ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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アンテナ
2025/08/30

アンテナを張る…ということ。特にビジネスにおいては必要不可欠なこと。だからアンテナを張っておきなさい、とよく言われます。アンテナを張ることの意義は、それによりあらゆる分野の情報を取集できる、ひいてはそれは自分の仕事や、成長に役だつということなんだと思います。

新しいものにも敏感でいられる。その時の主流になっているものにも反応できる、より積極的に手にしていくという感じがする。

しかし、これは私にはなかったと気づきました。私はアンテナを張るよりは、心を開く、だったのだと思います(今も変わりなく)そしてアンテナを張ることで得ていくよりは、与えられるのを待つ、だったのだと思います(こちらも今も変わりなく)。

このほうがこの個体には合っていて、それで必要な物事は与えられてきたので、だからこれからも必要なときには与えられるだろうと思っています。必要ではないときには与えられませんが。それを創造してきたとも言えます。そして、それでよかった。だから、これから先も私はそれでいくのだろう。

与える存在は、多分、私の心身のスペースもわかっていて、または、管理能力とか、個性とか、魂の今世の課題とか、今までの魂の歴史とかもわかっていて、それ相応のものごとを必要なときに与えてくれているんじゃないかと思うんです。

自分で頑張っていくというよりも、そちらにおまかせして、私はそこで使うエネルギーをもっと違うところに使いたいと思います。逆行しているような在り方ですが、これもひとつだと思います。ただ、これが正しいのではないです。

自分にとって何が大切なのか、何が自分に合っているのか。それは一般的に言われている(その領域で言われている)ところにはないです。もちろん、その領域で成功しようと思ったら、そこのやり方や概念で挑んでいくしかないので、それを屈指できればいいと言えます。それが自分にとって大切なことだと思えたらそこで頑張ればいいんです。

大事なことは、それが自分にとって守り抜きたい大事なことなのか、自分に本当に合っているものなのか、です。盲目的にそれを信じてほとんどの人は生きているので、その中にありながらも、ここで疑問を自分にぶつけるということだけでも、階段をのぼっていることになります。そして、その疑問に対して正直であることです。正直であるから、与えようとしている存在が、次につながる必要なものごとを与えてくれるんじゃないかと私は思います。実際、与えられたものごとは、次への指針となり、歩むべき道が見えてきます。これって人にはできないことだと思います。

いかに自分に使うか
2025/08/29

今年からの体調不良にともない、今、私はお二人の整体の先生のお世話になっています。

お二人とも若い。多分40代前半。もっと施術してほしいと思うのですがお二人とも「そんなにやらなくていいです」とおっしゃいます。

そしてお二人がみたてている私の心身への見解も同じです(それは自分では気づいていないところ)お二人から感じる印象も似ています。お二人ともAIを屈指し、なおかつ、目に見えない世界のことも学んでいて、そこへのご自分のセンサーを大事にしています。そしてお二人とも謙虚です。それはうわべのことではなく、今まで、嫌な思いや、辛い思いをたくさんして、鍛えられてきた賜物だと感じます。

でーーーーー、気付いたのですが、私にとって施術は、自分自身への気付きであったり、先生から課題をもらってそれを行うことであったり、新に疑問を持つことであったり、先生のおっしゃっていることへの質問とか自分の考えとかを伝えたりと、施術を超えて、自分の知的好奇心を満たすひとときになっていると思いました。そちらの方へ私が傾きすぎると先生は今の身体についてのところに話を戻す。そのあたりの暴走しやすい私の偏りもわかっているのだと思います。

で、ここからが本題で。良い先生に巡り合ったことへの感謝はあります。しかし、それが絶対ではないということです。それはその先生たちが伝えていることを鵜呑みにしてはいけないということではなく(その担当分野にいるということですからそこは素直に受け取ります)この世に(人が作ったものに)絶対はないということを知らなくてはいけないということです。そういう意味では「魂の道場」も絶対ではありません。そう認識できると、この世に依存できるものごとがないこともわかると思います。

大事なことは、出会いや、機会や、体験したことや、それら全てをいかに自分に使うかということなんです(創造です。そして、創造が自立です)ここはたくさん持っているといいです。もちろん、何を持つのかを吟味することは大事だし(スペースは決まっているから)持つことは、もちろん、そこへ依存するということではありません。あくまでも、自分にとってのそれをどう使うのかです。これが自分はどう在りたいか、というところです。何があっても自分はどう在りたいか…。こうして創造し続けていく…という道を歩み出しているんだ、自分、と思っていてください。

