ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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ちょうどいい
2023/12/03

食べ物の好みは変わる…というのは誰もが言うことでありますが。

私はここのところ、キノコ類、レンコン、タマネギ、海藻類、油揚げがとにかく美味しくてよく食べています。特に油揚げってなんであんなに美味しいのでしょうか。ただ、焼いてお醤油と七味をかけるだけでもすごく美味しいと思います。

ちょっと前までは、ぬか漬けと納豆が美味しくて、よく食べていましたが、今はそれほどではありません。ですから、油揚げもいつかそれほどでも…になるのかもしれません。

これは体にいい、とか、これは体によくない、とか、今は情報があふれています。いかにも体によくないだろうと思われるものはあえてすすんでは食べませんが、逆に、体にいいからと美味しいと思えないものは無理してでも食べようとは思いません。

そのときそのときの体が(心もかも)欲しているものを食べすぎない程度に食べるのが、今は最も、美味しいと感じます。どうも、美味しいからと食べすぎてしまうと体に負担になるのか、心のもう十分も超えてしまうからか、その美味しいと感じるところが奪われるように思われます。もう少し食べたいくらいのところで終えることで、満足した美味しさを感じるような気がしています。

これは食事のことだけではなく、あらゆることってそうなのかもしれません。いっぱいいっぱいまでにしてしまわないということ。欲張りすぎてしまわないということ。全てを満たしすぎないこと。少し足りないくらい、もう少しできる、いける、というところでやめておくことがちょうどいいと思います。

そうであればそこには余裕があるので、現在行っていること、持っているものごとをより丁寧に行うことができます。

自分にとってのちょうどいいを見つけていくことが魂の課題のひとつのような気がします。

自分はどうありたいのか
2023/12/02

「それでも自分はどうありたいのか…」そこだけと言っていいほどです。

パターンが騒いで、飲み込まれていても(とりあえずパターンはそのまま置いておいて、あとから語ってあげよう←これは忘れずに)「今、この状況、それでも自分はどうありたいのか?」と自分に問う。「私」はどうありたがっているのか?そこだけです。

自分を苦しめる黒パターン(実は「私」は苦しんでいないので、それもパターン)が落ち着けば、小さくなれば「私」を使えるのに、と思っている方は多いかもしれません。そのために語りかけをやっていると思いやすいかもしれません。しかし、そうではないんです。

黒パターンが落ち着く、小さくなる、ということは全くないとは言いませんが、実はそれをねらってきたわけではありません(当初は確かにそう言ってきましたが、だいぶ進んできたので次の段階へ入っています)それらを持ちながら自分はどうありたいのか、というところです。

パターンを超える「私」。パターンを凌ぐ「私」。パターンがいるところにいない「私」。

語りかけで「あなたはあなたのままそこにずっといていいよ」とか「あなたはいつ出てきてもいいよ」とか言っていると思います。だとしたらそのようにパターンは受け取ります。だからこれからも子供のまま、何かあればやはり騒ぐのです。それを「よし」としている「私」です。

もういいかげん、このパターンにひっかかり、嫌な思いをするのは疲れた、と言っているのはパターンです。そのパターンがパターンを嫌っています。そのパターンはなんだかとてもまともっぽいことを言っているので「私」の思いではないだろうかと思うかもしれませんがそうではありません。

「私」は全てそのままでいいというところにいます。そして、そこにあるルールや、からくりや、たくさんの意味など、今まで知らなった領域、世界に自分を連れていくこと、そしてそれを日々使うことをしたいと思っています。

素材は変わっていない。ただ、その素材のもつ今まで知らなったところに目をむけてそれを見つけていこうとします(それにより素材の在り方が変わります)なぜならば、そこにこそ「私」の生きたい生き方があるからです。

自分の状態として
2023/12/01

「自分が選んできた物事の結果、それが今の状態」と言う話をすると、自分で選んだ物事が違っていたから今、こんなに大変なのか、つらいのか、と考えると思います。

そして、人によっては選んだ職場が良くなかったんだ、結婚相手が間違っていたんだ、ここに住んでいるのが違っている、などなど考え、もっと自分のいいと思う物事を選びなおそうとして転職したり、離婚したり(稀ではありますが)引っ越したりするということがあります。でも、選ぶってそういう事を言っているのではありません。

今の自分の環境の中であなたは何を選ぶのか?ということを言っています。自分の外側を変えるのではなく、自分の内側を変えることが選び直していくということです。

場合によっては、外側の状態があまりに酷く、心身にとって良くない時にはそこから離れるということが必要になりますが、そこまでではない場合は自分の内側の変容を求められているということです(「私」がセッティングしているので)

