ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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私は練習をした
2024/07/07

茅ヶ崎クラスは、今回も、岩手クラスよりおひとり参加され(K子さんありがとう)内容の濃いクラスになりました。

なんとなく、感じている、来年はもうクラスができないのではないだろうか、災害や何かもっと違うことによって‥というのが頭の中にあり、だから開催できる1回1回が私にとってはとても貴重なことに思えます。

ところで「私は練習をした…ということが自信になる」という言葉がきのうTVから聞こえてきました。これ、これだよね、と思います。

それによってできる、とか、できない、とかではなく。何かにむかって「私は今までで最高に頑張って練習した、努力したんだ!」と自分で言い切れることがその人の自信になるのです。失せることのない自信。そういう体験をしてほしい。自分のために。

そういう体験をしたという生き様と、そういう体験は1度もなかったという生き様とでは人生の厚みが絶対に違います。

それによって、すごい物事を手にした、それがビジネスとなり成功した、経済的に豊かになった、というところに繋がればそれはそれでいいですが、そこには運とか、その時の状況だのが関係してくるので、そう成し得なかったから失敗だったでは決してないんです。

自分が感じられているそれ。これだけはやりきったというそれ。それが自分の内にあることこそ尊いと思います。それがあれば、他人と自分を比較することもない。何か困ったことが起きても、最高に頑張って練習したことのある自分だからそこを乗り越えられる、と思えます。

結果よりも体験そのもの、そしてそのプロセスです。そちらへ目を向けられるようになること、それを行動すること、そうやって手にした自分の自信。これこそ本物だと思います。

言葉は大事
2024/07/04

自分が何気に口にする言葉に気づくこと。

「私なんて」「どうせだめ」「自分には無理」「私にはできない」「私にはわからない」「私は知らない」などなど、無意識のうちに使ってしまっている言葉がないでしょうか。

無意識で言っている言葉なので、それは頻繁に使われてどんどん大きくなっていきます。そして、そのようになる。だから言葉は大事です。

色々とこの類の言葉には気づいたほうがいいし、気づいたのなら使わないと決めて、そのように行動しなくてはいけないです。

特に「めんどうくさい」という言葉。これは本当によくないと思います。「めんどうくさい」をいつも使っていると、あらゆることがめんどうに感じられ、自発的に動くことをしなくなります。

ただ、この言葉をよく使う人は、そんな自分が物事に執着していなくてかっこいいと思っていたり、そのくらい自分はリラックスしていると勘違いしていることが往々にしてあります。難しいところではありますが、自分を客観的に見ていくことや、自分の使う言葉を疑うことなども必要になってくると言えます。

めんどうくさいを言い続けて、結局は物事がすすまなくなっていった(めんどうくささを感じる物事が増えていった)という人もいます。言葉は自分の口から出たり、心の中でつぶやいたりしますが、それは自分の脳をそれに書き換えます。脳はそれを探そうとし、結果、ちゃんとたくさんのめんどうくささにぶちあたります。脳が探してくれていただけなんです。

心身はその主である者の声をちゃんと聴いてその通りに従うということなのでしょう。

今日から2日間、茅ヶ崎クラスです。朝からすでにものすごく暑いので皆さん、気をつけておいでください。私はお助けジュース持参で行きます。

心の余裕
2024/07/03

昨日、近所のスーパーに買い物に行き、レジに並んだときのこと。私の前に一人の男性の方がちょうど会計をしているところでした。日本人ではない。多分、中東の方だと思います。

その方は缶ジュースを1本買っていて、清算が終わったときにレジのお姉さんに向かって「ありがとう」と言って右手を自分の胸にあてて軽く会釈したんです。優しい微笑みの顔で。それがとても自然で、これはいつもそうしているから身についていて、ありがとうの気持ちをこの方は自分の表現で伝えたんだ、と思いました。

そして、次は私の番。ここでもうおばさん爆裂。「なんて、紳士なのぉ。あの方。素敵ねえーーー」とレジのお姉さんに言いました。するとお姉さん「そうなんです、あの方はいつもあのように誰に対してもしてくださるんです」という返答がありました。

