ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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心も断捨離
2021/07/20

自分が生まれてから今までに起きたことを時間をかけてゆっくり思い出していく修行(ワーク)があるようです。自分の振り返りのようなものでしょうか。

その起きたことを思い出すときに、感情を入れないで、ただ、思い出すというのがキーなのだそうです。実際やってみると、多くの場合、その起きたことを思い出すと同時に感情や感覚が一緒にあらわれてきます。あのときにあんなことを言われた、やられた、と思いだすと同時に当時の悔しさや、悲しみや、怖さも思い出されてしまうのです。起きたことだけを思い出すことがとても難しいと、その修行を行った人が話しているのを聞きました。

それを聞きながら、私(きっと皆さんも)は自然とそれができるようになっていたと気づきました。今まで生きてきて本当につらかったこと、悲しかったこと、嬉しかったことも、そのときにはそこにまつわる感情や感覚は確かにあったのですが。そして、自分に向き合うことを知らなかったときにはそれは思い出すたびに傷ついたり、憂鬱になったり、怖さや悲しみをともなっていたのですが。

自分に向き合う修練により、起きたことをただ、起きたこととして捉えるようになっていたんだなと。多くの場合、感情、感覚が自分だと思っています。ですからある出来事を思い出せば、あのときの自分=そのときの感情、感覚も思い出します。

しかし、道場では、感情、感覚は「私」ではないが大前提としてあるので(その在り方と感覚を修練するので)自然と、思い出と感情・感覚は切り離されていくのです。いいとか悪いではなくて。修練の力です。

そして、この、出来事と感情・感覚を切り離してみていく目を育てることで、そこには、自然と良いこと、悪いことのジャッジが薄れていきます。それは「出来事」として捉えられていき、現実にあったこととして捉えられていきます。

こういうと「それはあまりにドライで悲しく思う」という方もいるかもしれませんが、それはライトであると言えます。そしてライトであるから先に進めます(持ち物が少ないから)起きたことを感情と感覚でいっぱいにしてしまうと、そこには重さがあるので、そこにひっぱられて先へ進むことは難しいです。

楽しかったこと、うれしかったことは大切な思いでだから…という方もいます。でも、それも重くしないということもできます。

こうしながら「ただ、あるもの」「ただあったこと」としてコンパクトに心にしまうことができます。心の断捨離です。物だけではなく心も断捨離して、軽やかに生きていくこともいいと思います。

再度読む
2021/07/19

先日、大笑いしたくて買った本「こう見えて元タカラジェンヌです」天真みちる著。日記にも書いたように、笑えました…しかし後半は笑いだけではすまされないほどの…という内容でした。

なんだか、読み落としているものがあるように思えて、私にはめずらしく再度読んでみました。正直、エンターテイメント本なので、そこまで読み込まなくてもいいはずなのに。なんなんだろう、なんなんだろう、私は何を読み上げたいのか。

で、わかったことは天真さんが舞台人でありながら、どちらかというと自分への否定感や、ダメ感、自信のなさ、不器用さを持った人であったと言う部分だったのだと思いました。そこをちゃんと感じてみたくて、再度読みとなりました。

例えば、3演目ある小劇場での配役について、3演目に自分の名前がなかったという体験を正直に書いています。

『私は、どの作品にも出演者として選ばれなかったのだ。宝塚音楽学校に落ちた時以来の、膝から崩れ落ちるような衝撃を受けた。妙に心臓がドキドキしている。同期の「やった!入った!」と喜ぶ声が聞こえる。誰が入って、誰が落ちたのか。自分より下級生も入っているのに、私は入らなかったのか。ショックと悲しみと恥ずかしさで早くこの場から消えてなくなりたかった。明日からも公演が続くことが苦しすぎる。行きたくない・・・・・。それまでの自分の配役なんて、何も関係なかったのだ。劇団の上層部の方に私という人間は必要とされていない。というより認知されていない。次の日の公演から、なんとか気持ちを切替えて臨もうと思っていても「自分は選抜落ちした人間なんだ」という思いが纏わりついて、楽しく公演することが出来なくなった。お客様はまだこのことを知らない人もいるはずなのに、この世の全員が自分を必要としていないと思いこんでうまく笑うことが出来なくなった』(本書 より)

