ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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小さなことを…
2024/12/04

自分を赦すって、黒パターンに好き勝手させることでも、パターンに共感しすぎて、そこと自分が同一してしまうことでもありません。

じゃあ、何?というと、今持っている(存在している)全てのパターンと一緒にこれからも生きていくことだと思います。それは、私はダメだ、も、私は自信がない、も、私は弱い、も、誰にも負けたくない、も、自分は特別も。とにかく全てです。時には「あの人さえいなければ」というパターンだってあるかもしれない。それも、もちろん、これからも一緒に生きていく…という意思を持つ(腹を決める)ということです。

そして、気付いたら、自分を赦していた、ということ。気づいたら、ってところが大事です。それは、自分を赦すを目指していないということでしょう?目指してはいけないんです。目指すのではなく、いつもどうありたいか、いつもどんな意思を持っているのかです。目指すは未来。いつもは今。今にあるということです。

赦すということで見てみると、自分の全てを赦せる自分でありたい、という意思を持ち続けること。今、そうじゃなくてもです。これがもしかしたらアファメーションで言うところのあたかもすでにそうであるように…ということなのかも。そしてその意思を宇宙に発信し続けること(実際動かしてくれるのはあちらなので)

まず、ここありきであれば、パターンにひっかかり、語りかけをし、白黒ワークをしたときに、この意思は全ての根底に流れています。そういう意思を持つ自分がワークをしているときにはこれを目指そうはないはずです。ワークを純粋にしている。

目指そうとすると、そのためにどうしたらいいのか、という事に必ずなります。何をしたらいいのか、どう考えたらいいのか、こっちのほうが効きそうだ、とか。そのやり方は今までのやり方であり、これから先には通用しなくなるということなんです。

例えば、禅の世界では、ひたすら禅を組むように、祈りの世界ではひたすら祈るように、いろんな物事が成就していくときには、ひたすら練習するように。ここには、何か、よくわからないけど、まだわからないけど、それでも魅かれる何かがあるからだと思います。やりたいのはそこに何かを感じているからではないでしょうか。それは目指しているというのとは違います。

それを感じている、という小さなところを感じ、言葉にできるといいです。小さなことをひとつずつ、ちゃんと感じてみて、言葉にしてみてください。

きゅうりの古漬け
2024/12/03

茅ヶ崎駅近くにある、お総菜屋さん。

「土士田」(としだ)さん(この漢字、土が2つではなく2番目の漢字は士です。わかりにくいが。創業1934年)。とてもお世話になっています。

こちらの、ぬか漬けが、特にきゅうりの古漬けが、私は好きで。我が家ではこの古漬けきゅうりをうすく輪切りにして、そこに細かくきざんだしょうがをまぶして食べています。祖母がよくこうしていたのを覚えていて、まねしたら、これはねーーー、美味しさ倍増です。食欲があまりないときでも、毎日でも、美味しく食べられます。

ただ、古漬けなので、普通のぬか漬けのようにいつもあるのではなく「今日はあった!」というラッキーな時にしか買えません。

先日見に行ったら、たっぷりとあったので4本買いました。私の隣にいた方は20本買っていき(多分、飲食店の方か?)残りは少なくなっていた。これはなかなかの争奪戦だ。

古漬けの他にも、ポテトサラダも、里芋の煮ものも、きくらげこんぶも、五目豆も、どれを食べてもはずれたことがありません。こちらのお店は特におじいちゃん、おばあちゃんに人気のお店です。お一人で住まわれているのでしょうか、買いに来ている方が多いです。

ご高齢の方には強い味方。そして、私のように料理が苦手な人にとっても強い味方。

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/04e0f7ce415db1c16dd6f8d2ff58e69d385a112c

