ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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おしゃれ
2025/05/16

昨日、散歩の途中で、前から気になっていた「セレクトショップ」に立ち寄ってみました。

そこは、おしゃれな女性が営んでいるお店で、オーナーの好みで集められたものたち(服、小物)が飾られていました。そこに集められているものたちを見るとその方が好きであろうものがなんとなくわかる気がします。

オーナーの方は多分、70代の方だろうと思われますが、きっとおしゃれが好きで、若いときからこの道を歩まれてきたのだろうなあと思われるような方でした。

私と言えば、散歩の帰りだったので、より軽装。おまけに何も持たず、ぶらりと立ち寄ってしまいました。そんな私ではありましたが、たくさんの物がある中から私が好きそうなものを選んで見せてくれるあたりにプロを感じました。変な言い方ですが、あたりをつけていく、というところがわざとらしくなく自然に行なわれていて、なおかつ、それは表面的なものではなく、一緒に楽しんでくれているような感じが、プロだな…と。

お店全体、そして、そこでの接客も自分のものにしている、という感じでしょうか。決して押しが強いのではなく、ソフトで可愛らしく、しかし、ご自分のセンスを信じているというその方がとても感じられる時間でした。

で、私に勧めてくれたいくつかのもの。確かに、そのオーナーの美意識からすると似合うのかもしれません。鏡に映る自分を見ても「そうね、この年代でのおしゃれってこういうことかも」とも思う。しかし、どこか違和感がある。何なんだろうと考えたときに、思ったのは、一般的には、この感じは、おしゃれと言われるだろうということでした。

一般的には…なので他人から見たらおしゃれに見えるのかも。でも、自分の美意識って違うところにある気がする。そのあたりの違和感だったのでしょう。そして、このお店にあるものが最も似合うのはオーナーの方なんだろうなあとも思いました。

私は、散歩するための軽装、これが結構好きなんだと思いました。

そういうことを色々と感じたり、考えたりすることができた、素敵なお店とオーナー。時々のぞかせていただこうと思いました。

理解の力
2025/05/15

「ただ、あるものをその状態でOKと思える心を自らつくっていくこと」如実知見への道。少しずつ少しずつそちらの世界へ…。

それは、とにかく全てを受け入れろということか?どんな理不尽なことも、どんな苦しいことも、嫌なことも、怖いことも?その状態でOKって?…我慢しろということか?だとしたら、無抵抗のまま耐えろということか?と思うかもしれません。

そうではないんです。在るもの(目の前にあるもの、自分に起こったこと)は、そもそもは意味のないものとして存在しています。そのものごとに対して持つもの(本来の意味づけ)として「(ただ)在る」という選択肢があります。それを先にもってきてみてみると?そして、その後に、そのあるものに対して今の自分はどう考え、何をしていくか、を具体的に考えることができるのでは?ということです。それもたくさんの選択肢(プラス意味づけ、マイナス意味づけは作れるので)の中から選べる。

目の前にあるもの、自分に起こったことに、最初からどうにかしなきゃ、となっていくよりも(パターンが反応していることが多いので)ちょっとまてよ、そもそも意味がない状態で在るんだ、を先に持ってきてから、自分はどうするか?と考えたほうが、それに対してよりよい選択が落ち着いてできると思うのです。そういう意味の冒頭の言葉です。

そして、これはスピ的なというより、とっても現実的なことだと私は思っています。日々の生活をいかにスムーズに気分よく過ごしていくか、というところにあるものだと思っていて、特にそこが生きる上で必要な私にとってはここの強化がすごく大事です(なんせ、ストレスに弱いので)

自分に起きるいろんなこと、それがよいことならいいけれど、そうではないことも普通にたくさん起きるのが人の人生です。誰でもそれは嫌です。だからこそすぐにどうにかしなきゃ、と思うのだと思います。又は、それを避けることを前持って考える。しかし、避けることよりも創ることの方が建設的だし、現実的です。これは、そう思えばいいよね、という方法ではなく、そんなふうにそもそもできているんだ、というところへの理解なんです。理解の力です。

