ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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昨日の続き
2024/10/29

昨日の続き。何かがない、は、何かがある。それは自分の成長を促し、可能性を拡げる自分の内に在る何か。ということでした。

で、これは、これがない。でも、おかげでこうできた、ということです。何かはないけれど、おかげでが在る。それに気付くことです。そして行動すること。

で、下北沢での話。ある日、店の近所にものすごくおしゃれなお店が出来ました。当時としては珍しい打ちっぱなしの、ロフトっぽい店でした。やはり洋服、アクセサリー、雑貨などを置いている店。そしてスタッフは男性3人。それもそれぞれかっこいい。上から下まで当時のおしゃれの最先端をいく服に身をつつみ、すきがない。ファッション雑誌から抜け出たような3人でした。彼らに会いたい女性のお客さんもどんどん増えていたようです。

近所だったのでだんだん話をするようになり、私と一緒に働いていた女の子がそのうちの一人を好きになり…とちょっとドラマっぽい日々がありました。

で、ある日、そのうちのひとりの男性と挨拶を交わしたときに「洋子さんって着ている服が変だよ。うちの店では皆言ってる」と言われました。しかし、そのときに、不快ではあったものの、自分が恥ずかしいとか、みっともない、とか、どうにかしなくてはとは思わなかった。なんか、それはそれ、という感じで当時は終わりました。

そして、今になってその時のことを思うと、店長の言葉に従い、自分なりに頑張って服を考え、生み出し、自分でやったことにあの時の私は満足していたからかもしれないと思いました。自分で、ひとりで、やったという満足感。そして、その行為自体が楽しかった。だから、自分のやったことに対して「変」と言われても落ち込むことがなかったんだろうと思います。その後も自分の路線でいきました(お金は相変わらずなかったし)

これはこの学びも一緒(…といつものフレーズ)私にやれやれと言われているうちはまだ満足感はないと思うし、第一楽しくない。しかし、自ら考え、自ら選んで、自ら動くことをこの学びで行うことで、いろんなことに気づいていくと思うんです。そうなってくると、その行為自体がおもしろく、楽しくなってくる。そして、そうしている自分への満足感というものが出てきます。

そうして気付けば自分の在り方が変わっている。そして、その新な在り方がまた量子を動かす。そうなると自然と自分をとりまく状況が変わる。結局、自分の毎日の思考、行動に満足する(もちろんパターンがではなく「私」が)という事だと思う。満足を感じる結果ではなくて、プロセス自体に満足しているかどうか。ここが大事なんだろうと思います。

だから、楽しいと思うことをやるということです。楽しくないことを〇〇のためにとやる必要は全くないです。そういう意味でもここでの学びを修行のようにしないということが大事です。修行は楽しくはないから。

「ない」は「ある」
2024/10/28

他人と自分を比べて、自分にはこれがない、自分はあの人のようにこれを持っていない、と思う時はあると思います。

しかし、何かがない、ということは、何かがあるということなんです。何かがある、というのは他人に勝つ何か、自信を持てる何か、ではなくて、内的な資質に関わるもの(結果、物も生まれる)です。

だから、自分にはあれがない、これがない、と、ない物事に注視するのではなく、在るものを見つけていかれるといいです(すぐにみつからなくても、セッティングされたり、あとからわかることもあります)

まず、この、これない、あれないでは、その意識が現実化していくように動きます。そして、ちゃんと「ない」状態になります。このこともよく考えます。

昔、私が体験したことです。29歳か30歳の頃、私は下北沢にある小さな洋服やで働いていました。一人住まいをしていて、ここでいただく給料は決して多くはなかったので、毎月、きちきちの生活をしていました。洋服やに勤めながら、お金がなくて服が買えなかった…これはまずい、と思いました。わずかな貯金から時々買ってはいましたが、皆のようには買えない。

このことを店長に話したとき「ようこちゃん、チャンスよ」と言われました。「お金がなくて洋服が買えないからこそ、自分が今持っているものをうまく組み合わせて着ることができる。これはおしゃれになれるチャンスよ」と。このままの言葉ではなかったと思いますが、このようなことを言われて、なんだか、妙に納得したのを覚えています。「いつでも好きなだけ服を買える人がおしゃれな人ではない」と言われました。

この時に服に対する考え方を一つ教わった気がします。おしゃれな人って流行のものをいつも着ている、毎日着るものを変えている、たくさん服を持っている、ということよりも、自分に合うものを知るということなんだろうと今は思います。今も残っている店長のこの言葉。

