ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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神秘体験
2020/07/06

いわゆる神秘体験といわれるものがあります。

今から20年ほど前、当時私はある霊能者の方のセミナーに参加していました(今思えば、よりパワーがある即効的に変化のできるものが欲しかったのだと思います)その方を中心に30名ほどで、ある山奥にある神社へ行きました。

参拝をする前にそれぞれ瞑想をして気持ちを落ち着けましょうということで、私も近くの石の上に座り、瞑想をしました。しばらくすると、目の前にそれはそれは美しい幾何学模様がまるで映画を見ているようにあらわれました。中心の黒い丸に向かって四方八方からいろんな色のひし形や三角の模様が流れ込んでいきます。万華鏡のような美しさでした。

その美しさと初めてはっきりとみたそれに高揚しました。そのとき、私の後ろにいたその霊能者の方が「伊藤さん、見えたでしょ?よかったですね」と言いました。なぜ、そんなことを言うのだろうと思いましたが、そんなことを上回るほどにその体験にのまれていました。

そして、その後、参拝をするために神さまの前に立ち手を合わせたときです、野太い男性の声で「帰れ、帰れ、お前がくるところではない」と聞こえたのです。その言葉にさきほどの神秘体験でうかれていた気持ちは一気に消沈し、私は神さまに嫌われたととてもショックを受けました。そして、その一連の出来事も時間とともに忘れていきました。

そして、今年に入ってからです。コロナで騒がしくなり始めている頃に、あることをきっかけに、アストラル界について調べるという機会がありました。アストラル界は人が死んでからいく世界です。学派によりその捉え方は若干違いますが、そのアストラル界の低次にある世界は人の欲望や強い想念、好ましくない創造物、得体の知れないエンティティ、その後ろに存在している彼らの神々やサタン的なものが存在していて、それが人間に働きかけてきたり、誘惑したり、操ったり、神の名を名乗ったり、霊的ガイドとしてあらわれたり、秘儀を教える、など、とても危険な領域であることを知りました。

もちろんこの世界も細かく分類されているようで、皆が皆死後そこへいくわけではありません。ここも自分の魂にみあったところへ行くようです。しかし、多分、人間に最も近いところに低次な領域はあり、それゆえ人への関与がしやすいのだと思います。もちろんあちら側にも誘いやすい人間がわかるのです。特に目見えないものへの興味が強かったり、何か特別な力を求めている人には近寄りやすいのだと思います。生きている人々ととても近くに存在しているアストラル界、そこも類友。続く。

私の先生たち
2020/07/05

私が尊敬し、私の成長と進化を促してくださっている先生たち。お会いしたことはありませんが、その著書や学んだことから、自分のありたい在り方(本来の人の在り方)を教えていただいたと思います。

お一人は、先日、日記に書いたV・E・フランクルです。精神性(霊性)について考え、探求するには、日々の生活が平和であり安定していなくては難しいものだと思いますが、フランクルは極限の状態でそれを遂行し、他の人々を助け続けました。あの状況下でそういうことができる人は一体どれぐらいいるのでしょう。その強さと柔軟さと知恵は人の本来持つ本質を見せてくれています。それは励みになり、勇気になります。

そして、仏陀です。チョーー現実主義であることに魅了されます。死後のためにではなく、徳を積むためではなく、このたくさんの思い通りにいかないことであふれている人生をいかに受け入れ、そこへの意味を持ちながら、自分を灯火として生きることを勧めた在り方は、

・・・人生とは、人とはそもそも、そういうものであるのだから・・・という気負いのない優しさに満ちています。

又、精神科医、医師、研究者であるデヴィッド・R・ホーキンズ博士の「意識のレベル」は意識が上がるほどに人の本来持っている能力や精神の広がりを教えてくれています。自己否定からはじまり、自分を肯定できるようになり、それを理性のところで終わらせることなく、愛の人となり、他を助け、いずれは自分を忘れていくという、人に備えられている意識の進化。その進化はほんのすこしずつのものではありますが、それこそこが人の進化の在り方であることもわかります。道の先を照らしてくれた博士の研究は希望を与えてくれています。

この3人の方に共通していることは、とても人間的であり、現実的であるということです。誰ひとりとして、特別な力を持つことや、即効性のあるものや、神秘的体験へいざなうことをしていません。又、私が本物だ、私についていれば大丈夫とはいいません。人とは・・・というところにただただ深い慈愛の目を向けています。

人であるということ。人であるからこその課題があるということ。人であるからこそここで生きる時間が決まっているということ。そしていずれ帰るべきところへ帰るようになっていること。そんなあたりまえなことが実は最も大事で、この基本のところをはずれないように注意をしなさいと言われている気がします。

