設されました。「魂の道場認定カウンセラー」の頁にアップされていますので、どうぞご覧ください。

私、初めてこのホームページを見たときに「かっこいい!」と思わず言ってしまいました。どこかハンサム感のあるこのホームページと、実際、小柄で可愛らしい中條洋子さんとのギャップがかっこよく感じられたのだと思います。いかにもこの人が作った…というものではない、外された感のかっこよさ。これから、ブログが楽しみです。

コロハラ、ワクハラ
2021/09/09

今、世間では「コロハラ」(コロナ・ハラスメント)「ワクハラ」(ワクチン・ハラスメント)という言葉があるのだそうです。

コロナに感染した人への偏見、攻撃、感染したことの責任をとらせようとしたり、その家族をさけたり、仕事場での差別など。

ワクチンを打たない人への批判、何故打たないのかと責めること、蔑視すること、打たない人たちが感染源、など。また逆にワクチンを打った人たちを攻撃したり、何もわかっていないと見下したり、自分の意見を押し付けたりなど。

結局、こうなるんだと思います。

こうして自分とは違う人と争わせることが、陰謀論的には誰かの目的…らしい(あくまでも、らしい)…が…陰謀論は苦手です。なぜならば、ここも自分は正義であり彼らは悪という争いがあるから。(又は、天の計画として、まだまだ自分とは違う人と争うことを体験させ、もっと先の話になるでしょうが、いつかそこから皆が離れていくことなのか。それぞれの「私」のセッティングを考えれば、これが本筋かも)

この起きていることを俯瞰してみてみると、どちらも同じであることが見えると思います。お互いに自分は正しいと思っていて、正しくない相手を自分の思うようにしようとしています。

この争いの構図、コロナやワクチンだけではなく、今までもあらゆるところでありました。その解決方法は、どちらも自分の主張をし続け、相手を論破したり、押しつぶすことで成り立たせようとします。それにより、一時かたづくのですが、また何かで、再び争うことになります。

前にも書きましたが、問題を解決するためには、その問題と同じ領域にいては解決できない、ということをアインシュタインが言っています。そして、これは本当にそのとおりです。

わかりやすいところでは、黒パターンを落ち着かせようと、同じ黒パターンの領域であれこれやっても全く落ち着かない。より複雑にしてしまう。より黒パターンを強固にしてしまう。

しかし、白パターンという上の領域から新なことを選択すると、黒パターンは落ち着く、ということを体験していると思います。これはまさにアインシュタインが言っていることです。問題を解決するには、上の領域が必要なんです。

自分自身についても、これからの時代を生きていくうえでも、この在り方が自分を救い、他を救うことになると思います。まず、自分の中での争いをなくしていく。そして、争いではない領域のもので解決をする努力をする、ということです。

今日はこれから盛岡へ行ってきます。いつもお世話になっている会場の方からお電話をいただき「いらっしゃいますか?」と聞かれました。「はい、予定通りに伺います」と言うと「お待ちしております!」と元気に言っていただきました。そのときに、こうして時間をかけながら、収束が見えない現状でありながらも、その人その人の立ち位置が平和に向かって変わっていくのだろうと感じました。これも、こうして今までとは違う領域で、解決していくということです。

天が動かす
2021/09/07

「あわてることはない。いい時期にいいようにちゃんと動くから」・・・・と思っています。

しかしこれは前提があり、ちゃんと自分に目を向けて自分へのケアや選択、実践をし続けていれば、ということではあります。

ただ、ぼんやりと、TVを見ていても、もちろん何も動くことはありません。

自分に目を向け、ケアし、選択し、実践する、ということはそのやり方がわかればひとりでできるものです。そして、いつでも、どこでもできるものです。そうやって自分でこつこつと継続していけば、いいときに、天が動かしてくれます。そこを待っていればいいんです。

待つことができるというのはひとつの才能です。ほとんどの人はその動きが来る前にパターンで、動かそうとしてしまいます。それもパターンが望んでいる方向へもっていこうとするので、そこでねじれが生じます。ねじれてしまうと、またそれをほどいて、まっすぐにすることに時間も労力もかかります。

よく言われているように、やるべきことをやってあとはおまかせする(天に)ということです。何ごとも。

そのためには天を信じるということが必要になります。そんな、目に見えないものを信じるなんて…と思う方もいるかもしれませんが、自分に向き合うことを続けていくと、それも理解できるようになります。‥‥と言うか、そうでありたいと魂が強く望むのがわかると思います。こんなとき、魂はひたすら進化(本来のところへ戻る)したがっているのだろうと思います。

これ自体も天が動かしていると言えます。自分の努力によるだけでじゃないんです、進化って。二人三脚です。だから一人で頑張らなくていいと言えます。

ということで今日もやるべきことをこつこつとやって、あとは天におまかせして、ゆったりと1日を楽しんでください。今日という日は今日しかないから。

ブレスレット
2021/09/06

「断捨離」今さらですが。

物を必要以上に持たない、という在り方は私にはあっています。何がどこにあるのかが把握できていると管理しやすい(把握したがり)、物が少ないので迷うことがない(あたりまえか)という点が私にはありがたいです。

そして、断捨離をすることで、自分にとって必要なもの(こんまり先生はときめくものとおっしゃっていましたね)なのか、そうではないのか、の、確認ができるということ。必要なものというのはもちろん実用的にと言う意味もあるし、持っていて幸せな気持ちになれるものという意味もあります。これは自分の確認=今の自分を知るという事になっているとも思います。

