ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ

対照的な…
2024/12/21

昨日書いた「もがく」このことから思い出したシーンがありました。

昔、TVで見た片岡鶴太郎さんの姿です。もう、ずいぶん前の番組だったので、もしかしたら片岡さんが絵を描きはじめたころのものだったかも。片岡さんが中国の山奥に住んでいる水墨画絵師に会いにいく、というものでした。

山道を登り、その方の住む住居(アトリエ)に到着します。その方は一人でそこに住み、長い間、絵を描き続けている方でした。そして、そこに現れた日本人の片岡さんを歓迎し、一緒に絵を描きましょうと誘い、それぞれが絵を描きはじめます。

この時に見た、絵を描いている片岡さんの姿がまさに「もがいている」形相でした。歯をくいしばり、苦しさをにじませながら、一心不乱に用紙に向かう。自分の内のこわばりや、こだわりを解き放ちたいという思いがあるのだろうかということを感じました。

その反対に、絵師は、何の力みもなく、思いのままに描いている。軽く、遊ぶように。その対照的な姿が印象的でした。で、絵師の姿には、余裕があり、安定感があるので、見ている人にとっては安心感があります。しかし、片岡さんのその形相に、それは感じられない。しかし、私はとても好感と共感を感じて見ていたことを覚えています。きっと描くことはその時片岡さんにとってはもがいて描くくらい必死なことだったんだと思います。

その心がそのまま表れていた形相。その姿は余裕のある、仙人のような絵師の姿よりも、心に響き、いいなあと思ったのです。師もきっと昔はもがいてもがいて絵を描いていらしたのだと思います。そして、今の状態になっていかれたのだと思います。

その時のお二人の姿はそれぞれが自分を偽らない姿。今の自分のままに現れていて、この感じは、私にとって、とても尊いものです。ずっと、大事にしていきたいものです。だから私ももがきながらいこうと思う。

もがきながら…
2024/12/20

「私」で生きたいのか「パターン」で生きたいのか。

結局は、そのどちらかしかない。両方を同時に使って…ということはできません。

そのことはわかっているし、もちろん本当の自分「私」で生きたい、でも、今そうではない、というのはパターンを選んでいるということです。無意識でパターンを選んでしまうのは、そのほうがパターンとしては楽だからです。パターンは(子供なのに)巧妙なので、それがあたかも真実のように考えさせたりもします。

又、「私」で生きるようになると楽になると思うかもしれませんが、パターンのいう楽(いわゆる楽ってこういうことと思っている楽)にはなりません。何かを手放したり、諦めたり、より意志力や継続力を求められるし、思慮深くなっていくこと、決断力や勇気をもって行動したり、挑戦したり、とやるべきことがあるので、決してパターン的な楽さはないです。

フランクルがその著書に書いていたこと「この世にはふたつの種族しかいない。まともな人間とまともではない人間」というのがあります。

そのことは言葉を変えて表現されます。天使的であるのか、悪魔的であるのか。「私」なのかパターンなのか、人間なのか、動物なのか。この間の溝は大きいと思います。この二極の世界ではわかりやすく反対にあるものだからです。二極化が進んでいるということはずいぶん前から言われてきましたが、それはもともと大きな溝としてあったのだと思います。そのことに気づいた人たちが二極化という事を言い出したのかもしれません。

最初は誰でもがパターンの世界で生きますが、自分に気づいた人から自らこの溝を超えていきます(そうしたい人とそうではない人と分かれますが)。そこを超えるには、もがきながらです。かっこよく、スムーズに超えていかれるものではありません。だからもがいていけばいいと思います。もがいて、もがいていくうちにその人にしか見えないその人の光をきっと見つけられる。

両親
2024/12/19

ふと、他界した父と母は今の私に何を望んでいるのだろうか?と思った。父が亡くなって7年、母が亡くなって24年。

当初感じていた寂しさは時間の経過とともに薄れていきながら、身近にその存在を感じるときもあり、両親のことは忘れていたり、思い出したりで今まで来たように思う。

で、ふと思ったこのこと。多分、両親は、あちらへ行って脈々と続いているこの宇宙のシステムを知り、驚き、自分に起きたことの意味を知り、反省し、後悔したことと思う。そして、自分の良心からの出来事には、幸せを感じ、喜びを感じたと思う(そうあってほしい)