ミュージカル仕立て?
2020/07/04

半年ぶりの岩手クラス。元気に全員で集まれたことに感謝でした。よかった、よかった。そして、久しぶりにおいしい焼肉と冷麺も食べることができてうれしかった。

クラスは、ドてんこ盛りの内容でした。おまけに帰ってきてから、あれも言い忘れた、これも忘れていたじゃ〜ん、と反省の数々(また次回のクラスのときにやります)伝えたいこと、話したいことがいっぱいでした。

今回のクラスで、ある方が「王」とパターンとのやりとり(インタビュー)を2役になりきって、声を出して行っていると話していました。これはおもしろいと思いました。

「王」が「どうしたんだ?なんでも私に話てごらん?」とパターンに言います。するとパターンが「王さま、私、あの人が嫌いなんです」と話す。「そうかそうか、なぜ嫌いなのか?」と聞く、それに対して「なぜならば・・・」とパターンが応えるというやりとりをなりきってやってみるというものでした。

声を出して行うことで、王の持つ威厳さ慈愛をその声にのせてみることで、リアルさが生まれるかもしれません(なんならコスチュームをつけてもいいかも?王冠やひげも?動きも交えて?ミュージカル仕立て?歌って踊る王(笑))

ユーモアと想像力と表現力をワーク(インタビュー)に使っています。

王はパターンとどこで会っているのでしょう。謁見の間?王の庭園?王の秘密の部屋?・・・それも自由につくってみるといいかも。やってみようかな、という方は試してみてください。

ただし、一人のときにですね。気兼ねなく。思いっきり。なりきってインタビューなので。ただ、このときの注意ポイントとして、意識がパターンよりにならないように、ということです。あくまでも王のほうへ意識をのせておくことが大事になります。インタビューなので、どちらかへ意識をのせておくということがわかりやすいと思います。そして王がインタビューに基づいてパターンの代弁をするという語りかけにつなげます。

王である「私」をできるだけ感じられますように。

ワークは厳しく、面倒で、大変で、やっかいなものというイメージがあるかもしれません。それは自分の成長のために(早く楽になるために)やらなくてはならないものと意味づけをしてしまうとそう感じられるかもしれません。

しかし、ワークはそのためのものではありません。自分の全てを許すためにあります。自分の中に許す王と許されるパターンたちがいます。王は全てを許し、パターンたちは全てが許される、そんな関係なんですね。

自分にとっての快適でいい
2020/06/30

きのうの続きです。

そこからまた話が続きました。「私はADHD(注意欠陥多動性障害,注意欠如多動性障害)ぽいところがありそうなので、それで片付けができないということもあるのかも・・と思います」とその方が言いました。

「それによって日常生活が全くできず、身体的にもまずい状態であれば、そこへの治療ということが必要になるのだとは思うけど、人が作った枠に人ってはめられないというのもあると思う。」と私は応えました。それはADHDだけではなく、今、よくいわれるHSPや、その前のプチ鬱や、新型鬱、パニック、適応障害などなど、心に関するところのものはとても個人的で入り組んでいて、微妙です。

おおよその特徴があるのは理解できますが、それがどのくらいの割合をしめすのかによりその枠へ入るのか、入らないのかも決めていかなくてはならない。ただ、枠を決めてもらったほうが安心という方もいるのでそれが必要という段階もあると思います。

性格や個性、言動の傾向などについては、遺伝的なものから、その人の過去世からのものから、今回の魂の課題のものからと、その要素が必要だったということも絡んでくるので、ここも加味して総合的に捉えたいというのが私の考えです。そして、枠があるということは、健全な精神というモデルがあるはずでそれって何を基準にしているのか、と思います。

昔カウンセリングの先生から「ロールシャッハテストを芸術家にさせると、あぶない人ばかりだそう」という話を聞いたたことがありました。テストでは、はかりしれないんです。その人の魅力って。そしてテスト的に、あぶない人だからこそ人の魂を動かす作品が創れた。

「結局、自分が自分を一番理解してあげればいいんだと思うよ。〇〇さんのこと(パターン含め)を知っているのは〇〇さんの「私」であって、誰かではない。その「私」が〇〇さんの快適を作っていけばいいのでは?そのために自分を理解し、許し、ときには挑戦させ、試してみたりして、誰かの決めた快適ではない、自分にとっての快適をみつけていくといいと思う」という話になりました。

人って一人一人が違うのがあたりまえです。自分だけが皆と感じ方が違うと多くの方が感じているのはこのためです。でも、それは自然なことです。だから自分をどう生かしていってあげるかを自分で見定めていかなくてはならないんです。それを作っていくのもまた人生。