必要なのは柔軟性
2025/08/28

お世話になっている整体の先生は、身体にビタミンが足りていない、とか、塩分を入れてバランスをとろう、ということがわかるのだそうです。

その話を聞いたときに思わず「いいなあ――先生の半分でもいいからそうなりたい」と言ってしまいました(先生、爆笑)これこそ身体の声を聴く、ということで、先生のようにわかれば、必要なものを身体に入れてあげることができるし、不必要なものは省くことができます。

先生も、そこに辿り着くまでには、色々とご自分の身体を使って、試してみたり、やめてみたりしながら、自分のそのセンサーを創られたのだと思います。

で、私は、これが全くといっていいくらいわからないんです。たまに、無性にレタスが食べたくなり数日間ばりばり食べた、とか、風邪で調子が悪いときに、とってもぬかづけが食べたくなる、とかはありましたが、そんなもんです。先生から「伊藤さん、身体が欲しているものを食べてくださいね」と言われますが、先生のようにはわからない。

「ご飯を食べた後に、ああ、美味しかった、と思うのですが、これも身体の声を聴くということなんでしょうか?」と聞いてみました。すると、それでいいんだそうです。今、何が必要かが食べる前にわからなくても、実際食べたものに対して美味しいと思ったということは、身体は今食べたそれが欲しかったということなので、そうやって身体と食べ物を見ていけばいいのだそうです。

そして、自分の身体は、こういうものが美味しいと感じるのか、とか、今日は少し疲れたけれど、そういう時は、これを美味しいって感じたんだ、とか、少しずつ今の自分の身体を知ることになるのだそうです。なるほどなあと思いました。

運動についてもそうなんだそうです。ウォーキングが身体にいいから、足腰を鍛えるために、というところで歩くのではなく、歩いていて、楽しい、と感じたり、歩調のリズムを心地よく感じられたりするのであれば、今、身体はこの動きが欲しかったんだということになります。

ただ、今の自分にとって、を忘れてはいけない。なぜならば身体は毎日変わるからです。絶対これ、が、ないんです。となると、必要なのは柔軟性だと思う。そして、完全なるものを求めないということだと思います(そもそもそれはない)決めてはいけない、というところでしょうか。心についてはそれを体験してきているので、それが普通になっていますが、身体についてのそれはまだよくわからない。先生に言われた通り、今がそれを学んでいくときなんだと思います。

自分にとっての身体、というところで模索し続けていこうと思います。

私は、私が、がないから
2025/08/26

先日、TVで「93歳の新聞記者」という番組を見ました。以下その紹介文です。「涌井友子さんは93歳。中野区のローカル新聞「週刊とうきょう」の現役記者だ。バスと電車を乗り継いで自分の足で区内を回る毎日。取材・執筆・校正、時には配達まで手がけ、地元の出来事を中心に月2回発行する。戦時中、報じられる情報から勝利を信じていた少女は、戦後、4人の子どもを育てながらペンを握った。新聞、雑誌、ラジオ、テレビ、ネット…めまぐるしくメディアが変わり続けた93年を彼女の言葉でたどる。(ドキュメント 20min.より)

画面には93歳の現役新聞記者の姿が映っていました。杖をつきながら取材先まで40分かけて歩き、取材先の関係者の方に「週刊とうきょうの涌井です」と挨拶をし、その後は取材用のノートとペン、ボイスレコーダー、カメラを用意して現場を取材します。帰ってきてからは取材の内容を執筆し、長女の方に原稿起こしをしてもらい、その後、何度も校正、そして印刷に出します。

私はただただ、目が点になってしまった…。93歳ですよ。すごい…では終われないぐらいのまっすぐな気迫を感じました。押しつけがましくなく、私、現役なんです、頑張っているんです、と自己主張することも全くなく「公平に誰にも肩入れせず、事実をたんたんと書くようにしている」と、おっしゃている姿には50年間続けてきたプロの記者としての在り方がにじみ出ていました。

93歳でどうして、ここまでの仕事ができるのだろうか。いや、できるとか、できないとかということではないのかもしれません。月2回発行するのだから、それを途絶えさせないように、そして中野区の催し物や、出来事をこの地区に住む人々に伝えるために、そのためだけに日々、続けていく、というとてもシンプルで純粋なことなのかもしれません。

ご高齢でいらっしゃるから、痛いところや、不都合なところはおありだと思います。しかし、それよりも月2回の発行のほうが上回っているのかもしれない。その心が、何かを動かし、仕事として続けさせているのかもしれません。

