ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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1歩1歩進む
2024/08/20

昨日の「人は見返りを求めるとろくなことがない。見返りなしでできる人が一番素敵な人」by 明石家さんまさん。

この言葉を見ると「そうか、見返りを求めてはいけないんだ」と思う方もいるかもしれません。「見返りを求めているからうまくいかないんだ」と。

しかし、黒パターンは見返りを求めるんです(そして、見返りを求めてはいけない、というのもパターンです)そこには、パターンの言い分があって、それは当然だよ、という領域ではあたりまえのことなんです。皆そういうところにいました。もしくはいます。

それはそれで持ちながら(決して捨ててはいけない)でも、見返りを求めないで何かに向かう、行動する、っていいなあ、自分もいつかそんなふうな行動の仕方をしてみたいなあ、そのときの自分の心は見返りを期待していたころよりもきっと落ち着いていて、安定していて、活力があるような気がする…とイメージできるかも。

それが「私」はどうありたいのか、ということだし、「私」の快だし、「私」という魂の声を聴くということです。すぐにそうなれなくても、でも、遠い先に目を向けると、それが待っていてくれるような気がします。それに憧れをいだき、そこへ向かいたいという気持ちが湧いて、人は自ら向かっていくのだと思います。

でも、そのときに、ただ思いを持って待っているだけでは向かっていけないので、今自分にできる(やるべき)それは何だろうと考えます。これは一人一人違います。そしてきっと自分ではそれが何かもわかっている。それはきっと今までは避けてきたものごとであり、それを行うには勇気がいるし、行動力も、継続力も、意志力もいります。でも、そうやって1歩1歩進むしかありません。

例えば、自分でできることとして、目先の損得や、リスクがあるのかないのかで決めない、とか、努力した結果思い通りのものが返ってこなかったけれどこれでいいと自分をおさめる、そして、次はどうしたらいいのかを引き続き考える、とか、もっともっとと欲張ることをやめる、とか。それも考えるのではなく「私」はどうありたいか、というところで感じて選び行動します。

このような小さな、魂からの試みが大きな動きになっていき、自分自身も、自分の周りも自然に動いていくのです(あちらが与える)ですから特別に何か大きなことをする必要はないんです。自分の周りでの小さなことで十分なんです。それが「私」の望みであれば、きっとその時に満足し、その満足が感じられることで、これからまたよりよいものへと自然に動いていきます。こういうシステムの中で生かされているからです。

見返りを求めると…
2024/08/19

茅ヶ崎クラス、岩手クラス両方のクラスでは、今までの所の話から新な所へ向かう話に変わってきているため、わからなかったり、ごっちゃになってしまったりすると思いますが、これも慣れていけばいいだけなので深刻に考えず、気楽に学んでください。すぐに理解しようとしないということです。

今までの所のやり方とか価値観とかが身にしみて誰でもいるので、ついつい、そのやり方や価値観を持って新しいことも理解しようとするし、やろうと思います。で、うまくいかない、とか、私に「違う」と指摘されるとか、それでいいんです。

ましてや、今までの世界とは真逆の世界のものを使っているので、最初っからわかるということはないです。でも、少しずつ新しいものに慣れていくことでわかってきます。そこを待ちつつ、やるべきことをやっていく。それも軽く。気楽に。新しいものを怖がらずに、わくわくして、楽しく。子供のように。好奇心をもって。柔軟に。積極的に。きっと楽しめるはずです。

楽しめないのは今までのように、これを得るためにこれをやる、これだけやったらこれが得られる、というパターンを新しいところでも使えると思っているからだと思います。今までの楽しめる、というのはパターンの思い通りにいっている状態を言っていました。

しかし、新しい所では、そこじゃあないんです。よくわからないけれど、まだ見ぬ世界があるんだろうなあと感じられていればいいんです。そして、だからこそ生きることはおもしろいんじゃないかと思います。

