ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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パターンで生きることをやめる
2024/03/07

悩みって、簡単に、ざっくりと言ってしまうと、パターンが納得しないことを言う。

パターンを主体にして生きていれば、それはあたりまえのように毎日起こります。あの人があんなことを言った、あの人がこうやらない、この人が自分をわかろうとしない、誰も自分を大切にしてくれない、こうされたくない、ああされたくない、などなど。

これが全てパターンだということはわかると思います。必ず感情や感覚が伴っているので。1日のうちに何回かは、それが起きていると思います。そして、それがパターン主体で生きているということなんです。

そこを変えていくには、これも簡単に、ざっくりと言ってしまうと、パターンを主体にして生きることをやめる、ということです。実はとてもシンプルなことなんです。しかし、これが頭で理解できても実際そうなれないのが人間。おまけに今まで長年にわたって作ってきてしまって頑強に育ててしまっているので、一筋縄ではいきません。だから、仕方ないよねえーーーではない。

それも理解しつつ、でも、自分(「私」)はどうありたいのか。このままパターン主体で生きていくのか、それをやめるのか(ここは自分に誓って強く思ってください)そこは自分で選ぶしかありません。決して「私」で生きることが正しいということでもないんです。それぞれの魂の課題があるので、パターンで思いっきり生きることでもいいんです。

で、パターンで生きることをやめる、というのは、智慧を持つということだと私は思うんです。智慧というとえらくすごいことのように思うかもしれませんが、視野を広げる、新な意味づけを体験する、自分が今まで知らなった世界へ分け入っていく、ことで智慧を育てる。そういう智慧です。

昔、お世話になった先生がおっしゃっていましたが「愛」の反対にあるものは「無智」なのだそうです。無智であるというのは、今のこの思いに縛られてしまうことです。無智であるがゆえに違うものごとを見つけることができず、そうであればどうしても停滞します。

さて、今日はこれから2日間の茅ヶ崎クラスです。今回も岩手クラスよりゲストが参加されます。今回のクラスはこの今回だけです。この時にだけ必要な学ぶことが、与えられるはずですので、今回だけであるという思いで大切に2日間学んでください。

喫茶店
2024/03/06

本屋さんで「東京の喫茶店」という雑誌を見たら、素敵な喫茶店が沢山出ていて、どこも行ってみたいと思いました。

ところで、喫茶店とカフェの違いって何?喫茶店は中高年向きで老舗が多く、カフェは若者向きで明るくオープンな感じとありましたが?よくわからない(ま、どっちでもいいや)

で、思い出した喫茶店がありました。昔、よく行っていた吉祥寺の「くぐつ草」。階段を下りて、店内に入るとまるで洞窟のようでした。

https://www.kugutsusou.info/ 

圧迫感を感じる人もいるかもしれませんが、私はゆっくりできて好きでした。

それでもそのころの私は自分自身とも、他人とも、その他あらゆることと闘って生きていたので、心は不安や、空虚感や、焦りや、思い通りにいかないことへの怒りでいっぱいでした。周りの人たちは皆うまくいっているように見えていて、自分には何もないと思っていました。まさに、そんな意識がそんな現実を創り、私はそこで生きていました。当時は、そんな、疲れてしまった心身をいやすために、一瞬の安らぎを求めてそこへ行っていたんだと思います。

その頃の私と今の私と「くぐつ草」で一緒にお茶をしたいものです。そして、話を聞いてあげたいです。「大丈夫だよ(自分を変えれば)」と言ってあげたい。でも、当時の私ではわからないでしょう。ひたすら自分の外側に自分を支えてくれる人を、物事を探していましたから。苦しかったと思う。なんせ幻を追っているわけですから。よく、ここまで来たと思います。

で、茅ヶ崎にも喫茶店があるのだろうか、と調べたら「カフェムラサキ」(カフェだけど喫茶店1964創業)という喫茶店がありました。昔ながらのメニューの数々。古いけれどきれい(らしい)な店内。タバコ臭くもない。と口コミがあったので、今度行ってみようと思います。落ち着けて、ゆっくりできて、それなりに美味しい喫茶店が近くにあると、それもまたいい。

…なんか…かっこよかった…。
2024/03/05

先日、駅ビルのエレベーターの中でのこと。

エレベーターに乗っていたのは私、若い女性、80代くらいの男性の方の3人でした。

エレベーターが1階に着き、ドアが開くと若い女性が「開く」ボタンを押して「どうぞ」と男性の方に声をかけました。するとその男性も「開く」ボタンを押していて「どうぞ」と若い女性に言いました。その女性は「ありがとうございます」と言って先に出ていきました。