間違えないように
2025/05/13

ここを間違えないようにしてほしい…という大事なところなんですが。

パターンが何かに反応して感情や感覚を生み出す。そして、そんなパターンが主体になっていれば、それがあふれ出し、ネガティブな感情、感覚が自分を飲み込んでいき、あたかも自分がそうであると思います。苦しい、悲しい、怖い、不安、怒り、虚無感、挫折感などなどのパターンが生み出している感情そのものにそういうときにはなっています。

しかし、その感情・感覚が湧いてきたときに「これはパターンだ」と理解すればその理解は同時に「それは「私」ではない」ということを確認しています。

この理解と体験が成長なんです。今起きているそれは何なのか、それは誰なのかが理解できれば、感情・感覚に飲み込まれ続けることはないということです。難しいかもしれませんが、この微妙なところが大事であり、これも練習を重ねることできっと体験すると思います。

それから、間違えないようにしたいのは、パターンにひっかからないようになりたいと思ってしまう、ワークをしていればいつかそうなるんだろう、領域が上がった人はパターンにひっかからないだろう、と思ってしまうことです。そうであればネガティブな感情・感覚に飲み込まれないですむからということだと思うのですが、それはさきほど書いた状態のことで、パターンにひっかかるからつらいのではないということです。

パターンにひっかからなくなることがあたかも正しい、善きことと思ってしまうのは違います。いつでも好きなようにパターンはひっかかっていいんです。それが彼らの個性であり、ずっとそのままのあなたでいていいよ、と王である「私」は言っています。だからずっと引っかかり続けることが正常です。「私」はパターンがどんなことにひっかかろうとも、どんな感情を生み出そうともいいわけです。

こうしてみると、パターンに引っかかっることを、嫌がり、ストレスに感じるパターンがいるということです。そのパターンが描いている成長に知らず知らずのうちに向かっていってしまっていないか。

成長とはパターンをおさめて静かにさせることではなく、パターンにひっかからないようにすることではなく、「私」としてあろう、「私」として生きる、などのよくわからない、状態でいようとすることではないのです。ただ、あるものをその状態でOKと思える心を自らつくっていくことです。領域を上げていくってひたすらここのところのことです。時々自分でチェックをして、そのパターンに従ってしまっていないかどうかを見てみるといいと思います。そして、もし、そうであればそのパターンへ語りかけをしてあげてください。

やっていることはそういうこと
2025/05/12

5月の茅ヶ崎クラス、無事に終了しました。

今回から新メンバーが参加。そして今年は岩手クラスからお一人と時々沖縄からお一人参加してくださいます。岩手も沖縄も近ければ、毎回、皆で集まれるんですけどねえ。

で、クラスは新なフェーズに入っているので、難しく感じることもあるかもしれませんが、基本は今まで通り、自分を繊細に観察し、どんな小さな感情、感覚もスルーせず「私」がパターンを見つけ、王である「私」がそのパターンへ語る…を続ける。そしてしばらくして白パターンは?とその一連の作業に入る。を繰り返すだけです。やらされてる、ではなく、自発的に。

ここまでを、シンプルに、気持ちよく、思考せずに続けていくということです。ワークをしながら、または、ワークの途中に色々と思考してしまわないように、どうすれば自分はそれができるかを試行錯誤しながら見つけていってください。

自分の内に起きていることは本当に単純なことなんですが、そこに対してすぐ思考するのでごちゃごちゃするし、複雑にするし、だんご状態になってしまって、何が、どこが元だったのかがわからなくなってしまいます。で、しょうがないから、パフォーマンスだけを変えようとする。もっとこうしてみよう、とか、こんなふうにすれば、とか、こんな考え方もあるし、とか、以前はこれでいけたから、とか。

でもやりたいことはそういうことじゃないんです。パフォーマンスを(外側を)変えるための方法を探すことではなく(それは問題や悩みと同じ領域にい続けることになるため先がない)起きていることに対しての深い理解(そこで求めらえていることは何なのかに気付くこと)とそこへまつわる意味づけができる人間に自分を育てるということです。

で、それは他人にすぐにやろうとしてもできないんです。まずは自分の内にいるパターンに対してワークを通して練習させてもらいます。ここでも練習が必要になります。

やっていることはそういうこと。内側を変えるって、やはり大変なことなんです。私のカウンセリングの先生は人が変容するには血の涙を流さないと、とおっしゃっていました。癒されるーー、楽になったーー、だけでは変容はできないということだと思います。しかし、全ての魂はそれをやりたくて来ています(と私は思う)来世に持ち越さないように、今世こそは、ときっと思ってやってきたのではないだろうか。その想いを叶えてあげたいと思うのです。