そこで生きている自分が自分の何を変えていかなくてはならないのか、を自分で考え(ほぼほぼ自分でわかっています)それを言動にうつしていかなくてはなりません。その自分という意識の在り方が、今までとは違う結果を「自分の状態として」現わしてきます。

自分の状態として現わしてくる…ので、急に職場がいやすいところになった、とか、急に夫が理想の人になった、などのような外側が変わるのではありません。自分の内側(選ぶカード)の変化に従って、少しずつ、今の状態をいかにしていいものにしていくのか、というところに必要なアイデアや気付きや考え方が生まれてくるということです。

結果それが自分を楽にしていく。今まで感じていた大変さ、つらさ、というものがあたかも消えていく感覚を味わうのです。この状態が自分が選んできた物事の結果です。選ぶものごとはもちろん「私」が納得するものです。すがすがしく、すっきりとした、いい感じのものごとを選んでください。

自分で選んできた物事の結果
2023/11/29

「今の上手くいかない状況は誰のせいでもない、あなたが今までに自分で選んできた物事の結果です」と、あるスピリチュアルリーダーの人に言われた…と私に話した方がいました。昔の話です。

「そんなはずがあるわけないじゃない、うまくいかない状況を誰が好き好んで自分が選ぶんですか?私が選んでいるってどういうこと?」と大変怒っていて、そのスピリチャルリーダーのことは、偽物扱いで、もう二度と行かないということでした。

その時私は<実際、そのとおりなんだけどなあ>と思いましたが、このことを説明するには、すごく細かく、丁寧に時間をかけて伝えなくてはいけないので今は無理だと思い「そうだったのね」で終わらせました。

この人には今言ってもわからない、というより、かえって混乱するだろうと感じたからです。決してその人を下に見てばかにしているわけではありません。しかし、人にはタイミングがあります。特に新なことを伝える時のタイミングは大事だと思います。

なぜかというと、人は今の自分が正しいと誰でもが思っていて、それしか見えていなくて、それ以外の新なものを嫌がるからです(多分、新なことを知ってしまうと今までの自分が失敗だったのかと思うのだと思います)

自分の知らないことを他人から聞かされる(ましてや、自分よりも下に見ていた人からだと特に)ことが嫌だからです。そこには自分はわかっている、自分は知っている、自分はできている、自分は正しいなどのパターンがあります。で、そのパターンを使っているうちは全くといっていいほど人の話は伝わらない、という体験を今までたくさんしてきてそれは学習しました。それにだいぶ慣れましたが、そこの見極めというか、引きどころは難しいところです。

しかし、お互いに時間をかけることで、そこを超えていく人達とも私は出会って今まできています。そして、そういう姿を見ると、人は皆成長したがっているけれど、それを受け入れる時は今なのか、それとも半年先なのか、数年先なのか、これは神のみぞ知るなのだと思います。

その方たちが今ほしいものは私が伝えたいものではない、この現実があることをちゃんと見ていく(まさに来談者中心療法とはこのことか)ことがまずなされなくてはならないと思いました。それと同時に今の私が伝えたいことも大事にする。この両方で成り立つものがクラスであり、個人セッションなのだと思います。

…と、言うことは?
2023/11/28

今回の茅ヶ崎クラスで「…と、言うことは?」ということを話した、と思い出したのでそのことを書こうと思います。

何?この「…と、言うことは?」って?ということなんですが。自分のパターンに引っかかる事柄って、ほぼほぼ同じということがあります。

例えば、認められたい、すごいと言われたい、褒められたい、などなどがあるとします。それぞれのパターンの言い分やそこに生まれる感情は多少違っていても、明らかに同じようなパターンです。それらに引っかかりやすいそんな自分→「…と、言うことは?」(どんな自分ですか?)→まだまだ、他人の賞賛がないと自分では立っていられないんだ、自分。ということがわかります。

自分は正しい、自分はもうできている、自分は理解している、などなどがあるとします。それらに引っかかりやすいそんな自分→「…と、言うことは?}(どんな自分ですか?)→まだまだ、自分は無智なんだ。ということがわかります。

こうなったらどうしよう、こうならなかったらどうしよう、こう思われたらどうしよう、などなどがあるとします。それらに引っかかりやすい自分→「…と、言うことは?」(どんな自分ですか?)まだまだ恐怖と不安の力が強くそれに飲み込まれているんだ自分。ということがわかります。

こうして「…と、言うことは?」と見ていくと今の自分の在り方が見えてきます。そして、どのあたりに自分がいるのかもわかると思います。パターンを通して見えてくる今の自分です。

パターンが木だとすると見えてくる自分は森という全体。ここがわかると、そこを意識して、そこがバランスよくなるように、どのように語りかけをしたらいいのかもわかると思います。

