ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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そうなんだ、自分
2021/08/14

他人を理解する前に、自分自身を理解しよう。

自分を理解するには、自分の中でどんなことが起きているのかを、正直に、ゆがみなく、言い訳せず、無視せず、在るものとして(くどい、が、このくらいじゃないと見過ごす)見ることが必須です。

それができるから「そうなんだ、自分」と自分自身を理解することができます。

で、理解するというのは、それを在るものとして受け取る(だけの)ことで、こんなものを持っていてはいけない、とか、こんなレベルが低いものを持っている自分は恥ずかしい、とか、これは見なかったことにしよう、これは自分に在るはずがない、などということではありません。

「そうなんだ、自分」って、どこか他人ごとのようです。その感じで自分をみてみます。深刻にせず、ただ、そのまま。これってすごくシンプルで簡単なことなんですが、あまりにそうだからか、難しいのかも。

そして、大人になると、そうやって自分を見るということは幼稚なように思っています。感情というものはレベルが低いくらいに思っています。子供じゃあるまいし、と言う。そんなことよりも大事なことがあるだろう、ということでしょう。知識を増やし、情報を集め、いかにしてリスクなく生きる術を身につけるか、そしてより多くを得ていくか、そういうことをできることのほうがレベルが高いように思っています。大人は。

しかし、そうやって生きているのに、幸せを感じて生きている大人が少ないのはなぜ?幸せを生み出す心を創っていくことをしていないからでは?

理解するというのは、許すこと、そしてそれが自分を愛すること。自分を見るという事は自分を愛するということだったんです。逆の言い方をすれば、自分を愛していないと自分のことは見ないとも言えます。

今日も、自分の中で起きていることを大事にみていってください。

人って・・・
2021/08/13

私・・・幼稚園のときに「人って・・・」という体験をした、ということを思い出しました。幼稚園なので、5歳くらいだったのかな。

雪の積もった冬のある日、皆で園庭で、雪だるまをつくったり、雪玉なげ(まだ雪合戦というほどのものではなかったと思います)をしたりして遊んでいました。

そのとき、園庭の隅で、男の子が3人で1人の男の子の頭を雪の中に押し付けていました。押しつけられている男の子は手足をばたばたさせていました。私はその男の子を助けなくちゃと思ったのでしょう、頭を押さえつけている男の子(この子は一番体が大きくて力が強い子でした)に「やめなさいよーーー」と言いました。

すると3人の男の子は、押さえつけていた男の子から手をはなし、今度は私が雪の中に頭を押さえつけられてしまいました。

そのとき、私は、私が助けた男の子が私を助けてくれるんじゃないかと思ったのですが、なんと、その子も一緒になって私の頭を雪の中におしつけていました。苦しくて、怖くて、手と足をばたばたさせて「やめてーーー」と言いたかったけれど、声にはならず。そのときちょうど先生がそれを見つけ、助けてもらった、という出来事がありました。

あのとき、わずか5歳にして「人って・・・こんなもんか」と子供ながらに思いました。私に救われたことなんか関係なく、人ってこんなことをする、という体験をしました。これが(多分)私が体験した初めての人への失望だったと思います。

その後も、その体の一番大きな子に何度かいじめられました。その場にはいつもあの男の子もいて、一緒に私をいじめたり、笑ったりしていて、人への不信マックス。私へのいじめがなくなると、再び、その男の子はいじめられ、泣いていましたが、私は無視しました。誰かを助けると自分がやられる、ということよりも、人への失望のほうがショックだったのかもしれません。

そこから60年がたち、今の私は・・・自分も含めて「人」への失望、不信というものは、理解へと変わりました。人が持つ、弱さもずるさも臆病さもそれへの理解ができるようになってきたと思います。そしてその理解があって、初めて、自他の貴さも感じられるようになれた気がします。

「人って・・・」というのは私の課題なのだと思います。無視されたり、故意にいじめられたり、裏切られたり、いいように使われたり、そんなことが多かったです。でも、今となっては、そのひとつひとつが私には必要だったのだとわかります。人生に無駄なしです。

明け渡すこと
2021/08/12

「魂の道場」では何が得られるのですか?と以前聞かれたことがあります。「何を得たいですか?」と聞いてみました。

「悟り、絶対なるもの、真理を得たい。そうすれば、きっと、これからの人生が安泰で守られて、自分も家族も幸せになれるのではないか?」という話でした。そのときは「ごめんね、それはないです」と言いました。

この時点で「だったらやめます」と言う方もいるし、それでも「やります」と言う方もいます。「とりあえずやってみて違うなと思ったらやめてもいいですか?」という方もいらしてそれは「もちろんです」ということになります。