「いいですよねえ」と、くどくど言う私に「ほんとに、嬉しくなりますね」とお姉さんがまた返してくれました。心からのそれはこうして周りの人たちを嬉しい気持ちにさせてくれます。

何がそんなに素敵、いい、と思ったのか帰り道に考えました。で、気付いたのはあの方のその行為に「心の余裕」を感じたからなんじゃないかと思いました。

心の余裕って、全てが思い通りにいっていないと持てないと思っている人がほとんどだと思いますが、思い通りにいっている/いないで決まるものではありません。母国ではないところで生活していくって我々日本人以上に大変なことだと思います。

その中にありながらあの方が見つけた自分がここで生きていく術、それが心の余裕を持つことだったのかもしれません。

SALEと言えば…
2024/07/02

あちこちでSALEをやっている。

SALEと言えば…前にも話したと思いますが(聞いた方は再びですみません)。もう、ずいぶん前。茅ヶ崎駅ビルのSALEのときのこと。私も行ったんです。それが初日だったか、数日たってのことだったか忘れてしまいましたが、駅ビルに入り、上りのエスカレーターに乗りました。

すると私のすぐ後ろに、走って来たのか?という息遣いの女性がエスカレーターに乗ったのがわかりました。ちょっと息が上がっている呼吸音が聞こえたので、きっと、目指すSALE品があって、走って来たんだろうなあと思いました。

しかし、体が妙に近い。私のすぐ後ろにぴたっと立っている感じがしました。内心、嫌だなあ、気持ち悪いなあ、と思いましたが、女性だからよしとしようと。

後ろを振り向くことはできないので、横眼で、できるだけ後ろの人の様子を見よう(目は後ろまではいかないので無理なんだけど)としてみたら、エスカレーターのベルトにきれいな手が添えてあるのが見えました。色白の、細い手。ああ、この手は若い女性だ。おじさんじゃなくて本当、よかったと思いました。

しかし、その手もやけに近いところに置いています。そのうちに呼吸音も聞こえなくなり、上の階に着き、エスカレーターを降りて、その拍子ですぐに振り向いたのですが、誰もいなかった。キョロキョロして若い女性を探す挙動不審な私。どこに行ったのよぉーーーーー。

あの女性は亡くなっている方でしょう。自分が亡くなっていることに気づかずに、生前の時と同じようにSALEに来ていたのだろう。SALE大好きな人だったんだろうと解釈しました。そのときに思いました。亡くなったときには、自分の好きな物事がここにあるとしても、それがどんなに大事な物事であっても、それらとさよならしてガイドについて素直に行くことが大事なんだと。

以前、国技館に大相撲を見に行ったときにも、そのような女性がいたので、その方もきっと生前からの相撲ファンで、同じような状態だったのでしょう。

生きているときの執着はいかんなと思います。生きている時の在り方が続くわけですから。良い死を迎えるためには生きている今から執着から離れていく練習が必要なのだと思います。

吉兆
2024/07/01

昨日、氏神さまである「厳島神社」に伺ったら「茅の輪」(ちがやという草で編んだ直径数メートルの輪)が設置されていました。去年初めて「茅の輪くぐり」を知り、今年は設置されているだろうかと伺ってみたのです。

その輪をくぐることで、穢れが落ち、清められ、災難を避けることになるのだそうです。

輪をくぐるだけ、という神社もあるそうですが、こちらの神社は、くぐり方が図で示されているので、まず、それを頭にいれなくては、と「えーーーーと、まず、こっちから、こうか、そうしてこっちから、こうか」とひとりでぶつぶつ言っていたら側にいたおじいちゃんが「八の字を描くように歩けばいいんだよ。それはね、無限を表しているんだよ」と教えてくださいました。な・る・ほ・どーーーー。

こうして「茅の輪くぐり」をしてから参拝します。手を合わせて「感謝と宣言」。今年前半の穢れが落ち、今日から後半に向けてまた新にやっていこうと思いました。

どのくらいの間、この「茅の輪」が置いてあるのかわかりませんが、もし、カウンセリングでこちらへおいでの際には、神社は我が家からもすぐなので「茅の輪くぐり」と参拝をされるといいと思います。それもまたこの地の神様とのご縁です。