明石家さんまさんがこう言っていました。「人は見返りを求めるとろくなことがない。見返りなしでできる人が一番素敵な人」さんまさんは成功している人だからこういうことが言えるんだ、と思われるかもしれませんが、それは逆です。こういうことを知り、それを軸にして仕事をしてきた方だから大成功したんです。

ここでも、何か事にあたるときには、見返り(結果)に執着しないで、その在り方が大事と言われていると思います。今までにはないこの視点、そして感覚。必ず自分はその世界を知ることになるんだ、と思って、軽く、気楽に、積極的に、そして受け取る用意をして(あちらが与えてくれるので)クラスでの学びを楽しんでください。

人は快が好き 2
2024/08/18

昨日の続きですが、快は「私」にとっての快なのでいつも「私」の快の感覚に従っていけばいい、ということです。これはすごく単純なことです。

「私」がハートで善いと感じるものごと、「私」が正しいと感じるものごと、その良き感覚に従って、それに沿う心もちで行動をしていけばいい、これだけのことです。

そうやって自分が選択したこと(決めたこと)に脳も協力し、量子も動く。だから、自分は決めるだけでいいということでもある。

それを躊躇してしまうのは、黒パターン。自分の感覚は間違っているかもしれない、あの人の言ったことのほうが正しい、だいたい、根拠もないそんなことを信じるのは危険だ、など思います。

しかし、他人はほぼパターンで生きているので、それこそわかりませんし、それが自分に合うことなのか、もある。根拠がないと言いますが、根拠はあるとも言える。実際そうやって安定し、すっきりと生きている人たちは世界中にはたくさんいます。

そして、自分の感覚を疑うことなく従うためには練習が必要ですが、2つの部屋に入った感覚、白黒ワークをしている時の感覚、語りかけをしている時の感覚、など、全て「私」の感覚を育てる練習を自然にしていることになります。そうしながら自分の感覚は養われていきます。

一気にはできないとしても、毎日やり続ければ、そこは必ず磨かれていきます。ただ、継続することが苦手な人が多いように思います。最初はやる気があってもいつのまにかやらなくなってしまっている。ここが一番足をひっぱるのではないかと思います。

この「私」の感覚がわかれば、何かを決めるときに、ああでもない、こうでもない、と時間とエネルギーを使って疲れながら決めなくていいし、自分が今何をすべきなのか、自分という魂をきれいなまあるい形にするには何が欠損しているのか、何をプラスしていくのかがよくわかるようになります。それは、よーく考えて導き出すのではなく「わかる」んです。

それは勇気と継続力と行動力と意志力とを必要とするようなことだと思いますが、それが「私」の快なんです。それを選んで動いているときの自分に「快」を感じませんか?それによりどんな結果がきたのか、ではないんです。プロセスに「快」を感じる。多分、そのときにはもう、結果のことを忘れているのだと思います。今というこのときに何を選んで、どうしていくのか、というところです。

人は快が好き
2024/08/17

人は快が好き。だから快を感じるところへいこうとする。というように本来そのように創られています。

もちろん、その快は健全な、宇宙のルールの快です。ただ、黒パターンが主導権をにぎっていると、その快も黒パターンにとっての快となります。だから、その快を求め続けてしまいます…が…それはどこかで実際立ちいかなくなってしまったり、快を選んでいるにもかかわらず、心がすっきりと晴れ渡ることはありません。

立ちいかなくする、すっきりしない心を起こすという「私」のセッティングなんでしょう。そっちじゃないよーーー、その快じゃないよーーー、それを選んでいるからだよーーー、ということです。それでもそのセッティングを強行突破して今まで通りに快を求めることを多くの場合行います。これが苦しみになります(ますますのセッティング)

そこで初めて、何か自分が選んでいるものごとが違うんじゃないか、目指していることが違うのではないか、と気付く人もいれば気づかない人もいます。それはそれでいいんです。

気づかない人に教えてあげなくていいし、気づかないことを(本人も感じていないけれど)選択している、その人を尊重するということです。そして、気付かない人から教わること、私はよくあります。ですから気づいていない人=レベルが下の人ではないです。

