| 本来の語りかけ | - 2025/09/09
- ずっと同じ語りかけを繰り返していて、自分でもどうもすっきり感がないというときには、パターンが違っている場合もありますし、パターンが語っている場合もありますし、複雑にしてしまっている場合もあります。
語りかけは確かに数回やったらすっきりというものではありませんが(特に長い間使ってきてしまったものは)回を重ねていくうちに、どこか、良い意味で慣れ親しんでくる感覚があります。これを言葉にするのが難しいのですが。どうしようもない家族に対して、健全な怒りや不満や不快感を持ちながらも、それでも、血の繋がりを切ることはできないからなあ…というようなものと言えばいいのか。
前向きな諦め。そんなカラっとした感覚に変わっていきます。初めて語りかけをしたときのような、深刻さやウェットさが少し抜けているような、そんな複雑な変化やいろんな気持ちといることに慣れ親しんでていく。語りかけの進み具合ってそんな気がするんです。
もちろんパターンを失くすためにやっているのではないので、今後もパターンのままにひっかかりますが、ひっかかる感じもどこか軽くなっていくので、ひっかかってもいいと心底思えます(プライドのパターンも同じなので、プライドを使わないように注意しなくちゃ…はやめてください。そうなると常に自分の言動を見張るクセがついてしまいます)
そして、掘りすぎないことです。そもそもすごく単純なのがパターンなので、そういうものである、ということも認知しておいて、パターンを探します(この、探すっていう言葉も違うか。出てきているから語るということか)掘りすぎてしまっている場合もよくあります。もっとストライクなパターンはないだろうか、この言葉よりももっと心意を感じられる言葉はないだろうか、本当はこうなんじゃないだろうか、もっと成長につながるような語りかけを、こっちのほうがいいかも…と、分析して作る語りかけをしていくと、どんどん複雑に、難しくなってしまいます。これをやっているのもパターンです(小学生なので、思考以外を知らない)「私」は出てきたものだけを単純に語りかけの対象とします。
この、物事全般を単純にシンプルに受け取る感覚は大人はとても苦手ですが、そこを鍛えていくためにも、自分のパターンをみつけて語るということは練習になります。ロジカルに、納得する語りかけを、より、自分がいいと思えるものを、今のこの感情から逃げたい、と思って語りかけをするのではありません。そもそもに立ち戻る。自分は本来の語りかけをしているだろうか?
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