そういう両親が子供(…という年でももうないけど)である私に何を望んでいるのだろうと思ったしだいです。

フランクルは、あなたの人生はあなたに何を求めているのか、とおっしゃっていましたが、私が思ったこれは、両親というぐっと身近なものだ。

で、善い生き方(人智を超えたシステムに沿った)をしてほしいと、きっと思っているだろうとはすぐに思ったが、ではその具体的なことって?と考えました。

ちょっと話はずれますが、今、感覚とか感性の様子が以前とは違っているのがわかります。「必要なことはあちらから飛び込んでくる、ということと、それを受け取るときの一瞬のリアルな感覚と、それを信じていい」ということを私は今年学んだ。そして、このタイミングで、両親のこのことを思い、この自分の感性のままに、我が意のままに(わがままに)いこうと思いました。それを両親は望んでいる…と思いたい。

そして、それが宇宙のシステムに、より沿っていくことへつながっていくように、そうして、それをお会いしているひとりひとりに合わせていかせるように、これはまた自分で努力していこうと思いました。今年の初めに、引いたおみくじ。そこに書いてあったことは「今やっていることは本当に自分に合っていることなのか、自分はもっと別の個性を持つものなのではないだろうか?と再度見極めよ」というようなことでした。そこへも通じた今回の気付いたことだったと思います。

少しずつ、自分を生きる、というよりも、自分で生きるということがわかってきた気がします。

新幹線での教え
2024/12/17

今年の岩手クラスも無事に終了しました。皆さん、1年間ありがとうございました。

盛岡は絶対に道が凍結していて、つるつる状態だろうと思い込んで行ったのですが、あら?雪がない。しかし、風の冷たさや、身体に感じる冷たさは、次回の2月を彷彿とさせるようなものでした。次こそ本番。

さて、帰りの新幹線の中でのこと。

盛岡を出発して知らぬうちに眠りに落ちていた私。「すみません、すみません」と男性の声がして起きました。見ると通路側に座っている私の席の横に若い男性が立っています。その人から「すみません、席を間違えていらっしゃると思うのですが」と言われました。眠っているうちに、仙台駅に到着していて、そこから乗っていらした人でした(こう言われると今の私は、すぐに自分が間違えていると思ってしまう。実際、間違えていることが多い昨今)

「えーーー、私、間違えています?今チケット出します」と言ってもたもたとチケットを出し、その人もご自分のチケットを出して、2人で見くらべてみる。確かに、2枚とも、〇号車の〇列の〇席。と記載されていて、確かにこの席。

すると「あれ?乗る新幹線を間違えていませんか?この新幹線はここに記載されている時間の出発ではないですよ」と言われました。

「あーー、それは、私は盛岡から乗ったので出発時間はこの時間なんです。そして今仙台で・・・」と言いかけたら、その人は「あ・・!」と言って、一目散に出口に向かって走っていきました。そして扉がしまる直前にホームへ降り立ちました。一瞬の出来事でよくわからないうちに、ドアは閉まり新幹線は仙台駅を出発しました。

何が起きたのだろう…たぶん、その人がご自分の乗るはずだった新幹線ではないこの新幹線に乗ってしまったのだろう。そして自分の席を見たらグーグー寝ている人がいる、ということだったのだろう。で、そういう時って、自分は間違ってはいないと思ってしまうのが人間。特に相手が白髪の女性だと、この人が間違えている、とも思われがちです(当たらずといえども遠からず)

しかし、話をしていて、自分が間違えていたことに気がついたのだろう、そして、あの速さでホームに戻った、と解釈しました。いずれにしても、とりあえず、ホームに戻ることができてよかった。上りの新幹線なので、行き先は同じとはいえ、とりあえず。

その後も本当にこの席でいいのか?自分?と〇号車の〇列の〇席を確認してしまいました。こういうこともあるんだとあらためて思いました。私はそそっかしいので、やりそうです。今年最後の新幹線での教え。人間、一生勉強です。