これは特別なことではなく誰の人生でもこのような体験はあるのではないかと思います。周りの人たちはうまくいっている、認められている、幸せそうに見える、評価されている。それなのに自分は必要とされていない、選ばれてはいないという気持ち。世界中から無視され、はじかれてしまっているような気持ち。そんなどん底を味わうような体験を誰でも、どこかでしてきているのではないでしょうか。

「それは舞台という、そういうものとは無縁だろうと思われている私でも一緒だよ…」と天真さんが開示し、勇気を与えてくれています。

これはどの分野においてもあることだし、日々の生活自体がそういうものでもあります。そこでドーーンと落ち込む。それでいい。でも、きっと浮上する。そして浮上してきた自分は以前の自分とは違い、優しさと強さを蓄えていると思うのです。こうして人は生きていくのだと思います。

可愛い声で・・・・・
2021/07/18

先日、電車の中でのことです。

私の横に4、5歳くらいの男の子が座りました。そしてその男の子の前にお母さんが立ちました(しかし…今のお母さんたちってきれいですね。私が子供の頃のお母さんたちっておばさんでしたが、今のお母さんたちってお姉さんです)その親子の会話が聞こえてきました。これから2人で、男の子の友達の家に行くようです。

お母さんが「〇〇君に会うのひさしぶりだね?」と言うと男の子は「うん」と言っています。「〇〇君はいろんなおもちゃをいっぱい持っているから、貸してもらおうね」と話しています。それに対して男の子は「うん・・・・でも、〇〇君が嫌って言ったら?」と言います。「貸してって言えば、〇〇君は優しいから貸してくれるよ」とお母さん。男の子はまた聞きます「でも、嫌って言ったら?」と。するとお母さんが「そういうときは可愛く、貸して…と言えば貸してくれるのよ」と答えました。男の子は「可愛くってどういうふうに?」と聞きます。「にっこり笑って、可愛い声で、貸・し・て…(と本当に可愛い声で)って言うの」というと男の子はお母さんのマネをして「(可愛い声で)貸・し・て…」と言いました。お母さんは「そう、そう、上手、上手。そう言えば嫌って言われないよ」と話しました・・・とさ。

子供を育てたこともない私が言うのもなんですが、ええーーそうなんですか?にっこり笑って、可愛い声で・・・ってそう教えてしまっていいのでしょうか?と思いました。子供は素直なので、このやり方をこれからも使うんじゃないだろうか?と考えてしまいました。

じゃあ、私がもしお母さん(じゃないか、おばあちゃん)だったら?子供に「でも、〇〇君が嫌って言ったら?」と聞かれたらなんて応えるのだろう?「そーーだなーーーー、そのとき考えようね」と言うのかな。そのときに〇〇君は嫌と言わないかもしれないし、もし、言ったとして、そのときの状況もあるだろうし、このおもちゃは嫌だけどこれならいいということかもしれないし、そのときにならないとわからないので「そのとき考えようね」だなと。

人は誰かに嫌われたり、はじかれたりすることは普通にあります。そして自分も同じくらい誰かを嫌ったり、はじいたりすることも普通にあります。その2つを体験することで、人の痛みがわかったり、自分のことがわかったりしていきます。

そういう貴重な体験を、うまいやり方で、スルーしていくということは、人の本質を活かせない生き方になっていってしまうのではないかと思います。体験からしかわからないことが本質を活かしていきます。それはきっと子供でも同じなのだと思います。いや、子供だからこそ純粋にそうさせてあげて、大人はそこを見守りながら時にフォローなのだと思う。

