ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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お正月も終わり…
2025/01/04

今日は4日。今日から仕事はじめです。

今年も…「私」に恥じない、「私」が納得する仕事を(在り方、生き方を)していきます。

今回の年末年始もいつもどおり「三大見たい番組」を見て過ごしました。

まずは、年末に行われる「SASUKE」。5時間にもわたる番組なので、ファンのサスケ君が出る後半だけ見ればいいね、と毎年言うわりにはしっかり見てしまいます。で、やっぱりおもしろかった。好きだな、これ。

次は年が明けて「ウィーン・フィル・ニューイヤーコンサート」です。今回の指揮者はリッカルド・ムーティ氏でした。ウィンナ・ワルツを中心に、優雅で、華やかで、軽やかな曲をたくさん聞くことができました。私は何と言っても「美しく青きドナウ」が好きで、毎回、特に楽しみにしています。そしてその「ドナウ」、今まで聞いたことのないドナウでした。指揮者ムーティさんの「ドナウ」だった。とてもドラマチックでダイナミックでした。ムーティさんはイタリアの方なので、その血の内に宿る熱が、今まで聞いたことのない「ドナウ」になったのだろうかと思いました。胸がいっぱいになりました。

そして、2日、3日は箱根駅伝。これも長丁場なので、見たり見なかったりを繰り返しつつ、やっぱり見ている。特に茅ヶ崎の海岸線を俯瞰で撮ったシーンが毎回あり、この、わずかな時間のシーンを見ることが私には、駅伝でもあります。王者、青山学院大、再び優勝かあ。ちょっとドラマが欲しいです。

そして、昨日は年に数度の出勤日でした。どこへ?「こまめ」へ。で、行きの電車の中でのこと。4人かけの座席に一人で座っていた私の斜め向かいに「失礼します」と言って大きな荷物と長い棒状のカバーのかかったものを持った女性が座りました。2人だけだったので「それ(長い棒状のもの)は何なんですか?」と聞いてみました。すると「これ、駅伝の応援の旗なんです」とおっしゃいました。「応援されてきたんですか?おつかれさまでした。どちらの学校の?」と聞くと「東京国際大学です。まだまだ知られていない学校で埼玉にあるんです。上位に入るというよりも、シード権がとれるかどうかというところなんです」と話してくださいました。

「シード権持っているかいないかで相当変わりますよねえ」といかにもわかっている口調で話す私。それに対して「そうなんです。シード権がとれない選手たちのくやしさは痛いほどわかります」と話してくださりました。その後、東京国際大学は8位で入りシード権獲得と知り、その方に「おめでとうございますーー」と心の中で言いました。

「こまめ」勤務も終わり、こうして私のお正月は終わったのです。なんか、今年はいい感じでいきそう(皆さんが…です)。ですので、私もこの感覚を持って、善きナビとしての質を上げていきます。

2025年
2025/01/01

明けましておめでとうございます。

2025年が皆様にとって素晴らしい一年となりますようお祈りしております。

「魂の道場」は引き続き本当の自分として生きていく道を歩んでいく方々のお手伝いをしてまいります。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

感謝を込めて…
2024/12/31

今日は2024年最後の日。とーーーーっても早かった。本当に早かった1年でした。

皆さま、1年間、ありがとうございました。

龍の年、ということできりりとスタートした今年でしたが、あっという間に春になり、あの暑い暑い長い夏を乗り切り、秋を少しの間満喫し、急に寒くなったり、変に暖かかったりという冬になり、クリスマスかあ、と言っている間にこの日を迎えていた、という感じです。

個人的には、おかげさまで良い年でした。自分の感覚を信じていいということを体験できた年でした。龍の年に見合うほどダイナミックな動きではなかったものの、自分としては、世界が広がった気がしています。世界が広がることで、可能性も広がる気がしているので、来年が楽しみでもあります。

今日は、ぜひ、お祈りの中で、1年無事に生かしていただけたことを感謝されるといいです。それぞれに(私も)大変なことや、悩みや、体調不良や、家族の問題や、あったことと思います。その最中にあるとそのことだけにどうしても意識がいってしまいます。しかし、そこから離れて自分の1年を見てみると、どうにかやってこられていたこと、大病せずに心身も動いてくれていたこと、ピンチをまぬがれていたこと、などが見えると思います。そして、楽しかったこと、嬉しかったこと、自分を褒めてあげたいようなことなどもあったと思います。そこを振り返り、生きてこられたことに感謝をしましょう。