服がない、でも、持っているもので(時には買えるくらい安いもので)自分なりにいいと思うものを作ってみる、という、チャンス(機会)が私には在ったということです。お金があっていつでも好きなものを買える状態であったら、この機会を使うことはなかった=そこからは何も生まれなかった。そのために考え、下北沢中の(下北沢には安価なお店、古着やはたくさんあった)洋服やアクセサリーをほぼほぼ知ることもなかった。このときの行動力も、楽しさも、発見も、おしゃれな人と出会うこともなかった。

「ない」がこんなに豊かなことを与えてくれた「ある」だった。これは、この学びも同じです。他人と比べて、私はできてない、遅れている、だめだ、ではなく、在るもの(精神的に自分が成長できる、可能性を拡げるもの)を探すことです。必ずあるから。それは他人にはないものです。自分の心の中に在るそれを掘り起こしていきます。

こう、見てみると、他人と自分を比べて「ない、ない」と言うパターンが自分を大きくする機会を与えてくれているとも言えます。

大事なところ
2024/10/26

ココでの学びが目指しているものは、精神性と霊性の成長と進化です。

と言うと、えらく崇高な、真理に向かうための、特別なことのように思うかもしれません。しかし、そうではないんです。では、成長と進化をした暁には何が待っているのか?それは、今の(その時その時の)そのままのありのままの自分を信じ、自分をリードし、自分を愛せるようになる・・・ということが、です(これは、ゴールと言ってもいいのかもしれない)

そうやって自分を信じ、リードし、愛せるようになるためには、精神性と霊性(こちらはあちらにおまかせです)を上げていくことが必要になります。今の自分のそれではできないからです。この、とっても基本の部分を成就するためには、能力が必要になるんです。

今いる所での自分でできていれば、すでに幸せに、のびのびと、すっきりと生きているという結果を出しているはずです(こういう学びも必要ない状態)だから、ミームアップ、階段を上がる(そこで見つける新な意味づけ)次の領域へ行く、という事について、知識や情報を伝えるだけではなく(身につくように)具体的にやっています。今のそのままの自分を信じ、リードし、愛するようになっていくために、成長、進化を通して、新な能力を自分の中に育てていくということです。その能力が必須となります。だから成長してほしいし、進化してほしい。

間違えてはいけないのは、成長・進化すれば、違う自分になれるんじゃなくて、ネガティブなことが起こらなくなるんじゃなくて、納得できる自分になれるんじゃなくて、強く、ぶれない自分になれるんじゃなくて、他人から認められる自分になれるんじゃないということです。

ここを目指すと、修行のようになってしまいます。こうなるためにこれをやらなくてはいけない、大変だけどやらなくてはいけない、面倒だけど自分を成長(変容)させるためにやるしかない、というものではありません。どういう心持で取り組んでいるのかも反映されていきます。

そもそもそのままのありのままの自分を信じ、リードし、愛して生きるから、その人は自分を発揮できるのに、そこを変えようとしてしまうことに時間とエネルギーを使ってしまうので、自分を発揮できずに一生を終えます。そこよりも自分を変える方(自分の外)に向いているので。そこではもしかしたら自分にはふさわしくないものを自分が発揮するべきことと思っているかもしれません。

こう見てみると、成長・進化とはそもそもの在り方にかえる事とも言えます。これが私はしっくりきています。そもそも、その状態で生まれてきたのだから、そこに戻る努力をしていく。そうであれば、こうならなくては、こういう自分になるために、というところからは離れていかれるんじゃないかと思います。戻る、ということは戻る場所はすでにあるということですから。自分で気づいたこと、考えてわかったことのひとつひとつが戻る場所に近づいていると思うといいです。だから積極的に自分で考えてほしいです。

今日書いたこのことはとても大事なところです。わからないことがありましたら、また聞いてください。

いい人間関係
2024/10/25

「団地のふたり」というTV番組がおもしろい。

「50代、独身、幼なじみ。イラストレーターなのに現在はフリマアプリで生計を立てる桜井奈津子(なっちゃん)と、非常勤講師の仕事で日々ストレスを抱えている太田野枝(ノエチ)。生家の団地に戻ってきた2人の友情を描いた作品。2024年9月1日よりNHK BSでテレビドラマを放送中」(Wikipediaより)というものです。

私は、ふたりの女優さんが好きなので見ていました(小林聡美さんと小泉今日子さん)