落ち葉
2024/12/11

茅ケ崎中央公園の紅葉は終わり、公園内はたくさんの落ち葉に敷き詰められています。

その落ち葉の上を歩くと、気持ちがいい。ふわふわしていて、歩くたびにかさかさと音がして、時々風が吹くと、落ち葉がはらはらと頭の上に降ってきます。これがいい。なんかうれしくなる。そして、横浜に住んでいたころ、おとなりの柴犬2匹の散歩係をトミーとやらせてもらっていたときの私が担当していた「てっちゃん」のことを思い出します。

てっちゃんは晩年、もう足が弱くなり、今日が最後の散歩、という日がちょうど今頃の季節でした。家の近くの公園にてっちゃんと散歩にいったとき、風が吹いてきてまわりにある大きな樹々からはらはらと落ち葉がてっちゃんの上に降ってきました。それがあたかも、てっちゃんを祝福しているように、さようならを言っているように感じられました。そして、それが最後の散歩になりました。落ち葉を見るとこの日のことが思い出されます。

そしてまた私はずんずんと公園内を歩いていくのですが、この運動とも散歩とも言えないようなスピードで歩くのが自分としてはちょうどよい。それを味わいたくてほぼ毎日公園へ行っています。

で、先日、飛び込んできた言葉(近頃は、飛び込んでくる。新鮮です)「ささやかな高揚感」。

それを聞いたときに、私がずんずん歩くときの感じはこの「ささやかな高揚感」だなと思いました。そう、ささやかなものなんです。でもそこには高揚感があります。このくらいのボリュームが今の自分にはいいんだと思いました。こうして今の自分に合うものを持てれば十分だと思います。

これからの公園はぐっと冬の装いに変わっていくと思うので、これからもまたその変化を、ささやかな高揚感とともに楽しみたいと思います。

今日はこれから盛岡へ行ってきます。盛岡クラス、今年最後のクラスです。楽しんでください。そして、私は、転ばないように、滑らないように、寒さで腰が痛くならないように、肌がぴりぴりにならないように気をつけていってまいります。

ちりばめる
2024/12/10

頑張っている自分にご褒美を…とよく聞きます。

毎日頑張ってやるべきことをやっている自分に、自分がうれしいと思うような、自分が欲しいと思うような、自分がほっとするような、気分転換できるような、そんなご褒美を自分で自分に与えてあげよう、ということなんだと思います。

ここで、毎回、気になるのは、ほとんどの場合はパターンがうれしい、欲しい、ほっとする、気分転換になるものごとを自分へのご褒美と捉えている場合がほとんどだということです。それが間違っているとはいうのではなく、その領域があるということです。

しかし、パターンと本当の自分というところで生きていると、ここはやはり見逃せないところだし、パターンのそれを選んだときの違和感とか、楽しいのにむなしいとか、ちっともほっとしないとか。以前は本当に楽しいと思えていたのに…。そういうことを感じられるようになっていると思う(成長の証)

昔は私もパターンのそれがご褒美だと思っていた。しかし、今は、もう、これは自分には合わないと感じます。

そしてもうひとつ、この、頑張っている自分にご褒美をはかえってきつい。なぜならば、ご褒美をもらうために頑張らないといけないから、です。で、欲深な私はいつでも自分にご褒美を与えたいと思いました。でも、いつでも、というのは365日毎日ということではなく、日々の頑張ってやるべきこととご褒美という相反するものを相反しないようにしてちりばめていけばいいんだと気付きました。それが多分10年以上前頃だったような。

そのころ、ちょうどワークペーパーで日常と非日常についてやったことがあって、これも同じだなと思った。この、頑張ってやるべきこととご褒美、頑張って過ごす日常と頑張らなくていいプライベートな非日常。ここに相反する意味づけがされているから片方は頑張る、片方は頑張らなくていいという極端な現象を起こします。ご褒美がくるまで我慢だ、非日常というプライベートがくるまで我慢だ、ということ。