さて、今日はこれから盛岡へ行ってきます。半年ぶりです。待ちに待っていましたぁ。明日のセミナーはてんこ盛りです(笑)では、行ってまいります。

自分が快適であること
2020/06/29

先日いらした方との話です(ご本人の許可を頂いています)

「どうも・・・自分の周りにいる人達を見ていて思うんですが、出生時の体重が多かった人(大きく生まれてきた人)と体重が少なかった人(小さく生まれてきた人)にはひとつの傾向があるようなんです。大きく生まれてきた人は物をため込みやすい(物がすてられない)と、小さく生まれてきた人は物が少ない(何でも捨ててしまう)とに分かれるような気がするんです、が、先生はどうでしたか?」と聞かれました。

「私は確か、2800くらいだったような・・・。3000に満たないので小さく生まれてきてるよね。確かになんでも捨てちゃう」という話になりました。

その方は大きく生まれてきていて、とにかく物が捨てられない、片づけができないと話します。特に物を捨てる事への罪悪感があると。

その方の同僚に何でも捨ててしまう人がいて(多分その人は小さく生まれてきたんじゃないかと思う・・と)あるとき、その同僚に向かって「私は、なんでも、とっとこ(とっておこう)ハム太郎です」と言ったら、その同僚の方は「私は、なんでもステ(捨て)ファニーです」と言ったと聞いて大笑いしました。

・・・・「私は、なんでも、とっとこハム太郎。私は、なんでもステファニー」って・・・・ぶふふ・・・・で、私もなんでもステファニー。

そんな話から、物を片付けられないとなぜいけないのかという話になりました。よくよく考えてみたら、物がいっぱいある部屋であってもその人がそこで快適であればいいわけです。でも、なんとなく世間的に断捨離やミニマリストやシンプルな部屋などが今主流となっていて、片づけられない自分はいけないと思っているのかも・・という話になりました。

物の少ない部屋のほうがいい、そういう部屋にはきっと誰もが快適さを感じる、そして、皆が片付けができる、という思いにいつのまにか支配されていたのかもしれないね、と話しました。

まず、ここまでがひとつです。世間的に良い、あたりまえ、普通と言われていることと自分が違っていても、自分にとって(パターンにとってではないです)それが快適であればそれでいいという気付きです。たとえ他人がそれに対して色々言っても。大事なのは自分が快適であること。続く。

まずは自分を満たすこと
2020/06/27

今朝の日記は昨日の日記の補足になります。ちょっとわかりにくいかもしれませんが、自分の整理のために書いてみます。

「この状況にあってのフランクルの「人生はこの私に何を期待しているのか?」という言葉には、脈々と続いてきた人類の課題があると思えてなりません。」と昨日書いたのですが。

これも、意識の領域の話になるのだということです。この視点が今の自分が望み、それが自分の安定になると思える領域。領域とかミームとかというと上にいくほどレベルが高いと思われがちですが、そうではなく、特徴ということです(ここを間違えると上にいこういこうとしてしまう)あくまでもそこの特徴です。

このフランクルの言う特徴の領域をいずれ人は望むようになります。そして、それを望む人たちにとっての大きな課題であるということです。

そこの特徴は、自己を置いていく、捨てていく、消していく、明け渡していく、引き渡していく、そこに起きていることの意味を信じる、という特徴です(そこへの導入として「人生はあなたに何を期待しているのか?」という問いかけがあります)

しかし、最初からそこを目指すのはきついです。先日書いたイエスのようになれない自分に苦しむことと同じことです。

まずは、自分を満たすことの領域が必要です。しかしそれは今までのように外側(他人や物質やもろもろで)を固めて自分を満たすのではなく、内側を見直していくことで行っていくものです。それにより、今までは外側から得ていたものをだんだんと自分の内側から得ていくようになっていきます(自分が源泉であることへの1歩)そうやって自分への信頼や理解、許しなどの力を得ていきます。

これは外側を固めたときの一瞬の幸せ感や高揚感や癒され感とは全く違う安定した幸せ感を感じることになります。

こういう自分として生きる、これはマズローの提唱している「自己実現」になるのだと思います。それができたならば、もういいか、安定し、やすらかさとともに生活し、それなりにいいあんばいで回るようになったし、と思うかもしれませんが、人の魂はその次へとまた進んでいきたがります(もうそこでいいと決めればそこでとまります)

