ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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手をかけられるようなそれへ・・・
2021/06/05

正しい思考、建設的な思考、理性的な思考、新な善き思考、などなどの言葉を今まで聞いてきました。言葉は違うものの、ここで言い表されていることは「私」の思い、ということだと思います。

大変な中にあっても、心を落ち着かせて、意識を今に持ってきて、よーーーーく感じてごらん、本当は(「私」)はどうしたがっているの?どうありたがっているの?というところに出てくるものです。

で、これを導き出すときに、例えば、瞑想を使ったり、誘導するワークを使ったり、イメージを持つことや、言葉を使ったり、熟考したり、とあります。これらも役に立ちますが、黒パターンを受け入れていけばいくほど、この「私」の思いというものがわかりやすくなると感じます。

パターンへ語りかけたり、白黒ワークをするのは「私」なのでそれを通してパターンを認めていくことが加速されます。こうして「私」をどんどん使うことで「私」自身の意図がよりクローズアップされていくのでしょう。

結局、パターンと共に生きるということは、ありのままの自分で生きるということで、ありのままとは、パターンにひっかかり、いろんな感情や感覚を感じながらもそれを否定することなく、それへの理解を持ち、それはそれとして置いといて(持ちながら)それでも「私」はそこでどうしたいのか?どうありたいのかをいつも選ぶことだと思います。

パターンへの共感や存在を認めるというところでとめてしまうのは気づきであり、その段階で終わりではなく、それを持ちながらも「私」として何を選択したいのか、を、決めていくこと、これ自体に学びがあると私は思います。

それは今のパターンを持っている自分をひとつ超えたものになるからです。自分がちょっと頑張ることで手をかけられるようなそれ、そこへ意識的に向かうことが学びだと思うんです。

学びには、努力がつきものだし、勇気が必要になるし、継続力も、行動力も必要になります。こうして鍛錬しながら、ちょっと手をかけられていた所へ自分の体を引き上げていくようなイメージです。クライミング。このくりかえしです。こうして自分のペースでひとりひとりが自分の山を目指しているのだと思います。

ポテチ
2021/06/04

駅ビルの入り口で、今、韓国物産展をやっています…とクライアントさんから教えてもらいました。そこのポテチがすごく美味しかったということだったので、昨日、それを買いました。

ここで行われる物産展には、北海道展、沖縄展、長野展、京都展、などなどありますが、今回の韓国展は人が集まり皆さん買っていました。特に若い女性が多かったです。物産展はだいたい年配〜高齢者の方が多いので、珍しいかも。

で、そのポテチ、食べてみたら美味しい。「HOT!」と書いてあったので辛いのだろうかと思いきや、スパイシーであり甘さがあり、辛さはほんのちょっと。

こ、こ、こ、これは・・・・・まずいなと思いました。というのも、私は美味しいと思うポテチはとまらなくなるからです。

とりあえず、5枚だけ食べよう、とお皿に出して食べる。しかし、あと3枚いいか、あと2枚いいか、となり結局全部食べて終了となりやすいんです(今回は強い意志で止めました)

・・・・・・ポテチの魔力・・・・・・

昔、この先生はすごい(当時はこの人は本物と思っていた)と信じていたスピ系の方の講座に出ていたとき、その先生が「ポテチやコーラを美味しいと感じる人は霊性が低く、正しい感知ができていないということです。なんであんなものが美味しいのか、私にはまったくわかりません。かえって気持ちが悪くなりますよねえええ?」と皆に話されました。それに対して「そうそう」と(あたかも、当然ですよ、先生、ポテチとコーラなんて…というように)大きくうなずていた自分がいました。

しかし、あれからずいぶん経ったにもかかわらず、ポテチ美味しいと思うんです。そして、時々無性に食べたくなります。それが体にとって良くないと言われていても。そういうときは食べます。

