ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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SALEと言えば…
2024/07/02

あちこちでSALEをやっている。

SALEと言えば…前にも話したと思いますが(聞いた方は再びですみません)。もう、ずいぶん前。茅ヶ崎駅ビルのSALEのときのこと。私も行ったんです。それが初日だったか、数日たってのことだったか忘れてしまいましたが、駅ビルに入り、上りのエスカレーターに乗りました。

すると私のすぐ後ろに、走って来たのか?という息遣いの女性がエスカレーターに乗ったのがわかりました。ちょっと息が上がっている呼吸音が聞こえたので、きっと、目指すSALE品があって、走って来たんだろうなあと思いました。

しかし、体が妙に近い。私のすぐ後ろにぴたっと立っている感じがしました。内心、嫌だなあ、気持ち悪いなあ、と思いましたが、女性だからよしとしようと。

後ろを振り向くことはできないので、横眼で、できるだけ後ろの人の様子を見よう(目は後ろまではいかないので無理なんだけど)としてみたら、エスカレーターのベルトにきれいな手が添えてあるのが見えました。色白の、細い手。ああ、この手は若い女性だ。おじさんじゃなくて本当、よかったと思いました。

しかし、その手もやけに近いところに置いています。そのうちに呼吸音も聞こえなくなり、上の階に着き、エスカレーターを降りて、その拍子ですぐに振り向いたのですが、誰もいなかった。キョロキョロして若い女性を探す挙動不審な私。どこに行ったのよぉーーーーー。

あの女性は亡くなっている方でしょう。自分が亡くなっていることに気づかずに、生前の時と同じようにSALEに来ていたのだろう。SALE大好きな人だったんだろうと解釈しました。そのときに思いました。亡くなったときには、自分の好きな物事がここにあるとしても、それがどんなに大事な物事であっても、それらとさよならしてガイドについて素直に行くことが大事なんだと。

以前、国技館に大相撲を見に行ったときにも、そのような女性がいたので、その方もきっと生前からの相撲ファンで、同じような状態だったのでしょう。

生きているときの執着はいかんなと思います。生きている時の在り方が続くわけですから。良い死を迎えるためには生きている今から執着から離れていく練習が必要なのだと思います。

吉兆
2024/07/01

昨日、氏神さまである「厳島神社」に伺ったら「茅の輪」(ちがやという草で編んだ直径数メートルの輪)が設置されていました。去年初めて「茅の輪くぐり」を知り、今年は設置されているだろうかと伺ってみたのです。

その輪をくぐることで、穢れが落ち、清められ、災難を避けることになるのだそうです。

輪をくぐるだけ、という神社もあるそうですが、こちらの神社は、くぐり方が図で示されているので、まず、それを頭にいれなくては、と「えーーーーと、まず、こっちから、こうか、そうしてこっちから、こうか」とひとりでぶつぶつ言っていたら側にいたおじいちゃんが「八の字を描くように歩けばいいんだよ。それはね、無限を表しているんだよ」と教えてくださいました。な・る・ほ・どーーーー。

こうして「茅の輪くぐり」をしてから参拝します。手を合わせて「感謝と宣言」。今年前半の穢れが落ち、今日から後半に向けてまた新にやっていこうと思いました。

どのくらいの間、この「茅の輪」が置いてあるのかわかりませんが、もし、カウンセリングでこちらへおいでの際には、神社は我が家からもすぐなので「茅の輪くぐり」と参拝をされるといいと思います。それもまたこの地の神様とのご縁です。

昨日、午後6時半頃、部屋の窓から海を見てみたら、虹が見えました。雲の多い空だったので全形が見えたのではありませんでしたが、2つの虹が出ていました。

さーーー7月。後半に入ります。茅の輪くぐりとダブルの虹。吉兆に出ることを願って。そして、私は自分自身の努力の継続です。努力できるということが吉兆なのだと思いますが。

恐怖と不安
2024/06/30

人は恐怖と不安の方に引っ張られる。

そもそも事象の全ては意味がない状態で存在しているのですが、恐怖と不安の色合いのあるほうが慣れていて、親和性があり、一般的にもそちらを選ぶ(というか、選ばされる)傾向にあります。