このお母さんだけじゃない、自分のパターンを正しいことだと思って他人にそれを伝えてしまう、ということは誰でもがやっていること。私も反省。

ざわざわ世界から離れる
2021/07/17

「気象庁は「関東甲信・東北南部・東北北部が梅雨明けしたとみられる」と発表しました。東北北部では四国、近畿、東海より早い梅雨明けとなるのは24年ぶりのことです。」(tenki.jp)という昨日の記事。

いよいよこれから暑くなりますね。この暑さにもうマスクは無理。というか危ないです。私は外を歩くときにはマスクをしないで、駅構内や店舗に入ると同時につけています(一応、マナー)こうしてつけっぱなしにしないことだけでも違う気がします。

先日、前から来た女性がマスクを2枚つけていて、真っ赤な顔をしていました。何故に?2枚?…すごく危ない。熱中症になります。マスクはお互いに気をつけましょう。

今にある、こと、を感じて生きていくと、世間のざわざわに飲み込まれることなくいられる、というか、世間とは違うところで生きていることを実感します。多くの人は世間のざわざわが真実だと思っていて、そこにいることが現実だと思って、そこからは逃れられないと信じています。

確かにそういう現実はあるのですが、自分という意識がそこにいたいのか、それとも違うところで生きたいのかを決めることで、そこだけではないことがわかります。

ざわざわの世界は、恐怖と不安をベースに創られているので、そういう情報や、それを信じている人たちでいっぱいです。その人たちのエネルギーにより、その世界はよりざわざわしていき、その中でいかにリスクを負うことなく、生き残っていくかが人々の課題になります。

それを望む人達はそれはそれでいいわけです。それを可哀そうとか、レベルが…とかということでは全くありません。しかし、それは自分には必要ない、「私」にふさわしくない、と思って違うところで生きることも選んでいいわけです。

そのときのキーが(私としては)今にある、という感覚です。これってなんか崇高さを感じるかもしれませんが、悟りの境地とかではないですよ。ただ、今にある感覚です。

例えば、今、こうして日記を書いていますね。このときにこう書いたらすごいと思われるとか、こんなことを書いたらジャッジされるというような未来を期待したり、怖がったりすることへ意識がいくことなく、ただ、ひたすら今書いているという状態です。同じように今掃除している、ご飯を食べている、横になっている、TVを見ている、ということが存在しているところ。その中で1日を終え、今日も無事に1日を過ごしたな、ありがたいな、私、十分だな、とそのときに心が言う。

もちろん明日のセッションの用意をするときには明日お会いする人を考えるので、未来へ意識が向いているのですが、でも、用意するということだけをやっている。それに慣れてくると自然とざわざわの世界から遠ざかっていくためか、ざわざわ世界が遠くに感じられます。

・・・・・接点がないような感じです・・・・・

自分が決めていいということ。そうやって生きていいということ。

衝動に突き動かされて
2021/07/16

昨日で、大好きだった「ソーイング・ビー 」が終わってしまった(引き続き次が始まるといいのだけれど)服が縫えるって憧れです。

昔、30代の頃だったか、こういうスカートが欲しいなあと思ったことがあり、それを作ったということがありました。伸縮性のある生地を買い(紺色だった)型紙なしの、目分量の、そして、なんとなく感で作りました。ただ、布を筒に縫って、上のウエスト部分はゴム。そして裾の部分にも軽く細いゴムを入れて足首くらいまでの長さにして。これが自分ではとてもお気に入りで(まわりの評判は「?」でしたが、変人の叔父だけは「おまえ、いいなあそれ」と言ってくれました)調子をこいて色違いでもう1枚作りました。自分が思い描くものを自分が作って着るということを初めて楽しんだ出来事でした。

それ以来、服を縫うということはありませんでしたが、ソーイング・ビーを見ていてそのときの「こういうのを作りたい」というとても素直な「衝動」を思いだしました。そう、その衝動に駆り立てられて、私はいろんなものを自己流で作ったことも思い出しました。

