神々しささえ… | - 2025/02/10
- 以前、何かの記事で読んだ方のこと。それは女性の方(40代)で、病気になられて歩くこともできないほど弱ってしまったご自分のことについてのものでした。
病気になる前のその方はとても丈夫で、健康で、スポーツが好きで、社交的で、快活に毎日をおくっていらしたのだそうです。疲れる、とか、しんどい、とかというものとは無縁であり、それがご自分にとっての普通だったのです。
しかし、40代に病気に罹り、体力が落ち、筋力も落ち、気力も落ち、気持ちも沈み、苦しみ、しばらくは外に出たくなくて、家の中で過ごしていたのだそうです。そうしながらも時間をかけながら少しずつ心身が落ち着いていくにつれて、外に出て歩いてみたいという気持ちがわいてきて、家の近所にある小さな階段を登ってみようと思ったのだそうです。
一段、また一段と手すりにつかまりながら登ったそうです。昔であれば駆け上がっていたその階段が、今は一段一段が自分にとってはとても大きな一段です、と話していらした。自分の横を歩く人達はどんどん自分を追い越して上がっていく。それでも、今、自分にできるこの一段を登ることはとても嬉しく、やりがいのあるものになっていますと‥‥。
これを読み、人間って尊いと思いました。今おかれているところで、自分が生きていくために、自分が自分にしてあげられることを見出す能力が人間には備わっているのだと思うのです。そういう状態になるまでの苦悶の時間もまた人間には与えられますが、この方はそれもそのまま受け入れた(諦めたのか、もう、昔の様にという期待を持たなくなったのか)のだと思います。
その苦悶の時間も永遠に続くことはなく、どこかで次へ動いていくために変化します。それに抵抗せず、時間をかけてそこにいたことが、階段を登ってみようという気持ちになったのではないだろうか、と思います。
多くの人は(私もです)早くよくなるようにしがちですが、もしかしたら、与えられている苦悶の時間は、人の能力を呼び覚ましてくれるものにもなるのかもしれません。以前と同じように階段を駆け上がることはできないけれど、今の自分に合ったものを自分に与えてあげているという姿は神々しささえ感じます。こうして自分を支え、自分を生かしていかれる人でありたいと思います。
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