自分一人で生きているのではなく、人智を超えた何かとともにいつも生きているのが私たちです。それは、最も、仲良くしたい相手です。そこに意識を向け、感謝の気持ちを伝えて、どうぞ良い大晦日をお送りください。

3夜連続
2024/12/30

TVで「ALWAYS三丁目の夕日」を3夜連続で見ました。(2005年版、2007年版、2012年版)

昭和30年代の東京下町が舞台です。ミニチュアやCGを駆使して再現された街並みと、そこに繰り広げられるイベントと、そこで生活する人々の姿がリアルに表現されていました。

見ているうちになんとも懐かしく、見覚えのあるものもたくさん出て来て、そうそう、そうだったよね、これ、うちにもあった、と、心は当時に帰っているようでした。確かに、私も、あのような街並みの中で、子供時代を送っていたわけです。

テレビが初めてうちに来た日の嬉しさは格別でした。知り合いの家のカラーテレビを見たときには、ひときわ驚きでした。洗濯機で母がロールを回して洗濯物を絞るのを見て、洗濯機はこんなすごいことができるんだと思いました。

映画の中にもありましたが、子供たちが家の手伝いをしていることが当時は普通にありました。母から「お手伝いおねがい」と言われ、お豆腐の販売に来るおじさんのところへ、ボールを持ってお豆腐を買いに行ったり、個人商店に買い物に行ったり、食事の用意やかたづけを手伝ったり。一緒に遊ぶ子たちの中には、小さな子供をおんぶして(妹や弟なんだね)皆と遊んでいる子もいました。今と比べると、とても人間臭い時代だったと思います。手間がかかることがたくさんあったけれど、それがあたりまえだったので、面倒臭いという事も無かったような気がします。

でも、今の私は「面倒くさいーーー」と思うんです。当時に比べてこんなに全てが便利になっているのにです。これは人にとって面倒なことを極力はぶいて、より、効率よく、楽に、というところに重きを置きすぎてしまった社会に慣れてしまったからだろうと思います。人間は楽をもっともっとと求めてしまうんでしょう。

そして、当時の両親のこと、住んでいた社宅のことも思い出しました。実際の生活では、色々と問題も、困難なこともあったと思うのですが、私のこの時代のことも、あの映画のように、懐かしさと、あたたかさで満たされていた、という思い出にしておこうと思いました。

良き思い出にしておく…そのためにもインナーチャイルドに会いにいくことやその時に自分で作ってしまったパターンへの語りかけが必要なんだと思います。インナーチャイルドが今の「私」に守られていることを感じ取れれば、落ち着いたその子としてそこに生きるからです。

そうであれば自然と、自分が生きてきた過去の思い出はよきものとなっていきます。

「今」を大事に
2024/12/29

未来が良くなるように、未来で苦労しないでいられるように、未来幸せになれるように…という「今」を生きてはいけないんです。

それは「今」が嫌だから、苦しいから、幸せを感じられないと思っているからそう願うのだと思います。起きていくことは「今」の自分が発しているものなので、その思いをもって未来を願っても、それは違うほうへ行ってしまいます。

この「今」が嫌で苦しくて幸せを感じられない自分がこの先それを逆転させることができるのでしょうか。今、嫌だ、苦しい、幸せじゃない、という自分が考え、選択し、行うそのための何かも同じくそういうものであることは確かです。

で、視点を変えていかなくてはいけないんです。見るべきは未来ではなく「今」です。今の自分が(たくさんのパターンを持っている自分が)今というこの瞬間を、この時を、よきものとして感じ(よきものって、楽だ、自由だじゃないですよ。では何?)幸せを感じていること(幸せも、何も問題がない、苦しみがないことじゃないですよ。どういうこと?)です。ここを作っていくことです。

全て「今」の自分がカギになります。

そうは言っても今がつらいんです、とパターンは言う。それがあるのならワークをしてください。

視点を過去と未来から「今」にかえていく。「今」を大事に。この瞬間を大事に。

獲得した能力
2024/12/27

白黒ワークを自分で行うとき、まず、白の部屋が言う言葉は「もしかしたら…〇〇と、もう、決めつけなくてもいいのかもしれない・・・・・・」です。そして、そのあと、白の部屋はどんな言葉を言っているのでしょうか。

ということを今年の後半あたりからはじめましたが、ここも、皆さん、いい感じでやれているようでよかったです。

そこに出てくる言葉は自分が今までに自分の努力で獲得したもの(能力)です。ここは人によって色々だし、その白パターンの内容によっても変わります。この、自分の努力で獲得した能力を自分で探して、それを言葉にする。文章にする(優しさを醸し出すような文章に)。