今、SNS上ではおしゃれな高齢者や、カリスマ高齢者や、美魔女高齢者などが次々と登場しています。それはそれでご本人がよければいいわけです。そして、世間的にも、そういう高齢者に憧れ、自分もそのようになっていきたい、という人が多いのだと思います。そうであればより、そこは増えていく。しかし、そこで感じるものは「私を見て!」というものです。

涌井さんは、そういう高齢者の方達とは、異質な「意思」を感じる方でした。私個人としては、とてもかっこよさを感じ、惹かれました。自分の「意志」自分の「哲学」そういうものが無意識のうちにもあふれ出しているのも、そこに「私は、私が」がないからだろうと思いました。中野区に住む人々のために…というところが涌井さんの基本になっていらっしゃるのだろうと思います。こんなに素敵な先輩がいらっしゃる。それもとてもうれしかった。

魯山人の器
2025/08/25

散歩のときに、茅ヶ崎美術館前を通る…というコースがあります。一昨日、このコースで歩いているとき、美術館の展示案内を見ました。

「うつわの彩り−吉田耕三と北大路魯山人 」8月24日まで。見に行きたいと思ってはいましたがまだまだ展示期間中だから大丈夫…と思っていたら、24日が最終日であることに気づく。

そこで昨日、朝一で茅ヶ崎美術館へ行きました。見てみたかったのは北大路魯山人の器でした。実物を見るのは初めてなんです。北大路魯山人は、陶芸だけではなく、篆刻、絵画、書道、漆工、料理などで活躍された方です。ひとつのことだけに才能を発揮する方は多いと思いますが、これだけのことを行うことのできる才能の持ち主。天才なんだろうと思います。

で、魯山人の器です。日常使いのものがほとんどです。料理家なので、その料理がよりおいしく見えるような器、というところで創作しているものなので、いわゆる「作品」ではない器が並んでいました。

おおげさではなく、きっと使いやすいだろう、厚みがあり扱いやすく、手にもおさまりやすいのかもしれません。料理が好きな人ならきっとこのお皿にはこんな料理をこのように盛ってとイメージもわくのだと思いますが私にはそれはないので、器を器として見て回りました。

魯山人の器には、日常使いのものとはいいがたい何かがありました。こちらの心に伝わる何かが。自分の内に小さな感動が生まれているのを感じました。それは器を見ればみるほど、大きく力強くなり、器を見て感動するという初めてのことにまた感動。

大袈裟に言えば、器なんですが生きていると思えるのです。息をして、そこに存在している。だからその前にいると、対話もできるんじゃないかと思える(しなかったけれど)。その息(命)をいただいて帰ってきました。

で、後から思った。クラスを行っていて時々感じるそれ、カウンセリングをしていて時々感じるそれ、ピアノを弾いていて時々感じるそれ、絵画を見ていて時々感じるそれ、本を読んでいて時々感じるそれ、おうちでバレエ程度のものからも時々感じるそれ。それと同じだ…と。それを一言で言うと、それは私の内におこる小さな感動で「これがあれば生きられる」というものです。これがあちこちに広がっていっている、それは一瞬でやってくる、飛び込んでくる、心が一瞬でキャッチするということを認識しました。

そして、多分、マスターたちは、それを自分の内で創りだし感動とともにある生活をしているのだろうと思いました。感動とは心の中の神が動くことだと以前教えていただきました。もしかしたら最も神を感じやすいことなのかもしれません。これは五感とは別のところにあるものです。

自分の感動を大切にしよう。そして感動したときには自分の内にいる神が動いたんだと思うといいと思います。

人生ってダイナミック
2025/08/24

あの空き地の件は、大人になるにつれて忘れていきました。

そして、多分50代の頃だったと思います。さくらももこさんが描く、自身の少女時代をモデルとしたコミック「ちびまるこちゃん」の漫画を読みました。自分では購入はしていないので、どこかで読んだのだと思う。現在、1巻から18巻まであるようです。

終巻まで読んだ記憶はないのですが、その中の何巻かに、あの体験と同じことが描かれているのをみました。

それは主人公のまるちゃんが友達数人と下校途中に、今まで気が付かなかった空き地(公園っぽい)を見つけます。とてもきれいで気持ちのいい空き地だったので、皆でそこで、しばらく、楽しく遊びました。明日も学校の帰りに皆でまたここで遊ぼうと言ってそれぞれが家に帰ります。そして次の日、皆でその空き地に行こうとしたのですが、その空き地が見つからない。あちこち探してみたけれど、見つけられなかった‥‥と言うお話でした。