クールに
2024/12/02

ずっと長いこと思っていましたが。黒パターンのひとつとして、自信がない、自分にはできない、自分は劣っている、自分はダメだ…などがありながら、別の黒パターンで自分はわかっている、自分は誰よりも上、自分はできている、自分は特別…なども同時に持っているという人がとても多いです。「自分はやってきた、という自負があります」「私だってできているところはあります」と言うことも聞きますが「だから?何?」と私は思うし、言う。そんなふうに、自分を不一致で生きさせる領域に居続けさせていて苦しくないですか?という意味で。

そして、多分、後者の黒パターンが前者の黒パターンを抑えて、後者が自分だと勘違いさせて(これがリーダーとして)生きているのだろうと思います。でも、勘違いなんです。間違った認識をしている。

しかし、そのことを言うと多くの人が、不機嫌になる。これも後者の黒パターンが怒るんですが。これがパターンなんだということに気づかなければいけないし、気付いたら自分でケアし、新なものを選び続ける努力をしていかないと、変容していくことはありません。ただ、そこには自分がそうしたいのかどうかが優先されるので、このままでもいい、という人もいます。

そして、その内的行動の他に、もっと客観的に、ゆがみなく、自分をみて自分を知らなくてはいけないと思います。そもそも、後者のパターンが信じているほどの人間なのか?自分というところです。自分の個性や性格などもふまえて、そこまでじゃない自分というものをちゃんと知っていかなくてはいけないと思うんです。

この、本来の自分と自分の黒パターンが信じている自分とのギャップがあるから苦しむ。そして、その通りに扱ってくれない人を嫌い、憎むようになっていきます。それは結局、自分を苦しめることになります。

自分がどれくらいの人間かがわかり、それが納得できれば、どれだけ安心して、自由でいられるか。しかし、それは自分を過小評価するのではなく、自分を厳しく見るのではなく、今の自分に色を付けずに、ゆがみなく、自分をクールに見るということです。

これが自分を赦すということです。赦してしまえば、どんな自分であってもいいと思える。いい意味で、自分への尊厳や愛をもって「この程度の自分だから…ね」と自分に言えるようになります。程度っていう言葉に引っかかる人もいるかもしれない。しかし、程、度。総合して自分を見たときにこのあたりの人間という目安のこと。

考えを減らし…
2024/12/01

ミニマリストの佐々木典士さん(ぼくたちに、もうモノは必要ない 著者)のインタビューの中に「考えることを減らし、楽になる」という言葉がありました。この言葉が飛び込んできました。

ミニマリストって物を極力持たない人というイメージがありますが、これは、物に限ったことではないんだろうと思いました。

考えることで頭の中がいっぱいいっぱいになっていることから、考えることも減らしてみよう、ということでしょう。

多分、物を減らした部屋で生活をしているうちに、それでも何か自分を圧迫するような感覚を感じ、そこから気づいていったことが、この、考えることを減らす、ということだったんじゃないかと思いました。そして、それを意識的に続けてみると、そこに現れてきたのは「楽」になるという実感だったのだろうと思います。

私たちは、無意識で日々たくさんの思考をしています。それは途切れることなく続き、それが習慣になり、自分の普通になります。これは部屋の中が多くの物で溢れてしまう事と同じでこちらもそれは途切れることなく続き、それが習慣になり、それが自分の普通になります。
その考えることを減らす。これも物を捨てるのと同じで自分の意思で、自分が行動するしかありません。

部屋に限りがあるように、思考する脳にも限りがある。そんな部屋に住み、そういう脳を持つ自分にとっての断捨離とは?何をどれをどのくらい自分が持ち、管理できるのだろうか。そして、そこに風の通る空間はあるのか?これがすごく大事。

この後、佐々木さんの話は食べることにも普及していきます。「あまりグルメに走らなくなり、シンプルな食事に手を合わせるようになりました」と言う佐々木さん。部屋、身につけるもの、考えること、そして、身体に関わる食べることも、自分に合うものに減らしていく。それにより、丁寧な暮らしをしているご自分に気付き、それが自分にはとても気持ちのよいものだから継続しているということなんだろうと思いました。