例えば、自分で探した獲得した能力が「理解」だとする。それをどのように言葉にするのか。「少しずつ理解する力がついてきたでしょう?」「理解をするという体験をたくさんしたね」「理解できる自分になれていることをこの頃は感じているでしょう?」「理解するということでその物事をより深く知るようになってきているよね」「理解をする楽しさを味わっているね」「ずっと苦手だった理解を少しずつ自分のものにしてきたと思わない?」などなどなど。

言葉にする、というのは難しいと言われますが(それもパターン)本当は楽しい作業です。自分は作家くらいに思って作ってみてください。そして、優しさでそれを語るときには自分は表現者だと思って声やそのトーンやリズムや間を作ってみてください。人は皆、クリエイターだから。アーチストだから。こうして自分の作るものはひとつひとつが作品なんです。

自分には獲得した能力はない、それがみつからない、感じられない、という方は、よーく自分を観察してください。ないということはないです。必ず何かあります。それでもない、と言っているのは、獲得した能力とはもっとこういうもの、と決めつけているパターンが「ない」と言っています。パターンが欲しがっている能力がないと言っているだけです。そのあたりもよく見てみてください。マントラと白黒ワークを何度もやって自分のものにしてください。

目が欲しがる
2024/12/26

日々の買い物でおせわになった駅近ショッピングストア。いよいよ閉店(来年1月5日)の時がせまってきました。

日に日に店内の商品が減っていきがらんとしてきています。45年間営業していたそうで。私が23歳のときからです。お世話になりました、おつかれさまでした、しかない。それでも食料品はお正月に向けての商品が並び、これが最後なんだと思うと寂しさがあります。店の大きさといい、置いてあるものといい、私にとってはちょうどよかったんです。

で、次はどこで買い物をするのか…という課題があります。家の近くの小規模なスーパーマーケットと個人商店を中心に、あとは中央公園近くの大型ショッピングストアです。今はほぼ毎日公園に行っているので、練習のつもりでその新なショッピングストアを下見したり、買い物をしたりしながら自分を慣らしています。

このストアの食料品売り場がとにかく広い。最初からここで買い物をしていればこの広さにも慣れるのでしょうが、そうではないので、はあーーー、ほおーーーと言いながらぐるぐるとまわっています。食品の種類も多く、海外からの輸入品などもあり見たことのないものに目移りしてしまいます。

特にパンコーナー。ここは「誘惑のエリア」と呼んでいます。その数、いったいどれくらいあるのだろう。これは初めて見た、これおいしそう、これも食べてみたい、あれも食べてみたい、これ買っていこう、と、みごとに誘惑のえじきになっています。気づいたらパンばかり買ってしまうので、このエリアは頻繁に寄ることはやめました。

で、思った。私には多くありすぎるのはよくないと。少ない物の中から選ぶというほうが自分には合っていて、それで満足する人間なんだろうと。それって毎日同じものを食べていてもいいということです。本来そっちなのに、実際多くの物を見てしまうと、あれもこれもと欲しくなってしまいます。まさに目が欲しいんです。

しかし、これって自分の問題。そういうたくさんの物の中にあっても在りたい自分(自分の身体にとって、とか、出費としてどう?とか、本当に食べたいのか?とか)であればいいわけです。誘惑に負けずに頑張ろう。

イエスが悪魔の甘く、優しい誘惑に「サタンよ、しりぞけ」と言ったように。とても同列できるものではないですが、身近なところでやっていこうと思いました。そんな練習をさせてくれるここに感謝しつつ日々実践です。

年内に確認
2024/12/25

この頃思うのは、物事を、自他を見る時に、全体を見るということです。

ほっておくと、自然とそれの一部だけしか見ていなくて、一部しか見ていないということは、それに縛られている、ということになります。かと言って、それが間違っているのではないんです。一部だけに集中することが必要なときももちろんあります。

それもできていて、しかし、そこだけではなく、全体として見る能力もつけていきたいところです。

そういうことのひとつとして「…ということは?」という自分への問いがあります。いろんなパターンを持つ自分ですが、それを全体的に見たときに、今の自分がどうなのかを知ることができます。

そして、それに対して自分はどうありたいのか、というところで自分の進む方向がわかります。進む方向がわかればあとは歩み続けるだけです。

今の自分はどうなのか、そして、自分はどうありたいのか。そうであるならば、何をするべきなのか、何をやめるべきなのかもわかると思います。この2つの目を持つ。ただ、正直に。