そして、先日、この番組が人気があるらしいと聞きました。なんか、わかる気がします。私も見ながら微笑んでいる自分に気付き、ちょっとびっくりします。

団地に住む親友2人のまるで家族のような関係や、なっちゃん手づくりのご飯を食べるシーンや、団地に住んでいる人々との関係とそこに起こる人間ドラマ。

ちょっと昔の日本の生活っぽいものがただよい、それらに惹きつけられたり、憧れたりする人が多いのだと推測します。あまりに個人主義になってしまった近頃、もう手にすることのできないものがそこにはあり、温かい気持ちになります。(ものすごく嫌な人が出てこないところはやっぱりドラマだねえ、なんですが)

で、人っていい人間関係を体験したいんだと思いました。私が子供の頃はまだそういうものがあったと思うのですが、今や、そこは希薄です。人間関係を体験するより、いかに無駄なく、損なく、成果をあげるかのほうが大事になってしまった。たとえ、この主人公のふたりのように幼稚園からの幼馴染であったとしてもそれが続くということはきわめてまれです(…だからドラマなんだけど)

で、思った。道場での人間関係って大人が(もしかしたら子供も)忘れてしまった人間関係を体験しているんじゃないだろうかと。同じメンバーで何年も関わるわけですが、それは家族ではなく、職場の同僚や上司でもなく、いわゆる友達でもない。そして、そこでは、自他を知るために深い関わりを求められる。

で、いい人間関係って、嫌なことや、合わないことや、違いや、自分が努力することで築かれていくものだと思うんです。お互いに忍耐が必要。お互いに積極性が必要。そういうことを経て、今まで感じたことのない人間関係を体験することになるんだと思います。このドラマに出てくる人達のような。

それって、すごく尊いことだと私は思います。そしてとても稀なことだと思います。個人主義になったことの良さもありますが、なんだか、カラカラしたような関係が普通になっています。ここのバランスが悪い。人と共に生きる体験の場としてグループを大事にしてください。

この言葉
2024/10/23

「もしかしたら…〇〇と、もう、決めつけなくてもいいのかもしれない‥‥‥‥‥」という言葉。

暫くの間(また変わるので)これを白パターンの名前として使ってみてください、と伝えています。

この白パターンはどの黒パターンに対しても使えるはずです。黒パターンって思い込み、信じていること、決めつけていることなので。又、この言葉を自分のマントラにして、何度も、言うというのもすごくいいと思います。これができていると、何故だか、本当に、もう、そうじゃないのかも…と思う気持ちがわいてきます。

この、そうじゃないのかも、という気持ちになるというところが大事なところです。だって、そうじゃないからです。黒パターンは子供なので、自分が信じているものしか信じられないんです。それも、皆が正しいと思っていることを。だから、そうじゃない。

本来は自分でそれらに意味づけをして、自分のそれを創っていけばいいんです。それは、となりにいる人とは違うものかもしれません。似ていても全く同じではない。それが本来の在り方です。

この言葉を、上を向いて、ゆっくりと、言っていってください。広い空に向かって、宇宙にまで届くように。何かが心の中からほぐれていくような感じがするかもしれません。

イメージ
2024/10/22

カウンセリングを習っていた頃、先生からどんな人がカウンセラーに向くのか、という話を聞きました。

年代としては、50代から上で、あらゆる体験をしてきた人がいいということでした。

社会に出て働いたことがある、結婚したことがある、子供を産んで育てたことがある、離婚したことがある、不倫したことがある、病気やケガや事故で入院したことがある(できれば精神科に2回くらい入院したことがあるとよい)人から裏切られたり、いじめられたり、傷つけられたりしたことがある、そして自分も他人を傷つけ、いじめたことがある、喧嘩したことがある、夜遊びもした、ギャンブルもした、お金で苦労したことがある、両親が不仲であった、などなど、あらゆる苦労、悲しみ、怒り、憎しみ、をたくさん体験をしてきた人がカウンセラーには向いているとおっしゃっていました。

初めてそれを聞いたときに「そうなんですか?」と思ったことを覚えています。いやいや、カウンセラーになる人は品行方正、社会的にも、倫理的にも、人間的にも、生まれや学歴も、高い人…と思っていたので驚きました。先生はご自分の先生から教えていただいたのだそうです。

で、心当たりがけっこうある私だったので、だったら私もカウンセラーになれるのかなあ、と思ったのかもしれません(よく覚えていないけど。又これらのことはあくまでも大人になってからの話で、まだ庇護されて生きる子供に求めるものごとではもちろんありません)