で、健全な快。宇宙のルールの快。それがもともと人は好きです、ということです(きっとそこから生まれてきたからだと思う)だからそこへ行きたいと人生後半に思う人は思うのだと。

人生前半は誰でも黒パターン主導で生きています。それにより、曇った心でいる状態が続き、何故なんだろう?と自分を省みるようになります。で、気付く人は気付く。選んでいた物事が違う。そして、新な物事を選んでいくことで、本来の快を感じるようになります。

健全な宇宙ルールの快です。それはぶれない快。あたたかさに満ちた快。迷うことのない快。深淵で、躍動的な快。そして、どこか懐かしい快。いつの日か皆がそこに帰るので、魂はなつかしさを感じるのかもしれません。

帰る前にこの地上での生活の中で本来の快を感じて生きられたらいいと思うんです。

今日は地獄なみの暑さのようです。くれぐれもお体ご自愛ください。

過去の思考を選ばない
2024/08/16

今朝もまたパターンの話ですが。

自分の内にいる黒パターンとそのとなりにいる白パターン。それぞれがその特徴を持ってそこにいます。どんな特徴かというと、黒パターンは「過去にある、他にまかせる」白パターンは「未来へ向かう、自分にまかせる」すごくすごくざっくり言えばそういうものです。

黒パターンの「過去にある、他にまかせる」というのは、今まで自分が生きてきた間に教えられたものごと、大人になってその時に自分で体験したことを通して決めたものごと、皆がいる領域だけが全てだと思っていてそこに合わせようとすること、など、昔から多くの人たちの間にある、価値、ルールを信じてそれに縛られている、それに頼っている状態の事を言います。

そして、そこでは思考が優先されています。思考で導き出せるものごとは多くの人を納得させられるし、納得した人数が多いということで確かなものごとにもなります。

白パターンは、未来へ向かうもの、自分にまかせるものです。そこでは、思考よりも感覚が優先されていきます。はっきりしないものごと、あいまいでつかみどころがなく、快なのか、不快なのかが重要になり、そこに漂っている無数の可能性の中から自分にとって必要なものごとを見つけ、手にする。そしてそこには過去のルールに基づくものはなく、これからの自分、未来の自分、自分にまかせる自分へ向かうものとなります。

こうして進んでいくときに、過去にあるままの精神で進むことはできません。過去に信じて来ていた物事を自分なりに、選択、更新していく必要があります。その時に人は怖さや不安を覚えるのだと思います。まだ知らないことを選ぶって怖い、自分にはできない、できなかったらレベルが低いことになる、など、思うのかも。これは、まさに、過去にある、ということです。

でも、誰でもが初めてのところからスタートしています。初めて歩いた時、初めて言葉を話した時、初めての幼稚園、学校、社会、仕事、そして初めてのカウンセリング、自己探求。どれも初めてからのスタートで、それなりにどきどき、したり、怖かったりしたのだと思います。それでもやってこられている。そのキャリアがあるのですから、白パターンを選ぶこと、行動することには過去にあることはやめて、新しい一歩を踏み出すことへの、わくわく感や、楽しみを持っていかれるといいなあと思います。とにかく感覚の世界ですから。そして人は快が好きなんです、

白パターンを選ぶ、ということを過去の意識でやらないようにしてください。できる、とか、できない、という過去の思考を選ばないでください。

8月は…
2024/08/15

今日は「終戦の日」です。この大戦で亡くなられた全ての方々の魂がやすらかでありますように。そして、今も続いている戦争が終戦をむかえてほしい。

8月は「広島の日」「長崎の日」「終戦の日」とあり、8月は私にとって両親や祖父母から聞いた戦時中の話が自然と蘇ってくる月です。普通に生活をしていた市井の人々が、戦争に向かっていかざるを得ない状況に追い込まれていくことを思うと本当に怖いです。いくら自分がそうありたくないと思っていても、大波に飲み込まれていくように、強制的に、追い込まれていく。人が人ではなくなってしまう怖さです。