それは多分ですが、長い長い魂の旅路において、身につけてしまったものだと思います。おまけに、子どもの頃から、両親はじめ、周りにいる人達から「こうなったらどうするの?」「人生はつらいもの」「のんきにしていたら生きていかれない」などなど言われて育っているので、ますます、そちらを大きくしていってしまいます。

そうなると、ひたすら恐怖と不安にあわないで済むように、万全に備え、新な冒険は一切しない、皆と同じところにいて自分もそこにうもれることで守られていくことを考えていきます。

しかし、そもそも、そこにあるものは恐怖と不安なのか…と見てみれば今はそう思っているそれさえも意味がないものなんです。それに対して自分のパターンが恐怖と不安の意味づけをしているということです。そして、意味づけたものを選んでいる。だからそうとしてそれは存在します。

本来、自分が意味づけていいんです。周りからどんなに「変だよ」と言われても。周りはほとんどの人が恐怖と不安で生きている人達なのでそこから外れると「変な人」になります。しかし、その自分が意味づけるそれが恐怖と不安だけではないことを知り「私」は何を今選びたいのかを感じたときに、世界は一気に広がります。

普通に決めてしまっている恐怖と不安はたくさんあります。それぞれに対して、それはひとつの意味づけでしかない、と思って、またそれを見直してみてください。

何ごともバランス
2024/06/28

知り合いの女性の方(クライアントさんではありません)から伺った話です。

その方のご家族の方がガンになり、食べるものが大事になる、と聞き、その方はあらゆる本を読み、そういうセミナーにも参加し、情報を集め、勉強して、毎日の食事を用意したのだそうです。

野菜もお米も無農薬のもの、お水も見直す、食品添加物はもちろん避ける、糖分を減らす、お肉も魚も厳選して(食費が大変だったそう)調理の仕方自体も変えるなどなど。

大変だったと言います。しかし、ご家族の方のガンは術後の経過もよく、再発することなくもう10年以上たっていて、とても安堵したそうです。

よかった、よかった、です。

しかし、その後、その方がおっしゃったのは、頭に入れてしまったあらゆる食に関する情報が自分を苦しめてしまうということでした。これは消えることが無いと言います。「これは食べないほうがいい、これなら食べてもいい」「ここで買ってはいけない、ここなら安心」というのがいつもいつもあり、勝手に頭の中でそれが動いて、その通りに行動してしまうのだそうです。以前のように、普通に外食を楽しめなくなってしまったということでした。

これはまたつらいだろうと思いました。今の日本の食品添加物の数は800以上あるのだそうです。それ全部を毎食除くことは無理です。土壌も水も野菜も肉も魚も何かしらあるのが今です。私も極端にこれは…という物は食べませんが、この時代に生まれてきたということはこういうことも体験するということなんだと思います。

こういう時代を生きるということは毒も少々必要で、それを受け取る体であることも大事なんじゃないかと思うんです。何より、あまりにそこを避けようとするのは恐怖と不安のパターンからきています。パターンで食べるものを決めているわけです。そうであればその結果にもなるだろうと思います。

何ごともバランス。時には情報も大事ですが、それが全てでもない、このあたりのバランスだと思います。

あと残るものは何なのか
2024/06/27

持っている本20冊。心理学、哲学、思想学、芸術に関するもの、永遠なる真理に関するもの、自然に関するもの、旅行記(これは1冊だけ)…など。このあたりのものだけだ。私の大切な本。勉強になるというのではなく、それぞれの作者が体験している世界に自分もつれていってもらえるのがうれしい。そこに在るイメージの中を漂っているのが楽しい。そして、1冊1冊に自分の物語りがあるのがいい。

で、久しぶりにアサジョーリの「意志のはたらき」を開いてみました。あの、言葉が並びます。

『私は身体を持っている。しかし私は身体ではない。私は感情を持っている。しかし私は感情ではない。私は知性を持っている。しかし私は知性ではない。それでは私は何なのか。私自身を、私の肉体、感覚、感情、欲望、知性、行動から脱同一化したあと残るものは何なのか。