…ほんとね…何が得られていくのでしょう。

昨日の日記に書いた「魂力」それだと思います。具体的に言うと、これから(も)自分の人生の中に起きる物事に自分でそれに向き合える自分を自分で創るという魂力です。悟りとか、ワンネスとか、非二元とか、よくわからないことを目指すのではなく(それは後から自然についてくるので)もっともっと現実的なところの話で、この現実世界をいかに生きるかということをそれぞれが創っていくことを行い、その力を得ていく、それが得られるものだと思います(厳密にはそれもひとつ)

そのときに指針となり、リーダーとなるのが「私」です。ここを育てて「私」=「魂」力をつけていきます。この存在が常にキーとなります。「私」はあらゆる体験を通しての智慧の宝庫であり、いかに現実的にそれを使うかを吟味できる存在です。そして、それを実行する存在です。そうやってこれからの時代、何が起きても自分でそれに向き合える自分を自分で創るということをしていきます。

とにかく大事なことは「愛」という方もいますが「愛」って何?これもいろんな意味づけができますが、今の私にとって究極の「愛」は自分の全てを神に明け渡すことであり、自分の命も、何もかもを「御心のままに」と預けることだと思っています(思っているだけで、私はすでにそうです、ではありません)

実際、その意味づけを生きている人がどれぐらいいるでしょうか?究極のそれは、あまりに崇高すぎて、まだまだ無理とわかりつつも、人は「私」の本来の希望である自分を「明け渡す」ということもだんだんに感じていくことになるのだろうと思います。

小さな明け渡し(損得、自分を守ることからの解放、あきらめ、覚悟、など)からだんだんと大きな明け渡しに移行していくのだろうと思います。そして、きっと本当に明け渡せるようになったときこそ、本当のやすらぎがその人を覆うのだろうと思います。まさに神に抱かれたやすらぎがそこにはあるのだと思います。それがきっと究極の「魂力」なんじゃないかと思います。

今はまだ無理な私でも、明け渡すところへ少しずつ少しずつ歩んでいきたい。魂はとにかく進みたがっていることをとても感じています。

魂としては普通のことだった
2021/08/11

昨日は、久しぶりに、施設にいる父母に会いにいきました。面会時間は15分。

父も母も近況を話してくれて、本当にひと時だけだったのに「今日は楽しかったあ」と言われ、もっともっとこんなふうになる前に話を聞いてあげたかったと思いました。もっと一緒に食事をしたかったし、もっと一緒に出かけたかったし、もっとこの地の美しい樹々や花々を母に見せてあげたかった。後悔しても、もう、遅いのです。コロナがおさまったら、とは言いますが、高齢の両親にとってはそうも言っていられません。

だから、思い立ったら吉日で動くことがすごく大事だったとまたあらためて思いました。

つきなみですが、今まで普通にできていたことが出来なくなって初めて、普通にできていたことが普通ではなかったということに気づきます。だからコロナ禍の今であっても普通にできることは面倒くさがらずに、先に延ばすことなく、やっておくといいのだと思いました。もしかしたら今の普通もまた普通ではなくなるときが来るのかもしれません。

これがひとつ、と・・・・。

今まで普通にできていたことができなくなったとき、そのところから、また、新な自由を得ていくということも大事だと思います。それは以前より制約された日々にはなるのですが、それでも、それが私たちに与えられた新しい環境であれば、その中にまた新な自由や美しさを自分がみつけていくということ、これも、ひとつだと思います。

こうしてこれからは増々、人間力というか、魂力が必要になってくるだろうと私は思います。今までであれば、これだけ預金があればとりあえず大丈夫、持ち家があればとりあえず大丈夫、家族がいれば大丈夫、仕事があれば大丈夫、と言われていましたが、はたして、どうかはわかりません。もっていたものが減っていき、はじめの計画とは違うようになっていくこともあるかもしれません。

そんなときにも、その与えられた環境の中で自分を活かすという魂力。それを自分で日々の生活の中で修練しながらそれぞれが創っていくことが大事だと私は思っています。よく考えたら、それは特別なことではなくて、魂としては普通のことだったということなんですが。

仕事って何?
2021/08/10

恒例のサラリーマン川柳、主な入選作品(第一生命保険発表)を見ました。
・コロナ禍が 程よく上司を ディスタンス
・会社へは 来るなと上司 行けと妻
・激論も パジャマ姿の 下半身
・リモートで ミュート忘れて 愚痴バレる
・我が部署は 次世代おらず 5爺(ファイブジイ)