高校生の頃に自分の狭い部屋にとても大きな木がほしくて(本物を買うだけのお金はなかった)大きな木の絵を描いて、それを壁一面に張り付けたことがありました。こうして私は、自分の部屋を森のようにしていきます。いつか大人になったら本物の森の中に住みたいと思っていました(どういうわけか海になってしまいましたが)

ちょっとだけ陶芸を習ったこともありましたが、そのときも、ただ、ハート型の器が欲しいと思い、それを作りたくて習いました。基礎が全くできない私を見かねて、先生が手伝ってくださり、思い描くハート型の器ができて、とてもうれしかったです。

小学生の頃の夏休みの作品を作る宿題も、とても深い色の湖のある小道を作りたくて、湖の部分に鏡をしいて、その上に青い色のセロファンをしいて完成させたのですが、不安定な下地のため運ぶのが大変だったことも。

全てそこには素直な「衝動」がありました(本を書いたのも衝動でしたね)

しかし、今は全くそれがないということに気づきました。これはショックでした。いつからこんなにおとなしくなってしまったのでしょうか。「衝動」と共に生きていきたい。それが私を活かす力になっていることは間違いないと思います。

自分が全てを選んでいる
2021/07/15

自分が全てを選んでいるということ。

今の自分自身、今の自分の状況、自分の周り、今の自分の心身。全ては自分が選んでいるということ。これを言うと抵抗感や怒りを感じる人もいるかもしれません。「誰が好き好んでこんな状態を選ぶか」と思うかも。

こうなってしまったのは、コロナのせい、社会のせい、誰かのせい、家族のせい、夫、妻のせい、恋人のせいだと思うかもしれません。そこが違っていたら(パターンの理想通りであれば)きっと自分は満足して居られたはずなのに・・・と。誰だって満足して生きたいと思うはずだと。

でも、自分で選んでいるものがそうでないのだから、今そうなっているということです。どうありたいのか、どう生きたいのか、誠実に自分をみつめ、考え(理性的に)選択して、試し、行動し、新なものを自分が選ぶしかありません。

コロナコロナと大変ですが、コロナが収束したとしても、コロナのせいにしていた人たちはまた次なるものを受け取ることになります。〇〇のせい、はきっとコロナが始まる前から使っていたのだと思います。使わないことを選択してきた人たちは、コロナはコロナであるだけです。

そして、この〇〇のせい、としているときって、自分のパターンを隠している(隠していることにも気づかないんですが)ときでもあります。パターンを見るのがイヤというパターンが〇〇のせいにしたがります。そうすれば自分を知らないですむし、自分の責任のものごとであることがわかってしまうと自分では対処できないとそのパターンは思っているからです。

そして、ここで生きている人が圧倒的に多いので、それはごくごく普通のことになり、皆もそうだ、とか、皆も同じことを言っているというところでますます大きくなっていきます。でも、全て自分が選んで自分の中で自分が創って、展開されていることです。そして創るためには選ばなくてはならないので、全ては自分が選んでいるということになります(ここでの自分ってパターンです)

これが正しいとか間違っているということではなくて、どうありたいのか、そのためにどれを選ぶのか、というところでよく考えてみるといいと思います。

白パターンを選ぶように…
2021/07/14

「伊藤さん、ツーブロックにしませんかあ?」と、カットにいくたびに美容師さんに言われていました。

「毛量があるし(…と言われながらも近頃、細毛で薄毛になっている)クセがあるし、いらない部分は刈ってしまって、楽ですよーー」と。

確かに、若い子たちのそれを見ると可愛い。しかし、私はどうか?可愛くはないだろう。ということでお断りしていたのですが、先日、下方を刈ってもらいました。その上に髪がかぶるので、以前と変わりないかんじですが、なんということでしょう、軽いし、涼しい。