持ちすぎている、考えすぎている、食べ過ぎている。それも誰かが言ったことを信じて。全てに断捨離。

ワル猫
2024/11/30

本屋さんにはたくさんの来年のカレンダーが並んでいました。

動物好きな私は犬や猫のカレンダーに目がいきます。無邪気な可愛らしい子犬や、くりくりお目目の子猫。街の中でポーズをとる(…とっているわけではないがそう見える)ちょっとおしゃれな猫も。相変わらず人気なのかニッポンの代表「柴犬」も。草原を走り回る犬たち。のんびりと昼寝をしている猫たち。

かわいいね、のどかだね、いいね、と見ていました。

そんな中、こ、こ、こ、これは?…というカレンダーが目につきました。表紙には「ワル猫カレンダーMOOK 2025 まっすぐ前を向いていこう」と書いてある。そしてその表紙の猫は、眼光のするどい、意志力ありそーーな猫でした。じっと見ていると「喧嘩売ってのか、おい」と言われているような気になります。可愛いーーという対象ではない。

しかし、しっかりとこちらを見据えるその姿には神々しささえ感じます。人間になんか媚ない。来るなら来い、と挑戦的。

これ、きっとノラ猫だよね、このクール感をかもしだすこの猫は飼い猫ではありえない、と勝手に思いましたが、もしかしたら飼い猫?かも。飼い猫だったら、家族は彼のしもべだな。

サンプル品があったので私のお誕生月の5月を見てみたら‥‥もっとワル猫だった。ふてぶてしさと、威圧感さえある猫がそこにはいました。いわゆる不細工で可愛いでもない。そしてそこに書かれていたワル猫語録は「都合の悪いことから目を背けるな。」だって。「全てわかってんだよ、何、やってんだよ、おまえ」と言われているようでした。

でも、何か魅かれる彼ら。なんなんでしょうか。我が道をゆく、というところなのでしょうか。そうなんだろうな、きっと。

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%AF%E3%83%AB%E7%8C%AB%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BCMOOK-2025-SUN%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%A1MOOK-%E5%8D%97%E5%B9%85%E4%BF%8A%E8%BC%94/dp/4866605324

ちょっと早いですが…
2024/11/29

もう11月も終わろうとしている。

今年は、今までにないような体験をたくさんしました。春くらいから始まり、7月以降は、次々と自分自身の展開がありました。

私には先生がいないのですが、こんなふうに、何かが自分をひっぱっていってくれるんだということを再確認したし、だからこそ増々自分一人で頑張らなくていいということも再確認できました。二人三脚。

どんなことが起きて、どんなことに気づき、どんな在り方を選んだのか、という話は長くなってしまうのでまた機会があれば直接話したいと思います。

で、この、何かに必要なところへひっぱっていかれるようなという体験。もちろん、ひっぱっていかれた先は自分の手でつかみ取っているものではなく、強い念力でひきよせているのでもなく「与えられている」物事です。それは今の自分に必要なことだからです。

もっと言ってしまうと、自分が人として成長していきたいという意思を持っているから、それに対して、宇宙が還してくれているとも言える。還してくれるというのは、直接の形あるものとか、パターンが喜ぶようないい事が起こるのではなく、体験をする「機会」です。

…そうだったんだ、と、いうことに気付くのは、それがひととおり終わって、それを総合して、俯瞰して見たときなんですが。

ホントにね、人って必要な物事がちゃんと起こるんです。だから、変に頑張らなくていいんです。ただ、自分はどう在りたいのか、どんな人になっていきたいのか、その意思を宇宙に発信し続けるということだと思います。それが届き、あちらから、それに向かうための機会(セッティング)が与えられるということです。

というわけで、私にとって、今年(特に後半)はものすごくいい年となりました。私、今年も少し成長したと思います。ちょっと早いですが、ありがとーーーーー2024年です。

イメージ
2024/11/27

人がイメージする力には威力がある。

だから、自分の将来(未来)も良いイメージを持ち続けることは絶対にやったほうがいいです。ぜったい!