すぐに検索
2025/05/08

今や、本当に便利な時代になり、わからないこともちょっと調べればすぐに回答を得ることができます。

私は今だにスマホを持っていないので、調べものは家にいる時にパソコンでと限られますが、ほとんどの方はスマホを持っているので、外出先でもいつでも回答を得ることができます。これはきっと本当に便利だろう(特に緊急事態のときには)

しかし、それに慣れてしまうと回答を得られないままでいる、ということができなくなってしまうのではないだろうかとも思います。すぐにわからないと不安とかいらっとするとかあるかも。

で、自己探求には、わからないままいくという側面があります。初めて歩く道、わからないことが色々と出てくると思います。それについて、検索しても回答は見当たらず。そのときにはわからないままそれを持っていく、ということしかありません。

この、わからないことを、わからないこととして持っていく、というのが苦手というか嫌というか。なんでもすぐに納得したい、納得できるから安心する、というようなことだと思います。

納得したがっているのは黒パターン。黒パターンはものごとは納得できて当たり前で、納得できないということはだめなことと思っているのだと思います。

しかし、もやっとしたり、悩んだり、お手上げ状態だということのひとつひとつが実はとても大事なんだと思う。その体験があるから、思い通りにいかない現実を、だんだんと受け入れられるようになるし、現実をより見られるようになるし、人というものがまたひとつわかるようになると思うんです。

それは大きな自分の力になります。すぐに検索…と思ったときに、しばらくこのままにしておこう、という練習もしたりしながら、現代人がものすごく苦手にしているこの力を自分のものにしていくのもいいんじゃないかと思います。今日はこれから2日間の茅ヶ崎クラスです。新なクラスがはじまります。

自然と練られてきた
2025/05/07

新な領域、黒パターンよりも上の領域。それは道場的には白パターンの世界です。そこは、黒パターンの次にある領域です。そして、そこには健全で、自他のためになる(天の意思に沿った)解決があります。

でも、それは、そういう解決策がいくつもちらばっている、ということではなく、その領域で少しずつ生きていく体験をすることで、それを自分で生み出すということなんだと思います。

こう言われてしまうと、そうか、とにかく白パターンなんだ!と思い、そうならなくちゃ、早くそちらへいかなくちゃ、と、自分をそちらへ動かそうとしてしまいやすいのですが、それは、苦しさから早く楽になりたい、早く解放されたい、早く成長したい、という黒パターンがやろうとしていることです。白パターンで生きる=楽、と思っている。

でも、そうではないんです。そもそも、なぜ白パターンを選ぶのか。それは、自分の可能性を広げるためです。今まで、知らなかった自分の内なる力を育て、使い、自分の可能性を広げてその人本来の在り方で生きていくためです。

楽になりたい、成長した自分を実感したいために白パターンを選んでいるのではないということです。

成長の過程において、人は誰でも、進んだと思ったら、戻る、そしてまた進んだと思ったら、戻る、わかったと思ったら、わかっていなかったことを知る、またわかったと思ったら、またわかっていなかったことを知る、を繰り返しながら、少しずつ進んでいきます。これは今までずっと使ってきたやり方とは違うので、人によっては(こちらのほうが圧倒的に多いですが)耐えられなくなるのです(こんなに時間がかかることなんてやっていられない、と)やったら何か手応えがあるはずだと思っているからです。

しかし、この在り方が白パターンの住むところへ知らず知らずのうちに移行していくということになります。考え、試し、エラーしながら行くところ。いや、そうやって行くことが赦されているところ。だから慌てなくていいんです。自分に向き合っているということだけでも十分にすごいことですから。自分に向き合うというとても地道な作業によって自然と練られてきた、自分の内側の力に気づいてください。そこを狙ってきたわけではなかったのに…。それと同じように白パターンについても思っていかれるといいと思います。