帰るときには「次回はもう少し刈りあげます」と言って笑われました。「でも・・・・この白髪、やっぱり染めようかな・・・・」と言うと「何言ってんですか、今まで貫いてきたのですから貫かないと。貫いてください」と言われました(変わらず商売っ気がない)

「だったらいっそのこと金髪にしようかな」と言うと「あ〜〜そうですよ、いっそ金髪いいですよ、でも、薄毛を感じているのなら金髪は地肌によくないのでやめたほうがいいです。だったらメッシュ入れるのはどうですか?あれなら地肌は痛めないので」と言われ「そうかあ、メッシュかあ。それもいいな」とこれからの楽しみができました。

本当は、ベリーショートにあこがれています。しかし、一気には勇気がいる。もし、失敗してもいずれ伸びてくるからいいんだけど、その間、憂鬱かも。だから、刈り上げたり、ちょっと切ったりしながら徐々にそっちへ向かうようにしていこうと思います。

ちょうど白パターンを選ぶときのように。今の自分に合うところのものを選びながら目指すところへいく。私はびびりなので、こうして少しずつ少しずついくのが合っているのだろうと思いました。

「洋子さんって白パターンを作るのうまいですよね」と言われることがありますが、それはきっとびびりだから(笑)。一気にいく白パターンを選べるほどの勇気や体力がないのだと思います。

それは中途半端感もあるけれど、私には合っているのだと思いました。だから知らず知らずのうちにこのやり方をあちこちで使っているのだと思いました。

受け入れる
2021/07/13

ストレスが一切ないことを望むことは無理です。

他人がいるかぎり(それは家族でも)生きているかぎり。それがわかるのには結構な時間がかかると思います。自分が感じているストレスを解消させるためにどうにかしよう、と色々と誰もが試みるからです。

それを繰り返していくうちに、どこかで諦めていく。ストレスは消せるものではないことを明らかにしていく。ああ、もう、解消するのって無理なんだなって。もちろん解消できたものごとはそれでいいですが、また違うストレスとなるものごとが必ずやってきます。いつまでもそれと闘って生きるのはしんどい。

そこで、人の精神性にはそこを生き抜くための力が用意されています。それは起きたことを「受け入れる」という能力です。よく考えてみると、起きたことを全部受け入れられればストレスっておきないと思いませんか?起きたことに対して抵抗し、受け入れたくない、これでは嫌だ、と思うとそれはストレスに変わります。

受け入れがたいことはたくさんあります。でも、いずれ人は受け入れていかねばならないようになります。なぜならば「受け入れる」というところに魂の学びがあるからです。そして「受け入れる」ということが心を自由に解放していく最も最強のものであることも人はもともと知っています。だから自然とそちらへ動く。

自分の意思で何かをつかんでいく、手に入れていく、ということも人はやります。それは自分の夢をかなえることであったり、希望を持つことです。それはまた別なこととしてあります。しかし、そういう人にもストレスはつきものなんです。夢や希望とは別に抵抗したくなるものごとが目の前にやってきます。ですから自分の夢をかなえ、希望を持って生きている人はストレスがない人ではないということです。

で「受け入れる」なんですが、この能力を育てていくということ、これは自分に向き合っている人たちは少しずつ育てていかれていると私は思っています。多くの人が最も嫌うネガティブな感情、感覚に対してそれを受け入れるということをすでにやっているので、それは自分の心の中だけにはとどまらず、自分に起きるものごとに対しても同じように受け入れていく力とその感覚を養っていっているはずです。

「受け入れる」は人類共通の課題です。

おとぼけ
2021/07/12

7月の盛岡・・・・7月だから真夏だろうとなぜだか勝手に思い込んでいたのですが(それも自分が思い描いている真夏)そうかあ、真夏じゃないんだ、と盛岡駅に着いたときに気づきました。