小学4年生頃だったと思うのですが、夏休みで家にいたときに、同じクラスのT君のお母さんが家にいらしたことがありました。母とT君のお母さんは特別に親しかったとは思わなかったのですが、多分、学校行事で一緒になったのかもしれません。

母とT君のお母さんは、和室に座って、なにか話していました。私は「あちらへ行っていなさい」と母から言われて、隣の部屋でひとり何かしていたのだと思います。どのくらいの間、話をしていたのかはわかりませんが、T君のお母さんが帰られるときに、目からあふれる涙をハンカチで抑えながら、帰っていかれたのを見ました。

私は「何でT君のお母さん、泣いていたの?」と母に聞きました。母は「T君のお母さんはね、広島というところに住んでいたときに、原子爆弾が落ちて、それから病気になってしまったの。病気になるとみんな悲しいでしょ。だから、このことは学校で話してはだめよ。」と言いました。

ちょうど学校の授業で、私は初めて、原爆が投下されたときのビデオを見たので、母の話しを子供ながらに理解しました。涙を流していたT君のお母さんの姿は今でも覚えています。

そして、今思うに、もしかしたらT君にも何かあったのだろうか、と思います。もし、そうだとすると、T君への申し訳なさでご自分を責めていたのかもしれません。戦争がなければ、こういうこともなかったのに。

しかし、何故母だったのだろう…。これは全くわかりません。こういうことも(まだ子供だった私ですが)「私」のセッティングであり、ご縁であり、それは大人になった今、そうであることもわかります。人はこのように小さな出会いや縁であっても、意味があるのだと思います。私は、今のこの平和な時に感謝し、自分がやるべきことをやり続けようとあらためて思います。

決めつけから離れる
2024/08/14

黒パターンは、頑固な決めつけをしています。

「自分には自信がない」「自分はダメだ」「自分には無理」「きっとできない」「社会とはこういうもの」「人生とはこういうもの」「成功者とはこういう人」「絶対なるものがあれば大丈夫」などなどなど。まだまだ他にもあります。

そして、それぞれの黒パターンはそれを決めつけています。そこにはパターンの言い分があります。パターンは実際体験したことや、ずっと親や周りの人たちから言われ続けてきたことや、同じことを繰り返すうちにその決めつけを強め、どんどん大きくしていってしまいます。

いずれそれはごくごく普通のこととなり、そうであるから、何の疑問を持つこともなくそれに合わせて生きていくようになります。そして、自分でも気付かぬうちにパターンが「その人」になっています。その大きなパターンがその人になってしまっている、ということです。

多分、このことをもって「あの人って偉そうだよね」とか「あの人って弱そうだよね」と、他人がその印象を言うのだと思います。それはその人の印象と捉えていると思いますが、そうではなく、パターンが人格化した状態であり、本来のその人ではないと私は思っています。そのパターンが王になっているということです。

黒パターンに力があるのではなく、決めつけでしかないのです。本当は多くの選択肢(それに対しての意味づけ)があり、その中から自分に合うものを「私」が選んでいいようにできているのに。そのことを知り、そのことを少しずつ受け入れ、新な行動を継続することで(白パターンを選ぶことで)その決めつけから離れていくことになります。

で、白パターンとしてよく使うものとして「○もしかしたら、もう、自分には自信がない、と決めつけなくてもいいのかもしれない」というものがあります。この白はどの黒パターンに対しても使えます。「もしかしたら、もう、○〇と決めつけなくてもいいのかもしれない‥‥(←この‥‥の持つ余韻、そしてもしかしたら、という今まで全く思ってもみなかったことへ、新しい風を吹き入れる言葉が大事)」と言う白パターン。

そしてその白パターンの部屋から聞こえてくる言葉は…?自分のモチベーションを上げ、よし、進んでいかれる、進もう、進みたい、という気持ちを生み出す光の言葉。それを豊かに、たっぷりと、響かせてみてください。

