第九 | - 2025/01/07
- 本当は、去年の年末に聞きたかったヴェートーベンの「第九」。
茅ヶ崎交響楽団の「第九(合唱付)」に行くつもりでした。茅響なので、当日券でも余裕と思っていたら(ごめんなさい)完売で、行かれなかった。
そして、先日「ウィーン・フィル×リッカルド・ムーティ「第九」200周年記念公演in cinema」というのがあることを知り、昨日見てきました。
「第九」初演からちょうど200年となる2024年5月、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団による公演が行われ、その演奏を収録したものを上映するというものでした。指揮は、リッカルド・ムーティ氏でした。
昨日の観客は10人。ゆったりと見ることができました。始まったとたんに、これは、実際の公演で見た方が全然いいよなあと思ったのですが、見ていくうちに、実際の公演では見ることのできない部分を見ることが出来ていることに気づきます。
指揮者の目の動きや、細やかな手の動き、「歌って、丁寧に」と言っているのだろう、この表現は、と思える姿。演奏者の表情や、指の動き、息継ぎの様子や、指揮者の思いを受け取るしぐさや、汗を拭く姿まで見えて、見ることで受け取れる臨場感があることを感じました。ここまで近づいて見ることは実際の公演ではありません。
楽章が進むにつれて、そういうことを考えることなく、その場にいるような気持ちになりました。第四楽章の最後の最後のところが好きで、ここは何度聞いても高まるものがあります。今回も、それを感じ、曲が終わると、映像の中の観客とともに拍手をしていました。年のはじめに見ることができて本当によかったでした。
で、感じたこと。音楽って、ひたすら「今」だけなんだということ。ここをやっていけば、ここへ行ける、というものではなく「今」どんな音を出すのか、「今」指揮者は何を求めているのか、「今」自分にとって最高の音を出す、表現する、と、「今」しかない。その「今」の連続で曲になっていっているんだと思いました。
ドレミ…と奏でるのではなく、ドを奏で、レを奏で、ミを奏でている。それもただ奏でるのではなく、いかに美しい音を、求められる音を、として、奏でているんだと思いました。そうして結果美しいドレミを奏でていたということなんだろう。
これは、自分の在り方にも通じていて、一瞬一瞬の積み重ねにより、結果、善きようであったということと同じだと思いました。「今」が大事なんです。何ごとも。未来も今の積み重ねです。今というときを一瞬一瞬何を選ぶのか、自分はどうありたいのか、やはり、そこしかないと思いました。
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