ちょっとした、皮肉と悲哀とユーモアと、サラリーマンだから作れる作品です。そしてきっと共感する人も多いはずです。

・・・仕事って何?・・・ひとりひとりのそれに対する定義、哲学、意味づけは違います。もちろんどれが正しい/違うもありません。仕事につらいことしか見えなければ、ただひたすら生活のために耐えるものと思うと思います。100%ではなくても、楽しさや、充実感や、いい人間関係が見えていれば、大変でもあるけれども楽しいものでもある、と思います。

道場でお会いする方達は、仕事(場)は自分を知るもの(場)、そして、違うやり方を試す実験場と思っている方々が多いです。そういう意味付けをしている。

絶対と言っていいほど嫌なことがある仕事場。それにより、そうか、自分のこういうパターンにひっかかっているんだな、と自分を客観的に見て、じゃあ、何を選ぶのか、と新な選択をし、その場でそれを試し、使ってみる。それによってどんなふうに、何が変わったのかをより詳細に、クリアに観察します。そんなことが出来る場という仕事の見方もあります。

この見方は、自他を、自分の周りで起こること全てを、自分の成長のために使うというものです。そもそも、魂としてクリアできずにいたことをクリアしたい、そして成長したい、というところで私たちは生まれてきていると思っているので、だから、あの家族だったのかあ、あの学校だったのかあ、だからあの人と出会ったのかあ、だからこの容姿で、この個性だったのかあ、だから今までこれらが起きたのかあ、と捉えています。というか捉えざるを得ない。よくよく今までをひもといてみるとそれが見えてくると思います。全てが自分の成長のために用意されている。

今日はひとつご紹介があります。「魂の道場 認定カウンセラー」である藤岡好恵さんがホームページを開設されました。どうぞご覧ください。

https://soen-fujioka.jimdofree.com/

好恵さんのホームページからは、清々しさや、正直さが感じられ、自分の中にも風が通るようです。

これからのブログが楽しみです!好恵さんには楽しみながらたくさん書いていっていただきたいと思います。うれしい!!

自分の感性を信じる
2021/08/09

「まぁ…いいじゃあ〜ないですかぁ〜」を、言葉というところだけで捉えると「まぁ…いいじゃあ〜ないですかぁ〜」の意味を思考して導き出すということになると思います。

「まあ、いいじゃあ、ないですか、そんなに気にしなくても…。相手にも何か事情があってのことだろうし、まあ、許してあげましょうよ。気にしすぎるのはやめましょうよ、それはそれでいいんだって思いませんか?」という感じ。これは思考的対処で導き出した「まぁ…いいじゃあ〜ないですか〜」です。

そこをやりたいのではない。この言葉を全身全霊で自分から発し、自分に与えたとき、どんな感覚が心の中に湧き出し、そこいる自分がこの言葉を通して、実は大きなものに守られていると感じられ、それはどんなふうに体に反応しているか、ということ。そんな心身の体験をしたいのです。

なぜならば、人はまず心ありきで、それが体に反映するから。そしてその体験から、誰も大元と切り離されていないということも感じ得て、それで人生は創られていくからです。だから、自分専用の自分への言葉(マントラ)を大事にしてください。自分にそれを与えたときに、どんなふうに自分が感じるのか、を観察していってください。

そして、そのときの自分の感性を信じてほしいし、何よりも大事にしてほしい。そこには一人一人の個性があらわれていて、それこそ自分だからです。自分の感性に自信がないと言う方もいらっしゃいます。それもわかります。だからこそ、たくさん感じていくという練習をしていくのです。自分の感性を信じるのにも練習が必要です。

それこそ「いいじゃあ〜ないですかぁ〜」そこで感じたものが一瞬の気の迷いだったとしても。どこか違っていても。またやってみようでいいわけです。気楽に気楽に。

今日は「長崎原爆の日」まずは、自分の心に平和を。

天がほほ笑む
2021/08/08

クラスでのワークで自分専用のマントラ(その言葉を口にすると天がほほ笑む)を作ろう!というのを以前にやりました。

「なんでもいいの、とにかく自分にとってその言葉を言ったときに、ほっとする、体が緩む、軽くなる、楽しくなる、広がる、そんな感覚を与えてくれるようなマントラを作ってみてください。ひとつでもふたつでもみっつでも」というものでした。それぞれが「なるほどーーーーいいねーー」というマントラを作りました。

もちろん作ったマントラはまた変えていっていいし、自分の変化により、この言葉では今はもう合わないな、というときには柔軟に作りかえていきます。とにかく、楽しく、軽く作るというものです。