こうしてみると、断捨離は、物を少なくすることではなく、今の自分に合うものを見定めていくということなのだと思います。

で、先日、今もっているものを再確認してみたんです。もともと持っている数が少ないので、すぐに見終わるのですが。そこでアクセサリーも出してみました。その中に、あれ?これは?と全く忘れていたものが入っていました。

それは、なんと、6歳のときに、近くに住んでいたお友達のお父さんがアンコールワットのおみやげとして買ってきてくれたものでした。

小さな鈴が6つついたブレスレット。6つのまあるい鈴はにぶい銀色をしています。そして、今もきれいな音がします。当時、そのおみやげがうれしくてうれしくて、毎日そのブレスレットをつけていたことも思い出しました。海外のおみやげなんて、もらったことがなかったんです。それを約60年ほど持ち続けていたのです。

それを見ていたら、6歳の頃の私から今の私にいたるまでの間の出来事が次々と浮かんできました。そのときそのときの情景が、次々と。良かったときも、悪かったときも。忘れてしまうくらいに隅においやられていたものではあったのに、実はいつもそばにいて、全部を見ていたのはこのブレスレットだったんだと思い、ちょっと感慨深いものがありました。

ためしに、今の手首につけられるか、ためしてみたら、ぎりっぎりでつけられました。

これは、ときめくものではありませんが、私の人生がつまったものとして、これからも持ち続けたいです。

異次元
2021/09/04

「異次元にそのとき入っていて、また元に戻っているだけなのかもしれない」という話をお会いした方と話しました。

なんでそんな話になったのか?というと、小学生のころに体験した「大きな木とつゆ草が群生していた場所」の話をしていて(翌日にはそこはなかったという)これは、そのとき、異次元にいたんじゃないかと言う話になったからです。

普通に生活をしているこの瞬間にも、その空間は存在していて、何かの拍子にふとそこに入り(そこはいつもの風景と変わらないものなのに、どこかちょっとだけ何かが変わっていたり、ずれていたりしている…かも)あれ?と思いながらもそこにしばしいて、また何かの拍子に元に戻っているのかもしれません。

もしくは、元に戻っているのではなく、その空間を渡り歩いているのかもしれません。ただそこに気づいていないだけ。そこにはいつもの普通があるから。

例えば、動物が話しかけてきたとか植物が話しかけてきた、とか、聞いたことや体験したことがあるかもしれません。そういう場合、自分には霊能力がある、サイキック力がある、メッセージをもらった、という判断をしやすいですが、これも、そのとき異次元にいたのかもしれません。その空間においては動物と植物と話しをすることが普通であって、たまたまそこに自分が入っていたというだけで自分の力ではないということです。

そう考えてみたら、私は今までに自分に起きた不思議なことのつじつまがあうと思いました。今のところもっともしっくりくる感じです。

「次回カウンセリングに来たときに、私はいないかもしれないよ」と帰り際に話ました。マンションの管理人さんに聞いても「その部屋番後の部屋はないですよ」とか「伊藤さん?このマンションにはいません」とか。

私は私で「〇〇さん、今日の約束だったのに、来ないなあ、どうしたんだろう」と思って連絡をとってもその〇〇さんはみつからない。ご家族に連絡をしても「そういう者はいません」ということだってあるかも。

今、目で見ているもの、認識しているものが絶対なんてわからないと思いました。だから、今の目の前にいるその人との時間を大事にする…と思いました。

神聖さ
2021/09/03

自分の中に起きていることを正直に感じ、思考で対処せず、そこに向きあっていくうちに少しずつ、自分の精神性は上がっていきます。これは絶対にそうです。あきらめてしまわなければ。

精神性が上がる、ということは(上がるのですから)大元(天)に今までよりも近くなるということです。

すると、何が変わってくるのかというと、嫌なことが起きない、とか、楽しいことしかない、とか、お金がどんどん入ってきて、人も羨む生活ができるようになる、のではなく、今まで気づかなかったものを感じるようになります。

それは「神聖さ」です。さすが大元へ近づいていくって感じです。

神聖さから感じられるものとして(私は)強さを感じます。強さ…それは、何が起きてもそれを受け入れられる力です。何が起きてもぶれないということではありません。これが強さだと思っているときにはまだきらきら生活が成功だとも思うかもしれません。しかしそれがいけないのではなく、もし、そうであれば自分が今どのあたりにいるのかがよりわかると思います。そうやって使うといいと思います。

何が起きても受け入れられる強さには、柔軟性があり、普遍性への理解があります。だからこそ、今までとは違う大きな目で、ものごとを捉えていくことになり、そうできること自体に神聖さを感じるのだと思います。

自分の中に眠る神聖さはもしかしたら今までであってきた喜びや、うれしさよりも心を引き付けられるものだと思います。家族への愛、友人との楽しい時間、趣味や好きなことをやっているときの充実感、美しいものに触れたときの感動。それらの喜びとはまた違うそれです。そして、魂は、それが欲しいのだろうととても感じています。だから、そこに向かうために何度も転生しているということもわかります。

物事を今までのやり方で受け取り、対処するのか、それとも神聖さをもって受け取り、対処するのかそこには違いがあることは確かです。

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