それは私の本質・・・・・純粋な自己意識の中心である。それは私の個体としての生において絶えず変化する流れの中で、永久不変の要素である。それは、私に、存在、永遠、内的バランスの感じを与えてくれるものである。

私は自分のアイデンティティがこの中心にあることを確信し、その永遠性、そのエネルギーを認識する。』

これが普通になるくらいの確信が必要。確信のためには自分の体験が必要。自分が日々の生活の中で自分で見つけて、考えて、創っていくものだと思います。どんなに些細なことでもいい。心に響いたものを忘れないでいてください。

自分に戻る
2024/06/26

「魂の道場」で目指していることとは、本来の自分に戻ることです。

本来の自分というのは、天が創った自分ということです。その自分に戻る(その戻る過程においても)ことで、自然と天の法則によって生きることとなり、そのときが最も自然であり、健やかであり、安定しており、活力を感じ、幸せを感じることができる状態となります。

そこに向かうために、黒パターンで生きない、白パターンを選択していく、ということです。この作業を続けることで白パターンを選択しているときのいい感じ、というものを自分の身につけていく(これも戻っていく)ことになりますが、それは天の子である「私」の感覚で選択していくものなので、この時点で天の意思にそっているものであるということにもなります。ワークは天と自分を結ぶものなんです。

天の意思。天は何を私たちに求めているのか。天はあなたに何を望んでいるのか。そういう視点を持ち続けることが大事です。フランクルが言っている「人生はあなたに何を求めているのか」と同じです。この視点に天の法則の中で生きることのヒントがあります。

目指していることは、ただ、これだけなんです。実はすごく単純なこと。ただ、戻ることだけです。それにより、結果として、本来の幸せが与えられる、ということです。

30年一昔
2024/06/25

5月24日から6月21日までの月〜金で「古畑任三郎 30周年記念」ということで今までのシリーズが再放送されました。

1日、2話ずつの放送で(例外の日もあったけど)当時から好きで見ていたものだったので、とにかく見られる限り見まくりました。この間、体調を崩していたのに、熱があっても見たくて、結果、熱上がる、を繰り返してしまった。

どの回も結末はわかっているのに、おもしろかったです。何より田村正和さんはじめ、全ての人たちが若くて(当然だ、そういう私だって)30年という時間の長さを感じました。今見ても、本当によくできている作品だと思います。

毎回、完全犯罪をもくろむ豪華なゲストと、古畑任三郎とつかえない部下、そしてその下にやってきた優秀な部下が繰り広げる、犯人との知能戦、体力戦、笑い・・・うなります。脚本家の三谷幸喜さんも一番脂がのっていたときなのかもしれません。アイデアがどんどん湧き出ていたのでしょうか、話に勢いがあります。

30年一昔。30年前の私は38歳。はあーーーーまだまだ心が不安定で大変な時でした。トミーと結婚して2年くらいで、全てを頑張って完璧にやらなくては、大変でもそれを超えて強くならなくては、これからもっともっと大変なことが起こるであろう人生を生きていかれない、と思っていて椎間板ヘルニアになり、強制的に休まざるを得なくなったころです。しかし、これにより自己探求の道へ入っていったのでやはり「塞翁が馬」。

そのころのそんな大変だった現実を忘れさせてくれる番組だったのだと思います。その番組を今はこんなに違う心持で見ている自分がいる。

最終回で、松嶋菜々子さん演じる犯人が自白したときに古畑任三郎が言ったセリフ「(私が言いたかったことは)人は生まれ変われるということです」。本当にね…人は誰でも本人がそれを望み、そこに向けて自分で動き続けていけば、生まれ変わることができます。わが身を持ってそう思う。

自分は何もわかっていなかったんだ
2024/06/24

自分は何もわかっていなかったんだ…という気付き。

そしてわかったつもりで進んでいくとあるときまた自分は何もわかっていなかったんだ‥ということに気付く。それを繰り返していく。わかっていくとはそういうことなんだと思います。

だからと言って、わかったと言ってはいけないということではないです。わかったと思ってもちろんいいし、言ってもいいんです。だってそのときはそう思っているのだから。

しかし、それがゴールではないです。探求することをそこで止めてしまえば、そこまでわかったということですが、継続していけばまた次の自分は何もわかっていなかったんだと気付きます。