パターンのケアはどちらかというと過去に視点がいっています。ですのでそれだけをやっていると過去に居続けてしまうことにもなります。パターンのケアって、パターンを見捨てない=過去に起きたことをそのまま受け入れる、ということでもあります。だからパターンは安心できる。それをしつつ、将来、未来に向かっての視点を同時に持つことは大事です。

私の将来は、未来は、きっとうまくいかなく、苦労ばかり…なんてイメージ(意味づけ)をしてはだめです。しかしあまりに現実から離れてしまうようなものでは不一致感がありそれはまた変。例えば、私の将来はアスリートなみの身体を持ち、数々の試合に出る、とか、パリコレのモデルとして活躍する、とか。やはり現実可能なところでのそれとなります。

で、この現実可能なところでのそれですが、まず、物質的なところからイメージするのではなく(大金持ちになる、とか、有名になるとか…具体的でわかりやすいですがそれらは普遍的なものではないので変化します)わかりにくいそれが私はお勧めです。

わかりにくいそれじゃあ、イメージできないよ、と思うかもしれませんが、イメージは視覚的な具体的な物事だけではなく、感覚で感じ取るものもあります。なんか、形にはなっていない「ほわっ」とした将来、未来。その「ほわっ」にはいろんなものがつまっていて、その土台には、安心、落ち着き、信頼、がある。だから、どーーーにかなるな、という気楽さもある。

そんなかすかな、でも、確かにあるという「ほわっ」を心に抱き、それを体で感じ、その感覚を感じるというものです。アート的、こういうのが好き。

根拠はあるのか?と言われればない。でも、知っている、わかっている、というものです。この感覚を私はよく窓から見える空をみながら、味わいます。ほわっと。かすかに。それは遠い遠い何処かへつながっていて、それがあるから大丈夫と思えます。それがイメージする私の将来、未来。唯一、なくなったり、変化したりしないもの。

これはきっと全ての人が心の奥底にずっと抱き続けているものだと思います。なぜならば、そこが自分の本当の居場所であることはわかっているからです。すぐにわからなくても、大丈夫。実はわかっているから。あとはそれが少しずつ浮上してきやすいように、自分をひっぱっていってあげればいいんです。それも楽しみながら。

今日のお昼は…
2024/11/26

久しぶりの日記更新。

ちょっと体調を崩していました。見事復活と言いたいところですが、少しずつよくなっています。もう、普通に家事もしているので大丈夫だろうと思います。この数日はひたすら寝たのでそれはとてもよかったでした。反省もあり・・・・と言っている間に今年最後の大相撲九州場所が終わりました。

今回は初優勝、大関「琴桜」。私としては「豊昇龍」に優勝してもらいたかったのですが。それでも今年も無事に全場所を見られてよかったでした。

そんな中、北の富士勝昭さん(52代横綱 )が亡くなられていたことを知りました。歯に衣着せぬ辛口な解説、そして、全ての力士に強くなってもらいたいという優しさにあふれた言葉。独特な北の富士さんの視線とコメントが大好きでした。毎場所、今回はどんなことを言うのだろうかと楽しみにしていました。

去年の3月から場所の解説をお休みされていて、コラム「はやわざ御免」も更新が止まり、体調が悪いと伺っておりましたが…きっとまた戻っていらっしゃるだろう…と思っていました。とっても悲しい。体調が悪くなったのはそのためだろうかと思うくらい、悲しかったです。

これから、もう、北の富士さんの人間味あふれる解説が聞けないことがとても残念です。多くのファンの方がいらしたので皆さん気落ちしているだろう。

人間味あふれる…これがとても心ひかれる。何をもって人間味あふれるというのか、ということはありますが、私にとってのそれは、その人そのままの姿です。こうしてはいけない、こうあるべきだ、ここではこう言うべきだ、ここではこのようなことは言ってはいけない、この立場であるから…などなど。そこに従ってしまうから皆同じようになっている。そこには心惹かれるものがない。