・・・・というように、職業のイメージってあると思います。そして、そのイメージは意外と強固で、万人に共通してあります。そして、そのイメージの自分になろうとするような気がします。会社員はこんな感じ、教師はこんな感じ、医療関係者はこんな感じ、社長はこんな感じ、クリエイティブなことをやっている人はこんな感じ、主婦はこんな感じ、など。そこにもカウンセラーはこんな感じがあるわけです。

しかし、そのイメージというところをとっぱらってしまうと、そこには、その人がいる。生身のその人がいる。その生身のその人がその仕事をしている、というのが本来のものだと思います。生身のその人では頼りないという思いを持つ人もいる(もっとイメージ通りのカウンセラーがいい)し、生身だからこそ頼りがいがあるという人もいます。どっちが正しいのかではなく、そんなふうに人はいる。自分はどうありたいか。

頑張る
2024/10/21

頑張るということ。これがなかなか難しいと思う。

何が難しいのかと言うと、自分の精神性の成長も、今までの頑張るのやり方に固執してしまうから。それが頑張ることとして成立していて、そこで頑張りに対しての何かを手にする領域においてはその頑張るでいいのだと思います。

しかし、そこから離れて、違うところへ向かう(ということが精神性の成長)ときに言われるであろう、頑張る、はよくわからない頑張るだと思うんです。

クラスでも何度もでてきているブルース・リー先生の言葉「考えるな、感じろ!」も、感じろと言われているから感じようとすると思います。考えない、感じよう、感じよう、どんな感じ?何を感じているの?‥‥と頑張る。気づけばそこは今までの思考の世界です。

感じようとするいきみが、本来のところから離れていってしまう。じゃあ、それはどうするのか?というところですが、よく言われるのは頑張ることをやめる、ですが、私はそれは違うと思っている。何故かというと、そこは、頑張るのか、頑張らないのかのどっちかであり、頑張るそのものの変化がないからです。これは外側のところを変えているだけ。

では、何がある?例えば、今までの頑張るを使わないことを頑張る。

今まで学んできた、習ってきた、練習してきたものごとを集めたところにある頑張る、を見てみる。

頑張るという言葉に変わるものを自分が見つけてみる。そこにはその道を歩くために必要であろうエッセンスがわかっているからということがその言葉の裏にはある。

…って、やっぱりわからないーーーかもしれません。そのくらい新しいことってわけわかんないんです。でも、私はそれでいいと思っています。なんせ初めてのことだからです。

でも、やっていくうちに(自分が知りたいと思い続ければ)何かが見えてくるはずです。というか与えられる、と私は思っています。それがやってくるまで待っていればいいと私は思います。となると、待つ力が必要になります(もちろんやるべきことをやりながらの待つです)待てないというところがあればそれはパターンなのでケアをしてください。

新な頑張るはこうして待つ練習にもなる、そこに必要なエッセンスを見つける練習にもなる、総体的に自分自身や自分の人生を見る練習にもなる…きっともっとあるはず。というように、新な領域では、何かひとつを得るのではなく、広い範囲にわたって同時に得ていくものが在る事にも気づきます。

相性
2024/10/19

昨日は、足の指先に違和感があり、時々お世話になっている整形外科へ行きました(これは腰からきていると判明)

先生は変わらず「元気」でした。腰が痛くても、膝に水がたまっていても、患者さんより動きが遅くても、腰、痛てえんだよと言っていても…「元気」。そんな先生に会うとこちらも元気になります。

診察室に入り「おはようございます。お願いします」と私が言うと「おはーーっす。あのさあ、ちょっと先にお茶飲んでいい?」とおっしゃるので「どうぞ」と先生がお茶を飲むのを待つ。

「俺ってさ、トークドクターだからさ、喉かわいちゃうんだよ。ほら、治らないものってあるじゃん。特に年とると。そういう患者さんに、大丈夫だよーー。皆痛いから大丈夫。オレも痛いんだよ。一緒だよ。大丈夫、大丈夫と言って、少しほっとして帰してあげたいんだよ。だからずーーとしゃべるの。これさ、明石家さんまだったらきっともっとうまいんだよ。しゃーーないやろ、年なんやから…とか言っちゃったりしてさ。いや、俺だって骨折とかひびがはいっているときはちゃんと治療するよ」と、しゃべるしゃべる。

「私、先生のそういうところ、いいなあと思うんですよ。そう思っている患者さん、多いと思いますよ」と言うと「いや、いや〜でもさ、ちょっと安心させてあげたいんだよ。ところで何だっけ?」ということで本日の目的、骨中心の血液検査の結果。