なぜ、こんなに通っているのに、いつもこうなのだろうと思う。学習していないということですな。

で、昨日、トミーと夜ご飯を食べながら、話は私のおとぼけ話になりました。新幹線の中でトイレに行き、帰ってきて自分の席に座ったと同時にごくごくごくごく普通にシートベルトをさがしているんです。あれ?どこ?シートベルト…と。

ここで今自分のいるところが新幹線だか飛行機だかわかっていないんです。というより、トイレに行って帰ってきたら、シートベルトと思っているのかもしれません。このときの脳の状態がどうなのかわかりませんが、ちゃんと機能していないのは確か。まわりに人がいなくてよかったですが、あれを周りから見たら何してんだと思うはずです。

岩手クラスが終わって皆との夜ご飯は100%と言っていいほどいつもの焼肉屋さんに連れていっていただいています。とにかく美味しい。今回はめずらしく牛タンが食べたくて食べましたがこれもカルビに負けず劣らずの美味さでした。

で、このお店のトイレに行ったとき(私、よくトイレいきますね)そこのトイレが沖縄でよくいくお店のトイレと似ているせいか、ふと、あれ?私、今どっちにいるんだっけ?と思うことがあります。沖縄でもそれがあります。

これはホテルの廊下を部屋に向かって歩いているときもあります。あれ?私今どこにいるんだっけ?と。この場合は、今まで行って馴染んでいるところも入るので、岩手、沖縄、苫小牧、山形と混じっています。

このような体験をした当初の頃は、私、大丈夫だろうか?と不安になりましたが、今は、ちょっとだけこの誤作動を楽しんでいるところもあります。その一瞬感じる確かではないところにいる感覚、これはこれでいいなと思ったりしています。

感覚を好きにさせているみたいな、遊ばせているみたいな。断定することから自由とか。それに、どっちに今いるのかわからなくても、トイレから出て、そこにいる皆の顔を見て、ああ、こっちだったもありだな、と思ったりもする。これがいよいよ「私は誰?」となったときは危ういですが。

トミーが慰めるつもりでいってくれたのかどうかわかりませんが「もともとがおとぼけだったから、その年にしてはまだいいほうだと思うよ」と言ってくれたので、そのまま単純にうけとって、ああ、よかったということで話は終わりました。

本当に私はおとぼけなんです。子供の頃から。それでもこうして生きていられる。それは、おとぼけだからこそだったかもしれません。そう考えると、その人その人に与えられている個性はその人を守り、生かしてくれていたのかもしれません。だとしたら、自分の個性に感謝です。

自分は想像以上にすごい存在
2021/07/07

この世にある全ての事象は、本来、意味がない状態で存在している。それに対して自分でそれへの意味づけをしている。というのは中立ワーク、意味づけワークというものなのですが。

このワークはおもしろいです。特にグループで行うと人数分の意味づけが出てくるので、そのおもしろさがあります。どれが正解というものではないので、その人その人が今考えている、思っている、印象、体験してきたことをその事象に対して出していくので、いろんなものが出てきます。

そして、それはどの領域から出ているのかというのもよくわかるもので、この領域を上げていくことで(自分という意識がどこに住んでいて、何を体験したかによって)出てくる意味づけというものが今までとは違うものになっていきます。このおもしろさが一番なんだろうと思います。

人の精神性ってすごいなと思うのは、まだ自分が体験していないことからの意味づけであっても、誰かが今までとは違う意味づけを出したときに「ああ、そうか」と思えるということです。人はそれをどこかで知っていて、それが「ああ、そうか」になるのだと思います。それはまだまだあいまいで、言われてみればなんとなくそうだと納得できるもので、という状態だと思うのですが、知っていなければそういうことも起こらないはずです。

ここから見えてくることは、自分は、想像以上にすごい存在なんだということです。自分はすでに知っているんです。なんせ、大元からぷちっと生まれた存在ですから。あらゆる体験を今までにしていきている存在ですから。

今日はこれから盛岡へ行ってきます。今回も皆で集まり、開催できることに感謝して、今回も共に楽しく学びたいと思います。

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