「自己実現」の次には「自己超越」です。この領域の特徴のひとつがフランクルの言わんとしているところだと思います。自己超越、もう、私の幸せ、私のやりがい、私の仕事、私の生活など、今まで私が中心であったものが、だんだんとうすらいでいく。そこはもういい、なぜならば、それ以上に自分の魂を魅了するものが見えてくるからです。これが自然とやってくるのが人の成長なのだと思います。

だから、まずは自分を満たすことです。それがなくてフランクルのように生きなくては・・・でなくていいということです。全て順番があります。でも、自分を自分で満たすことを訓練していくうちにきっとこの視点を欲しいという自分に気づくと思います。そのときはその領域へ足を踏み入れたといえます。

フランクルを思う
2020/06/26

計画通りにはいかない。

特に自分自身についてはそう感じるかもしれません。もっとこういう自分だったらいいのに、もっと全て思い通りにいけばいいのに、こうなるはずだったのにと。やっと自分の思い通りになったなと思ったら、今度は家族の問題が出てきたり、病気やけがに見舞われることもあるし、天災のこともある。それは誰の人生もです。

計画通りに全てうまくいないのは、それでも起きていることを自分のものとして引き受けられ、そこへの意味づけができるようになるためです(何があってもやっていかれるな、自分。というもの)

・・・・・と言うのは、この数日、ヴィクトール・E・フランクル(ユダヤ人の精神分析学者、ナチスの強制収容所に収容され奇跡的に生還をする。「夜と霧」はこのときの体験を綴った)のことを思っていました。

フランクルの言葉・・・・「人生があなたに期待していることはなにか?」「人生はこの私に何を期待しているのだろうか?」・・・・(ここ、大事なところです。私は私の人生に何を期待し、そうするためにどう計画するか?ではないんです。逆の視点)

収容所という自分の人生など一切なく、全てを剥奪され、飢えと恐怖と病が蔓延している中にあり、今日生きられるのかどうかもわからず、家族とは引き離され、家族を失い、それでも、生きる意味をフランクルは見つめ、同じ収容所にいる囚人たちにこの言葉を投げかけ続けました。

この状況にあってのフランクルの「人生はこの私に何を期待しているのか?」という言葉には、脈々と続いてきた人類の課題があると思えてなりません。この話、難しい感じがしたり、わからないという方もいるかもしれません。それはそれでいいんです。今はということなので。しかし、人の精神性が豊かになるにつれて、そこに芽生えてくるものは、このようなものだと今の私は確信できます。

この「人生は」というところを「天は」「宇宙は」「神は」と言葉をいれかえてもいいのだと思います。又、「期待」のところを「何を望まれているのか」「どうあってほしいと思われているのか」という言葉でもいいと思います。いずれにせよ、何か大きな存在からの期待や望まれていることです。

そして「私」はそことともにありたい、そこに沿って生きたいと願っている存在です。黒パターンの計画通りにしたい(思い通りにしたい)を選ばず、白パターンを選ぶということは、まさに、大きな存在から期待されていること、望まれていることを行っている、と言えます。

自分に正直であれ
2020/06/25

敬虔なるクリスチャンの人から見たらイエス・キリストは自分が目指す存在です。

特にその人が教会内でリーダー的存在で、皆をひっぱっていく立場であると、よりキリストに近づけるようにありたいと自分に責務を課すだろうと思います。

しかし、今の自分はキリストのような在り方、生き方ができるのか?というとそうではない。迫害を受けたり、憎まれたり、罵倒されたり、ムチで打たれたり、あげくのはてに十字架にはりつけにされても(さすがに今の時代はないけど)自分はイエスのようにいられるのか?・・・と思うと、それは到底無理とほとんどの人は思うと思います(私、絶対無理)

で、それでいいよ、と私は思います。何故かというとそこが正直な今の自分だからです。イエスほど進化していない自分が今の自分であり、それをちゃんと認められればいいでしょう?と思うからです。それをクリスチャンたるものイエスと同じであらねば、と、苦しくても平気そうに振舞ったり、落ち着きはらって、他人にそのように見てもらいたいと思うのは黒パターンです。

イエスの背中を追いつつも今の自分の成長度というものをしっかりと見、知り、それを正直に言える自分であれれば、それこそ信仰を持つ者の証だと私は思います。

イエスや仏陀や誰もが認める自称マスターではないマスター達は私たちのお手本として存在していますが、そこへいきつくまでには相当の時間をかけることになります。でも、だからと言ってそれはだめなことではなく、その道を歩む者はそれを常に心に持ちつつ、自分の歩みでいけばいいんです。