昨日全部食べなかったので、今日のおやつもポテチを食べようと思うだけでもなんかうれしくなります。

痛くなってもいい
2021/06/03

きのう、ふっと、思い出したことがありました。

それは、もうずいぶん前のことですが、都内で整体院をやられている男性の方からメールをいただいたことでした。もう、その方のお名前も忘れてしまっています。

日記を時々読んでいただいているようで、ある日の日記に「共感できます」ということでメールをくださりました。

お礼の返信をしてから、その方のHPを見てみました。治療院なので、毎日、腰痛や膝痛や肩こりや首の痛みや腕の痛みのある患者さんをみていらっしゃいます。まだお若い方ですが、勉強熱心な方なんだなあという印象を受けました。

そして、具体的な施術について書かれている終わりのところに「痛くなってもいい」ということが書かれていたのです。これがとてもびっくりしたと同時に、いわゆる「治す」というところが持つ限界を知っているのかも(これはカウンセリングもそうです)しれない、ということを思いました。

で、このことを思いだしたきのう「恐れなくていい」(痛みを怖がらなくていい)ということがここにはあると思えました。「痛くなってはいけない」「絶対痛くなりたくない」がかえって心身を緊張させ、硬直させてしまいます。こうあらねば、は、つらいんです。

「痛くなってもいい」というのは、そのときはそのとき。痛くてつらくなったらまた先生の所へいけばいいさ。自分でそのときには痛みが緩和されるように何かしらをすればいいさ。だから痛くなってもいい、という心身の在り方で過ごすことになると思います。

こうなったらどうしよう、こうならないようにしよう、というところで自分の世界や生き方を狭めてしまい、自分という個体をひたすら守る生き方をしている人が多いと思います。これを良しとする人もいます。でも、私は、この先生のように「痛くなってもいい」、それよりも「痛くなってはいけない」のほうがつらい、ということをベースに持っているほうが楽です。そうやって自分をのびのびとさせてあげたいです。

心もそうですね。「痛くなってもいい」=「パターンが暴走してもいい」「パターンが悲しんでもいい」そのときには「私」が施術してあげればいいのだから・・・と言えます。

気楽に自己探求
2021/06/02

「自己探求は自分への理解と許しを与えていくものです。」と昨日書きました。これを自分のものにしていってほしい。

自分への理解と許し、それができないから多くの人が苦しみ、悩んでいるのだと思います。

・・・・こうあらねば・・・・が自分を縛ります。

特に真面目で、自分の成長を願い、他人のためになろうと志の高い人がここに陥りやすいです。一生懸命でありすぎてしまうのかもしれません。

自己探求により、強さと誰に対しても優しさをあらわし、何があってもでんとかまえて、いつも知的な話ができる人になるのではないんです。自己探求により、弱い今のままの自分を受け入れられる強さを身に着け、人を嫌ったり、嫌われたりすることで優しさというものの質を変え、何かが起きるたびに、傷ついたり、あわてたり、落ち込んだりすることで、これでもいいんだとでんと構えられるようになり、自分にはまだまだわかっていない領域があるということがわかることで自分が話せる事しか話せないんだという現実を知ります。こういうことが自己探求です。えらく普通のことです。

ただ、今の自分を素直に認め、今の自分の力量を知り、だったらこれは今はまだ選べない、だったらこれは選べる、挑戦したいので選ぶ、と自分が決められるところで決める、という事をくりかえしていくことだけです。その視点を持っていくと、自分の変化というところへの視線も弱まっていきます。ただひたすら今の自分しかみえてこないからです。

そうやって今の自分への理解と許しを与えてきます。

私自身も自己探求中です。ですから、嫌になることも、怒ることも、落ち込むことも、色々あります。その都度その都度そんな自分を見て、パターンに語りかけ、白も考えます。この時点で今の自分に無理をさせないものを選びます。逃げればいいさ、という白パターンや、なんとなーーく離れていこうという白パターンを選ぶこともあります。いつも挑戦ではないんです。そうやっていくうちに、そこにある意味や、結果、自分の挑戦になっていたということも今までありました。

昨日も言ったように修行チック(痛みや重圧をともなうもの)にならないようにしていってください。気楽に自己探求。

今の自分の力量でいい
2021/06/01

・・・自分に決して無理をさせない・・・これを再度確認し、自分に与えて(許して)あげてください。

道場で学んでいると、いつも白パターンを選ばなくてはいけない、強くなくてはならない、成長しなくては、優しい人にならなくては、ブレない人でいなくては、落ち着いている人にならなくては、ワークやお祈りを欠かしてはいけない…と思いがちです。知らず知らずのうちになんかそういうイメージを持ってしまう。