骨的には食生活を褒められました。これからも今の食生活を続けるように、でも、もっといい状態にしようと欲張らないことと言われました。もっとよくしようではなく、ちょうどいいところが必要なんだそうです。なるほど、これ、全てに言える。

そして、ずっと高く、ずっと薬を飲むことを拒んできていた総コレステロール値が間違いじゃないかというくらい低くなっていました。水をよく飲むようになってから下がり始めてはいましたが、その比ではありませんでした。

何故?と考えた。で、この3ヶ月の食事だろうと思った(それ以前の水もあるだろう)今までの人生で初めて食べるものを制限したり、選んだリしながら過ごしてきた3ヶ月。面倒だなあと思うときもあったけれど、食べ物と体をこうして知ることは私にはよかったと思いました。

「またさあ、何かあったらいつでも来てよ。できることはやるからさ」という先生の言葉にまた元気をもらい帰ってきました。

…相性だなと思う。人と人が関わるって。相性がいいことで効果は倍増するのだろうと思いました。

人間とは何か
2024/10/17

「夜と霧」から私の感動は続いている。

これは‥‥私に新なものを見せようとしている、と思いました。でも、それは自分はレベルが高いからではなく、今の自分にそれが必要だから与えられているということです。レベルが高かったら与えられることはないでしょう。

今回はフランクル先生を通して、そこにあるものを学べと言われている気がします。

どういうところに私の感動はあるのか。それは「人の真価」についてです。本の中に幾度となく出てくるそれらについて。フランクル自身もそれを体験し、自分以外の人たちの中にもそれを見る。そのような人たちはごくわずかであったようですが、最後まで人間であることを捨てなかった人達です。

この悲惨な状況下であったからこそ、平和なときにはそこまで自分の本来の真価を高みに上げることが出来なかった人がここではそれが可能であったというところに、人間の偉大さと大きな希望を感じられ、それが私の感動となっています。

このあたりのところを私は学んでいかなくてはならないのだと思います。できないことをやっていくのが学びです(だからできること、得意なことだけをやっていてはいけないんです)そして、学ぶとは、知識を増やすことではなく、そこに基づく実践であるわけですから、きっとセッティングされることも起きてくるでしょう。私はそれに向き合う。

人間とは何か…。

以下「夜と霧」(新版)ヴィクトール・E・フランクル 著 池田香代子 訳 みすず書房 より

「たとえば、こんなことがあった。現場監督(つまり被収容者ではない)がある日、小さなパンをそっとくれたのだ。私は、それが、監督が自分の朝食から取り置いたものだという事を知っていた。あのとき、私に涙をぽろぽろこぼさせたのは、パンという物ではなかった。それは、あの時この男が私にしめした人間らしさだった。そしてパンを差し出しながら私にかけた人間らしい言葉、そして人間らしいまなざしだった‥‥。こうしたことから、私たちは学ぶのだ。」

…こうしたことから、私たちは学ぶのだ…はい。

そうではない世界にあるもの
2024/10/16

落ち着いて、あえてゆっくり、丁寧に、という物の考え方、捉え方。

それはだらだらといつまでも無意識で考え続けるのではなく、決められた短い時間でありながら丁寧にそれに向かう状態です。

で、ワークはそれぞれがそれに値すると思っています。語りかけも、白黒ワークも、ゆっくり行ってもせいぜい5分以内です。そこを落ち着いて、あえてゆっくりと、丁寧にやっていきます。

ゆっくり言う「そうだよね」。ゆっくり言う「もしかしたら…」。そう言うことで感じられるそこの世界は、きっと日常のものとは違うと、少しずつ感じられていくと思います(でも、感じようとしない)そして、ここには呼吸もつきもので、その力も借りてワークをより生き生きとしたものにしていきます。

息を吸いながら言う「そうだよね」。息を吐きながら言う「そうだよね」。どちらが正しいのかではなく、その違いを感じてみるといいと思います。それがわかると今日はどっちにしようかも選択できます。より生き生きとしたもの、フレッシュなものにしていくのに使えます。

こういうことも、落ち着いて、あえてゆっくり、丁寧に…という心があってこそのものです。

日々忙しさの中にいると全てをそのリズムで行うことが普通になってしまいます。しかし、そうではない世界があるということです。そして、これからの「道場」ではこのそうではない世界にあるものを見ていきます。

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