この道は右肩上がりに行く道ではなく、ゆるやかにらせんをえがきながら歩く道です。そして、歩み続ければ、いつかイエスや仏陀が感じたであろうことがほんの少し自分の中に芽生えてきます。そんなとき、その小さな芽生えがイエスや仏陀が後に続く者たちに残していった足跡であることに気づくのだと思います。

自分の中にある確かなそれは、正しい道を歩いてきたという証になります。そのことへの喜びは大きい。まず、自分に正直であれ、ということです。

未来を見ることができる
2020/06/24

今から15年ほど前に知り合いの方から聞いた話です。

その人はある霊能者についていました。霊的なことに興味があるので、そこでの話がとてもおもしろいとその方は言っていました。

ある日、その霊能者から「これからお金というものがなくなるので、今のうちに使っておいたほうがいい。これから貯金は必要ない」と言われたのだそうです(かと言って、自分に渡しなさいとは言わなかったそうです)そして続けて「お金だけではなく、全てが消えるんだって。だから頑張って働いて貯金したり、家を買ったりしても全く意味がないと言われた」ということを話していました。

同じクラスの人の中にはその言葉を信じ、貯金を使ってしまった人もいたし、どこかへ寄付という人もいたし、好きなことをやって生きようとした人もいたと言っていました。その話をしてくれた方は「確かに未来を当てる方だけど、そうはいってもねえ・・・」と今まで通りでいくと言っていました。

このように、未来を見ることができる、当てられる、という能力を持つ人はいます。しかし、その通りにはならないということも多くあります。何より人によって言うことも違います。そうなると、誰を信じるか、誰が一番その能力があるか、などと考えます。

しかし、未来の世界は、いくつも選択肢があり、それは混沌としていてまだ形になる前のかすみのようなものとして存在していると私はイメージしています。それを霊能者という人たちが見たとき、そのときに見えているものを見たと言っているわけで、それが絶対ではありません。

この混沌として形になる前のかすみのようなものは、人々の集合意識の影響をうけると思うし、そこに関与するエネルギーもあると思います。こうなるとそのときに見えていたものも形を変えていることは多いのではないかと思います。

・・・未来はわからないということです・・・

そうなってくると、どんな未来になっても、私はやっていかれる、という自分を今この比較的、安定し、平和なときにつくっておくことが最も現実的で確かなことだと私は思うんです。そして、たとえ、あんなに時間とエネルギーとお金をかけてやったのに、無駄だったという思いをするような未来になっても、それよりももっと大事なものがあることを知れる自分に今からなっていくことが大事だと思います。

それは、計画通りにいかなくてもいいというものです。こんな風な未来という計画通りではなくても大丈夫というものです。

自分の意識が未来を創っていきますが、それは未来の計画を創るということではありません。どんな未来においても、自分を保ち、いられる自分を創るということです。ここが究極なんだろう・・・と思っています。

起こるべくして起こっている
2020/06/23

自分の今までの人生を細かく(わかる範囲ですが)振り返ってみると、あらゆることは起こるべくして起こってきたことがわかります。

起こるべくしてというのは、その起きたことは今につながるきっかけを含んでいたものであるということです。

起きたことがイヤなこと、つらいことであった場合、そのときに自分がどんな選択をするか(意味づけ)によってその後の結果は変わってくるのですが(私も・・・よくない選択をしたこともありましたが)それなりに来られたのは、自虐的、復讐的、破壊的、悪質なことは選択しては来なかったからだろうと思います。

もちろん、子供の頃は自分の力と知恵で選択はできないので、両親やまわりにいる大人に助けてもらうことしかありませんでしたが、それでも、その子供時代があったから今の自分につながっています。これはきっと誰もそうだと思います。

「魂の道場」的には起こるべくして起こることは「私」のセッティングであると考えます。「私」は知っているんです。この個体に何が必要で、何を体験させるべきなのか、この個体はどんな個性をもっていて、それを自他のために発揮できるようにするためにどんなことを起こすべきなのか・・。そして、何よりも大事なことは、その繰り返しで「私」が育つということです。そうやって今世の課題をクリアしたい、と「私」は思っている。

起こるべくして起こっている今のいろんなこと。それは今の自分に必要だから起こっている。そう意味づけができれば、今にOKも出せるかもしれません。確かに苦しみやつらさの真っただ中にいるときにはなかなかそんなふうには思えないかもしれませんが、人生の振り返りをしたときには、全部OKだったんだと気づきます。

そして、今起こるべくして起こっていることも永遠に続くのではなく、必ず収束していくときがきます。それまでの間を、これらの考え方をもつことや、より、人生を全体で捉えることや「塞翁が馬」を思い出してみることで和らぐかもしれません。

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