でーーーー、ここが難しいところでもあるのですが。もちろんあるものごとを手にするためには意識的に行うこと(ある意味半強制的に)が必要になってきます。今日はやりたくないからいいや、なんかのらないからいいや、では手にすることは無理です。かといって、先ほどのような、こうであらねば、こうならなくては、と自分を追い立ててそれを行うのもまた違います。

結局、今の自分がこれならできるけど、これはちょっと今は無理、とか、ちょっときついけど頑張ればやれそう、とか、白を選びたいけれど今はまだ黒でいたいのでそれを選ぶ、とか、と、いう見極めをしていくことになります。そこが大事だと思います。自分にちょうどよいものを与えてあげるというところです。それは本人にしかわかりません。

例えば、私はカウンセラーなので、どんなに自分に合わない人も、苦手な人も見ていくべきということがカウンセラーのイメージとしてあります。好き嫌い言ってはいけない。相手の方は苦しんでいるのだから引き受けるべき。プロであるとはそういうこと。というイメージで行うと私は病気になるだろうと予測できます。だから私の場合かなりそこはゆるく、甘く自分にしています。私のことを嫌いな人もいるように自分にもそれはある。これもパターンだよね、とは言えますが、今の自分ではそれを超えるだけの力量がないということです。それがわかれば自分をそれほど追い込むことはありません。

修行チックにしないでください。修行になると苦しくなります。自己探求は自分への理解と許しを与えていくものです。そして、今の力量の自分でいいと「私」はいつも言っています。たくさん自分を愛してあげてください。

大元とつながっているパイプ
2021/05/31

2日間の茅ヶ崎クラスも無事に終わりました。2日目のお部屋からは富士山が見えて、良い気分でした。

今回も皆で一緒に考察し、新に気づいたことや、シェアしあったことなど盛りだくさんでした。

再確認したこととしては、誰も私たちを創り、送り出した「大元」(「神」)と切り離されている人はひとりもいないということでした。

自分に大変なことが起きると、なぜ、自分だけこんなひどい目にあうんだ、神なんていない、と思うかもしれません。隣の人はあんなにうまくいっている(ように見えているだけなんだけど)のに、なんで自分は。神は私のことなんて愛していないのだろうと思うかもしれません。

しかし、ぶちっと「大元」から生まれ、ちゃんとその時点で「大元」の普遍的資質を与えられて、出発し、地球に生まれてきてからも自分と「大元」はパイプでつながっています。

その証拠に、つらいとき、悲しいとき、そこに起きていることに飲み込まれてしまっても、意識的にそこからちょっとだけ視線をはずして、大元的視点で見てみると今起きていることの意味や、これからの自分のために本当は何を選ぶべきなのか、がうっすらとわかると思います。これは、難しいことではなくて、誰でも本当はわかっていることだと私は思います。

そこには、自分が勇気をもって歩いていかれる、指標があります。とてもとてもつらいはずなのに、これからの指標がそこにある。そして、それを選べるのかどうかもわからないのに、そこには今までの自分ではないこれからの自分というものも感じられて、ああ、本当は、自分はこちらを選んでいきたいんだなあとほのかに思えるのではないかと思います。これは、大元とつながっているパイプがあるからこそだと思います。

もし、このパイプがなければ、ただひとり、何を指標にしていいのかもわからず、ただただパターンに飲み込まれ、苦しみの中をただようようになってしまうのではないかと思います。

大丈夫、誰もが大元のパイプの中で生きている。だから自分は一人ではないんです。いつも大元が一緒にいてくれます。そして、いつもそこに歩むべき道をてらしてくれています。そして、それに気づくためには一見嫌なことが起きないと、人間はわからないのだと思います。