まだまだ、〇〇という自分だからこそ、そこを知っているからこそ、それを認識できているからこそ、そこを踏まえて「私」が語る語りかけをちょっと計画的に動かしてみる。そんな使い方もできます。

「…と、言うことは?」といろんな時に自分に聞いてみるといいです。おもしろいし、物事を簡潔にまとめていく力もつきます。そしてとても客観的に自分を見るようになります。現実を見る目です。これはとても役に立つ。

「熱」
2023/11/27

今年最後の茅ヶ崎クラスも無事に終了いたしました。

クラスの皆さま、今年1年、ありがとうございました。今回はゲスト参加された方もいらっしゃり、一人増えるだけでまたその方の個性がブレンドされていく感じがしました。

今回は(も)色々と話したので、何を主に話したのかがもうわからなくなってしまっています。しかし、そこに渦巻く「熱」が2日間で上がっていっていたのははっきりと覚えています。皆さんの意識の集合がそこにあるのです。

その後、ちょっと体調が悪い…と言っていらした方が「調子がよくなった」と話されていたので、その熱の質はよいものだったと思います。

体って本来の良い質のエネルギーにひたることで本来の自分の体調に戻るので、調子がよくなります。大きな病気は別ですが、調子が悪いときには、あの、クラスの感じを思い出し、それにひたるといいです。そうやって自分の身体を良いエネルギーで包んであげます。

近頃は、この「熱」でクラスを行っています。内容もたしかに大事ではありますが、そこへの「熱」が何よりも大事であることがわかります。その「熱」は有無を言わさず、人の心をその時に上げる、違うところへ持っていくのだと思います。それは癒されるとか、優しさに包まれるというものよりも、自分のお腹の底から力が湧いてくるようなものです。こんこんと泉が湧き出ているような、生きる力です。

今年はこのことを体験し、学び、使うようになった年でありました。

自分は正しい
2023/11/23

人は「自分は正しい」と思っています。「いや、いや、私はそこまで前へ出るタイプではないので私は自分は正しいとは思っていません。どちらかというと、私は自分の言動が正しいのかどうかわかりません」と思う方もいますが、これも、そういう自分であることを正しいと思っています。

で、それぞれの正しさで受け取り、思考し、決定し、行動をしています。いいとか悪いとかではなくて、そんなふうにいるのが人間です。だからあちこちでぶつかる。自分は正しくて、相手は間違っている。だから相手にそれを教えようとする、又は、相手から教えてもらおうとします。しかし、お互いに自分は正しいのでそこから建設的に発展することがありません。

この「自分は正しい」という物事の考え方を変えないかぎり(パターンなので変更可)人といい状態で共存していくことはできません。自分は正しい、相手は間違っているというのは、両極端に振り切っている状態です。それぞれに言い分があるわけですが、その振り切った状態からは、共感は生まれず、従って和解は生まれません。

この強硬な「自分は正しい」これがそれぞれの人の内でケアされ、そうではないものを選び、それで生きていく人が増えていくことが個人でも、組織でも、社会でも、国家同士でも必要なんじゃないかと思います。

平和な世界になってほしい。それはまず自分の内を平和にすること。それをせずして世界平和は成り立たない。自分の内が平和な人が増えていくことを願います。

今日から2日間、茅ヶ崎クラスです。今年最後のクラスです。皆で集まることができることに感謝です。楽しく学びたいと思います。

善いほうへ動いている
2023/11/22

人は起きていることをその部分だけを切り取るようにしてみているというのがあります。

特にそれがネガティブな物事の場合は、それだけにしか目がいかず、それをどうにかしようということしか考えられず、というようになります。確かに、ものすごくショックなことだったり、体に強い痛みや苦しさがあればそうなります。私も〜。

しかし、何かが起きるということは、その起きている物事が、急にぽんっと現れるのではなく、それが現れて来る「元」になるものがあります。それは、もしかしたら何度も何度もサインを出し続けていたり、時間をかけてきたものかもしれません。

そしてその「元」になるものは、起きていることを取り囲むようにあったり、その背後にあったりすると思います。そこへ触れていかなければ、また、同じことが繰り返されます。目の前の物事を解決したとしても、それを生み出している部分をそのままにしておいたら、またそれが現れます。その体験は多くの人がしていると思います。

またそれが現れないように「元」にあるものに気づいていこうという守りではなく、そのからくりを把握して自分のものにしていこうという自発的な在り方がいいと思います。

又、今起きていることには、今のところから次へ動いていくためのチャンスとか、きっかけとか、気付きとか、原動力が含まれています。それは正しく選べば、あきらかにより生きやすくなるものです。起きていることには罰はないです(自分で罰だと意味づけていればそうです)それには、今よりも、より、よく生きるためのものごとが含まれています。

