| 抗う | - 2025/11/13
- 昨日書いた「天のルールに抗うこと」って何?ここで言ったそれは、何でも自分で、その時に、わかろうとすることを言ってます(もちろん、天のルールに抗うことはそれだけではないですが、ここでのそれについては)
しかし、それって、向上心があり、熱心で、積極的な状態だからいいことじゃないの?と思うかもしれません。それが抗うことなのか?と。
今までの領域においては確かにそうだと思うし、そうやってその領域にあるものごとはわかってきました。しかし、次の領域へ向けて階段を上がっていくときに、これは、パターンだったのかもと気付くかもしれません。何でも自分でわかろうとする、それは、自分にはわかるはず、わかるべき、わかりたい(←特にこれはいいことだとも思っている)があると思います。
まず、人はわからないことがほとんどなんです。そして、わかるのではなく、与えてもらうのです。それは自分に用意ができたときに。それは気づきであったり、実際の体験であったり、そこで初めてああ、こういうことだったのかと自分が理解する。それは今まで知らなかったこと、わからなかったことです。
で、私たちがやるべきことは、わかろうとすることではなく、与えてもらうための「道」を自分が整えることです(このやり方を私たちは知っています)その道を通って与えられます。今はわからない自分であることを認め、ひたすら自分の「道」を、綺麗な、歩きやすい道を作っていく。
私もわからないことだらけです。それでも、すっきりと、平和に生きられているのは、自分に用意ができれば、そして、必要なことであれば与えられるということを体験を通して知っているからだと思います。私は学ぶことも、考えることも大好きですが、それはわかるためではなく、成長のためでもなく、与えてもらうためでもありません。ただ、それを軽く、楽しんでいる感じです。そうやりながら、結果、自分の「道」を整えていたんだとわかります。そして新なものが入ってきます。
階段を上がっていく途中では「あら?」と思うことが次々と出てくる。今までの自分の常識が覆されていったり、できていたことが違っていたということがあったり、新な意味づけには驚かされることもある。思うようにいかない(今までの領域のように)混乱する、迷う、戸惑う。そういうものたちもそのままにして持っていくことが大事であること、それで進むべきなんだ、と、いろいろです。
こうして人智を超えた何かが創った天、宇宙に流れているであろうルールを少しずつ私たちは知っていくのだと思います。それは新に知ると言っていますが、思い出していくことなのかもしれません。本来の人としての在り方=天のルールなのかもしれません。ですからそのルールに抗うというのは本来の人としての在り方に抗うということでもあります。それは自分に抗っているのかもしれない。自分に抗って自分の中に闘いの場をもたないことです。
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