禅定波羅蜜 | - 2024/09/20
- 昨日は、お墓参りにいってまいりました。
前回、8月のお盆の時にはあまりの暑さのため、雑草抜きはパスしました。で、今回はもさもさと生えている雑草やにょきにょきと育ってしまった植物をひたすら切る、抜く…と働いてきました。昨日は曇っていたためたいぶ助かりました。
お寺さんからは「お彼岸のしおり 幸せの道 六波羅蜜の教え」という小冊子をいただきました。六波羅蜜とは、迷い悲しみを生きる現状から悩みにとらわれない安らぎの世界(彼岸)へ至るための六つの修行のことだそうです。それについて、武久 寛海さんが解説をされているというものでした。その中に「禅定波羅蜜」という項目が出てきます。それは、以下のことだそうです。
「坐禅をする意味とは?という質問に老師さまはこのようにおっしゃいました。<薬を買うと、効能書きというのがありますね。こういう効き目があります、とか。言ってみれば坐禅は効能がないんです。何かが身に着くというのではなく、逆にどんどんモノが取れていくんです。私はこんなタイプの人間だとか、頑固だとか。(中略)頑固と言うのは形がないんです。形がない物を自分の意識の中に、そういう人間だという形を作ってしまう。それが間違いなんです。我々の意識そのものが勝手に好きだ嫌いだを決めている。人間関係も、物に対してもそうなんですよ。そういうものは我々が小さいときから、大きくなってからもなかなかとれないんですよ。人間というものは。もともとそんなものは身体の中にはないのに、それを作っているんですよね。それを取ってく。取っていくともとの(自分の都合ではない)本性が出てくるわけです>」
ここでの学びと重なるところがあちこちに。
「形がない物を自分の意識の中に、そういう人だという形を作ってしまう」とあります。これはパターンが自分の心の中に自分はそういう人だという形を作ってしまう、ということです。そして人は心ありきなので、必ずそういう人になって現れます。パターンの強い思い込みでできている自分です。それは他人にも、物にもなされていきます。
「それが間違いなんです」と言われています。パターンの存在が間違いなのではなくて、無意識でそうしていること、それによって現れている自分を自分だ、と、信じていることが間違いなんです。
「そういうものは我々が小さいときから、大きくなってからもなかなかとれない」そうなんです。パターンは我々が小さいときから、大きくなってからも、それを選んでいればそのままいくことになります。より拡大させながら。
「それを取ってく。取っていくともとの本性がでてくるわけです」道場としてはもう、黒パターンは選ばない、そして新な「白」という意識的在り方を選ぶことをしていくことで本性という「私」が育ち、それが全てを選ぶことになる。
「自分の都合ではない本性」パターンの都合ではない「私」。それが本当の自分。ということです。意識的な自分です。
この体験をするためにきっと色々なやり方があるのだと思います。色々な道があるのだと思います。でも、天のあり方に沿ったやり方をしているものは、道は違えど、向かうところは同じだと思います。ここに挑戦し続けている人たちが、周りにはいるということです。たのもしいです。
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