そこにあらわれる世界を感じてみます。人は、気持ちのよいものを選びたいんです。魂は真・善・美に向かいたいからです。その在り方が本来のものだからです。そして、気持ちのよいものは白パターンが持っています。

学んできたことの質を上げていく
2024/08/13

今回の2日間岩手クラスも無事に終えることが出来ました。感謝です。

台風5号、皆さんはどうだったのだろう。色々な災難が無事に過ぎていかれるように、大難が小難になっていかれるように、祈り続けよう。

備えをすると同時に、覚悟しながら、でも、過敏に神経質にならずに、やはり、感謝を持っていきたいと思います。そして、今まではこうして自由に動けることがあたりまえであり、クラスが普通に開けることがあたりまえであり、でしたが、そういうことでもないということを今は思います。毎月のクラスが開けることは普通のことではない、特別なことなんだと思いました。だから大事にしたいです。

今回の岩手クラスも、ぐいぐい行われました。で、よく起こることですが、今までのやり方が間違っていたことに気づいたり、今までやれていると思っていたけれどそうじゃなかったことに気づいたり、ということは誰でも、あることです。

そのときに、それは自分がダメだったのではなく、自分はできていなかったのではなく、今までが無駄だったのではなく、今までのやってきたことの質を上げていくために新しいことを学んだ、知った、と捉えていけばいいということを話しました。

実はあらゆることの学びはそうだと思います。あるところまでできるようになったころに、それについての新しいことを学んで、知って、今までのものがより熟成されていくということです。この感じを大事にしてほしいです。

今まで間違えていた、できてなかった、では、今までのものを切り捨てて、新たにやっていくということになります。そうではなく、今までのものをよりよいものにしていく、ということで、それは以前からこれからまでずっと繋がっています。そうやってひとつのものごとを自分が創っていっています。

次回、10月は岩手、茅ヶ崎の合同セミナーです。無事に皆が集まって開催できることを今から願っています。

しとめる
2024/08/07

マンション住まいのよいところ(何階に住んでいるかもあるけれど)は、虫に悩まされないところかも。特に虫が苦手な人はそう思うかもしれません。

私は、蚊が苦手です。夏場、樹々のあるところへいくと必ず刺されます。それも連続でいくつも。皮膚が薄いのか、その刺されたところが痒みと痛みで熱を持つ感じがして、すぐに薬を塗るもおさまりが悪い。

そんな私にはマンションはありがたいのです。実際、部屋の中で蚊に刺されることはありませんでした。

で、先日、明け方、なんだか足の甲が痒い、痛い、熱い。そうしたら耳元で「ぷ〜〜ん」という蚊の飛ぶ音が聞こえました。飛び起きてみたら足の甲はあの蚊特有のぷっくり跡がありました。それも4個。「やられた」と思ったと同時に「しとめる」と思いました。

部屋の扉をしめてこの部屋に蚊をとじこめ、探しました。殺虫剤という方法もありますが、できれば使いたくない。しかしいくら探してもみつからず。とりあえず、部屋をしめたままにして用事をすませて、また数時間後、部屋に入りました。やはり姿は見えず。

これは、おびき出すしかない、と思い、足と腕を出してそのままじっとしていたら、きた、きた、腕にとまりました。慎重に叩く、しかし、逃げられる。逃げた先を目で追いながら、近くに会った雑誌を手にして…タンスにとまったところを一気にたたきました。

で、しとめたんですが。大きなやぶ蚊でした。これで今夜は安心して眠れるとほっとしました。

蚊1匹のことでこんなに大騒ぎするのもおかしな話なんですが、私にとってはけっこうなできごとでした。この高さでも蚊はやってくる、というのが教訓でした。

今日はこれから盛岡へ行ってきます。6月の合宿をお休みしてしまい、今月合宿ができるようになりよかったです。2日間あるので、ゆっくりと、じっくりとやってきたいと思います。暑さも続きそうです。皆様、どうぞお元気でお過ごしください。

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