「私」は知っている
2025/05/06

誰でもが、はじめは黒パターンで生きています。誰でもです(そうやって機能不全で生きていることに気づき、本来の自分を取り戻して生きるために)それにより問題や悩みや苦しみが結果として現れ(あくまでもひとつの結果です。自分への罰ではありません)それをまた黒パターンの領域で解決をしようとします。それは当然なことなんです。なぜならば、その領域しか私たちは知らないからです。そこは、他の領域があることを知らない、従って、今いる領域だけだと決めているので、自分にはわからない、知らないということがあるということを知らない世界です。

しかし、これについてアインシュタインが言われているように「 いかなる問題も、それが発生したのと同じ次元で 解決することはできない。」ということなんです。

では、どの領域であれば解決はできるのか。もちろん黒パターンでの領域よりも上の領域においてです。そこで初めて、そこに向き合うに必要な心境を自分の内に生み出し、その状態で、新な考え方やアイデアや捉え方や意味づけなどを知ることができます。それは今まで知らなかったものです。

でも、自分に向き合ってきている人たちであれば、それが今の自分にふさわしいものであることは心でわかります。そうか、この感覚か、この選択でいい、この選択をしたい、など。今までは思考で必死になってどうしたらいいのか、と、解決策を考えていましたが、上の領域においては心で「わかる」というところになっていきます。

というか、そもそもわかっていたことを思い出すというほうが近いと思います。「私」は知っているからでしょう。この知っている部分である「私」をどれだけ顕在意識としていかれるかというところなのかなとこの頃は思う。

この新なスキル、というのか、在り方というのか、それを自分で自分の身(心)につけ、これからの人生をそれを頼りにして歩いていく…その状態までナビしていくのが道場でやっていることです。

ここに時間がかかります。時間のかかることをほとんどの人は嫌がります。すぐに効果が出ることを望みますし、すぐに効果の出ることが正しいことだとも思っています。しかし、そうではない領域のものというのがあるということです。そして、そこにこそ、本来の解決がかくされています。続く。

2025/05/04

自分でやる…。

道場では、この自分でやる…ということが求められます。カウンセラーの私がどうにかしてあげる、とか、私がいるから大丈夫、とか、私がいつもそばにいてあげる、とかではないです。

何故かと言えば、自分のことはその人自身にしかできないからです。このことは分かっていても…‥ここが、悩ましいところであり、その継続が難しいところなのかもしれません。

で、そういうときにモチベーションになり、継続にむすびつけることができるのが「自分はどうありたいのか」「自分はどうなっていきたいのか」という自分の内なる志です。ここが強ければ、そのために何をするべきか、何をしてはいけないか、も自分でわかると思いますし、そのように実際動くこともやっていかれます。

この志がしっかりしたものであれば(一致していれば)脳はそれに関するものをみつけようとしてくれて、より、そこへ向かうことを心身はしてくれます。一丸となって、という感じでしょうか。

で、この、一致した志、ですが、こうありたい、こうなりたいという思いはあるのに、自分には無理かも、あの人だからそうできたんだ、面倒くさい、できなかったらどうしよう、間違えていたらどうしよう、などなどパターンが邪魔をします。そうなるとその志は、ぼやけたものとなり、その威力を発揮することができません。

志は高く持とう、よりも、志ははっきりと、ストレートに、明確に、クリアに、ぶれずに、ということなんだと思います。そして、もちろんそれは「私」から出ているものであることです。そこには天の意思に沿ったものが出ているので、そういうときには、サポートされやすいということになります。

緑色
2025/05/02

5月になり、ますます、新緑が輝いています。

中央公園の樹々の緑色もいっそう鮮やかで、歩いていても気持ちがいいです。新緑の緑色って目に優しい。心にも優しい。この緑色を見ることができるのもきっとあとわずかだと思います。

若葉が育っていくうちにだんだん葉の色も濃く、しっかりとしたものになっていくと、夏に向けて強い樹々に変わっていくのだと思います。それはそれで力強くていいですが、やっぱりこの時季の緑はいいです。もう少しの間楽しもう。

整体でお世話になっている先生にも先日「伊藤さん、緑色をすごく見たいと思いませんか?」と聞かれ「そうなんです」という話から、図書館の「森」が「空き地」になってしまった話をしたところ「ぜひ、次の森を見つけてください。見たいんですよね、緑」と言われました。