すると今度はその男性の方がボタンを押したまま「どうぞ」と私に言ってくださったのですが、お見受けしたところ、足元がおぼつかないようだったので「どうぞ、お先に」と言いました。するとその方が「いえ、いえ、どうぞ」と言います。私もまた「いえ、いえ、どうぞ」と。

するとその方が「いいえ、レディーファーストですから」とおっしゃいました。それを聞いて「では、お先に。ありがとうございました」と言って私が先に出ました。

高齢でいらっしゃるからか、もしかしたらどこかお体が悪いからか、足元が危なそうです。本当なら真っ先に出ていいのに。それよりも、ご自分の「レディーファースト」を貫きたかったのだろう…男性として、いくつになってもそうありたいと思っていらっしゃる方なのだろう…と勝手にですが、思いました。

…なんか…かっこよかった…。

自分が貫きたいもの。いくつになっても、どうであっても。それがあるということは自分をしゃきっとさせ、自分としてそこに在るのだと思います。そして、それは他人にも何かしらの影響を与えます。私が貫きたいものって?と道々考えながら帰りました。

二極の世界の限界
2024/03/04

「自分を卑下してはいけない」…と言われると「自分はすごいんだ」に傾いてしまいやすいかもしれないと思います。こっちでなければあっちと。これは両極を極端に動いている状態です。

一般的にはそういう在り方をしているし、勧められてもいます。「自分を卑下してはいけない。あなたはすごい存在なんですよ。だからもっと自信を持って」と。自分のことを知らない人がなんで「あなたはすごい存在なんですよ」と言えてしまうのだろうか…と天邪鬼な私は常々思ってしまいます。

私(道場)としては、ありたいところはそこではなく、その両極の真ん中にあります。その真ん中に自分はいて、両極に向かってその時必要なものを浸食していくような、両極からその時必要なものを選んでいくような、在り方をしていきたいです。

なぜならば、そこにはたくさんすぎる選択肢があるからです。そしてそれは全てが絶対ではなく、いつでもどこでも変更可能なものとして漂っているからです。そんな自由なところにいることを実感していくことをぜひ皆さんにも体験していただきたいと思います。

「卑下」なのか「すごい」のかだとこの2つのうちのどちらかになってしまいます。それしかない。しかしそこにあてはまらないことも多々あります。だからそこにいては窮屈です。

二極の世界の限界ってここなんだと思います。そこを離れてたくさんすぎる選択肢の真ん中に立つ。そこは新しい世界だと思います。

観音様
2024/03/03

私は特に仏教徒ではないけれど、誰の中にも「観音様」がいるということを知っています。

誰の中にもではなく誰もが「観音様」だということです。まさか?自分が?と思うかもしれませんが天の子どもとして生まれた私たちの本質はやはり「観音様」なんです。

「私」が本当の自分であり「私」=「観音様」。ただ、ほとんどの人はパターンが自分だと思っているので、そんなことを言おうものなら「なんて畏れ多いことを」「自分を何様だと思っているんだ」「根拠はあるのか」とそれぞれのパターンにひっかかり、ネガティブな感情が湧き出てくるかもしれません。でも、そういうあなたも「観音様」なんです。

で、その部分を思い出し、それを育て、それを使って生きていくためには、とにかくパターンと自分が違う存在であるということをしっかりと腑に落としていくしかありません。

何故、誰もが観音様なのかと言うと、お会いしてきた方々から、それぞれに悩みや問題を持っていながらも、時々、見え隠れするその下にある部分を見せてもらったからです。まだ自分でも気づいていないかもしれないその部分です。その部分の光は誰もが外に向かって放たれています。その光をパターンが隠してしまっています。

自分は観音様。だから決して自分を卑下してはいけないんです。本来の自分として存在していかれるように。

黒パターンは愛の使者
2024/03/02

愛に基づく行為が少しずつ増えていきますように。

誰かのことを心より思い(思いたくなり)その気持ちや言葉がその人に向けられるような…。それが、だんだんと特定の人ではない誰かに向けられるような…。

昨日書いたように、それが最初に行われるのがパターンへの語りかけです。自分の中の傷つき、助けを求めているパターンや激しい感情にまみれ、どうすることも自分ではできないパターンたち、その存在さえ無視されてしまうパターンたちへ、目を向けて、代わりに彼らの言いたいことを語ります。

私はこの行為こそが自分を愛するということだと思います。自分の内の弱いものたちを救済したい、というその思いとその行動、それは愛の行為です。その結果、パターンたちは落ち着き、落ち着いてくればいつもいつも騒ぐことも減り、今までそこに向けられていたエネルギーは、自然と自分の外にいる人達に向けられていきます。