これはフィクションなのかもしれません。またはさくらももこさんが子供の頃に体験したものなのかもしれません。または、そんな体験をした誰かから聞いた話だったのかもしれません。いずれにしても、これを読んだときに、あれは、実際あったことだったんだ、と思いました。大人になって、かえって素直にそう思えました。

自分が学んできたことや、教えてくれた先生方の言葉や、そのころに読んだ本や、実際自分の身におきた数々の不思議を総合して物事を捉えるようにだんだんなっていっていたからだと思います。

起きていることは単独で起きているのではなく、何かと何かが繋がれているように、何かを教えるように、起きていると思うようになっています。人にはまだまだわからないことはたくさんあって、だからこそ、生きることの意味がある(時には怖い思いもするけれど)。

先日の、どこか異次元に入り込んでしまうような、という、夕方の散歩も、この「ツユクサ」のことを再び浮上させてくれました。今、それが出ている。夕方の散歩によって。これも、偶然ではないという捉え方ができます。ここから何を私は学ぶのか。そして、それはどこに繋げようとしているのか。それを実は皆心の奥ではわかっているんです。それを顕在意識に上げてくるためにいろんな出来事があるんだろう、と思います。

ここまでくるのに「ツユクサ」が一役かって出てくれていたんだと思うと、あらためて人智を超えた何かの意図を感じます。自分の今までを時々振り返り、点と点が結ばれていくような軌跡をみつけていくのもおもしろいと思います。人生ってダイナミック。

空き地
2025/08/23

私は、小学5年生の時に東京から茅ヶ崎へ引っ越してきました。そして、家から歩いて20分くらいの所にある学校へ通っていました。

学校から帰るある日の夕方、いつもの道を歩いて家に向かっていました。そこは、こじんまりとした住宅街の中を通っていく道なのですが、見慣れた家々を見ながらいつも通りに歩いていました。

そして、青い色が印象的な(屋根の色だったのか、外壁だったのかは忘れてしまいましたが)素敵な家の前を通りすぎると、左手に空き地があることに気づきました。あれ?こんなところに空き地ってあったっけ?青い色の家と隣の家はくっついてあったはず。今まで1度も空き地を見ることはなかったのに。気がついていなかったのか。

その空き地には大きな木が1本立っていて、その木のまわりには「ツユクサ」の花がびっしりと群生していました。みごとにびっしりと、まさに青色の絨毯をしきつめたようにです。あまりにその「ツユクサ」の花がきれいで、小さな空き地に入り、大きな木の根元に立ち、木に触り、木を見上げ、まわりに群生している「ツユクサ」の花にみとれていました。この神秘的な光景に子供心になんてきれいなんだろうと思いました。こんなにきれいなところがあったなんて。何故今まで気がつかなかったのだろう。しばらくそこにいて「明日も来よう」と思い、家に帰りました。

そして次の日、わくわくしながらその空き地へ行ってみました。青い家とその隣に建つ家との間にある空き地。ところがみつからないのです。青い家の隣に空き地はなく、くっつくように隣の家が建っている。なんで?と思い、またその道を戻りながら確認し、またその道を何度も通ってみましたが、空き地はみあたらない。

家に帰り、当時一緒に住んでいた叔母に空き地があったでしょう?と聞いてみても、あの道に空き地はないでしょう。と言われました。私が道を一本間違えているのだろうか、と思い、違う道を歩いてみましたが、やはりあの空き地をみつけることはできませんでした。

でも、私はあのとき、確かにあの大きな木に触り「ツユクサ」の群生を見て、それにも触り、子供心に感動をした。それは確かにそうだった。あったはずのものなのに。しかし、もう、空き地を見つけることはできませんでした。

大人になるにつれて、このことはだんだんと忘れていきました。「ツユクサ」の花を見かけるとこの時のことを思い出しながらも、そそっかしい、私なので、自分の記憶違いだったのかもしれない、もしかしたら夢だったのかもしれない、と思うようになりました。続く。

夕方の時間帯
2025/08/22

昨日は、18時近くになって、ちょっと散歩に行きました。

今の私の散歩は、気持ちよく歩くことが大事で、歩数や時間を目指して歩くことはしていません。まして…エコバッグを持って、目についた野菜とか、明日のおかずになりそうなものがあったら、買いながらのものではありません。