もともと持たされている
2021/05/27

「自分と他人を比べても仕方ない」「自分と他人を比べる必要がない」と、よく言われます。それは頭ではわかっている。皆そう言うし、実際比べようにも、一人一人違うので比べることも厳密にはできない。そんなことはわかっている、でも、でも、比べてしまうと言う人がほとんどだと思います。

で、私は、比べるなというほうが無理だろうと思います。なぜならば、まず、私たちは大元からぶちっと離れて誕生しますが、その時点ではそれぞれであってもワンネスの意識です。ところがその後に、人は「人間」としての要素を注入される(持たされる)のだそうです。

これはキリスト教神秘主義の先生から教わったことですが、人間のイデアというフィルターを通ることで、人間的要素を獲得するのだそうです。それにより「善と悪」「私とあなた」といった相対的な個的認識の意識を持った人間となるのだそうです。おまけに、送り出される先は、この人間としての意識を持った私たちが順応しやすいような、2極の世界です。

ですから、ごくごく自然に子供のときから私たちは自分と他人を意識(区別)するように与えられて、ここへきているのです。

こうであれば、比較は普通のこととして日常的に繰り返されます。私たち人間にとってはこれが自然なことなんです。

しかし、ぶちっと大元から離れてきた自分としてやりたいことは大元の意思を思い出し、そこから生まれた本当の自分を思い出し、この地上で生きていくことです。そして、その体験を持って大元のところへ帰ることです。

そのためには、この、比較により生み出されるネガティブな感情や感覚、そしてその結果につきまとう苦しさを通して学ぶしかありません。苦しいということは、何か選んでいるものごとが自分にとって違うということです。一体、何が違うのか?というところから自分を見ていく、自分に向かうことを通して、だんだんと、比較することは本質的なことではないのだ(自分と他人は比べられないという領域ではなく)と気づきます。この時点で、自然とそこから離れていきます。

だから、変な言い方ですが、比較するべきではない、ではなくて、したいときはたくさんして、やりきってしまうということが比較を終わらせるひとつだと思います。

そもそも、そのようにプログラミングされ、そのような世界に送り出されているのだから、まあ、これ、あってあたりまえだよな…くらいに思っていただけるといいと思います。

今日から2日間、茅ヶ崎クラスです。今回はこの比較についてもやりたいです。のんびりとじっくりとやってまいります。

なんかわかるような気がする
2021/05/26

子供の頃からお世話になっていた男性の方が87歳の誕生日をむかえられました。

東京にその方は一人で住んでいるので、本当は会ってお祝いをしたかったのですが、今は会わないほうがいいね、ということで電話で話をしました。

たった一人で住んでいるので「毎日の食事や掃除や洗濯はどうしているの?」と聞いたら「全部ひとりでやっている」と答えが返ってきました。糖尿病があるので少し前までは、糖尿病用のお弁当をたのんでいたのだそうですが、あまりに不味くて、もう、先もそんなにないのだから好きなものを食べようと決めたのだそうです。近所にはお惣菜やさんも、お店もあるので、そこで食べたいものを買ってきたり、外食したり、元気なときには自分で作って食べることもしていると言っていました。

「施設入ろうとか、ヘルパーさん頼もうとかはないの?」と聞くと「全くない」ということでした。自分ひとりで自由気ままにいたいのでしょう。

「でも、時々嫌になる」と言うので、何が嫌なのか聞くと「いつまで生きるのだろうということが…」と言っていました。なんかわかるような気がしました。私もすでにうっすらとそれを感じるときがあります。

以前、人から聞いた話ですが、ある高齢な方に「どうぞお元気で長生きしてくださいね」と言ったところ、その方が「人の気も知らないで…」と返したのだそうです。それを聞いたときも、なんかわかるような気がすると思いました。

高齢になるにつれて、このような、生きることへの負担というのか、それでも生きなくてはいけない義務というのか、それがつらくなるということがあるような気がします。もちろん寿命がくるまで人は生き続けるのですが、そこまでに味わう気持ちというものも、また、魂のレッスンなのでしょうか。

「ところでいくつになった?」と聞かれ「65歳になりました」と言うと「体に気を付けて元気でいなさいよ」と言われました。ありがたかったです。いつか、すっきりと会える日が来ることを願って。そのときには「上鰻を食べようね」と約束しました。それを今回のお誕生日のプレゼントにしようと思います。