で、その人間味は人それぞれなので、それに反感を持つ人もいるわけです。でも、それも人間味のあることです。

北の富士さん、ありがとうございました。取り組みや力士の解説を通して、自分の個性で生きることのすがすがしさを感じる機会を与えてもらっていました。そうしながらも、周りに知れることなく相手に気を使い、時には自分が悪者になって相手を立てることもさりげなくやられていたことも知り、大人とはこういうことなんだろうと思いました。きっと私のように、何かを学んだ方達は多いと思います。今日のお昼は「北の富士カレー」を食べます。

紅葉
2024/11/21

今「中央公園」の紅葉がとてもきれいだ。

全体に赤くなっているというよりは、この季節のいろんな色が点々とあり、それが重なっていてとてもきれいです。黄色、薄い緑、濃い緑、薄い赤色、濃い赤色、オレンジ色、茶色。今年は秋を感じられないと言われていたけれど、ここには「秋」の色が満ち溢れています。ちょっと離れたところからそれを眺めたり、木の下からその色を見上げたり、と、毎日通って見ています。

午前中に見るそれらもいいけれど、西日が入り込んでくる頃のそれらは一段といいです。紅葉って、こんなにきれいだったんだと、いまさらながら気づき、この一瞬のその色を楽しんでいます。

自然の美しさには誰も、何もかなわないと思います。同じ種類の木であっても紅葉の度合いはそれぞれに違っていて、それぞれにきれいです。

人間も自然の一部なので、本来はそうなんだろうと思いました。それぞれに違っていて、その人のきれいさを醸し出しているのは人間も一緒じゃないかと。そのときに大事なのが「自然にある」ということなんだろうと思います。

とかく自分を作り、他人に見られたい自分、評価されたい自分として振舞い、それゆえ、その人らしいきれいさがうずもれてしまい、本人も窮屈で、もやもやしている。すごくもったいないと思います。もっと、自分でいればいいのに。その自然なありかたからはその人にしか出せないものが醸し出されているのに。それは唯一無二。

昨日とは違う、新しい色を今日も見に行ってこよう。

いい環境のパイプ
2024/11/20

数日前は、夏のような陽射しで、暑かったのが、昨日からは急に寒くなり、また来週には気温の上がる日もあるようです。

この大きく揺れる行ったり来たり。私たちをとりまく自然がそうであれば私たちもその影響を受けているだろうと思います。

自分の選択が大きく、行ったり来たりしていないだろうか。これじゃない、それじゃあ、あっちだ、と真逆の動きを即座に選んでいないだろうか。片側から片側へすぐに行こうとしていないだろうか。そんなことを見返すといい時かもしれません。

私は、あらゆる物事は自分を見るために、用意されていると思っています。そういう意識でいると、いろんなことが起きるこの日々の中にいても、それは何を自分に問うているのか?とみつけていくことができます。それにより、私、ここを見落としていた、とか、ここには気づいていなかった、とか、又このパターンで動いていたんだ、とか、もっと意識的であろう、とか。色々とわかります。

自分専用のパイプの中で生きているという前提で考えれば、その中でおきること(それはあたかも自分の関与しないところで起きていると思いがちですが)は自分が決めて起きていること(そのように見ていること)です。だとしたらそれを自分の中で変えていくことで、その見えている姿はまた変わります。

だからあらゆることを自分を見るために使っていくといいと思うんです。そうしていくことで自分専用のパイプは磨かれていきます。自分が純粋にいればパイプは磨かれるのではなく、そこで見ているものを自分がどのように見ているのかに気付き、必要であればその自分を変えていくことが、いい環境のパイプを作るということになります。

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