小銭と、家のカギと、小さな万歩計(時計付きなので便利)だけをパンツのポケットに入れて、手には何も持たずに歩いています。

この時間であっても涼しくはありませんが、歩くことで自分が解放されていくのがわかります。歩くって楽しい〜と心も身体も喜んでいる。それをさせてあげられていることも嬉しい。

夏の夕方って不思議な感じがします。多分、この時間帯の持つ光や、これから日が沈み夜がやってくる前の、人々の…今日も終わった…という空気感によるものだと思いますが、全体に緩くなっている感じがします。見慣れた風景であり、歩き慣れている道なのに、どこか異質な感じがするときがあります。なんだか、異次元に入り込んでしまうような気がするんです。もしかしたら、すでに入っているのかもしれない。

目の前に見ているいつもの風景。でも、それは異次元のそれなのかもしれません。いつものお店、そこで働いている顔見知りの人達。それも異次元に在るものなのかもしれません。そして、私自身も異次元にいる自分で…。というように。

そんな危うく、ちょっとした怖さもある、夕方の散歩ですが、魅力的に感じています。

今年の暑い暑い夏に思ったこと
2025/08/21

今年は、お会いしている皆さん、それぞれがいいところに気づいて、それを深めていっている…と感じています(いいよーーーー)今迄の努力が実ってきていると思います。それも自分で獲得した力のひとつになります。それを言語化して、白黒ワークの白の部屋で言う言葉のひとつにしてみてください。

直接お会いする機会が少ない方も、きっと今までとは違う何かに気づいているんじゃないかと思います。同じことをやっているので、誰かが気づいたという現象は同じところに影響を与えていきます。だから同じ時にそれぞれが何かに気づくということが起きるのだと思います。ご自分のそれをどうぞ大事にしてください。必ず自分を養う大きな力になってくれます。

その気づきには、痛みもあるかもしれない、悔しさや、怖さや、不安や、不甲斐なさもあるかもしれない。でも、それでいいんです。それはパターンだから。パターンは新しいことを嫌うので、どうしてもそのような感情・感覚が出てきます。そこをそんなふうに感じないようにしよう、とこれもまたパターンで対処しないで、新しいことを嫌がるそのパターンを大事にして、一緒に今日も1日過ごしてください。自分の内に起きることは全部が必要なことなんです。それをパターンで整えようとしたり、変えようとしたり、パターンが描いている理想のものにしようとしないでください。

ここでの一致性がとても必要になっていきます。階段を上がっていくために。自分に対する正直さが必要になるからです。自分がどんなパターンを持っていてもいい。だから赦している。そういう「私」です。だからこそ「私」はどう在りたいのか…。この世界を楽しんでいただけるよう、私も善きナビとして日々自分に向き合い、少しでも自分を高めていきます。こうやって私は皆さんから課題を与えてもらっている。ここも同じことをやっている同士、影響し合うのです…と今年の暑い暑い夏に思ったこと。

パターンを嫌うパターン
2025/08/20

昨日書いたこと、なんとなく伝わっているといいなあと思います。

ここに向かいたい。そのために、自分の内にパターンを嫌うパターンがいるかどうかを観察してください。このパターンを嫌うパターンはほとんどの人の内にいると思っています。このパターンは、他の自分の思い通りに行っていないパターンたちのことが嫌いで、煩わしく、そのせいで自分はうまくいっていないと思っています。

で、無意識であると、それが「私」になって語りかけをしたり、白黒ワークをしたり、マントラもそれが言い続けたりします。ひたすら、早く、他のパターンたちを静かにさせて、ひっかからないようにしたいからです。このパターンにしてみれば、全てのパターンの存在を赦すなんて、あり得ないことだと思っているので昨日書いたことに向かわせないように働きかけてもきます。

それが中心に立つと、焦る気持ちが出たり、もっとやらなくては、もっと頑張らなくては、という気持ちになっていきます。このパターンの力を弱めたい。

このパターンを野放しにしておくと、あらゆるところに出てきますので、このパターンにこそ、語りかけから一連のワークが必要になります。

日々の中で行っているパターンへの語りかけの中にぜひこのパターンへの語りかけも入れて、ここに力を注いで行っていってください。そうやって、昨日書いたところへ向かっていかれるように、土台作りをするといいと思います。

あとは「私」を意識的に使うことに目を向けます。「私」が語る、ワークをする、「私」が考え、選ぶ、「私」の言動。「私」をいつも意識する。

肉体を持って生きているこの現実の世界でこのことを心の中で、もしくは、言動として行っていきます。

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