これからもそう
2021/05/25

もっと人生を、自分を信じていい、と思います。

人生を、自分を信じるというのは、人生が何かをしてくれることを信じるということではなく、自分はそれなりの人間なんだと信じることではなく、一言で言えば「塞翁が馬」人生も自分も塞翁が馬。

人生は半分が苦労で半分が喜びであるならば悪いことも良いことも次々とやってきます。さすがに人生100年のうちの前半50年は悪いことだけ、残りの50年は良いことだけ、という人はいないと思います。自分も半分が黒で半分が白を持つものであれば、次々と交互にそれは現れてきます。

こんなに大変なことは今までなかったということも「塞翁が馬」と思いながら、そのときにはある意味諦めながら、受け入れながら(抵抗しないで)でも、そのときに自分で選んだそれでいくしかありません。この「それでいくしかない」という覚悟というのか、腹を決めるというのか(でも、意固地ではないようなもの)というところに、どうも、動く何かがあるようです。

そうやって流れをせきとめることなく、それと一緒にいる時も過ごしてみるという感じでしょうか。そして転じていくそれ。あのときにあれがあったからこうなった、そうか、こうなる展開だったのか、あれがなければ気づくことなくずっと以前のままだった、よかったよかった、うれしい、助かった、いい体験だった、などなど、それを体験されている方は多いと思います。

そして、また、そこから、何か悪いこと(あくまでもパターンにとってですが…)が起きることもあると思う。これを繰り返すうちに人は自分専用のやり方を見つけていくのではないだろうかと思います。そして、この力こそが最も欲しいものだと思います。

こうして人生を、自分を信じていくようになるのだと思います。大丈夫、どうにかなる、大丈夫、転じていく。量子力学的にも、あくまでも状態があるだけで、それはまだ決定されているのではないということだそうです。

よくよく今までの自分の人生と自分をみてみてください。ちゃんと流れていることがわかると思います。今までもそうだったのだからこれからもそうです。

2つの視点を持つ
2021/05/23

先日日記に書いたように、大きな、普遍的な目で自分と自分の人生を見てみると、今まで見ていたものごととは違うように、それが見えるということが起きてきます。

誰でも、今の自分に起きていることをとても近いところで見ているので、そのことだけしか見えず、視野が狭まっている状態です。

しかし「私」という普遍的な存在が自分に起きていることを見るときには、そこで起きていることの意味をみつけたり、それをこれから先どのようにしていけば、良い体験につながるのだろうか、と、停滞しない新しい考え方を導き出すことができます。

細かく繊細に、今、目の前にあることをしっかり見つめていくことも大事ですが、このようにそこだけに視点を持つ在り方だけではなく、大きな目(大元から生まれた自分としての)でそれをみるという視点も同時に持つといいです。

この、反対にあるものを同時に持つということ、これは難しいだろうと思われるかもしれませんが、右と左という反対のものを私たちは常に同時に持っています。体の手足も、目も耳もそうですね。時には右を使い、時には左を使い、時には両方を使う、そんな(高度な)ことを普通にやっています。心の中も黒パターンと白パターンという反対にあるものも常に両方もちながら、どちらかを選んで使っています。どちらかを選んでいるときに反対になるものが消えたりはしていません。常に同時にパターンもあります。

ですから、今起きている物事を見るときにも、近くで見ることと、遠くからみることを意識的にやってみるといいです。同時に持つということはがぜん選択肢が増えるということです。意識的に交互に今起きていることにそれを使ってみるとその幅を感じられると思います。

ダライ・ラマだったと思うのですが「自分が苦しみの中にあるときには世界に目を向けなさい。そこには自分よりも苦しみの中にいる人たちがいるから」と言っていました。これもひとつの大きな目であり、自分だけに向けていた視点を外へ向けることで、煮詰まっていたものをクールダウンさせ、なおかつ、現実を見る機会を与えられます。それにより少し自分の中に空間が生まれます。

そして、ここに書いた2つの視点。これも使えば、より、自分を安定させていかれるのではないかと思います。

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