こうして見てみると、結局、自分なんだと思うと思います。今の自分を、自分のありたい自分へ、自分で育て、運んでいく。そこには自分しかいなくて、そこにどんな意思があってもよくて。それを選ぶのも自分。

私が運ぶこともできないし、他人が自分を助けてくれるということもありません。生まれるときもひとり、死ぬときもひとり、その2つの事実が、人の持つ姿をあらわしていると私は思えてならないのです。そのルールに気づいているかどうかというところでもあります。

今年もあと少し。年内に、今の自分はどうなのか、そして、自分はどうありたいのか、を、確認してみてください。

マントラ
2024/12/24

「もしかしたら…〇〇と、もう、決めつけなくてもいいのかもしれない・・・・・・・」という白パターンを自分のマントラとして、たくさん言ってみてください、とお勧めしていますが、皆さん、やられているようでよかったです。

この言葉を言い続けていくと、自然と「本当に、もう、いいかもーーー」という気持ちになっていきます。または「そうか―――決めつけていただけだったんだ。それが真実ではなかったんだ」ということに気づいたり、「決めつけているのはパターンなんだ、そこに「私」の想いはないのか」と知ることになったり、そのように言うと体の力が抜けていくのがわかる、なんだか解き放たれたような気分になる、もう、いいか、もう、いいんだ、もう、しがみつかなくていいんだ、などなど、お聞きします。私もそう思います。

たったこれだけの言葉なのに、この言葉の言霊が自分に返ってきているんですね。これをただの言葉として言うのではなく、感じながらゆっくり言ってみたり、目をつぶって言ってみたり、椅子にゆったり座り空をみあげて言ってみたり、お風呂につかりながら、ベッドに横になりながら(ほとんど寝てしまいますが)散歩しながら、家事の合間に、などなど色々とやってみてください。

体の力が抜けていく、というのは心身にとってもよいことなので、仕事の合間や、年末の忙しい時期を過ごすのにもいいと思います。忙しいと体は緊張するのでこのマントラでそれを解放してあげよう。

こうして、自分で自分をコントロールしていかれるという体験はとてもよいものだし、この力が抜けていく感覚は、自分の持っているいろんな執着を手放していく感覚にも似ています。執着を手放していくって、こんなふうに力が抜けるんだな、ということも感じられると思います。ぜひ、続けてみてください。

募金箱へ
2024/12/22

神は自分では体験できないから、自分のかわりに人間を生み出し、送り出し、そのひとりひとりが体験したことを持って帰ってきてもらう…という話を聞いたことがあります。こうして神自身がその体験を自分に取り入れ、自分を大きくしている(育てている)というものでした。物語としてもおもしろいと思いました。

で、もし、そうであるならば、私たちが一人一人で体験することは全て神を育てているということです。善悪の判断なく、どんな体験もそれに貢献しているということです。それを魂という器に入れて私たちは神の元へ帰り、それを神は吸収していると思うと、誰一人として無駄な人はいず、どんな体験も貴重なものであると言えます。

あの人はすごい、とか、あの人は特別とか、人は判断しますが、神にはその判断はないということです。自分はだめだ、と思うような体験も、自分はすごいと思うような体験も体験のひとつとして同じように扱われる。この話は本当のような気がします。

先日、駅構内で「年末助け合い募金」が行われていました。高校生が10人ほど両わきに並んで「募金をお願いします〜」と言っています。そこで、少しではありましたが募金箱に入れました。お財布からお金を出し、それをにぎりしめて、一人の高校生の女の子の募金箱へそれを入れたわけですが、その行為までの間が今までにないものとなったことを感じました。

そこへ歩みよりながら、募金箱を持っている女の子と目が合って、私も彼女も同時に微笑んだ。まるで昔からの知り合いのように。慣れ親しんでいる者たちのように。彼女は腕を拡げて私を迎い入れているイメージ、私はその気持ちに応えるイメージで、募金箱へお金を入れました。一瞬のことであり、たったそれだけのことが私にとって大切なものに感じられました。この間が長かったんです。いい瞬間だった。そして今でもその時の感覚は残っていて、反芻しています。

この一瞬の体験とそこで持った感情や感覚も私は持って帰るのでしょう。そして彼女もそこで感じ得たものを持って帰る。このような体験を通して、皆がここに送り出されてきた同士であることがわかります。人はひとりひとり違うけれど、やっぱり根底のところでは繋がっている。皆が自分の課題を持って地球に生まれた同士なんだ、とあらためて思います。そして誰もが神から遣わされて来ている存在です。

そんな小さな存在である私たちひとりひとりが一つのピースとして宇宙を構成している、このことを人は無限だというのではないかと思いました。

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