自分も含め、今までお会いしてきた方々全てがそうでした。誰も、1回で、高いところへ行き着いた人って一人もいませんでした。時には自分は優秀だから、いろんな体験をしてきたから人より飲み込みがいい、人より理解力が早い、私はわかっている、と思っている人もいますが、そういう人たちもやはり自分は何もわかっていなかったんだ…を通る(それを認めざるを得ない)

人間が精神性を上げていく能力ってこうしながら培われていくのだと思います。

ですから、そこでがっかりしたり、だめだと思わなくていいんです。そうかーーー自分はわかっていなかったんだ、だから、自分はこれからわかるんだ、こりゃ、楽しみ、でいいんです。

目には見えない、手に触れることもできない、今までの価値判断や考え方では通用しないこの世界への探求。新しいことだらけのこの世界。だからすぐにできなくてあたりまえだし、永遠なるものへ近づくことがすぐにできてしまうことのほうが嘘っぽい。

ゆっくり、1歩1歩、歩んでいくこの学びですが、少しずつ開けて見えてくる世界は優しさとダイナミックさに満ちていると思います。そこへ人(魂)は魅了されていくのだと感じています。

ただ一つの体験
2024/06/23

意味づけのワークをやり続けていくうちに、プラスの意味づけでもなく、マイナスの意味づけでもない、真ん中にある「ただ一つの体験」があります。

意味づけワークでいずれ得ていきたい感覚は、この「ただ一つの体験」です…ただ、それが、在る、だけ…という意味合いなんですが、あらゆる事象をそのように心底思えるような精神を持ったら、人間は卒業なのかもしれません。

これも「ああ、そうか。ただ一つの体験か、そう言われればそうだし、そう思ってみよう」ではないということです。どんな嫌なことが起きても「ただ一つの体験なんだ、これは」と自分に言い聞かせようとしてしまいがちですが、これはやらないほうがいいです。せっかくパターンは嫌だと言っているのにそれを抑えてしまうことになります。

自然と、自分が成長していったときに、この意味合いの広大さを感じると思います。そして、その世界を感じ取るためには宇宙的な視野が必要になるので、自分の在り方をどこに置くのかがよりわかると思います。

‥‥と完全に体験済みですくらいの勢いで書いていますが、私も少しずつそこを体験し、そこを感じられるくらいのところです。しかし、そこにこそ本当の安泰と平和があることははっきりとわかります。

人は大いなるもの(神)から命を与えられこの世に来て、自分が何者であるかを忘れて、苦しみ、問題をかかえ、それがあって、自分を見ることを覚え、そこからそもそもの自分を思い出していきます。語りかけも、白黒ワークも、もちろんそれの一つとしてあります。そして意味づけの「ただ一つの体験」を体験することは特にそこへ向けてのものになっていると思っています。

美しいカウンセリングをしたい
2024/06/22

でーーーー、カウンセリングって(…と唐突に始まりましたが昨日の続き)向き合っている方の意味づけを更新させること、新な視点を持つことをサポートすること、今まで自分の中にはなかった価値観とか、物ごとの捉え方とかを提示すること、だと今の私は思っているんです。

一般的にはカウンセリングは向き合っている方の悩み、問題を解決するためのもの、となります。もちろんカウンセラーがその答えを与えるのではなく自分でそこを見つけられるようにサポートしていく、というものです。これはこれでひとつの担当分野なので間違っているということではありません。

しかし、そこに答えを見いだせない場合は、違うところのものを持ってくるということになり、先ほどのことになると思っています。そして、意味づけの更新とか、新な視点とか、新な価値観、捉え方には「美」があると私は思っています。「美」があればそこには感動があるし、心がゆさぶられるものがあります。そういうものをたった1つでいいから(それは小さなものでもいいから)持って帰ってもらいたい、と思います。そういう、美しいカウンセリングをしたいのです。

「美」は純度を上げていくことも教えてくれてそれを追って自分が努力していくということなんだとも思います。年をとって、外見はおばばになりますが、この「美」の光は磨き続けて行きたい。

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