そうやって、誰かを思い、何かを思い、行動することはきっとその人を助けると思いますし、それと同時に自分の内に大きな喜びを与えてくれます。誰かを、何かを助けることは、自分を助けることでもあるんだと思います。

というように、語りかけはただのワークではありません。その先にはまだ見ぬ世界が広がっていて、そこへ誘ってくれるものでもあるんです。これは、黒パターンが語りかけという愛の行為をさせてくれている。それにより、他人への愛の行為へも気づかせてくれる。黒パターンは愛の使者とも言えるのです。

彼らの存在が「私」を愛の人に育ててくれています。

苦しいときだけのワークではない
2024/03/01

道場での2大ワークは「語りかけ」と「白黒ワーク」です。このワークをどれだけ自分のものにし、それを使うことで、未来を創造していくことができる、というものです。

しかし、苦しいときだけやる、というような使い方をしてしまっていませんか?

苦しいときだけ、は、何か困ったことがあったときや、問題が起きたときや、感情が暴れるとき、物事がうまくいかないとき、など。そういうときは率先してワークをする(苦しいから)しかし、それが過ぎてしまえばそのパターンへ語りかけることも白黒ワークをちゃんと行って白を選ぶこともしなくなってしまう。従って新な行動もしない…従って新な意味づけが増えない。というようなことです。

これ、違います。ワークは苦しい時に自分を助けてくれるものではなく、王国を創り、そこに住むパターンたちを安心させるためのものです。

例えば、誰かに対してパターンがひっかかり、怒りやイライラの感情に飲み込まれて苦しい状態にある。だからワークをする。しかし、その相手が急に目の前からいなくなったら、もう、ひっかからないからワークは必要なくなる、というものです。

しかし、それは自分の内に起こっていることを理解していないということです。たとえ、今はその人がいなくなっても、いずれまた違う人で同じ状況がうまれます。またそのときにワークをしていけばいいということではないのです。問題はその根底にあるものをそのままにしてしまっているということです。

で、「私」はそれに気付かせようとしてまた違う人でのセッティングをします。その繰り返しにならないためには、今からやり続けるということです。今、ひっかかってはいなくても、以前は引っかかっていたパターンがそのままの状態でいるのだから、そこへワークをし続けるということです。

苦しい時だけ行うのは、その時にただ対処しているだけです。そして、それではパターンたちとの信頼関係も築いていかれません。信頼関係があるからこそパターンは「私」に本当のことを話してくれるんです。1日、1回でいいから、丁寧に集中してワークを行ってください。間違えても、もう、終わったからいいや、ひっかからないからいらいらしないからいいや、とは思わないようにしてください。そのパターンはずっとそこにいて、目を向けてもらえることを待っているのですから。これもひとつの、とても大きな愛の行為だと思います。

自分のできていないところ
2024/02/29

自分が努力して得てきた自分の成長が誰でもあるのに、何故か、人は自分ができていないところにばかり目を向けてしまいます。

できていないところばかりではなく、自分が得た、そして、できるようになった、以前とは違う部分にも、目を向けて欲しいと思います。

「成長しているでしょう?確実に。そこに目を向けてください」…と言っても「まだまだ」「それほどじゃない」「自分ではわからない」などと言われることもありますが、いやいや、私から見て確実に成長しています。

で、ここからが大事なことで、いくら私が「成長しているよ」と言っても、本人がそれを認めないと、その成長もあって無きものとなります。やっぱり、量子力学での話のように、自分の意識が向いたところにしかそれも確立しないわけですから。認めないと決めたらそうなります。

何故、認めないのだろうか。多分ではありますが、謙虚であるべき、とか、成長とはもっとすごいことを言う、とか、自分の思い描いている成長ではない、とか、もっと上の人がいるんだから喜んでいてはいけない、とか、勝って兜の尾を占めよ、とか、この自分が成長できているわけがない、なのか。成長をしっかりしたものにしたいのなら、そこへ善き、思いをぜひ向けてください。

で、私事ですが。私は結構自画自賛タイプです。自分に「いいね、いいねえーー、そのアイデア」とか「私って天才?」とか「さすがだよぉーー」とか「なかなかのもんだね」とかよく独り言で言っています。根拠なんて一切ないし、他人から見たら大したことではない事だとも思います。でも、いいんです。だって自分でそう思ったから自然とそう言っているのだから。

昔は、その傾向はなかったのですが、自己探求を始め、時間がたつうちに自画自賛が自然と出るようになり、私ってやっぱりこのキャラなんだと思いました。で、そのせいか、人から褒められなくても平気になりました。その分自分で褒めているからじゃないかと思います。