で、私が作ったちょっと前のマントラは「まぁ…いいじゃあ〜ないですかぁ〜」です。「まぁ」のあとの「…」の部分には空白があります。この空白で吸った息を「私」の部分に貯えて「いいじゃあ〜ないですかぁ〜」で吐きながら言っています。

息を吐きながらそう言うと、体の力が抜け「いいじゃあ〜」と「かぁ〜」の部分では「それはそれでいい」を感じています。それはそれでいいと思えない黒パターン(思い通りにしたい)が騒ぐと、体には力が入り、それはそれでいいなんて、だめだめと言う。でも、自分が目指したいところは「それはそれでいい」です。これはきっと「思い通りにしたい」の反対にあるものだと思います。

「それはそれでいい」と思えたとき、こんなに人は本来、楽に生きられるんだと思います。実は何も自分を縛ったり、自分をいじめたり、自分を脅かすものはないんだ、と思います。こんなに自由にいられるのに、なんであんなに自分で自分を苦しいところへおいこむんだろうと思います。

これらは黒パターンがやっていることなので、やはり、黒パターンを選ぶ(自分は選んでいないと言いますが、実際は選んでいるんです)ことでかえってくる結果はこういうものなんだとよくわかります。

私も全てに対して「それはそれでいい」と100%思えているわけではありません。しかし、それを選んだときの安定感や至福感を感じることを繰り返していくと、やっぱり、そっちへ行きたいと自然と思います。それは「私」が望んでいて、今回こそそれをやろうとして今世も来ているのがわかります。

ご自分のマントラを作って楽しく活用してみてください。

自分で自分を守る
2021/08/07

以前、こんな話を聞いたことがあります。

双子の男の子の兄弟が10歳くらいのときに、学校の帰り道で、乗用車同士の交通事故を見てしまいます。初めて見た交通事故に2人とも足がとまってしまい、その後の一部始終を離れたところから見ていました。

事故車の近くにいた人が警察に連絡し、救急車を呼び、人が集まってきて、車の中で動けなくなっている人に声をかけたり、救出する際に邪魔にならないように声をかけあったりしています。ケガをした2人は、出血し、うめき声をあげていた状態で救急車で運ばれていきました。それを見ていた双子の2人。

兄は「こんなことがあっても、誰かが誰かを助けたり、警察も救急車もすぐにかけつけて、迅速に動いて、人ってすごい、人って優しい、人って強い」と思いました。弟は「こんなふうにいつもの道で交通事故っておこるんだ。いつどこで自分も事故にあうかもしれない。怖い、気をつけて、注意していないと自分もあんなふうに怪我をしたり、もしかしたら死んでしまうのかもしれない。車はあぶない」と思ったのだそうです。その後の2人の生き方はおのずのとかわっていきます。スムーズに生きられたのは兄のほうです。これはわかると思います。

捉え方というところにその人のコアの部分が出ます。その人の生き方をつくるのは自分のコアの部分です。ここでのコアとは白黒パターンのバランス度、と「私」度です。

少し話がずれますが、人生の中で必要な危機感を持つことは大事ですが、全てにおいて危機感を持ちすぎるのはアンバランスです。危機感が強すぎると、どうしても守りの人生になります。

そして、他人に対しての猜疑心も大きくなります。他人への信頼が持てないのは、その人から危害を加えられそうだと思っているから。だから優しくされてもこれには何か裏がある、笑顔でいるけれど本当は自分を嫌っている、褒めているけれど本当はばかにしている、利用しようとしている、など。この猜疑心の壁は厚く、他人との関係をつくることを妨げます。

もとは、というと、自分が嫌な目に合わないように、傷つけられないように、というものです。嫌な目にあっても、傷ついても、そのパターンを「私」が守ってあげられればいいのでは?この体験がすごく大事だと思います。

嫌な目にあう、傷つく、でも、「私」が守る。自分で自分のことを守れたという体験は、その積み重ねによって、それからの人生を変えていきます。

そして、そうなれば、極端な言い方ですが、誰とでも関われる(必要なときには)というのは、そうやって相手を好きになりますよということではなくて(嫌いは嫌いでいい、パターンがそうなのだから)その自分を守ったという力(エッセンス)を相手のためにも自然に使うようになるからです。そこには嫌い、苦手な相手というところを超えたものが生まれます。なぜだか、それを使いたいという衝動が心の底からわいてくる。自然にです。