昨日、午後6時半頃、部屋の窓から海を見てみたら、虹が見えました。雲の多い空だったので全形が見えたのではありませんでしたが、2つの虹が出ていました。

さーーー7月。後半に入ります。茅の輪くぐりとダブルの虹。吉兆に出ることを願って。そして、私は自分自身の努力の継続です。努力できるということが吉兆なのだと思いますが。

恐怖と不安
2024/06/30

人は恐怖と不安の方に引っ張られる。

そもそも事象の全ては意味がない状態で存在しているのですが、恐怖と不安の色合いのあるほうが慣れていて、親和性があり、一般的にもそちらを選ぶ(というか、選ばされる)傾向にあります。

それは多分ですが、長い長い魂の旅路において、身につけてしまったものだと思います。おまけに、子どもの頃から、両親はじめ、周りにいる人達から「こうなったらどうするの?」「人生はつらいもの」「のんきにしていたら生きていかれない」などなど言われて育っているので、ますます、そちらを大きくしていってしまいます。

そうなると、ひたすら恐怖と不安にあわないで済むように、万全に備え、新な冒険は一切しない、皆と同じところにいて自分もそこにうもれることで守られていくことを考えていきます。

しかし、そもそも、そこにあるものは恐怖と不安なのか…と見てみれば今はそう思っているそれさえも意味がないものなんです。それに対して自分のパターンが恐怖と不安の意味づけをしているということです。そして、意味づけたものを選んでいる。だからそうとしてそれは存在します。

本来、自分が意味づけていいんです。周りからどんなに「変だよ」と言われても。周りはほとんどの人が恐怖と不安で生きている人達なのでそこから外れると「変な人」になります。しかし、その自分が意味づけるそれが恐怖と不安だけではないことを知り「私」は何を今選びたいのかを感じたときに、世界は一気に広がります。

普通に決めてしまっている恐怖と不安はたくさんあります。それぞれに対して、それはひとつの意味づけでしかない、と思って、またそれを見直してみてください。

何ごともバランス
2024/06/28

知り合いの女性の方(クライアントさんではありません)から伺った話です。

その方のご家族の方がガンになり、食べるものが大事になる、と聞き、その方はあらゆる本を読み、そういうセミナーにも参加し、情報を集め、勉強して、毎日の食事を用意したのだそうです。

野菜もお米も無農薬のもの、お水も見直す、食品添加物はもちろん避ける、糖分を減らす、お肉も魚も厳選して(食費が大変だったそう)調理の仕方自体も変えるなどなど。

大変だったと言います。しかし、ご家族の方のガンは術後の経過もよく、再発することなくもう10年以上たっていて、とても安堵したそうです。

よかった、よかった、です。

しかし、その後、その方がおっしゃったのは、頭に入れてしまったあらゆる食に関する情報が自分を苦しめてしまうということでした。これは消えることが無いと言います。「これは食べないほうがいい、これなら食べてもいい」「ここで買ってはいけない、ここなら安心」というのがいつもいつもあり、勝手に頭の中でそれが動いて、その通りに行動してしまうのだそうです。以前のように、普通に外食を楽しめなくなってしまったということでした。

これはまたつらいだろうと思いました。今の日本の食品添加物の数は800以上あるのだそうです。それ全部を毎食除くことは無理です。土壌も水も野菜も肉も魚も何かしらあるのが今です。私も極端にこれは…という物は食べませんが、この時代に生まれてきたということはこういうことも体験するということなんだと思います。

こういう時代を生きるということは毒も少々必要で、それを受け取る体であることも大事なんじゃないかと思うんです。何より、あまりにそこを避けようとするのは恐怖と不安のパターンからきています。パターンで食べるものを決めているわけです。そうであればその結果にもなるだろうと思います。

何ごともバランス。時には情報も大事ですが、それが全てでもない、このあたりのバランスだと思います。

あと残るものは何なのか
2024/06/27

持っている本20冊。心理学、哲学、思想学、芸術に関するもの、永遠なる真理に関するもの、自然に関するもの、旅行記(これは1冊だけ)…など。このあたりのものだけだ。私の大切な本。勉強になるというのではなく、それぞれの作者が体験している世界に自分もつれていってもらえるのがうれしい。そこに在るイメージの中を漂っているのが楽しい。そして、1冊1冊に自分の物語りがあるのがいい。