でも、それらをちりばめてしまったら?毎日の生活の中に。頑張っている自分にはときおりご褒美がわたされ、ご褒美の中にも頑張るがあれば、どっちがよくてどっちがよくないということはなくなります。それがちりばめるということなんですが、じゃあ、具体的にちりばめるって?想像力を使って考えてみてください。

ワークの中に楽しみを
2024/12/09

魂の道場で行っているワーク。

語りかけ、白黒ワーク、意味づけワーク。それのどれも、自分の変容への即効性は…ありません。

継続していくうちに、そのワークの意味が感じられるようになり、自分のものになっていき、気付いたら、変わっていた、というものです。変わると言ってもぱきっと変わったというよりは、なんか、以前よりも楽になっている、とか、以前より落ち着いている、とかそんなソフトな感じの変化です。

私はそういう変化の仕方が安全で、元に戻らずいいと思うのですが。

今まで一体何回言われたか「それって時間がかかるのでしょう?」「これやってても、時間ばかりかかって、変わらない」…と。

というように、一般的にはわかりやすい即効性があり、こつこつやり続けなくても変化のあるもののほうが好まれるし、望まれます。

で、そういうものとしての代表的なものが思考で今自分に起きている物事の見方をかえて、納得するというものです。「こう、考えてみたらいいんじゃない?」「こういう見方もあるよ」っていうものです。これが使える場面というのもあります。しかし、全てがそうではない。特に、感情や感覚にまつわるものに対しては思考で対処は抑圧し続けていくということになります。

又は、五感をリラックスさせ、いい気分にひたって感情や感覚を落ち着かせるというもの。これはその時にはゆったりして、いい気分に浸れますが、それで今の自分が変わることはありません。

そもそも、適切なツールを使って(皆にすでに与えられている)自分で自分を変えていくことが、求められていて、そのように人は創られているから。そして、それには思考でも、いい気分でもなく、自分で直接自分の心の内に分け入っていくしかないのだと思います。

そこには時間がかかります。1年、2年、3年で、それができるということはないです。しかし、私はそれだけ意味のあることなんだと思っています。大事なことには時間がかかります。だから、楽しめなくては続かないのだと思う。ワークの中に楽しみを見出していただけたらと思います。

一人で頑張らなくても…
2024/12/08

「自分一人で生きているのではないから、そんなに一人でなんでも頑張らなくて大丈夫」と、私はよく言います。

それは、私が信じていることなんですが。そして、信じているからか(これはそうだろうと…量子力学の事を考えると)そうなんだ、と思うことが起きて、積み重なって、ますます、そう思う。そして、そこへの信頼は又大きくなるを繰り返す。

何かをはじめたり、やめたり、引っ越しをしたり、仕事を変えたり、又は、一度決めたことを変えたり、貫き通したり、などなど、今までのいろんなことは決して私一人の思考で決めたり、得られたことではなかったと思います。もちろん自分の意思はあるけれど、動くときは動くし、動きたいと思っても動かない時は動かないというように。

それは、人智を超えた何か(この宇宙のルールそのもの)がこの地上に生きている(又はあちらで生きている)人間を総合してみながら(宇宙のバランスをとるため?)決めていることなんじゃないかと思うようになりました。

そうして「私」にこうしてね、とセッティングを促しているように思えるんです。ですから、自分をどこに導いていくのかはあちらにおまかせして「私」がセッティングしたことが今やるべきことなので、それをやっていけばいいと単純に思います。

それにより、きっと今までとは違う何かを与えてもらい(それは物事かもしれないし、精神的な何かかもしれない)それは「私」の喜びになります。この流れ、というか、このシステムというか、そこを体験していくうちにきっと一人で頑張らなくていいんだということを感じると思います。

そんな根拠もないことを信じていいのか、と思うかもしれませんが、ワークや祈ることを続けていくことで自分で何か、気付いたり、見つけたり、変化を感じたりすると思うんです。それと同じことです。自分がやるべきことをやっていくうちに、一人で頑張らなくても大丈夫なんだということに気づいたり、見つけたり、変化を感じたりします。そうなってくると、それを信じていくことも可能だろうし、信じるものは大きくなっていくので、その世界に生きることになると思います。