そういう人智を超えたルールにのっとった目、本来の目で自分を見てみると、それほど深刻にならなくてもいいのかも、とか、そこまで息詰まってはいないことかも、とか、いよいよになったら逃げればいい、とか、この先どんなふうに展開していくのだろう、など、また違う気持ちを味わうこともできると思います。

で、本当にそうなんです。全ては善きほうへ動いているんです。正しく選べばです。もし、パターンで選んでいてその結果を後々受け取ったということもその人にとっては次へつながるものとなり善きことなので、いずれにしても人は善き方へ動いています。ただ、個人的には、正しいものを選び、遠回りしないで善き体験をされたほうがいいのではないかと思います。限られた今世なので、遠回りをしている時間とエネルギーを楽で自由に使い幸せを感じる瞬間をたくさん体験していったほうが他のためにもいいと思います。

オンとオフ
2023/11/21

「自宅でカウンセリングをしている」と言うと「オンとオフの切り替えが大変じゃないですか?」とよく聞かれます。

それは、自宅でカウンセリングをする、というのは、自宅=オフであり、カウンセリング(仕事)=オンである、という意味づけです。

自宅というオフのところで仕事オンをすると両方をひきずってしまい、ごっちゃになってしまって切り替えが難しいのでは?という事だ…と思います。

しかし、私は、オンとかオフとかの意識がそれほどなくて。これはカウンセリングをやりはじめたころからそうだったと思います。オンは仕事モード、オフはプライベートモード、と切り替えるほうがかえって難しい気がする。自分で感じているのは、仕事にプライベートが入り、プライベートに仕事が入っていて、境界線がないような形態です(これは、日常と非日常とも言える)

それはクライアントさんに失礼なのではないか?と思われる方もいらっしゃる(多いかも)かもしれませんが、それが間違っていることであれば(お互いにとってよきことでなければ)今までやれなかったと思います。

最初の頃は冬は狭い和室でこたつに入ってカウンセリングをしていました。和室、冬、寒い→こたつと思ったのでそうしたのですが、私としてはこれは変なこと、一般的ではない、などがありませんでしたが、一般的にはないだろうと思います。

カウンセリングは仕事、こたつは、もろ、プライベートな印象。これが嫌な方は来なくなっていたと思います。

で、何が言いたいのかというと「これはこういうもの」「普通はこれ」という一般的なものごとの捉え方を、何も考えることなくそれに従うのではなく、普通はこうだけど…自分はどう思っているのか、どう感じているのか、どうしたいのか、そこを大事にするといいと思う、ということです。

オフ、オンの切り替えについても、まず、自分で考えてそれが自分らしく、自分には必要なものであるから選ぶというところが大事だと思うんです。そのときに「これはこういうもの」だから「普通はこれ」だから「皆そうしている」からというところで選ばないということです。自分が考えて選ぶということです。

なぜならば正解ってないからです。それを正解と言う人もいればそれは不正解と言う人もいます。自分が選んだものごと、在り方を、いいね、と言う人もいればよくない、間違っている、という人もいます。それでいいということ。全員からの「いいね」はないのがそれこそ一般的なこと、普通なことです。

根拠はないけれど…
2023/11/20

持ち続けると良い(善い)もの。「根拠がない自信、根拠のない自分への信頼感、根拠のない未来への安心感」全て「根拠のない」といううっすらとしたものです。

これって、きっと自分の内になんとなーーーく感じることができるのではないかと思います(根拠はないけれど…の瞑想をやっているときにかすかに触れるそれ、そちらへ行かれそう…な感じです)

この、根拠はないけれど、自分はなんか自分なりにやっていかれるのだろうなあ、これから先も…。というマインドを漠然とうっすらと持ち続けるといいです(カードを引き続けている状態)

条件を並べて(これがあるから、こうだからというような)だから私はこれからも大丈夫という自信や信頼や未来ではなくてです。

でも、そう思えるための根拠は欲しいという方もいると思います。私が根拠になると思っていることは、全て人間は宇宙のシステムの中で生かされているということです。

そこに流れるルールは人智を超えたものであり、それにより、全ての命が生かされている。自己探求をしていくうちに、なんとなく、そこへたどり着き、今は、それを信じられる自分、それを信頼できる自分、そして、それによる未来の自分…と思いは自然に広がります。

これを思うときもやはり、はっきりとしたものではなくうっすらとです。はるか遠くを見ているような。しかし、はっきりとしていない分、何か安心できるものを感じます。この感覚が根拠なんだとも言えます。

根拠はないけれど…を時々思い出してみてください。

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