これ、いいですよ。誰の迷惑にもならないし、自分で自分を褒めるって他人に言われるよりも、的を得ているから、ドンピシャでその言葉がまた自分を労い、推し進める。そして、これも良いカードを選んでいることなので、量子はぞぞぞと動き、そのような状況がまたやってきたり、ひとつの形になったりもしていると思います。

だから、自分のできていないところばかりを見ていてはだめ。そのカードを選んだ結果にちゃんとなります。できていないところよりも先にできたところを見ましょう。そして自分を褒めましょう。誰も見ていないし、誰も聞いていないのだから。恥ずかしがらずに、自分の心のままに口に出してください。唯一、天は聞いてくれています。そして、一緒に喜んでくれていると感じます。

最初に決定したもの
2024/02/28

人は、まず、最初に決定したもので動いていくのではないだろうかと思います。

例えば、誰かが言った言葉を聞いて、最初に決定したものを前提にして言動を決めていくということです。

例えば「こうするといいと思うよ」と誰かが言ったときに「そうだね」と言いながらも心の中では「それは私には無理」「そうは言ってもねえーー」「いつも指図して嫌な人だ」「それはきっとできない、それは嫌い、それは苦手」などなど。

これはその人のパターンが反応してそこで決定してしまっているということです。最優先されて決定したもので、人は動いてしまうことが普通なのだと思います。パターンって、まず、最初のところに現れやすいです。ずっとそこは使ってきたところだから慣れているのだと思います。

ですから、もし、このような言動を自分がしていると察知したときには、すぐにでも、新たな、「私」はどうしたいのか、「私」はどうありたいのか、に沿って選び直すといいです。

「私には無理」→「「私」はどうありたいのか」→「無理と決めつけない自分でありたい。そうやって柔軟な自分でありたい」→「これを選ぶ、今、自分の心はこれに染まっている」(その感覚をしっかりとしみじみと実際味わって)というようにします。

こうしていくうちに、いかに最初にパターンが動くか、そして、いかにその場で決定しているかがよくわかります。よくわかれば自分でそれを変えていくことができます。

これはパターンで反応してはいけない、ということではなくて(この極端な捉え方もパターンです)反応しても、選びなおしていけばいいということです。ただ、そのためには自分を観察し、自分の内で起きていることを理解しなくてはなりません。だから日々、自分を見続けることが大事だということです。そして、その能力を上げていきます。上がれば上がるほどに自分をコントロールしていくことができます。

シンプルな仕組み
2024/02/27

ルイーズ・ヘイの動画を見ました(昔、スピリチュアルが好きだったころによく読んでいたような記憶が…)そこで話されていたことを抜粋します。

「・・・簡単だけどあまり理解されていないこと・・・それは考える事、話すことの1つ1つが自分の将来を創造しているということです。その考えや言葉が宇宙に届き、そのまま受け入れられその通りの経験がもたらされます。とてもシンプルな仕組みですがこれを理解している人は少なく、聞いたことがあったとしてもあまり大切なこととは思わないでしょう。あなたの人生を創造しているのはあなた自身です。このことを受け入れられれば、意図的に自分の人生を創造できるようになります。そして、自分が望まない現実を創造しているその原因にも気づけるようになります。これは普遍の真実ですが、なぜかこの20年位、宇宙は私たちにこのことを気づかせようと強く後押ししています。準備ができた全ての人達にです。」

ルイーズ・ヘイはこのシンプルな仕組みのことをずっと言い続けてきたと思います。そして、このことを言い続けている人は他にもたくさんいます。皆さん同じことを言い続けています。それは進歩していないと捉える人もいるかもしれませんが、その誰にでも使うことのできる基礎の部分を人はなかなか理解しようとしないから言い続けるのだと思います(そこの担当)ここを取り入れていけばいいのだから、と。

私も昔、このことを知ったときに、だったら言葉に気を付けよう、と思い、人の悪口や愚痴や問題、悩みは口にしない、と理解してそのようにしていた時がありました。

しかし、その結果、どんどん苦しくなり、問題も積み重なっていき、ただ、口にしないということじゃないんだなという事に気づきます。何が問題なのか。それらを口にしたくなる、何かが自分の中にあり、それを解決しないかぎりだめなんだという事に気づく。ここからパターンとの生活が始まるわけですが。

確かに、パターンをもう選びたくない、という在り方にシフトしていき、気が付けば、ギフトが与えられていた。それは今も続いていて、やはり、こういうことなのか、と思います。

カウンセラーとして、誰かの問題、悩みを聞き、解決を共に考えるのではなく、その人にこのことを教えればいいんだ、とあるときルイーズ・ヘイは気づいたのだそうです。シンプルなこの仕組みを教えればいいんだ、そしてその人が意図的にそれを使いこなしていかれるように、と。そんなカウセリングもあるということです。私もこちらのほうが好きです。

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