で、久しぶりにアサジョーリの「意志のはたらき」を開いてみました。あの、言葉が並びます。

『私は身体を持っている。しかし私は身体ではない。私は感情を持っている。しかし私は感情ではない。私は知性を持っている。しかし私は知性ではない。それでは私は何なのか。私自身を、私の肉体、感覚、感情、欲望、知性、行動から脱同一化したあと残るものは何なのか。

それは私の本質・・・・・純粋な自己意識の中心である。それは私の個体としての生において絶えず変化する流れの中で、永久不変の要素である。それは、私に、存在、永遠、内的バランスの感じを与えてくれるものである。

私は自分のアイデンティティがこの中心にあることを確信し、その永遠性、そのエネルギーを認識する。』

これが普通になるくらいの確信が必要。確信のためには自分の体験が必要。自分が日々の生活の中で自分で見つけて、考えて、創っていくものだと思います。どんなに些細なことでもいい。心に響いたものを忘れないでいてください。

自分に戻る
2024/06/26

「魂の道場」で目指していることとは、本来の自分に戻ることです。

本来の自分というのは、天が創った自分ということです。その自分に戻る(その戻る過程においても)ことで、自然と天の法則によって生きることとなり、そのときが最も自然であり、健やかであり、安定しており、活力を感じ、幸せを感じることができる状態となります。

そこに向かうために、黒パターンで生きない、白パターンを選択していく、ということです。この作業を続けることで白パターンを選択しているときのいい感じ、というものを自分の身につけていく(これも戻っていく)ことになりますが、それは天の子である「私」の感覚で選択していくものなので、この時点で天の意思にそっているものであるということにもなります。ワークは天と自分を結ぶものなんです。

天の意思。天は何を私たちに求めているのか。天はあなたに何を望んでいるのか。そういう視点を持ち続けることが大事です。フランクルが言っている「人生はあなたに何を求めているのか」と同じです。この視点に天の法則の中で生きることのヒントがあります。

目指していることは、ただ、これだけなんです。実はすごく単純なこと。ただ、戻ることだけです。それにより、結果として、本来の幸せが与えられる、ということです。

30年一昔
2024/06/25

5月24日から6月21日までの月〜金で「古畑任三郎 30周年記念」ということで今までのシリーズが再放送されました。

1日、2話ずつの放送で(例外の日もあったけど)当時から好きで見ていたものだったので、とにかく見られる限り見まくりました。この間、体調を崩していたのに、熱があっても見たくて、結果、熱上がる、を繰り返してしまった。

どの回も結末はわかっているのに、おもしろかったです。何より田村正和さんはじめ、全ての人たちが若くて(当然だ、そういう私だって)30年という時間の長さを感じました。今見ても、本当によくできている作品だと思います。

毎回、完全犯罪をもくろむ豪華なゲストと、古畑任三郎とつかえない部下、そしてその下にやってきた優秀な部下が繰り広げる、犯人との知能戦、体力戦、笑い・・・うなります。脚本家の三谷幸喜さんも一番脂がのっていたときなのかもしれません。アイデアがどんどん湧き出ていたのでしょうか、話に勢いがあります。

30年一昔。30年前の私は38歳。はあーーーーまだまだ心が不安定で大変な時でした。トミーと結婚して2年くらいで、全てを頑張って完璧にやらなくては、大変でもそれを超えて強くならなくては、これからもっともっと大変なことが起こるであろう人生を生きていかれない、と思っていて椎間板ヘルニアになり、強制的に休まざるを得なくなったころです。しかし、これにより自己探求の道へ入っていったのでやはり「塞翁が馬」。

そのころのそんな大変だった現実を忘れさせてくれる番組だったのだと思います。その番組を今はこんなに違う心持で見ている自分がいる。

最終回で、松嶋菜々子さん演じる犯人が自白したときに古畑任三郎が言ったセリフ「(私が言いたかったことは)人は生まれ変われるということです」。本当にね…人は誰でも本人がそれを望み、そこに向けて自分で動き続けていけば、生まれ変わることができます。わが身を持ってそう思う。

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