こういう体験が私はとても人間っぽくていいなあと思うのです。

次へいこう
2021/08/06

本当は、今日から沖縄へ行く予定でしたが、台風が2つ来ているということで中止となりました・・・が・・・あら?大丈夫そう?行かれた?トミーが台風進路図を見て「全然平気じゃん」と2日前に言っていたことを思い出し、これからはぎりぎりまで様子見だなと思いました。しかし、選んだことでいい、選んだことを進める、ということ、これでいこうと思います。

この、選んだことを進めるための私の今の白パターンは「次へいこう」です。これはこの頃よく使っています。今までの白パターンとはちょっと違う感じですが、そろそろ先へ進まないと…というのがどこかにあるからかもしれません。

真意はわかりませんが、感覚として「次へいこう」は快なので今の私には必要なものなのだと思います。もっと「私」の次の声をきいていく必要がある気がします。

心の声を聞く、魂の声を聞く、体の声を聞くってよく言われますよね。それって本当は誰でもが聞けているのだと思います。でも、うまーーくパターンがカモフラージュしていることが多いと思います。聞かせないようにしたり、何かと「でも…無理」と決めていたり、「しなくてはいけないことがあるからそれは後回し」とか「そうは言っても」とか「あるがままの自分でいい」とか、とてもまともなことを言うので、そっかーーーと思ってしまって、結果聞いてはいなくて、今までのままでいてしまうことを繰り返しています。

「私」としては言いたいこと、わかってほしいこと、これからのことなど伝えたいことはたくさんあると思います。だから色々とセッティングして、聞いてもらおうとしているのだと思う。もっと心を開いて、聞かなくてはいけないと思います。そしてその声に従うことが大事なのだと思います。

「私」は自分であって「私」は先生。弟子であり師。全部自分の中に揃って在るのだと思います。

今日は「広島の日」原爆投下から76年。まずは自分の心を平和にしていく。それが必要。

足元をかためて進む
2021/08/03

PCをぽちぽちやりながら、心理系、スピリチュアル+科学系、古典系・・・などなど見つけてはざっと読んでみたのですが、すっごく疲れました。しばし昼寝をしてしまった昨日でした。

で、夜、お風呂に入りながら、なんで、あんなに疲れるのか?それこそメジャーな先生方の知識にあふれたブログやコメントなのに。そこからまた私が学ぶものはあるはずなのに、それなのになんであんなに疲れるのか、と考えてわかったことがありました。

それは、まず、行先(結果)がはっきりしていてそれを打ち出しています。例えば、ワンネス、非二元、無条件の愛以外は全て幻、人間には自由意志はない、私たちは神から愛されている、などなど、良い/悪い、正しい/間違っているではなく、そういうアプローチがほどんです。ですからその行先を見て、それが欲しい人がその教えなり、メソッドなりを学ぶというシステム。

そこでは(多分)その行先をイメージできる瞑想とか、その体験をしてみよう、またはなぜそうなのかということを思考し、そこに向かうようにするということが行われるのだと思います。

で、私は全く逆からやっているんだということに気づきました。私は、まず、自分の中の感情とか感覚とかを自己探求の入り口として考え、そこからの出発になります。そうなんです、行先(結果)が見えていない状態からの出発です(せいぜい楽で自由になるくらい)なぜかというと、感情や感覚はだれにでもあるもので、自分でそれを感じられるものだからです。ワンネス、無条件の愛と言われても感じられない。

そこから進む先も自分の内であり、遠く宇宙のかなたをみつめているわけではないんです。肉体をもち、感情や感覚をもち、日々の生活があり、そこをできるだけ使って、少しずつ自分の中の「私」という、そもそも無条件の愛につながっているものをとらえ、大きくしていく。それと同時に心のバランスをとっていく。

すると…見えてくるものがあるんです。それはまだまだワンネスとか無条件の愛とかではありません。ちょっとした自他への理解や許し、自分の個性の確認、生活の変化などです。それも一人一人違います。そしてまたそこからより自分の内へ進む。そしてそれぞれがまた手にするものがある。それも一人一人違います。

そうやって次々と自分のペースで天が用意してくれている扉を自分で開けていきます。そこで目にすること、知ること、理解できること、それらがその人の確実な成長となっているのです。そして、その沿線上にワンネスへの理解、無条件の愛へのかすかな光を自分で見出す。それはごくごく自然にやってくるものです。

この逆からの出発でずっとやってきた私なので、先に行先(結果)を知って、そこへ進むということが私にはすごく疲れるのだと思いました。行き先はわからない、でも、その道は正しく歩めば何かが導いてくれる。それを体験するということをやっている。

先にそこを見据えていくのか、または、今の自分の内側にあるものからいくのか、どっちが正しいはありません。自分の個性に合わせて選べばいいのだと思います。

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