で、緑、葉、樹のことを考えているときに子供のときから私は自分が好きな樹があったことを思い出しました。幼稚園の頃から、大人になっても、どこに住んでも、そこには(その近くには)好きな樹々があり、時にはそれに守られ、時にはそれで遊び、時にはそこから何かを教えられてきたことに気がつきました。それは自然すぎていて、自覚していなかったのだという事にも気づきました。

花は美しいですが、花よりも樹のほうが好きなのは、そんな樹との関わりがあるからかもしれません。

高校生のときに、自分の部屋に大木が欲しくて、自分でその絵を描いて、それを切り抜き、壁一面にはって森の中にいるような気分でいられるようにしたことも思い出し、心身が樹を欲していて、十代の私はそれに従ってそうしたんだろうと思います。この時の感覚も、今も持っているといい。

緑色というのは私には必要な色なのかもしれません。でも、緑色の服は持っていないけど。そんなことも色々と思いだし、その今までのつながりを思い出し、でも、それは特別なことではなく、自然に動いていたこともこの年になってわかり、やっぱり自分ひとりで生きているわけじゃないな、と思いました。

仏性
2025/04/30

サンドウィッチマンが、総合病院を巡り、その病院の一角にラジオブースを作り、そこからON AIRをする「病院ラジオ」という番組があります。

その病院に入院している患者さん、そのご家族、通院をしている方々が、サンドウィッチマンのお二人とトークをする番組です。時々見るのですが、昨日は、東京、府中にある子供病院編でした。

病を持つ子供たちが、自分の病気について、入院生活について、治療について話をします。そしてそれを、担当の先生はじめ、看護師さん、スタッフの方々、ご家族の方々、他の患者さんが聞くことができます。

今回登場した、全てのお子さんの患者さんの話を聞いて、心が洗われるようでした。

患者さんは身体的な苦痛だけではなく、心にもいろんな感情が湧いていると思います。どうして自分は、他の子たちと同じように動けないのか、どうして他の子たちと同じような外見じゃないのだろうか、こんな自分じゃこれから何もできないんじゃないだろうか、ずっと親に面倒をかけていくんじゃないだろうか…きっとそこへの不満も不安もくやしさも悲しさも感じてきたと思います。そして、親御さんの気持ちも、自分を責めたり、これからへの不安を持たれているのではないだろうかと思います。

しかし、彼らは、今の自分の状態を受け止めていて、自分で考え、とても前向きでした。「何か悪いことがあっても楽しいこともあるから」「普通ではない自分ではなくこれは自分の個性だと思えるようになった」など。この心境にいきついていることへの驚きです。ご家族のサポートがありながらも、自分で自分のことをそこまで引っ張ってきた子供たち。そして今の自分を受け入れて、自分の内側の生きる力を感じている子供たち。だから、その話には無理がなく、聞いている人の心を動かすのだと思います。

昔、知った、アフリカへ支援のために行った日本赤十字の看護師の方が、その状況の悲惨さに「こんなひどい状況があるなんて、神なんていない」と思ったのだそうです。そう思うくらい過酷な生活を毎日、女性や老人や子供たちは強いられていた。

そんな中、ミルクをもらいに来た男の子が持っている毛布がぼろぼろだったので、看護師さんは新しい毛布を渡そうとしたそうです。すると「僕にはこの毛布があるからいい。その毛布はあの子にあげて。あの子は毛布を持っていないから」と言ったのだそうです。そのとき、その看護師さんは「神はここにいるじゃないか」と思ったという話がありました。

今回の病院ラジオに出演した子供たちにも同じような気持ちを私は持ちました。ここに、神がいると思いました。神は天にいるのではなく、こうして人の心の中にいるのです。それも年齢、性別、国は関係なく。その神が、多くの人に気付きを与えていると思いました。神社、仏閣、教会にいかなくても、こうして日々の中で人の持つ「仏性」を見せてくれる人たちがあちこちにいます。

こうして身近に神を感じられることのありがたさと、同時に、自分はどうなのだろうと自分をみることの機会も与えてもらえます。神に近づける人は特別な人なのではありません。そもそも自分の内に神はいるのだから。それを自分が発露して行くのかどうか・・ということなんだと思いました。

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