もう、一人で頑張らなくて大丈夫。あちらといつも二人三脚。それは見守られているということであり、善き道を照らしてくれていると思います。

まずは自分
2024/12/07

人は、自分にしていることを同じように他人にするし、自分ができることしか他人にもできない‥‥。

というのは大前提だと思います。そこを知らずに、言動してしまうのが人なんですが、よくよく自分を観察してみると、その通りであることがわかると思います。

もっと違う言い方をすれば、人って、そうやって自分というものを誰もが表現しているということです。いや、表現しているというよりは、自然にその人が出てしまっているということです。いくら、自分を大きく見せようとしても、知識を振りまいても。

で、多くの場合は、その作っている自分を他人はその人だと思ってみています。相手が見えていない状態です。言葉は悪いですが、騙されている。実際そうやって騙されて、事件や事故になっている物事はたくさんあります。

確かに社会の中で生きるには、それ用の自分を作っておくことでスムーズにいったり、かえって相手が安心したりということはあります。そこはそことして、でも、冒頭に書いたことは人という生き物にとっての大前提なのだと思います。

このことを知っているのと知らないのでは人生そのものが大きく変わると思っています。それを知っていれば、本当の意味で謙虚になれると感じるし、その自分が他人に接するということで、相手にも誠実なんじゃないかと思うし、誠実に接してもらえることが人には一番うれしいことなんじゃないかとも思います。

だとすると、やることはひとつ。自分に向き合うということです。どんなパターンがあり、それに対して「私」は何を選ぶのかを、決めていくこと。そうやって不一致を一致に少しずつ変えていくこと。自分をそうしながらより知って、より、よいほうへ「私」が導いていくこと。そこには自分に対する誠実さがあり、その自分であれば同じように他人にも誠実に接します。そして、誠実であれば、自分にできることだけで十分とも思えます。

やっぱりまずは自分。

精神的な無理
2024/12/06

いつもお世話になっている美容師さんと話しをしていたとき「普段、人に話さないこともここ(この美容室)では話せてしまう、とよくお客さまに言われるんです」とおっしゃいました。

それを聞いてそーーーーだろうなあと思いました。私も、ここへ来ると、ほっとする感があります。この感じを癒されると表現する人が多いのだと思います。そして癒されている感があれば、普段人に話さないことも、なんだか話したくなり、話すということが自然に起こるのだろうと思います。

美容師さんはそれを狙って、この仕事をされているわけではもちろんないですが、それが自然にできていて、自分では気づいていなかったそれを、お客さまから教えてもらったのでした。

一体、何がそうさせているのだろう?と考えて、それは美容師さんの人となり、個性、なんだろうと思いました。今まで色々と話しをしてきて、そこから美容師さんの人となりというものがだんだんと感じられます。それは、無理しない方なんだろうというものです。

自分に無理をさせない。そうは言っても仕事となれば、無理する場面もあると思いますが、精神的な無理を自分に強いていない方だと思いました。そのありかたがきっと他人をほっとさせたり、ゆるめたりするのだろうと思いました。

精神的な無理、というのも、色々と人によって違うと思うのですが、美容師さんの場合は、自分にとって不本意なことであれば、断る、とか、そこからは離れるということを自分のためにやってあげている、というものだと思います。

その際、一般的には、不本意ではあっても、恩があるし、お世話になっているから断れない。不本意ではあるけれど、離れずにいたほうが得るものがある、波風も立てることがないし、周りにも迷惑をかけない、自分も恩恵がある、というところでそこに自分を合わせていくと思います。普通にそういうものだと思っているから。

美容師という仕事ですから、お客さまのニーズにこたえていく仕事だし、そこでの会話はお客さま優先にはなりますが、それはそれとして、でも、自分にとっての大事なところは貫いてきたのだと思います。それが美容師さんにとっての自分に無理させないだろうと。

それはひいてはお客さまにも無理させない、になる。なんとなく、そうか、無理しなくていいんだ…という影響をお客さまは受けるのかもしれません。そんな波動がお客さまをゆるめているのかも…と思いました。

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ

- Topics Board -